笠谷氏はその後2022年発行の論争関ケ原合戦という新著で
6月20日三成書状を旧著では真文書として扱ったが虚妄と判断せざる得えないと
考えを改めてるね。

詳しくは著書にて確認していただくのが良いと思いますが
理由として三成が挙兵を打ち明けたのは7月10日頃の大谷が最初で
それ以前は7月30日真田宛書状から誰にも挙兵を打ち明けてなかった
毛利も安国寺、吉川を會津遠征に従軍させてることから7月10日頃
安国寺に挙兵を継げたのが最初で毛利も首謀者ではない、
7月12日家康家臣に三成、大谷不穏を通知した増田も同様
7月10日頃に初めて挙兵を表明した三成が6月の段階で
上杉に挙兵連絡はありえないという論旨のようです

個人的には6月20書状が偽文書という結論はその通りでしょうが、その7月30日三成書状で内府が
大坂にいるうちは(6月16日まで)諸将の心測りがたく打ち明けられなかったと
6月16日以前に翌月実現したような挙兵の計画はあったこと、
挙兵自体三成一人では不可能なので同氏の存在が考えられますが、7月15日島津義弘
書状で首謀者と挙げられている毛利、宇喜多、3奉行、三成、大谷、小西の8人に
おそらく安国寺は6月16日以前に一味同心し挙兵の決断を
していたのではないでしょうか。

なので毛利が安国寺、吉川を會津遠征に出発させたのは家康を油断させるための
擬態、安国寺が佐和山城を訪れたのは今後の打ち合わせのため、増田書状は
7月27日榊原書状により後日出されたと思われる
3奉行の家康上洛要請の書状とともに奉行は
家康の味方と思わせる擬装ではないかと思います。