同盟者としての後北条氏
伊勢宗瑞や北条氏綱の時は同盟者の要請に応えて救援も数多くしていたが
氏康以降の当主は世話にはなるけど要請には殆どいっていいくらい応えない
上杉謙信の小田原包囲に対して三河を捨ててまで援軍を送った今川氏真
御建の乱においては自家は佐竹にかまけていたせいで後れを取り滅んでしまった上杉景虎、さらにもっぱら武田を矢面に立たせたせいで不信を抱かれ離反、手切れ。
小牧長久手の戦いではやはり佐竹との国境紛争にかまけて家康に有効な援軍を送れなかった、氏康以降の北条氏と組んでもいいことなかったのでは? >>19
えっ?上野武田に取られて水軍も負けっぱなしで松田憲秀の次男が寝返ったのが講談だと?
お前の方こそ仮想戦記だろw
史実書いたら捏造扱いされちゃったよ 以下史実の武田と北条の戦いの経緯
天正7年(1579年)に武田勝頼と北条氏政が争うようになった後の、両氏の戦いの大まかな流れは以下の通りです。
・天正7年5月、武田軍が上野の猿ヶ京城を攻撃する
・7月、上野の厩橋城主北条高広が北条から武田に寝返る
・9月、駿河の黄瀬川で勝頼と氏政が対陣
・10月、武田軍が武蔵の鉢形城を攻撃
・10月、上野の今村城主那波顕宗が北条から武田に寝返る
・10月、北条高広・那波顕宗が北条家の沼田城を攻撃
・10月、北条軍が厩橋城を攻撃
・11月、勝頼が伊豆に侵攻する
・天正8年1月、勝頼が武蔵に侵攻する
・3月、上野の小川城主小川可遊斎が武田家に寝返る
・閏3月、北条氏政が駿河に侵攻する
・4月、伊豆沖で武田水軍が北条水軍に勝利する
・5月、真田昌幸が上野の猿ヶ京城を落とす
・5月、北条軍が甲斐に侵攻する
・5月、伊豆で勝頼と氏政が対陣、武田水軍が伊豆を攻撃する
・7月、駿河・伊豆方面で勝頼と氏政が対陣
・8月、真田昌幸が上野の沼田城を落とす
・9月、勝頼が上野に出陣し膳城を落とす
・天正9年2月、北条軍が沼田城を攻撃する
・3月、北条軍が甲斐に侵攻する
・3月、伊豆沖で武田水軍が北条水軍に勝利する
・8月、北条軍が駿河に侵攻する
・10月、伊豆の戸倉城代笠原政晴が北条から武田に寝返る
・10月、笠原政晴が伊豆の韮山城を攻撃、勝頼も伊豆に出陣する
以上のように、武田軍と北条軍は広範囲に渡って争っており、北条軍も駿河や甲斐に侵攻するなど攻勢に出た場面もありました。
しかし、実際に城主の寝返りや落城が起こっていたのはほとんどが北条の側であり、海戦でも2回に渡って武田軍が北条軍を破るなど北条氏の劣勢は明らかでした。
だからこそ、氏政はその書状に「このままでは北条は滅びる」と書き、織田家に服属してその助けを求めているわけです。
とはいっても、北条家の城が相次いで落ちていたのは主に上野であり、北条氏の本国といえる相模や武蔵の城が落ちたわけではありませんので、文字通りの意味で「北条家の滅亡」が実際に間近に迫っていたとまでは言えないでしょう。
という事で、当時北条氏政に対して武田勝頼が優勢であり、氏政が相当の危機感を感じていたのは間違いありませんが、文字通りの意味で北条家が滅亡寸前という事態まで追い込まれていたとは言えません。 勝頼対北条で北条が勝ってたとかいうアホって良質な史料読んだこと無い仮想戦記かゲームしか知らんからROM専にしてくんないかな
レベル低いから相手にしたくないんだよね
北条が勝ってたのに落城と寝返り起きまくってたのは北条の方でした
おかしいよね。あ、この程度も知らない雑魚でしたか
どうやら当時の人は北条の方がオワコンだと思ってたみたいだよ >>19
こいつゲームの勢力図しか知らない雑魚だぜ
お前の知ってる勢力図になんて信長の野望だろどうせw
信長の野望のシナリオは大抵1575年以降は手取川がたまにあるぐらいで1579から本能寺まで無くて一気に本能寺まで飛んでしまい武田勝頼と北条が戦ってた年代のシナリオがないから勝頼時代に上野の北条勢力が駆逐されたのも知らない
勝頼時代に上野制覇したのも知らないってレベル低すぎだろ
こんなのおれが小学生のころから知ってたことだぞ >>19のソース信長の野望
お前さゲームの勢力図なんかでドヤってないで何年何月どこの城が誰に落とされた
どこの城主、城代、国衆がどこに寝返ったそういうこと書かれてる本読んだほうがいいよ
じゃないと今回みたいに赤っ恥を書く
まさか国、城の所有者の経緯書いて捏造扱いされるとは思わなかった
ゲームの勢力図だとこんなのわからないからな
ゲームの国なんか一国2つか3つしか城ねーし