長篠・設楽原決戦の真実その3
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勝頼「なにい?また織田の援軍が来たあ?織田徳川連合軍なんか三方ヶ原でボコボコにしたんだからまた勝てるやろw」
これが真実 長篠なんて袋小路に追い込まれた時点で割と勝負あった感じ 奥三河を攻撃する大戦略自体は必要なものなんだけど問題は難易度がはちゃめちゃに高い
攻撃して失敗したら敵地のど真ん中で孤立する上に逃走路が山の中
徳川攻めは不可能だったんだけど信玄が始めちゃったからなぁ >>342
吉田城周辺は平野じゃなかったっけ?
そんなところで後詰決戦はまず選択肢に入らないだろ
仮にやったら長篠よりひどい結果になる可能性が高い 吉田で戦って負けたらどうやって逃げる?勝頼が華々しく討ち死にしてる隙に穴山信君が逃げ帰って新生武田軍を立ち上げる、とかなら確かに歴史は変わるだろうけど >>343
犬居城の戦いで徳川軍に大打撃を与えたり、それが理由で家康は後詰めに来れず一度で
高天神城を落城させたりと長篠の戦い以前の遠江戦線は信玄没後も武田優位で進んでいたぞ。
そのまま遠江制圧を目指してたら良かったのに、いきなり岡崎や奥三河に侵攻先を変更した
勝頼の判断ミスが長篠の戦いを招いた 遠江なんて実は徳川には痛くも痒くも無い
そも徳川の本拠地は西三河でその上ここから織徳同盟による支援が行われてる
いくら遠江で小競り合いをしようが徳川にはダメージにならない。そんな小競り合いしてる間に武田は戦線の広さに耐えきれなくなる
勝つなら敵の本拠地を直接叩くしか無い。だからそこを大軍で奇襲した。そしたらそれを読まれていて想定外の状況で虐殺された 乾坤一擲。虎穴虎子。みたいなギャンブル的なノリで突っ込み
返り討ちにあったわけだからなあ。信玄だったらやらなかっただろうに。 コツコツ遠江攻略は体力的に不可能、織田包囲網が生きてる内に奥三河から岡崎を襲撃しないと武田に勝ち目は無い
織田包囲網が崩壊したら織田・徳川・上杉の総攻撃を受けて戦線壊滅は目に見えてたから。家康が遠江で武田と取ったり取られたりと遊んでたのもその勝算あってこそ
信玄が家康と信長を敵に回した時点で詰んでた >>347
あの時点だったら遠江中央を一気に制圧出来たかもしれないな。あそこが勝頼の運命の分かれ道だった 大岡弥四郎の謀反を当てこんで岡崎に進軍したんだろう
あれが成功していれば徳川は終わったかもな 決戦のバトルフィールドが長篠でなく掛川だったら武田にも勝機はあったかも 浅井朝倉がやられちゃった時点でねえってきがする
上杉あたりが味方か中立になってくれないとねえ 過大な軍役負担で重臣や有力豪族にこぞって反旗を翻された家康。
三河一向一揆の発生年度を1年ずらし、宗教戦争であるかのように印象操作を行い、あらかた治まったら本願寺を挑発して利権を根こそぎ奪い禁教令まで出したりと信長の移転要求などかわいいもの。
荒木、松永、波多野、別所、本願寺連中と信長との死闘を上回る鮮やかなタヌキぶりを若年の頃から発揮。
【徳川家康の合戦】三河一向一揆にトドメを刺した小川安政の戦いと実は弱かった三河一向一揆の実態【道と地形図で合戦解説】
https://m.youtube.com/watch?v=4j_C61F2xxU&t=44s そりゃ血気盛んな若者が調子にのって三方ヶ原でボコボコにされるし
そんな相手に連戦連勝してた勝頼も調子に乗って家康と同じような轍を踏むわな。 >>349
そもそも武田と徳川では国力がダンチ過ぎる
せいぜい北条と同盟してる程度の武田(しかも北条は領土的に離れていて役に立たない)と
織田・上杉とタッグを組んで攻めてきてる徳川
適当に計算して三倍は差がある訳で勝とうと思ったら投機的決戦で三国のどれかに致命傷を与えてその勢いのままに和睦するくらいしかない >>351
いやできる見込みがあるなら遠江を攻めてるだろ
二俣城や高天神城を落として侵攻路は確保できても掛川城や
浜松城を攻めるには西側からの援軍を阻害する必要があった
ということ。その途上で失敗しただけ 長篠は旧武田民が多く住んでいた地域だったのでその点でも有利と踏んでた
重税の武田を見限って徳川に全員ついてしまった 足利義昭を追放したんだから将軍好きの上杉が織田と敵対する見込みはあったし実際長篠後に敵対した
その時を待たずに織田との差が広がるからさっさと決戦挑まないとみたいな焦りで単独で突っ込んで玉砕するとか拙速
攻勢するなら織田の勢力が北陸等に分散してからするのが吉だった >>360
それで勝つのが戦術の見せどころなんだし
そもそも「敵の数が多いのに戦うのは愚か」だとしたら織田・徳川・上杉を敵に回した武田信玄が一番の戦犯ってことになる。武田一国でこの三国に相当するのは事実上不可能なんだから >>358
それをやったのが長篠。結果は西から織田。東は徳川と両方から挟撃されて無様な結果になった。
長篠の場合は北に逃げれたけど、あれが岡崎や吉田城だったら囲まれて殲滅されてもおかしくない 数が少ないほど有利という特殊な地形で鉄砲隊に着目して実行した信長と家康の戦術眼の勝利
多分武田軍は指揮してる重臣衆すら何が起きてるかわからなかったろう 倍以上の相手を正攻法で破った戦いは、長篠から一年後の天王寺の戦いがあったな
荒木村重が穴山信君と同じくやる気がなく、信長自身は先手の足軽に混じって指揮を取ったとか、大大名になっても必要とあらば長篠と真逆の戦術がとれる豪胆さと柔軟さはヤバいな
勝頼と光秀は博打に出たんなら馬廻りで突撃くらいすれば面白かった 長篠周辺には鉛鉱山があってということは金脈があるという直接的な動機もある > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 織田徳川軍に数時間射撃出来る弾薬あったのが驚異的すぎた >>362
焦り過ぎて敵領に深入りし過ぎだったな
岡崎とか仮に内通が露見せず城攻めを始めたらあっという間に織田軍に
完全包囲され自国まで逃げ帰る事も出来ないだろうしな >>362
将軍好きといっても追放から長篠までの間に最低一回は御内書を
もらってるはずだけどそちらは反応しておらず、長篠後でも
武田との和睦はよくても北条とはないと言い切ってる
あくまで自分とこの事情を考えた上で判断しているだけ
上杉が反織田に転じた理由はわからないけど、御内書の時期を
考えると長篠の戦いと越前一揆の壊滅が原因じゃないかと思う
どちらも上杉にとって短期的にはプラスだけど、その後で北陸と
信濃両方で織田と領土を接するのは避けたかったんじゃないかな 織田に頭を下げたくなければ勝頼とは敵対しないのが得策だからな 信玄が存命なら、長篠の戦いは絶対になかったし、長篠であんな無謀な決戦は絶対にしなかった
愚将武田勝頼ではどうしようもない 信玄なら織田徳川上杉の三国同盟にぶん殴られて死んでた この時代銃眼付土塁を突破する手段は無いので割と詰んでる。結果論だけど五千人くらいを自爆特攻させて本隊は逃げてた方がまだマシではあった
ただこれすると勝頼の武名は地に堕ちて武田は再起不能になる
逃げて追撃受けても致命的一撃、ならワンチャンありそうな決戦というのは常識的な結論。常識的ということはバレるってことだが 『佯北には従うこと勿れ、囲師には闕を遺し、帰師には遏むること勿れ。此れ衆を用うるの法なり。』 >>373
信玄だったら普通に遠州平定を進めそうだな。犬居城で天野氏が徳川軍に大打撃を与え
それが原因で後詰め援軍を出せず一度で難攻不落とされた高天神城を落とせたわけで。
遠州での戦況は武田優位だったのに何故か戦線を武田に不利な岡崎や長篠に移行してしまい
当たり前のように返り討ちにあって滅亡へのトリガーを引いてしまった >>373
勝頼が会戦に踏み込んだ心境は分からんが
長篠前哨の吉田城周辺の戦いで家康圧倒したり
自分がもし勝頼と同じ立場なら
心境的にイケイケになるかもしれん 遠江攻めこそが実は武田滅亡の要因だったから
特に最悪なのが高天神を落としてしまったこと
高天神を制するものが遠江を制すると言われてるけど正直高天神にそんな力は無かった、どころか遠江を制圧してないと補給困難で国力が疲弊するばかり
実際は「遠江を制するものだけが高天神を制する」という一種のトラップ。史実でも遠江で反撃される→高天神の補給が困難になる→国力を浪費させられた挙句見殺し、という末路 戦略的に見たら遠江で幾ら徳川と小競り合いしても無意味で徳川の本拠地三河を攻撃しないといけない。確かに遠江を完全掌握出来たら良かったけど武田にそんな力は無い
織田・上杉の事も考えると早いうちに三河を制圧して和睦にもっていかないとグズグズしてたら織田と上杉が同時侵攻してきたら詰み。ってなると投機的作戦に賭けるしかない。一見武田優位に見えてそれは実は戦術的な勝利に過ぎず戦略面では徳川に圧倒されてる。よくある負け方の一つ なんとか落として長篠城籠城しかなかったんじゃねw
後詰めないからどっちにしろダメか。 高天神は落とさないとダメなポジションにある要所。
あそこが徳川側だと遠州中央は勿論、三河方面への侵攻の足枷になる。
そのため勝頼もほぼ全軍を投入して攻略した。
高天神を征するものが遠江を征すると言われるのには理由がある 当初は高天神城で後詰め決戦の予定だったんじゃないの 信長も後詰めに向かう準備はしてたようだな
ただ予想以上に早く勝頼が落城させてしまったから間に合わなかった模様 高天神自体は要衝に見えて実は重要度はそんなに高くないという罠みたいな城。遠江の重要拠点を押さえてるなら効果はあるがそうでないなら捨てた方がマシという 高天神城の戦いでは武田勝頼は25000を引き連れてたらしいが
決戦するなら高天神で長篠の戦いみたいな決戦をすれば良かったんじゃないの?と思うけど
城攻めをわざと遅延させるなりして 甲斐から山を登ったり降りたりしながら東海道に出るのはもういい加減嫌になると存じます 高天神の戦いは複数の意味で向かなかったんじゃないか。まず落城の仕方が守備側の降伏だから城攻めを長くするなんて出来ない。次に城兵が一千から二千人と長篠城より遥かに多い。相も変わらず上杉謙信がいるので長期対陣になると致命的でもあったし 高天神が重要じゃないは流石に草
要衝だからこそ勝頼も全軍で攻略しようとしたんでしょ 高天神は遠江を握っていれば重要だけど遠江を手に入れるなら正直重要じゃないぞ。「高天神を制する者が遠江を制する」とかいう戯れ歌に騙された武田がどうなったか見りゃわかるだろ 三河を攻めてる最中に海路で廻り込まれ、後方に集結された兵で武田軍が
挟まれる恐れもあるし高天神城を放っての東海道進行は無理。 高天神は名前だけ先走ってる感がある。高天神は要衝である、何故なら高天神を制する者遠州を制すると言われたからである、っていう回文的破綻論理で説明されてる辺りが示唆的
武田家の国力からして無駄な戦は避ける必要があり果たして遠江で役に立たない城にあれだけの物資を使ったのは痛い。勝頼の失策はかなり見直されてるがこの高天神攻めはとんでもない失敗だった可能性が高い
高天神はネームバリューこそあったがそれを無くすと「攻めにくくて守りやすい堅城」に過ぎなかったんじゃないか。それを見抜けなかった勝頼は高天神に固執し、見抜いていた家康は破却した、というオチなのでは 役に立たないなら家康は何のために何年も掛けて攻略したんだよw マジレスすると高天神を制する者が遠江を制するという伝説を武田が信じてたから
ってのと武田が頑張って高天神を保持しようとしてるから敢えて長期戦仕掛けて体力を削るため 高天神城捨てても駿河が最前線になるだけで何の解決にもならんよな
むしろ北条と徳川で挟撃されやすくなるとしか 高天神に戦略的意義があるなら家康は大金注ぎ込んでも高天神を確保してる。それを破却してる訳で高天神にそんな価値無かったと証明してるようなもん 高天神を落としたのは勝頼最大の失敗
しかも長篠の敗戦で国力が低下して高天神が単なる不良債権になってるのに切れなかった。陸路が封鎖されたら涙ぐましい海上のネズミ輸送をしてまでカネを減らし続けた 駿河を放棄して北条と徳川を鉢合わせさせた方が戦略的に見れば楽な気がする 高天神なんか捨てて駿河周辺に力を入れていればまだ戦えた。海から補給しないといけないとか詰んでる。そりゃ家康も廃城にするわ役立たずだもん まず城や領地を簡単に捨てる行為は戦国大名の構造上困難
国衆達の利益を守るための戦国大名だから 高天神が「遠江を制する」とか「信玄も落とせなかった」なんて呼ばれてなかったら勝頼も捨てていたろう。実際家康は2度見捨ててる。家康は高天神の真価を理解してたんだろ
長篠にしろ御館にしろこれらはある種勝ち目を追っての勝負に出た結果なので負けたとしても裏目に出ただけで責めるものじゃない。でも高天神は違う。高天神は戦略的にも政略的にも無意味なただの不良債権。これに気付かなかったのは明らかなミス。勝頼の失態は「高天神に後詰を送らなかった」事ではなく「そもそも高天神を狙った」事 >>401
高天神は今川家臣小笠原氏の城で長篠後に当主信興は転封されて武田宗家直轄地になってる。ここを廃棄して別の拠点を補強することはそこまで国人衆の利益に反しないと思うが >>403
蔵入地だったとしてもそれを捨てたら軍資金等が失われる
少なくとも高天神城から田中城までの間の領土全てが蔵入地ではないし
捨てても田中城が最前線に代わるだけで負担は変わらない 長篠の戦いの強行と高天神城を損切り出来なかった事が武田滅亡の主因 やたら高天神城の評価を上げてるがそこまで言う程の価値はない 現代と同じで海路は危険
まず船舶のサイズから充分な量を運べないし航路が丸バレなので敵の妨害も容易い
陸路なら兵をつけて敵の意図しない時間を狙えるが海路ではどうしても潮流に委ねる結果になる 妄想だな
論より証拠で毛利水軍が大坂に輸送しているし 言うまでもなく海路は危険。例えば瀬戸内海は江戸時代参勤交代途中で海難事故起こして使用禁止の沙汰が出てる。海路で補給となるとこうした損失も計算しないとならない
しかも制海権を喪失してるとなると敵襲による損失も軽視出来ない。必然的にコストは跳ね上がる
勝頼は海上補給を試みて失敗すると陸路で補給出来ないかと四苦八苦したがこれらは全て無駄なコストでしかなかった
高天神自体も戦略的要衝とは言い難い地点にあったので徳川軍の攻撃を一手に受けるような役割すら果たせなかったし 高天神城捨てても徳川は攻めを緩めてくれないよ
駿河のどこかが前線になって結局包囲されて苦しむだけ
高天神城の陸路での補給が難しいなら他のどの城だって同じ
越後や上野に出兵して付城を築かれるのを放置いたのが原因なので
高天神城は長篠後6年もよく持ち堪えたよ
なければ駿府がより直接攻められる結果になるだけ 高天神は武田の遠江戦線で全く役に立ってない。一体どこらへんに遠江を制する要素があるのかわからん。何かあるのか?
高天神なんか早々に破却して物資集積所程度にしてしまいもっと守りやすく補給も容易い拠点に注力すべきだった。諏訪原や田中、駿府まで徳川軍の攻撃を受けている訳で高天神の様な無価値な拠点に貴重な資材を投入したのは間違いだろう
長篠が武田のミッドウェーなら高天神はさながらガダルカナルか 補給の容易い場所ってどこだ?
終いには駿河も放棄しろと言い出しかねない論法だな >>409
海こそ安全やんけ
危険なのはシケで荒れる状況ぐらいだが内海ごときで危険とか言ってたらどうにもならん >>416
陸路なら敵の予想を外して搬入することや最悪損失覚悟の強行策も取れる。海路は航路が一本道なので要は敵が待ってるところに突っ込まないとならなくなる。輸送船と軍艦では相手にならない
かといって真夜中に航海するのは座礁しにいくようなものでこれも危ない。つまり海路は危険過ぎた。それでも勝頼はわずかな希望を追ったけど無意味な犠牲を出して終わった >>415
社山城、諏訪原城、高天神城で掛川城と九能城を囲んでいた時は遠江制圧の要所だったな。
普通に掛川城攻めをしていたら、家康は後詰めに来られずあっさりと遠江中央を制圧出来てた可能性が高い >>415
無論それも高天神含めて問題。これで高天神が遠江で全く攻撃能力を持たない事が証明されてしまったから
高天神は単に重要そうな場所にあるだけで実は全く重要ではない、という罠みたいな拠点だった。それを家康は知っていて高天神を無視して諏訪原と小山を攻撃した
ここら辺の事を武田が知らなかった訳がない、なのに高天神に固執して浪費最期は玉砕させてしまった。こうなるとどうしても実際の価値とは別の政略的な面に惑わされていたんだろうって話になる >>417
妄想だらけのようだけど、徳川は水軍は弱くて高天神城も港を抑えたのではなく、城と港の間を抑えたとされている
武田水軍がここで戦って無意味な犠牲なんてあったか? そりゃ最終的に陥落してるんだから無駄に決まってるでしょ頭勝頼かよ?しかも遠江戦線で訳に立った訳でもない。こんなところに固執して貴重な資材を使ったんだから浪費以外の言葉は無い 資材って何?なんか史料あるの?
最終的に陥落したから無駄?何だそのお粗末な論理は
武田の存在全部無駄じゃないか >>403
直轄地じゃないよ
岡部元信にも加増したり遠江の武士に地行宛行ってるし、高天神城放棄するというのは大井川以西は全て失うことを意味する
遠江の地行のある武士にとっては大問題 高天神領主は転封してるからな。城代の岡部送り込んで宗家直轄領にしてる
高天神を棄てる機会は何度もあったが一番大きな機会は諏訪原が落ちた時でここで高天神は完全に孤立してる。そもそも家康は高天神を重要視せずむしろ諏訪原と小山攻略を志向してた。両地が落ちれば高天神は「蒸シ落シ」になるという戦略
諏訪原が落ちた時点で高天神の補給路は海上か崖を歩くような険路で武田兵も嫌がったっていうし
まぁそもそも高天神を落としたのが間違い >>412
余り一般に知られてないけどそもそも武田の城砦は殆ど徳川軍に攻撃を受けてる。駿府すら焼き討ちされて商人は逃亡してる
高天神だけが攻撃を受けてるなら高天神は徳川の攻撃を吸収する役割があったと言えるが、実際には武田の主要拠点を攻撃する片手間に高天神は攻められていただけ
そんな城に多額の費用注ぎ込んで最後は見殺しになった訳でこの失態は痛過ぎた。これに比べれば長篠や御館は些細な敗北に過ぎない 高天神城に多額の費用?
なんのこと?
なんか新史料でも出たの? 武田が高天神に多量の資材を投入したのは常識なんだが…
まず勝頼は高天神城を改造してる。具体的には西方に防御能力を上げる為西ノ丸を改造、複数の馬出・曲輪を備えた城塞にしてる。さてこれは勝頼が神に祈ったら諏訪大明神が造ってくれたのだろうか?そんな訳なく全て武田家の資材つまり人材・物資を投入して造られたと考えられている
またこの城は常に兵士が置かれ当然食糧や武器といった資材を消費していた。ここにそれらを補給するのも武田家の持ち出しになる
しかし皮肉なことにこれらの資材投入は無意味だった。何故なら諏訪原城が落ちて武田軍の補給路は断絶、高天神への唯一の輸送方法は勝頼が数万人を伴って高天神に向かう以外に無くなってしまった 補給が続かないのは武田が北条と戦い出して高天神城を半ば放置して付城を築かれたからだよ
それが1580年くらいの話だからそれ以前はそこまで負担になってるとは思えないね
どこかしらで徳川を食い止めないといけないんだから
長篠後、すぐ高天神城を放棄していたら大井川以西の領土を全て奪われてそのまま徳川の戦力になる
直轄領だから放棄して良いという理屈も意味不明だし、大井川以西が全て直轄地だったというのは間違いなく有り得ない
では高天神城を落とさない方が良かったかというとその当時は押せ押せで浜松城までの城をどこか落とす必要があり、高天神城には武田派が多かったからそこ狙ったという事情がある
掛川攻めたらもっと長期戦になっていたのは確実
結局、長篠の敗戦と北条との開戦が根本にあるとしか思わないね >>417
これ勉強不足を盛大に披露してるね
高天神城への補給の海路は江尻城→海路で小山城、滝境城、相良城→陸路だから高天神城付近で徳川と武田が水軍でぶつかることはそもそもない
徳川が水軍で海路を妨害したという史料もない 高天神が孤立したのは天正三年、ちなみに六砦建造は天正六年以降
天正三年、長篠の戦いで武田総敗軍となった後家康は素早く軍を動かして八月迄に犬居城・諏訪原城と最重要拠点を陥落させた。これによって武田軍の遠江拠点は壊滅、高天神は孤立してしまった
残った道は小山城から塩買坂を越える内陸路だがこれは余りにも険しく武田軍の精鋭ですら難渋するものだったと甲陽軍鑑は残してる
更に天正三年十二月、徳川軍は二股城を攻撃。城主依田玄蕃は玉砕を叫ぶも勝頼は直筆で退却を命じ二股城は徳川の物になる。こうして武田軍拠点には次々徳川の旗が翻った 勝頼は二股城の放棄を命令した、つまり戦略的撤退という思想は確かにあった。「国人衆が」「遠江が」という短絡的思考はそこにはない。長期的戦略から見れば孤立した城は捨てていくのは当たり前
そして厄介なのは二股も諏訪原も失落してしまった天正三年時点で高天神は死石同然という事実
海路は役に立たず陸路は険しい。それでも小山からか細い糸の様に補給路を伸ばして何とか維持した
だがそれも六砦建造で絶たれてしまった 戦線を縮小すれば戦い易くなるかというとそんな単純な話ではない
武田は信濃、上野から援軍を送らないといけないから戦線が駿河でも援軍が困難なのは変わらない
武田が高天神城攻める際に「将来長篠で惨敗するから高天神城を落としても無駄」と先読みしろと言ってるようなもの 二俣城は半年も籠って兵糧不足の上での開城なので放棄とはいえないね
高天神城も兵糧が尽きて降伏申請してるから同じ流れだよ 徳川は一貫して東方の備えに注力出来たのに対して武田は信玄時代からほぼ全方位作戦やからな…
運営コストだけでも大変よな
史実も対織田の外交云々よりも先に高天神城を維持するコストをさけなかったのも実情だろ >>429
大井川以西にやたら執心だけどその城が高天神に固執する理由にはならない。ていうか遠江にはまだ小山城含め拠点はある。やはり高天神に固執したのは間違いだったのでは >>434
高天神は天正三年には補給を絶たれて六年には砦を建造されて完全な兵糧攻め、高天神崩れが天正九年
年季が違うんですなぁ色々と 高天神が役に立たない事は最初から分かってた、というか徳川家康が分かってるんだから
高天神自体に遠江の趨勢を決める力は無くむしろ遠江を握った者が高天神を手に入れる。家康はそれを理解してたから高天神を攻めず諏訪原・小山を攻撃した。だから勝頼も高天神なんぞに二万五千で行ったりせず掛川落としに全力を注ぐのが正解だったのでは >>438
何が違うのか不明だが、兵糧攻めで勝ち目がなくなって降伏しようとしたのは同じ
二俣城は放棄したのではない
勝てないから降伏しようとしたんだよ >>439
徳川が諏訪原を攻めたのは高天神城が堅いからそれを孤立させるためだよ
勝頼も同様に堅い掛川を孤立させるために相対的に武田派が多くより容易に落とせる高天神城を落としたということ
高天神城が重要ではないという意味にはならないね
君が言ってるのは結局長篠で負けたという結果から逆算すた結果論
武田が高天神城攻める時期から守勢に回った時のことを予め想定するわけないだろ >>441
君の言ってる事は無茶苦茶なんだよなぁ
まず地理。諏訪原を落とせば高天神は孤立する。それはそうだろう諏訪原の方が東にある以上諏訪原が落ちたら高天神の補給路は海沿いに小山城から繋げるしか無くなるのだから
だが高天神をとっても掛川は孤立しないのでは?何故なら掛川城は僅かだが高天神より西にある。掛川が高天神からの輸送に頼っているなら孤立させる効果はあるがそういう訳でもない
掛川攻めを主目標にすると高天神は精々攻勢を強める兵站基地としか機能しない。これは徳川にとっても同じであり家康が高天神を無視して諏訪原攻めを強行した理由でもある それで攻めてる時に守勢に云々は考えてるのが当たり前。もし失敗したらを考えるのは大将の仕事で勝頼とて考えていた。実際勝頼は二股城を放棄したり戦線の収縮、戦力の集中を図ってる。これは当たり前で褒めることでもないけど
考えてなかったとしても高天神の放棄を決断するべき時は何度かあった。まず長篠敗戦直後。家康が即座に反撃に出てくるのは明らかなので戦力を集中させる必要がある。ここで駒の価値を比べると諏訪原・小山が落ちれば高天神は自動的に落ちる。では高天神が落ちる事は諏訪原の陥落を意味するか?どこに戦力を集中させるべきかは明らかじゃないか?まぁ一番良いのは高天神を落としたのと同時に高天神を破却して港以外の機能を失くすことなんだけど >>444
二「俣」城な
二俣城も半年も戦って兵糧が尽きたから撤退しろと指示してるわけで高天神城と経緯は同じ >>443
二俣城と高天神城が武田方なら掛川城は孤立するよ 遠江から信濃への主要街道である塩の道、信州街道は
相良から高天神の東通って掛川経由してそこから北へ秋葉に通じる
なので高天神取ることで掛川の南を遮断出来るといっていい
掛川の南側や南東側も武田側になびくから
南・南東からも圧迫できるようになる
武田が諏訪原から掛川攻める際に南からの牽制気にしなくてよくなる
高天神が掛川攻めの兵站基地になることはまずないだろう
諏訪原とさほど距離変わらないから駿河からわざわざ高天神通る意味ないし 掛川城は最前線で一番狙われる城で徳川も最優先で守りを固めていたはず
そこを武田はあえて攻めず岡崎や吉田の手薄な方を狙っている
高天神城は元々中立的だったからあくまで例外
城攻めは下策という教科書とおりのやり口 武田は何故か全く役に立たない高天神を保持したけどこれこそ武田の大失策 高天神が明らかに保持出来なくなったのにそれでも捨てられなかったのが痛過ぎた
せめて二俣を捨てたときに一緒に捨てとくべきだった 国人衆が皆離反するからできなかったんだろ
どっちにしろ勝頼の軍略は破綻してたけど 二俣を放棄してる上に高天神は領主替えしてるから国人衆に影響あるとも思えない。遠江の拠点はまだ残ってる。ってなるとやはり遠江を制する城とか信玄すら落とせなかった城って名前に惑わされたんじゃないか?信玄が落とさなかったのも高天神に価値無しと分かってたからだろうが 三方ヶ原が国人衆の為とも言われてるからなぁ
あそこらへんは機を見るに敏 国人衆の事を考えるなら
「もし高天神が完全包囲されて後詰を送れなかったらどうなるか」
まで考えとけって >>450
高天神城捨てて駿河が前線になって、駿河も役に立たないから捨てるべきとかあんたは言い出すよ
レベルの低い結果論 距離が分かってないお馬鹿さんがいるが
駿河なら武田本国からの補給輸送も簡単、少なくともここを徳川軍が攻撃したって事実は無い
小山から高天神までの道は徳川軍の攻撃にあって危険って甲陽軍鑑にすら残ってるんだよなぁ >>456
研究書読まないとわからんような話だけどそもそも駿河も徳川軍の攻撃に晒されてるので前線の一つ。つまり君の指摘は的外れだね。家康は高天神を無視して諏訪原・小山といった重要拠点を攻撃して諏訪原を制圧すると今度は小山・田中・駿府まで攻撃しだした。その手法は苅田や放火。この意図は明らかで高天神の補給基地だった小山の兵糧を削る事で武田軍の兵站を破壊すること
しかも徳川軍は小山からの補給隊を執拗に攻撃するので補給の度に被害を出し勝頼本隊で護衛するもついにそれすらも勝頼の命が危ないと指摘されてる。高天神が家康本隊を引きつけてるならまだ意味はあるが片手間にやられてこれなので高天神を保持する必要があったと言えるから甚だ疑問 久々にスレのぞいてみたらきっしょい長文くん湧いてるけどこれ菅沼か >>451
高天神城包囲する砦が築かれたのは天正6年から7年で御館の乱の頃
それより前に捨てろとか後知恵甚だしい >>459
恐らく別人だと思うよ
こいつ三成スレにもいる奴で誤読くんとか妄想くんとか言われてる奴だな
史料の誤読や主観的な決めつけばかりするし、ID変えまくって自演もする奴だから菅沼同様害悪なのは変わらんけど >>460
天正三年八月に諏訪原が落ちてるからこの時にはもう高天神は孤立してるぞ。同年十二月には二俣城開城で遠江戦線が壊滅、小山城・田中城・駿府が苅田焼き討ちにされてる
高天神六砦はとどめの一撃でその遥か前に高天神は死んでる。これを甦らせるには「諏訪原を取り戻す」「遠江の各拠点を支配する」「三河に侵攻する」しかないけどその全てが不可能。後知恵でもなんでもなく高天神は捨てるべきだった >>462
君、海上補給が出来なくなったから云々書いてたじゃないか
海上補給ができなくなったのは六砦ができてからだよ
その前にどこがどう負担だったのかどうして孤立してると考えるのか、説明しないと説得力がない >>463
何故砦を建てたら海上補給が絶たれるんですかね…湊までの道を潰されたってコト?
そもそも武田軍の海上補給は上手くいってなかった。前提としてそんな補給が行えた試しが無いつまてのもあるが
・武田軍の水軍拠点(用宗城)までも徳川陸軍の攻撃を受けていた
・家康がより利の高い横須賀城を建造した。横須賀城は水運で掛川城と繋がっていたとも言われ徳川軍を水陸で支える要衝となっていた
これらの事態によって高天神の補給は実質陸路のみと言える状況、そしてそれは果てしない浪費だった。安全に高天神に兵糧を入れるには勝頼本隊が必要だがそれすらも勝頼の身が危ないと提言されてたりするしな 一般的には長篠の後甲州征伐の話になるから徳川の軍事行動は大人しかったと誤解されがちだけど徳川・武田の史料から家康は天正三年から九年まで武田と遠江・駿河を戦場に戦争を続けてる
特に小山は執拗に攻撃されて苅田狼藉や放火を受けてる。これが高天神への輸送費用が高くなった一因でもある。小山はこの被害で高天神へ補給するどころか自分達が補給を受けないとならなくなった。その結果高天神への補給は滞り遂には絶えた。今までピンピンしてたのが六砦で死んだ、というのではなく既に半死半生だった高天神に止めを刺したのが六砦って話。家康の戦略眼が勝頼のそれを上回っていただかと言えばそうなんだが >>464
平山氏の本やネットで調べればすぐ分かるんだから調べてから書きなよ
海上補給は江尻城から滝境城、小山城へ駿河湾で送る
その後滝境城、小山城から高天神城に陸路で送る
高天神城六砦はその陸路を遮断するためのもの
横須賀城は遠州灘だから駿河湾とは全然別の場所
砦が完成した後に唯一、菊川入江という比較的近い所から武田は水路で輸送しようとしたが砦のせいでやはり失敗した
家忠日記でも武田の輸送が困難になっている様子は砦ができてからの話 徳川水軍が迎え撃つから海路は危ないとか書いてるけど、菊川入江と高天神城の間に中村山砦を築いてるから実際水軍使うまでもない
多分、高天神城と水路が直接繋がってると勘違いしてるんだろうけど 残念なことに高天神を放棄すべきってのは当時の知恵なんだよな。家康はそうしてるし 同じ機能を果たす横須賀城があるから放棄したのであり、あの辺りが重要ではないというのは違うな >>466
まず君は地図を見るべきではないかな
諏訪原城を落とされた時点で高天神への補給路は小山から沿岸部を抜ける道しか残ってない。補給が満足に出来る訳ないだろう?
それでも補給が出来たのは実は勝頼が出向いて補給したから。じゃあ海路はと言えば実は武田軍は重視してない。まぁ武田水軍は頭が長篠で戦死、本拠地が徳川軍強襲で大損害と厄介な状況にあるからなんだが >>469
だから高天神に価値なかったって話になるんだろうが。要は代わりの城を建てればそれで代用出来る程度の価値しかないんだから >>471
遠州灘の水運を活かすという意味で高天神城と横須賀城は同じ
横須賀城で代替はできたから高天神城を廃城にしたが、高天神城が重要でないという意味にはならない >>470
地図だけ見てできるわけないだろ、とか君の個人的な妄想書かれても困る
武田水軍は北条水軍と互角に戦えてるからそんな被害あったとは思えないね
そもそも向井正重が死んだのも1579年だし、駿河湾の輸送に水軍まで必要だったのかどうか
徳川にはまともな水軍がいた記録がない(後年も吸収した武田水軍頼み)し 横須賀の城で代替できる程度の役割しか高天神には無かったということ
勝頼の失態はまずこの事が分からなかったこと、次にその役に立たない城に役割を与えられなかったこと、最後にその役立たずを徳川に利用されたこと >>473
武田水軍頭は土屋貞綱じゃないの?幾つか居るだろうが少なくとも甲陽軍鑑からするとこいつが水軍総司令官では。土屋貞綱・昌続は駿府より武田水軍として活動していたが長篠の戦いで両者死亡、武田水軍は機能不全に陥ってる。更に武田水軍の拠点に徳川軍が襲来すると水軍衆はこれの対応で手一杯になった。その為武田軍も海路での補給には期待できなくなった、というかそもそも最初から期待してなかったようだが 横須賀って高天神を落とすために作られたんじゃないの?
だとすれば、どの城も攻略するための城が作られたら代替が効いてしまって防衛以外で拘る必要がなくなってしまうのでは? >>475
長篠では水軍は失ってないし、
持船城でも水軍は戦ってない(陸で戦った)
そもそも駿河湾内で輸送するだけだから徳川水軍なんて出てこない
地図を見なさい >>474
しょうもない屁理屈で誤魔化してるけど、高天神城の水運も重要だったということだろ
武田時代には横須賀城ないんだし >>464
横須賀と掛川が水運で繋がっていたって誰の説?
横須賀からだと一旦海に出て西に行き原野谷川から遡上しないと掛川まで船では行けないが。
>>470
>>475
徳川が武田水軍の本拠地強襲って何がソース?
徳川が江尻まで攻め込んだ例はこの時期無いはずだが。 >>479
横須賀城は築城当時海岸線に作られたので湊としての機能を有していた(横須賀城復元図より)その為水運を使って掛川と連絡していたとされているね。何故徳川軍が縦横無尽に遠江を攻撃出来たか、それは横須賀の水運と掛川の陸運を完全に利用出来たからだろう。ところが江戸時代、大地震で土地が隆起し横須賀城の湊としての機能は激減し消滅した >>477
軍事の常識として司令官が死んだら部下は行動不能になる。指揮者が居ないのに統率の取れた戦闘は出来ない。当たり前の話
長篠の戦いで武田軍は水軍を指揮する土屋貞綱らを喪失、武田水軍は完全に機能不全に陥った。そんな中徳川軍襲来にもめげずに反撃したのは立派だが悲しい事に追い返す事が生一場までだった
そんな訳で武田軍も「水軍で高天神に補給しよう」なんて考えなかった。小山からの陸運に頼るしか無くその道は徳川軍に監視されていて非常に危険 根本的な話として、長篠後〜御館の乱と、御館の乱〜高天神城落城の期間で高天神城の情勢も全然違う
前者の期間は田中城、小山城とともに高天神城も攻められはしたが、武田の援軍が来たらすぐ引くし、付城もまだない
勝頼自身も遠江三河で無二の決戦しかけるとまだ息巻いてる状態
虚勢だとしても現実その頃は織田徳川としか戦っていない
その時期に高天神城自ら捨てて後退する戦略的な意味はない
高天神城は堅城なわけで小山城や田中城で守り易くなるとも言えない
兵糧に苦しみ出すのも御館の乱の後の話 >>481
新手の糞雑魚なろう作家かな?
ここまで酷いと誰も読まなそうだけど >>483
最初から高天神は補給に苦しんでるぞ
長篠後の八月に諏訪原城は陥落した。さらに十二月に二俣城が開城、北遠江は失落して高天神への補給路は小山からの南部ルートしか無い。という事は徳川軍にとっても監視が簡単なので補給隊は襲撃を受け続けた。武田の補給隊は危険な道を行く羽目になったが最後は横須賀城からの出迎えにあって全滅する
その為に高天神城への補給は勝頼がやらないといけなくなって勝頼は度々高天神に補給を行ってる
問題はこんな高天神に戦略的価値があるかと言う事ではっきり言って無い。というか最初から無かった 高天神になんの価値があるかと言えば何も無い
「遠州を制する」なんていうがそんな要衝でも無い。特に武田には無用の長物でまず本国から遠過ぎる。高天神には多数の兵が置けるが街道を制圧されたら飢えて死ぬだけなので重要度は低い。名将なら一瞥もしなかったろう。実際信玄や家康は無視してる 北遠江からの補給?
そちらからは掛川城が途中にあるからもともとできないのでは
最初から補給に苦しんでるのって何がソース?
家忠日記には1579年末に忍びで荷駄を捕らえたと記録にあるが、当然その頃は付城を活用している時期
1578年までは徳川軍は高天神城はほとんど攻めてもいないし 相良から高天神の入江の対岸までの牧ノ原台地越えは当時の主要街道の一つじゃ? >>486
いい加減しつけーよ
ここはお前の日記帳じゃねーぞ 諏訪原が落ちて高天神は孤立、主要街道は使用不能になって補給路は危険になった。甲陽軍鑑によると武田軍の精兵すら行軍を躊躇したという
これを解決する為に勝頼は横須賀を攻めようとしたり諏訪原城改め牧野城を攻めたりしたが効果は無かった。それでも高天神に補給がされてるように見えるのはこの出陣の度に勝頼が兵糧を高天神に入れてるから。逆に言えば高天神への補給は勝頼つまり武田軍主力の護衛を要する事を意味していた。当然武田軍はその負担に苦しむことになる >>483
武田が高天神を捨てる機会は全部天正三年にあってその後何が起きても変わらん。長篠敗戦、諏訪原・二俣落城で武田軍の戦力集中で高天神は捨てるべきだったという結論になる。国力が疲弊してる中長い兵站を持つのは愚策でしかない
また岩村落城を契機に「勝頼が後詰にいけない」可能性を検討するべきだった。高天神が二の舞にならない保証は無いというか普通に考えりゃやられるんだから。ただこれらを総合的に見るとそもそも高天神を攻めた事自体が間違いで全力で掛川を落としとけばってなるんだが 高天神城の補給は甲陽軍鑑に天正四年勝頼が高天神に兵糧を入れる為横須賀を攻撃したとある事から天正四年には危機にあった事がわかってる。勝頼がどれほどバカでも再編成したばかりの武田軍を無駄に遠江まで動かす訳がないのでそれだけの危機感があったのだろう。その最後の補給は天正七年四月国安村に布陣して行われたという。そこから二年耐えたので相当高天神では兵糧を食い延ばしたんだろう。ただそんな状況で戦になる訳もなく最期は玉砕、勝頼の武威は地に墜ちて甲州征伐 戦艦大和=高天神城みたいな感じ?
重要だと思わせといて大して役に立たずにやられて士気が下がったところとか 全ては長篠契機なんだし勝てば問題無かった勝ち方あったかは知らんけど ごちゃごちゃ言ってるけど、ただただ勝頼は無能って言いたいだけの人じゃないの? 信玄が旗に掲げた孫子にも「兵糧を前線に運んではならない。戦費は国許で集めても兵糧は敵に求めよ。国が軍の為に傾くのは兵糧を運ぶ為である」とあり高天神に兵糧を送らねばならない時点で負けてるのである
そう見ると家康の戦略は一貫している。家康は戦略的価値の無い高天神を無視して重要拠点の諏訪原を陥落、高天神への補給路を限定すると横須賀懸河で高天神への補給を妨害する。ついで小山田中用宗駿府と苅田をして敵の食糧を自軍の物にする。そうなれば各拠点全てが補給を必要とし前線で孤立した高天神への補給は莫大な浪費となり武田家の財政を食い潰す この人会話する気ないよね
ただ勝頼は無能、高天神城は要衝じゃないって言いたいがために駄文を長々と書き連ねてるだけ >>501
いいことを教えましょう
その人は三成スレで「北政所は秀吉の愛妾」と連呼した誤読妄想くんです
コミュニケーションは取れません
IDもコロコロしますので、疑わしかったら即、あぼーんしましょう 勝頼が高天神を保持した理由は高天神を制する者は遠州を制する、という誰が作ったかわからない看板と「信玄すら落とせなかった城を落とした」という名誉の2点のみ。現代ですら誰一人「高天神が遠江戦線に寄与する機能」を説明出来ないんだから。何より皮肉なのは家康が高天神の無価値無能を証明してしまってる事でまぁここから高天神の価値を証明するのはかなり難しい 例えば「勝頼は保持した拠点を放棄出来ない」というのは犬居や二俣を捨ててる事から否定されてるし、「遠江の拠点だから」はまだ小山等があることから高天神を保持する理由にはならない
「高天神が街道に近いから」というのは街道に近い拠点はごまんとあるしそれを重視するなら掛川か諏訪原を重視するのが先
「高天神が落ちると徳川軍が駿河に迫る」と言うのは諏訪原が落ちた時点で既に駿府まで徳川軍が攻撃してる事を無視しており逆に高天神を放棄する理由になる。高天神があっても徳川軍の攻撃を妨害出来ないなら何の意味がある?
こう一つ一つ消していくと勝頼が高天神に固執してしまった理由は名誉という一番厄介な動機以外残らなくなってしまう。また高天神には相当の費用資材を投入してしまったので放棄すれば丸損という面もあるかもしれない。長篠も御館も戦略面での勝負で評価は出来るが高天神は完全な失態 そもそも天正六年に孤立したって言ったところでじゃあなんでそこで高天神捨てなかったのって話になるだけで無意味なんだよなぁ 御館の乱後に北条と対陣して高天神城に砦築かれるの対応できなかったからだよ
用船城を一旦落とされたのも北条と黄瀬川で対陣していたから 勝頼は天正三年から七年までわざわざ高天神に補給を行ってる。諏訪原が落ちた以上それ以外に補給が出来ないからなんだがそれによって家康に長期戦を取られてしまった。すなわち小山田中と次々苅田し勝頼本隊に補給、長距離の行軍を強いる
だが残念ながら高天神にそれだけの価値があったかといえば皆無で家康は高天神を落とすや否や即廃城。掛川と横須賀で支えるとか六砦で固めるとか考えもしなかったんだろう。それくらい高天神は持つだけ損の罠だったということか 高天神城が有るから家康は駿河に深入りできず刈田くらいしかやれなかった。
本格的に駿河進行し城攻めをしていたら高天神から後詰めされ包囲されてしまう。
家康にとって高天神は目の上のこぶ >>507
それは高天神を救えなかった理由で捨てなかった理由じゃなくね?ただ上杉と和睦できた事が高天神の保持に繋がった可能性はある。上杉と敵対すると戦線が南北に長くなって高天神を救う余裕は無い、なら勝頼も高天神を捨てただろう。ところが上杉と和睦して戦線を南に固定出来たので余裕が生まれてしまった。武田軍を駿河に置けばいいから。つくづく運のない男よ 御館の乱の前の天正五年は高天神城を後詰して徳川と興亡の一戦やるつもりだったし、北遠江も天野藤英を使って再奪取しようとしている
そんな時期に高天神城捨てろとか意味不明 遠江に再侵攻するのに高天神が役にたつか?まず牧野を落とさないと話にならない。逆に高天神救援に向かえば徳川の術中にハマるようなもので下手すりゃ長篠の二の舞。何の為の城なんだか >>514
長篠城は攻める側だったんだから逆やん
北遠江は犬居城ね
君は犬居城捨てたとか書いてるけど史実は捨ててない >>512
それって貴方の感情ですよね?
「高天神は戦略的に重要な能力があるから遠江攻略の為必要」だと言いたいならまずその能力を説明しないとダメ。「遠江攻撃を言っておきながら遠江の城を捨てるのはカッコ悪い」と言うのは最悪の感情論でもし勝頼が同じ思想を有していたならそりゃ負ける
「遠江で攻勢を強める為に高天神を捨てる」なら戦略的には正解なんだが。小山・田中に戦力を結集してまずは牧野を奪還、家康本隊を引き出して決戦して勝利する。みたいなシナリオを作れるから >>517
天正5年に高天神城で後詰決戦するつもりだったのは史実です
ちゃんと勉強しましょう 長篠後から御館の乱までは
武田が高天神を拠点に周囲へ侵攻しようとして徳川と対陣か
徳川が高天神攻めようとして武田が後詰して対陣
だな >>518
だからそこまでして高天神に拘る理由は?
勝頼が(部下に止められながら)高天神まで補給に行ってる事と高天神の能力には何の関係も無いぞ 領地にこだわらない武士はいないし
高天神城敵に渡ったらそれはそのまま相手の戦力が増してこちらは減る
部下に止められながら補給?
何の史料だ? 高天神が徳川になったらそれはそれで徳川も掛川諏訪原間が安定して
駿河攻めに全力注げるようになるからな~ 諏訪原落とした時点で家康は普通に駿河攻撃に注力してるぞ。天正四年から家康は小山城田中城駿府と攻撃を繰り返してその度に勝頼が出張る羽目になってる。最初は城兵も徳川の苅田を止める為出撃してたけど遂には収穫を止められなくなって小山の米は徳川軍に獲られてる始末。こうした動きを高天神城は妨害出来てない。明らかな不良債権で普通なら捨ててる その理屈だと小山城も不良債権
駿河自体が不良債権か? 攻めたと言っても極短期の焼働きじゃ?
あと御館前の駿河攻めに勝頼でた事ってどんだけあったよ? >>521
甲陽軍鑑によると
「(高天神から)浜松城は街道で五・六里の距離だが甲斐からは五日掛かる」
とあって高天神で戦う事の不利を説いている。この時勝頼に「御分別」を持つよう諭しているがおそらく武田家にも高天神の意義に疑義が呈されていたんだろうと推測される。諏訪原・二俣陥落によって武田軍が高天神に向かう道は小山から沿岸を通る道に限定されてしまい徳川軍にとって予想迎撃は容易、その上家康の方が疾く動けるとなると武田軍が全速で走っても高天神に着く頃には家康が万全の布陣で待ってましたという話になる 軍鑑じゃあ御館後の高天神が追い詰められた時期でさえ
一人除いて高天神からの撤退に反対とも書かれてるし、あてにならんな。 >>525
天正三年から七年にかけて勝頼は家康が来るたびにわざわざ遠江まで出撃してる。こうした動きが出来るのは長篠後に上杉謙信が休戦してくれたからなんだが。家康は駿河を攻撃して勝頼が来ると自軍拠点に退いて武田軍を前線に誘き寄せようとしてる。国力に劣る武田を削る真っ当な作戦で対策は戦線を縮小するくらいしかない 家康が後詰が来るまで時間かけられるぐらい駿河攻撃するようになったのは御館後じゃ? >>527
君の軍鑑にどう書いてあるかとの合わせなんだが
まず天正四年横須賀攻めの時に高天神の距離が懸念されてる。その後天正八年秋に高天神守備番手一同連名で「高天神を放棄するにしても無事に逃げられるとは思えないので勝頼さまに後詰いただいて全員で撤退したい(勝頼公後詰をなされ、番手の人数を、御引取候様)」との書状が届く
ところが軍監横田甚五郎は別に飛脚をたてて「後詰は無用、高天神に拘って後詰をすると家康は何としても勝頼さまを食い止めて信長を引き出してくる。そこで逃げたら汚名、戦えば命が危ない。どうしても後詰すると言うなら期日を決めて塩買坂に旗を立てて欲しい。それを見たら高天神守備隊は全員塩買坂に逃げ出す。多分九割は死ぬがこれは守備隊が勘違いした結果なので勝頼さまの汚名にはならない」と送ってきた この時高天神城を預かる岡部元信は家康に遠江の全武田領割譲を対価とする降伏を申し出ていて何をしても故郷の土を踏みたいという思いが伝わる
実際高天神は遠江の戦線に寄与出来ておらずもう負け戦が窮まっていたから弱気になっても仕方ない惨状ではあった。どのみち武田領からあまりにも遠過ぎた。そうした意味では天正四年の提言は重かったと言える 平山先生の本読んだのか?
天正3年から5年で勝頼が出陣したのは小山城救援のためがほとんど
天正5年12月頃、高天神城後詰のため、勝頼が高天神城在陣衆に「まもなく高天神城に着いて徳川を挟撃するつもりだから小山城の兵と協力して守るように」と書状を送る
勝頼の接近を知って徳川は馬伏塚に引き上げる
穴山信君がそれを悔しがる書状が残っている
付城がないから徳川は高天神城で迎撃はできない時期 >>531
付城ができる前と後で状況が変わっているだけ
言うまでもなく、それには御館の乱が大きく影響している >>530
「後詰が来るまで時間かけられる」の定義がよく分からんけど家康は基本的に勝頼が後詰に来るのを察知しては撤退してる。これは一貫していて家康の作戦だと思われてる。勝頼本隊が動けばそれだけで武田家の損害だからね
駿河で言えば当代記に「八月、家康公到駿州山西御動、人足共如思令苅田、武田聞之、彼表江出張之間、遠州中郡江令帰馬給、さて武田は小山陣取」とあり天正四年八月に駿河で家康は大規模な苅田を行い武田の米を収奪したという 家康が駿河でそれ程の苅田が出来たのは駿河司令穴山信君の姿勢もあるかもだけど、同年春に勝頼は高天神を救う為に横須賀城を攻撃してる。勝頼は高天神に補給こそ出来たが横須賀城は落とせず家康との決戦も成らなかった。故に家康は安心して駿河に討ち込めたんだろう。勝頼本隊が長期遠征に出た以上直ぐには動けないとの見立て
予想通り勝頼が駿河を救いにきたのは九月、家康は駿河の米を奪うことが出来た。孫子が食糧は敵地に求めろって言う通りに >>533
あるぞ。横須賀城の建設は天正六年と言われているが実は天正二年の事だったとされている
『王子権現由来記』には天正二年に横須賀城の鬼門除けとして王子権現が祀られた事が記載されておりこの時には横須賀城はあったことになる
さて『浜松御在城記』には天正四年に横須賀城が完成したことが記録されておりまた甲陽軍鑑では天正四年春に高天神を救う為横須賀城を攻撃したと記載がある これらをまとめると案外単純な事実が見えてくる
元々家康は横須賀の地に目を向けていた。理由は横須賀は水運で掛川城と繋がっておりここを押さえれば陸運と海運の二つを固めることが出来る
そこでまず天正二年、小規模な拠点が作られた。この拠点は高天神の補給線も脅かす事が可能なので天正四年に更に拡張された。勝頼が攻撃したのはこの拠点ということになる
しかしこの時点の横須賀城は家康の理想とする城砦では無かった。そこで天正六年、更に力を入れた普請を行い新・横須賀城を完成させたということ。各種史料を突合するとこうした流れがわかる 「史跡横須賀城跡 保存管理計画策定報告書」より抜粋って書いとけばいいのに
お前が史料突合したわけちゃうやろ 家忠日記で78年横須賀城普請して完成させたとあるから城作ったのは1578年でほぼ確定だろう
ただ77年の段階で横須賀砦とあるから以前から簡易の砦はあったんだろう
軍鑑のはその砦を言っているのか単純に年数間違いかのどちらかだろう 『浜松御在城記』とかいつの史料か知ってんのか軍鑑よりも後の史料だぞ?
その辺の時代の史料採用するならいろいろ滅茶苦茶になるぞ。 横須賀城じゃ浜街道通って袋井や馬伏塚城方面に武田が進出するのは防げても補給遮断には遠すぎる
三井山砦が出来た後も完全遮断には至らず最終的に六砦作ったのに 戦国期の多くの城はそこまで大規模でもないし規模よりも地形と城数でアドとる思考やからな
状況に応じて重要性も変わるしそこまで高天神城に拘る必要性もなかったんだよな
高天神城を維持するコストに対し恩恵が勝ってるとも思えない
まぁ外交が終わってるからしゃーないか 高天神城捨てても徳川は攻めてくるからコストはたいして下がらないけどね >>543
高天神の補給ってのは主に勝頼が本国から武田本隊を連れて行ってる。これは種々の史料から明らかになってるのだが逆に言えば高天神城は勝頼が護衛しないと補給出来ない状況だったという事
仮に補給が十全に行えていたなら勝頼が補給をする理由が無い。勝頼が動けば毎回二万程度の軍勢が動く訳で当然費用が掛かる
ちなみに勝頼が最後に高天神に兵糧入れをしたのは天正七年、その後天正八年には高天神番手衆は高天神放棄を嘆願、天正九年に高天神は力攻めされて落ちた。実は六砦は補給線には影響を与えてないというおっかないオチがある >>545
かなり変わるぞ
まず高天神は武田領から遠い。甲陽軍鑑曰く五日掛かる遠路で故に補給も後詰も難しい。武田は最後まで拘ったが最終的には見殺しを選ぶ羽目になった
高天神を捨てて小山・田中に兵を集中させれば兵糧入れのコストは大分下がる上に援兵も送り易くなる。というかそうしないと仮に高天神が堅固に守っても諏訪原・小山を落とされたら高天神は死んでしまうんだからここはやるしかない >>547
5日は甲斐から高天神城だとして、田中城や小山城でも3日、4日かかる
結局どこ攻められても山越えて援軍に行かないといけないから高天神城捨てても何も好転しないよね 御館の乱後にすぐ高天神城捨てるのは政治的に極めて困難
何をやってるのか分からないことになる >>547いちいちイチャモンつけてくるなよ
文句あるなら俺と電話で話付けるか?
090−1969−2145 御館の乱それ自体は何の問題も無いしまた高天神の陥落ともそこまで関係してない。最悪の状況は上杉と敵対して信濃か駿河どちらかを捨てる必要が出ることで勝頼にしては上手に着地させたほう >>549
問題はそこだけじゃない、というのが甲陽軍鑑の指摘ね。高天神まで五日路で補給のコストが高いのは言うまでも無い。だがそれ以上に危惧されたのは後詰の危険性。仮に高天神を後詰しようとして徳川軍と戦闘になった場合もし負けたら逃げられず全滅の憂き目に遭う。故に後詰が困難
小山や田中なら問題は無い。近くに武田軍の拠点があるので作戦も立て易いだろう。だが高天神の場合それが出来ない。というかその為にはまず牧野を落とさないといけないし高天神の兵は無駄という結論になる
だから実は勝頼が高天神を見捨てたのはかなり合理的なんだ、なんだがしかし最悪だった。もっと早くに放棄しておくべきだった >>553
後詰して負けたら高天神城に逃げれば良いし、後詰が必要な状況は田中城や小山城と同じ
諏訪原城は高天神城と補給や退路とは何の関係もない(そもそも途中掛川城があるから) >>552
関係大有りだよ
砦築かれるのも御館の乱が契機だし、御館の乱以前はまだ侵攻を企図していた時期
なのに御館の乱の後のことを予知して前線を縮小させるのは後知恵そのもので、時系列も理解していない証拠 高天神放棄して小山城まで前線下げるとしたら
蒲原郡の大半と城東郡の大半捨てるってことだろ、
石高にして6万石超えるぐらいか?
駿河の半分近い領土だぞ
あと海でいうなら駿河湾側に徳川の拠点許すことになる >>554
高天神に逃げ込むなんてどんなバカでもやらんだろ。そのまま高天神を巻かれて兵糧攻めされるんだから ちなみに御館の乱と徳川の攻勢はそんなに関係してない。徳川軍による駿河攻撃は御館以前から頻繁に行われているから
関係してるのは武田家の国力で家康は武田の軍事行動能力が低下した事を確信して攻勢を強めているに過ぎない。これを解決するには武田が北条の要請を完全に無視して御館の乱に介入しないくらいしかない >>554
そんな素晴らしい考え、なんで武田軍は思いつかないのかな?というとね
後詰ってのは攻城側を撤退させる為にする。高天神で言えば徳川軍を高天神より西に追いやればそれで勝ちなのよ。敗北の後高天神城に逃走出来るのは更に徳川軍を追いかけてそこで負けた時
甲陽軍鑑で危惧されてるのはそんなバカみたいな状況じゃない。勝頼が高天神を後詰に来たのに徳川軍が退かなかった時を考えてる。勝頼が勝つには高天神城を包囲してる徳川軍を攻撃して打ち破るしかない。ここで負けると小山まで走って逃げる他無く最悪全滅する、ってのが軍鑑の内容で正しい危惧だろう
天正七年まで家康は勝頼が高天神に後詰に来たら西に退いていた。だから高天神は補給を受ける事が出来た。ところが天正八年に事情は変わる。徳川は明らかに後詰を受け止める算段をしていてもはや勝頼に打つ手は無かった >>558
?
御館の乱以前から御館の乱が起こること想定しろと?
妄想君酷いなあ >>559
御館の乱の後、「事情が変わった」とついに認めたかw 高天神城自体には何の価値も無いからな
それで家康も手に入れたら即座に捨てた >>560
御館の乱があったから高天神を補給出来なくなったわけじゃないよ、ってこと。論理的に考えてね
天正四年の横須賀攻めから武田が認識していた問題に高天神への距離があげられている。これは内容からしても正しい
つまり高天神は徳川が大軍をもって攻めてきたら勝頼の後詰無しには戦えない、と言う事は勝頼本隊が常に高天神を後詰出来る情勢の維持が必要不可欠という戦略上重大な欠陥を抱える拠点だった
しかも後詰決戦で負けると武田の拠点が近くに無いので全滅必至、後詰するなら必勝するしかないという絶体絶命の窮地にある
とどのつまり、天正二年に勝頼が高天神を取った時から既に詰んでた城だったということ。織田と徳川が攻めてきたら後詰も出来ない城では確保する価値があったとは認めにくいだろう で皮肉な事に家康は勝頼に落とされた事で高天神の欠陥を知った可能性が高い。戦略的要衝にある訳でもない、決して防御拠点として難攻不落とも言えない、なんとも中途半端な拠点
ここに力を注ぐより掛川や牧野、また横須賀に拠点を作りたいというのは戦略的にみて正しいし結果的に見ても正しかった >>563
その理屈だと駿河を放棄しないと解決しないわけだが 駿河なら水運で武田本国と繋がってるんだが…
新府城もその為に造られてるし 駿河甲斐間は川の流れが厳しすぎてな、この時代は水運では繋がっていない 高天神城に戦略的価値があったならあそこまで拘った甲斐もあったかもしれんが
実際には後詰する事も後詰される事も難しいだけで戦略的な価値は皆無
甲陽軍鑑によると天正四年にはこれらが指摘されてたけど結局最期まで放棄する事ができなかった
家康はあっさり放棄してるので分かる人間には分かってたようだが 甲斐~駿河の水運は江戸時代に富士川の河川工事やってからようやく機能するようになるからな
戦国期はとても安定して使えるものではなかった 高天神城の重大な欠陥として高天神城単体では敵軍を押し返す事が出来ないので近くに拠点が必要だがその拠点の方が明らかに重要度が高いので高天神城を守るくらいならそっちを保持しないといけなくなる、という点が挙げられる
徳川からすると掛川と高天神を比べれば圧倒的に掛川の方が重要だし武田からすれば高天神と諏訪原・小山だと諏訪原・小山の方が重要。とっとと捨てるかより強力な拠点を構築して高天神はその支城にしておくべきだったな。それをよりにもよって高天神城自体を拡張してしまった。武田の限られた国力からすると大失敗 城単体で敵を押し返すことができる城なんてこの世にあったか?w 後詰に行こうにも徳川は街道使えるのに武田は使えないからな諏訪原取られたからだけど 街道なら諏訪原城獲っても高天神城まで繋がらないけど? 軍鑑によると勝頼は家康単体なら合戦にならないからとデカく構えてたらしいが結局家康と決戦することは出来なかった。兵站が伸び切るとこんなもん >>574
地図見て貰えば分かると思うが
元々高天神までの兵站は中央の街道か小山からの沿岸部を通るかで諏訪原取ってる内は両方を駆使して遠江を攻撃してた
ところが諏訪原落とされて街道を徳川軍に押さえられたので高天神の補給路は小山からの沿岸ルートしか無くなり一気に危機に追い込まれた
それでも勝頼が武田主力部隊を率いて補給させていたが徳川軍が後詰決戦を覚悟して布陣を固めたので高天神は見殺しになった
結局高天神なんぞに注力したのがケチのつきはじめ。早い段階で戦線を縮小して戦力を集中させないといけなかったね 家康は援軍要請してるから目先の高天神にこだわってる
牛歩で見殺しにしたり、降伏を受け入れなければ勝頼の評判は失墜するなどと、先を見越した戦略を考えたのは信長の策 >>576
徳川が後詰決戦を覚悟したから勝頼は諦めたのではなく、御館の乱後に後詰しなくなった隙に砦を築かれたり、北条と徳川に挟まれて後詰できなくなったのが要因 武田領から高天神まで遠過ぎる(途中に軍を入れる拠点が無い)ことは天正四年には指摘されていた。ただ家康はこの事に天正二年には気付いていて素早く対処してた
毎年のように高天神に武田主力部隊が補給に行くとかいう無駄さえ無ければ国力を守れたかもしれないが、甲陽軍鑑によれば信玄が落とせなかった高天神を落としたって事が勝頼の武威を高めそれによって高天神を捨てられなくなったのだろう
ただなら最期あんな捨て方するなよって話なんだけど 遠すぎて後詰しにくく戦略的な価値があまりない城なら、
武田滅亡直前まで残った北三河や北遠江の城の方がよっぽどだろ >>580
軍鑑のその天正4年の記述は年間違いで実際は天正6年11月のもの
天正3年と4年は高天神城に入った史料はない
天正5年は元々決戦のため出陣予定だったついでに高天神城に入った感じ 間違いだって根拠が無いからなぁ
家康は高天神を攻めるつもりなんて無かったろうが高天神への補給を妨害するのは普通にやってたろうし 根拠は当代記や家忠日記、三河物語だね
横須賀は天正6年のみ対陣
天正4年は勝頼が小山城向かったら家康はすぐ諏訪原城に退却し、そのまま互いに撤収 勝頼の高天神への兵糧入れは天正三年より毎年行われており高天神の危機が分かっている
天正三年八月に家康は諏訪原城を陥落させるとその勢いで小山城も攻撃、小山城兵が打って出て戦闘になると勝頼が後詰に来る。家康は軍を牧野城(諏訪原より改名)に移動させると勝頼は主力を率いて高天神に入り兵糧入れを行った(当代記)
これが勝頼の天正三年での兵糧入れになる 天正四年、勝頼は高天神城に兵糧入れを敢行同時に横須賀城の奪取を企図するも失敗に終わっている。この時「高天神は武田領から遠い」「戦って敗北すれば逃げられない」と危惧されていたが勝頼は家康単独では決戦にならないと気にしなかったという。しかしこの危惧が後々現実化してしまう
天正五年、またも横須賀城を狙うが失敗。高天神城への兵糧入れは成功する。天正六年にも勝頼は高天神城に入っておりこの時も兵糧入れが行われたのだろう
高天神最後の補給は天正七年でこれ以降高天神城は補給無く天正九年に玉砕、陥落する 天正4年は高天神城まで行ってないし、横須賀城もない
天正5年は大井川渡るところで家康が早々に馬伏塚城に引き上げたので横須賀を攻めてもいない そんな感じで家康も勝頼も一般のイメージとは異なりお互いかなり活発に作戦を行っている。余り史料を知らない人は「家康が駿河を攻めたのは天正六年から」「高天神が補給を受けなくなったのは天正六年から」というイメージで語るが実はこれらは間違いで実際は天正三年から遠江・駿河は戦乱の渦中にあり高天神も天正七年までは補給を勝頼から受けていた事になる
勝頼は毎年遠江に出兵しているがその目的は高天神城への兵糧入れだろう。勝頼が偽っていないなら勝頼は家康が決戦を挑んでくるとは思ってないのだから兵糧入れなら安心して行えた事は間違いない(尤も勝頼は約束していた三河攻めも家康との決戦も完全に捨てていたことになるのだが) ただし家康の方が一枚上手だった。家康は諏訪原を取ると武田領で苅田を行う焦土作戦を実行、しかも収穫物を自国に搬入する完全な苅田を行ってる。天正四年には駿河で「思うままに」苅田しており小山城にしろ田中城にしろ毎年どころか月毎に襲撃を受ける始末
これらに対して反撃は天正三年の小山城以外見当たらないのだがどうしてここまで好き放題やられてるのか?というと実は武田主力部隊の活動と関係がある
例えば天正四年、勝頼は主力を率いて高天神城に補給を行なった(甲陽軍鑑)、家康が駿河で苅田をしたのはこいつらが帰った直後である。つまり勝頼が直ぐには動けないと知っていたんだろう
完全に読み負けてる訳でそりゃあ勝てない 作られていないはずの城を勝頼が攻めているのはなんでですか? >>584
凄く気になるのは三河物語等に「勝頼は高天神には入らなかった」と書いてあるのかそれとも高天神について書いてないのかどっちなんだ? >>581
それらの城は戦略的価値がほんとになくて
武田徳川双方がほとんど放置していたからだろう。 ここら辺は一流のセンセイでも使う小手先の技なんだがある史料に書かれてないからその事実が無かったという論理展開が時々される
ただ冷静に考えるとこれはおかしい。現代ですら世界で起きてる全ての出来事を記録してる人は居ない。まして戦国時代では尚のことである
徳川家が記録するのはあくまで徳川軍に関係する事だけで高天神への兵糧入れまで正確に記録しているとは期待出来ないだろう。何故ならそれは武田軍の作戦行動であって徳川軍とは関係無いのだから。もしそれを把握していたなら徳川は武田にスパイを持っていた事になって面白くなるんだが
史料を見れば分かる通り遠江はおろか駿河すら戦場になっており家康も勝頼も駆けずり回って戦争している。その為重要に見える記録が無くてもおかしな訳じゃ無い 高天神が落ちた理由に御館や北条を挙げる向きもあるが正直こいつらはそこまで問題じゃない。これらを挙げるのはある事実から目を背けてるだけ
実はその理由は甲陽軍鑑に書かれてる。横須賀攻めの際「今徳川軍に攻められたらひとたまりも無い」という声に勝頼は「家康は信長の援軍無しに決戦はしない」と答えたという。それは正しい。しかし武田軍に勝機があるのは徳川軍単体と決戦する時のみであり家康と信長が揃ってしまえば勝てないという問題は解決出来てない。家康にすら苦戦してる中信長の援軍が来ればどうなるか?信長は武田主力部隊の倍以上兵を出せる事を鑑みれば答えは勝頼だって分かる
その為勝頼はまず「家康だけと決戦出来る」機会を待つ必要があった。それは信長が援軍に来れない機を狙うと言い換えて良い 天正三年の岩村落城以降武田軍には美濃への侵攻は不可能に近くもう外交以外その機は作れない。だが天正六年までは良かった。足利義昭が作った武田毛利本願寺の第二次反信長連合がそれなりに機能していた。ところがそれも信長が少しずつ打ち壊し天正七年は本願寺を再起不能に叩きのめしている始末。ここに来て武田も織田との和睦を決意する。いわゆる甲江和与である
しかしこれは高天神城を救えないという事実に直結する。高天神に補給出来たのは家康が決戦を挑んで来ないからでありその真意は信長の援軍が来ないからだった。しかしもう話が変わる。本願寺が砕け散ったいま信長の援軍は直ぐにでも駆け付けて来ると考えざるを得ずそうなれば今度こそ家康は決戦を挑んでくることになる。受ければ死、逃げれば屈辱の選択になる
なぜ家康が天正七年を機に勝頼との後詰決戦を決意したか、なぜ天正八年に横田が後詰は危険無用と言ったか。それは全て織田信長に集約できる
とどのつまり信長をそれほどキレさせた武田信玄がそもそも問題なのだがこれを認める事は武田ファンには難しいらしく、故に御館だ北条だと騒ぐのだろう。だが実際のところ北条は対して働いてない。高天神を落としたのも武田を滅ぼしたのも織田と徳川でありこれから目を背けるのは良くないと思う >>594
史料に書いてないことは「推測」という
貴殿は推測をあたかも史実のように書くから方々で嫌われている
書きたいことがあるなら「個人的な推測だが」くらい付けたら如何か?
明らかな間違いを指摘されても訂正せず、返事もできないあたり残念なお人のようだがそれだけで全然違うと思う >>597
これこれはこうだ(すでに誤読している)→ならばこうだろう→するとこうじゃないとおかしいからこうに違いない
いっつもこの思考法で全く学問的態度じゃないからな >>597
君はもう少し家康の活動を知ろう。家康が駿河に攻め込んだのは天正六年じゃないからね 勝頼は天正三年から毎年高天神城に補給していて高天神が保っていたのはこれのおかげなんだろう
だから天正八年に補給の目処が消えた途端高天神は降伏を決定した。ただ家康の狙いは高天神城を落とす事ではなく勝頼の後詰を引き出して戦闘にもつれ込ませて信長の援軍と共にこれを撃滅すること。武田軍にはバレバレだったけどシンプル故に打つ手が無かった
せめて横田が言ったように途中で旗立てて高天神番手衆を特攻させていればまだ名は落ちなかったかもだけど塩買坂までがまず危険だからな 武田が勝つには徳川織田と決戦して勝つしかない
だが武田の国力だと徳川か織田どちらか一つとしか決戦出来ない、というか実質徳川にしか勝ち目が無い
ところが徳川と決戦しようとすると織田が援軍出してくるので決戦する刻が無い
つまり無理ゲーなんだが唯一勝ち目があったのが長篠でここで勝てなかった時点で大胆な戦略転換をしないといけなかった 長篠を攻めないとか
戦場選びからやり直すくらいでないと… 甲陽軍鑑で指摘されてる高天神の欠陥は
・武田本領から遠過ぎて後詰決戦に負けたら全滅
・家康は浜松から街道使って直ぐなので迅速に迎撃してくる
・信長が援軍に来たら全滅するか信長を見て逃げ出した臆病者と罵られるかの択一
そんな訳で北条との敵対とか些細な影響しか無い
例えば「北条軍が数万で高天神後詰を支援」とかなら歴史は変わるだろうがそんな殊勝な連中なら景虎にあんなことするか? 高天神を捨てて田中城と小山城に戦力を集中させ牧野攻めで徳川と決戦ならまだ幾分かマシではある。ただ天正七年には信長の敵は殆ど駆逐されて武田くらいしか残ってないのでここまでがデッドラインなんだが 牧野攻めるなら高天神城あったほうが良いし、高天神城を渡したらそのままその戦力は相手のもの 天正7年までだと勝頼は徳川相手に専守防衛していたのではなく、三河や遠江に反攻を企図している時期
そういう時期にわざわざ遠江を放棄するメリットがあるわけもない 三河なんか天正四年に攻撃自体諦めてる
そして高天神に牧野を攻める要素が無いから徳川に遠江と駿河を攻撃されてるんだ そして天正七年はもう信長が本願寺を徹底的に叩き潰してる時で武田からすると徳川と戦争なんて出来ないという瀬戸際。だから信長と甲江和与出来んかと交渉始めてた 天正7年に本願寺が降伏するからそれより前に高天神城捨てろというのはいつもの妄想後知恵やな 高天神の欠陥は天正四年に指摘されてるからふつーに当時の知恵っすね。残念ですね 天正四年の横須賀攻めで指摘された高天神の欠陥は
・武田本領から遠い(五日路)だから決戦して負けたら全滅する
・浜松からは街道で六里なので家康はすぐ来る(つまり武田軍が来る頃には徳川軍は準備万端で奇襲的要素は無い)
・家康には信長からの援軍がある >>619
それ年代の誤記
平山優の本に書いてあるから呼んでみな 高天神の欠陥を解決するなら武田の本拠地を駿河に移すか高天神までにデカい拠点作るか織田と徳川の同盟関係にヒビ入れるしかない。ところが勝頼はそのどれも成功しなかった
高天神の欠陥は物理的なもので天正四年時点で解決の目処が無いんだから捨てとけよって結論になる 軍鑑の天正4年(史実は天正6年)の記録は戦場が横須賀であくまで決戦が危ないから回避しろという内容だから高天神城が不要とか、捨てた方がいいというニュアンスは全然感じられない
北条に挟み撃ちされ、六砦に包囲された後の天正7年の横田甚五郎の意見と混同しているだろ 後詰決戦出来ないなら捨てるしかないだろうに
天正四年時点ならまだ解決出来たけど
天正八年じゃ見殺ししかないぞ 軍鑑ちゃんと読んだのかい?
横須賀で戦わなかったのは長篠の後で自軍が弱ってるから、勝頼が敵を侮ってるから高坂弾正が止めたって書いてある
決戦はできなかったけど高天神城を救えたのだから何の問題があるのか?
5日かかるって駿府も5日かかるから大してそこに意味はない >>625
本拠地を駿河に移せば良いって発想自体が勉強不足を露呈していて話にならない
勝頼がどこを本拠にしようと家臣は信濃や上野から呼ばないと後詰もできない
後詰自体が大変なのは事実だけど、それは高天神城だろうと駿府だろうと大して変わらない 甲陽軍鑑で天正四年横須賀攻めで指摘された危険は「武田からは高天神は遠い、対して徳川は浜松から街道五・六里、故に戦えば逃げる事も出来ず全滅する」勝頼は尤もとしつつ「家康が決戦を挑むときは信長の援軍があるのでまだ決戦にはならない」と返した
実はこの時点で武田家は高天神を見捨てる事が確定してる 天正四年時点で武田軍は徳川軍にすら勝てない。当然織田が援軍を送れば絶対に勝てない。つまり武田軍は高天神では家康に決戦を挑めない。対して家康は挑めないのではなく挑まないだけ。条件が整えば徳川軍単独での決戦すら有り得る
高天神は救えたのではなく家康に救わされてるだけ。武田家は高天神を救う為に毎年多大な軍事費を支払ってた訳で家康の狙いも分かるだろう
つまり高天神城を救うには
・武田家で織田徳川軍より強大な組織になる
・高天神の近くに巨大拠点を構築する
・武田家本拠地を駿河に移す
・織田徳川軍を弱体化する
このどれか一つは行わないとならない。さもなければ信長が援軍を送れる時が来たら家康が本腰を入れて高天神を攻撃、武田軍は高天神で決戦出来ないのだから高天神は見殺しにするしかなくなる
要は論理的帰結というもので高天神が落ちるのはとっくに分かってた事だった >>628
そんなこと書いてないし、勝手に誤読するなとしか 実は天正三年までは高天神を捨てるのは難しい(高天神の地形を知っていれば出来たのだが)
何故ならこの時「織田軍は弱い」「信長は援軍に来ない」という思い込みが武田軍にあって楽観論が強かった。ところが長篠で認識は改まった
織田軍は強いし徳川軍も強い。その上信長が援軍に来る。話は180度変わってしまう
となると高天神城で決戦は出来ない。徳川軍にすら勝てないのに織田軍まで加わったら絶対に勝てない。なら織田軍の旗を見たら逃げるのか?そんな無様は晒せない
かといって壊滅した軍団の再構築は簡単じゃ無い
上そもそも全盛期武田家でも現在の織田家には勝てない これで「高天神六砦」だの「北条と敵対したから」だのが虚しい嘘だとわかったんじゃないかな
武田軍には最初から高天神を持つ力は無い。何故なら高天神で決戦して負けたらそこが武田家終焉の時になるから高天神では決戦出来ない
北条は敵でも味方でも関係ない。北条が高天神後詰で援兵を出してくれる可能性を夢みたいかもしれないが、これは期待薄。根拠は岩村城で後詰を求める岩村城に勝頼は「北条からの援軍がある」と言ってる。だがそんな史料は無い。つまり武田から見て北条は助けを求めて応えてくれる存在では無かったということ。仮に天正九年に味方だったとしても援兵はしないしとなれば勝頼は高天神を見殺しにするしかない。問題の本質が解決してないんだから この長文くんって確か前に名和弓雄とかいう舞踊家だか時代劇の考証家
だかのこと妄信してたような気がするから平山氏の本は読んでなさそう 後詰しにくいだったら先に北三河北遠江を捨てるべきよな 全盛期武田軍率いて長篠合戦で惨敗した訳で
もう織田徳川には絶対に勝てない
せめて徳川軍とだけ決戦したいけど家康の巧みな戦術でそれも叶わない
ここから武田軍が盛り返す方法なんて岐阜と浜松に隕石落ちるとか武田領の山が全部金山とかそんな奇跡が起きないと無理 結局長篠で勝つしかなかったという話になる
織田徳川軍四万対武田軍一万五千は武田軍が相対できた中で最も戦力差が少ない時だった
後はもう織田徳川の戦力増強率が武田を圧倒してるので勝ち目無し 信玄が死んだ時点で武田の滅亡は決まってるんだよ
愚将勝頼では家康にすら勝てない >>634
まぁ両者とも君に比べれば遥かに信用できるけど名和弓雄氏はNHKと協力して設楽原に史料に基づいた再現実験をした功績あるからね。そこらへんは実学的な氏の態度が見える
平山氏も有名だけど実学的とは言い難く何方かと言えば史料だけで判断するからそこらへんがどうする家康で批判された要因なんだろう
甲陽軍鑑の評価でも平山氏はかなり偏った受け取り方をしてるのがわかるし >>640
お前はいつも史料の誤読、曲解ばかりして読むに値しない妄想を垂れ流してるよね
気持ち悪い文体だから誰の書き込みかすぐ分かるわ
ほんと菅沼みたい 甲陽軍鑑読めば分かるけど長篠で負けたから云々は重要な要素じゃない。重要なのは「武田領から遠い」ってこの一点。長篠で負けて兵の質が低下してるのはあるがじゃあ質が高ければ逃げられるのかといえば逃げられない。現実は非情 >>642
でも君は日本語読めないじゃん
「家康が駿河を攻撃したのは天正六年から」とか「北条を敵に回したから武田は滅びた」とか間違ったことばかり言ってる
それらは武田好きの研究者が作った大嘘だとわかったろ?武田好きの中で武田信玄は神格化されて批判出来ないという暗黙の了解がある。だから「信玄が家康と信長に喧嘩を売ったから武田は滅びた」と言うわけにはいかず頑張って史料をこねくり回して勝頼のせいで滅んだかのように印象操作したって話
現実を見よう。長篠も高天神も甲州征伐もみな家康と信長が原因なんだ。実はこの両者だけで武田の窮地例えば高天神が落ちた理由は説明できるし実際史料ではそう説明されてる >>646
まず「家康が駿河を攻撃したのは天正六年から」とか「北条を敵に回したから武田は滅びた」とか書いてあるレス自体がない
あるから示してみ
日本語読めないのはお前だよ いや武田が滅びた根本理由は信長や家康と断交したからだと言うのは否定しとらんよ
お前の高天神を巡る戦況分析やら思索がおかしい→お前の頭がおかしいと言ってるに過ぎない
武田を持ち上げてる訳でも織田を下げてる訳でもないただお前を否定しているだけ そもそも長篠なり岡崎攻略なり出来ていれば、
いや元亀の時に信玄が死ぬ前に
尾張でも攻略していれば
勝頼は前線を押し上げて戦えたのだよ 高天神城の持つ危険性は甲陽軍鑑では天正四年には指摘されてる。つまり「武田は遠路であり対して徳川軍からは浜松から街道使って五里と近い」つまり高天神城で決戦することは出来ないというのは武田軍の戦略前提だった。また家康は絶対に信長の援軍を頼むので武田軍は織田軍も勘定にいれて決戦する必要がある
つまり高天神は最低でも信長が救援に来れない状況にしないと救えないという厄介な土地であり、天正七年には救援不能となった。至って単純な話 じゃあ大岡弥四郎したとしても
岡崎城攻略など愚策の極みということになるが >>651
信玄ガーとか書いてるけど、遠く離れた長篠城にこだわり長篠で決戦した勝頼を思いっきりバカにしてないか? 本拠から離れてるほうが勝った関ヶ原とかどうなるん? >>647
0530 人間七七四年 2023/12/31(日) 14:49:24.45
家康が後詰が来るまで時間かけられるぐらい駿河攻撃するようになったのは御館後じゃ?
こうした考えは武田、というか信玄ファンの研究者が頑張って作った印象操作によるもの。要は「信玄が家康に戦争吹っかけたから負けた」と思いたくないので勝頼のせいで負けたポイントを見つけたいんだ。それでこんな事を言い出す
実際には御館どころか長篠直後から家康は駿河を攻撃してるしその度に勝頼は主力を率いて防戦に出てる。それは当然国力を疲弊させるし何処かで徳川軍に痛撃を与えられないなら先に限界を迎えるのは武田。それで史実になった >>653
長篠城を攻めた事自体は何の問題も無い、というか攻めないと危ない。遠江を幾ら攻撃しても家康の本拠地は三河なんだから。信玄が家康と信長に喧嘩売った以上攻勢を続ける事が必要
長篠は武田軍最大のチャンスで故に勝ち目はなかった、負けたのは必然で仕方ない面もある
問題はこの後で織田徳川家の反撃で武田軍は戦略を改めねばならなかった。必要なのは選択と集中重要拠点に戦力を集中させて雌伏するしかない
その中で勝頼があまり意味の無い高天神に固執して挙句最悪の失い方をしたのだから >>655
「家康が後詰が来るまで時間かけられるぐらい駿河攻撃するようになったのは御館後じゃ?」
これのどこが「家康が駿河を攻撃したのは天正六年から」の意味になるんだよw
境界知能か? 何しても御館がおきて北条敵になったら詰みじゃないの そもそも長篠で武田家は幹部やその候補生が死にすぎだろ
現代で言えば部長クラスから係長、主任クラスまでほとんどが死んでるんだけど
あれだけ部下を死なせて責任を一切とらない勝頼とかいう無能に何ができるの? 敗戦に責任を取った戦国大名ってどういう方が居られるんですか? 責任をとるというより、責任を問われると書いた方が良かったね >>660
勝頼みたいにあれだけ部下を死なせた戦いが他に無いから少ないが、一応上杉朝良や
斯波義達らがいるぞ そもそも勝頼が部下から出自や世子になった経緯から侮られていた、というのは、軍鑑以外に史料が無いはず
長篠で勝頼の無謀な命令にみんな従って長篠で奮戦しているから、むしろ当主としての権力はかなり強固だったんじゃないのか 軍鑑は陣代だけど、侮られてはいないし権力も弱くない ここまでに幾つかの勝利を得ているし、
仮に軽視される節があっても見直されつつあったのでは >>658
北条が敵になったところで戦線は何も変わらん
最悪なのは上杉が敵に回ること
既に遠江も駿河も徳川に散々攻撃されてるしそれは北条が味方になっても変わらなかった
この期に及んで北条が援軍出してくれるなんて期待は捨てた方がいいだろう >>659
あれは重臣衆が戦況有利と誤認して突っ込んだ結果なので責任を問い難かったというか責任者は討死にしたので問えない 勝頼にとって北条との断交がトドメなのは研究者の間でも一致すると思うが >>669
そりゃ信長に甲州征伐の連絡すらされない北条がトドメなんてアホみたいじゃん
ただ武田ファンからすると信玄が信長を敵に回したから負けたって思いたくないって感情が上回ってるだけ。平山優なんてその筆頭 まぁ当の武田自体が信長を侮っていたことは甲陽軍鑑にも記されてるのでそれを信じちゃうと尚のこと認めたくなくなるのかもしれんが
北条は末期の武田軍にすら負けていて唯一の戦果は甲斐に侵攻したくらいのもの。対して織田徳川は押せ押せで遠江から駿河を攻め立ててる。ここら辺のどこに北条トドメの要素を見つければいいのか?
見つからないんだろうねぇ聞いたことがないもの
単に北条は勝ち馬に乗っただけで史料上は信長と家康に武田は翻弄されて潰されました、と言うことが明らかになってる >>667
一番上の総帥が責任取らなくてどうするんだ
今やってる自民党の裏金で秘書と既に死んでる安倍、細田に全て罪をなすりつけてるのと同じだな >>672
そういう感情、平山先生お持ちじゃないよ
本読んでないから見当違いなこと書いてるよね 平山先生ってすごく若く見えるけど、実は千田先生と同学年?
見えんわー 平山氏の本は評価するけどTwitterことXでの言動はいただけない うわ ツイッターみたらけっこう怖い人みたいね
呉座先生とおなじタイプか・・ 揉め事起こさねばよいが 北条氏政なんかいつ裏切ってもおかしくない無位無冠のど畜生
信玄時代に氏康叩けばよかっただけや 北条を敵に回したから高天神落ちた、ってのも根拠に乏しい。甲陽軍鑑にも書いてないし
そもそも北条が味方だった時に織田徳川連合軍に粉砕されてるんだから北条との同盟も敵対も大した意味が無い そもそも小山城や犬居城が落ちてる時点で高天神城は捨てないとダメだろ
掛川城が武田方なら、掛川と高天神で防衛線を引いて守ることも不可能では無いけど、掛川は元から徳川方
それでも武田方だったのは小山城や犬居城があったからなのに
東美濃の岩村城も勝頼は放棄せずに結果としてああなったけど、勝頼は無能すぎるんだよ そんなこと言ったら信玄の腐れ外道が外交めちゃくちゃにしたせいじゃないか! 甲陽軍鑑にて天正四年横須賀攻めの際指摘されてる高天神城の問題は
・武田本領から遠い
・対して徳川軍は浜松から街道ですぐ
・攻撃されたら逃げ切れず全滅する
この問題は天正八年でも全く解決してない事が横田より指摘されてる 実は徳川家康もこの問題に気付いていて、それで造ったのが高天神六砦
高天神六砦は一見、高天神城攻めの為に造られたように見える。武田軍も最初はそう考えていた。でも実は違う。そもそも家康は何故高天神を攻める?高天神に魅力を感じてないのは高天神を廃城にしたことから分かる。岡部元信を殺したかった?なら開城条件に岡部の自害を入れればいい
家康が高天神を攻めたのは高天神を攻めることで勝頼本隊を高天神まで誘き寄せそこで食い止め信長の援軍を招き入れ一気に撃滅する為だった。つまり六砦は高天神攻めは副次的なもの
武田もそれに気付いた、気付いたが遅過ぎた。天正八年になって漸くではもう高天神は救えなかった 後知恵と創作の塊の軍鑑だと、親族衆は無断撤退したことにすらされてるしな
そんな連中を重用して残した信玄の負債がでかすぎて勝頼かわいそう、となる 信玄でも信長には勝てない。地力に差がつきすぎている
なのに裏切った信玄の行動が謎
信長の仲介で孤立の危機を脱したぐらい、有用な同盟だったのに そもそも北条が味方だった時になんか役に立ったのかね? 高天神城一帯は西は浜松、東は駿河、北には掛川城と遠江久能城に攻め入れる要所。
だからこそ勝頼もほぼ全軍の25000とされる兵を投入して奪ったわけで 戦費が大変だとしても長篠に25000連れてくれば何か変わったかね? >>695
そんな効果は無いと家康は見抜いた
勝頼は見抜けなかった
費用対効果も最悪だし結末も最悪だった >>695
他に遠江でも割と豊か
信濃への塩街道が通る地域
遠州灘の主な湊で一番東にあるのでここら一帯抑えていれば駿河湾への水軍の侵入を防げる
とかもあるな >>695
遠江のほぼ全域と隣接してる場所だしな
前線としての重要性は他の地域よりも遥かに高い >>694
信玄の西上の時に2000の兵力を出してる
>>700
掛川が徳川方なら意味がないんだよ
頭を押さえられてるから 高天神にそんな戦略的価値があったら家康が自由に遠江駿河を攻めれた訳もないしまぁ戦略的価値なんかなくて単に「遠江にある城の一つ」に過ぎなかったんだろ もう勝頼の時代だと、国力考えたら無理かもなあ〜
やっぱ首都圏押さえた信長はすごいわ 長島一向一揆に余力があるうちに仕掛ければまだワンチャンあった 信玄の寿命を三年延ばすか
先に勝頼に移譲して後見に回るなりして死んでも戦闘継続出来るか
くらいしかないんじゃない 徳川を敵に回した時点で実はかなりキツい
遠江は武田領から簡単にいける土地じゃないので他勢力全てと友好関係に無いと多方面作戦取られたら負ける 史料に残されていることからは、長篠の実際はわからないのが実情
しかし、起伏に富んだ地形的な要素を想像力に入れると、
死角に兵を潜ませたことでの初見殺しが真相ではないかというのが
私の推察
丁度時を同じく、同じような着想でYOUTUBEでそれで総兵力を誤認させて
突っ込ませたというのがある 気の毒なようだが、歴史的な事実として武田家の最期は
空中分解の武田崩れがある
そこを見て見ぬ振りをするのは偏向
あんだけの一家離散(苦笑)は他に類を見ない 昨日まで5万(テキトー)規模の軍団が一夜にして離散 朝倉でも織田との決戦で3万か2万を動員できている
あのやる気のいまいちの朝倉が >>692
包囲網が武田の都合よく動いていれば、織田家滅亡も十分あり得たよ
だけど、みんな先陣を切りたがらない 自分の戦力は温存
朝倉が陣払いして本国に帰っていって信玄が激怒したとかいう話もある 上杉謙信があと何年かな?長生きすれば、
ほんと景勝と似たような状況だったろう
あの上杉謙信が何もできずにいる
残念だけど
手取川での敗戦が致命傷にならない
織田家の勢力伸長のスピードに負けたってことだ >景勝は天正10年(1582年)5月4日に、自ら軍勢を率い春日山城を出発、
5月19日には魚津城東側の天神山城に入り後詰の陣を張った。
一方織田軍は5月6日に二の丸を占拠したため、景勝は戦を仕掛けられず、
信濃国・海津城の森長可や上野国・厩橋城の滝川一益が越後侵入の態勢に入ったため、
5月27日に退陣を決断した。
何もできずに帰っていった 信長は経済的な方面や流通に明るかった
感覚的なものかもしれないが、国力をGDP的な発想で捉えることができる
当時としては稀有なものがあったと思う >>656
高天神の降伏を認めない、
たったそれだけで武田をぐらつかせる
如何に当時の織田・徳川が恐れられていたかだ
結局、長篠で強兵云々も逆転している
やはり勝てば強くなるのだ 誰かが言っていたが、
強いから勝つんだ、ではなく、勝つから強いんだ、
っていうのがどうも適切な言葉だ 天正八年には高天神城兵ですら高天神の無意味さに気付いて城を捨てて退却する事を決定してる
だが実は家康は高天神なんて落とすつもりは無く本当の狙いは高天神を後詰にきた勝頼を討ち滅ぼすことだった。だから勝頼は後詰に行けない
後詰が無ければ高天神は落ちるんだが武田滅亡に比べれば安いもの、とみてたんだろうなぁ甲陽軍鑑の書き方をみるに 高天神放棄したら東海での軍事力のバランスが完全に崩れるだろ
武田の対徳川戦線がより不利になるだけ
滅亡の時期は織田の都合によるものだからさほど変わらないだろうけど 高天神に東海の軍事バランスを決める力なんて無いから安心してくれ。家康が即廃城にしてるのを見りゃわかる
戦争で不利になった時にやるべきことは戦力を要衝に集中させること。その為には重要で無い拠点は切り捨てることになる。長篠で負けた後即座に高天神を放棄して戦力を小山・田中に集中していれば逆に家康の方が困ることになる 石田三成のスレ行けよって感想しか湧いてこない
あちらでも嫌われてるようだが ちなみに家康はどうしたかと言えば
信玄が攻めて来た時には高天神は捨てて全兵力を浜松・掛川に配置して決戦に及んでる
勝頼が高天神を攻めた時にも「信長が間に合えば決戦」と半ば見殺しに近い選択肢をとってる。なお勝頼が岡崎を攻めた時には浜松より急行してるので家康の戦略眼では高天神はさほど重要視されてなかったことがわかってるね 要所の高天神が後に破城されたから重要でないなら
長篠城も後に破城になったから重要でないと考えてそうだなw 逆にさ、信玄が半年早く死ねばよかったんじゃね?
西上作戦はなし 織田との同盟も存続
徳川とも和睦し、関東方面へ進出
なんなら上洛して正式に織田家臣となってもいい
織田政権のなかで外様最大を目指す >>728
それは徳川と同盟が無理なので越相同盟+徳川と戦う羽目になる 謙信はいつから氏政絶対許さないマンになったんや
やはり越相同盟を破棄されてからか? >>727
逆に長篠時のどこら辺が重要なの?単に険しいところにある城ってだけじゃないかあんなの >>728
駿河を攻めるときに信玄がどういう心積もりだったか気になる
うまく今川を倒したとして、徳川の出口を完全に防ぐ形になるけど
抑え込めると思ってたんだろうか 織田の家臣なんだから畿内で加増して貰えばいいじゃん!
とかw 本郷和人 武田勝頼の失敗は<信玄超え>した高天神城にこだわりすぎたこと。信長から「救援しても見捨ててもアウト」という<詰んだ状況>に追い込まれ…
https://fujinkoron.jp/articles/-/11001?display=full >>720
高天神に軍事バランスがどうのって力は無い
当時の高天神をみてみ?城兵は2000人も居ない玉砕戦の時に約1000人だからね。こんだけの兵数しか置かれてない城が東海の軍事バランスを決めてるほど日本は狭いのか?
これが例えば高天神が牧野城と掛川城を結ぶ線を脅かしており徳川軍の東進を阻んでいたとかならまだわかる。ところが実際にはそんなことは無く徳川軍は我が物顔で行進して遠江はおろか駿河まで攻撃、逆に武田の方が脅かされてる >>739
具体的内容で批判できないお前のが恥ずかしい 妄想長文と似てるから本郷教授の主張も間違いw
恥知らずの低能は街宣右翼にコロッと騙されるんだろうな 「長篠の戦い」で武田は完敗を喫し、それに乗じて徳川が攻勢に出た。高天神城も奪われて当然だったのですが……その城を守っていたのが、岡部元信という大変な名将でした。」
専門じゃないから仕方ないのだろうが、始めの一文からものすごく雑なんよな
岡部元信が城主になったのは長篠から4年も経った御館の乱の後だし >>743
他に寄稿してる文章でも、研究者なのに作家並みに雑な内容が見られるのは同意 記事の最後に自身の著書を再編集したものとあったがこの内容で本出すとか凄いな この人、専門は鎌倉時代よ
戦国時代の文章書いてる方が受けるんだろうねえ
専門の方の本は不勉強で見てないが
戦国に関しては井沢元彦くらいのテキトーさで書いてる
東大教授の肩書を生かした歴史ライターだと思ってる
ライターでもこの人より信頼性ある記事書くよ >>738
高天神城の兵数は大抵2000人だぞ
勝頼本隊が食糧補給に来た時だけは一万とか行くけど常駐してるのはそんだけ。だから高天神は役に立たなかった。街道を移動する徳川軍の方が数多いんだからな 駿河の半分ぐらいだからな~
鶏肋じゃないが捨てるにはでかい 2000人って結構大きな数
そのまま武田から徳川に移ったら戦力的にかなりの縮小になる 戦線整理出来るのは徳川もだしな
高天神がどうでもいいなら、何で家康はあんな拘ったんだとなるし >>743
東大教授に文句付けるにはちょっとそれは稚拙
実際岡部元信が高天神城に入ったのは長篠の戦いの後なので何も間違ったことは言ってない。これが長篠の前から高天神に居たのなら明らかな間違いだけど >>752
家康は大して高天神に拘って無い。信玄が攻めて来た時も兵を集めたのは浜松で高天神は見捨ててる(それで高天神は信玄に降伏を打診して時間稼ぎする羽目になった)
勝頼が攻めて来た時も無理に救援せず信長の援軍を待ってる。勝頼が岡崎城を攻めようとした時にはそんなことせず浜松から急行してるので明らかに家康の中で高天神は重要視されてない
問題は勝頼は高天神を重要視してしまってる事で家康が高天神を落とさなかったのもここに理由がある。つまり高天神を攻めれば勝頼が来る事を利用する作戦。その為だけに高天神は攻撃された
勝頼が高天神を重要視してなければあんな事にはならなかったろう 徳川家康が隠密頭領の椎名鬼三太、水口半蔵から得た情報として高天神には上野、信濃など甲斐以外の多数の国衆が立て籠もっており、ここを落とせば勝頼の人望が落ちると計算したのであった 当時の防衛は点ではなく線で守るから高天神城と小山城はセット
勝頼が両城連携して守るように指示しているし、高天神が降伏しようとした時も小山もセット
徳川が攻めたら勝頼は援軍行く必要があるのは前線がどこにあっても同じ
その度に上野、北信濃からも動員が必要で防戦だけではなく攻撃も考えないといけないから長篠後でも三河と遠江に防衛目的ではない出陣を計画している >>751
当時、徳川の総兵力が一万未満だから高天神に入れていた二千人という兵力は一城としてはかなりの人数
如何に家康が高天神城を重要視していたかが窺える規模の兵力 >>752
76年から81年までの
家康の対武田の軍事行動の大半が高天神とその周辺で起きてるもんな。 >>753
「長篠の戦い」で武田は完敗を喫し、それに乗じて徳川が攻勢に出た。高天神城も奪われて当然だったのですが……その城を守っていたのが、岡部元信という大変な名将でした。」
長篠後の二俣や犬居を完全に無視したような言い方だな
そもそも長篠で負けたから高天神も奪われて当然でした、という言い方はどうなんだろうか
長篠後は勝頼もまだやり返す程度の力は残ってたのに、それを「当然でした」は東大教授が言うには稚拙すぎるよ >>754
(それで高天神は信玄に降伏を打診して時間稼ぎする羽目になった)
これ、平山が言ってた「懇望」を「降伏」とかしている奴じゃないだろうね? >>759
婦人公論のwebだから、一般人に近い人を狙ってるのかね
それにしても端折りすぎだと思う 勝頼はどう考えても無能だろ
長篠は家臣のせい
今の自民党と同じ結論かよ 勝頼が有能か無能か?甲陽軍鑑の勝頼評は「強すぎる大将」で苦労をあまりしていない若者にありがちな失敗をしてしまっただけともいえる
年長者の助言を聞かなかったのも、耳障りの良いことを言う側近を重用したのも現代でもよくある普遍的な話
その甲陽軍鑑の評価を信用できないとするのは自由だが、そこから有能に再評価されるほどの材料が勝頼にあるとは思えない
あえて言えば長篠後、新軍役を定めて精力的に立て直そうとしている姿勢は非凡かもしれない 長篠から甲州征伐まで時間はあるんだよなその数年で何が出来たかはわからんけど 謙信の死のタイミングの悪さ、御館の乱の難しさ
大変だぞ
例えば信長がここに居たら挽回できたかどうか
日の本に隠れなき武士って評価は決して見下してはおらんだろ 謙信が生きてて西に向かえばまぁ助かるが関東が目標だったら武田は上杉と北条の対応に苦慮する
御館の乱は景虎有利で終わると明らかに武田北条のバランスが悪くなる
対越同盟の意味がなくなり不安定な不可侵条約が残るだけ
無理なんじゃね? 長篠大敗後に家臣団再編を急いだが、養子を迎えさせたり農家や僧侶やっていた人を無理矢理挑発したりして
質が大いに低下した。忠誠心もハッキリしなかった。
そんななかにおいて、高天神城は信濃、上野、飛騨から集めた者たちが
混成して籠城していた、勝頼が高天神城を見放したと言うことで
甲斐本国は他国の者たちを見殺しにするのだと悪評が立って、
たちまち武田領全体に動揺が走った 勝頼は一武将としては優秀だけど、上に立つ人間としては無能だった >>732
散々馬鹿にしていた氏政に全く勝てず味方の筈の佐竹らからも総スカンを喰らった。
挙句の果てに関東から完全に叩き出されて赤ッ恥をかいた。
そんな己のみっともなさに錯乱して「氏政が悪い!アイツが全部悪いんだあああっ」とブチ切れたんだろう。
誰かが言ってた本郷さんの本、今手元にあるけど、
信玄は高く買ってるね きわめて優秀な武将だけど、
強いて言えばとただし書きつけて、いくつか書いてる
おいらは武田が滅んだのはぜんぶ信玄のせいじゃないかと思ってるけど、
やはり勝頼のせいが専門家の見方か 滅亡原因は建前では勝頼だけど本音の部分ではみんな信玄だと思ってんじゃないの 前提として徳川と織田を敵に回した時点で武田は無茶苦茶苦しい。アメリカを敵に回した日本のように
それでもまだ自国領まで敵を引き込んで決戦して痛撃を与えればチャンスはあった。あったけど活かせなかった 滅亡の美学ってものがあってペコペコして家臣になるという選択肢は元々ない
北条氏政ですらそうなんだから名門の武田ではいうまでもない
強力な中央政権がずっと存在しなかった時代に生きていたわけだし >>766
御館の乱は起きた時点で武田にとってもマイナスだからな
史実と勝者を逆にするほどの労力を武田が払えるとも思えないし
景虎も認められないだろう
乱が長引くほど織田に有利に働くから、上手くいっても武田より
先に上杉が滅ぶくらいかなあ。後は本能寺が固定イベント扱いで
発生しなければ武田も滅ぶだけ >>771 >>773
滅亡原因は一に自然環境条件、二に織田と武田の国力の差。
歴史は物理学。
勝頼ガーとか信玄ガーとか、中学生レベルの英雄史観やゲーム脳はいい加減脱却した方が良い。
静かに、丁重に、山県のめい福を祈ってやってくれまいか >>777
その挙げている原因に加えて、信玄勝頼親子の酷さも相当なものだがな
明らかにこの親子が滅亡を促進させてしまった感は否めんわ 滅亡原因の第一は外交だろ
少なくとも織田家と親密なら滅亡まではいってないだろ 他スレで「武田が織田と手切れになる前に信玄が死亡してたら?」
というifが話題になってたが、武田と徳川の関係が微妙だったから、
信長としてはいつまでも武田と親密な関係を維持したとも思えないんだよな。 徳川を何とかしてくれという信玄からの要請を無視してる時点で信長は武田を見限ってるんじゃないのかな 徳川からの軍事攻撃させなかったんだから十分役割果たしてると思う。 代替わりで外交方針の転換はある事なんだし勝頼も最初に信長に頭下げればよかったのに 信長の上洛要請文で家康は第二位に名前を書かれてる。一位の北畠氏が家格によるものだから信長からして家康は一番頼りにしてる正に盟友と言える
そんな相手に喧嘩吹っかけた訳ですいませんでしたで済む訳ない。損害賠償しろと言われるのは明らかでどこまでやられるかわかったもんじゃない
無論滅びるよりはマシだけどこの時まさか武田が滅亡すると思ってる奴は居なかった訳で だよな 勝頼が信長に頭下げればすむ話だった
先代の父がひでえ悪手を打ったとしても、
勝頼が挽回すればすむ話だ
父は家康に恨みをもってて、乱心したとかいえばいい
自分は義父上には尊敬しかないと
家臣にしてくださいと言えばどうにかなったはず 実際やったら押し込まれて信勝かあるいは信豊が後継ぎにされるんだろうけどな 北条の領国を切り取れるし外交方針を転換しても家臣はそんな暴挙にでない
清洲同盟にしても家臣の反発はあったが問題なく締結されてるしな >>789
今の日本が中国に土下座しろというようなもんというか、価値観や人心を考えてないよな 勝頼の生き延びる術は家督相続と同時に信濃、上野、駿河、遠江、飛騨、越中、東美濃、奥三河の放棄をして安土の軍門に降り、所労のため隠居の儀の許可、倅信勝への家督相続、甲府15万石の安堵の朱印状を安土から得ることである。
数年後に大和郡山へ転封を受託し、興福寺の寺社勢力の鎮定をすることで点数を稼ぎ、 越相同盟のとき氏康は謙信に対して土下座に近い事をしてる
戦国時代も後期になると大名が大きな権限を有し家臣たちも
おいそれと反抗は出来なくなっていた 武田家は全体的に信長・家康を軽く見てる。これは信玄の時代からそう。信長は武田を恐れて出て来れない、家康は攻めれば折れると思ってた。運の悪い事に高天神攻めがこれを証明してしまった
武田家は高天神に価値があると思ってるので「こんな重要拠点を守れない家康も援軍に来ない信長も大した事ない」と思った。確かに戦況は優位だった。だが家康は高天神の価値を見放して戦力を集中してただけ。そして伸び切った戦線と誤った戦略判断から長篠での一撃に繋がって全てが崩れた。最初の敵情判断が間違ってた訳で何ができようか 謙信を関東管領と認めました
実子を養子(人質)に出しました
上杉有利に領土の境界線を設定しました 現実の勢力範囲をある程度尊重して同盟交渉するのが普通だから
北条側はかなり譲歩したんだと思いましたわ というか信玄は何をしたかったんだ?
奥平に宛てた書状から家康に対する私怨から徳川領に侵攻したのはわかるけど
それなら織田とはできるだけ仲を保つようにしたらいいのに、何で信長まで敵に回すような真似をしたんだろうか この頃の徳川は織田に従属してるとみていい関係性だから徳川のみ敵対など無理だろ
織田視点でも徳川を切り捨てる事は出来ないでしょ >>799
信玄の考えでは折れるはずだった
当時の国人衆ってのは強い方に靡くのが当たり前で信玄からすると家康なんて国人衆の頭目に毛が生えた程度。信長が援軍を送らなければ武田に転ぶのが当然だった。実際遠江・三河の国人衆は武田に即座に降伏してるから家康もこうなると思ったとしても不思議じゃない >>804
史料が足りないからよく分からないが、織田が幕府を牛耳って天下人面しているのと、徳川に肩持ち過ぎなのが不満だったのはあると思われる >>807
残念ながら史料から見える信玄の戦略はこの程度
信玄からすると家康の様な国人衆は叩けば簡単に寝返るもので下手すれば大軍を見ただけで降りる(よしんば家康が抵抗しても三河の国人衆は降りるだろう)徳川がすぐに降伏するのだから遠江と三河は安全に行軍出来てそのまま織田と一戦に及ぶだけ。そしてこの時信長は朝倉浅井本願寺と囲まれているので武田と決戦すれば必ず負ける
楽観的と思うかもしれないが信玄の行いを見ればわかるだろうがこいつそこまで熟慮する人間じゃない。上杉謙信に勝てないとみるや今川を裏切って攻撃し北条と敵対する。家康を侮ってちょっかい出して徳川と敵対する。挙句は織田・上杉・徳川・北条と全面敵にする。どう見ても戦略眼のある人間じゃない
だから家康が踏ん張って三河国人衆と一体になって抗戦してきた時点で信玄の目論見は御破産、進軍不能に陥ってしまった それはないね
信玄は駿河侵攻前こそ徳川を国衆扱いはしているものの、掛川の一件以降は大名として扱ってる
その後徳川は上杉と同盟して「信長に進言して武田と織田を手切れさせる」と公言しているから信玄も容易でない敵だと認識していたはず 武田家、特に信玄が家康をどう捉えていたかは甲陽軍鑑の「信長一味」という言葉で大凡わかる
実はこの時点で武田の戦略眼が狂ってる事がわかる。この当時はまだ家康と信長は対等同盟にあり家康は信長の和睦提案を黙殺して軍事行動を進めてる。これを信長が咎めないのも当然である
またこの事を武田家が知らないのも仕方ない。確かに家康は謙信に「信長は必ず此方につく」と言っているがこれは謙信しか知らない。武田家が知る由は無かったと思うのだが それもないね
信玄は信長に「佞人の讒言は聞かないように」と抗議しているし、甲越和与の破棄と越三同盟は同時期なので信玄が知らなかったはずがない 信玄は家康は信長の家臣で家康の行動は全て信長の指示と誤解していた。これは明らかに判断ミスで実際には信長は真剣に家康や謙信を武田と和睦させようとしていた。何故信玄はこんな過ちを犯したのか?
そもそも信玄は家康を軽く見ており家康が他勢力特に謙信と同盟できるとは考えてなかった(実は家康も自信が無かったのでこれ自体は間違いとまでは言えない)ところが案に反して謙信は家康の申し出を喜び同盟に至ってしまった。本来ならここで家康評を改めるべきだったんだろうが、個人的にそれはかなり難しかったと思う。昨日まで格下と思ってた男が実は自分よりデキるかもなんて認められない気持ちは分かる 目に見える軍事行動は止められても
こっそり外交してるのは武田の言いがかりとか言われたら
信長としてもどうしようもないからな 信玄は「信長の家来如きが謙信と」と大いに苦しんだ訳だけど信玄はこれら全て家康個人の裁量だと思ってない。裏に信長の力を感じてる。もし信長が本気で仲裁をしてると知っていたらもう少し外交に力を入れたろうが、信長が家康を操っていると思ったばっかりに本当に信長を敵にしてしまった。おそらく謙信の離間策に引っ掛かったんだろうが >>812
家康と謙信が同盟関係になった事は信玄も知っていたろうが
問題は信玄がこれを「家康が信長の言を無視して突っ込んでる」と分かったかどうか。史料で家康が信長の意向を無視しているのは明らかになってる。しかしそれは信玄にはわからない。家康と謙信間の通信だから内通者が必要になる
尤も更に正確に「家康と信長は対等同盟なので信長に命令権は無い」「家康は信長の盟友なので信長も軽く扱えない」「そもそも事の発端は武田の問題行動」という点まで押さえてないと正しい選択は取れないんだが 建前と本音
あとポジショントークぐらいは考えて考察はして欲しいかな
毎度いつも書き込みは見てるが断定的な考察からの深掘していく様は妄想っぽく見えるんよな
端的に言えば病的 何一つ納得できる文がない
メンタルおかしい人の話を聞いているかのようだ 確かに信長の仲介による武田との協調路線を家康は退けてるけど、その後も榊原康政と土屋昌続の間で交渉が継続されてるんだよな
正式な手切は10月8日付上杉輝虎宛徳川家康起請文の
「信玄江手切、家康深存詰候間、少も表裏打抜、相違之儀有間敷候事」の文言を以て手切となる 手切れしてる割に家康軍事行動起こしてないんだよな
この時期武田は北条とも戦っているのに 信長の立場としては将軍家の名の下、天下静謐を守らせる必要があるから武田と徳川の開戦は反対だろうしね
武田と北条の戦いについては駿河侵攻を将軍家がお墨付け与えた以上、止められない
一方で武田と上杉には和睦仲介する
信長の本音としては東のゴタゴタは関わりたくないし徳川を浅井朝倉戦に動員したいから武田と戦ってほしくないだろう 信玄にしろ勝頼にしろ他人の考えを理解出来ず自分達に都合のいい考えを信じ込む悪癖がある。これが信玄の血なのか甲斐が中央から隔絶して情報が入らないからかはわからないが
家康が武田と戦争状態にありその為に謙信と同盟してるだけなのにその背後に信長がいると誤解して戦争吹っかけて本当に信長を敵に回す辺りにそれが現れてる >>821
そりゃ当然で家康から攻めていけば信玄の非道をアピールできない。信長は当時「天下」つまり公儀のお題目で越甲和与を進めており戦争を吹っかければ公儀への反逆に等しい 「他人の考えを理解出来ず自分達に都合のいい考えを信じ込む悪癖がある」
これ、妄想君のことやん 自己紹介かな?
さて元亀元年には信玄と断交した家康も謙信も「信玄が遠江に侵攻したら」を前提に同盟内容を決めてる。これが如実に表れてるのが十一月二十日の謙信宛信長書状で「信玄が侵攻したら家康は遠江でこれを迎え撃つ、信長はこれを援護する、そうしたら謙信は信濃を攻撃する」事が確認されてる。ここからも分かる通り反武田同盟は信玄が公儀に背いて攻撃しそれを公儀として追討する事を前提としてる
でここで問題がある。これは完全に信玄に依存してることでもし信玄が大人しく釈明に終始したら彼等には打つ手が無い。だから何としても信玄に攻撃させる必要があった。その為に家康も謙信も信玄に調略を仕掛けた。それに乗ったのは信玄の失態でその根底には「家康・信長を軽視する信玄」「信長・家康の正確な自己分析」がある >>827
間違いだらけだよ
11月20日のその書状は信玄の1572年の侵攻後のものでむしろそれまで織田と上杉間にはそれまで交流がそれほどなかったことを伺わせる
その書状だとその頃信長と義昭の仲が終わっていたせいか公儀の存在も出てこない
上杉謙信はというと西上作戦の直前の時期は武田との和睦を希望している時期
謙信は徳川と1570年に同盟したものの、1571年越相同盟破棄により氏政にしか矛先が向いていない
その和睦を信長が実際に仲介していた時期に起きたのが信玄の侵攻 >>827
時系列間違ってるぞ
それ元亀3年の書状じゃん 此度の戦、狙いは駿河に非ず。真の狙いは、織田信長だ。
その為に、まず信長の配下徳川家康叩き、信長を、尾張に釘付けにするのじゃ。 信玄は完全に家康と信長を侮っていた。甲陽軍鑑によると「家康さえ倒せば信長には百日も掛からない」と嘯いたという。となると三方ヶ原のあの無様な勝利はなんなのかという話になる
武田家にとって西上作戦は乾坤一擲の最終作戦になる。二万五千という大軍は武田家ですら安易に稼働させられず臨時の増税まで行ってる。なれば三方ヶ原は絶対に勝つ必要がある。家康を討つ、最低でも徳川軍がむこう三年は動かない大損害を与えることが最低線。だが結果は惨憺たるもので僅か二千人の死者のみどころか軽々に送った追撃部隊が待ち構えていた徳川軍に強撃される始末
これは惨敗に等しい、にも関わらず信玄には危機感が無い。理由は単純で信玄の中では三方ヶ原で「家康滅却」だったんだろう。これで家康は降伏すると思ってたことになる もうこの妄想長文はここのスレ民に対する嫌がらせのためにわざとやってるとしか思えんわw ひとりキチガイがいると匿名掲示板は終わる
良い見本だな >>828
それは史料に反してるよ。これは上杉・織田・徳川の三家が複雑に絡み合うので把握が難しいものではあるが
まず上杉・織田間では永禄十一年、将軍の意向として武田との和睦が斡旋され翌年閏五月に謙信は信長家臣林に宛てて何らかの取りなしを依頼、十月には何らかの協定が結ばれてる
上杉・徳川間では家康の申し出を謙信は快諾、ここに反武田同盟(越三同盟)が成立する。元亀元年に謙信は「信長と義景が和睦する」「上杉と北条で信玄を討つ」「織田と武田の縁は切れる」「家康の斡旋で信長と謙信は入魂になる」ことを確認している 整理しよう。信長は武田と上杉を和睦させるよう奔走していた。だが謙信はこれに不満だった。謙信は信玄を打倒する気持ちが強かった。しかし信長の仲介を蹴れば信長を敵にしてしまう。永禄八年に織田と武田は婚姻関係になっているのだ
だがそこに徳川家康が反信玄の同盟を持ち掛ける
謙信からすれば天祐。「左京大夫」徳川家康をテコに逆に信長を反信玄同盟に組み込もうと画策する。家康との書状にそれが残ってる
つまり謙信、最初から信玄と和睦するつもりなんかなかった。「西上作戦の直前は信玄との和睦を希望」というのは謙信書状に反しており妥当とは言えない
信玄撲滅の為絵図を引き続けた謙信と家康、それにまんまと引っ掛かる信玄、そして何も知らずに突然信玄に裏切られた信長…というのが史料から現れる構図になる >>834
一方で対武田和睦の斡旋に乗る素振りを見せつつ他方では対武田殲滅戦の態勢構築。
織田と徳川に乖離があったのか。
それとも上杉謙信得意の二枚舌か。
戦争が常態化した状況では当り前の挙動と云ってしまえばそれまでだが、
それ以前から謙信は各方面に対して背信と不義理を繰り返してきただけに常習犯と見るべきか。
では何故「謙信は信玄と和睦するつもりだった」と言われてるのか?それは謙信が信長に宛てた書状だけが有名だからである
信長は謙信に「信玄は侍の義も知らない」「前代未聞の無道さだ」と送った。これに謙信は「何故信玄はこんな蜂の巣を突くような真似をしたのかわからない」と返した。ここだけ切り取ると確かに謙信は巻き込まれたかに見える
しかし越三同盟を見れば一変する。謙信はしらばっくれているのである。信玄が何故信長に刃向かったか、それは謙信と家康が仕掛けた策略に信玄が引っ掛かったからであり、根底は信玄の野心野望があるにしてもそれを爆発させたのはこの二人なのだ。それを秘して謙信は信長を慰めているわけで中々の役者と言える
こうして越三同盟は当初の想定通り信長を迎え三国同盟へと発展、謙信の願った状況は完成した >>834
頼むから平山先生の本に書いてあるレベルのことも知らないくせに偉そうなこと書かないでくれるかな?
元亀3年1月武井夕庵宛信玄書状「上杉謙信が武田、北条との和睦を望んでいるが、自分は応じるつもりはない」
また、それより前に上杉謙信は北条高広に「信玄と和睦することはあっても氏政とは結ばない」と記している
あと、元亀3年9月頃の武田上杉の和睦交渉は上杉側は了承していたが、信玄が「朝倉が仲介でなければしない」で成立せず、そのまま西上作戦となる >>836
それはおそらく越甲和与が将軍の意向という公儀性のあるものだから
信長は永禄十二年までに謙信に信玄との和睦を勧めているが当初信長の私信だったものが遂に将軍の内意書まで出てくるようになった
仮に謙信がこれを蹴れば信玄の思う壺、「謙信は将軍に刃向かった」として討伐の理由になる。謙信はそれがわかっているので従うフリをするしか無い。信玄を討伐するには信長を引き込んでせめて信長と信玄の関係を悪化させるまで待たないと危ない。だからこそ家康との同盟は値千金でしかも成功した訳で謙信も鼻高々になろう >>838
君はせめて平山センセイの本をよく読んで理解した方がいい。残念ながら君の理解力では論戦についてきてないようだ
まず君が出した信玄書状はタイトルの通り「武田信玄」の書状であり「上杉謙信」の書状では無い
信玄が「謙信が和睦したがってる!」と言ってるだけで何の証拠にもなってないだろう。まず出だしでペケ
ちなみに平山優は武田家の研究が主だがご多聞に漏れず信玄贔屓でその論理は飛躍・牽強付会なところが多い。よく読んで理解することだ >>841
なんで自演したの?
つまらない妄想と誤読は置いとくとして >>834
この人ほんとに史料読んでるんだろうか
林宛の書状の何らかの取り成しって何だよw
義昭の入洛の祝儀として謙信は使僧を遣わしてるが、それについて信長にも
その件を伝えたので林からもよく取り成してくれと言ってるんだよ
それと10月に織田と上杉の間で何らかの協定が結ばれたってのは何?
織田・上杉のこの時期の書状確認してみたけど確認できないし一次史料にはないようだけど
永禄12年10月の謙信宛信長書状は一通あるけど鷹二聯を貰ったことに対する礼状で協定とは無関係の内容だな >>841
上杉謙信からの使者に武田家臣の内藤、跡部がこの条件では信玄に取次できないという史料があるから実際に謙信から和睦の打診があったのは史実だよ >>821
昔同じ疑問抱いて、71年か72年の間違いじゃ?と思って調べたことあったな。
71年か72年だとするとそれ以外のいくつかの文書も年を間違えてることにしないといけないので、
他の年にするのは無理と判断した。 >>844
十月二十二日上杉謙信宛織田信長書状
「条々可為入魂之趣、大慶候」 永禄七年に信長は謙信に養子を送る事とその他何らかの約定を果たす事を約束してる。謙信側の考えは明らかで武田信玄を牽制する為だろう
ところが永禄八年に織田と武田間で婚姻が決定し謙信への養子話は立ち消えになる。それどころか信長は謙信に信玄との和睦を勧めてくる。信長個人の考えでも重いが永禄十年頃から将軍の意向までひっついてくる
そこで元亀元年に謙信は家康と同盟をして信長と信玄の関係を破談させる作戦に打って出る。これは大分効果があったらしく信玄は信長が家康を操っていると思い込んで遂に信長に宣戦布告してしまう。そりゃあ謙信も得意満面にもなろう。信玄の作戦をうまいこと破壊して逆にハメ返したんだから >>847
だからそれ鷹二連に対する礼状だよね
条々可為入魂~は後段の部分でしょ
信長から謙信に送った条々を謙信が了承したことに対して大慶であるとしてる
けど、これだけじゃ何かの協定が結ばれたと解するには強引過ぎるだろ >>848
いや、謙信は元亀2年に信玄に和睦持ち掛けてるんだけど? >>850
> 元亀2年
関東の「東表衆」に阿鼻叫喚の混乱をもたらした驚天動地の大芝居「相越同盟」の裏で同盟の主敵たる武田との和睦を模索。
836にも書いたが上杉謙信の二枚舌、三枚舌こそ恐るべし。
視座を変えれば「越後國の飢民救済の為なら泥水を啜り毒も呑む」凄まじいまでのリアリズム。
深入りはスレチと百も承知ながら、
謙信期上杉権力体の評価は俗説とは180°変えなければならないとつくづく思う。
>>851
大袈裟に古くさいこという芸はやめてほしい
藤木信者のきみが語ってるのが俗説な
いまは経済面が評価対象 >>852
ああ、絶滅危惧種の謙信信者の方ですね。
相変わらず現実から切断された妄想の世界にお住まいでしょうか。
最近は御無沙汰ですがお元気そうで何よりです。
今後はますます貴方がたに吹く世間の風も冷たくなるかと思いますが末永く御自愛下さい。
織田家との和解を目指して安土、浜松、姫路、北之庄、坂本、岐阜でいっせい街頭演説を断行! >>845
こう考えてご覧。君に「仲良くしよう」と言ってきてる奴が裏で君の敵と連んで君の悪口を言いふらしてる。で君はこいつを友人と思えるか?
10人中10人はそう思わない。明らかに謙信は信玄に敵対的な行動をしてる。そう信玄が受け取るのは当然、問題はそこじゃない
これが家康の陰謀と思わず信長の陰謀と受け取ったことにある。尤も謙信の調略と武田家の織田・徳川への偏見が理由でどうしようもないんだが >>849
「条々」なんだから協定だぞ。内容は一切不明だが。他に解釈のしようはない >>856
まず謙信が悪口を言いふらしてるというのが単なる貴方の妄想
史実の謙信は徳川との同盟から1年足らずで信玄に再三実際に同盟を持ち掛けてる
「朝倉が仲介なら受けるけど織田が仲介だと無理」「甲越相の三国同盟以外は受け入れられない」なので、信玄は謙信に特段の敵意はないし、謙信も氏政憎しが第一
第二に信長はその謙信のために上意により信玄との和睦を提案しているから謙信家康と組んで信玄を滅ぼそうとしていないことくらい信玄も分かってる
義昭信長体制としては天下静謐が優先 国の外交を人間関係の付き合いて同程度に考えていた信玄が無能ってことか >>857
ふーん
相変わらず適当なこと言うね
これが協定の意味になると思う?
・(慶長4年)10月25日付島津忠恒宛島津惟新書状
「庄内之儀、山口勘兵殿噯事果候て、防戦ニ及申候よし、先便ニ具承候、源二郎仕立条々曲事迄にて候」
・(慶長5年)10月14日付今井宗薫宛伊達政宗書状
「去六日ゟ福嶋へ動仕、得大利申候、様躰先達具ニ条々申入候キ」 >>853 851
如何に戦国板が無知の巣とはいえ
戦国板は日本史板や世界史板と比べると格段に知性が低い
北條氏のレスだろ 馬鹿にしてる戦国板にいつまでいるんだよ
世間の冷たい風当ててやるよ
北條氏の特徴
北條 國 「」をよく使う
小難しい言い回しが多く要領を得ないのに優越感に浸る「北條氏」
読みづれーなと思ったら戦國板「北條氏」 >>861
正に貴君の如き御仁が板の知的水準を引き摺り下げている。
自覚されたい。
引き下げるか引き摺り下ろすだろうに
自覚されたいって意味不明だし >>863
あんたのレスはごてごての修飾語ばっかりで中身がなく、言っていること自体も極めて古くさい
平成中期くらいで止まってるんだよ
自覚あるかい? >>865
片言レベルの日本語しか使えない貴君らのような人々を想定して書いてはいない。
あくまでも尋常の日本語話者を相手に書いている。
悪しからず諒とされたい。
>>866
自覚されたいって何語なの?
まともな日本語だと本気で思ってるなら、自身が境界知能なのを自覚してもらいたいが無理だろうな >>867
正しい日本語文法を学ぶことを奨める。
無知は恥ではないが無知を自覚しないことは恥であると知るべし。
「送信されたし」「御自愛されたし」等々。
業務通信でも時候の手紙でも普通に使われる表現を本当に知らないとなるとやはり来日後間もない人なのだろうか。
そうでないならば昨今の国語教育はどうなっているのだろうか。
>>868
それで、自覚されたいってどういう意味なの?
正しい日本語と文法で説明しろよ低知能 >>869
お前が書いたのは「自覚されたい」ね
自覚されたしとは書いてないんだけど、認知症なら病院に行けよ >>871
「境界知能」「低知能」「認知症」
全て謹んで貴君に返納する。
語尾が口語体であるか文語体であるか、それだけで理解できなくなる貴君の知能は遺憾ながらそれこそ理解を絶するものと云わざるを得ない。
>>872
自覚されたいは普通で絡む意味が分からんが
にしてもだ、あんたの文章はおからでできたクリスマスケーキみたいなものだよ
見てくれは派手だが中身はスカスカ
唯一乗っているイチゴは腐っているという
単なる気取りという悪文の最たるものであり、なおかつ肝心の論旨は腐っている
研究者の語り口だけ真似しているだけで、何度もいうが中身が伴っていない
しかも結論は濁す悪癖もある
おそらく反語をかっこいいおしゃれな文体と思ってるんだろうが、極めて醜い
研究者の語り口を真似するならきっちり仮説から証拠揃えて、堂々と「こうだ!」とやればいい
史料が少なく確定できない事案でも、論文の結論に反語使う研究者なんていないし、査読も通らない >>873
貴君の如く特定の偏向した価値観を以て書いているわけではない。
常に普遍の原理原則からの脈絡を述べている。
ヒトが地球上の生物であり歴史なるものがその生物の営為である以上、それは自然環境条件によって絶対的に規定される。
「戦国大名」は何よりも先ず為政者であってみれば自国人民の窮状を救うことこそ至上命題であろう。
上の見地から上杉謙信を評価したことを粘着的に論難する貴君の如き敬虔なる謙信信者は当板に於いて頻繁に観察される所だが、
その筋違いの論難ははむしろ稀代のリアリスト上杉謙信を冒瀆するものだろう。
贔屓の引き倒しと云う言葉をもし知っているのであれば想起されたい。
皮相の人為のみ語って事足れりとする思考の色眼鏡で見ればまた違って見えるのだろうが、
それは貴君の脳髄に於ける事象であるから吾人には如何ともし難い。
御随意にと云うのみ。
田中健、柴俊夫、篠田三郎、仲村トオル、的場浩司らが必死の防戦指揮! ttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000051444&ID=M2017080812112859823&TYPE=
(二次)史料投下 何かと思えば譜牒余録かい
この史料によるならそりゃ家康が信玄信じるわけない、武田が悪いとなるな
家康が上杉と同盟したのも、武田に攫われた弟が脱出に成功して安全が確保されたからじゃとかになりそう >>858
まず謙信の内心で言えばこれは元亀元年からの家康・謙信間の書状で明らかになってる。要は「信玄を討つ」この一事に集約されている
ここで武田をみてみよう。信玄が信長と同盟したのは謙信に備えるためである。元亀元年七月書状で「越後と戦争になったら甲斐に味方する」ことを確認している事からも明らかだろう。信玄にとって謙信は敵であった
ところがその信長の(信玄目線では)家来である家康が謙信と同盟してしまう。しかも信長はこれを傍観している、信玄が苦情を言っても聞かぬフリをしている。となれば信玄の信長不信は強まる。家来が主人の許しなく出来る行為では無い
また謙信への警戒は最高度に達する。信玄と和睦したい?笑わせるんじゃないよなら徳川と手切の手立てに及ぶのが先だろうが。故に信玄は飛騨への軍事強化、一向宗との連携で謙信に備える 次は上杉の目線。謙信も永禄七年に信長と同盟して信玄を攻撃する計画を立てていた。ところが信玄に先手を打たれて織田と武田が縁辺、謙信への養子話は立ち消えになる。これはまずいと思っていたところ望外の家康との同盟。これを梃子に信長と信玄を切り崩す計画を立てる
謙信の青写真は元亀元年八月書状の「信長と義景を和睦」「上杉と北条で信玄を討ち取る」から分かる通り壮大なものだった。これは結果的に叶わなかったが謙信は想定通り信長を味方にする事ができた。その時の得意満面が西上作戦を受けた書状に残ってる
となれば謙信が武田に持ちかけたという和睦話は全て謙信の罠、少なくとも本気ではないことは信玄にすら明らかである。この理由は単純で既に越甲和与は将軍からの内意である。その為に謙信はこれに叛く事はできない。出来ないが信玄への敵意は捨てない。その為の越三同盟なのだから >>879
そういう話には興味ないんですよ
ここ、長篠スレでしょ? >>881
それ全部元亀元年だから時代が違う
その後、謙信は元亀二年に北条高広に「信玄とは和睦するが、氏政とはしない」と意思表示し、元亀三年に朝倉が仲介でなければ和睦しないと言われて「信玄が何を考えてるのか見当もつかない」と驚き困惑している
つまり謙信は本当に将軍家の意向により信玄と和睦するつもりだった
何でかというと北条と武田が結んで自分と敵対してくるのは最大の危機だと感じていたから他ならない
北条と武田の再同盟は元亀2年
元亀元年の徳川との同盟?今川氏真の時と同じで状況次第ですぐ無視するのが謙信 史料からわかる事実は「家康と謙信が同盟して信長と信玄を離間させ信玄を討ち取ろうとしてる」訳だが信玄がこれを見抜くのはかなり難しい
そもそも信玄が信長と同盟したのは謙信と戦争する為なのにその謙信と家康が反信玄を掲げて同盟してるのに何故信長はこれを咎めないのかと思うのは仕方のないことではある >>883
残念ながら本当に武田と同盟するなら徳川とは手切の手立てに及んでる訳でそれをしてない時点で謙信の内心は明らかなんだ、これは仕方のないことなんだな >>884
史料から分かるのは信長が武田上杉の和睦を斡旋し、謙信はそれに乗ろうとしてたということと、信玄はそれに応じたフリをして家康に襲いかかったということだけだよ 謙信の動きは一貫している。永禄七年には信玄に対する為信長に接近し、十二年には信玄と対する為に北条と同盟、元亀元年には信玄と対するために徳川と同盟してる。つまり信玄を討つ事が第一目標で北条はそのついでにぶっ殺したい相手ということ。謙信が敢えて徳川や織田に北条を意識した戦略を提示していないことがそれを表してる で、謙信は信玄の振舞いに何度か「驚いて」いるがこれが真実かといえばかなり怪しい。元亀元年に謙信は家康と「信長と信玄を破談させる」「信長と謙信を入魂にさせる」起請文を受け同盟した
こんなことしておいて信玄と仲良くできると思う奴が居たらノータリンのサイコ野郎。謙信は信玄がどうしてそんな事をしたのか理由を知ってるだって自分たちがそう仕向けたんだから
ただ事実を信長に伝えるなんてやるわけなく「驚く」しかない。謙信と家康はかなり危険な橋を渡った訳だがその甲斐はあったということ >>887
謙信は「信玄と結ぶことはあっても氏政とは二度と結ばない」とか「信玄や氏康と違って氏政は大馬鹿者」と書いてるけどね >>888
謙信のそういう変節ぶりは今川との同盟でも同様だった
徳川との同盟も一年後には堂々と忘れて武田に和睦申請している この北条高広宛の書状だと謙信は本文で一回、追而書で一回の計二回氏政を「馬鹿者」と罵ってるんだよな
そして謙信は里見・佐竹・太田資正と手切れしたことを悔やんでいることを吐露してる
この時は北条が信玄と結んだことがよっぽど腹に据えかねたんだろうな 信玄が家康をどう捉えていたか、これは永禄十二年三月の信玄書状に記されてる。曰く「信長の言う事だけに従う男(家康者、専信長被得異見人二候)」だという。信玄は家康を大名とは思っておらず信長の家臣であるかの如く思っていた。
しかしこれは平山優が言うように信玄の誤りだった。家康と信長は対等同盟を結んだ身で家康が信長に命令出来ないように信長もまた家康に命令することは出来なかった。しかしこれを理解出来なかった信玄は信長に家康に敵対行動を止めるよう命じろと要請し続けた。信長がこれに応えなかったのは当然である。こうした信玄の思い込みに気付かぬ家康と謙信では無かった >>892
その永禄12年3月23日付信玄書状は武家事紀所収文書で愛知県史にも収録されてるけど
愛知県史によると研究の余地ありと注釈がある偽書の可能性がある文書になってる >>883
永禄十二年から始まった越相同盟は元亀二年十月に北条氏康が死んだ事で破綻する。元亀二年十一月に謙信は北条高広に「北条氏政が馬鹿なのは前から分かってた」「武田と北条が攻めてきても負ける事はあり得ない」「まさかあの馬鹿の話を聞いたりしないと思うが」と氏政を徹底的にこきおろしてる
ここで問題なのは元亀三年正月の信玄書状が怪しくなるということで当該書状では「謙信が信玄・氏政と和睦したいと言ってる」とあるがこれは明らかに上杉側の史料に反してる。氏政を馬鹿者と罵り北条との同盟を後悔してる謙信がそんな事を言う筈が無い。つまり信玄は嘘を言ってる事になる >>894
上杉側にも武田に和睦を断られた書状が残ってるよ 信玄の立場からすると、まず家康は信長の家来同然でにも関わらず敵対行動を止めない事から信長は信玄に敵対してる事が分かる。つまり越甲和与を持ち掛けているのは時間稼ぎで本意じゃない
時間稼ぎとはつまり朝倉攻めが終わるまでということで朝倉が潰れたら次は武田の番ということ。だから西上作戦を決行する。家康は所詮強者に従う風見鶏だから信玄がきて信長がこなければ武田につく。徳川領を問題なく通過して信長を百日くらいで叩き潰せば謙信は何も出来ない
武田勝頼が信長の時間稼ぎに引っかかって甲州征伐された事を考えれば間違った選択では無かったが、家康と謙信が結託して信長と信玄に離間策を打ってたことを見抜けなかったことで前提から破綻、そのまま敗北まっしぐら 何から何まで妄想で貫くスタイル
誰にも理解されない >>895
どんな書状か知らんが謙信からすると武田に和睦を持ち掛けるのは当たり前。それで信玄が自分たちの策謀に掛かってるかどうかわかるんだから
信長が斡旋してる以上これに余り逆らうと信長の怒りが上杉に向きかねないという問題もあるし
謙信からすると信玄が和睦を拒否してくれば作戦成功で史実では家康と更に連携を深めて準備してる。逆に信玄が和睦に同意してきたら面倒な場面だった >>898
元亀年間の上杉、徳川、武田間の書状を把握もできてないのによくもそんないい加減な妄想を垂れ流しできるよね
例えば「史実では家康と更に連携を深めてる」と書いてるけど何が根拠? 元亀二年三月五日付徳川家康書状より謙信と家康が盛んに交信していた事がわかってる。これらの成果が元亀三年に結実した 元々謙信と家康の外交交渉は永禄十二年より始まってる。元亀元年正月に起請文がだされ同盟関係となった。この時点で「信長・謙信が入魂になる」「織田と武田の縁辺を断つ」事が確認され信玄が共通の敵と明確に記されている(越三同盟)
両者は元亀二年に堂々と同盟関係を公表する。使者の往来や贈答品が確認されている(武田が同盟を確認したのは遅くてもこの時)おそらく信長が越三同盟を黙認した事でもう一段階作戦を進める事になったのだろう 越三同盟は信長の加入を前提として戦略が決定している。織田と武田は永禄八年に縁辺を決定していたのでこれはかなり難しかったはず。しかし家康と謙信は可能と踏んでいた。信玄が家康を軽んじていた事を逆手に取る作戦にでた(徳川の史料では信玄は家康を若輩者と侮っていたという)
一番の展開は信玄が徳川領を攻撃することでそうなれば信長の面子は丸潰れ、両者は敵対する。問題は信玄が何もしなかった場合でこうなると家康か謙信が信玄を挑発しないといけなくなる。それが信長の耳に入れば何が起こるかわからない
謙信は信玄の西上作戦を「何もしなければ良いのに蜂の巣に手を突っ込んだ」と信玄を嘲笑うが当然の反応と言える >>900
その三月以降は上杉と徳川に交渉の跡はない
それどころか元亀二年十二月頃には上杉が武田に同盟申請しているし、甲相再同盟で謙信も大きく方向転換している
この時期、謙信は武田北条に加えて越中で一向一揆が暴れていて危機的な状況
ただでさえ越相同盟前から両者相手に不利だったのに、東方の衆の信頼まで大きく失ってしまった(だから氏政を激しく憎んでる)
だから将軍の意向に従い和睦に了承していた
その後、元亀三年十月に信玄が徳川に侵略してようやく信長が慌てて織田徳川上杉間の連携を始めた
謙信が裏を引いていた?ないな
自分が攻められなくて良かった、棚ぼたでラッキーというのが本音だろう 実は信玄が謙信との和睦を蹴ったと言う事が信玄の考えをあらわしている。考えてみよう、何故謙信と和睦しないのか?既に信玄は織田徳川との戦争を決意していたとしても謙信と和睦すれば背後に気を払う必要が無くなる。本来拒否する理由が無い
だが「謙信と家康が反信玄で同盟している」事を踏まえれば当然の話になる。家康と謙信は同盟関係にあり信玄に敵対する姿勢を捨てていない。謙信の和睦交渉は時間稼ぎか「将軍さまには逆らってない」というポーズかで信玄が徳川領に攻め込めば同盟を口実に攻め込んでくるのは明らか
信玄からすると余りに馬鹿馬鹿しい、しかしこれを使って外交戦に持ち込む事も出来なかった。ある意味では詰んでいた >>905
史料も情勢も知らないからそんな出鱈目な妄想になる
信玄が断ったのは北条と同盟したからだよ
北条は上杉と同盟破棄してまで武田と同盟したわけだが、当然武田との同盟の条件に西上野除く関東は北条のものとするという規約がある 謙信からしても本気で信玄と和睦しようとは思ってない。信玄が謙信と和睦する為には北条と手切の手立てが必要でそれ無しに和睦が成立するなど有り得ない。それでも交渉をする理由は二つ
一つは越甲和与が信長と将軍の仲介なのでこれを無碍にすると信玄の思う壺というもの
二つめは信玄がこれを受けるか拒否するかで自分達の離間計が成功してるか否かがわかるから
仮に信玄が信長を信じていたらこの和睦に乗ってくる。逆に信長に不信感を抱いていれば和睦を拒否してくる
結果的に信玄は和睦を拒否、これをもって謙信と家康は勝利を確信したということ。唯一何も知らぬは信長で彼には信玄が突然裏切って攻撃してきたように見えた。ま、何と言おうが殴りかかった方が悪いんだからどうしようもないが >>907
ほら、まだ史料知らないから出鱈目書いてる
謙信が信玄に同盟を結ぼうとしたのは、越相同盟破棄後、甲相再同盟をまだ知らなかったから(元亀二年十二月北条高広宛書状)、先に武田と同盟結ぼうとした
その書状の内容からして北条を共に攻撃しようとする同盟であるのが濃厚 >>908
それはあり得ない
元亀二年十一月北条高広宛上杉謙信書状で謙信は「北条と武田が攻めてきても我々が滅びる事はあり得ない」と送っておりつまり北条が手切の手立てに及んだのは武田と結ぶ為と認識しているからである >>909
知らないなら口出すなよ
「相越運くらべに候」と北条と上杉のどちらが武田と同盟できるかという認識が謙信にあり、甲相再同盟の噂は謙信の耳に入っていたけど確認まではできていない
何せ由良ですら翌年まで知らなかったのだから
元亀二年十二月の北条高広宛書状だと「甲相は入魂」だから「甲越相三和以外はあり得ない」と念を押されている 跡部は内藤と談合した結果、上杉からの申し入れである武田との同盟は信玄や勝頼に
知らせるまでもないのでそのまま捨て置いたと言ってるから取り付く島もない感じよね ちなみに十二月の北条高広宛上杉謙信書状は天正二年との説もある。何方が正しいのか
まず元亀二年とすればこれは謙信は武田とも北条とも和睦するつもりが無い事を意味している。当時北条は上杉を蹴って武田と同盟しておりこの状況で上杉が武田と同盟する事は不可能だから。この和睦はまるで無意味になる。謙信が北条と敵対している以上武田は北条を裏切って上杉と組むか上杉を裏切って北条と組むかを選ぶ羽目になる >>912
元亀二年十二月北条高広宛は跡部勝資書状だし >>912
横からだけど妄想くんまた間違ってるよ
元亀2年11月は北条高広宛上杉謙信書状
元亀2年12月は北条高広・景広宛跡部勝資書状
12月のものは謙信書状じゃない 誤読して妄想するならまだしも、読みもしないで妄想するとは腹筋ニ候 十一月十一日北条高広宛上杉謙信書状だけど
「小田原者信玄心懸候者、明日縦身之前へ、信玄及手切候共、先越・甲令無事、相・豆ヲ信玄可撃候条、爰者相・越運くらべニ候」 これをそのまま訳すると
「小田原(北条氏政)は大分信玄を信頼しているようですが、もし明日信玄が手切を宣告しまず越(上杉)を攻撃し、仮に甲(武田)が無傷なら信玄は相模・伊豆を侵略するでしょう。こうなれば上杉と北条は運試しをしているようなものになります」
ということじゃないの?つまり謙信は氏政が越相同盟を切ったのは武田と同盟する為、もしくは既に同盟締結と思ってる。そして「信玄は利を見れば裏切るやつ」と認識した上で「上杉が弱ったら北条を、北条が弱ったら上杉を攻撃する(上杉と北条は運くらべをしてるようなもの)」と予測してる。そんな奴を頼って同盟してるんだから氏政は「馬鹿者」という結論を導いてるのでは?実際信玄が今川にした事を見れば謙信の主張はかなり正確だと言える 「先越甲令無事」をそんな訳するとは…
内容がまるっきり通説と違う
誤読の本領発揮ということか >>918
「無事」って知ってるか?
扱いも知らないし、北政所は秀吉の愛妾という国語力の人間になにいっても無駄か 漢文が分からないなら分からないで恥ずかしくないんだけど、間違い方も論外で妄想だけで読んでしまったとしか思えない酷い訳 >>919
どう違うのか言えないなら黙っていたほうがいいのでは? これ訳してみて欲しいわ
(慶長3年)9月5日付加藤清正宛四大老連署状
「御無事之様子、朝鮮王子相越候へハ尤候、不相越候共、御調物ニて可被相究候」
・(慶長20年)3月29日付伊達定宗宛伊達政宗書状
「今度大坂表御無事ニ相済候へ共、去年ゟ被抱置候牢人以下一人も不被相散、其上種々弓矢之用意」 >>922
教えてやってもいいけど、君は礼の一つもしないし反省もしないだろ?
教えたら二度と顔出さないと約束できるか? 「信玄及手切候共」とあるから謙信は既に武田と北条が同盟していると知っていたことになる。おそらくは氏政から送られた手切之一札に書いてあったんだろうが。そもそもただ北条が同盟を解消するだけなら謙信は氏政を説得するだろうしそれをしてないということはそういうこと >>925
違う
「信玄とは手切になったけれども」(前年元亀元年10月のこと)、の意味 >>924
もしかしてだけど「上杉と武田が仲良くしてたら信玄は相模を攻撃するぞ」なんて読んでないよね?それはあり得ない訳だからまさかとは思うが
流石に信玄と謙信を馬鹿にし過ぎだろう >>928
もしかしてもクソもない
「甲相同盟の前に越甲を和睦させれば信玄は相模伊豆を撃つだろう」くらいにしか読めん
どこの本にもそう書いてある しかもこの書状には「謙信が武田と同盟する」なんて一言も出ていない。単なる想像なのだがそこに根拠が見当たらない
むしろ逆で謙信は武田と北条が一緒に攻撃してきても問題無いと書いてる訳で既に謙信にとって北条が完全に敵対、つまり信玄に通じていると判断していたことになるんじゃないか >>927
まず信玄と謙信が手切になったのは十月じゃない、というのは放っておいてもそれは無いんじゃないか?「縦身」たといってのは仮定条件に対応するから「信玄及手切候」はまだ起きてないはず。過去の事なら「雖」を使っているのでは?ただ文法を気にして手紙書く奴居ないとしても「無事」から「同盟」を導くのは強引では?せめて「入魂」とかにしとくべきでは? >>918
もはや笑える翻訳だな
どんだけ信玄が強いんだよ 平山優は謙信が氏政の甲相同盟を知ったのは十一月の事だったとしまた『上越市史』でも「武田に寝返った氏政を非難」と判じている。これが正しい理解だろう。そうなると「先に武田と同盟」云々は前提からおかしい誤訳という事になる。実際そうした翻訳は寡聞にして聞かない
流れを整理すると謙信と氏康は反信玄で同盟を行った。ところが氏康が死ぬと後継者氏政は氏康の遺命に反して信玄と同盟してしまう。謙信は氏政を説得していない事から氏政と信玄の交渉は水面下で行われていたらしい
こうなると謙信は信玄と和睦する事が出来ない。氏政が同盟出来たのは前任者が死んだからで謙信が使いたい手段では無い。必然的に謙信は信玄・氏政と戦争することになる。 >>933
惣無事令知ってるなら尚のことおかしいと思うのでは?惣無事令ってのは「大名間の私闘を禁止する」法律で「全大名が同盟する」ものじゃないよ
惣無事令の「無事」で理解するなら「上杉と武田が戦わなかったら」ということで別に同盟云々は関係ない >>936
戦国大名の「外交」 丸島和洋
これにそのあたりの考察が書かれてるから読んでみな
君のは全部的外れ >>937
ここでいう「無事」は和睦のこと
翌月十二月の跡部勝資書状で北条高広を通じて上杉が武田に同盟持ちかけたことが分かる 無事ってのは「戦の無い状態」って事だろうから
矛盾してはいないな。
和睦も「戦の無い状態」に移行するための行為だし。 謙信が十一月書状で指摘しているのは「(氏政は)信玄を随分信頼しているが上杉が武田を攻撃できなかったら信玄はあっという間に裏切って攻めてくるぞ」ということでどっちが先に同盟という話ではないね。そもそも北条が既に信玄と同盟している事が明らかなんだから前提から誤り。
だから参越同盟が重要になる。謙信は信玄とも氏政とも同盟は不可能と判断した。こいつらがいつ連合して襲ってくるかわからない。そこで家康と連携して信長を味方にする事に注力した。武田が織田徳川と戦争状態になれば信玄は謙信と戦争する余裕を喪う。上手く行った武田が滅亡すれば残るのは北条のみになる。 >>939
惣無事令を見ればわかるが「無事」とは「戦争状態に無い」ことで和睦や同盟は誤訳。極端な話上杉が北条武田にタコられて戦闘不能状態に陥っても「無事」と言える 越甲令無事だから越後と甲府が和睦としか読めません
越相運比べとは何か言ってみな?
ちなみに938の本には当然「先に越後と甲府が和睦すれば信玄は相模伊豆を攻めるだろう、越後と相模がどちらが先に同盟できるか運比べ」の大意
上杉謙信関連の本も同様
翌月の書状で更に実際に上杉が武田に同盟持ちかけた証拠もある 戦国古文書用語辞典(東京堂出版)
ぶじ【無事】
和睦すること。講話。
・「於子細者可御心易候、仍爰元無事裁許之段、其听候歟」(東京大学史料編纂所所蔵文書)
・「就甲越無事儀、去々月相副使僧智光院申遣候」(永禄12年4月7日付上杉輝虎宛足利義昭御内書) 無事も知らない妄想くんじゃ読めないかな
(元亀2年)12月17日付北条高広・景広宛跡部勝資書状
不存寄候処、先日者御札珎重候、仍可有御密談之旨候条、雨宮存哲可遣之趣蒙仰候間、任御作意、内藤修理亮致談合進之候、
然ニ以三ケ条之御書付、承通具令得其意候、但彼修理者、去比於殖野陣相互被仰究候筋目ニ不相替候、
然則信玄・勝頼ニ不及申候間、黙止之候、惣別当時甲相入魂無二被申合上者、三和一統之外難成就候、
畢竟此所不可過御分別候、委曲金井淡路守可申達候、恐々謹言、 >>947
たぶん彼は翻刻でも「者」を「もの」と読むレベルだろ
崩し字を読めとまでは言わないが、最低限の学識もないのに研究者に意味のないケチをつける
しかもだ、その研究者が論文や著書で書いていることすら誤読するんだよな
平易な現代日本文でも
もうね、終わってるよ >>918
この訳、マジで笑える
どこをどうやったらこういう訳になるのか
しかもその訳すら日本語が不自由なのか何言いたいのか分からない
運比べとは何の運比べなのか? >>944
当たり前だけど「無事」は「和睦」を意味しません。考えてみ?平山優筆頭にこの書状を書いてる時点で謙信は北条と武田が同盟関係にあると察知してる。つまりもう北条に先を取られてる
謙信が言っているのは「北条と武田が同盟しても信玄はそんなもの明日にでも反故にするしその時上杉が武田と戦わなかったら攻撃されるのは北条だぞ」ということ。上杉が攻撃されるか北条が攻撃されるかは謙信にもわからない正に「運くらべ」になる 縦身之前へ、信玄及手切候
「自分(身=謙信)はこの前(之前)、信玄と手切れになったが、」
つまり信玄と北条が手切なんて言ってないのでは? >>951
平山優は「心懸」で小田原と武田が接近していることを(謙信が)察知していたとみているだけでは?
その後の「先越甲令無事」の先にとは「甲相」より先としか読めない
事実、甲相両家正式に同盟を家中に公表したのはこの書状の翌月12月に入ってからである もし北条が単に同盟を離脱して個別に武田と戦うというだけなら謙信は氏政を説得すりゃいい
それを「北条と武田が攻めてきても負けない」「氏政は大馬鹿者」と言ってるから明らかに北条と武田が同盟してると勘付いてるし実際それ以外に北条が越相同盟を切る理由が無い
謙信としては反武田の為に同盟してそれなりに助力もしたのに氏康が死んだ途端武田に寝返ってる訳でそりゃ激怒もする。しかもこの状況で武田と和睦するなんて事もあり得ないんだからそりゃ家康と連携して信玄を追い込むよ >>954
誤読の指摘をことごとく無視して妄想長文は良くないな >>888
優れた洞察だと思う
歴史家でもこういう見解は見た覚えがない
5CH発は5CH発として出所は明らかでないと 5CHのパクって独自の見解みたいなことは宜しくない 今まで反武田同盟組んで信玄とやり合ってたのに北条が降りたから俺も降りるわが通用する訳ない 先代が大勢力にケンカ売ったまま勝手に死んだ上杉と武田比べると天運としかいいようがない 信玄はポストを金で買ったとはいえ大僧正を名乗ってますから「グル」と呼ぶべきでしょうか? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。