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第二次家康討伐が行われていたら?
0071人間七七四年
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2024/05/09(木) 04:43:15.16ID:aNehJ3el
>>70
単純に徳川のマネしたかったんじゃね
一戦して簡単には倒せないと秀吉に思わせて領土維持
状況が全然違うけど
0072!donguri
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2024/05/16(木) 22:46:23.77ID:5TanrRXU
一応服従の姿勢は取ってたんだけど上野問題で秀吉が裁定することになり北条の言い分が認められなくてヘソ曲げてしまった
でもこれは秀吉が正しい
天正壬午の乱にて徳川は自力で甲信を切り取ったし織田政権の許可を取って甲信鎮撫の軍勢を出したが北条は信長死後滝川に味方すると言っときながら裏で大軍集め速攻で裏切り織田政権をも裏切って織田領に攻め込んだ
で、続けて上杉徳川と戦い上杉にも勝て和睦して南下して徳川に負けて400キロの兵站も徳川のゲリラ活動によりズタボロにされ身動き取れなくなり飢えて戦うこともできず背後で佐竹が動き出し織田政権に土下座して仲介してもらい和睦して撤退
こんなもん領土主張しても蹴られるのは当たり前のこと
氏政が無能すぎた
弱小真田に舐められてたまるかの意地で滅亡した無能
0073!donguri
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2024/05/16(木) 22:53:37.12ID:5TanrRXU
そもそも織田のものだった上野を火事場泥棒しといて領有権主張てのがそもそも駄目だし
敗北して上野南半分しか取れなかったのに真田の分寄こせなんて通るわけがない
自力で勝ち取ったものならまだしもこいつは負けて切り取れなかった
んな馬鹿な話があるかーだったろうな秀吉からしたら
ちなみに北条は信長の武田征伐でも織田の快進撃を最後の方まで信じず軍勢を出さず勝ちが確定してからようやく軍勢出して火事場泥棒して信長に怒られ土地全部返せと言われしぶしぶ従ってる
0074人間七七四年
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2024/05/17(金) 08:39:25.52ID:6IK+apl5
>>69
肝心の家康本人が秀吉に従う気がなかったからなあ
地震がなかったら秀吉も母親と妹を差し出すまで下手に出ないだろう
0075人間七七四年
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2024/05/17(金) 11:24:10.54ID:G0e7K6ee
>>71
北条自身がそう言ってるしな
徳川には母親と妹を人質に渡して安全を保証した上で上洛を要請したのに
なんで我々にはそうやらないんだと
徳川の時はまだ秀吉も周囲が敵だらけで無駄にあらそいたくないという状況であったけど
北条の時は既に関東東北以外は全て臣下に組み込んでいるし
関東東北だって北条と伊達以外はほぼ恭順していたからな
この状況で徳川と同じ待遇が受けられる訳が無い
氏政の状況の読めなさは異常
0076人間七七四年
垢版 |
2024/05/19(日) 16:27:08.59ID:R9MgfZ0Z
秀吉の第二次家康討伐が地震で中止されていたら:歴史考察

もし天正地震が起こらず、秀吉が第二次家康討伐に出陣していたら、歴史はどう変わっていたのか? 興味深い「歴史IF」ですね。最新の研究に基づき、考察を進めていきましょう。

家康の劣勢と戦略

まず、地震がなかった場合の家康の状況を分析してみましょう。史料によると、家康は秀吉の圧倒的な兵力に備え、いくつかの不利な状況に直面していました。

兵力の差: 秀吉軍は10万人を超える兵力を集結させていたのに対し、家康軍は数万程度と推定されています。
地政学的劣勢: 家康は尾張・三河という東海地方に拠点を置いていましたが、秀吉は近畿・中国地方を基盤とし、北陸や奥羽にも勢力を伸ばしていました。補給線や兵站面で不利だったと言えます。
同盟関係の不安定さ: 家康は北陸の佐々成政や越後の上杉景勝らと同盟を結んでいましたが、秀吉の脅威に屈服する可能性も高かったのです。

こうした状況下で、家康が勝利するためには、戦略的な優位性を確立する必要がありました。具体的には、以下の点が考えられます。

持久戦への持ち込み: 家康軍は城郭戦やゲリラ戦に優れており、長期間にわたって秀吉軍を消耗させる戦術が有効だった可能性があります。
外交工作: 家康は秀吉陣営の武将と密通したり、第三勢力を味方につけたりすることで、内部的な瓦解を狙ったかもしれません。
奇襲戦: 家康は織田信雄や徳川秀忠ら精鋭部隊による奇襲戦で、秀吉軍の指揮系統を混乱させることも考えられたでしょう。

家康の勝利の可能性

地震がなかった場合、家康がこれらの戦略を駆使し、秀吉軍を撃退できた可能性は十分にあったと考えられます。家康は過去にも織田信長や武田信玄といった強敵を相手に勝利を収めた経験があります。

しかし、家康が勝利しても、天下統一への道のりは険しいものであったでしょう。秀吉は依然として強大な権力を持っていましたし、他の有力武将たちも虎視眈々とうかがっていたからです。

西国の情勢

一方、西国では大友宗麟が秀吉と対立していました。もし家康が秀吉と長期戦を繰り広げていた場合、大友宗麟は反旗を翻す可能性が高くなります。そうなれば、日本全国を巻き込む大規模な戦争に発展する可能性もあったでしょう。

結論

天正地震が第二次家康討伐に与えた影響は非常に大きかったと言えます。もし地震がなければ、歴史は大きく変わっていた可能性が高いでしょう。家康が勝利していたとしても、天下統一への道のりは簡単ではなく、西国では新たな戦乱が勃発していたかもしれません。

最新の研究

近年、第二次家康討伐に関する研究は進展しており、従来の説とは異なる見解も提示されています。例えば、家康と秀吉の間では本格的な戦闘は想定されておらず、外交交渉による解決を目指していたという説もあります。
0077人間七七四年
垢版 |
2024/05/22(水) 05:38:41.71ID:FLtK5cpd
武田征伐のように秀吉軍が南信濃、三河、遠江の多方面から徳川領に侵攻し
武田同様瓦解し終了かと。濃尾は街道整備も進んでいたから兵站も特に問題はなく
真田と上杉の押さえとして甲信の兵も東海には移動できんしな
0078人間七七四年
垢版 |
2024/05/22(水) 07:39:36.55ID:ERiC6q5s
小牧長久手で徳川はかなり無理して戦ったから国力が低下していて更に真田との戦いでも敗北し苦しい状況だったからな
一方秀吉は畿内周辺の敵対勢力を掃討し四国と北陸も平定して毛利と上杉も豊臣方として行動し
臣従させる交渉段階に入っていたので徳川に戦力を集中できる状態が完成していた
徳川は北条と同盟を結んでいたけどあんな連中は何の役にも立たないからな
それにこの頃になると東関東衆も秀吉が次の天下人であると認めて密に連絡を取り合っていたから
秀吉の徳川討伐に呼応して北条を牽制する事は間違いなく、北条はいつも通りに睨み合って身動きができなくなる
要するに徳川に勝算はない
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