上杉景勝は無能か?
御館の乱での戦後処理を山崎秀仙の意見を取り入れ安田顕元の自害や新発田氏の反乱事件の遠因になったり、その後も事柄のほとんどを直江兼続に丸投げしこちらも功罪両方あり完全によかったとは評価しがたい
わかりやすいところだとドラマの話で恐縮なのだが
真田丸でのいい格好をしたがるがへたれるというスタイルが個人的に納得いく
皆さんはどう思います? 御館の乱は景勝景虎どちらも起こす気無くて周辺地域が一生懸命起こした乱だから景勝だけの責任ってのはね…
とりあえず主謀者の1人(憲政)を始末してるけどそれだけで収まらなくなってるし >>293
三河一向一揆は追い詰められたと言うほどじゃないし半年ほどでほぼ完勝で終結させて
三方ヶ原も主力は無事だったしなあ でも織田が領土拡大くらいしか考えていない普通の大名だったら三河一向一揆は致命傷になっていたな
あのゴタゴタに攻め込まれていたら終わりだったし
三方ヶ原もタイミング良く信玄が死ななかったら徳川は終わりだったわ
神憑り的な幸運に恵まれただけで家康本人的には大ポカやらかしてる 信玄は死因は癌か結核なんで三方ヶ原時点で間もなく死ぬことは確定
「いつ死ぬか分かって」ようがいまいが、病が進行すれば人間は死ぬ
というか景勝スレだからあんま言いたくないが296は知識いい加減過ぎ 景勝は謙信生前から後継者と決められていて問題なく跡を継いだ
しかし家臣統制に失敗し御館の乱が起きた
今の定説はこれでいいのかな >>299
お前が常識なさすぎだよ
現代ですら明確にいつ死ぬかなんて分からないのに戦国時代にそんなの分かる訳ない
そもそも直ぐに死ぬと知っていたら国運を賭けて戦なんて始める訳がない 元気でピンピンしていた信玄がいきなり死んだのなら296の意見は間違いじゃない
風邪とかインフルエンザとかなら分からなくもないが え?ガチの馬鹿なの?
癌が悪化したら人間は死にます、って話が理解できないの? まあ死因かもしれないとされてる結核とか胃がんは昨日まで何ともなかったのにいきなりという病気じゃないからな
西上作戦決行前から何らかの兆候とか有ったりしたんじゃ? いきなりという意味では寄生虫が死因という方がしっくり来る。
割と若く癌になった場合の症状として急激な体重減少があるがそれは見当たらないのは不自然過ぎる まあこんなところか
統率B76 御館の乱に勝利し新発田などの裏切りに合いつつ上杉家をまとめた
武勇C67 上杉の強兵を率いていた
知謀D53 凡庸
政治B75 五大老に選ばれた 天正壬午の乱の立ち回り見ると無能ではないんだよな
新発田の扱いはアレとして 勝頼の欲やコンプレックスを上手く手懐けて北条との同盟破棄させたのは有能 >>308
どっちかて言うと武勇・統率方面の実績乏しい
御館勝てたのは多数派工作、越中では柴田にやり込められ佐々単独にも勝てず、新発田の反乱には何年も苦戦、小田原征伐は兵力的に勝って当然の戦、慶長出羽合戦では寡兵の最上相手に損害だし勝ちきれず
軍事的には毎度追い込まれ政治工作や外交で挽回して生き残ってる印象さえある >>312
まあ贔屓目に見てるから
これより下だと思うのは居てもおかしくはない 御館の乱の際に武田に東上野を割譲するあたりセンスはいいだろ
北条と武田を仲違いさせた上に武田を体良く北条からの防波堤に仕立て上げるという 花の慶次だったっけか
なかなか佐渡を平定できなくて
秀吉とその腰巾着の前田利家に
「上杉殿は佐渡はいらんのかえ〜」
と囃し立てられてるシーンが印象に残ってる。 俺も実は政治的なセンスで生き残ったタイプに見える
光栄のゲーム的な内政力とかとは別の意味で
いかにも徹底抗戦で滅亡も辞さずみたいなポーズ見せてても
ここぞて時が来たら一転恭順姿勢で生き残るという 本多正信の息子からかたいみなってさすがに馬鹿みたい >>314
確か勝頼も初期に深志城を割譲したが
冬になれば越後の軍勢来れないから完全な人質
狸と狐の化かし合い でも関ヶ原は政治外交的に大失態だしな
何であそこで家康と喧嘩し始めたのか意味不明 あれは徳川に喧嘩売るためにあれこれしたというより
家中統制がうまくいかず残留組を出してしまった
&目先の収穫を諦めさせる事ができなかった
(またはもみ消し期待した石田が失脚してしまった)
それが当たり前のように後に入った堀家から訴えられ
当たり前のように問題視され征伐受けた
その意味でいわゆる光栄的な意味の内政は低い 関ケ原と同時期の同じ東北地方のそれなりの規模の大名と比較すると
最上義光>南部利直>「上杉景勝」>秋田実季>相馬義胤。
こんな感じかな。伊達政宗は規格外過ぎて語れん。 秋田というか安東さんて全然情報無いからわからんのよね 安東実季からの教訓は報連相を徹底しましょうということだな >>299
アホかw
癌とか結核なんて病気が分かったのは300年も後の話だわ >>324
>>303
死因について異議ありって話なら分からなくもないが REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 結核は労咳と呼ばれててあったんじゃなかったっけ?
癌も岩と言われてたそうな >>321
景勝より微妙なエピソードしかない南部利直のほうが上と思う根拠は? 景勝は大減封されても軍事力を維持しそれが後に藩政の足を引っ張った。
南部利直は他藩に先駆けて今風に言う軍縮路線に転換した。
乱世が終わったことを逸早く見抜いた先見性で上とした。 いや、会津120万石から米沢30万石になった時は大半の家臣はリストラしてるよ
越後以来の家臣はクビに出来ずに仕方なく連れて行っただけで
それでも米沢藩の藩士数は約7000家弱
30万石の大名としてはごく一般的な数なので結構首切りはした 7000家でなく7000騎だろ
これに4〜5人の足軽が付与されるから兵力は40000人くらいのまま
当然そのまま維持できないので首切りはせず家臣の知行を半分以下とし対応した >>331
いや、7000家だよ
分限帳によると士分が約3500家で足軽が約3300家
30万石としてはごく一般的な家臣数
でも綱憲の時代に15万石に減ったから、それからはかなりキツかっただろう 直江兼続と上杉景勝は家臣を放出せずそれまで蓄えていた財を投じた新田開発と
3分の1への減封で上杉家を立て直したされてるのは嘘だったのか? 嘘かどうかは分からないけど他藩と比べて特に多くはないという事だけは間違いない
元々越後の国力から見るに会津へ連れてきた家臣団が7000家程度と見るのは妥当な数字であるし
それならリストラしていないと言うのは事実だろう 分限帳には入らない移封後に配下に組み入れた出羽衆と会津衆の扶持を
賄うため越後から来た上士達の知行を減らしたんだろ
北には家康と懇ろの最上義光、東には領土欲むき出しの伊達政宗がいる状況で
家臣のリストラは上杉家の安全保障上できることじゃない 分限帳に載ってないのは直臣ではないから上杉家の知ったことではない
陪臣はあくまで家臣が自分の収入内から俸禄を払って雇う者なので大名家から何かを与えたりはしない
上杉家が家臣として残した家は7000弱である事は間違いない 現代から見れば江戸幕府も二百数十年続くの知ってるから断定的に内情を言えるけど当時の上杉家は舵取りしんどいと思うぞ
平和確定なら流石にリストラしてると思う リストラは難しいよ
やりたくても出来るものではない
どこの大名もリストラできなくて苦しんでいる
それを成し得た人物が名君だの名宰相だの言われる
もし景勝が全くリストラ出来なかったとすると相当な無能だったという事だ
実際は関ヶ原以後にちゃんと整理したようだけど、さすがに越後以来の古参の首は切れなかったぽいな
減封という絶好の口実を得た時に人員整理をしっかり出来なかった事が景勝の一番の失態だろう 佐渡を領有していた頃のゴールドと謙信が財テクで溜め込んでいた金が
かなり残っていたから、景勝存命時はリストラの必要性がそこまでなかった。 関ヶ原の時点で推計60万両あったらしいな。
息子の代には15万両まで減ったようだが。 本能寺の直前くらいに佐竹氏に送った手紙がすごく好き
越後一国で六十余州の軍勢を迎え撃つなんて自分は幸せものだ、というような内容
最後に名門の佐竹は織田相手にどうするのかな?みたいなことを言ってるのも含めて こいつがイカれた挙兵しなければ徳川の世にはならなかったし俺らも別の未来が待ってただろうから有能 >>343
あれって遠回しに佐竹に助けを求めている手紙なんだろうけど
素直に助けてくれと言えないあたり虚栄心の強い男だったんだろうなと思う
関ヶ原でも利長は徳川に恭順の姿勢を見せて事無きを得たけど景勝は普通に戦になってしまったし
政治より自分の体面を気にする人物であったのだろう >>345
佐竹は織田とも結んでいるからどのみち上杉を助けられるような状況では無いのでは?
あの時点では景勝はたぶん滅亡覚悟していたと思うけど
そして佐竹に対しては清和源氏の末裔でありながら織田に易々と屈するつもりなのかな、という嫌みを込めたような意味なのかなと >>346
要は助けてくれって事でしょ
当時は喧嘩別れ状態だったから言い難かったのだろうけど
佐竹は勝頼の時も助命活動をしていたし素直に頼めば動いてはくれたろうに景勝は性格悪いね だって正直滅亡前夜みたいなもんだし…
佐竹の嘆願を聞く織田じゃなかったろうからもうせいぜい気を吐くしか出来なかったでしょ 真田太平記の景勝と昌幸の対面動画140万いってる
見たことない人けっこういるんだろうね
昌幸といえば丹波 景勝といえばこの場面思い出す 戦争では無能だが平時では有能な大名ってイメージ
直江兼続も同じく軍事では無能、平時では外交も内政も有能って感じがして似た主従だと思う 秀吉が直江を欲しがったという話だから全くの無能ではないだろ 評価できる部分とそれを帳消しにする失態もあって
最終的には小さいポイントしか残らない感じだな
武者振りがいいとか 圧倒的に不利だったお家争いに勝利した手腕はなかなかだと思うけど
それ以後は全く持ってぱっとしない
総じて凡庸という評価にならざるを得ない 御館の所だけえらく際立ってるんだよね
後はそんなに凄くない
秀吉と手を組んだのも他に組める勢力がなかっただけだし 政治能力にも色々あって成果はないのに対面保つ能力とか
いかにも徹底抗戦しそうなことを吹聴しといて一旦土下座外交できる柔軟さとか
その割に強面な印象を保てる宣伝力とかは凄い
バカにしてると思う人もいるかもだが
実際それで生き残ってるし家と武門の誉れを守り通すのって
当時の武家社会の中では何より大事なので立派な能力だよ イメージは本人が何かしたというより後世の書物の影響だけどな 戦いもせず完全降伏したのに生き残れたのは凄い
その上バカにされることもないって大したものだ 天下分け目の戦いという自覚があれば、東軍を引き付けて動けなくするよな。佐竹と連携とることも可能だ。それができなかったのは凡庸なんだろうね。
少なくとも英雄の素地がない。
西軍があそこまでグダったのは東軍のあまりに早い返しにあったから。 >>357
その後世の書物が何故そんなイメージで書いたのか
史料的にも本能寺前も関ヶ原前も滅ぼうと一戦の覚悟を示してるが
その後一転土下座外交を展開してるんだよ
世上馬鹿にされてもおかしくない
でもそれがコンセンサスにならずに面目を保ててたってことでしょ >>360
そりゃ軍記物語や家譜類は関係者が家のイメージアップの為に書くものだからな
基本的に自分の家に都合の良いように脚色されまくっている
だから他所の家の関係者が書いた書物を見ると大概は悪く書かれている >>359
確かに本当に石田と示し合わせていたのだとしたら西軍の敗因は景勝にあるな
一ヶ月でも二ヶ月でも家康を関東に引き付けておければ西軍はかなり有利になった事は間違いないけど
全く圧力にならずに東軍を西に向かわせてしまったのは痛すぎる
それは伊達や佐竹の取り込めなかった上杉の外交的失敗が最大の原因だ
自分の考えでは秀忠の部隊が中山道をゆるゆる進んでいたのは関東へ直ぐに引き返せるように警戒の意味もあったのではないかと思うけど
それにしても上杉の押さえに残された秀康の部隊は外様の小大名の寄せ集めではっきり言って烏合の衆
上杉が南下してきたらとてもマトモに戦えるとは思えない
つまりそれだけ家康に脅威を与えられていない 景勝も書状で書いてるけど景勝の役割は家康が上洛したら関東を衝くことで徳川軍と決戦することじゃない。これは戦略上確かに有効なんだが反面上杉はどうしても後手に回る。そしてこの戦略は家康にバレバレだったので家康は密かに、軍勢を分けて上洛したので上杉は感知出来ず役目を果たせなかった 生きるか死ぬかなのにろくに情報収集しないなんて信じられないけど
戦や外交が下手な人間がなぜ下手なのかと言うと情報軽視するからなんだよな
目隠しして戦うようなものだから勝てる訳がないし、相手の情報がなければ何を考えているのか予想も出来ないから交渉も上手くいく訳がない
新発田と戦った時も情報不足から死ぬところだったけど関ヶ原でも結局情報不足から敗北した訳だわ 上杉領と徳川領はそもそも離れてるし
それでも息巻いてたのは佐竹と真田がいたから
だが佐竹は怪しまれて身動きとれなかったし
真田は信幸がまさかの裏切りで犬ほども役に立たなかった
それで上杉は西軍が伏見落とした辺りから情報を遮断されて西軍が虫の息ってのを知らなかったとみられてる その辺りも情報不足なんだよな
佐竹は隠居の義重と筆頭家老の義久、次弟の義広、更に与騎家臣衆がこぞって徳川派だから西軍につけるはずがない
そもそも会津は佐竹が取り込んでいた土地であって奪還は悲願であったから重臣達は上杉討伐は好機と思っていた
そういう事情も把握せずに義宣と三成が親密だから当然西軍につくだろうくらいの楽観的希望しか持っていなかったのだろうな 佐竹は徳川からの人質提出要求を拒絶、「手切れの次第」となり西軍に属してる。だから徳川も佐竹は最初から敵と認識して信頼なんかしてなかった。だから上杉の数少ない情報源が無くなった 佐竹は義久を大将に秀忠の部隊に合流させて東軍に属している
また、義広も赤館まで出陣して秀忠の指示を仰いでいる
家康も佐竹は西軍につかないと判断したから江戸を離れて西上した
だから戦後も徳川は目障りな佐竹をどうする事も出来なかった
幸い義久が急死した事で秀忠と義久の約定を有耶無耶に出来たから東北に追い払った
だから佐竹の転封は理由の提示がなかった 西軍での佐竹の役割は東軍のスパイ役。東軍に味方するつもりは無かった。徳川に人質を出さなかった事もこれを証明してる
徳川秀忠が真田攻めをした時上杉景勝は佐竹義宣に「秀忠が何故行軍してるのか教えて欲しい」と書状を送ってる。この事から佐竹軍が秀忠に協力したのはスパイだと分かってる
ところがそれは家康の作戦だった。秀忠が堂々大軍で行軍する中、家康は軍を少数に分けて上洛してる。佐竹には何も伝えられておらず当然景勝も掴めてない。家康は佐竹の内心を見抜いていて、むしろそれを利用した。佐竹を信じていたら家康も堂々行軍しただろうが 義宣が人質を出さなかったのは秀頼に人質を出しているのに徳川に人質を出すのは道理に合わないという理由から
正論すぎる正論
だから徳川も強要する事は出来なかった
実際、義宣は上方在住の家臣に秀頼様に忠義を示すようにと書状を次々と送って指示している
義宣はあくまで我々が忠義を尽くすべきは秀頼であって徳川でも石田でもないと主張している
こういうスタンスになったのには理由がある
家中は徳川に付くべきという意見で統一されていたが、秀頼に差し出している人質が石田に押さえられてしまった
義宣は人質を諦める事が出来ずに中立のような曖昧な態度にならざるを得なかった
だが本音では徳川につくべきであると考えていたから義重や義久に徳川方として行動させている
義久は江戸に人質も送っている
だから佐竹の国替えは関ヶ原を理由としていない
そもそも関ヶ原の処分は1年も前に終わっていた
佐竹は徳川に敵対する行動など一切していないし、そもそも敵対する理由もない
佐竹が西軍につくなんていうのは上杉側の希望的観測でしかない >>355
御館の乱の功労者もろとも粛清進めちゃったからねえ >>355
御館の乱の功労者もろとも粛清進めちゃったからねえ 佐竹義重が東軍ってのも怪しいのよね。東軍につくなら徳川に人質を送らないといけないのにそうした動きをみせてない。まぁ関ヶ原の際佐竹と上杉は同盟を結んでいるので当たり前なんだが
また浅野長政によって佐竹が取り潰されたとき石田三成のとりなしで秀吉に弁明に行ったのは義重
こいつも三成と繋がりがある 佐竹も一門と家老が徳川に人質を送っているよ
むしろ西軍としての動きは一切していない
人質が殺されない為と万が一の時に西軍から攻撃されないように水面下で二股外交をしていただけで
これは伊達とか他の大名も当然にやっている事
佐竹の事情に詳しくない作家が国替えされたから西軍だったのだろうという後付の理由でそう思い込んで書いているだけで
実際に関ヶ原当時の佐竹の動向を見ると東軍としての行動はしていても西軍としての行動は一切していない
そもそも上杉や真田攻めに出兵までしているのに西軍とするのは無理がありすぎる 徳川としては佐竹に手柄を立てられると困るから動かなければそれで良かったのだろうけど
徳川が上杉攻撃を要請すれば戦国時代にはなかった上杉対佐竹の戦いが実現したのにな
それは見てみたかった気がする 佐竹って徳川の情報上杉に売ってるからな。そもそも上杉と同盟しておいて西軍じゃありませんは厳し過ぎる そもそも同盟なんて結んでいないしな
上杉が勝手にそう言っていただけで
周り敵だらけでヤバいですなんて言う訳ないし嘘でも周りと密約結んでますと言うのは外交の常識 書状に残ってるんだから否定出来ないし
上杉と佐竹は同盟していてこれは西軍も確認してる。増田長盛が上杉と佐竹は一味と書状に書いてるから 上杉が外交を有利にするのにそう宣伝していただけで同盟をしていた根拠なんて何もない
一次資料から見て取れる佐竹は東軍方としての動きしかしていない
いくら言い張ってもそれが史実だから仕方ない 景勝が結城朝勝に佐竹との同盟を仲立したことを感謝する書状送ってるから宣伝とは無関係に同盟は成立してた事になる
佐竹の西軍での役割は上杉と共に家康上洛を阻む(家康が上洛したら関東を攻撃する)ことなんだがこれは家康に見破られていて佐竹軍を秀忠に預ける事でこれを無力化してる
また佐竹はどうも徳川に情報封鎖されていたらしく上杉も佐竹も西軍の最新情報が届いてない。完全に敵視されてた訳でまぁ家康の敵ではなかった そもそも豊臣政権での佐竹取次は石田三成なので当然両者は深い関わりがある。その為三成決起を聞いた義宣は行軍を勝手に停止して佐和山に使者を送って三成の指示を仰いでる。結果佐竹家は上杉家と同盟して三成の使者を引き合わせたりと様々な役目を担ってる
これらの動きが義宣一人のものなら戦後佐竹家から放逐されるはずだがそうした動きが無いから佐竹家全体として西軍に与してたんだろう。まぁ家康に通用しなかったのだが 佐竹は伊達などと同じスタンス
東軍側だけど西軍に攻められないように水面下で西軍と交渉していた
佐竹でも徳川と連絡を取り合って交渉していたのは佐竹義重、蘆名義広、佐竹義久、須田盛秀といった一門と重臣だけど
上杉と交渉していたのは結城朝勝や車斯忠といった外部の人間でどちらが主であったかは言うまでもない そういや佐竹の面白いところは西軍(三成)から参加を呼び掛けられたのではなく佐竹の方から西軍に参加すると名乗り出てるんだよね そもそも結城朝勝や車丹波は佐竹の家臣ですらないしな
朝勝は個人的に徳川に恨みがあったけど肝心の当主である宇都宮国綱は徳川方についていたから家中での居場所を失っていた
車も何度も佐竹家中でやらかして放逐された人物で流浪し居場所を失っていた
そんな連中を重要な外交で用いるのは不可解だし本当に義宣の意思が介在していたのかすら疑わしい
何せ上杉方の交渉には佐竹家臣が出てこない
いずれにせよ徳川が西軍として佐竹を処罰していない以上それが揺るぎない答えだわな 毛利だってちゃんと総大将として処罰していれば改易・輝元切腹にするしかなかったじゃん 佐竹は石田三成と相談した上で上杉と起請文を交わして同盟関係に入った。これを仲立したのが結城朝勝というのが実はこの同盟の重大さを表してる
結城朝勝の母、南呂院は佐竹義昭の娘であり佐竹義重とは兄弟である。南呂院は宇都宮家が危機に陥った時には佐竹義重の力添えを受けていたことがあり両者は親しい
つまり佐竹と上杉の同盟には佐竹義宣の他に佐竹義重の協力もあったことになる。仮に義重が本気で徳川を支えようとしたら結城朝勝は口を出すことすらできなかったであろう 毛利を改易しないほうが得だと判断した家康が優秀なんだよ 何回か書いたが国主個人の有能無能など歴史の大流の中ではノイズほどの意味も無い。
上杉景勝が上手く立ち回れなかったとするならばそこに至る経緯を構造的に考察しなければならない。
越後國という単位で考えるなら;
・上杉房定は享徳ノ乱よりも前に時代の先駆として「戦国大名」化を成し遂げた
・長尾為景は更にその越後上杉家さえ超克して「戦国」なる時代の社会運動を代表する下剋上の典型を提示した
・長尾顕景=上杉景勝の家督継承時点では既に政治的選択肢は極限されていた
こう考えると、
軽薄な人々の浅薄な目に景勝の政治的/軍事的行動が「無能」と映るような限定を与えてしまった要素が何なのか、
上記諸項の隙間に在ったものを想起すれば火を見るより明らかだろう。 景勝の時代って国主自身の有能無能が思いっきり影響あった時代なのでは
それにその3人よりは自由に裁量権も揮えたとんじゃないかな 常々感じていることだが、
自称「戦国史好き」の人々が越後國について上杉謙信、それも山内家督継承後のことにしか関心を持たない状況を歯痒く思う。
ゲームや漫画などの俗悪なメディアの悪影響だろうと見当は付くが。
実は上杉房定から長尾晴景に至る時代そ越後戦国史の真髄であって、
歴史のダイナミクスという観点からすれば謙信以後はむしろ平板な予定調和で興味に乏しい。
上杉景勝期の動向はそこまでの経緯の必然的結果でしかないことをもっと深く考えてもらいたいと切に願う。
>>391
いつの時代、どこの國であろうと国主たる者が自由に裁量を振るえたことなどない。
責任ある立場の者ほど、そして状況を正確に認識できる者ほど、時系列的因果律と同時代的構造の奴隷としてしか振る舞えない。
特に戦国時代を含む中世は「小氷期」と云う何者も抗えない絶対的規定によって強要された「檻」に政治も経済も軍事も拘束されていた。
その枠内の狭い選択肢の中で更に幅を狭めるような経緯を前代までに確定されてしまった地点に上杉景勝は在った。