上杉景勝は無能か?
浜松から上越の距離で軍事同盟なんて機能するか?
しかも武田に飛騨を押さえられてから連絡をとるにも
浜松から群上経由で日本海側に抜けなければならないのに 1570年10月というと信長の要請で近江に援軍出していると思うけど、
何でこんなタイミングで武田を刺激するようなことしたのかが謎。 あの頃の家康の強硬さって謎だよな
信玄と何があったのか、本当に遠州の行き違いだけなのか どこに謎があるんや
徳川の立場としては武田と戦うしかないやろ >>123
お前、1570年当時の武田領が甲斐信濃の大半や西上野西駿河北遠江まで及んでたのしらんのか。家康は三河遠江を武田に脅かされ謙信に北信濃方面から牽制してもらうのが負担も少し楽になるやろ。上越市は同じ新潟県内の長岡市や新潟市や新発田市より長野市の方が近いんやで。同じ頃、北条氏康も武田に三国同盟破られて駿河方面から脅かされたから北条から上杉に同盟もうしこんだろ。(あれは1569年やったけどな)武田領の範囲が広いから南の家康と北の謙信で挟みうちにして信玄を牽制した訳やな。 >>127
婚姻も人質もない口約束程度だろ。
流石に30年前の口約束のおかげでとり潰しを免れたってのは無理がある >>128
わしはあんさんが「浜松と上越の軍事同盟は成立するのか」という趣旨(間違えたらごめん)の文章が書いてあるから1570年のみの東海関東甲信越地方の戦国大名の勢力を説明しただけや。1570年の謙信と家康の同盟(対武田対策として)成立が30年後の関ヶ原の戦いにおける家康が上杉景勝の大名取り潰し免除(ただし石高は4分の1に減らされた)に繋がった。ともおもってもいないし、あんさんが関ヶ原の戦いの徳川と上杉の関係まで持ちだしたのは予想外だったわ。まあ、景勝スレなんでそこまで考えているかと思ったと解釈するのはわかるけど。お門違いですまんかったな。(笑)あんさんも研究頑張れやww 同時侵攻作戦みたいな緻密な計画は無理だが
「敵の敵は味方」式の外交関係は可能でしょう
「景勝が減封ですんだのは検診のおかげ」論は
多分1人だけしか主張してないけど
全く何の論拠もない空想でしかないと思う 実は上杉家家督は景勝で決まっていたのに、神余という外交官を処刑して新領主の威厳を示そうと余計なことを考えた結果、憲政、景虎、国人らの決起を促してしまった
景勝と景虎の争いの調整なり関与は北条がやるつもりだったのに、北条が常陸にかかりきりで、しかたなく勝頼をパシリに使った
→これが武田勝頼が不用意に関わる二重のきっかけになってしまう 跡目って普通に相手側だろ
それじゃなきゃ死んだ直後からあんな強引に動かんよ
あれってそこで奪い取らんとヤバいって事で計画でも立ててたんじゃないかぐらいの動きじゃん
正に奪う側の物 マジで運がいいだけだから
本能寺の変、関ヶ原の戦いと普通なら滅ぼされていたからな
しかも2回とも運よく回避だし関ヶ原の戦いに関しては自らきっかけを作るとか神懸かりすぎる
まあ先を読む力が全くなかったんだろうな えこ贔屓論功行賞で数年にも及ぶ反乱起こす
天正壬午の乱でも甲信取れるボーナスタイムのラッキーチャンスだったのに新発田ほっとけなくて撤退
味方だと信じてた蘆名はとっくに信長に臣従して上杉領内に攻め込み間近
会津転封時に越後の年貢取っていき後に入った堀に恨まれ上杉討伐の原因自分で作る
さらに年貢取れなくて困りきってる堀に金利上乗せで米貸付け恨み買う
大坂の陣でもえこ贔屓配置で危うく全軍崩壊の危機。
有能かこいつ?w >>68
>>79
上杉は部下に恵まれなかったイメージがある。
前田はその辺何重にも保険掛けてたから上手いわな >>138
大阪の陣での景勝のやらかしを詳しく知りたいのですが
ここで書き込むのが面倒なら元の資料教えて下さい
よろしくお願いします >>140
先陣に実戦経験豊富な将を配置せず家臣たちからもやめたほうがいいと言われたのに手柄立てさせたかったのか言うこと聞かず
そしたら案の定、先陣総崩れで危うく全軍崩壊の危機になった
二陣以降の水原、安田がパニックにならず水原鉄砲隊が12000の大軍が来ても逃げ出さず猛射浴びせ安田が側面周り込み脇腹ついてかろうじて助かった
これには家康、秀忠双方ニッコリ
景勝以外にもこのとき活躍した将を絶賛しま 景勝なんか似てると思ったら星野仙一だ
あいつも贔屓起用、温情采配でWBC情けない結果だした >>141
ありがとうございました
どうしてこういう悪い話は隠し気味で、交代断って陣地に居座ったとかいう微妙な話を美談みたいな扱いにするんでしょうかね これが長く続く乱世で実績立てさせて昇進、経験つませたいとかならまだわかる
それでも先陣はどうかと思うが
乱世もう終わりで経験積ませる必要もない
こんな大規模決戦で関ケ原で21歳の若造に先陣はね
謙信以来の将もいたのに
結局このときの戦傷で死んでるし
第二の直江兼続にしたかったんだろう
須田長義 享年37 逆だよ
戦乱の世は終わり太平の世が来るのに
いつまでも過去の戦功を誇る老臣に
デカい顔させとけない
これから藩政をとりしきる
若い側近に武功を立てさせるのは
家中統制の上では必要
逆言うと上杉家はその頃になっても
中央政権化に苦労してたし
景勝はそこでもうまくやれてない 上杉景勝のことは詳しく知らないから何とも云えないが、
このスレの書込を真に受けると武田勝頼や北條氏政が滅んで上杉景勝が生き残ったのが不条理に思えてくるな。
>>145
それで大敗したらどうするんだよアホ
案の定第一陣崩壊してるし
12000の大軍大挙して押し寄せて先陣崩壊してもパニックにならなかった謙信以来の水原、安田の働きと指揮系統崩壊せず逃げ出しもしなかった上杉兵の活躍なかったら普通に大敗してたぞ で、結局死んでるのが笑える
景勝は人を育てるのも下手だった
そういうのは自分より弱い相手にやることよ
こんな大規模合戦で戦慣れしたベテランたち差し置いて未熟なやつに先陣やらしたら駄目よ >>147
それが良い采配だったとは言ってないじゃん
144が乱世ならわかるというから
治世だからまだ妥当性のある判断だと
指摘しただけ
むしろ乱世なら目先の戦闘勝利を最優先
の方がより妥当性のある判断 悪い所ばかりだとなんなんでいいとこないのか?
小田原征伐の少し前に佐渡制圧と本庄繁長の功もあるけど庄内地方もぎ取ったことか? >>145
家中統制が上手くいってなかったのは同じ東北地方の伊達、安東、最上も同じこと。 >>150
普通に有能でしょここじゃ荒さがしに精を出されてるけど 殊更に義!義!って言っちゃうから、不快な感情を伴って疑問に思う人達が出てくるんだろうな >>153
北條氏綱を不快に思う人には会った覚えが無い。
氏綱と違って上杉景勝の「義」連呼は後世の粉飾も多々あるんだろうけどな。
何気に北条スレになってるんや。
最近の上杉スレは。
そんなに恨みでもあるのかいな
ww 言うほど北条スレ化してるか?
どうやったらそういう感性養えるのか教えて欲しい まあ、そんなムキになることないわな。
わしは家康なんか大河でやるよりも、伊勢新九カ(北条早雲)一代だけでも大河ドラマやった方がええと思ってる。関東と京都をいったりきたりするからな。
別な話になってすまん。 >>152
こんな間抜けなレスしといて有能な所を1つも挙げられない憐れな景勝オタw >>158
上杉景勝スレなんで、ここは山内上杉(真)家の悲劇&山内上杉(贋)家の喜劇への導火線となった長尾為景を主人公にしたい。
後半になると長尾景春や伊勢宗瑞との同盟も扱われることになる。
関東戦国アナーキー。
喜んで観るのは物数奇だけだろうが。
>>152
有能なイメージあるけど実は無能なんじゃないか?
というのが上杉景勝という人物、直江兼続もこんな感じするな 上杉家自体が謙信没後パッとしない
と言うか低迷・迷走が続いたから
まあそれでも豊臣政権では五大老の地位で
減封喰らった徳川時代もギリ外様の雄藩
とそれなりの面目は保つことはできた
その良かった部分を兼続のおかげみたいな
論調は確かにあった(特に大河前後)
が、そもそも景勝も兼続もお家を
右肩上がりにできたことはないという 景勝は勝家に攻められ本能寺なければ春日山落とされてたよね。 そりゃ景勝も諦めてるレベルだから滅ぶやろうなぁ
毛利、長宗我部は頭下げれば滅亡だけはなんとか避けれそうやけど >>163
森長可が妙高の関山神社焼いて上杉の本拠地の上越市にまで侵入してたからな
越中に援軍送ることは不可能だったから遅かれ早かれ、だな >>166
天文20年(1551)に謙信に降伏してからかなり上杉家一門衆として忠臣ぷりを見せてる。弘治2(1556)に謙信が越後出奔を決意した時引き留めたり第四次川中島合戦では春日山城の留守居役として古文書でも出てくる。永禄7年(1564)に野尻池で死去した時、一緒に溺れたのは下平修理というのが地元魚沼地方で最近の説として上がってる。 >>165
正確には上越市中郷区二本木までだね。森長可が進んだのは。事実上妙高市という場所だけどそれでも春日山城にはかなり近いね。 有能か無能かはともかくとして、第四次川中島合戦の留守居役って重要だと思うぞ。武田が北信濃から、越中方面から加賀・越中一向一揆と挟撃しようとしてたし。出羽大宝寺氏と会津蘆名氏は上杉の支援をしてた。第三次川中島合戦では参陣しなかった揚北衆が感状もらうなど越後あげて武田と戦ってたのがわかるから、兵站役としては徴用されてたと思う。 越後国全力出撃の時に
後方支援役として重用された
って事でよろしい? >>173
重要だろう。
景勝の二代前の山内殿は後方支援の連中が軒並み裏切ったから泣きながら越後に逃げるしかなくなった。
景勝の一代前の山内殿は逆向きになった時の後方支援の連中が軒並み負けたから遂に山を越えられなくなった。
絶対に裏切らない、敵が寄せて来ても負けない、とにかく信頼の置ける者じゃなきゃ任せられない筈。
上杉顕定も後方の長尾房長の裏切りで関東へ戻れなくなって死んだしな
一方三分一原で上条定憲は戦場での裏切りで負けた
武田との決戦を謙信が求めてたのなら戦闘中での裏切りが一番痛いとも考えられるし、後方で裏切られて決戦に至らないってのも一番痛いかもしれない
個人的には戦場で裏切られる方が嫌だな
留守居役で評価が爆上がりするなら蔵田さん他も凄ぇ何者?ってなる >>176
あんちゃんは蔵田某の役割も馬鹿にするんやな。青苧の商人で伊勢神宮の御師の出身なんやで。まあ、裏方の仕事や評価されないから馬鹿にされやすいけどな。商業を確立するって難しいんやで。まあ、あんちゃんみたいな人が大名やったら謀反起こされて没落するやろな。(苦笑) >>177
ごめん伝わりにくかったかな
留守居役は他の人もやってるでしょってだけ >>178
それいったら戦場でも他の部将がいるじゃんてならんか? >>179
みんな頑張って戦場で手柄立てようとするよね >>180
ほっといてもみんな頑張るならそれこそ誰でもいいとならんか? >>181
ほっといてなんか言ってないよ
で、実際留守居役で評価上がってたの?
大事な戦であればあるほど戦場に立てないって武士的にはどうなん? 戦場に参加するのはともかく
留守居に関しては一定以上の能力信頼ないと任されないとは言えると思う
戦場でそれなりの規模の部隊指揮官レベルで活躍>留守居>戦場で活躍
ぐらいの評価じゃ? >>177
青苧取引の責任者で重臣の神余を無理やり処罰しようとして家中を二分する御館の乱を誘発した景勝を無能といいたいのか
…まあ無能だわな 【墜落の真相】 デルタ191、日航123、マレーシア17
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/airline/1600574703/l50
>>184
わしは景勝の事を語ってる訳やないんやで。留守居役や商人も重要だといってるだけや。まあ、謙信と比べたら景勝は無能だし、そんな事をいったら北条氏政は氏康よりも無能だとかそんな話になるんやで。勘違いするなww >>186
碌な研究をしてない学識者か戦国史のファンか知らんが自分で反論出来ないのになにゆうとんのやww >>187
完全な無能なら熊本藩主の加藤氏のように二代で改易となっているやろな。 >>165
神余氏に対して厳し過ぎる処分を与えた結果が上杉氏の勢力を衰退させて代償で滅亡寸前までいったからな。運だけは謙信より強いのは認めるわ。 >>186
あんちゃん、わしと北新地で一杯やろうか。 論旨云々の前にその薄汚ねぇ関西弁を止めてくんねえか。
朝っぱらから酔ってるのかよ
年金暮らしか?羨ましいねえ 戦争に勝ったり政策の成果を上げたりするのが「有能」だとするならば、
上杉景勝より上杉謙信こそが「無能」なんじゃないか。
戦争には負けてばかり、飢民救済は略奪頼り、内乱も頻発…。
為政者、国主としては武田北條今川織田に比べて数段劣る。
謙信は影響力が半端なかったからな。武田が恐れたのもそれだった。ただそれは他人には理解出来ない謙信だけの謂わば特殊能力だったからそれを真似ようとした景勝は危うく身を滅ぼすところだった 武田・北条・一向一揆の包囲網をしりぞけたというのは謙信にとって大きい。景勝ではどうかと思う。
反面関東管領職にこだわり過ぎたのもマイナスだっかかな。生真面目過ぎる性格が融通が効かないというか。
で、人身売買の記録は1566年2月の小田城の戦いのやりとり外残ってるものはありましたかね。 関ケ原の合戦での最上攻めの失態がひどすぎて無能としか言いようがない 真田昌幸軍と上杉景勝軍が協力して徳川秀忠軍を挟撃して完膚なきまでに撃滅に追い込んだら、面白かったと思います。 >>199
たられば論になるが、蒲生氏郷が健在で会津にいて石田三成と上手くやっていれば越後国の上杉景勝が北側から、信濃国上田の真田昌幸が西側から関東地方の徳川家康・秀忠父子の動きを牽制して抑える事が出来たかもしれないね。 上杉謙信も造反された北条高広には越相同盟の時に帰参を赦してあげてそのまま厩橋城代に重用してるし亡くなる前年に能登制圧した時に能登畠山義隆の未亡人と高広の子・北条景広に嫁がせようとしてた。本庄繁長も造反した後隠居する事で許し謙信死後は景勝家臣として復活出来た。上杉三郎景虎と謙信の姪との結婚には素直に北条氏康が喜びの書状を出してるし、世話焼きで寛容な所はあった。 景勝が領国留守したら最上義光や堀秀治がケツ掘って惨敗だろ
結果は長谷堂城攻めと同じだよ 武の上杉とか義の上杉とかが仮に成り立つとしても謙信一代だよね >>198
割と最上が強いってのもあるけど景勝には西軍の状況分かってなかったから(真田信幸が東軍なので西軍の情報は東軍に筒抜けだが逆は皆無、佐竹義宣は三成・景勝両方に縁深くて警戒されていた上に周りが徳川に囲まれてる)東北戦線だけで見ると妥当でも関ヶ原全体見るとマヌケってのは仕方ない面がある 最上攻めは全体的にみれば上杉勢の圧倒的優勢でしょ
勝頼の長篠城攻めと違って突然タイムリミットがきただけで…
っと擁護できない事もない 上杉軍は強かったはずと思うから
不甲斐ないと感じるだけじゃね? >>206
> 上杉軍は強かったはず
まあ、その観念自体が軍記物によって後世形成された幻想よな。
同時代にそれほどまで評価されていたかと云うと甚だ疑問。
史実を仔細に見ると、
景勝はともかく謙信期の上杉は「勝ち目の無い戦闘を避けるのが上手かった」というのが実相に近い。
無論それも立派な軍事才覚だ。
それでも結構負けてはいるんだが、壊滅に至る前にちゃんと逃亡できている辺りは流石のセンスだと感じる。
関連書を流し読みしていて気付いたんだが、
長尾喜平次顕景こと後の上杉景勝は臼井の惨敗からの潰走を実体験してるんだな。
上杉軍の戦闘力について誇大妄想を抱かず誰よりも冷徹に認識していたのは景勝なのかもしれない。
というかもっと単純に上杉軍は
加増転封直後で越後残留組が抜けたところに
大量の牢人でカサ増しした寄せ集めの軍勢
慣れない土地での短期間での戦争準備
防衛戦のつもりが成り行きで攻め込んだ形
最上は義光の代で時間かけて国人を
屈服させてきた戦国大名領国の軍勢が
自領を守るための防衛戦
質的にも士気的にも差は出そうな状況ではあり
実際手強い抵抗を兵力差でゴリ押ししてた訳でしょ 内府も伊達に対する抑えで上杉残したんだろう。
大坂の陣で景勝公以下上杉勢が全員揃って黙って大坂城を睨みつけてる様子見て
内府は「さすが上杉殿よ」って褒め称えてるから
一定の評価してたんだと思う。 九州男児上杉鷹山が必死になって返そうとした借金ってどうして出来たの?
景勝なんかやらかしたの? 景勝時代からほとんど家臣をリストラしてなかったから 関ヶ原で減封になって、本当ならリストラしなきゃいけなかったんだっけ 関ヶ原も徳川に情報封鎖されて「西軍が伏見落としてイケイケ」より先の情報入ってなかっただけだから…
岐阜落とされて西軍が終戦ムードなのに「賊軍が逃げ出したァ!」とか書いてるのが滑稽の極みだけどさ 重臣の知行減らして切り詰めて雇ってたからな。
18万石クラスだと重臣クラスは最低1000石以上は知行持ってるのは普通だけど、米沢は最大で200石くらいしか無かったはず。
大体は転封、加減増のタイミングで家臣団の人員整理が起こる事が多い どうして家臣のリストラしなかったの?
まだ戦うつもりだったの?
仕掛けるまでもなく自ら財政を圧迫させるとは、さすが上杉殿よ 2日位前にYahoo!の配信で村上義清と葛尾城を取り上げた歴史人の記事があって文中後半に義清の子・山浦国清が天正10年(1582)に上杉景勝により北信濃に戻った。との記述があった。それに対してコメント欄に「景勝優しいね」という肯定的なコメントを寄せてた人がいて珍しいと思った。 名将ではないし(もともとそこまで評価されてたか?)気が短いというか融通効かないのか重臣クラスに反乱されたり出奔されたりトラブルも多いけど
普通なら一回でも致命的な事象なのに毎回ギリギリ踏ん張る悪運の強さは中々類を見ないユニークさがあって好き 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と三英傑に喧嘩売って悉く生き残った強運は凄いと思う。例え上杉謙信の威の七光だとしても 知名度の高さだけでも十分凄い
一応は日本史に爪痕を残してるクラス(直江様々 >>217
伊達政宗が南部の領国で岩崎一揆を起こさせたりするなど、まだまだ平穏には程遠い状況だったからだろうな。 >>222
知名度が高いか?
カタギの一般人は上杉景勝なんざ知らないだろう。
それに「日本史に爪痕」なんて1mmも残してないぞ。
戦国期の著名な武将で日本史に有意の特異点を作り出せたのは、
古河成氏、三好長慶、長尾為景、伊勢宗瑞、羽柴秀吉、徳川家康のみ。
織田信長でさえ微妙な所だ。
遺言捏造とか(もっと酷いと謙信暗殺説もあるかw)武田を賄賂で買収とか講談や軍記ベースの話を史実と勘違いして叩かれるのはカワイソス
まあ賄賂で買収はもし事実としても釣られた武田の問題だろと思うが
憲政と道満丸惨殺も近年の研究だと憲政は巻き込まれたんじゃなくて思い切り乱の中心側だし道満丸は普通に将来の禍根になるし殺されてもしょうがないと思う
まあ殺し方ってもんがあるだろというのはそれはそう >>224
日本史の定義付けはする気がないが関ヶ原の戦いで見れば名前ぐらいは出て来てもおかしくないと思う
まぁ織田信長を微妙扱いする意識高い系とは話が合わないからご自由に >>227
軍記物や講談の話をする気は無いんでね。
当該人物の主宰した権力体や運動が社会構造や統治原理に有意のインパクトを与え得たか否か、ということ。
上杉景勝はおろか上杉謙信も武田信玄も毛利元就も伊達政宗も、
みんなが大好きな戦国英雄たちは意義ある仕事を殆どしていない。
織田信長については独自の存在意義というよりも列島中部で室町幕府破壊(三好)から実体暴力による列島一元統治(羽柴)への遷移過程と見ている。 >>224
長尾為景は確かに過小評価されてるかな。守護代でありながら毛氈鞍覆と白傘袋をもらってるのは浦上宗景と為景の二人だけだし。青苧で越後国が財政豊かになったのが実隆日記に載ってるそうだし、朝廷と幕府のバイプを築いたのこの方の功績だし。それが謙信・景勝の代までつながっていったしね。 >>228
三好長慶は宗教政策が柔軟なのが面白い。キリスト教・浄土真宗・法華宗と友好関係にあったとか。謙信の天文22年(1553)の1回目の京都上洛の際、本願寺証如と謙信との会見を仲介したのが三好長慶だったとか。 ID:4lRPjF1H
どうしてそんなに喧嘩腰なの? >>224
一般的には〇〇史というのは年表ベースで考えると思うんだが関ヶ原の戦いは日本史の重要事項扱いなんでそこに絡みのある上杉景勝は名前が上がる可能性は高いですよね?って話
本人の有能無能とかどうでもいい話
北条氏政なんかも1590年に秀吉に滅ぼされて天下統一になったお陰で日本史に爪痕ぐらいは残せれてるんよな
日本史で一般ベースの話をしてるのに僕の思う凄い武将語りをされても困るかな >>232
> 本人の有能無能
読解力の無さに呆れる。
国語教育を受けたことがあるか?
誰が有能だとか無能だとかゲーム脳な話をしている?
「当該人物の主宰した権力体や運動」。
「当該人物」と書かずにわざわざ上記の如く書いた意味も理解出来ないか?
歴史とは年表などではない。
構造と因果律だ。
戦国武将は戦国大名権力体の一構成要素でしかない。
だから個人の属性なんざ歴史の上にノイズほどの意味も無い。
上杉景勝が馬鹿だろうが利口だろうが知ったことではないが、
彼の率いた権力体もそれが為した運動も、日本の社会構造やその原理に何ら画期をもたらさなかった=爪痕を残さなかった、と云っている。 信長嫌いな在日菅沼臭が漂ってるな
他スレでフルボッコで書込みテイストを変えてるんかな
日本史を鑑みて信長を微妙と言うのには違和感しかないんだよ
好き嫌いで評価を変えんなよ >>234
織田信長に独自性を認めるか否かは微妙だと云っている。
織田の所謂「革新性」については近年になって様々に論じられている所だ。
個々の施策に先行者群が在ったことはどうやら確かなようだが、
それを綜合的/体系的に行ったことに意義を認め得るか、
またそれが社会構造や統治原理に不可逆の変革をもたらしたか否か、
という辺りが論点だろう。
テクニカルなレベルではかなりの革新があったものの構造改革としては少なくとも不可逆的なものではなかったし、
統治原理にしてもあくまで戦国大名の拡大版であって「羽柴の平和」の如く従来と次元を異にする域までは達していなかった、
と俺は見ている。
近世大名のモデルとなった北条や毛利の家中統制の方が革新性は高いからな。 ・上杉景勝の支援により助力を得た武田旧臣の信濃国衆1
・芋川親正→1582年3月に甲斐武田氏滅亡後、北信濃を治めた織田家臣・森長可に抵抗して一揆を起こすも敗北。しかし、織田信長が本能寺の変で横死すると上杉景勝が支援してくれた縁もあり、景勝から北信濃牧野島城代に任ぜられそのまま上杉家臣となり米沢藩士として存命する。 ・上杉景勝の支援により助力を得た武田旧臣の信濃国衆2
・真田昌幸→上野国沼田領の引渡し問題で1585年7月に徳川家康と決裂して昌幸は一転して上杉景勝と同盟を成立させ、徳川軍と戦い勝利する。景勝は豊臣秀吉に取りなしして昌幸は秀吉から徳川家康の与力大名として事実上独立する。その事で真田信之は徳川家臣・本多忠勝の娘と結婚し信之の系列が近世大名として存続する。 >>216
色部、清野、千坂、本庄とかは1500石超えてるよ
毛利は2000石超えてるし
保科正之が半知になった時浪人による政情不安からリストラさせなかったのは事実だが、関ヶ原後ある程度のリストラはあったはず
藩士の数としては、だいたい50万石の福岡藩並みだからな >>213・>>216
加賀・前田にリストラしてる。
で、加賀にリストラされた連中が、
ごくつぶしになるよりは戦で死んだ方がマシと考え、
大坂冬の陣で真田丸に突っ込んだ。 会津に東軍が侵入してきたらどうやって迎撃するつもりだったんだ? そんなもん徳川方が本気になって攻め込んだら滅亡覚悟で最後まで戦予定やったんやろな。以前説として出てたのは白河口の草籠原で泥沼の所に徳川方の兵を身動き出来ないようにして上から一斉射撃するという上杉軍の作戦だったとか聞いたけどな、まあ、戦った事のない会津の地で戦うより東海道方面で戦った方が有利とみた家康の判断が功を奏したわけやな。あそこで家康を追わなかった事で戦国大名としての上杉家は終わった訳や。(笑) >>242
上杉が「戦国大名として」終わったのは羽柴に服従した時だ。
上杉に限らず毛利島津北條、全て同じ。
討って出て一当てしたところで
一転土下座外交展開
実際史実でもやってる通り べつにそれでいいじゃん。
で、あなた達は何がいいたいの。
欲求不満でもたまってるの。
まあ、戦国史に興味のある人は淋しいですな。w >>194
こういうヘイトスピーチしか出来ない輩。
警察に通報しようかな。 おまいら関西人に恨みでもあるの。
俺も関西人嫌いだからわかるけど。
戦国史のファンってレベル低っw 織田軍に攻め滅ぼされる直前に本能寺の変が起きたからな。
「九死に一生を得た」。
その経験があるから、大坂冬の陣では家康に従うも、どうせ家康は歳だし
大坂方あと数年持ちこたえれば家康死んで大坂城包囲網は瓦解するだろうと
冷ややかに見てたと思う。 会津征伐で作為を疑うなら上杉より奉行の方じゃないかな
上杉を助けたいなら仲裁に積極的に動くべきなのに
家康をなだめるだけで中途半端な姿勢に見える
穿った見方をすれば家康が秀頼と離れる事態を望んでいたかのような動き >>251
微妙にスレチでもない所が面白い。
>>250が持説なら視線を反転させて、
そんな奉行たちの描いた絵に乗って踊った上杉をどう考えるか聞きたい。
それならスレの主旨によく合う。
>>252
会津征伐に至るまでの成り行きは景勝のミスで関が原は奉行のミス
あえていうなら失態(景勝)と大失態(奉行)って感じかな
どちらも無能ではないと思うが自他における思い違いが甚だしかったと言わざるを得ない 結局、なんだかんだで「上杉」の家名を後世に残せたわけだから、
無能ではないってことは明白だ 米沢の地頭にまで零落したことについては、オミジョー様は大変落胆しておられる 織田信雄や大友義統の系列
最後に戦ったのが家康で助かった
やっぱ強運よな 上杉景勝は本能寺が起きてラッキーとは言われてるが
本能寺当日に起きた魚津城の落城ってかなり痛そうだな
幹部級の武将10人以上討ち死にや切腹だろ?
もう少し粘って人的損害なければ天正壬午の乱にもう少し首突っ込めたのかな? 新発田も反乱してるし厳しいんじゃないか?
北条徳川と比べると地力が低いと思う 神懸かり的な強運の持ち主だよな
無能とまではいかないけど能力は並程度 まあ運いえば信長も家康も運がいいからあんま意味ない
信長なんか信玄が向かってきたら死んじゃうし謙信が侵攻しようとしたら死んじゃうし正に魔王の運 なんか有能エピソードってあるの?直江兼続や前田慶次に持ち上げられたぐらい? 無能ではないが
謙信の名声に準じようとして
無理に家康と張り合ったから
不幸になった。
前田利家みたいに大大名としての
地位保身に撤すれば幸せになれたが、
謙信の名声上できなかったんだろ 原哲夫の漫画だと、とにかく怒る怒鳴るイメージなんだよな 無能というより知恵遅れ
こいつを介護していた家来たちが無能 >>138
>会津転封時に越後の年貢取っていき後に入った堀に恨まれ上杉討伐の原因自分で作る
年貢の話は良い史料からは確認できないって解説してたわ
https://i.imgur.com/pbKMXxw.jpg >>144
須田長義も安田能元も五十歩百歩だよ
長義は梁川で伊達政宗の後陣を襲った事も有る武将だし
彼を先陣に変更させた逸話自体ウソ臭いが 景勝はすげー無口で何も喋ろうとしなかったって見た
バカがバレるからだろうな 御建の乱後、30万石を割り込むまで衰退したのにそこから120万石まで加増されたのは凄い幸運。
でもそれを維持できないとねえ。毛利輝元と同レベルとされても仕方ない 上杉景勝ってなんか目立つことしたっけ
家康にケンカ売ったのは直江兼続だし どちらもそこまで無能とは思わんけど
輝元よりは下だと思うよ 輝元は有能だと思わないけどもう少し数値上げていい
景勝はかなり下げてほしい 無能という程の失態もないけどパッとした実績もなく結果からすると凡庸という評価をせざるを得ない 関ヶ原前の上杉景勝の石高は毛利輝元と同等とされているけど本当か?
山口、広島、島根、鳥取の一部、岡山の半分弱を持つ毛利と、山形の半分、福島の半分強、佐渡島くらいしか持っていない上杉が同等というのは、後年の人口調査などから違和感を感じる
調べたら90万石説や50万石説というのがあるらしくて、そっちの方が実情に近そうだと思う
ちなみに1721年に幕府が行った人口調査だと、東北地方よりも中国地方の方が人口が多くなっている
この時期の毛利と上杉の国力は同等とされがちだけど、実際は1.5~2倍くらい毛利の方が上だったんじゃないだろうか 太閤検地は結構いい加減だから。
政治的な事情で軽くされたり重くなったりするもん。
尾張57万石も実際のところは45万石程度らしいし。 慶長検地とかから考えると
会津の
会津河沼(稲川)大沼耶麻(猪苗代)で27万石
白河石川安達安積安積岩瀬で31万石
岩代の信夫伊達で12万石
出羽米沢の置賜で18万石
ここまでの計88万石で蒲生の92万石とほぼ同じ
出羽庄内の田川(櫛引)飽海で14万石
佐渡2.5万石
ここまで計約104.5万石
これに越後蒲原郡21.4万石のうち東蒲原の一部1万石(もっと多い?)が上杉領
なので100万石は越えてると思う
棚倉の白河菊多磐前磐城は佐竹なので
高野郡に当たる部分の白河郡3万石は佐竹ということで
戦前の最上が24万石だと出羽はもっと上杉領が多いのかもしれない >>84
結納金って嫁取りする方が出すんじゃなかったっけ?
嫁入りする方が出すのは持参金 まとめると有能ではないが幸運にも勝頼や伊達政宗といった
残念なのが居たからそれなりの国主といえる禄を抱え江戸時代を迎えれたっことかな。 勝頼との織田恭順合戦が辛い
おまえまさか織田に恭順してないだろうな、と
互いに疑い合ってるの
そして案の定両者とも恭順狙ってるの
でもやっぱり織田に相手にされてない そりゃ信長にしてみれば上杉、武田どちらも交通の要衝だから直に支配したいにに決まってる。
あと従属させるより潰して家臣に知行も与えないとだし。 天正壬午の乱の立ち回り見ると無能ではないんだよな
新発田重家の扱い大失敗したのと関ヶ原での謎moveなだけで 後継者を明確にしていなかった謙信の責任が最も重いけど、あれだけ血で血を洗う戦いを繰り広げた宿敵北条の子息と家督を争うとか
景勝も人望やら求心力がなさすぎだろとも思う
御館の乱、新発田の乱、関ヶ原の戦いと3回も御家を潰しかけている事を考えると凡庸より暗愚に近い気もする それ引き合いに出したら
三河一向一揆や三方ヶ原で追い詰められた家康もマイナス評価されるんか 御館の乱は景勝景虎どちらも起こす気無くて周辺地域が一生懸命起こした乱だから景勝だけの責任ってのはね…
とりあえず主謀者の1人(憲政)を始末してるけどそれだけで収まらなくなってるし >>293
三河一向一揆は追い詰められたと言うほどじゃないし半年ほどでほぼ完勝で終結させて
三方ヶ原も主力は無事だったしなあ でも織田が領土拡大くらいしか考えていない普通の大名だったら三河一向一揆は致命傷になっていたな
あのゴタゴタに攻め込まれていたら終わりだったし
三方ヶ原もタイミング良く信玄が死ななかったら徳川は終わりだったわ
神憑り的な幸運に恵まれただけで家康本人的には大ポカやらかしてる 信玄は死因は癌か結核なんで三方ヶ原時点で間もなく死ぬことは確定
「いつ死ぬか分かって」ようがいまいが、病が進行すれば人間は死ぬ
というか景勝スレだからあんま言いたくないが296は知識いい加減過ぎ 景勝は謙信生前から後継者と決められていて問題なく跡を継いだ
しかし家臣統制に失敗し御館の乱が起きた
今の定説はこれでいいのかな >>299
お前が常識なさすぎだよ
現代ですら明確にいつ死ぬかなんて分からないのに戦国時代にそんなの分かる訳ない
そもそも直ぐに死ぬと知っていたら国運を賭けて戦なんて始める訳がない 元気でピンピンしていた信玄がいきなり死んだのなら296の意見は間違いじゃない
風邪とかインフルエンザとかなら分からなくもないが え?ガチの馬鹿なの?
癌が悪化したら人間は死にます、って話が理解できないの? まあ死因かもしれないとされてる結核とか胃がんは昨日まで何ともなかったのにいきなりという病気じゃないからな
西上作戦決行前から何らかの兆候とか有ったりしたんじゃ? いきなりという意味では寄生虫が死因という方がしっくり来る。
割と若く癌になった場合の症状として急激な体重減少があるがそれは見当たらないのは不自然過ぎる まあこんなところか
統率B76 御館の乱に勝利し新発田などの裏切りに合いつつ上杉家をまとめた
武勇C67 上杉の強兵を率いていた
知謀D53 凡庸
政治B75 五大老に選ばれた 天正壬午の乱の立ち回り見ると無能ではないんだよな
新発田の扱いはアレとして 勝頼の欲やコンプレックスを上手く手懐けて北条との同盟破棄させたのは有能 >>308
どっちかて言うと武勇・統率方面の実績乏しい
御館勝てたのは多数派工作、越中では柴田にやり込められ佐々単独にも勝てず、新発田の反乱には何年も苦戦、小田原征伐は兵力的に勝って当然の戦、慶長出羽合戦では寡兵の最上相手に損害だし勝ちきれず
軍事的には毎度追い込まれ政治工作や外交で挽回して生き残ってる印象さえある >>312
まあ贔屓目に見てるから
これより下だと思うのは居てもおかしくはない 御館の乱の際に武田に東上野を割譲するあたりセンスはいいだろ
北条と武田を仲違いさせた上に武田を体良く北条からの防波堤に仕立て上げるという 花の慶次だったっけか
なかなか佐渡を平定できなくて
秀吉とその腰巾着の前田利家に
「上杉殿は佐渡はいらんのかえ〜」
と囃し立てられてるシーンが印象に残ってる。 俺も実は政治的なセンスで生き残ったタイプに見える
光栄のゲーム的な内政力とかとは別の意味で
いかにも徹底抗戦で滅亡も辞さずみたいなポーズ見せてても
ここぞて時が来たら一転恭順姿勢で生き残るという 本多正信の息子からかたいみなってさすがに馬鹿みたい >>314
確か勝頼も初期に深志城を割譲したが
冬になれば越後の軍勢来れないから完全な人質
狸と狐の化かし合い でも関ヶ原は政治外交的に大失態だしな
何であそこで家康と喧嘩し始めたのか意味不明 あれは徳川に喧嘩売るためにあれこれしたというより
家中統制がうまくいかず残留組を出してしまった
&目先の収穫を諦めさせる事ができなかった
(またはもみ消し期待した石田が失脚してしまった)
それが当たり前のように後に入った堀家から訴えられ
当たり前のように問題視され征伐受けた
その意味でいわゆる光栄的な意味の内政は低い 関ケ原と同時期の同じ東北地方のそれなりの規模の大名と比較すると
最上義光>南部利直>「上杉景勝」>秋田実季>相馬義胤。
こんな感じかな。伊達政宗は規格外過ぎて語れん。 秋田というか安東さんて全然情報無いからわからんのよね 安東実季からの教訓は報連相を徹底しましょうということだな >>299
アホかw
癌とか結核なんて病気が分かったのは300年も後の話だわ >>324
>>303
死因について異議ありって話なら分からなくもないが REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 結核は労咳と呼ばれててあったんじゃなかったっけ?
癌も岩と言われてたそうな >>321
景勝より微妙なエピソードしかない南部利直のほうが上と思う根拠は? 景勝は大減封されても軍事力を維持しそれが後に藩政の足を引っ張った。
南部利直は他藩に先駆けて今風に言う軍縮路線に転換した。
乱世が終わったことを逸早く見抜いた先見性で上とした。 いや、会津120万石から米沢30万石になった時は大半の家臣はリストラしてるよ
越後以来の家臣はクビに出来ずに仕方なく連れて行っただけで
それでも米沢藩の藩士数は約7000家弱
30万石の大名としてはごく一般的な数なので結構首切りはした 7000家でなく7000騎だろ
これに4〜5人の足軽が付与されるから兵力は40000人くらいのまま
当然そのまま維持できないので首切りはせず家臣の知行を半分以下とし対応した >>331
いや、7000家だよ
分限帳によると士分が約3500家で足軽が約3300家
30万石としてはごく一般的な家臣数
でも綱憲の時代に15万石に減ったから、それからはかなりキツかっただろう 直江兼続と上杉景勝は家臣を放出せずそれまで蓄えていた財を投じた新田開発と
3分の1への減封で上杉家を立て直したされてるのは嘘だったのか? 嘘かどうかは分からないけど他藩と比べて特に多くはないという事だけは間違いない
元々越後の国力から見るに会津へ連れてきた家臣団が7000家程度と見るのは妥当な数字であるし
それならリストラしていないと言うのは事実だろう 分限帳には入らない移封後に配下に組み入れた出羽衆と会津衆の扶持を
賄うため越後から来た上士達の知行を減らしたんだろ
北には家康と懇ろの最上義光、東には領土欲むき出しの伊達政宗がいる状況で
家臣のリストラは上杉家の安全保障上できることじゃない 分限帳に載ってないのは直臣ではないから上杉家の知ったことではない
陪臣はあくまで家臣が自分の収入内から俸禄を払って雇う者なので大名家から何かを与えたりはしない
上杉家が家臣として残した家は7000弱である事は間違いない 現代から見れば江戸幕府も二百数十年続くの知ってるから断定的に内情を言えるけど当時の上杉家は舵取りしんどいと思うぞ
平和確定なら流石にリストラしてると思う リストラは難しいよ
やりたくても出来るものではない
どこの大名もリストラできなくて苦しんでいる
それを成し得た人物が名君だの名宰相だの言われる
もし景勝が全くリストラ出来なかったとすると相当な無能だったという事だ
実際は関ヶ原以後にちゃんと整理したようだけど、さすがに越後以来の古参の首は切れなかったぽいな
減封という絶好の口実を得た時に人員整理をしっかり出来なかった事が景勝の一番の失態だろう 佐渡を領有していた頃のゴールドと謙信が財テクで溜め込んでいた金が
かなり残っていたから、景勝存命時はリストラの必要性がそこまでなかった。 関ヶ原の時点で推計60万両あったらしいな。
息子の代には15万両まで減ったようだが。 本能寺の直前くらいに佐竹氏に送った手紙がすごく好き
越後一国で六十余州の軍勢を迎え撃つなんて自分は幸せものだ、というような内容
最後に名門の佐竹は織田相手にどうするのかな?みたいなことを言ってるのも含めて こいつがイカれた挙兵しなければ徳川の世にはならなかったし俺らも別の未来が待ってただろうから有能 >>343
あれって遠回しに佐竹に助けを求めている手紙なんだろうけど
素直に助けてくれと言えないあたり虚栄心の強い男だったんだろうなと思う
関ヶ原でも利長は徳川に恭順の姿勢を見せて事無きを得たけど景勝は普通に戦になってしまったし
政治より自分の体面を気にする人物であったのだろう >>345
佐竹は織田とも結んでいるからどのみち上杉を助けられるような状況では無いのでは?
あの時点では景勝はたぶん滅亡覚悟していたと思うけど
そして佐竹に対しては清和源氏の末裔でありながら織田に易々と屈するつもりなのかな、という嫌みを込めたような意味なのかなと >>346
要は助けてくれって事でしょ
当時は喧嘩別れ状態だったから言い難かったのだろうけど
佐竹は勝頼の時も助命活動をしていたし素直に頼めば動いてはくれたろうに景勝は性格悪いね だって正直滅亡前夜みたいなもんだし…
佐竹の嘆願を聞く織田じゃなかったろうからもうせいぜい気を吐くしか出来なかったでしょ 真田太平記の景勝と昌幸の対面動画140万いってる
見たことない人けっこういるんだろうね
昌幸といえば丹波 景勝といえばこの場面思い出す 戦争では無能だが平時では有能な大名ってイメージ
直江兼続も同じく軍事では無能、平時では外交も内政も有能って感じがして似た主従だと思う 秀吉が直江を欲しがったという話だから全くの無能ではないだろ 評価できる部分とそれを帳消しにする失態もあって
最終的には小さいポイントしか残らない感じだな
武者振りがいいとか 圧倒的に不利だったお家争いに勝利した手腕はなかなかだと思うけど
それ以後は全く持ってぱっとしない
総じて凡庸という評価にならざるを得ない 御館の所だけえらく際立ってるんだよね
後はそんなに凄くない
秀吉と手を組んだのも他に組める勢力がなかっただけだし 政治能力にも色々あって成果はないのに対面保つ能力とか
いかにも徹底抗戦しそうなことを吹聴しといて一旦土下座外交できる柔軟さとか
その割に強面な印象を保てる宣伝力とかは凄い
バカにしてると思う人もいるかもだが
実際それで生き残ってるし家と武門の誉れを守り通すのって
当時の武家社会の中では何より大事なので立派な能力だよ イメージは本人が何かしたというより後世の書物の影響だけどな 戦いもせず完全降伏したのに生き残れたのは凄い
その上バカにされることもないって大したものだ 天下分け目の戦いという自覚があれば、東軍を引き付けて動けなくするよな。佐竹と連携とることも可能だ。それができなかったのは凡庸なんだろうね。
少なくとも英雄の素地がない。
西軍があそこまでグダったのは東軍のあまりに早い返しにあったから。 >>357
その後世の書物が何故そんなイメージで書いたのか
史料的にも本能寺前も関ヶ原前も滅ぼうと一戦の覚悟を示してるが
その後一転土下座外交を展開してるんだよ
世上馬鹿にされてもおかしくない
でもそれがコンセンサスにならずに面目を保ててたってことでしょ >>360
そりゃ軍記物語や家譜類は関係者が家のイメージアップの為に書くものだからな
基本的に自分の家に都合の良いように脚色されまくっている
だから他所の家の関係者が書いた書物を見ると大概は悪く書かれている >>359
確かに本当に石田と示し合わせていたのだとしたら西軍の敗因は景勝にあるな
一ヶ月でも二ヶ月でも家康を関東に引き付けておければ西軍はかなり有利になった事は間違いないけど
全く圧力にならずに東軍を西に向かわせてしまったのは痛すぎる
それは伊達や佐竹の取り込めなかった上杉の外交的失敗が最大の原因だ
自分の考えでは秀忠の部隊が中山道をゆるゆる進んでいたのは関東へ直ぐに引き返せるように警戒の意味もあったのではないかと思うけど
それにしても上杉の押さえに残された秀康の部隊は外様の小大名の寄せ集めではっきり言って烏合の衆
上杉が南下してきたらとてもマトモに戦えるとは思えない
つまりそれだけ家康に脅威を与えられていない 景勝も書状で書いてるけど景勝の役割は家康が上洛したら関東を衝くことで徳川軍と決戦することじゃない。これは戦略上確かに有効なんだが反面上杉はどうしても後手に回る。そしてこの戦略は家康にバレバレだったので家康は密かに、軍勢を分けて上洛したので上杉は感知出来ず役目を果たせなかった 生きるか死ぬかなのにろくに情報収集しないなんて信じられないけど
戦や外交が下手な人間がなぜ下手なのかと言うと情報軽視するからなんだよな
目隠しして戦うようなものだから勝てる訳がないし、相手の情報がなければ何を考えているのか予想も出来ないから交渉も上手くいく訳がない
新発田と戦った時も情報不足から死ぬところだったけど関ヶ原でも結局情報不足から敗北した訳だわ 上杉領と徳川領はそもそも離れてるし
それでも息巻いてたのは佐竹と真田がいたから
だが佐竹は怪しまれて身動きとれなかったし
真田は信幸がまさかの裏切りで犬ほども役に立たなかった
それで上杉は西軍が伏見落とした辺りから情報を遮断されて西軍が虫の息ってのを知らなかったとみられてる その辺りも情報不足なんだよな
佐竹は隠居の義重と筆頭家老の義久、次弟の義広、更に与騎家臣衆がこぞって徳川派だから西軍につけるはずがない
そもそも会津は佐竹が取り込んでいた土地であって奪還は悲願であったから重臣達は上杉討伐は好機と思っていた
そういう事情も把握せずに義宣と三成が親密だから当然西軍につくだろうくらいの楽観的希望しか持っていなかったのだろうな 佐竹は徳川からの人質提出要求を拒絶、「手切れの次第」となり西軍に属してる。だから徳川も佐竹は最初から敵と認識して信頼なんかしてなかった。だから上杉の数少ない情報源が無くなった 佐竹は義久を大将に秀忠の部隊に合流させて東軍に属している
また、義広も赤館まで出陣して秀忠の指示を仰いでいる
家康も佐竹は西軍につかないと判断したから江戸を離れて西上した
だから戦後も徳川は目障りな佐竹をどうする事も出来なかった
幸い義久が急死した事で秀忠と義久の約定を有耶無耶に出来たから東北に追い払った
だから佐竹の転封は理由の提示がなかった 西軍での佐竹の役割は東軍のスパイ役。東軍に味方するつもりは無かった。徳川に人質を出さなかった事もこれを証明してる
徳川秀忠が真田攻めをした時上杉景勝は佐竹義宣に「秀忠が何故行軍してるのか教えて欲しい」と書状を送ってる。この事から佐竹軍が秀忠に協力したのはスパイだと分かってる
ところがそれは家康の作戦だった。秀忠が堂々大軍で行軍する中、家康は軍を少数に分けて上洛してる。佐竹には何も伝えられておらず当然景勝も掴めてない。家康は佐竹の内心を見抜いていて、むしろそれを利用した。佐竹を信じていたら家康も堂々行軍しただろうが 義宣が人質を出さなかったのは秀頼に人質を出しているのに徳川に人質を出すのは道理に合わないという理由から
正論すぎる正論
だから徳川も強要する事は出来なかった
実際、義宣は上方在住の家臣に秀頼様に忠義を示すようにと書状を次々と送って指示している
義宣はあくまで我々が忠義を尽くすべきは秀頼であって徳川でも石田でもないと主張している
こういうスタンスになったのには理由がある
家中は徳川に付くべきという意見で統一されていたが、秀頼に差し出している人質が石田に押さえられてしまった
義宣は人質を諦める事が出来ずに中立のような曖昧な態度にならざるを得なかった
だが本音では徳川につくべきであると考えていたから義重や義久に徳川方として行動させている
義久は江戸に人質も送っている
だから佐竹の国替えは関ヶ原を理由としていない
そもそも関ヶ原の処分は1年も前に終わっていた
佐竹は徳川に敵対する行動など一切していないし、そもそも敵対する理由もない
佐竹が西軍につくなんていうのは上杉側の希望的観測でしかない >>355
御館の乱の功労者もろとも粛清進めちゃったからねえ >>355
御館の乱の功労者もろとも粛清進めちゃったからねえ 佐竹義重が東軍ってのも怪しいのよね。東軍につくなら徳川に人質を送らないといけないのにそうした動きをみせてない。まぁ関ヶ原の際佐竹と上杉は同盟を結んでいるので当たり前なんだが
また浅野長政によって佐竹が取り潰されたとき石田三成のとりなしで秀吉に弁明に行ったのは義重
こいつも三成と繋がりがある 佐竹も一門と家老が徳川に人質を送っているよ
むしろ西軍としての動きは一切していない
人質が殺されない為と万が一の時に西軍から攻撃されないように水面下で二股外交をしていただけで
これは伊達とか他の大名も当然にやっている事
佐竹の事情に詳しくない作家が国替えされたから西軍だったのだろうという後付の理由でそう思い込んで書いているだけで
実際に関ヶ原当時の佐竹の動向を見ると東軍としての行動はしていても西軍としての行動は一切していない
そもそも上杉や真田攻めに出兵までしているのに西軍とするのは無理がありすぎる 徳川としては佐竹に手柄を立てられると困るから動かなければそれで良かったのだろうけど
徳川が上杉攻撃を要請すれば戦国時代にはなかった上杉対佐竹の戦いが実現したのにな
それは見てみたかった気がする 佐竹って徳川の情報上杉に売ってるからな。そもそも上杉と同盟しておいて西軍じゃありませんは厳し過ぎる そもそも同盟なんて結んでいないしな
上杉が勝手にそう言っていただけで
周り敵だらけでヤバいですなんて言う訳ないし嘘でも周りと密約結んでますと言うのは外交の常識 書状に残ってるんだから否定出来ないし
上杉と佐竹は同盟していてこれは西軍も確認してる。増田長盛が上杉と佐竹は一味と書状に書いてるから 上杉が外交を有利にするのにそう宣伝していただけで同盟をしていた根拠なんて何もない
一次資料から見て取れる佐竹は東軍方としての動きしかしていない
いくら言い張ってもそれが史実だから仕方ない 景勝が結城朝勝に佐竹との同盟を仲立したことを感謝する書状送ってるから宣伝とは無関係に同盟は成立してた事になる
佐竹の西軍での役割は上杉と共に家康上洛を阻む(家康が上洛したら関東を攻撃する)ことなんだがこれは家康に見破られていて佐竹軍を秀忠に預ける事でこれを無力化してる
また佐竹はどうも徳川に情報封鎖されていたらしく上杉も佐竹も西軍の最新情報が届いてない。完全に敵視されてた訳でまぁ家康の敵ではなかった そもそも豊臣政権での佐竹取次は石田三成なので当然両者は深い関わりがある。その為三成決起を聞いた義宣は行軍を勝手に停止して佐和山に使者を送って三成の指示を仰いでる。結果佐竹家は上杉家と同盟して三成の使者を引き合わせたりと様々な役目を担ってる
これらの動きが義宣一人のものなら戦後佐竹家から放逐されるはずだがそうした動きが無いから佐竹家全体として西軍に与してたんだろう。まぁ家康に通用しなかったのだが 佐竹は伊達などと同じスタンス
東軍側だけど西軍に攻められないように水面下で西軍と交渉していた
佐竹でも徳川と連絡を取り合って交渉していたのは佐竹義重、蘆名義広、佐竹義久、須田盛秀といった一門と重臣だけど
上杉と交渉していたのは結城朝勝や車斯忠といった外部の人間でどちらが主であったかは言うまでもない そういや佐竹の面白いところは西軍(三成)から参加を呼び掛けられたのではなく佐竹の方から西軍に参加すると名乗り出てるんだよね そもそも結城朝勝や車丹波は佐竹の家臣ですらないしな
朝勝は個人的に徳川に恨みがあったけど肝心の当主である宇都宮国綱は徳川方についていたから家中での居場所を失っていた
車も何度も佐竹家中でやらかして放逐された人物で流浪し居場所を失っていた
そんな連中を重要な外交で用いるのは不可解だし本当に義宣の意思が介在していたのかすら疑わしい
何せ上杉方の交渉には佐竹家臣が出てこない
いずれにせよ徳川が西軍として佐竹を処罰していない以上それが揺るぎない答えだわな 毛利だってちゃんと総大将として処罰していれば改易・輝元切腹にするしかなかったじゃん 佐竹は石田三成と相談した上で上杉と起請文を交わして同盟関係に入った。これを仲立したのが結城朝勝というのが実はこの同盟の重大さを表してる
結城朝勝の母、南呂院は佐竹義昭の娘であり佐竹義重とは兄弟である。南呂院は宇都宮家が危機に陥った時には佐竹義重の力添えを受けていたことがあり両者は親しい
つまり佐竹と上杉の同盟には佐竹義宣の他に佐竹義重の協力もあったことになる。仮に義重が本気で徳川を支えようとしたら結城朝勝は口を出すことすらできなかったであろう 毛利を改易しないほうが得だと判断した家康が優秀なんだよ 何回か書いたが国主個人の有能無能など歴史の大流の中ではノイズほどの意味も無い。
上杉景勝が上手く立ち回れなかったとするならばそこに至る経緯を構造的に考察しなければならない。
越後國という単位で考えるなら;
・上杉房定は享徳ノ乱よりも前に時代の先駆として「戦国大名」化を成し遂げた
・長尾為景は更にその越後上杉家さえ超克して「戦国」なる時代の社会運動を代表する下剋上の典型を提示した
・長尾顕景=上杉景勝の家督継承時点では既に政治的選択肢は極限されていた
こう考えると、
軽薄な人々の浅薄な目に景勝の政治的/軍事的行動が「無能」と映るような限定を与えてしまった要素が何なのか、
上記諸項の隙間に在ったものを想起すれば火を見るより明らかだろう。 景勝の時代って国主自身の有能無能が思いっきり影響あった時代なのでは
それにその3人よりは自由に裁量権も揮えたとんじゃないかな 常々感じていることだが、
自称「戦国史好き」の人々が越後國について上杉謙信、それも山内家督継承後のことにしか関心を持たない状況を歯痒く思う。
ゲームや漫画などの俗悪なメディアの悪影響だろうと見当は付くが。
実は上杉房定から長尾晴景に至る時代そ越後戦国史の真髄であって、
歴史のダイナミクスという観点からすれば謙信以後はむしろ平板な予定調和で興味に乏しい。
上杉景勝期の動向はそこまでの経緯の必然的結果でしかないことをもっと深く考えてもらいたいと切に願う。
>>391
いつの時代、どこの國であろうと国主たる者が自由に裁量を振るえたことなどない。
責任ある立場の者ほど、そして状況を正確に認識できる者ほど、時系列的因果律と同時代的構造の奴隷としてしか振る舞えない。
特に戦国時代を含む中世は「小氷期」と云う何者も抗えない絶対的規定によって強要された「檻」に政治も経済も軍事も拘束されていた。
その枠内の狭い選択肢の中で更に幅を狭めるような経緯を前代までに確定されてしまった地点に上杉景勝は在った。
それまで寄合い世帯でしかなかった大名家が属する領主を家臣化して強力な集権化に成功したのが戦国大名だからな
室町体制下の大名とは比較にならない権力を持っていた事は間違いないよ 九戸政実の乱のように国主に叛旗を翻す存在は中央政権の
圧倒的な軍事力で討伐されるのが豊臣政権の特徴。 >>395
それを一代でかなりな程度まで進めたのが上杉房定。
更にその体制を内部から食い破る形で勃興したのが長尾為景。
しかし完徹し切れないまま為景は力尽きて後は晴景~景虎に託された。
…筈だったんだが、
景虎の時代にあらぬ方向へ暴走してしまった。
勿論それにはそれなりの切迫した状況があったわけだが結果として景勝に巨大な負の遺産を残したことは否めない。
結局、越後上杉は「戦国大名」に成り切れないまま織豊期を迎えることになった。
房定から晴景への時代「も」面白い
っていうなら納得 景勝公は5000の兵を率いて冬の陣で功績を挙げました そういや上杉って夏の陣で何やってたの
岡山天王寺の決戦で名前すら出てこないけど 謙信の後継でありながらとことん武功に縁のない男だな >>402
景虎を養子のままにしてたのって景勝に軍才がないのを見抜いていたのかも 養父でありながら北条氏秀こと上杉景虎と衆道の関係にあったの? 先祖代々の土地だから気持ちはわかるがあそこまで越後に固執せんでも >>406
上杉景勝のスレなんだから政虎の話は大概に、な。
乱世で世襲は通用しないね
天下に野心持ってないのもしょぼい。星の数いた部下がかわいそう。 むしろ相続した時点で瀕死
親の負債でいきなり無理ゲーという点では勝頼と似ている
ただ、信長が死んで融和路線の秀吉が台頭した点でかなり運が良かった
勝頼も南部のあたりまで逃げちまえば良かったのにな 毛利輝元は無能だったかと間違えてレスしてしまった、、
なんか似たようなイメージがないわけでもない。
父親の知名度マックスのガリガリの戦国大名で息子は
無能ってまではいかないが普通っていうか。
常人はそんなって当たり前ではあるんだが。
逆に二世も極めて有能やったやつで誰か思い出してみよう。 >>412
毛利輝元の父親である毛利隆元は有能か無能か真価を問われる前に歿している。
毛利元就のことなら、輝元の祖父。
> 逆に二世も極めて有能やったやつで誰か思い出してみよう。
筆頭に挙がるのは北條氏綱。
近年は大北條の骨格を樹立して関東戦国の座標系を書き換えた武将として伊勢早雲庵宗瑞よりも大きく評価されている。
上杉不識庵謙信こと長尾景虎は長尾為景の「二世」。
所謂「戦国大名」としての強度や目的機能としては為景の方が遙かに上だろうが、
景虎も機能が低いとまでは云えない。
同じことは武田徳栄軒信玄こと晴信にも当て嵌まる。
武田信虎の二世として十分に役割を果たした。
近年は今川氏親の二世である今川義元の再評価も進んでいるが、
間に兄の当主期や更にその後継を巡る内訌を挟んでいるせいか「二世」感は薄い。
二代目ならともかく次代が優秀かどうかという話だと
都合が良い所で切ってしまえばだいたいのところは次も優秀という事になってしまう そのあたりになると完全に江戸時代の人だからな
佐竹義隆、伊達忠宗、南部重直とか周りの同年代大名もあまり話を聞かないのと同じで 二代目で言えば北条氏綱、前田利長、黒田長政、毛利勝永あたりは優秀と言って良いと思う >>419
利長は家康にあっさり屈服した事で、あまり優秀という評価はされてないだろ。
そりゃ無能ではなかったが、父利家や家康には遠く及ばなかった。 いや、利家なんて雑魚だよ
槍働きと処刑人くらいの活躍しかしておらず兵の指揮もたいして出来ない
実際は利長が若いうちから兵を率いて活躍していて信長や秀吉も利長を評価している
信長は利長を娘婿にし秀吉は利家よりも利長に多くの領地を与えている
家康に屈伏したのも利長ではなく利家
利家は反徳川の盟主に立てられていたのに、こっそり抜け駆けして家康に前田だけは助けてくれと拝み倒す情けない有り様だった
利長は上手く泳ぎ回って江戸時代における最大の大名として生き延びたのだから政治的手腕もかなりのもの >>415
当方413だが、
都合の良い所で恣意的に切ったわけではない。
伊勢宗瑞、長尾為景、武田信虎、今川氏親、
何れも学術水準で「当該家に於ける戦国大名としての創業者」と位置付けられる当主を一世とした。
伊勢は勿論、長尾も武田も今川も前代迄とは全く異質な権力構造を実現している。
彼等が謂わば「無から有を生じる」機能を果たした大きな存在であることに異論は少なかろう。 伊東潤の小説読むと景勝の嫌われっぷりがよくわかる
景勝ってそんな凄い功績があるわけでもないのに同時代の人からの評価高いな 100万石を超えて五大老に選ばれただけで十分な功績 >>424
> 100万石を超えて
越後の御百姓さんたちが頑張ったんだな。
いつだって歴史を動かすのは有能(笑)な英雄などではない、民衆だ。
もし関ヶ原の戦いで上杉側が勝者ならば越後55万石の回復加増となり、会津、米沢、山形、庄内、佐渡、春日山を合わせた 早いうちに秀吉に降伏した順に得をしているからな
秀吉は潰すより取り込んでさっさと国内統一したかったから早く降伏すれば美味しい思いが出来る事を示す必要があった
前田利家、毛利輝元、上杉景勝
みんなボンクラでも優遇して貰えた >>424
100万石超えたのって会津に転封されてからじゃね
越後時代でも佐渡の金山や庄内の湊で100万石以上の経済力はあったろうけど >>423
伊東潤は神奈川出身で北条贔屓だから。
作中で北条の武将のことは褒め称えるが上杉の武将は
悪者で小物っぽい書き方をするし だいたいの北条贔屓は創価だろ
一般人ならノブヤボから贔屓になった奴も居るけれど 上杉はパッとした武将もいないからね
捏造能力だけは天下一でしたけど(笑) あれ?
景勝時代だと佐渡よりは鳴海銀山の方が有力なのでは? >>431
先日BS11の「偉人・敗北からの教訓」で「日野富子は取次役が(幕府史僚の)伊勢宗瑞ならよかった」とかいってたね。 謙信最強伝説に騙されて上杉が東国で一番強いみたいな印象があるけど
よく考えると上杉が一番有利な条件だったにも関わらず
年々北条に押されてまくって関東から追い出されしまったし
武田上杉北条という東国の三大大名では上杉が一番格下だよね( ´・ω・`) 越後の往来に時間制限あること考えると攻めるにせよ守るにせよ厄介なのは確か
景勝もまぁ…会津でよく頑張った >>436
格もナニも無い。
関東戦国と云う構造の一構成要素として上杉(越後府中長尾)がそういう機能を与えられたというだけ。
長尾為景~景虎~顕景の流れ全体を俯瞰すればよく解る。
ゲーム脳で不識庵童貞和尚だけ見ていても何も見えない。
>>436
戦闘には強いが戦争には強くなかった
領国的には冬になる前に撤退しないといけないから有利ってほどでもないのでは 438だが、構造論は構造論として。
「格」という語に触発されて気になった。
平姓伊勢氏
源姓武田氏
藤姓上杉氏
当時の武家社会に於ける「格」付けとしてはどういう序列だったんだろうか。
>>440
単純に室町幕府内の氏族の家格でいったら
伊勢>上杉>武田
だろう
ただ、小田原北条の伊勢は分家だし
上杉の家格も戦国武将になると曖昧になってきているのでどこも大差はなくなっている 伊勢氏(後北条氏)→幕府史僚
武田氏→甲斐国守護
山内上杉氏→武蔵国・上野国守護・関東管領
府中長尾氏→越後国守護代 家柄で言えばあの辺りでは宇都宮とかが一番良さそうだが 景勝って5大老の中で一番知名度低そう
家臣に出番取られてるし
秀家は秀吉の猶子、関ヶ原の力戦、島流しエピソードで少しは一般でも知ってるみたい