豊臣恩顧大名や武将について考察するその3
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短命に終わった豊臣公儀。豊臣を支えられなかった豊臣家武将についてのスレです。 >>839
これだな
最近秀忠のスゴさがわかってきた 秀吉の政権てなんかすっげえ幼稚なんだよな
馬上天下を取ったが最後まで馬から降りられず粗暴なままで終わった観がある >>848
その菊亭を秀次事件で地獄に突き落とすのも秀吉だから絶句するわ
さすがに秀吉、マズい事に気づいたのか一年ぐらいで流罪から京に戻してるけど
正直、あれだけ貢献してこの仕打ちかとは思う 貴族の娘が死罪ってだけで一大事な気がする。当時貴族社会だと死刑ってほとんど無かったんじゃなかったか? 加藤清正とか福島正則などのほんとに忠実な武将を奉行並みの待遇で政権に入れなかったのはなぜだろう?
宇喜多以外の大老が武力を持った寄せ集めなのだから危機管理上必要だったでしょう その為に朝鮮出兵した疑惑ある位には土地が無かったんじゃなかろうか >>855
ほんとに忠実な武将とは?
どこかに忠誠度が出てるの? 豊臣政権自体有力大名による連立政権みたいなもんで秀吉恩顧衆に実力を与えられなかった、それでも一応権力だけはやろうとしたら五奉行の内乱よ 1585~1597の秀吉政権は連立的性格を持たないだろ
豊臣政権が連立政権だったのは秀吉が倒れた1598年5月から家康が大坂城に入る1599年9月までだよ 中野等だったか、東と西の連中で分かれていた連立政権だったというのは。どのみち豊臣公儀は未完成なもので大名家がそのまま肥大したものに過ぎなかった訳だけど。 源頼朝 死亡時、息子が幼少
足利尊氏 死亡時、息子が幼少
豊臣秀吉 死亡時、息子が幼少
徳川家康 死亡時、息子が将軍10年目 徳川も前田も毛利も上杉も削っていくのは無理だしなぁ というより諸侯の領地を削るのではなく、さらに広大な領土を手に入れることで
逆に大諸侯の影響力を相対的に落とそうと考えて実行したのが唐入りだろう
確かにこの方法はある意味画期的ではあったのだが…
もう秀吉の時代だと、今更その方向に舵を切るのは遅すぎたと思う
正直それこそ中世の始まりの頃から防衛戦以外での対外戦争が日本では当たり前のように
行われてた位じゃないとダメだったんじゃないかな
明治以降の日本の一時的な躍進は、産業革命という暴力的な技術革新による
強引な余裕がもたらした奇跡に過ぎないと考えているし >>863
政権基盤が脆弱な上に秀吉がじじい過ぎたね そこでやっぱり秀次がって話になるし秀次が中継ぎ関白全うしていたら徳川家康があそこまで力を持てず
武断派大名もしっかり東海道から畿内まで盤石に抑えられただろうけどな
北政所も家康との距離をあそこまで詰めず北政所経由での切り崩しも出来んかっただろう >>866
秀次が秀頼に禅譲する保証がどこにもないやん。
秀次・家康ラインに秀頼・前田ラインじゃ対抗できない。 鶴松が亡くなって
秀次養子にして
関白譲って
そのあとなんで中で出す 関白になった以上、成人の後継者は失う訳にはいかない筈なんだがなぁ…しかも秀次事件で被害を受けたのは主に親豊臣派で外様ほど少ないとかいう裏目に祟り目だし >>867
殺生関白の話を丸々信じてそうなレスで草
秀頼誕生時に秀吉本人が淀に「秀次の娘と秀頼を婚約させ男子が誕生すればその子がのちのち豊臣家を継ぐことになるようにしよう」と手紙を書き送りこれを読んだ淀もそれを喜んでいる
秀吉、秀次、秀頼、秀次娘と秀頼の男子という4代目までの継承を秀吉はすでに期待している
そして秀次に最も近かった外様大尿は伊達政宗であり政宗は秀次が関白になった頃には豊臣政権の奉行や前田利家と同じグループで
旧織田家家臣団筆頭の立場であった池田輝政らと昵懇
一方で徳川家康は関白秀次政権内ではその立ち位置はほとんど史料にないぐらい不明。
年老いていく秀吉から秀次への完全な世代交代を見据えた外様を含めた動きの中でむしろ敬遠されていたのではないか?と思うぐらい秀次と家康の関係は薄い >>871
秀次の娘と秀頼の婚約の記事の出典は書状ではなく駒井日記じゃね
文禄二年十月一日条
「木下半介方より申越、御ひろい様と姫君様御ひとつになさせられ候ハん由、
被仰出由関白様被成還御次㐧、其通羽筑州夫婦ヲ以可被仰出由也」
文禄2年の茶々宛の秀吉書状は三通あるけど、内二通は秀頼によく乳を飲ませるように、と
体調不良の茶々を気遣いお灸が嫌いにも関わらずよく我慢して沢山据えたものだと褒めてるものが一通
婚約に言及してる内容の書状はないな スレタイを理解してから熱弁しようね
バカにしか見えないよ 老いた君主が養子を後継者にしようとしたら実子が産まれてさぁ大変、なんてのは良くあるパターンだし色々な噂が飛び交ったんだろうな。 恩顧といえるのは宇喜多直家くらい
だいたい秀吉に迷惑してた家ばかり 豊臣秀頼の実父は大野治長だというのが通説、判例である。 それって貴方の感想ですよね?なんだろう、嘘つくのやめてもらっていいですか? >>878
糞ひろゆきを思い出させるな
反吐が出る 一番バカ見たのは福島正則、確かに本当にバカだったみたいだけど。 明らかに単細胞の脳筋だ
まるで今の日本政府みたいに無能だ
チャンコロに国内を侵略されているというのに
全く何もせず放置だからな 定義曖昧で意味をなさない言葉を
使い続けるために再定義する必要ある? >>878
糞ゆきって全然
論破出来てないよな
マウント取ってるだけ 家康も豊臣恩顧だよ
なにしろ秀吉に100万石以上も加増してくれたんだからね 「秀吉に」と書いてあるからだろ
「秀吉が」の誤字でしょ もしくは、してくれたじゃなく、してもらったにするか 何しろ織田というか信長恩顧そのものの秀吉が
勢威の衰えた織田家をあくまで家臣として立てることなくあっさり下にしたというよき実例を残してるからね
恩顧だからどうのって議論自体が不毛よ それならあんたは退場しなはれ
ここは恩顧のスレだから いやいや
恩顧に拘るのならまず織田の恩顧がどうだったかを押えとかなきゃダメでしょ
織田の恩顧だった誰かさんの行動はある種の先例になってるわけだからね
そこを意図的に無視して豊臣の恩顧だけ切り離しても無意味でしかない スレタイ読めんのか?
ここは豊臣恩顧や
織田にこだわるのならお前が織田恩顧のスレ立ててそっちでやれ 家臣以外で相対的に特別に優遇された大名やと思うんやがあんまり思い浮かばない
京極や石川あたりの待遇もそんなものやと思うし木村は結局は改易やし誰かこれぞ恩顧って言える大名おる? >>898
秀吉に大名にしてもらった連中じゃないの?
むしろ元家臣が該当すると思う。
黒田とか藤堂とかは陪臣から大名に引き立てられてるから、完全に恩顧 徳川も秀吉に大領与えられたから豊臣恩顧といえんこともないな より田舎に移されるのと北条討伐での働きを考えれば少ないぐらいだよ いい加減自分の思ってる恩顧を他人に押し付けるの止めろよ
別にお前の思ってる恩顧が正解なわけでもないのにいちゃもんてつけてる馬鹿のせいでスレがつまんね >>901
それで何か問題あるの?
秀吉がいなけりゃ独立大名になれなかったんだから、多大な恩顧があるよね? そもそも「豊臣恩顧」を考察して何をどうしたいのよ
あいつは恩顧だ、こいつも恩顧だでレッテル貼りしまくって
だから後々豊臣を滅ぼした(滅ぼすことに加担した)のは不忠だ裏切りだーみたいな
みみっちいことしたいわけじゃないよな?まさか 本当に恩顧という言葉について考えたけりゃ
自分の思う定義を押し付けるんじゃなく
その言葉がどういう文脈で
どういう意味で使われてるか
というところから考えてく >>910
というかまさにその文脈でこそ
使われる言葉が「豊臣恩顧」
他の文脈で使われることはほぼないかと 読売恩顧
長嶋、原、大森、高橋由、菅野
冷や飯
槇原、西本、仁志、清水、内海
こんな感じ 石田ではなく豊臣に恩義があるため三成の謀反を鎮圧して豊臣を守ったのだから
東軍大名が豊臣を守った豊臣恩顧だろ
そして関ヶ原で豊臣への恩義は返し切ったので後の行動は各自の自由というだけ でも、関ヶ原の恩賞は豊臣から出たので、またそこから、恩と奉公が発生するのでは
手柄を立てたから主従関係が切れることなど通常無いのでは
関ヶ原の恩賞が一切出なかったわけではないので 諸将が関ヶ原の行賞を誰からのものと捉えたのかが微妙なところで
その後我先に江戸へ伺候して屋敷地まで与えられたのを見ると
武家の主従関係は「御恩」を受ける側が誰を棟梁盟主として推戴するか選択する側面もあるのでは
「関ヶ原の新恩」なんて言い方もあるがこれは当時から言われてたのかな? 実際秀吉が定めた国割りのかなりの部分が家康にひっくり返されたわけでこの時点で豊臣は武家の棟梁じゃなくなってる
書面で出さずに口頭で行ったのは豊臣に遠慮してたからなんて考え方もあるみたいだけど、家康がお前に〇〇の国を与えると言えばその通りになるという家康の権力の強大さの証明でもある 豊臣家が関が原で中立を決め込んだことで
東軍にしろ西軍にしろ大名は豊臣家から見捨てられた形になってる
事態を収拾したのが秀頼ではなく家康であることは明らかだから
加増があったとて豊臣家からの御恩であるとは思われないだろう というか家康は豊臣姓持つ一門筆頭で
当時の政権の決定権者として加増してる
それが翌年大阪を出て伏見に移り
その2年後征夷大将軍宣下を受けて二条城に移り
さらに2年後秀忠に将軍宣下があって
政権トップの移譲、世襲が確定した
つまり別に前政権(豊臣政権)を畳んだわけでも
そのトップを退いたわけでもない
ついでに言うと秀頼がそのトップに付くという
政治的な節目も来たことがない 詭弁に見えるかもしれんけど単なる事実とし
家康は「豊臣政権」を捨てたわけでも
諸将が「豊臣政権」を捨て「徳川政権」を選んだ
と言うわけでもない
後から歴史の区切りとしてそのような
呼び方でくべつするようになった 武士にとって土地をくれる人間が親分であるというのは武士の発祥からずっとそうだから
関ヶ原戦後に家康の分配に秀頼が待ったをかけて覆すことが出来なかった時点でもう豊臣の時代は終わってる
秀吉の息子であり朝廷の顕職である秀頼を敬う気持ちは持ってただろうがそれはまた別のものだしね >>902
そこ見たけどこじづけでしかないんだよね
人間は誰しも色々な人から恩を受ける
だから豊臣だけから恩を受けたわけではないから
豊臣恩顧と言えるわけではないという締めくくり方をしている
アホの極みだよ 恩顧=なさけをかけること。ひいき
与える側の言葉だし働き分の恩賞しか与えなければ恩顧でもない 加藤清正と小西行長とか破格の待遇だし待遇面で言えば恩顧だよな 秀吉に恩があっても豊臣には無いってのが大抵の連中じゃろ >>900
歴戦の織豊武将たちの認識はむしろ逆だよ
自分たちが一所懸命に戦って何もなかった秀吉の地位を引き上げてやったのだから
豊臣の方が自分たちの働きぶりに感謝して恩賞を支払うのは当たり前
豊臣が恩賞を渋るなら別の御輿を担ぐ選択肢もありうる
だから豊臣恩顧などというのは強いて言うなら、武力に乏しい文官連中か
田舎から来たばかりで何も知らない新参外様大名くらいだろう
黒田とか藤堂とかは豊臣恩顧にはまったく該当しない >>927
だからお前の願望人に押し付けるなよ
正解なんて無いのに馬鹿かこいつ 豊臣が強かった時代は恩顧だの恩義だの振りかざす必要はないし、実際してもいない
政権運営に失敗してピンチに陥ってから慌てて恩顧だの恩義だの叫び始めただけ
そんな都合の良い主張なんて意味がないし、馬鹿げた恩着せがましい態度が通用するはずもない しかしながら、関ヶ原で三成たちの味方をしなかったから恩顧に報いてないだの、裏切っただのと言われるのはなんだかなと思う。 正統性があるほうが勝つんじゃ無くて勝ったやつだけが正統性を主張できる 勝てば正当性を主張出来るが正当性があるとは限らない
勝者が正しいとするなら歴史を考察する意味が無いんだわ >>933
「正しい」とか「正当化」とか云う類の単語が出て来る時点で既に歴史考察から逸脱している。
物理学者が物理現象を解析する如く、あくまでも歴史事実の構造とそれを生んだ因果律の解析、そして物証によるその解析の検証に徹しなければならない。
そこにたとえ一片でも正しいの正しくないのと云う「価値判断」などを持ち込んだ瞬間、それはもはや学術ではなくなる。
>>933
歴史は誰かの正しさを証明する道具じゃないぞ アンカー付けなかったが>>931に対しての書き込みやけど凄い読まれ方やな というか敗者も正当性は主張する
歴史を見たらそんな例はいくらでもある
後になって子孫や当時をろくに知らない第三者が
敗者の正当性を主張したり物語にしたりもする 勝てば正当化できるのは間違いではないんだが
正当性を主張するのにもきちんと手順を踏んだとかどういう手法を使ったかは重要だからな
そういう意味では豊臣家とか朝廷といった権威側からの要請もなく
挙兵に至った西軍のやり方は粗雑と言わざるを得ない 西軍の正当性=敵の家康が後で豊臣を滅ぼした
後世現代に至るまでの西軍びいきの論拠はまず間違いなくこれだけ
この後々の結果から逆算遡及して西軍の全ては免罪され正当化されてる >>941
この手の歴史を逆算でしか計れない手合いっているな、歴史が証明してるとか抜かして 突然軍事蜂起して正当性を主張したのが西軍
そこに説得力もなく周囲の理解も得られなかった
それが結果 考察するスレだから否定するにしろ理由ぐらいは欲しいんだが中身が無い書き込みが多くてうんざりするな 戦争は勝った方が絶対正義で負けた方が悪。これはいつの世も変わらん。特に戦国時代だと尚の事シビア。城を包囲されて城兵玉砕しました、ってなると国人衆は「守らなかった」「見捨てた」って言って寝返る。そうした例はゴロゴロあるじゃろ?盗られた奴が悪いって理論は時にして有効だった。諸将からすると大坂城を獲った時に徳川の正統性は消失したのよ。後は「どっちについた方が儲かるか」の話。正統性は利益を提示出来るという点では効果的だけど正統性のみでは何の役にも立たん。 大坂にいた諸侯の妻子を人質にとろうとした時点で西軍の挙兵がクーデターだって自らゲロってるようなもの
しかも取り逃したりガラシャのように自決されたりことごとく拒否られてるんだから
諸侯の盟主としての正統性などその時点でどこにもない
残ったのは東征諸侯に与えた空き巣強盗の印象と憎悪のみ 豊臣公儀が実は豊臣家と無関係に成立してると分かった時点で秀吉恩顧の大名も離れていったと 天下人じゃなく摂家として残せる
ってのは恩顧の大名家にとって
一安心の落とし所だったろうにな 五摂家が黙ってないだろう
秀吉秀次は朝議に出てたのか?
養父近衛前久も朝議には出てなかったが レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。