豊臣恩顧大名や武将について考察する2
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いわゆる豊臣恩顧と呼ばれる大名や武将について、その定義や含まれる大名や武将の範囲、あるいは逆に含まれないのはどんな大名や武将なのかなどなど色々と考えてみましょう
前スレ
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1639737819/ >>37
あーなるほど、ご指摘理解しました
確かに結びつけがないか ごめん >>35
御恩と奉公が厳格ってのはその通りで、故に「厳格に」考えないといけない。つまり「誰が」御恩を提示したか?ってところをね。武士は提示された御恩を請けて奉公する。この時実はその相手は個人だったりする。そいつがどんな立場だとかは重要じゃない。つまり豊臣から諸将に奉公を命じる場合、前もって豊臣から御恩を提示してないとならん。ところが東軍諸将は家康から御恩を提示されこれに従ってる。これでは諸将は豊臣に奉公する道理がない。それで実際、「家康さまからの恩はあるが豊臣には無い」って言われているんじゃないか? >>39
いや実際には重視されるのは
「誰に恩を受けたか」ではなく
「誰が恩を授けてくれるか」
そして恩というのは現実的な
地位と領土の保証なんだよ だとすると秀頼からの恩給発付状があるなら豊臣への御恩があるけど家康からのしかなければ家康からの御恩って事になるんじゃないか?
法的政治的機構なんて武将には無関係であくまで誰がどんな恩賞をくれるのかが重要なんだし。家康があんまり「東軍こそ公儀」とかを押してないのも諸将のホンネがわかっていたからこそなのか…? 現実的にどう振る舞えば自分達の
地位と領土が保証されるか?
というのが判断基準なんで
そういう重箱の隅みたいな手続き論で
動いてる訳ではないんだよ
家康は元より豊臣政権の大老主席で
元より豊臣家と朝廷に支持されて
出征してる訳でそれが公儀でないとは
ちょっと不思議な論理だね
家康が豊臣を裏切り自分個人に忠節しろ
とでも言い出したら公儀でなくなるだろうが
勿論そんなことは一切言っておらず
西軍が挙兵したからと政治的立場が
変わってしまった訳ではない
単に大阪城を占拠しただけで豊臣家からさえ
支持を受けることができない西軍側の方が
むしろ政権を握る正当性的に厳しかろう 恩給発布は関ヶ原終わってから、なのになんでそれが関ヶ原前に遡るのか
またこっちこそ公儀って強弁も公儀でない側が糊塗する必要があるからやるわけで、実際に公儀であればやる必要薄いね
ついでに言うと西軍は秀頼がなんと言おうとと言う形て恩賞の発給を約束するものもあるので、その理屈だと西軍は建前としても建てられてない話にもなるね >>39
この場合の御恩と言うのは、領地の安堵と恩賞の事なのは理解できるよね
東軍大名は形式的には豊臣家の大名で、領地の安堵状は豊臣家の名義なんだからさ
これで豊臣家の御恩受けてないというのは詭弁だね
ま、家康がなかなか動けなかった理由もそれで東軍先鋒が其の儘全軍寝返っても何も
文句いえないからさ
あの時点では家康の方が反乱軍なのだから、豊臣政府軍に帰順しても道義的非難は >>43
バタフライエフェクトを頑固に否定する人って意外と居るからですよ
実際、後で全ての情報が見られる人から見れば「何でこうなるの?」的な出来事は普通に
頻繁に起きてるんですよね
家康が最後の勝利者って前提で物事を見てるから、その時点で客観的に如何みえてるのか
って事を無視してるのが原因かと
帝政ローマ時代の記録だと、カエサルの副将ラビエヌスは「神君カエサルを裏切った逆賊」と
書かれてますが、あの時点でカエサル軍の方が反乱軍なのでして
神君カエサルと、神君家康、似てるでしょ 絡んでくるな史料研究もってこいって毎回言ってるだろ、例え話荒らし
よくまあ恥ずかしげもなくこっちに絡んでこれるなお前、さっさと求められた根拠耳揃えて出せや 豊臣恩顧というより秀吉恩顧にした方がいいんじゃないか
でないと藤堂みたいな奴も豊臣恩顧になるからな そもそも豊臣恩顧なんて呼び方を今使うの後世からの歪んだ贔屓くらいでしか使わないし
秀長仕えが長いって理由からかは知らないが藤堂をそこかれ外すって考えても良くわからないが >>44
家康が反乱軍?ちょっと何言ってるかわからないな
ちゃんとした説明を頼む
家康の会津征伐軍は豊臣家も朝廷も支持した
まさに豊臣政府軍だよ
西軍はその留守に蜂起したけど
自分達以外に支持した権威はなくて
それで反乱軍じゃないとは? >>49
そいつは例え話荒らしとよく言われるかなりたちの悪い荒らしで
妄想を主張したあと、根拠になる史料や研究求められてるのに関係ない例え話を似てるからって理由で出して説明した気になっては毎回叱られてトンズラ、その後また同じ妄想たれ流しを繰り返してまともな人呆れさせてる頭おかしいやつだから構うだけ無駄
説明求めても関係一切しない例え話と根拠に全くなりえない自己基準の見える思うだけでしか答えないよ 実際西軍は内府ちかいの条々によって
政権の座にいる家康を弾劾した訳だけど
それが最もなことだと受け取られたかというと・・・
実際の歴史の動きは真逆なんよね
当の豊臣家がまず目の前に軍勢集められても
それを支持する声明さえ出していない
寺社や公家が西軍の蜂起を義挙として喜んだ
という記録も寡聞にして知らない
西軍こそ豊臣軍、豊臣公儀とする見方って
結局根拠は内府ちがひの条々しかないのよね 白峰氏あたりは三大老、四奉行が味方に付いたことが西軍が官軍の根拠じゃなかったっけ? 多数決による合議制がそもそも機能していないというか存在すら怪しいのに
数の論理を持ち出されてもなあ 白峰の説は正直白峰の中だけでしか通ってないからなぁ 別にそれによって西軍の方が正統だと
認識するのは個人の勝手なんだけど
当時そう認識されてたとは言い難いよね
ってだけの話やね
勿論勝った方が正義とされたという
単純な力の論理の側面もある訳だが
にしても当時西軍の正統が支持されたという
形跡も残ってないんよね
互いの勝因敗因からしてそれは言えることで
東軍には別に豊臣倒して家康に天下取らせよう
なんて言って活動してた奴はいないし
徳川家と譜代だけが家康を支持してたわけではなく
多くの「豊臣恩顧」の大名が活躍してた
西軍が自分達の正統性を訴えたのは確かだが
それが東軍より強く支持されたとは言い難いし
それによって強く結束した訳でもない 西軍最強の立花宗茂が戦場にいないとか色々間違えまくってんだよ西軍は
誰が立案したのか知らんけど 西軍は東軍諸将が動揺してると見ていたから戦線を拡大してた。あと清洲城が味方にならなかったので東の情報が入ってこなかったというのもあるんだとか。
そうしたら電撃的に岐阜城を落として西軍の戦略は瓦解、更に徳川の調略によって裏切りが多発(岐阜城が落ちたのもこれが一因でもある)戦略を立て直せないまま松尾山が小早川秀秋に取られて絶体絶命…
この有様だから根本的な戦略ミスを直せないと誰が居ても死人が増えてただけってオチになりそう。 自分たちが挙兵すれば会津征伐軍は瓦解するという間違った憶測から挙兵してるから、そもそもそれが間違いだと気づけるなら挙兵はしないっていう身も蓋もない話になってしまう 大津城の離反は絶対に放っておくわけにはいかないから
最強の札で取り返しに行ったとも言えるんじゃない
あの位置で粘られたら最悪だし >>59
大した力ないやん
あまりアテにならんのを宛がって塞いどけばそれでよかったんじゃないの 関ヶ原が起きたのは9/14に松尾山を小早川秀秋が占拠して大垣・佐和山ラインを東軍に潰された事が発端なので西軍からすると予想外の緊急事態だった。そうなると大津城に回した軍勢は緊急事態によって遊兵と化した訳でこれはどうしようもない不可抗力だったのでは… >>61
それは我々が関が原本戦がすぐに決着がついてしまうのを知ってるから言える話で
ただでさえ岐阜城の陥落で動揺が走っている状況なのだから
軍事的にも政治的にも要衝である大津城はさっさと取り返す必要がある
毛利元康や立花宗茂が派遣されて激戦になったのはそういうことじゃないかな 剛勇鎮西一と言われた人間が関ヶ原にいたからと言って戦況が変わるってもんでもなく、なんか考え方がゲームに寄り過ぎ 立花宗茂が家康から誘われて秀吉の恩義を理由に断ったってのは本当なの?
本当なら三成らの主張を無邪気に信じていたのか
家康の振る舞いを専横として苦々しく思う向きが奉行毛利ら以外にもあったということなのか 岐阜城が陥落して動揺し、家康からの調略によって裏切りが相次いでる。ここで大津城を見逃すと下手すりゃ国ごと東軍に転びかねない。そうなる前に決着させてしまおう、って訳でそんなに変な話でも無い気がするね。ところがもう既に崩壊が始まっていたと。 関ヶ原に兵力集中してたらとは言えるが
全軍率いる訳でもない1人の武将が
戦局ひっくり返すてのは夢想がすぎるな
他方面にいた予備兵力は東軍にもいた訳だし 結果はどうであれ、主戦場に立花宗茂と毛利秀包という二人がいると
いないとでは違いはあるだろう
宗茂だけでなく、毛利秀包も性格的も勇将タイプで、実戦経験と戦功は豊富
同い年の立花宗茂とは、肥後国人一揆の際に意気投合して義兄弟の契りをかわした仲で、
容姿が優れた秀包は宗茂と衆道の関係にあったとも言われるマブダチ
大津に貼り付けた毛利元康、毛利秀包、立花宗茂、筑紫広門の15000は、
南宮山の毛利秀元、吉川広家の16000は率いた戦力的に拮抗しているから、
歴史ファンが配置が逆であればなあと妄想したくなるのはしょうがないと思う ゲームと違ってタイプとかないんで
2人とも15000のうちごくごく一部しか指揮しないし
あと別に大津に張り付いてた訳じゃなく
大津城が東軍に着いたことで主戦場(と仮に言う)の
西軍が退路と連絡断たれるのを回復するために
絶対放置できない重要拠点落としに行っただけだし 少なくとも出典不明すぎるな宗茂のその逸話
また、あってもおかしくないとあったと断じれるは天と地ほどの差があるし
あったとするなら最低限あったとする側がその信憑性を提示しないとね 事績と実績から気性はわかるでしょ
それに二人とも13万石の独立した中堅大名だから3000〜5000人程度の直属の自家戦力を率いて参戦している まぁ立花さんが二万か三万率いていたら結構違ったかも知れないけど、立花さん一万くらいは連れていたのかな? 大津城攻めが毛利元康を大将として15000とされててそのうちに宗茂でしょ?
5000連れてたら頑張ってる方くらいの兵数かね どちらにせよ、猛将いたら戦況変わるような話かというと
関ヶ原最近は二重退きしてる最中に殿軍の毛利隊はさっさと東軍と結んでたので捕捉されて撃破された、とかも言われてるし 旧記雑録後編にある島津義弘書状によると、
「陣立ては長宗我部殿は二千人のところ五千人を、立花殿は千三百人のところ四千人を連れてくるそうです」とあるので居ても四千人かぁ…
絶妙に少ないな…居たらもしかしたら三成がもっと逃げれたかもしれん。
関ヶ原は向かいくる東軍を西軍が迎撃した戦じゃなくて松尾山を攻めようとした西軍の土手っ腹を東軍が食い破ってきた戦だから歴戦の猛者なら逃走を考えるんじゃないか? そもそもほとんどが日和見だったんじゃないの
そんな中で立花なんかは大坂城籠城を進言するほどやる気満々だったわけで、そういうやる気満々なのが優勢な空気を作ればどっちに転ぶかわからん大名はそれなりにいたんじゃないか テキトーな話だけどwikiの立花宗茂の項で宗茂の事績として載ってたもんで聞いてみたんだが
やっぱり軍記講談の類なわけね、wikiはそういうのをシレッとさも本当に言ったかのように書くからなあ
wikiがその辺低級なのは周知のことだけど一般ピープルはお手軽にそういうの読んで
また例え話荒らしみたく洗脳されてくから害悪でしかないな
秀吉の死から関ヶ原までの記述なんか明らかに旧来の家康悪人説で統一されてるし 4000人なら十分に多いよ
自国内または兵站が可能な隣国での戦いではない遠征軍、それも朝鮮出兵で
疲弊している大名の中で10000人動員できるのは徳川と前田ぐらいだ
そもそも中央統制の近代ならともかく、個々の大名は独立した友軍であって
支配下の兵じゃないあの当時で10000の指揮なんかそもそもありえない
西軍がまさにそうだし、東軍だって福島・池田たちは家康の指揮下にない
秀吉のような国家のトップでない限り、他の大名に指示できるのは
進行目標の提示や陣の配置調整ぐらいだ
「10000はないと・・」って、それこそ神の視点で全兵力を指揮できる
ゲーム脳だと思う >>80
あんた自身>>69で15000とかサバ読んでんじゃんw 大垣城の救援のために動いたら松尾山に小早川隊が陣取って、それ対処しようと松尾山近辺にいたところをすでに東軍と連絡済みの毛利隊が東軍素通ししてやられたって前提を無視して何を言っとるのか >>81
日本語読めないの?
大津に貼り付けた毛利元康、毛利秀包、立花宗茂、筑紫広門の15000
南宮山の毛利秀元、吉川広家の16000
これが、立花宗茂が15000率いているように見えるんだ? 秀忠時代以降
福島家加藤家だけ徹底的にそぎ落とされ
純粋豊臣恩顧の蜂須賀竹中黒田は普通に残ってる
福島加藤は秀吉親族だから狙われたのかな また湧いたよろくすっぽ調べないでテキトーに福島加藤が狙われたんだーとかいうやつ
笠谷の論文よめや >>83
読めるからタイプとか関係ないと突っ込んだんじゃん
最初は立花宗茂がいればとかアホ丸出しな話題だったのに
突っ込まれたら兵数の話にそらすのなんなん? IFの話はもうどうとでもゴールポストずれるわで話しても不毛になりがちだからそのへんでやめといたら?
歴史ファンでも自分のすきな武将活躍してればなぁって想像するのが楽しい人もいれば、史料研究から事実と解釈されるものを更新してくのが楽しいって人もいるし、その場合どうしたって噛み合わないから まぁ「もしあれがこうだったら」ってロマンは大事。
とは言え関ヶ原って謂わば処刑か見世物みたいなもんで毛利による三成切り捨ての儀式なんだよなぁ…
三成は二つの裏切りに遭ってしまった。一つは小早川秀秋で松尾山を占拠されたことで西軍の生命線に刃を突っ込まれてしまった。
二つ目が毛利で南宮山に布陣するという割と嫌がらせ的な行動に加えて東軍相手に微動だにしないことで東軍がストレートに関ヶ原に突っ込んできた。毛利はとっくに東軍に内通していたから当たり前ではあるんだけど。 京極高次の評価が低いからあんな奴に無駄な労力をって感じるだけで
戦後家康が評価したように高次を褒めればいいんだよね 京極高次は明智光秀に加担して負け組の悲哀を味わってるから
似たような状況の西軍に加担は出来ないと思うわ ちょっと前に竹中重門の裏切り効果の話題あったけど
その意味で評価されるべきは京極高次だよな
閨閥で出世したってのは早くから言われてたぽいが
大津という要衝を任される信頼は受けてたわけだし
周り西軍だらけの中でリスク冒して籠城戦選択して
寡兵で最大の効果をしっかり引き出してる
東軍先鋒には井伊本多らが目付についてたとは言え
東海道を任されてた「豊臣恩顧」の武将達が
同じことをしてたら流れ変わった可能性はある
が、そこまでして「西軍の大義」に殉じるものは
ついに現れなかった >>87
勝頼スレから流入してる気がするな
あそこ園児の砂場だから >>84
純粋豊臣恩顧??
蜂須賀も黒田も織田家時代に部下だっただけなのに >>86
自分の間違い指摘されると論点すり替えですか いや?オレは最初から
立花宗茂がいたかどうかは関係ない
と言う点で一貫してるぞ
それを兵数の問題にすり替えたのはあなたの方 誰それ強〜いとか、もしこうだったなら軍師おままごとはよそでやってほしい >>52
少し古いかも知れないけど白峰氏の論文
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/dk05213.pdf?file_id=5363
石田・毛利連合政権成立の論拠
【1】豊臣秀吉の後継者である豊臣秀頼を直接推戴した
【2】毛利輝元が公儀の城郭である大坂城に入城して豊臣秀頼を直接補佐した
【3】自らを「公儀」と称した
【4】政権の所在地である大坂を中心とした上方を完全に掌握していた
【5】大名(細川忠興)を改易にして、近隣の諸大名に城受け取りを命じた
【6】大名に所領(知行)を与えた 推戴できてねーし補佐もなれてねーしで他はクーデターで火事場泥棒したからで豊臣から認められた訳でもないって考えると、根拠になってないよなぁこれ >>51
似たような状況で行くと、カエサルは本国ローマ占領して自分は元老院で執政官に選ばれたから
自分が正統ローマ軍だと主張してます。
でも元老院議員は600人もいて過半数はローマから逃亡してギリシャのポンペイウス陣営に
行ってる訳でして。
そして特に東方の、ローマの同盟都市や同盟部族や同盟王国はポンペイウスの方が正統ローマ軍だと
みなしてたようで「援軍だしてた」して
どう見てもファルサロスでポンペイウスの主力破るまではカエサルの方が反乱軍なのな。
内府違ひの条々みるとねえ... >>98
読んだけど牽強付会がすぎる
公儀と称した、実態のない宛行いを行ったとか
越中身上之義、 秀頼様より曲事
以下の文書も根拠にしているが、信じがたいし、2大老4奉行が揃ったことによって公儀が確立したのだとしたら秀頼の意向はあまり関係ない
まず石田、毛利政権なるものが秀頼をグリップしていたという根拠を示すべきだが、そこはなにも論証していない
単なるクーデター、秀頼の意向を騙ったとしか思えない
仮定に仮定を重ねるが、秀頼の意向を騙らねばならなかったとしたら、正統性ある公儀だと自らの陣営のことを思っていなかったんだろう >>99
同意見なんだが、レスポンスの速さからして論文の中身読んでないでしょ >>100
明確な主君である豊臣本家が西軍を相手にしてない時点でね
淀殿は西軍は謀反と認識して家康に通報してるし 結局たとえ話でしか語れない辺りほんとに一ミリも勉強せずに妄想だけで喋ってんのな
あれ似てる気がするだけで論拠になるなら燕に色目の似てるペンギンは空を飛ぶわな
どんだけアホな論陣はってんだあいつ ある意味で言うと豊臣を潰したのは西軍なんだよな。
力で押せば「公儀」になります、なんてのは政権として最悪の状況だわな。豊臣に天下人の資格なしと満天下に示してしまった。
毛利が大坂城を占拠した時点で豊臣公儀は崩壊し、徳川公儀が誕生したとすらいえる。 正統だと思うかどうかは
あなた自身の政治的立場の表明なので
好きにしてくれとしか言えない
が、あなたの(あなたがたの)政治的立場を
客観的な歴史上の事実と同一視はできないし
当時どう受け取られていたかも全く別の話だ
400年前の事象についてそんな視点で論じるのが
すでに正気の沙汰でないと言うのも理解して欲しい 木付城についても
其城之儀、大友方へ従 秀頼様被遣之由候て、差下之由候、上関辺迄被下候由、我等所へ申越候
石田、毛利政権なるものは秀頼の名前を出さないと動けない 単純にクーデター軍だって
正当性を主張してたというだけの話であって
だから何?としか言いようがない クーデターだの公儀だの、全部屁理屈を大真面目に語って白黒つけたがってるだけにしか見えないな クーデターとは暴力によって引き起こされる政変
なので西軍の挙兵はクーデターで間違いなかろう?
公儀とはおおやけ、公権力という意味で
当然政権を狙うものは我こそはと主張する
東軍は元々公議を担って出征した会津征伐軍だし
それを討とうとした西軍も主張した
ただそれだけの話だよ
政治闘争なのだから両者が正統性を主張する そもそもこういう事態での「公儀」なり政権の定義がなされていないからなあ
白峰氏としては条々と、敵方の書状に秀頼の意向が書いてあるといったところで攻めてるが
改易や宛行いを命じたといっても実効性が伴わないとだし
少なくとも上杉討伐軍は豊臣の公式な軍事行動で、朝廷も支持していた この時に秀頼が家康に救援要請して「恩賞は望むままに認める」と言っていたらせめて君主としての格は保てていたろうけど…公儀がコウモリ作戦をしちゃいかん。 上記の論文にしても「西軍が公儀を主張した」
のは確かだがそれによって
「家康の公儀が否定された」と結論付けてるのは
そりゃ西軍の論理においてはそうというだけよな
いまいち何がしたいんだろう?この人
って感想になる そりゃ白峰氏は「関ヶ原は家康の陰謀で三成は踊らされてた」って思想が強いお方ですし…
西軍が必死に正統性を演出してるときに徳川は既に諸将をまとめ上げていた訳でもう役者が違うわな。 この時点で豊臣家の中枢は権力者に付き従うしか道が無いんだから西軍が秀頼を手中に収めたなら西軍が公儀になるよ
逆に徳川が公儀と認められたのも同じこと
そんな上辺だけのあやふやなものだから理屈をこねたって意味を成さない
解釈次第でどっちも公儀と取れるだけ 公儀として手続きを整えて動いた会津征伐軍に対して自分ルールで豊臣棚上げで蜂起したのを豊臣が掣肘できてない時点で
豊臣の武威のなさがわかりやすい形で世に見えてしまったね
その上で豊臣が西軍の手中に収まっていたかというと最後まで西軍を豊臣が公儀として認定したってのもなくまた朝廷からのお墨付きも結局もらえてないので
収まってもいないしせいぜい西軍は公儀を自称した、程度にしかならないかな >>116
上辺で理屈こねてるだけだから解釈次第でどちらも公儀と取れるだけでしょ
そんな0か100かみたいな認識されても困る >>117
史料も提示しない単なる感想はいらないよ
「豊臣の武威」のなさとやらが世に見えたという主張、抽象的すぎてよく分からないんだが根拠史料は?
当然あるんだろ? >>118
あなたの論だと西軍が大坂城を実効支配していたのは間違いないんだから、この場合は西軍が公儀になってしまう
その上で公儀だのなんだの、そんなもの屁理屈だと言われても
同感なんだが、論立てが雑 根拠というか、クーデターが畿内で蜂起したのを掣肘できてないのは武威がなかったと言ってるのだけど、なにか? >>121
六歳の男児とその家政機関がクーデターをなんとかせいと
まあそこはともかく、武威なるもののなさが世の中に見えてしまったという根拠は?
いつもいろんな人に史料出せって言ってるんだから、出しなよ
いっとくけど一次史料じゃないとダメだよ
あなたいつもそうなんだから この件に関してはクーデターを鎮定できるだけの力が豊臣本家になかったというのが根拠、これで納得できないなら別に感想で結構
政権というのは自前の作った秩序を乱す人間を自前の指図で鎮圧できるだけの武力を持って成立つって考えから言ったが、そこに疑問があるなら別にいいよ
また勘違いしてるが、一次史料でも信用の置けないもの二次史料でも信用の置けるものもあるから一次史料に限ることはなんの意味もないよ、誰と勘違いしてんだか知らんが 東軍も西軍も豊臣政権のトップを
主張してるのは変わらん
(それがつまり公儀ということ)
ただそれによって豊臣政権のトップ(公儀)が
結局実力者の意のままになるもので
推戴される豊臣家、秀頼の意も
統治機構としての政権の枠組みも無力
ということがはっきりしてしまった >>123
近衛師団だけでなんとかしようというのか
北上した上杉討伐軍含めての「武威」だ
空白を突かれただけで、いずれにせよ東西は秀頼を名聞に戦っている
豊臣本家の軍事力より権威が重要な証左だろ
きみがいうように例え話は確かにうざいが、感想でいいというならきみも同じだろ
相手に求めるなら自分も実行しろ 軍事力より権威が重要というものでもなく両輪でいくら権威があろうと軍事力がなければ最終的には無力になるのは織田足利間で足利追放したあと織田が公儀として振る舞うことができなかったかと言うとノーでしょ
もちろん会津征伐軍も武威だが、じゃあお膝元でクーデター起きたのを鎮定できずに征伐軍帰ってくるまで恣にされて政権としての権威が傷ついてないかと言えばそれもノーでしょ
具体的な事例についてなら普段から根拠いくらでも出してるよ、あれに怒ってるのは常日頃から具体的事例にも根拠を一切出さないのが年単位で何度も繰り返されてるから、一度や二度根拠のない話されてカッカするほどの事はしてもいない
一度抽象的な話したからって噛み付いてこられるのは非常に心外だな >>126
いや、感想想像じゃなくて史料研究持ってきてよ
人に求めるんだから当然、あなたも義務を負うよね あー具代的な例というとまさしくこれか
関ヶ原のあと、豊臣ではなく徳川のもとへ人質を出す諸侯が格段に増えてってのも結局彼らの権益の保障をしてくれるのは乱時になにもしなかった(できなかった)権威の豊臣ではなく、直接指示をして武力によって秩序を乱したのを鎮定できた徳川だと判断したからでしょ?
正しく武威の存在によるものでは? >>129
他人には求めるんだから史料研究の出典を示してね
あーこれかじゃなくて
できるから暴言も吐くんだろうし
出典大事だよ、分かる? 随分幼稚な絡み方してくるんですね
例え話にむかっ腹立って日頃から史料研究が出てこない点について怒ったのがそんなに気に食わないか?
俺が程度が過ぎるほど史料研究出してないように見えたか?
普段から史料研究出した上で語ってるがそこまでバカにされるほどの事をした覚えはないぞ
一次史料と信憑性の高い史料を混同してるような輩に 公儀なんてものは関ヶ原に勝ってから決まるものだろ
西軍が公儀などというのは、五輪に行く前に自分は金メダリストだと自称しているようなもの
勝ってから言え、としか言いようがない >>131
少なくともきみの今日の書き込みについて、史料研究は一切示されていないな
他人には史料や出典を今日も求めているのに
これは推測だが、きみが史料読めるとも思えないんだよ笑 >>113
だからさ、家康は建前が何にしろ他の大老や奉行は無視して全部自分で決めてる訳だよ。
東軍は、家康と言う独裁者が指揮してて事実上の徳川軍なのでね。
これはさ、内乱時にカエサルが自分は正当ローマ軍だと主張してるのに事実上の独裁者で有る事と
似てませんか
カエサルが考える元老院は「独裁者カエサルに協力する機関」でしか無いんですよね
元老院派は自分たちが正統ローマで、ポンペイウスも元老院が選んだ軍事指揮官に過ぎないと言う
解釈です。
カエサルは全部自分で決めて良い「独裁者だし」んだけど、ポンペイウスはそうじゃない。
全部家康が決めてる時点で、秀頼が主君とか思ってないでしょ。 なら史料の用いなければならない話でもしようか?今日IFの話と白峰の話しか出てないから具体的な史料の出る話もなかったが
関ヶ原当日慶長5年9月15日の加藤清正から中川秀成宛起請文では秀吉の遺言を守るため秀頼への奉公のために家康の無二の御一味になることや公儀のためにといった言葉が出てて、公儀論には使えると思うがこの史料についてはどう考えてるの? この史料から家康を加藤清正が公儀だと判断して、家康へ別心することは秀吉の御遺言に背く行為としてると解釈されるものだと思うが、君はどう解釈する? >>134
家康が無視しているというより他の大老・奉行がまともに働いていないのが実情だろ
会津に引きこもって上洛も拒否する上杉とか
朝鮮から戻った武将に尊大な振る舞いで喧嘩を売る奉行とか
他の大老も含めて家康以外は真面目に働く気概が欠けていた
関ヶ原が短期で決着した根本的な原因も
返り咲きしたいという特殊な動機があった石田一派を除けば西軍大老・奉行にやる気がないからであり
独裁がどうこうだとか以前の問題だった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています