石田三成の挙兵
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 そもそも西軍の主張として家康の独裁を批判しているのだから
西軍は寄り合い所帯的な組織にしかなりえないんじゃないの ID:wWwblqbeは例え話
今日は連投してないけどID:W8GYEAIzがいつも一人でID変えながら自演してる妄想野郎 例え話とそれを攻撃する流れも自演だよな
どこにそんなに人がいたんだってキレて湧いてくるし >>843
これが一人の自演に見えるなら、高確率で統合失調症なんだけどね?
統合失調症の重要な症状は、自分と他人の区別が曖昧に成る事
其の為、薄弱な根拠で同一人物認定すると言う行動が頻繁に起きる
色んなスレに現れる、自演認定職人って糖質だよ こんな妄想が複数いると思いたくないのは当たり前の考え 長文は全部同じ奴だろう?
真っ赤になってるIDが2人とか3人でやってる方がそれっぽいのに単発から3レスぐらいのばっかりじゃん ていうか輝元のやってる事ってモロ秀吉の惣無事令違反だしな。「後願の憂いを断つ」って言えば戦略的っぽいけど仮にも公儀がそんなことしちゃダメだろう。 まあそこ言い出すと西軍の挙兵自体がね
序列上位者を引き摺り下ろす仕組みがないとは言え
武力で倒せばOKとなると政権の存在意義に関わる 狙って荒らしてるのか本人にスレ荒らしてる自覚が無いのか
何にせよ対処する方法が無いんだからそら人も寄り付かなくなるわな 西軍首脳陣の考えが西軍決起によって家康は孤立するということなんだから
こちらに従わない勢力を近場から叩くいていくのは妥当な戦略では
会津征伐軍が崩壊するどころかほぼ一丸となって逆撃してきた結果から逆算するから
上杉との挟撃の必要性なんかが出てくるわけで 惣無事令で紛争が起きたら公儀が仲裁する、これを拒否ったら討伐する。それが秀吉の作った豊臣公儀じゃろ?だから家康も会津征伐では上杉しか対象にしてない。例えば「景勝と仲のいい三成が戦争仕掛けてくるから」とかで領土を奪おうとかもしてない。つまり本気で西軍が自分を公儀だと思ってるなら家康に上洛命令するかさもなくば徳川のみと戦うべきだったんじゃないか。 >>858
同意だわ
結局誤算はその部分なんよね
>>859
公儀として筋を通すならそうだが
それで勝てるかというとまた別
そして筋を通すならそもそも挙兵が・・・ 板自体人数が少な過ぎて数人が暴れ回ってる状態なんだろうね
だから同じような話題がスレを超えて何度も繰り返される 「大坂を押さえれば全員言うことを聞くと思った」っていう西軍の戦略思想も割と微妙なのよね。西軍は九州や自軍に対しては公儀を自称してるけど東に対しては使ってないし。
むしろ諸将の妻子を人質にする事を期待してたっぽいけどそれも徹底されてない。そもそも人質なんて最悪見殺しにされる世界で生きてきてた筈で絶対視は出来ないと分かってた筈だが… >>862
活発な議論しているところに…が現れて過疎る
いつものパターン 結局西軍自身に「己が公儀」という意識が無くて公儀云々は勢力拡大の為の口実だったと。そう見ると一番勢力拡大に野心的だった毛利輝元が一等の悪党なんだよなぁ。三成とか目じゃないよ。 >>864
わかるわ
普段…使って特徴つけておいて別回線では普通目の文体と使い分けてるんだろうな 自分の興味というより勢いのあるところに片っ端から顔だして妄言並べるから邪魔なんだよ
史料を誤読して指摘されても無視
会話も成り立たない
自覚なき荒らし >>860
西軍が実は公儀を名乗って勢力拡大狙ってるだけだしねぇ 西軍が公儀がどうこう言ってるのも豊臣スレとまんまだしほんとに一部が暴れてる状態なんだろうな
そんでスレを潰した後は別の伸びてるスレに出張ってくるからタチが悪い 明らかな間違いを指摘されても無視して構わず同じ主張を垂れ流し続けるからな
豊臣恩顧スレの多聞院日記の誤読と七将スレの輝元書状「ねらいたて仕候者」の誤訳は特に酷かった >>871
研究者の見解出してるのに妄想で「三成が狙った奴」って訳してたやつね。あれはたしかに酷かったね。 奴は会話ができないし、根本的に頭の回路がおかしい
ボケ老人と言われてたが言い得て妙 西軍決起は大坂三奉行と毛利輝元が主導したもので三成が関わってたという証拠は全く無いんだよな。だから何で三成を引き込んだのか。決起後に西軍は徳川との決戦を忌避してるから上杉と連携とる為でもなさそうだし。 >>874
酷いのは未だに謙譲語と受け身の違いも理解できないお前なんだけどね
それでまた三成は決起に関わってなかったと同じ話し始めてるけどわざとやってるの? あいつのいるスレって平日午前が活発なんだよな
不思議 >>878
不思議でも何でもない
歳をとると早起きになるんだよ 毛利は野心家の首謀者だけど
一年前からその毛利を唆して対家康の
陰謀話し合ってる三成は巻き込まれただけ
不思議だねー 一次史料だと三成が家康を狙ったって話自体が無いんだよな。細川家譜だの黒田家譜だのもしくは徳川実紀みたいな徳川家の歴史には残ってるけど。三成がやった事と言えば毛利と徒党を組んだくらいで家康の命を狙ったってのは後世の作り話よ。司馬遼太郎作品の読みすぎ。 毛利の46号文書の解釈で一番支持されてるのは光成氏の慶長四年説だろ。白峰氏の慶長五年説は支持されてるとは言い難い。光成氏は七将に襲撃された三成が輝元に助けを求めた書状だとしていてこれが通説になってる。白峰氏の上杉討伐に対処する為の書状ってのは支持してる書物を見たことがないしそもそも白峰氏も自信が無いような書き方してる。家康云々は関ヶ原から逆算して作られた御伽噺に過ぎん。 もう荒らしと変わらないな
勢いあるスレを片っ端から連投で潰してるようなもの そもそも勢いがあるというのも本物なのかこいつがそう見せかけているのかすら分からない
何年も前から織田武田関係と徳川豊臣関係で同じことやってるもん 前北条は不可抗力だけど後北条は秀吉に従っていればな・・・
>>880
毛利は天下を目指すなと元就に言われてなかったっけ? 吉川広家は元就は毛利は天下を狙うなと遺言したろと説得したけど輝元は聞く耳持たなかった。でいざ負けたら安国寺恵瓊を生贄にして生き延びた。 白峰氏が慶長五年に比定している書状に共通するのは下屋敷の塀の修繕と元康の病気を心配(快復気味)していること
元康は慶長六年一月に病死
明らかに連続しているね
妄想太郎には分からないんだろうが 三成が家康の命を狙ったとか時代小説の読み過ぎ。一次史料には全く残ってないからね。第一家康は三成を警戒してないもの。 今話題の文書がその史料なのだがw
あと命を狙うってまさか
自ら暗殺狙ってるとでも思ったのか?
そんなこと書いてないし誰も言ってないが 慶長四年とする光成説が通説で慶長五年とする白峰説を論拠にする本を見た事が無いなぁ。誰か知ってる人います?
慶長五年説はかなり無理がある訳だけど一番の問題点は三成が小西行長と寺沢広高を使者にしてる点かな。こいつら曲がりなりにも万石の大名で私人が顎で使える相手じゃない。三成が奉行だったらその権力を使えるだろうけど謹慎処分を喰らって面目失った慶長五年以降というのは考え難い。隠居して尚隠然たる力があったとするなら上杉や真田と交渉すらしてない事と矛盾するし。それで光成説が支持されてるんじゃないの。 後の薩長同盟のことを考えると
家康はやはり関ヶ原の後に島津を徹底的に征伐すべきだったな
あの時の徳川の武力と勢いなら十分可能だったろうし 九州勢が島津国境まで軍を進めてたから潰そうと思えば潰せただろうな
或いはそれを見た徳川が逆に危機感を覚えたのかもしれないが >>892
可能じゃないでしょ
勝てるとしても何年かかるやら 島津は対明での和睦交渉を受け持っていた事と、親徳川派の島津忠恒がいてこいつが次期当主なのは明らかだったから潰す必要が無かったんだろう。 >>893
まあ、あの時点で薩摩征伐は物凄い博打ですよね
関ヶ原の戦後処理で、後戻りできない事色々と「毛利家処分とか」してますし
長期戦になれば、必ず狸の尻尾に噛みつく奴がいる。
まあ出来ない事もないが、勝率は半分もあれば良いくらい 徳川が出張るまでもなく黒田如水、加藤清正、鍋島直茂、立花宗茂他九州の軍勢が島津に攻めかかる一歩手前まで段取り進めてた
その後の影響はともかく島津潰しはこの面子で十分やれそうな気はする 島津は首謀者クラスでもないし島津家として正式に西軍に参加したとも言い難い
政情に疎かった義弘が三成らに「秀頼様御為だから」と騙されただけで国元の義久は一切関与してないし
あと家康と島津双方に昵懇だった近衛前久が早々に取り成ししたのも大きかったろう
別に島津も創作にあるような強硬姿勢とってたわけではなく弁明と恭順の交渉してたんだから
家康がわざわざ征伐する意義も名分もない
当時の島津なんて豊臣政権でもそんな大物でもないしな 島津義久の思惑がどうだったのかわからんしな
義久は毛利輝元や上杉景勝あたりよりも戦国大名としては上
宇喜多と島津の繋がりは唐入り絡みぐらいだろうから秀家は使い捨てできる手駒扱いな気がする 島津は何故か西軍に参加してしまったわけだけど何の打算があったんだろう。西軍が勝てば九州の西軍勢力が東に移って島津領が拡大とか? 島津は義弘が巻き込まれただけだろ
義弘の出兵要請に対して義久は塩対応してる
西軍は巻き込まれて参加しただけのがいるから小早川みたいに内通するのが出てくる 義久は鹿児島が大事でそれ以外はどうでもいい。だから中央のことはどうでもいい
義弘はそれじゃまずいと思っていて兄貴に頼み込んで朝鮮には大軍を動員出来たが関ヶ原の時は国元もゴタついてたから全然兵を回してもらえなかった 島津忠恒は関ヶ原の前年に石田三成とツーカーの仲の家老の伊集院忠棟をぶっ殺して三成を激怒させてる非三成派
島津義久は弟義弘が西軍中枢に参加してるのに義弘や輝元と三奉行からの度重なる援軍要請をガン無視した消極的東軍ともいっていい態度
加増出来るほどではないが義弘助命くらいの恩賞を与えれる間柄であって敵対しないなら元から討伐の対象ではないのよね
まぁ島津と仲が悪くてちょっかい出してた加藤清正がこれを機に島津をぶっ潰したがって徳川せっついていたりもしてたが 清正は義久・忠恒は無関係を装ってるが、宇土城への後巻として島津忠長や新納忠元、本田正親らが
佐敷表にまで出張ってきてたのに、義久・忠恒がそれを知らないはずがないって榊原康政に主張してるな
この清正書状が榊原家ではなく黒田家に伝わってるのも面白い 清正から見れば小西側を支援してた島津はモロ西軍だったろうな
これも十分島津を処罰する理由になっただろうが結果は九州勢を停戦させた上で本領安堵に 島津も地生え大名だから近世型への移行過程で家中がゴタゴタしてたんだろうか
毛利といい上杉といい西軍にはそういうの多いな、たまたまだろうけど 政権首班の徳川からしたら島津倒せるかより
戦後の統治のほうが大事だからな
九州仕置きを在地勢力にやらせたら
戦後の配分も彼らの優位に進むし
下手したら政権への発言力も生まれる
東軍先鋒による岐阜陥落後にまったかけて
大急ぎで進軍したのと同じことで
即参加できない以上は現地の軍勢を
国許に帰すほうが先決 義久だっけ?「あなた(三成)の赦しを得て伊集院を誅殺したって聞いたんですけど違ったんですか本当にけしからん話です」とか言ってるのは。そんでそれもなんかすっとぼけらしいが。 島津豊久は井伊直政に討ち取られたからなあ
よく島津家は徳川家に報復しなかったよ 西軍に巻き込まれて参戦した時点で覚悟の上
援軍を送らなかった時点で切り捨ての対象
義弘が戦死しても義弘に援軍を送らなかった義久なら徳川とは敵対しなかったと思う
徳川ではなくて義弘に責任がある 下手したら島津征伐されて潰されるってのと国許が徳川派だからむしろ有難いまであったかもしれん。 ちょっとでも手こずったら
ほぼ無傷の毛利や上杉、佐竹とかも抵抗するから
島津潰しなんて出来っこない
この時の家康の立場はあくまでも秀頼の家臣にすぎない
義久もそれが充分分かった上での交渉 家康は島津を潰したかったけどやむ無く諦めたって
何か史料的な根拠のある解釈なの?
単にその必要を認めなかっただけじゃないかと思うんだが
当時の地政学的にも西南の地の果ての田舎大名なんてはじめから島流しされてるようなものだから
佐竹みたいに転封する必要もないし地生え大名に恩を与えてそのまま統治させときゃいい話
それで250年以上内乱起こさせてないんだから世界史的に見ても十分政治的成功でしょう
当時の一次史料に家康が島津を滅ぼしたがってたが泣く泣く諦めたことが明らかな出典があるなら不勉強で申し訳ない 一次史料的には無い、はず。寺沢広高に即座に釈明してなんとか許してもらったらしいが。 200年以上問題なかったんだから
島津を残して禍根を残したなんてこたないわな
それは小説家的なロマンチズムでしかない 戦国大名は全員が京に上って天下統一を目指したというレベルの俗説 徳川一門の見分け方(簡易版)
徳川宗家: 通字が「家」(徳川家○)
尾張徳川家: 通字が「義」(徳川(松平)義○)
紀州徳川家: 通字が「頼」(徳川(松平)頼○)
水戸徳川家: 通字が「斉」、「頼」(徳川(松平)斉○、○斉、頼○)
※紀州と水戸の「頼」が共通しているのは、藩祖の母親が同じ、同母兄弟のため やっぱり、同一人物認定職人が湧くと過疎るな
そりゃあ、糖質さんが居るスレとか怖いもん 200年後ってもう想像すら出来んもんな。200年後日本は中国に滅ぼされるから今のうちに中国に攻め込め、なんて言ってる奴居たらちょっとヤバい人ですし。 関ヶ原で島津軍が逃走路を失って東軍勢力を強行突破したのは確からしいが、家康本陣に向かったというのは眉唾なんだと 関ヶ原で少数の島津勢でもあの凄まじい戦いっぷりだったし
況してや本国に温存された薩摩隼人を全て力でねじ伏せて屈服させようと思ったら
20万以上の大軍で攻めないと無理じゃないかな・・・ 勝つだけなら関ヶ原後に島津国境まで集結してた如水清正鍋島立花ら九州勢で普通に勝てた
その後の戦後処理の問題は別として 島津は唐入りに加えて庄内の乱で国内がよろしくないからな
伊集院忠真も健在だし 信長「嫁と倅を○せ」
家康「・・・はい」
家康「三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5か国の大大名だお」
秀吉「はい、没収ー。関東に移ってねw」
家康「くっ・・・はい」
家康結構ハードモードなんよな 家康の馬印を倒したのは武田信玄と真田幸村の二人のみ 家康「寝返ってくれたら信濃一国をやるお」
幸村「足らん…甲信二国寄越せ」
しびれるぜ! >>934
家忠日記に信長が信康自刃を命令したってないんだよな
それどころか信康に出仕するなと家康が家忠に命令したって
記述すらあるし 三成は上杉や島津と親密だった訳だけどその割にはコネクション弱いんだよなぁ。豊臣取次だったから仕方ないのかもしらんけど。 >>937
単に取次だから関係あっただけで、別に親しくはないだろ
あの性格だし周囲からは好かれないと思う 朝鮮出兵について色々調べたら
なぜ武断派は三成をあそこまで嫌ってるのかよく分かる 朝鮮出兵は色々ボロボロでそのツケが三成らに来たっていうね。指揮者が日本から指揮とか戦国時代に成功する筈もないわ。 >>937
ちゃんと調べろよ
慶長3年2月10日で直江兼続が出した覚書には明らかに石田と直江の関係が深いことが書かれてる
石田と直江の連署掟まで慶長3年2月16日付で出されてるし、直江は明らかに石田の意を受ける上杉側の取次でしかない 上杉と石田の関ヶ原前の密約はなかった、とよく言われるけど、直江と石田の関係を見るととてもそうは思えん
密約に関しては史料が無いだけではないのか
露見したらおしまいだし レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。