八月二十二日の佐々正孝書状(愛知県史)には木曽川は簡単に渡河できる上赤目・今尾等を確保してるので美濃だろうが佐和山だろうが攻撃可能であることを記しまた西軍の美濃方面軍の配置を網羅してる。これらの記述は七月二十六日三奉行連署状や石田三成書状と一致するからソースはこれら西軍書状と見られてる。また佐々は「織田秀信は人数を集められておらず攻められたらもたない」と見通しを語ってる。つまり東軍は博打的に岐阜城を攻撃したのでは無く「西軍主力部隊は美濃に展開してない」事を知った上で主力部隊が来ない内に電撃的に岐阜城を落としに来てる。これは三成にはどうしようもなく輝元の戦略の拙さが招いたものなんだが。