石田三成の挙兵
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 稲葉山城の頃から何度も簡単に落ちてきた城でもあるしな >>825
戦力比がかなり優勢なら木曽川渡河自体は大きな困難ではない、
渡るだけならね、それでも下流渡河組は敵の抵抗大で
渡河地点変えてるようだが。
問題は戦力互角や劣勢時の話で、有力な敵が渡河に阻止迎撃してくれば
当然大きな損害を被るか渡河を阻止される。
また、戦力劣勢にも関わらず無理に渡河すれば
退路の問題も出てくる。
これらの問題がないなら小牧・長久手時に
家康は竹ヶ鼻の後詰に行ってるよ、
野戦で負けて退路の木曽川で討ち取られるのが見えてるから
後詰せずに開城してよしと言ったわけで。 なので、宇喜多か秀元・吉川が美濃に行ってれば
渡河迎撃は成功していた可能性はそれなりにある。
上流か下流どちらかだけ渡河成功しても、それはそれで戦力分断となる。 東軍は西軍の戦力をほぼ完全に把握してる。しかもそれは三奉行の出した書状と内容がかなり一致するから誰かが漏らした可能性が指摘されてる(おそらく石田三成)
それが何を招いたかと言えば、「西軍主力は伊勢に居て岐阜方面は僅か」という決定的情報が東軍に渡った事を意味してた。これだけの情報を徳川家康クラスの戦略家が掴んだらまぁ負けん。だから池田輝政・福島正則らの岐阜城攻撃隊は恐れず戦争する事が出来た。博打というより落ちてるカネを拾いに行った感覚だったかもね。 八月二十二日の佐々正孝書状(愛知県史)には木曽川は簡単に渡河できる上赤目・今尾等を確保してるので美濃だろうが佐和山だろうが攻撃可能であることを記しまた西軍の美濃方面軍の配置を網羅してる。これらの記述は七月二十六日三奉行連署状や石田三成書状と一致するからソースはこれら西軍書状と見られてる。また佐々は「織田秀信は人数を集められておらず攻められたらもたない」と見通しを語ってる。つまり東軍は博打的に岐阜城を攻撃したのでは無く「西軍主力部隊は美濃に展開してない」事を知った上で主力部隊が来ない内に電撃的に岐阜城を落としに来てる。これは三成にはどうしようもなく輝元の戦略の拙さが招いたものなんだが。 今の研究だと毛利の九州四国への出兵って
領土的野心で西軍とは無関係にやった扱いなん?
大友豊前、河野の讃岐奪還作戦(どっちも失敗だが)や
阿波の接収は西軍の戦略という認識だったわ 「徳川家康は秀頼を軽んじてる!故に討伐する!」って言いながら何故か関係無い西国を攻めてる上にここで動いてるのが殆ど毛利軍って事を考えれば答え合わせみたいなもんだし。しかも西軍のトップは毛利輝元と安国寺恵瓊な訳で… 西軍って致命的な戦争下手しかいないしな。まさかの一番マシが三成 >>831
個人的推測だが、石田が福島勧誘した時正直に話したんじゃないかな、誠意の証として、
で、それが漏れたと。
誠意が裏目に出たんじゃないかな。 石田・大谷が謀反を起こした扱いになってるなら、
そりゃ石田が福島勧誘しても成功率低いだろうなぁ、 実の所、可成り子細な記録残ってる戦いでも、大規模野戦って騙し合いなのな。
相互に相手騙して有利な条件で、決戦に挑もうとしてるから。
なのに、「最後の勝利者は勝者だからギアスが使えるんだ」的な思い込みは何故生まれるのか。
カンネでも、イッソスでも、ファルサロスでも、相手が追い詰められてるって言う欺瞞情報
信じて野戦に出てきたの忘れてないのか?
しばしば「ぼろぼろ、今野戦に出てきたら一気に勝てるよ」って欺瞞情報出回ってるのに。
何故、大権現はギアスつかえる想定なのか? 吉川広家だったが書いてたけど「奉行衆は事細かく指示してきてメンドイ」とのこと。どうも西軍は統制を強くしてたらしく少し煙たがられてたらしい。対する東軍は家康の大雑把な指示からの各方面軍が現地で判断してたらしく統制より速度を重視してたみたい。 広家はあくまで毛利の家臣だから奉行衆に無条件に従う理由は無いし奉行衆の指揮への信頼も無さそう
家康は軍監の井伊や本多たちがいるから任せられるし他の大名も歴戦の勇士の言葉は尊重する
上下間の信用度が違うのと戦略的余裕の差 東軍の家康、軍監と諸大名の関係が
本来の秀吉、奉行衆と諸大名の関係なんよね
主君の命を奉じて行うから奉行な訳で
それが主君が死んで誰の命を奉じるでもなく
ただ命令するだけの存在になろうとしたら
そりゃ反発必至だよね >>838
最近色んなとこに現れるbotじゃない? そもそも西軍の主張として家康の独裁を批判しているのだから
西軍は寄り合い所帯的な組織にしかなりえないんじゃないの ID:wWwblqbeは例え話
今日は連投してないけどID:W8GYEAIzがいつも一人でID変えながら自演してる妄想野郎 例え話とそれを攻撃する流れも自演だよな
どこにそんなに人がいたんだってキレて湧いてくるし >>843
これが一人の自演に見えるなら、高確率で統合失調症なんだけどね?
統合失調症の重要な症状は、自分と他人の区別が曖昧に成る事
其の為、薄弱な根拠で同一人物認定すると言う行動が頻繁に起きる
色んなスレに現れる、自演認定職人って糖質だよ こんな妄想が複数いると思いたくないのは当たり前の考え 長文は全部同じ奴だろう?
真っ赤になってるIDが2人とか3人でやってる方がそれっぽいのに単発から3レスぐらいのばっかりじゃん ていうか輝元のやってる事ってモロ秀吉の惣無事令違反だしな。「後願の憂いを断つ」って言えば戦略的っぽいけど仮にも公儀がそんなことしちゃダメだろう。 まあそこ言い出すと西軍の挙兵自体がね
序列上位者を引き摺り下ろす仕組みがないとは言え
武力で倒せばOKとなると政権の存在意義に関わる 狙って荒らしてるのか本人にスレ荒らしてる自覚が無いのか
何にせよ対処する方法が無いんだからそら人も寄り付かなくなるわな 西軍首脳陣の考えが西軍決起によって家康は孤立するということなんだから
こちらに従わない勢力を近場から叩くいていくのは妥当な戦略では
会津征伐軍が崩壊するどころかほぼ一丸となって逆撃してきた結果から逆算するから
上杉との挟撃の必要性なんかが出てくるわけで 惣無事令で紛争が起きたら公儀が仲裁する、これを拒否ったら討伐する。それが秀吉の作った豊臣公儀じゃろ?だから家康も会津征伐では上杉しか対象にしてない。例えば「景勝と仲のいい三成が戦争仕掛けてくるから」とかで領土を奪おうとかもしてない。つまり本気で西軍が自分を公儀だと思ってるなら家康に上洛命令するかさもなくば徳川のみと戦うべきだったんじゃないか。 >>858
同意だわ
結局誤算はその部分なんよね
>>859
公儀として筋を通すならそうだが
それで勝てるかというとまた別
そして筋を通すならそもそも挙兵が・・・ 板自体人数が少な過ぎて数人が暴れ回ってる状態なんだろうね
だから同じような話題がスレを超えて何度も繰り返される 「大坂を押さえれば全員言うことを聞くと思った」っていう西軍の戦略思想も割と微妙なのよね。西軍は九州や自軍に対しては公儀を自称してるけど東に対しては使ってないし。
むしろ諸将の妻子を人質にする事を期待してたっぽいけどそれも徹底されてない。そもそも人質なんて最悪見殺しにされる世界で生きてきてた筈で絶対視は出来ないと分かってた筈だが… >>862
活発な議論しているところに…が現れて過疎る
いつものパターン 結局西軍自身に「己が公儀」という意識が無くて公儀云々は勢力拡大の為の口実だったと。そう見ると一番勢力拡大に野心的だった毛利輝元が一等の悪党なんだよなぁ。三成とか目じゃないよ。 >>864
わかるわ
普段…使って特徴つけておいて別回線では普通目の文体と使い分けてるんだろうな 自分の興味というより勢いのあるところに片っ端から顔だして妄言並べるから邪魔なんだよ
史料を誤読して指摘されても無視
会話も成り立たない
自覚なき荒らし >>860
西軍が実は公儀を名乗って勢力拡大狙ってるだけだしねぇ 西軍が公儀がどうこう言ってるのも豊臣スレとまんまだしほんとに一部が暴れてる状態なんだろうな
そんでスレを潰した後は別の伸びてるスレに出張ってくるからタチが悪い 明らかな間違いを指摘されても無視して構わず同じ主張を垂れ流し続けるからな
豊臣恩顧スレの多聞院日記の誤読と七将スレの輝元書状「ねらいたて仕候者」の誤訳は特に酷かった >>871
研究者の見解出してるのに妄想で「三成が狙った奴」って訳してたやつね。あれはたしかに酷かったね。 奴は会話ができないし、根本的に頭の回路がおかしい
ボケ老人と言われてたが言い得て妙 西軍決起は大坂三奉行と毛利輝元が主導したもので三成が関わってたという証拠は全く無いんだよな。だから何で三成を引き込んだのか。決起後に西軍は徳川との決戦を忌避してるから上杉と連携とる為でもなさそうだし。 >>874
酷いのは未だに謙譲語と受け身の違いも理解できないお前なんだけどね
それでまた三成は決起に関わってなかったと同じ話し始めてるけどわざとやってるの? あいつのいるスレって平日午前が活発なんだよな
不思議 >>878
不思議でも何でもない
歳をとると早起きになるんだよ 毛利は野心家の首謀者だけど
一年前からその毛利を唆して対家康の
陰謀話し合ってる三成は巻き込まれただけ
不思議だねー 一次史料だと三成が家康を狙ったって話自体が無いんだよな。細川家譜だの黒田家譜だのもしくは徳川実紀みたいな徳川家の歴史には残ってるけど。三成がやった事と言えば毛利と徒党を組んだくらいで家康の命を狙ったってのは後世の作り話よ。司馬遼太郎作品の読みすぎ。 毛利の46号文書の解釈で一番支持されてるのは光成氏の慶長四年説だろ。白峰氏の慶長五年説は支持されてるとは言い難い。光成氏は七将に襲撃された三成が輝元に助けを求めた書状だとしていてこれが通説になってる。白峰氏の上杉討伐に対処する為の書状ってのは支持してる書物を見たことがないしそもそも白峰氏も自信が無いような書き方してる。家康云々は関ヶ原から逆算して作られた御伽噺に過ぎん。 もう荒らしと変わらないな
勢いあるスレを片っ端から連投で潰してるようなもの そもそも勢いがあるというのも本物なのかこいつがそう見せかけているのかすら分からない
何年も前から織田武田関係と徳川豊臣関係で同じことやってるもん 前北条は不可抗力だけど後北条は秀吉に従っていればな・・・
>>880
毛利は天下を目指すなと元就に言われてなかったっけ? 吉川広家は元就は毛利は天下を狙うなと遺言したろと説得したけど輝元は聞く耳持たなかった。でいざ負けたら安国寺恵瓊を生贄にして生き延びた。 白峰氏が慶長五年に比定している書状に共通するのは下屋敷の塀の修繕と元康の病気を心配(快復気味)していること
元康は慶長六年一月に病死
明らかに連続しているね
妄想太郎には分からないんだろうが 三成が家康の命を狙ったとか時代小説の読み過ぎ。一次史料には全く残ってないからね。第一家康は三成を警戒してないもの。 今話題の文書がその史料なのだがw
あと命を狙うってまさか
自ら暗殺狙ってるとでも思ったのか?
そんなこと書いてないし誰も言ってないが 慶長四年とする光成説が通説で慶長五年とする白峰説を論拠にする本を見た事が無いなぁ。誰か知ってる人います?
慶長五年説はかなり無理がある訳だけど一番の問題点は三成が小西行長と寺沢広高を使者にしてる点かな。こいつら曲がりなりにも万石の大名で私人が顎で使える相手じゃない。三成が奉行だったらその権力を使えるだろうけど謹慎処分を喰らって面目失った慶長五年以降というのは考え難い。隠居して尚隠然たる力があったとするなら上杉や真田と交渉すらしてない事と矛盾するし。それで光成説が支持されてるんじゃないの。 後の薩長同盟のことを考えると
家康はやはり関ヶ原の後に島津を徹底的に征伐すべきだったな
あの時の徳川の武力と勢いなら十分可能だったろうし 九州勢が島津国境まで軍を進めてたから潰そうと思えば潰せただろうな
或いはそれを見た徳川が逆に危機感を覚えたのかもしれないが >>892
可能じゃないでしょ
勝てるとしても何年かかるやら 島津は対明での和睦交渉を受け持っていた事と、親徳川派の島津忠恒がいてこいつが次期当主なのは明らかだったから潰す必要が無かったんだろう。 >>893
まあ、あの時点で薩摩征伐は物凄い博打ですよね
関ヶ原の戦後処理で、後戻りできない事色々と「毛利家処分とか」してますし
長期戦になれば、必ず狸の尻尾に噛みつく奴がいる。
まあ出来ない事もないが、勝率は半分もあれば良いくらい 徳川が出張るまでもなく黒田如水、加藤清正、鍋島直茂、立花宗茂他九州の軍勢が島津に攻めかかる一歩手前まで段取り進めてた
その後の影響はともかく島津潰しはこの面子で十分やれそうな気はする 島津は首謀者クラスでもないし島津家として正式に西軍に参加したとも言い難い
政情に疎かった義弘が三成らに「秀頼様御為だから」と騙されただけで国元の義久は一切関与してないし
あと家康と島津双方に昵懇だった近衛前久が早々に取り成ししたのも大きかったろう
別に島津も創作にあるような強硬姿勢とってたわけではなく弁明と恭順の交渉してたんだから
家康がわざわざ征伐する意義も名分もない
当時の島津なんて豊臣政権でもそんな大物でもないしな 島津義久の思惑がどうだったのかわからんしな
義久は毛利輝元や上杉景勝あたりよりも戦国大名としては上
宇喜多と島津の繋がりは唐入り絡みぐらいだろうから秀家は使い捨てできる手駒扱いな気がする 島津は何故か西軍に参加してしまったわけだけど何の打算があったんだろう。西軍が勝てば九州の西軍勢力が東に移って島津領が拡大とか? 島津は義弘が巻き込まれただけだろ
義弘の出兵要請に対して義久は塩対応してる
西軍は巻き込まれて参加しただけのがいるから小早川みたいに内通するのが出てくる 義久は鹿児島が大事でそれ以外はどうでもいい。だから中央のことはどうでもいい
義弘はそれじゃまずいと思っていて兄貴に頼み込んで朝鮮には大軍を動員出来たが関ヶ原の時は国元もゴタついてたから全然兵を回してもらえなかった 島津忠恒は関ヶ原の前年に石田三成とツーカーの仲の家老の伊集院忠棟をぶっ殺して三成を激怒させてる非三成派
島津義久は弟義弘が西軍中枢に参加してるのに義弘や輝元と三奉行からの度重なる援軍要請をガン無視した消極的東軍ともいっていい態度
加増出来るほどではないが義弘助命くらいの恩賞を与えれる間柄であって敵対しないなら元から討伐の対象ではないのよね
まぁ島津と仲が悪くてちょっかい出してた加藤清正がこれを機に島津をぶっ潰したがって徳川せっついていたりもしてたが 清正は義久・忠恒は無関係を装ってるが、宇土城への後巻として島津忠長や新納忠元、本田正親らが
佐敷表にまで出張ってきてたのに、義久・忠恒がそれを知らないはずがないって榊原康政に主張してるな
この清正書状が榊原家ではなく黒田家に伝わってるのも面白い 清正から見れば小西側を支援してた島津はモロ西軍だったろうな
これも十分島津を処罰する理由になっただろうが結果は九州勢を停戦させた上で本領安堵に 島津も地生え大名だから近世型への移行過程で家中がゴタゴタしてたんだろうか
毛利といい上杉といい西軍にはそういうの多いな、たまたまだろうけど 政権首班の徳川からしたら島津倒せるかより
戦後の統治のほうが大事だからな
九州仕置きを在地勢力にやらせたら
戦後の配分も彼らの優位に進むし
下手したら政権への発言力も生まれる
東軍先鋒による岐阜陥落後にまったかけて
大急ぎで進軍したのと同じことで
即参加できない以上は現地の軍勢を
国許に帰すほうが先決 義久だっけ?「あなた(三成)の赦しを得て伊集院を誅殺したって聞いたんですけど違ったんですか本当にけしからん話です」とか言ってるのは。そんでそれもなんかすっとぼけらしいが。 島津豊久は井伊直政に討ち取られたからなあ
よく島津家は徳川家に報復しなかったよ 西軍に巻き込まれて参戦した時点で覚悟の上
援軍を送らなかった時点で切り捨ての対象
義弘が戦死しても義弘に援軍を送らなかった義久なら徳川とは敵対しなかったと思う
徳川ではなくて義弘に責任がある 下手したら島津征伐されて潰されるってのと国許が徳川派だからむしろ有難いまであったかもしれん。 ちょっとでも手こずったら
ほぼ無傷の毛利や上杉、佐竹とかも抵抗するから
島津潰しなんて出来っこない
この時の家康の立場はあくまでも秀頼の家臣にすぎない
義久もそれが充分分かった上での交渉 家康は島津を潰したかったけどやむ無く諦めたって
何か史料的な根拠のある解釈なの?
単にその必要を認めなかっただけじゃないかと思うんだが
当時の地政学的にも西南の地の果ての田舎大名なんてはじめから島流しされてるようなものだから
佐竹みたいに転封する必要もないし地生え大名に恩を与えてそのまま統治させときゃいい話
それで250年以上内乱起こさせてないんだから世界史的に見ても十分政治的成功でしょう
当時の一次史料に家康が島津を滅ぼしたがってたが泣く泣く諦めたことが明らかな出典があるなら不勉強で申し訳ない 一次史料的には無い、はず。寺沢広高に即座に釈明してなんとか許してもらったらしいが。 200年以上問題なかったんだから
島津を残して禍根を残したなんてこたないわな
それは小説家的なロマンチズムでしかない 戦国大名は全員が京に上って天下統一を目指したというレベルの俗説 徳川一門の見分け方(簡易版)
徳川宗家: 通字が「家」(徳川家○)
尾張徳川家: 通字が「義」(徳川(松平)義○)
紀州徳川家: 通字が「頼」(徳川(松平)頼○)
水戸徳川家: 通字が「斉」、「頼」(徳川(松平)斉○、○斉、頼○)
※紀州と水戸の「頼」が共通しているのは、藩祖の母親が同じ、同母兄弟のため やっぱり、同一人物認定職人が湧くと過疎るな
そりゃあ、糖質さんが居るスレとか怖いもん 200年後ってもう想像すら出来んもんな。200年後日本は中国に滅ぼされるから今のうちに中国に攻め込め、なんて言ってる奴居たらちょっとヤバい人ですし。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。