石田三成の挙兵
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 毛利が九州四国で火事場泥棒したり、その過程で大友を支援したことを否定する人なんかいないでしょ
常識な話をなぜか得意満面で語り、根拠とした史料を誤読しているから叩かれてるんでしょ
小倉の件も自分で引用した史料に答えが書いてあるのに誤読するし
で、黒田家譜の該当部分は読んだかな?
>>787
わざとじゃないと思うよ
だってまともに読めてないから なんというかこんな自演し放題なんだから戦国板も過疎る訳だな
同一人物が同じ主張してそれをID変えながらずっと続けてる
1人こういうのがいたらもうどうしようも無くスレが崩壊するだけっていう典型的なパターン 毛利が四国・九州にそれぞれ1000〜3000ほどの兵を送った、ついでに言うと伊勢湾にも1000〜3000ほど兵を送った。九州はよくわからんが、村上らの水軍衆が主力、伊勢湾も乃美、村上らの水軍衆、
なんつーか、とりあえずやることのない水軍衆に
やれそうなことをやらせた、ってかんじにみえるけどなぁ、
もちろん後顧の憂いを断つという意味では
意味のない作戦ではないが、
とりあえずこれらは特に新たな発見等ではなく、
既に知られている事柄で、だからなに?ってかんじだが。 ワッチョイ申請は終わっている
運営の処理が去年から滞っている状態 >>713
秀秋が裏切りを躊躇したのは、眼下で宇喜多勢が福島勢を押していたからではないかな。
宇喜多勢1万7千、福島勢6千。3倍近い相手と果敢に渡り合う正則も凄い。 家康の馬印が倒されたのは三方ヶ原の戦いと大坂夏の陣の2回。 まぁ裏切りも何も秀秋は松尾山を取った時点で西軍離反確定なんだけどね。 >>788
悲しい事にそれを知らん奴がいるのよ。「毛利は九州に兵なんて送ってない!」って自信満々に言う人が。それが一次史料で指摘されて発狂しとる。まぁこれが火事場泥棒かと言うと一概にそうは言えんけど。だって火を放ってるのは毛利筆頭西軍なんだし。仮に九州や四国を放置して徳川攻撃を決定してたら歴史は変わってたろう。それが家康と輝元の違い。 >>797
黒田家譜が一次史料?
書状の引用でもないのに?
貝原益軒が本当にそんな一次史料読んでたならそのまま引用すればいい
他家の家譜じゃ普通にやってること
で、黒田家譜読んだ? >>797
ID:BJJ0rFGQ
ID:YJvX/Ri4
ID:rSWwdzQr
ID:8VCR5LnZ
ID:VApwaOJt
今日だけでこんだけID変えてるけどなんか意図があるの? >>794
という事は、小早川軍が攻め掛かれば福島正則は確実に戦死という事
正直、東軍本隊まで先鋒隊の潰走に巻き込まれるでしょ
関ヶ原って狭い山狭だからね
敵よりも、前方から潰走してくる味方の方が怖い この調子だとほんとにワッチョイ必要だな
もうずっと1人が自演連投しててスレが機能してない
本人に荒らし同然の行為してる自覚無さそうなのもタチ悪いが 布陣図の信憑性に諸説あるけどあれだけ見ると宇喜多に相対した東軍が左翼側丸出しで松尾山の軍勢に対処出来なさそうなんだよな
実際小早川らに側面突かれた場合対処する方法はあったのか? >>802
大垣を出て小早川に攻めかかった三成たちを、福島たちが東から挟み撃ちにして始まったのが関ヶ原の戦いなのに
小早川らに側面突かれた場合とか仮定がおかしいだろ >>797
大友義統が毛利軍の息が掛かってたってのは黒田家譜に書いてある事じゃ無いぞ。大友家文書録に「輝元から船と兵隊を出して貰いました」って残ってるからそれが基ね。一次史料で見ても義統は毛利水軍基地の上関を経由してきてるからそこで軍艦を拝領した可能性が高い。
黒田家譜にあるのは義統と輝元が非常に親密だったという話で実は重要なものじゃ無い。とは言えかなり興味深い記述でしかも矛盾が無い。義統は大友家再興を志していてその為の物資を輝元に提供されてるのだから恩を感じない筈がない。 >>784
それは悪いけどかなりズレた想像かなぁ。輝元は徳川との和睦によって戦線縮小を命令してる。例えば九月十九日付で阿波占領軍を撤退させてる。九州戦線も当然撤退しなければならない。問題は小倉城でここは毛利が占拠してる門司よりも南にある。つまり毛利軍はわざわざ南下して小倉城を占拠してるワケ。お前さんの言う通り毛利は徳川を刺激したく無い訳だがこれは明らかな敵対行為と取られる。だからこれは関ヶ原の後のものじゃない。
だが関ヶ原の後じゃないなら何故毛利軍は小倉城に進軍したのか。小倉城は毛利(森)の本拠地でそこには兵隊もいる。松井文書には「小倉城方は心配してる」とあるのでこれも間違いない。 西軍が統一的な行動が取れてたとは言えないけど
毛利の軍事行動が身勝手で的外れかというと
それもまた違うと思うんよね
そりゃ三成は畿内で早々に周囲を西軍勢力圏に囲まれて
東軍攻め上って来たらいきなり死活問題だし
対徳川だけに集中したいだろうけども
毛利の立場では畿内以東にだけ戦力集中
というのは現実的な戦略じゃないと思うぞ
挙兵する以上敵勢力は確実に周囲にある訳で
四国を放置して瀬戸内が戦場になれば
本国と大阪、東国との連絡も途絶えかねない
九州放置して本国攻められたら
それもやはり東国どころじゃない
輝元に野心がないという意味ではなくてな 輝元は八月八日付益田元祥宛毛利輝元書状で「毛利秀元から援軍を要請されているが多方に戦力を送ってるので当分増援は出せない」と戦力不足を吐露してる。毛利軍は四国や九州征服に軍を割いてしまったので伊勢や美濃に兵を送る事も難しかったんだろう。その結果岐阜落城からの降伏な訳で輝元の戦略眼に問題があったことは間違いない。惣無事令で私戦行為は禁止されてるのだから本来九州や四国は気にしなくても良い筈なんだがなぁ。親徳川派が動いたらそれこそ討伐命令出すだけだし。 >>805
ズレてる人にズレてると言われるのは心外だな
「尚々小倉之儀、従輝元加番入之由候間、壱岐へ不渡様ニ可被仰付候」
10月4日の時点でまだ輝元勢は小倉に入ってない
これから輝元が小倉に加番を入れるそうだから、毛利吉成に渡さないようにと如水は広家に要請してる
この時点で輝元勢はまだ小倉に入城してないのに関ヶ原後のことじゃないってのはどういう意味?
あと補足しとくが空き城と表現したけど、人っ子一人いない無人の城だとは自分も思ってないぞ
ただ吉成は在城してないし、留守居が抵抗したような形跡も見られないってことは空き城同然だったという意味
あんたが引用してる松井家文書の松井康之・有吉立行他連署状は8月28日付
8月下旬の状況が10月上旬にもそっくりそのまま当てはまるのかも甚だ疑問だけどね
>>775で小倉の安定を図るために兵を入れたと書いたが、これは個人的な推察で史料的根拠はないし間違ってるかもしれない
ただ輝元の領土拡大欲からによる占拠ってことは時期的に見てまずあり得ない
白峰氏も具体的な小倉加番の理由こそ述べてないが、これは一時的な在番だろうと言ってるし >>807
流石に私戦停止だから安全ですとは行かんでしょ
九州四国に送った兵を上方に集中させたとして
フリーになった東軍勢力が毛利領攻めたら
上方どころじゃなくなって結局頓挫する訳だし >>805
読めないんだから史料読むなよ
どうせ質の悪いブログかなんかから引っ張ってるんだろうけど
以下は小倉の件と同じ書状の後段を関ヶ原スレから引用
一 上方於美濃口御取相當月迄も御座候者、中國へ切上、花々と見知返し候而、一合戰可仕と存候に、はやく内府御勝手に罷成殘多候、
一 於九州者、奉行方之者は嶋津、立花迯下有之事候、内府樣へ得御意に上せ候間、被仰出次第兩人之者共則時討果、
罷上、以面萬々可申承候、恐惶謹言
十月四日 圓?(花押)
廣家樣
貴報
日付見るまでもない
関ヶ原後というのは明白 九州って石高上は西軍勢力の方が遥かに強いから「背後を突かれたら」とか考える必要が無いんじゃね。
東軍勢力は黒田・加藤・中川・寺沢・伊東で併せて56万石くらいでしょ?対して西軍勢力は島津だけで56万石ある上に毛利小西小早川鍋島立花と合わせれば東軍の倍くらいは行く。この状況で海越えて毛利攻めする様な無謀な奴は居ない。まぁだから領土拡大が容易と踏んで九州を攻撃したのならそれはマジの藪蛇ってやつだったなと。 >>811
で、吉川宛黒田書状の後段見ても関ヶ原前と言い張るんですか? 結果的にあっという間の短期決戦で終わったから
そこに集中しなかったのは失策となる
が、そこを読み違えてたのは正直西軍全部そう
あっさり上杉征伐軍が東軍にまとまったのが誤算
>>811
少なくとも四国攻めは必要だったと思うわ
瀬戸内海が戦場になってしまったら
本国と上方の遠征軍の連絡が脅かされる
九州も史実としてその数が少ない
東軍勢力が伸びてるし
島津も本国は日和見だったじゃん 光成準治氏が「関ヶ原前夜」で輝元の野心の表れとして書いてたな。実際輝元は関ヶ原後に徳川と和睦して全戦線から撤退してる訳で間違っても戦線を進める様な真似は決して出来ない。だから十月四日時点で小倉城は毛利軍に占拠されてた事になる。毛利軍が支配してる門司城より小倉城は南にあるからそこに兵を送る事は提案すら出来ないだろう。明確な乗取り行為だが凄く輝元贔屓に解釈すると戦力で圧倒する黒田軍相手に毛利吉成じゃ無理と援軍を送ったのかもしれない。 >>814
関ヶ原前の書状だという主張はどこいったんですか?
「毛利吉成に城を渡すな」という黒田の発言は無視ですか?
頼むから史料扱うな
史料への冒涜だから
あと、おめさんが来るとスレが過疎になるんだよ
長篠スレで前みたいに妄言垂れ流せよ
そんなに構ってほしいのか? >>814
確かに光成氏は関ヶ原前夜で10月4日以前には既に毛利勢が小倉城に入っていて占領してると言ってるな
妄想くんは光成説支持ってことね
白峰氏は10月4日以降に毛利が入る予定だと言っていて、自分も毛利勢はこの時点でまだ入城してなかったと見てる
門司から南と言うけど距離にしたら小倉までは15kmくらいしかないし十分移動可能な範囲内
言い方に語弊があるかもしれんが、この毛利勢の小倉加番は時期的な観点から
西軍の立場からと言うよりは東軍の立場から行われたものだと思う
わざわざこの時期黒田と事を構える訳がないし、如水が吉成に渡さないよう要請したのも明らかに味方と認識した上での発言
「従輝元加番入之由候」
結局これが既に毛利勢が入ってるのか、これから入るのかでその後の解釈も全く異なってくる
この件についてはこれ以上あんたと話しても堂々巡りになるだけで、他の人の迷惑になるしこの辺でやめとくわ >>816
あの書状は全体的なトーンとして毛利家にきわめて同情的だよね
たかかげ、広家と仲がいいだけかもしれないが
書状発出の前日から小倉城を取り巻いていて、解釈としてはそれ以前に毛利が番衆を入れていたと取れなくもないが、吉成への言及と整合性がない
このあと如水はさらに転戦しているし、早く安芸毛利家で治安面含めて管理してくれ、それが家康からの温情を勝ち取る手段だと言っているように思える
あなたの推論通りというか
光成氏の論拠は知らないが、毛利系文書の専門家といってもすでに占拠していたは苦しい >>817
そうなんだよね
まあ秀元と秀包に関しては最近手紙の一通も寄越さないと愚痴ってるが
これもご愛嬌で毛利についてはまあ好意的だよね
全文読んだ上で追而書を解釈すると、輝元勢の入城を歓迎してるように取れるし
光成氏の関ヶ原前夜は2009年の刊行で少し時間が経ってるし、近年の研究での見解も気になるところだ 如水は取次やってた縁で毛利一族とは基本的に仲良いんだろう
輝元は書状で黒勘殿と省略した呼称使ってて秀包も如水が攻め手なら降伏しろと家中に伝えてる
本人曰く穂井田元清とも親しくしてたそうだし >>811
実際の所、東軍の木曽川渡河は相当な博打だったと思うよ
史実の流れではそれが上手く行き、そして直ぐに岐阜落城だけどそれは相当な博打だったと
いう事を忘れすぎ
東軍先鋒隊の保々全軍が渡河ですから、有力な西軍が待ち構えてたら終わりじゃないですか
更に敵が多ければ退却すればよいってもんでもないんだぞ
戦闘が無く損害無しで退却したとしても、あの情勢では東軍先鋒が大敗って噂に成り深刻な
動揺に成りかねない 東軍が容易に木曽川の線を突破出来ないと言う予想なら、先に九州四国の平定を
考えるのも別におかしくはないぞ
それで、黒田とか加藤とか藤堂とか国元潰したら見せしめ効果抜群の大名が沢山あると
いうのも見逃せない
両軍の本隊がぶつかる前に、黒田の親父が戦死とか藤堂の一族皆殺しとかの情報が
出回ればどうですか?
数ヶ月ずれるだけで起きた可能性が高いですよ 九州も四国も兵力が少なすぎて失敗しとるやろ、
1000〜3000程度で制圧できるわけがない。 >>815
「吉成に城を渡すな」って事は小倉城を毛利軍が押さえてるから言える事じゃないか。仮に小倉城が森一族が押さえてたら「東軍が接収するからお前らは退け」って言うじゃん。如水ひいては家康にとって毛利軍が撤退するのは当たり前としてそこで「城は吉成に返すわ」って吉成を入城されて森一族徹底抗戦になるとめんどくさいから言ってるんだろうし。 >>820
木曽渡河は博打でも何でもないよ。当時から「木曽川は何処からでも渡れる」と見られていて岐阜城攻撃は用意と東軍は踏んでいた。それに拍車を掛けたのが織田秀信の状況で秀信は軍勢を集める事に苦慮していてそれは東軍も掴んでいた。
それで岐阜城は簡単に落とせると思っていたらしい。あそこまで鎧袖一触とは思ってなかったのかもしれないけど。 稲葉山城の頃から何度も簡単に落ちてきた城でもあるしな >>825
戦力比がかなり優勢なら木曽川渡河自体は大きな困難ではない、
渡るだけならね、それでも下流渡河組は敵の抵抗大で
渡河地点変えてるようだが。
問題は戦力互角や劣勢時の話で、有力な敵が渡河に阻止迎撃してくれば
当然大きな損害を被るか渡河を阻止される。
また、戦力劣勢にも関わらず無理に渡河すれば
退路の問題も出てくる。
これらの問題がないなら小牧・長久手時に
家康は竹ヶ鼻の後詰に行ってるよ、
野戦で負けて退路の木曽川で討ち取られるのが見えてるから
後詰せずに開城してよしと言ったわけで。 なので、宇喜多か秀元・吉川が美濃に行ってれば
渡河迎撃は成功していた可能性はそれなりにある。
上流か下流どちらかだけ渡河成功しても、それはそれで戦力分断となる。 東軍は西軍の戦力をほぼ完全に把握してる。しかもそれは三奉行の出した書状と内容がかなり一致するから誰かが漏らした可能性が指摘されてる(おそらく石田三成)
それが何を招いたかと言えば、「西軍主力は伊勢に居て岐阜方面は僅か」という決定的情報が東軍に渡った事を意味してた。これだけの情報を徳川家康クラスの戦略家が掴んだらまぁ負けん。だから池田輝政・福島正則らの岐阜城攻撃隊は恐れず戦争する事が出来た。博打というより落ちてるカネを拾いに行った感覚だったかもね。 八月二十二日の佐々正孝書状(愛知県史)には木曽川は簡単に渡河できる上赤目・今尾等を確保してるので美濃だろうが佐和山だろうが攻撃可能であることを記しまた西軍の美濃方面軍の配置を網羅してる。これらの記述は七月二十六日三奉行連署状や石田三成書状と一致するからソースはこれら西軍書状と見られてる。また佐々は「織田秀信は人数を集められておらず攻められたらもたない」と見通しを語ってる。つまり東軍は博打的に岐阜城を攻撃したのでは無く「西軍主力部隊は美濃に展開してない」事を知った上で主力部隊が来ない内に電撃的に岐阜城を落としに来てる。これは三成にはどうしようもなく輝元の戦略の拙さが招いたものなんだが。 今の研究だと毛利の九州四国への出兵って
領土的野心で西軍とは無関係にやった扱いなん?
大友豊前、河野の讃岐奪還作戦(どっちも失敗だが)や
阿波の接収は西軍の戦略という認識だったわ 「徳川家康は秀頼を軽んじてる!故に討伐する!」って言いながら何故か関係無い西国を攻めてる上にここで動いてるのが殆ど毛利軍って事を考えれば答え合わせみたいなもんだし。しかも西軍のトップは毛利輝元と安国寺恵瓊な訳で… 西軍って致命的な戦争下手しかいないしな。まさかの一番マシが三成 >>831
個人的推測だが、石田が福島勧誘した時正直に話したんじゃないかな、誠意の証として、
で、それが漏れたと。
誠意が裏目に出たんじゃないかな。 石田・大谷が謀反を起こした扱いになってるなら、
そりゃ石田が福島勧誘しても成功率低いだろうなぁ、 実の所、可成り子細な記録残ってる戦いでも、大規模野戦って騙し合いなのな。
相互に相手騙して有利な条件で、決戦に挑もうとしてるから。
なのに、「最後の勝利者は勝者だからギアスが使えるんだ」的な思い込みは何故生まれるのか。
カンネでも、イッソスでも、ファルサロスでも、相手が追い詰められてるって言う欺瞞情報
信じて野戦に出てきたの忘れてないのか?
しばしば「ぼろぼろ、今野戦に出てきたら一気に勝てるよ」って欺瞞情報出回ってるのに。
何故、大権現はギアスつかえる想定なのか? 吉川広家だったが書いてたけど「奉行衆は事細かく指示してきてメンドイ」とのこと。どうも西軍は統制を強くしてたらしく少し煙たがられてたらしい。対する東軍は家康の大雑把な指示からの各方面軍が現地で判断してたらしく統制より速度を重視してたみたい。 広家はあくまで毛利の家臣だから奉行衆に無条件に従う理由は無いし奉行衆の指揮への信頼も無さそう
家康は軍監の井伊や本多たちがいるから任せられるし他の大名も歴戦の勇士の言葉は尊重する
上下間の信用度が違うのと戦略的余裕の差 東軍の家康、軍監と諸大名の関係が
本来の秀吉、奉行衆と諸大名の関係なんよね
主君の命を奉じて行うから奉行な訳で
それが主君が死んで誰の命を奉じるでもなく
ただ命令するだけの存在になろうとしたら
そりゃ反発必至だよね >>838
最近色んなとこに現れるbotじゃない? そもそも西軍の主張として家康の独裁を批判しているのだから
西軍は寄り合い所帯的な組織にしかなりえないんじゃないの ID:wWwblqbeは例え話
今日は連投してないけどID:W8GYEAIzがいつも一人でID変えながら自演してる妄想野郎 例え話とそれを攻撃する流れも自演だよな
どこにそんなに人がいたんだってキレて湧いてくるし >>843
これが一人の自演に見えるなら、高確率で統合失調症なんだけどね?
統合失調症の重要な症状は、自分と他人の区別が曖昧に成る事
其の為、薄弱な根拠で同一人物認定すると言う行動が頻繁に起きる
色んなスレに現れる、自演認定職人って糖質だよ こんな妄想が複数いると思いたくないのは当たり前の考え 長文は全部同じ奴だろう?
真っ赤になってるIDが2人とか3人でやってる方がそれっぽいのに単発から3レスぐらいのばっかりじゃん ていうか輝元のやってる事ってモロ秀吉の惣無事令違反だしな。「後願の憂いを断つ」って言えば戦略的っぽいけど仮にも公儀がそんなことしちゃダメだろう。 まあそこ言い出すと西軍の挙兵自体がね
序列上位者を引き摺り下ろす仕組みがないとは言え
武力で倒せばOKとなると政権の存在意義に関わる 狙って荒らしてるのか本人にスレ荒らしてる自覚が無いのか
何にせよ対処する方法が無いんだからそら人も寄り付かなくなるわな 西軍首脳陣の考えが西軍決起によって家康は孤立するということなんだから
こちらに従わない勢力を近場から叩くいていくのは妥当な戦略では
会津征伐軍が崩壊するどころかほぼ一丸となって逆撃してきた結果から逆算するから
上杉との挟撃の必要性なんかが出てくるわけで 惣無事令で紛争が起きたら公儀が仲裁する、これを拒否ったら討伐する。それが秀吉の作った豊臣公儀じゃろ?だから家康も会津征伐では上杉しか対象にしてない。例えば「景勝と仲のいい三成が戦争仕掛けてくるから」とかで領土を奪おうとかもしてない。つまり本気で西軍が自分を公儀だと思ってるなら家康に上洛命令するかさもなくば徳川のみと戦うべきだったんじゃないか。 >>858
同意だわ
結局誤算はその部分なんよね
>>859
公儀として筋を通すならそうだが
それで勝てるかというとまた別
そして筋を通すならそもそも挙兵が・・・ 板自体人数が少な過ぎて数人が暴れ回ってる状態なんだろうね
だから同じような話題がスレを超えて何度も繰り返される 「大坂を押さえれば全員言うことを聞くと思った」っていう西軍の戦略思想も割と微妙なのよね。西軍は九州や自軍に対しては公儀を自称してるけど東に対しては使ってないし。
むしろ諸将の妻子を人質にする事を期待してたっぽいけどそれも徹底されてない。そもそも人質なんて最悪見殺しにされる世界で生きてきてた筈で絶対視は出来ないと分かってた筈だが… >>862
活発な議論しているところに…が現れて過疎る
いつものパターン 結局西軍自身に「己が公儀」という意識が無くて公儀云々は勢力拡大の為の口実だったと。そう見ると一番勢力拡大に野心的だった毛利輝元が一等の悪党なんだよなぁ。三成とか目じゃないよ。 >>864
わかるわ
普段…使って特徴つけておいて別回線では普通目の文体と使い分けてるんだろうな 自分の興味というより勢いのあるところに片っ端から顔だして妄言並べるから邪魔なんだよ
史料を誤読して指摘されても無視
会話も成り立たない
自覚なき荒らし >>860
西軍が実は公儀を名乗って勢力拡大狙ってるだけだしねぇ 西軍が公儀がどうこう言ってるのも豊臣スレとまんまだしほんとに一部が暴れてる状態なんだろうな
そんでスレを潰した後は別の伸びてるスレに出張ってくるからタチが悪い 明らかな間違いを指摘されても無視して構わず同じ主張を垂れ流し続けるからな
豊臣恩顧スレの多聞院日記の誤読と七将スレの輝元書状「ねらいたて仕候者」の誤訳は特に酷かった >>871
研究者の見解出してるのに妄想で「三成が狙った奴」って訳してたやつね。あれはたしかに酷かったね。 奴は会話ができないし、根本的に頭の回路がおかしい
ボケ老人と言われてたが言い得て妙 西軍決起は大坂三奉行と毛利輝元が主導したもので三成が関わってたという証拠は全く無いんだよな。だから何で三成を引き込んだのか。決起後に西軍は徳川との決戦を忌避してるから上杉と連携とる為でもなさそうだし。 >>874
酷いのは未だに謙譲語と受け身の違いも理解できないお前なんだけどね
それでまた三成は決起に関わってなかったと同じ話し始めてるけどわざとやってるの? あいつのいるスレって平日午前が活発なんだよな
不思議 >>878
不思議でも何でもない
歳をとると早起きになるんだよ 毛利は野心家の首謀者だけど
一年前からその毛利を唆して対家康の
陰謀話し合ってる三成は巻き込まれただけ
不思議だねー 一次史料だと三成が家康を狙ったって話自体が無いんだよな。細川家譜だの黒田家譜だのもしくは徳川実紀みたいな徳川家の歴史には残ってるけど。三成がやった事と言えば毛利と徒党を組んだくらいで家康の命を狙ったってのは後世の作り話よ。司馬遼太郎作品の読みすぎ。 毛利の46号文書の解釈で一番支持されてるのは光成氏の慶長四年説だろ。白峰氏の慶長五年説は支持されてるとは言い難い。光成氏は七将に襲撃された三成が輝元に助けを求めた書状だとしていてこれが通説になってる。白峰氏の上杉討伐に対処する為の書状ってのは支持してる書物を見たことがないしそもそも白峰氏も自信が無いような書き方してる。家康云々は関ヶ原から逆算して作られた御伽噺に過ぎん。 もう荒らしと変わらないな
勢いあるスレを片っ端から連投で潰してるようなもの そもそも勢いがあるというのも本物なのかこいつがそう見せかけているのかすら分からない
何年も前から織田武田関係と徳川豊臣関係で同じことやってるもん 前北条は不可抗力だけど後北条は秀吉に従っていればな・・・
>>880
毛利は天下を目指すなと元就に言われてなかったっけ? 吉川広家は元就は毛利は天下を狙うなと遺言したろと説得したけど輝元は聞く耳持たなかった。でいざ負けたら安国寺恵瓊を生贄にして生き延びた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています