>>782
9月28日付如水宛井伊直政黒印状
「毛利壱岐取懸、被入御精候儀、肝要之由被申候、
殊御領分之内候間、即彼地可被仰付之由被申候」
家康は当該書状で如水が大友を生け捕ったことを賞し、更に小倉を攻めるよう命じてる
10月19日付稲津重政宛如水書状で、如水が小倉城を既に受け取っていることが分かる

10月4日の時点で毛利吉成に小倉城を渡さないよう広家に要請してるということは、吉成が小倉城にいなかったのはほぼ確実
10月4日~19日までの間に小倉城で大規模な籠城戦があったという史料もないし、
城主がいないなら空き城若しくは空き城同然だったと考えるのは自然なこと

輝元が小倉に兵を入れるってのは、既にこの時期天下の大勢が決していることや、
輝元勢が小倉城に入るなら吉成に渡さないよう如水が要請してることからも、
輝元の領土拡大の野心による加番と考えるのは見当外れ

輝元が関ヶ原後も徹底抗戦の構えを見せてるならまだしも、この時期わざわざ家康の心象を損なうようなことをする方が不自然