七月二十六日中川秀成宛大坂三奉行連署状に織田秀信が西軍に味方してる事が書いてあるから二十六日以前だったようだ。ただし、秀信が何で西軍に属したかはわからない。
同書状では和知の稲葉方通、大柿の伊藤盛正、犬山の石川光吉も味方になって人質を出してきたと書いてある。ところが犬山籠城衆は「奉行衆に人質を取られて西軍に止むを得ず属してる」と徳川家康に密かに打診、八月八日に家康は事情は理解した、味方と信じてると送ってる(これが後の岐阜落城の伏線になる)つまり大坂三奉行の言う様な自発的協力じゃなかった可能性も否めない。