石田三成の挙兵
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 >>600
御託はけっこうなんだが、だから何が言いたいの? 上杉との連絡については西軍挙兵以前と以後で分けて考える必要があると思う。
景勝の西軍への返信書状が真田家文書として残っているということは、
沼田で使者が信幸に捕まったか、上田より西に行けなかったということ。
挙兵以前なら会津への使者が捕まるということは考えにくいと思うが。
個人的には上杉との共謀はなかったと見る(暗黙の了解や憶測はあったと思う)
根拠は>>451の書状にある、
>重而逆心之讒言を以、是非上洛無之者、向當郡可被及行之旨候
>無是非只不相替上洛與計有之而、剩日限を以催促如此被押詰、
このあたり。景勝側からすると、奉行衆に追い詰められていると感じているような表現に思える。
共謀してるならもうちょうと違った表現をしていると思われる。 実は一次史料を見れば「誰が西軍の首謀者か」は一目瞭然で答えは吉川家文書にあるように「毛利輝元と三奉行」だろう。この四人が常に西軍の中心にいる。三成を呼んだのは輝元と明言されてるしね。何しろ三成と西軍が繋がったのは大谷吉継が三成を誘った七月五日以降という史料しかない。
三成首謀説は「根拠は全く無いが三成と西軍は繋がっていたはずで史料には反するが三成が西軍を指揮していた筈だ」っていう司馬遼太郎の小説を基にして作られたもんなんだな。未だにファンが多い小説家だけど悲しいかな、所詮は物語なのよねぇ >>568のひとも触れてるけど、上杉征伐従軍諸将を愛知川で引き返させるように
石田木工に指示したやつはだれか?だね。
石田木工が首謀者だと言うなら反論できんが。 上杉景勝と奉行衆、または石田三成がコンタクトして無い以上景勝からすると奉行衆=内府の部下でしか無かったんだろうねぇ。それでも景勝が謀叛をしたのはもう止まれないって言う理由もあるだろうが一応勝算があったらしい。それは「家康が動けば反家康派も動く」事だったと。んなアホなとも思うけど戦国時代だと確かにそうした動きもあった。
ただ景勝が知るべきだったのはもうそんな時代は昔のもので正確な情報と緻密な連携が物を言う時代に烏合の衆で立ち向かおうってのは無謀でしかなかったことなのだ。 正澄に宛てた三成の命令書があるなら骨が通ってるけど無いなら論拠が足りないかな。その論理だと真田信幸が東軍に着いたのは真田昌幸の命令によるものだ!ってのも主張出来る様になるし。正澄宛三成書状にはどんなものがあるんだろうか? 正澄はその後も佐和山城の守備していて三成の指揮下にいるし
というか命令書がなきゃダメというなら大名の配下の行動には必ず命令書が残ってるということ? 滅んだ側の三成間連だし何でもかんでも文書が残ってる訳じゃないからなぁ
正澄の行動は流石に三成と歩調を合わせたとする方が自然
逆に穴だらけの一次資料を徹底して突き詰めるのも危険性があるんじゃないかな >>594
単純に失脚後連絡取ってないから
国許に戻った上杉への伝手がなくなった
ってだけでしょ
隠居して一線退く約束で佐和山にいるのだから
方々に現在進行で連絡取ってるわけではない
久しぶりに連絡取ろうとしたら別ルート必要になった
そこにそれ以上の意味を見出してしまうのは
他に理由があるはずと信じたいから
あなたが三成は首謀者じゃないという結論ありきで
考えたくてそういう論理展開しか見えなくなってるだけ 一線を退くつもりだったのに大坂とのコネクションは残していましたってのが既になぁ…クーデターを企てていたならまず上杉に家康に刃向って貰わないとならないから何を置いても上杉と連絡を取らんといかん。蜂須賀家政だってやってる事で三成がやらなかった事を説明するのは困難でしょうね。
ちなみに西軍の命令序列は輝元→安国寺恵瓊→増田長盛→長束正家→その他諸将(三成含む)で実は三成、単なる一官僚に過ぎないのだ。三成の提示した作戦は悉く却下されて困ってる様子が書状として残ってる。これが首謀者の末路なのか? なるほど
失脚してたのにかなり上位にいて
したも誰もより積極的に動いているんだな 他の西軍もやらなかった事を何故三成だけに指摘して論を作るのか?
挙兵前に会津の上杉まで書状で連絡しないのがおかしいってのも分からん理屈だけど 会社のメールは跡が残るからわざわざFAX使ったり、個人の携帯にLINEで送るなんてのは今ですらある
当時も書状に残さないモノだらけだったろう 「何をおいても上杉と連絡を取らねばいかん」
というのが事実であるかせめて西軍首謀者の認識であれば
それが三成であれ他の誰かであれ
もっと早くに連絡を取っている
が実際には連絡も取れないうちから
挙兵しているし実際それが致命的だったか
というとそんなことない 正澄が愛知川の関封鎖は別に三成の指示とは限らんしな >>614
そもそも三成の当初の見立ては挙兵さえすれば会津征伐軍は瓦解して徳川軍は関東から動けず諸将はそれぞれ国元に帰還せざるを得ずに西軍に頭を下げに来るというかんじだったもんな 上杉への通告なんて実際に会津で戦が始まってからでもいいんだよ
でもそれだと西国大名の取り込みができないからあのタイミングの決起になったんであって 西軍が実際は重視してたのは上杉との連携より
家康が国許にいる/政権中枢を離れる
という状況だよね
秀頼を擁した家康に反旗を翻したら
それはもう自分達が謀反で終わってしまう
家康が東下してる間に秀頼を押さえたら
家康を謀反人にしたてて諸将も支持するはず
というのが勝算だった訳だから
この場合の諸将には当然景勝も含んでて
討伐軍到着前に一転土下座外交というのは
それやるならもっと前か
あるいは一戦して意地見せた後
あるいは敗北して全面降伏の時
なのでそう警戒されてない
もう少し後になると上杉討伐軍に
西日本の大名まで加わって上方での蜂起軍が手薄
上杉との戦端が開かれ短期決着もあり得る
だからあのタイミングでの挙兵だった
つまり謀議があったとしてそれは資料が示すように
西軍首謀者と上杉の間ではない
すでに指摘があったようにリスクもある行為だし
挙兵前に話すこともそんなにないもの では西軍蜂起の謀議は誰との間で行われたか
一方が毛利なのは間違いない
三奉行からの輝元への入場要請が史料上での
西軍の行動の最初とされることがあるので
この両者が首謀者とも見える
ただそんな書状が来たからっていきなり
クーデターを決意したというのは
いくらなんでも輝元どうかしてる
書状は7月12日付け、輝元が広島をたつのが15日
会津征伐の途上にあった毛利軍が転身するのは
それらと前後する13日
その書状の前にすでに話はついてる
(書状で決断したなら毛利軍の動きは間に合わない)
つまり記録の残ってないやりとりは
確実にそれ以前にある訳よ
というかむしろ入城要請の書状は
記録を残すために出されて
記録に残す意味で保管されたと見るべき
毛利が請われて「総大将になる」ことは
西軍内での毛利の立場を確立することになるし
敗れた後には「奉行に請われて引き受けただけ」
というエクスキューズとして残す意味があった 蜂須賀家政が秀吉に叱責され蟄居・蔵入地没収の憂き目に遭って毛利との取次をクビになったのが慶長2年。しかし彼は慶長5年に毛利輝元が西軍に参加すると聞いて諫止状を毛利家に送付してる。対して石田三成が蟄居になったのは慶長4年だから僅かに一年前の事。三成は景勝の上洛や会津転封で活躍した筋金入りの「取次」だから家政よりも相手国と疎遠だった筈がない。つまり三成が上杉と接触しなかったのは「もう己が政治をすることは無い」と思っていたからじゃないか?だとしたらクーデター計画なんか建てんだろう。 蜂須賀はもっと早い段階で四国取次に移ってなかったか?
朝鮮出兵まで毛利取次をやってたのは黒田の方で むしろたった一年なので
表立って連絡とり続けるのは
はばかりがある
という考え方もできると思うけど 蜂須賀家政が処分されたのは慶長3年でしょ
1月26日付宇喜多・蜂須賀等言上状案で蔚山・梁山・順天三城の破棄を提案し秀吉激怒
更に5月26日付福原等三奉行連署状で蔚山城合戦の際、家政は先手の当番だったにもかかわらず合戦をせず臆病者だとして蟄居処分 ていうかバレると怖いからで連絡しないとか有り得るか?
会津の近くには上杉アンチの堀一族と軍勢率いてる徳川領が居るしそもそも会津征伐が発動したら徳川派諸将が東にスタンバイするんだぞ。挙兵する前なら「取次してた上杉が内府と戦争するのを止める」って名目で動けるけど挙兵したら敵対勢力と認識されて使者を送る事すら難しくなるのは目に見えてる。実際かなりの時間が掛かってる。
何はともあれ連絡路の再構築が優先課題でそれを無視する程三成アホじゃないと思うが。 >>624
あり得るだろ
挙兵前に露見したら謀反人として処分で終わりだ
そうなったらそれこそアホの極み 石田三成って小説と違って上杉と交渉どころか大坂とすら交渉してた史料が無いっていう。まぁ大坂城に徳川家康が居る限り佐和山と使者が往来してたら何を考えてるかバレバレだから仕方ないんだけど。
もし決起計画を知っていたら三成はそれを何としても上杉に伝えていたろう。三成は輝元と三奉行が画策してる決起計画(これは五月七日には形になりつつあった)を知らなかった。景勝に手紙出すとして大ボラ吹くしか出来ない。そんな事しても自分のクビを絞めるだけだったと。 >>625
露見ってどんな状況よ?三成が決起計画を主導していてかつ上杉との交渉路を無くしていたとしてそれを再整備しない理由は無い。関東への抑えに必要だし景勝が降伏する可能性を減らさないとならん。どのみち上杉との交渉路は必要なんだし。上杉に使者を出した事を訊かれても「元取次の身ですが上杉が心配です」と言えば良いだけ。取次ならそこまでおかしな話じゃ無い。仔細は使者に口述させれば良い。露見する状況は「使者が徳川に寝返って全部自白する」事だけどそれを恐れたなら大坂の三奉行や毛利との交渉すら出来なくなる。三成が上杉と全く交渉してないどころか交渉路に苦慮してるのは重大な意味があるんじゃないか。 わざわざ伝える必要ねンだわ
だって上杉は家康にケンカ売って家康はそれに応えて大軍を動員して会津に遠征したんだから
そこで畿内で兵を挙げて家康が畿内に取って返すようなら上杉は全力で家康の背後を突くしかない。だってもう家康にはケンカを売っちゃったんだから
家康が勝ってしまったら上杉家の将来はない。だから上杉は背後を突いてくれるはず
まともな頭をしてればそう考えるのが当たり前なんだよな。兵を挙げればそう動くだろうってことが分かっていれば連絡する必要は無い
上杉が血迷って最上を攻め始めることまで予測しろって言っても無理な話だよ >>628
周り中敵だらけなのに出ていったら
普通に最上や、それ以外に攻められないか?
上杉の立場なら、戦争がどれだけ長引くかもわからないし、後方の安全確保するのは当然では
本領落とされたらシャレにならんし
少なくとも上杉はそう考えたんだろう そもそも上杉に事前に挙兵を知らせる必要がありかつ知らせるだけなら三成じゃなくたって毛利やら宇喜多がやればいいのにやってないというのは別に必要なかったということだろ
なんで上杉に連絡出来てなかったからといって三成が首謀者じゃないとい事になるんだよ? >>628
それは司馬遼太郎の「徳川家康には野心があって上杉に難癖つけて攻めた」という理屈の上なら成り立つけどこれは史料に反する。例えば四月一日、西笑承兌は書状で「内府は話せばわかってくれます。兎に角上洛なさい。前田利長は内府と話し合って和解したでしょう?あれは前車の戒めです」と送ってる。家康は一貫して穏健に話し合う姿勢を崩してない。
そして厄介な事に問題の本質は景勝にあった。逆に言えば景勝が謝れば事態は解決してたろう。 >>631
謝る気なかったんだから家康を潰すしかねーじゃん
例えば山形を取って会津を固めたとしても家康がその間に畿内の騒動を鎮めて天下を取ったら終わりじゃん >>631
そんな奴にクーデター計画を知らせろと? 三成って上杉とはおろか増田長盛や毛利輝元とも文通してないからな。到底決起計画を知れた立場じゃない。有名な「大谷吉継を誘った三成」の逸話(落穂集だったか)も真実とは言えない。というか順番からすると大谷吉継に誘われて決起計画に乗ったと言う方が道理が通る。 >>627
どんな状況???
上杉に密書送って対家康の謀議をしてて
それがバレる状況に決まってるだろ???
絶対バレない状況だとでも??? 実際には上杉と連絡なんてするまでもなく
上杉は徳川に対して反抗を始めてくれた
それに便乗してことを起こしたのが西軍であり
その逆ではないというだけだ
逆じゃないとおかしいと力説されても
その認識がおかしいとしか言いようがない >>629
というかそれが普通で別に上杉が
異常なことした訳じゃないよな
最上を叩けば旧領との連絡も確立するし
元々司馬遼太郎の言うような「家康挟み撃ち作戦」
なんてなくて上杉の興味は旧領にある
南下するならその後だ
西軍がすぐさまあっさり負けたから
そこまでいかなかっただけの話で 賛同してくれる人がいないからって何度もID変えて自演すんな
鬱陶しいわ >>629
まさに景勝も8月25日付毛利・宇喜多他宛書状でその通りのこと言ってるしな
まあこの書状は途中で真田信之の手に落ちて毛利等には届かなかったが
「すぐにでも関東表に出陣すべきところ、最上や伊達が気を見計らい、
こちらを牽制するような動きを見せているので、すぐに備えるよう申し付けた。
もし最上や伊達に対処せず軽率に関東へ調儀に及び、彼らが蜂起すれば見苦しいことだ」 >>607
正澄が佐和山城で最期を遂げたのは三成とはあんま関係無いよ。石田三成は関ヶ原で敗戦し逃走するも佐和山城に帰還出来ず最後は捕縛されてる。正澄は三成の指揮下には居なかった(居たら共に逮捕されてる)
佐和山城に籠ったのはそれ以外に道が無かったから。正澄が何の事情を知らなかったとしても「関ヶ原で戦があった」事を聞けば全てを理解したろう。それは南宮山の毛利隊が動かなかった事を意味する。つまり毛利が裏切ったと。大坂が敵に回った以上逃げ場も未来も無くなった。賊徒の首魁一味として刑死するか華々しく戦死するかで戦死を選んだだけよ。 >>637
三成は元上杉取次だから「内府に反発してる景勝を静める」名目で使者を送れるじゃん。蜂須賀家政の様に。書状にその旨を記して真相は使者に口述させれば良い。怪しまれても露見する可能性は殆ど無い。露見するとしたら使者が真実を家康に報告した時だがそれを恐れたから三成は何も出来ん。史実そうなんだが。 >>642
指揮下にいるかどうかと一緒に逮捕されるかは別だろ
まあ個人的には別個に大名並みの禄を得てるので
三成の家の子のように描くフィクションはどうかと思う
豊臣政権内の正澄の職務はあくまで
正澄に対して与えられたもので三成の仕事を
部下として代行した訳じゃないはず
ただ佐和山の留守居にいたことを考えると
少なくとも関ヶ原においては軍事的には
石田家としてまとまって動いてる >>643
失脚してるそれも要らぬ懸念を招くし
そうなれば止められたり
内容を改められる可能性もある
また上杉が手のひらを返す可能性もあるし
双方配下のものが告発する可能性もある
だから軽々しく謀議などできないんだよ
あなたはそんなこと考えてたら何もできないと思うだろう
でも実際そんなに大っぴらに謀反の計画など練れない だからこそ一方で「三成が家康は手をこまねいてるから
今こそ大阪占拠しろと言ってきた」と書状が残る
石田-毛利間の関係性は一線を超えている
関ヶ原前年にそういう関係が成立してる
というのは無視できないと思う 三成って単なる西軍の一司令官に過ぎんからね。作戦の決定者つまり西軍のトップは毛利輝元でその右腕が安国寺恵瓊、大坂城に増田長盛、でその下にいるのが三成という構成。
八月五日真田宛三成書状では三成が「もうすぐ関東を攻撃する」と戦略を披露してるけどこれは三成の考えで西軍の考えじゃない。その頃西軍は伊勢方面に主力を振っていてとても関東を攻撃出来る状況じゃないから。三成は度々「増援を此方に送ってくれ」と言っていた事が九月十二日長盛宛三成書状に書いてあるがそれらは恵瓊・正家に却下されている。 いや実際北陸の大谷らや瀬田守備隊の九州勢は美濃に向かったんだが、岐阜陥落後で時既に遅し。
石田書状の備口人数からは石田が全体を把握している幹部であるのはまちがいない。 三成は首謀者じゃないって主張してる研究者って誰かいたっけ?
布谷氏が通説で言われるように三成一人が首謀者ではないってことは指摘してるが、
二大老(毛利・宇喜多)・四奉行+小西・大谷を中心として組織されたもので、
三成も中心メンバーの一人であることは否定してないしな >>643
そんなに上杉と連絡を取り合うのが必須なら、同じ大老として毛利や宇喜多も「内府に反発してる景勝を静める」名目で使者を送れるじゃないんですかね? 三成は他家との連絡を一切やってない。親密だった真田昌幸にすら伝えてなかった事が七月三十日昌幸宛三成書状より分かる。実は三成のこの行動は無益であるばかりか有害だった。おそらく三成は会津征伐軍の編成や行軍予定を知らなかったんだろう。それで三成は昌幸が味方だというだけで真田一族が味方になったと早合点して信幸にも書状を送ってしまった(三十日書状)。信幸は昌幸や信繁とは別行動してた上に徳川派だった。それで信幸はこの三成書状を家康に報告した。
結果西軍の初期配置や戦略が全て東軍に伝わってしまった。これが「西軍は東軍の動きを全く掴めてないのに、東軍は西軍の動きを読んでる」様に見える原因であった。 首謀者だからといって指揮権を握ることができるとは限らんからな
元の分際に相応した権限しか与えられないのは当然の事 そもそも味方するように働きかける行為自体
十分主導的だからな
「巻き込まれただけ」と言うならせめて
声かけられた方だろうけど
三成は明確に声をかける側 高橋陽介は一次史料から西軍決起を主導したのは毛利輝元と大坂三奉行で石田三成は大谷吉継に誘われて乗っただけだとしてるね。 >>653
史料上判る「石田三成が声を掛けた武将」って誰が居たっけ?例えば大谷吉継は松井康之に書状を出してたりしてるが… >>651
もう君はいいから
どんだけ空気読めないの?
自分のブログかなんかでやってくれ >>650
まず両家とも縁が遠過ぎる。毛利が上杉に書状を送ったりしてないのもそんなところなんだろう。そして宇喜多は家臣統制が出来てないから外交してる場合じゃない。 妄想…が沸くとあまりの突っ込みやすさに反論が殺到
ところが妄想…はガン無視で妄想をひたすら垂れ流す
反論は書きやすいからそういうやつも馳せ集まり、本題はまったく進まなくなる
妄想…は反論するでもなく、ただ妄想を披露する
そしてスレに誰もいなくなる
妄想…だけが悪いわけでもない
なにか語ると一次史料出せというわりに、一次史料が貼られると沈黙する奴が多い
翻刻されたものすら読めないくせに一次史料だなんだと口にするな、ダボハゼ 三成と西軍首脳部では構想してる戦略が違う。
三成は西軍戦力を東進させ上杉と連携して徳川領を攻撃する事を志してる(七月三十日書状、八月五日書状)三成からすると親しい真田昌幸も上杉景勝も何方も東軍勢力に包囲されてるので早く打破しないとマズいという危機感がある。しかし上杉とは連携どころかまず連絡が取れてない。
対して西軍首脳部は東進よりも西での勢力拡大を狙ってる。主力は伊勢に向かわせた上で輝元に預けられていたという大友義統を豊後に送ったり大坂城で軟禁した蜂須賀家政を脅迫して阿波を毛利軍が支配、蜂須賀軍を毛利軍の支配下においたりしてる。また九州勢には「西軍に城を明け渡せ」という命令書を送ってる。 そして三成が首謀者かと言うとその痕跡がゼロなのと明らかに指揮系統から外れてるのでこいつは首謀者じゃない。一番怪しいのは毛利輝元。西軍決起自体、毛利家の勢力拡大が目的だったんだろう。それはつまり上杉なんて輝元からすればどうでもいい、と言えば語弊があるが徳川軍が即座に西上しない程度に役立ってくれればそれで良しだった。その隙に西国を毛利で統一するつもりだったんだろう。ところが上杉は屁の突っ張りにもならず東軍は西進。西国の領主も西軍に城を明け渡さずに徹底抗戦。ここから「全部三成が悪い」に持って行った訳で中々の悪党よ。 九州勢に城を明け渡すように命令と言っても伝存してる史料だと、
8月4日付の二大老連署状案及び同日付四奉行連署状案にある松井康之の木付城だけじゃん >>660
三成と西軍首脳というか三成と毛利かな
あとその二つの戦略は別に
矛盾したり対立してた訳でもない なんか勘違いしてるひとがいるみたいなんで書くけど、
石田三成と仲がよかったのは真田信幸だよ、さいつ(真田伊豆守信幸)宛消息がいっぱい残ってる、鷹狩りの鷹のヒナがどうとか馬小屋がどうとか久しぶりに会って話したいとか。真田家文書だったかな? あと織田秀信が草津へ温泉療養に行くから案内してやってくれとかもあったかな。 輝元の火事場泥棒を西軍本来の目的と解釈してるのは流石に初めて見た
そしてそれを理由に三成が西軍首脳の指揮系統から外れてるとするのも中々にアクロバティック >>649のひとも言ってるけど、石田三成も首謀グループの一員だった、というのが一番近いんじゃないかなとは思う。輝元も三奉行も単独ではできない、権威+兵力がなければできない企てだから。 >>668
同意だわ
フィクションの世界では三成が主役級で
彼一人が家康に挑む決意をして
他は協力したり付いてっただけみたいに
描かれてるのがちょっとおかしいだけ
実際には他の西軍に参加した諸将にも思惑があり
互いに働きかけた結果、家康追い落としという
利害で一致して起きたのが西軍挙兵だよな
三成はその中で最初期から積極的に動いたひとり
というのが実情だと思う 織田秀信が準備に手間取って会津征伐に出陣が遅れている間に三成に勧誘されて西軍に参加したという話があるけど、準備に手間取って遅れたというのは事実なんだろうか? 佐和山に蟄居してる三成がクーデター計画なんて立てられる筈が無いからね。だから家康も当初は三成が親しい上杉を攻撃された義憤に駆られて大親友の吉継がそれに同意したっていう人情花吹雪程度と高を括ってる。家康が戦略を変えたのは三奉行と毛利が企てた大規模なクーデターと知ってから。 誤算は元々三成は家康追い落とし狙って
毛利と謀議を重ねる仲だったことやな
西軍挙兵は家康の思惑通りとか
言う人いるけどとんでもない >>670
理由はわからんけど遅れたから岐阜にいたんじゃない?
で、湯治の手配頼むような仲の石田に尾張加増で誘われたから西軍についたんじゃない?
んで、美濃の盟主的立場の秀信が西軍についたから
多くの美濃衆もとりあえず西軍についた。
あるいは織田秀信も首謀グループの一員だったとか? >>663
その書状は7月20日大谷吉継書状の続きだね。
「秀頼に奉公せよ」→「城を明け渡せ」っていう流れ。大谷吉継は西軍決起にかなり関わっていたらしく中川やら真田やらとも交信してる。 >>673
三成がいつ頃から秀信に勧誘工作してたかだよね、8月5日までには西軍についていたのは確定してるけど
秀信が東軍に付いていたら関ヶ原戦役が史実よりもかなり小規模なものになったような気がする 七月二十六日中川秀成宛大坂三奉行連署状に織田秀信が西軍に味方してる事が書いてあるから二十六日以前だったようだ。ただし、秀信が何で西軍に属したかはわからない。
同書状では和知の稲葉方通、大柿の伊藤盛正、犬山の石川光吉も味方になって人質を出してきたと書いてある。ところが犬山籠城衆は「奉行衆に人質を取られて西軍に止むを得ず属してる」と徳川家康に密かに打診、八月八日に家康は事情は理解した、味方と信じてると送ってる(これが後の岐阜落城の伏線になる)つまり大坂三奉行の言う様な自発的協力じゃなかった可能性も否めない。 >>674
その返しはやっぱ会話できない人なんだね
あんたは九州全域に城明け渡し命令が及んでたみたいな言い方だけど、
実際は木付の明け渡し要求しかしてないよねって話してるのに
あとこの時期中川宛の大谷書状ないぞ
と言うか大谷の書状は私信的な内容のもの除くと、7月20日付松井康之宛と7月30日付真田父子宛の2通しかない >>669
三成の役どころは、ガリアで一時はカエサルを敗北寸前に追い詰めたオーベルニュ族の族長の
役どころでしょ。
ウェルキンゲトリクスの立場だと思う、部族内でも親ローマと反ローマに別れてて彼は反ローマ
派閥の親分。
本来カエサルに各孤撃破される運命だったガリアの反ローマの諸勢力を大同団結させて
一時はカエサルに敗北を覚悟させた >>676
ということは、その2〜3日前、遅くとも7月23〜24日頃には織田秀信は西軍加担を決めたとみてよさそうですね、 秀信の出征予定はソースが不明だが7/1だったらしい。
これと三成の行動を突合すると三成は7/5頃に大谷吉継と共に大坂に向かうところを毛利家臣に目撃されてる。三成が大坂についたのは13日以降と思われている(十二日宛の毛利輝元上洛要請文にサインが無い)そこから三成は大坂から少し離れて活動していたらしい(十七日発付の内府違いの条々にもサインが無い)
最短で秀信が誘いを受けたとして12日間も秀信は準備してた事になる。万単位の兵を使うつもりだったなら兎も角数千人でこの日数は… それは織田秀信も首謀グループの一員だったとすると辻褄は合うわな、美濃衆の勧誘、説得に当たっていたと。
まぁ普通に考えれば
そんなことないだろ、となるが、いろんな角度で考えてみろのは悪くないと思う。 >>677
九州の情勢見りゃわかるんじゃない。当時の西国は文治派のお膝元みたいなもんでつまり西軍勢力が強い。
九州大名で西軍に与した連中を乱暴に挙げると島津家(52万石)、小早川家(36万石)、鍋島家(36万石)、立花家(13万石)とかなりの勢力になる。ただし東軍勢力も存在して例えば加藤家(25万石)、黒田家(12万石)、寺沢家(8万石)、中川家(7万石)、とまぁまぁの数が揃う。西軍はこれらの連中に「上洛せよ」と言ってる訳だけどその内意は「城を寄越せ」ってこと。手始めに輝元は蜂須賀家政を脅迫して阿波を収奪してる。東軍勢力なら城を奪い、西軍勢力なら自分の旗本同然とする。そうしていって徳川以上の勢力を確保する。それが出来ないと勝てる筈も無いし。 実際は大友がたまたま旧領復帰を願ってきたから徳川が細川に宛てがった杵築城を明け渡し要求しただけだな
他に精力的な介入は見られないし何なら如水や清正が守備に徹するばかりの西軍諸将を蹂躙する立場に回ってる フィクションでの描かれ方がおかしいと言ったその内容を
わざわざカエサルがどうのという例えで言い直す意味がわからん
言いたいだけじゃないのか 見当違いの蘊蓄垂れるのを聞くと
頭いいと思っちゃうタイプなんだろ >>682
上洛命令=城寄越せとはならんでしょw
流石に妄想が過ぎる
黒田や中川にも中津や岡を明け渡せって史料があるなら
命令が九州広域に及んでた可能性も考えられるがそんな形跡もない
木付城の明け渡し命令って事の発端は細川の丹後領接収問題から始まっていて、
この機に飛び地の遠国にいて細川と連携の取りにくい松井を細川から引き離して味方につけるのが目的であって、
松井同様に城の明け渡し命令が九州全域にも及んでいたかというとそんなことはない
松井が西軍首脳に目を付けられた背景には、慶長4年の松井康之と細川父子との不仲も関係していると思われる
慶長4年10月18日付松井康之宛有馬則頼書状に「幽斎・其方御間相滞由、近日承」とある
松井家先祖由来附によると、不仲の原因は松井が秀吉から大名並の厚遇を受けたことが
秀吉の死後になって表面化して、松井は細川父子から疎んじられ伏見屋敷に蟄居させられたとある
西軍首脳には不仲につけ込んで松井を味方につけようという目論見はあったんだろう 具体的には阿野津や松坂、岩手の城に長束正家が軍勢連れてやってきて「城を引き渡せ」って要求してる。これらの城は城主が不在でその隙を突いて占拠しようとしたらしい。ちなみに西軍はこれを「自発的行動」と主張してるので無茶苦茶悪質。東軍は自発的に城を預けてたって話だが西軍はこれだもんなぁ… 中川家文書に残ってるやつだね。慶長五年七月二十六日三奉行連署状によると津城、松坂城、岩手城に大坂から軍勢を引き入れたと書いてある。ところがこれが真っ赤な嘘。
八月二十五日有吉立行・松井康之連署状では最新情報(八月十八日収集)として長束正家が安濃津城、松坂城、岩手城に軍勢を引き連れやってきて城を引き渡せと要求するも城主が戻ってきたので関地蔵まで引き返したとある。城主が居ない時に城を奪おうとした例は有名なのは清洲城があるけど蜂須賀家政もやられてるので西軍の基本戦略だったらしい(かなり陰険な手法だが) この二十五日書状には追而書があって「家康が西上すると聞いて西軍は慌てふためいて籠城の用意をしてる」と家康に恐慌する西軍の姿が書いてある。長束正家が城を奪おうとした時にやってくる船を見て「家康が戻ってきた!」と逃げ出して後にそれは安濃津城主・富田信高の船であると知れて西軍兵は白け呆れ返ったという(そして再攻撃しようとした長束軍を信高は夜戦にて撃破したという)
家康が西上しない筈が無いからどうも西軍には「家康が西上しない理由」を信じていたらしい。それが何なのかは今となってはわからんが…連絡すらつかん上杉景勝とも思えんし。 自演はやめた方がいいよ
あんたの文体は特徴あり過ぎてバレバレ >>685
こういうのは、狐と狸の化かし合いと言う意味で書いたんだけど。
ウェルキンゲトリクスは、ガリアの反ローマ勢力を大同団結させた為ある意味カエサルの
ガリア平定の最大の功労者ですからね
とはいえ、それは勝てたからで一時はカエサルに敗北覚悟させる所まで追い詰めたのも
事実で、寛容でしられたカエサルが処刑した数少ない敵将です
これある意味カエサルの場合最大限の評価「殺さんと駄目、有能すぎる」でして
家康も、勝てる自信あったとは「岐阜落城までは特に」思えん >>694
そういうイメージがおかしい、実情はこうだと言ってる相手に対して、そういうイメージと同じことを返しているだけじゃない
いや、そのイメージは正しいのだ、何故なら云々と理由を言って反論するならともかく
ただのオウム返しに例えなどいらん 秀頼を失った家康には諸将が従わず
会津討伐軍は崩壊するって思ってたんでしょ
秀頼擁する自分達に従うはずと 諸将からしたら秀吉が生前に家康に与えた様々な立場を見れば
三成や毛利らは秀頼を空き巣同然に分捕ろうとしてるだけだと認識しただろう
秀吉の中では家康及び徳川家は単なる家臣ではなくて自分亡き後の自分の代理であり一門として豊臣家を守り代表する存在
前田の傅役は信長の平手政秀のように家臣の役割に過ぎずあくまで主従
豊臣一門そのものである徳川とは全く性質が違う
そのことは加藤福島ら恩顧諸将のほうがよく理解していたと思う そのあたり長年秀吉の命令を代行してきた
奉行は自分達こそ豊臣公儀って認識で
そこが単純に見込み違いなんよね
思い通りにならない家康がいない隙に
輝元大阪城に入れて仕舞えば
トップすげ替え完了っていう 光成氏は「蜂須賀家政領てある阿波を収奪してるのは毛利軍による(豊臣公儀は動いてない)」「生駒親正も同じく蟄居・讃岐領没収された形跡がある」「伊予に毛利軍が攻撃・調略にきている」「大友義統は毛利軍と繋がっている」と言った事から輝元の狙いは毛利領拡大にあったとしてるね。また毛利水軍によって秀吉に奪われた瀬戸内海制海権を奪還する目的もあったとする。だとするならば輝元は秀頼の名によって秀吉の打ち立てた惣無事令・海賊停止令を破壊する事が目的だったことになる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています