石田三成の挙兵
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 内府違いの条々で気になるのは三成もだが「何故毛利輝元の署名が無いのか」ということ。九州の大名が知っていたかという問題はさておき建前上十人衆で合議する仕組みが豊臣公儀だった。奉行三人が出した内府違いの条々はこのルールにすら違反しつまり西軍は謀反軍ですよと公言してるに等しい。最低でも毛利輝元の署名が必要だし宇喜多秀家や石田三成の署名で十人衆の過半数が賛成してる事を演出しないといけない。西軍はそれをしなかった。狙いが非常に小さなものだったからだろうが。 >>491
それが真実だとしたら安国寺恵瓊の戦略能力が問題視されることになるね。宍戸らは近江まで進軍した挙句そこから徳川に弁明状を出してる。これらは予め輝元の本意を伝えて家中統制していれば防げたこと。無駄な進軍までしてしまった訳で参謀としての資質に疑問符が付く。 合議を前提にするから不思議なだけで
元々合議を規定する文書もなけりゃ
合議で決定した案件もない
奉行というのも後世の用語であって
彼ら自身は自分達を豊臣の年寄(重臣)
俗に大老と呼ばれる者たちを奉行と呼んでる
つまり元々成立してない合議違反など
初めから弾劾していない
内府違いにも奉行5人の連署が必要なのに
一人で署名したとだけ書かれているにすぎない 内府ちかひの条々が九州大名限定に宛てられたものっては違うな
真田家文書の7月17日付三奉行連署状には「内府公御違之条々別帋ニ相見候」とある
真田家にちかひの条々の原本は現存してないけど、この連署状と共にちかひの条々も届いてる 合議を規定してる誓紙自体はあるんだよなぁ…
内府違いの条々はツッコミどころ満載で現代ではかなり批判的な評価をされてる。問題はそれを西軍が理解していたかどうかでおそらく理解してた。理解してなかったらそれこそ諸将に送付してたろう。ところが中央から遠く離れた九州に向けて出した。つまるところその程度の書類で後世の小説にあるようなもんじゃない。 内府違いの条々が小説にあるように全国の諸将に送られた訳じゃ無いってのは高橋陽介が証明していたな。
徳川家康は当初西軍を「三成と吉継が謀反した」程度と認識していた。それは七月二十七日榊原書状に「三成が謀反して淀君と三奉行から救援要請がきた」とあることやその前に奉行に宛てて「佐和山攻めの兵糧を用意して欲しい」と言ってるから。内府違いの条々を見れば三奉行が謀叛の中心なのが明らかなのだからこの時まで家康は内府違いの条々を受け取ってない。また東軍諸将も西軍からこうした書状が届いた事を隠す理由が無いのだから東軍諸将も受け取って無い。 事情が変わったのは二十九日、ここで家康は「大坂奉行衆謀叛」と書いてる。この事から高橋陽介はこの日に家康は内府違いの条々を知ったとしてる。ただし、家康筆頭に東軍は内府違いの条々を戯言と断じた。それで東軍は内府違いの条々に一切の反論を行っていない。尤も東軍は最後まで内府違いの条々の存在を知らなかった可能性も否定は出来ない。三奉行が毛利と連んでる事が露見した可能性があるからね。どのみち内府違いの条々は西軍諸将も思っていた様に特段の効果を持たなかった。 >>494
現にそのあと一貫してグダグダだっからね毛利 毛利は恵瓊と広家の対立関係が結局致命的な西軍の敗因にまで繋がったな
三成が毛利家取次就任後も吉川家に気を配ってれば或いは防げてた事だったかも 信長や秀吉だって成り上がっている間に山ほど糾弾状を書かれたけど
それによって倒されたわけでも何でもない
むしろ仮に光秀が事前に糾弾状を書いてばらまいてくれていたら
信長としては逆にラッキーで助かったと言えるだろう
中央の歴史を知らない田舎大名ならいざ知らず
そうした歴史を知っている武将からしたら内府違いの条々なんて笑いの種でしかない
西軍がやっていることは過去30年間にわたって失敗に終わってきた敗者の戦略だった 恵瓊ー三成と広家ー黒田のラインでの対立ってあんまり語られないよな
新取次と旧取次との間での派閥の違い
関ヶ原の明暗って所ではかなり重要な要素だと思うけど >>504
明応の政変なんかは成功例じゃねえかな
まああれは権力者が将軍の座を挿げ替えただけだとも言えるけどさ
豊臣奉行衆では細川政元になれなかったな 白峰氏の論文より引用
【「内府ちかひの条々」について】
7月17日に三奉行が「内府ちかひの条々」を出して豊臣公儀として反家康の動きが公然化した
のであるが、この日の状況として、御奉行衆(三奉行を指す)の大坂城籠城、毛利輝元の上洛を
記載していることは(DB…7月17日)、反家康で動いた豊臣公儀の中枢メンバーが大老の毛利輝元
と三奉行であったことを示している。
「内府ちかひの条々」に関する記載は、『義演准后日記』7月18日条に見られ、「内府ちかひの
条々」を当時家康がいた江戸へ遣わした(DB…7月18日)、という記載が注目される。通説では、
三奉行が反家康の動きに荷担していることを家康が知ったのは7月29日頃とされるが(5)、7月
17日に三奉行が「内府ちかひの条々」を出して江戸の家康に送付したとすれば数日中には江戸に
届くはずであり、それを家康が知らない(見なかった)ということはありえないので、上記の通説
の見解には再検討が必要であろう。『義演准后日記』7月19日条によれば、7月19日の時点で、
大名ではない義演ですら「内府ちかひの条々」を見ていることがわかるので(DB…7月 19日)、
弾劾された当事者である家康が7月29日頃まで「内府ちかひの条々」の存在を知らなかったとは
想定し難い。
これまでの通説では、「内府ちかひの条々」は諸大名に対して出されたものであり、「内府ちかひ
の条々」が家康に対して送付されたという指摘はされてこなかったが、「内府ちかひの条々」に
よって弾劾された本人(家康)に対して送っていない、と想定すること自体が不自然であろう。
その意味で、上記の『義演准后日記』7月18日条の記載は重要である
『義演准后日記』7月19日条
家康へ奉行(衆)より(出した)十三ケ條(=「内府ちかひの条々」)
が流布し、(義演もそれを)一見した。
白峰氏見解
大名ではない義演が7月19日(「内府ちかひの条々」が出された
翌々日)の時点で「内府ちかひの条々」を見ている点に注意するこ
と。「内府ちかひの条々」の流布の速さなどの状況を考えるうえで
参考になる。 三成みたいな爆弾は早く豊臣家が自ら排除するべきだったな >>507
当時の実力者にとって脅威だったのは
光秀のように予告なしで襲撃してくる行為だった
わざわざ弾劾状を書いて送りつけてくれる相手はいくらでも準備・対応ができるので
信長や家康のような天下を目指す実力者にとっては面倒なだけで脅威ではなかった
内府ちかひの条々が家康に送付されたならば、それによって家康の勝利が確定したといっていい
信長と家康の最大の違いは、事前に相手が弾劾状をばらまいてくれたかどうかだった 実際の所、盗将大権現は挙兵は読んでたとは思うんだよね、明らかに隙つくる行動だし
でもさ、謀略の名人って相手にわざと動かせて巧妙なカウンターうまいからね
多分近畿の幾つかの城で籠城するだけって言う、松永弾正みたいな形を予想してたと
思います
幾ら大義名分を語っても、大阪城に入城して豊臣政府軍を名乗れなければ大した事は
出来ないと考えてたと思う
が、しかし奉行大老が同盟して大阪に陣取る形になりましたからね
想像以上に、内府違ひの条々は大きいとおもいますよ
これで東軍大名が家康に従う根拠が消えた >>507
7月21日付松井康之他宛細川忠興書状
「急度申候、石治部・輝元申談色立候由、上方ゟ内府へ追々御注進候、如此可有之とかねて申たる事ニ候、
其外残衆ことことく一味同心之由候、定而内府早速御上洛可在之候」
「内府ハ江戸を今日廿一御立候由候、我等ハ昨日うつの宮まて越在之事に候、さためてひつくり返し、上方へ御働たるへくと存候」
21日の時点で忠興は輝元が三成に同心してる注進が家康にも届いてることや、家康も早速上洛するであろうこと、
我々もきっと反転して上洛するであろうことを述べてる
ここまで忠興が知ってるのに、家康にはちかひの条々が届いてなくて知らなかったとするのは無理があるよな >>490
小野寺義道宛や秋田実季宛の7月17日付三奉行連署状があるから、ちかひの条々は九州大名にだけ出されたわけではない >>511
東軍大名が家康に従う根拠は力だろ
信長が将軍を追放して好き勝手やっても成り上がれたのは力があったから
まして幼児しかいない豊臣など力でどうとでもなる
はっきりいって室町幕府以下のお飾りに過ぎない
実力者にとって唯一の脅威は、隙を突いた予告なしの直接襲撃のみ
しかし内府違ひの条々によってそれもなくなった
後は力で馬鹿な連中をねじ伏せればいいだけ
過去30年間繰り返されてきたおなじみの行為でしかない
島津・立花・真田みたいな中央の歴史に疎い田舎大名は内府違ひの条々で騙されるかもしれないが
織豊古参武将にとっては内府違ひの条々など単なる負けフラグでしかない
だから織豊古参武将のほとんどは東軍を選択するわけ 内府違いの条々は欺瞞と自己撞着に満ちたモノで到底正当性を主張出来るものじゃない。当然公的な書類では全く無いんだがこれを出したのには理由がある。
というのも内府違いの条々は加藤清正・立花宗茂・筑紫広門・中川秀成等九州の諸領主に命令書と共に出されてる。これが高橋陽介が「九州にのみ」と言ってる理由の一つでもある。つまり西軍にとって重要なのは九州を西軍支配下に置く事であって内府違いの条々は言わば盗人の三分の理。そこまで重要視してるものでもない。 白峰論文だと石田三成は七月十五日に奉行に復帰してる。何故内府違いの条々では署名していないのか? 白峰が現実と三成の脳内願望の違いを理解できていないだけだろ 毛利は元々、天下に興味はなく、徳川を滅ぼす気もなく、
豊臣政権を混乱させている間に、九州・四国を切り取ろうとした
だけじゃないかな。
それで、四国や九州に送り込んだ手勢が壊滅して、本国も
危ないってなった時点で、戦争継続する気が無くなったんやろ。 別に対織田の時も毛利本体が前面に出て戦うわけでもなく
危険なことは他に押し付けてせいぜいが後方支援をしていただけだしな
やばいと思ったら籠城して奮戦している連中を見捨てて裏で取引もしていたし
関ヶ原の時だけ特殊なことをしていたわけでもない
対織田の時は本能寺があったからたまたま生き延びただけであり
18年前に破綻した行為を延々と繰り返していただけ 内府違いの条々で三成の署名が無いのは三成が関わってないからでしょう。政権がどうこうとかは関係ないよ。
前政権の決定を継承する人間はそもそもクーデターなんかしないし。謀叛をすること自体が前政権の否定なんだから。 内府違いの条々って決起の趣意書であるとともに
家康罷免したからこれからは我々が指示をだしますってお知らせでもあるわけでしょ
だとしたらこれをもって家康の政治判断の否定になるのだから
三成の復職はこれ以降ということになり署名がないこと自体は
形式的にはそこまでおかしくないのでは >>517
三成「よっしゃ挙兵じゃワシも奉行復帰したぞ」
三奉行「え?いやあの人隠居だし文書出すならうちらの名前だよな」
ってだけだよな
西軍が一丸という幻想に過ぎない 城中で政権周りの仕事を担当してた3奉行と
城外で挙兵進めてた三成って違いもあるだろね
元々奉行全員連署でないとダメという運用でもないし
政権の枠組みをイチイチ確認しながら進めた
って状況でもない訳で
そこに大きな意味を見出す意味は薄いのでは? 三成がいつから西軍決起に参加していたかというと一次史料上は七月十五日以降で本格的に参加し出したのは八月一日から。つまり「石田三成が挙兵した」かというと全く違っていてむしろこいつ巻き込まれただけという。 >>524
史料に残ってないだけで、それより前から参加か
それに近いことはしてたんじゃないのかな >>524
一次史料は重要だけど、これだけ隠蔽を必要にすることだから、
やはり1600年初頭には既に何らかの計画はしてたんじゃないかと思う
じゃないといきなり「俺も加えてや!」なんて言ってきて仲間にすると思う? 三成ら浅野以外の奉行と毛利は秀吉が死んだ直後からつるんでるしな
そこから関ヶ原まで没交渉だったとは考えにくい
秀吉の誤算はただの手足、道具に過ぎないと思ってた奉行が
浅野以外は自分の次代構想にガチで反発して独自に政治的暗躍を始めるような連中だったということか
成り上がりの独裁者にありがちな失敗だな 秀吉生前から対立はあっただろう
奉行と奉行に便宜を図ってもらってた毛利上杉などの外様衆と秀長秀次秀保や義弟になった家康などの豊臣一門衆とで
秀長が死んだ途端利休が粛清され、秀次が処分され、秀保が変死。一門が持ってた畿内とその周辺の要地は石田前田増田などの奉行衆のものになった >>524
それいうと西軍の成立自体が文書で確認できるのが
せいぜい7月12日の三奉行から輝元への入城要請でしょ
たった3日の差でしかも初の対家康行動である
17日の内府違い条々より早く参加が確認できる
それを「巻き込まれただけ」てのはどうなん?
普通に初期から関わってると十分言えるでしょ 三成が最初から参加してたら上杉景勝とも連携してなきゃおかしいからな。三成は後から参加したからこそ有効な動きが全く出来なかった。 結局一次資料のみで構成された歴史もまた穴だらけで歪なものになるという証明でしかない
当時の三成の立場で堂々とそんな文書のやり取りをするのか
普通に考えて周囲に露見しないよう密儀の上で事を進めただろうが
或いは西軍側の文書の多くが散逸してる事も勘案されるべき >>530
三成は失脚後上杉とろくに連絡取ってないだけで
密儀に関わっていたかは関係なかろ
あとその「最初」っていつの誰の行動のこと?
西軍の最初の行動である17日の毛利大阪入城の
段階では既に確認できるわけだけど >>522
三奉行「家康は石田三成と浅野長政を逼塞させた!秀吉の遺言違反と十人衆誓紙にも反してる!だから我々は立ち上がった!」
三奉行「あっ、三成をクビにしたのは家康さまだから奉行には復帰させないね」
って話になると三奉行とんでもないサイコ野郎になるじゃん。三成が西軍に参加した時点で奉行職に復帰したっていう白峰説はこうした話だろうし。単純に考えるなら三成が内府違いの条々作成時から発布時まで居なかったって話になるけどそれは三成が全く謀反に関わってないことになるし。 少なくとも奉行の一人の前田玄以は最初からやる気がなさそう 3奉行は結構最初から二股狙ってた節があったり
乾坤一擲の勝負なのに入れ込んでなかったり
輝元呼び込んだり弾劾状巻いてる割に
不思議な動きしてるんよね
輝元が領土と政権での地位向上に
色気出してんのは間違いなくて
一方の首謀者なのは確か
でも輝元が望めば大阪入城可能かと言うと
そんな単純でもなくやる気の怪しい3奉行と
色気ありありな輝元がどう結びついたのかとなる 西軍決起は景勝と連携したものじゃない(そうした史料がない)となると三成が首謀したとは言えない。徳川家康が出撃したからクーデター出来るのだから景勝に頑張ってもらう必要がある。後世の創作だと家康が戦争をしたくてしたくてたまらない奸臣として描かれているけど史料での家康は基本的に和睦重視の温厚な人物。西笑承兌の書状でも「上洛して内府と話せば全て解決する」ってあるくらいだからそうした見方が一般的だったんだろう。景勝が降りたらどうするつもりだったのか。景勝に「必ず助けるから戦争してくれ」とも言わないってのは景勝と三成の友情を信じ過ぎてる気がする。 いや家康は軍事的な権限を握りたくて仕方なかっただろうよ
それを明確に掌握出来たのが加賀征伐であり上杉征伐
家康が諸大名征伐の動きを見せてるのには政権の軍事力を自分の手中に収めるという歴とした目的がある しかもその後の論功行賞では豊臣の物を従軍した大名にばらまいて恩を売れるという一石二鳥のボーナスタイムだからな 俺が1ヶ月前に初めて話題振った時はもう2ヶ月近く誰もレスしてなかったのに
人の居るスレにはどこから湧いてきたんだ?ってくらい書き込みが集中するよな
スレタイの趣旨に合うなら問題ないけど家康マンセーしたいだけの人はあまたある家康スレでやればいいのに
関ヶ原を起こしたのは三成、家康は何も悪くない
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1651981216/
とか よく言われてるけど加賀征伐は別に家康が「勝った」訳じゃない。家康と利長が話し合って解決させたものでとても平和的に解決してる。 加賀征伐での家康は硬軟使い分けての高等な交渉術を展開してる。結果前田利長は家康と「和解」した訳で降伏した訳でも屈服した訳でもない。利長は特段野心的行動をしてないから腹を割って話し合えば良いだけだった。
問題は上杉景勝でこっちはモロに野心的行動に出てる。旧領への調略、城砦の整備、軍事品の備蓄と弩ブラックだった。言い訳出来ない。それで戦争するしかなかった。この流れには石田三成が関わってる描写が全く無いので三成にとっても青天の霹靂だったのかもしれない(加賀征伐の際三成は家康に利長の行動を報告、対利長の押さえとして命令を受けてる) 人質送ってんだから降伏だろ、なに和解とか言ってんだ。 そもそも加賀征伐は計画自体なかった説は大西泰正が提唱してるな
家康との政治的対立を解消し、関係修復のための人質だと指摘してる そもそも芳春院はどこに居たのか?っていうと前田家の記録では上方に居たことになってる。利長が帰国する時には大坂に居たらしい(象賢紀略)
その後家康暗殺事件が露見、利長に謀叛の疑いときて加賀征伐が取り沙汰されるけど家康も利長も表向き「やるぞ、やるぞ」としながら裏では交渉を重ねていた。その結果慶長五年の一月あたりに「沙汰止み」になった(慶長日記)これに対して利長が代償としたのは中納言辞任しか見当たらない。つまり利長は官職を返上する事で野心の無いことを証して家康はそれを受け入れて征伐を中止した、と言う事になる。 で「芳春院が家康への人質」ってのはどっから来てるかと言うと芳春院は慶長五年の五月に江戸に向かっている。同年二月までに加賀征伐は立ち消えしてるからこれは加賀征伐中止の人質じゃない。これは翌月に控えてる上杉征伐に対する人質。実は利長と景勝は親交があったらしく徳川に属する事を証する必要があった(これによって芳春院は西軍の魔の手から脱した)
つまり「芳春院は加賀征伐での人質」って話は小説家がこの一連の歴史から時系列を塗り潰して前と後をくっ付けて作ったもんらしい。 結局利長謀反の嫌疑に起因する出来事にしか見えないが、芳春院が上杉征伐の人質って言える根拠は何かそれより明確なものがあってのことなの? 二月までに「沙汰止み」になってるのに五月になって人質だって言うのは無理があるからね。例えば石田三成は沙汰が出る直前にに嫡男重家を家康に人質として出してる(閏三月九日付福島正則・蜂須賀家政・浅野長政宛徳川家康書状)
利長がこの件で家康に起請文や誓紙を出したって話も無いので加賀征伐はトップ会談のみで回避されたことになる。 西笑承兌書状でも「前田利長が異議を唱えたが家康公は道理に基づいて静謐に収めました(だから景勝も上洛して釈明しましょう)」って言ってるからね。二月に沙汰止みになった加賀征伐だから四月には完全に霧消してる。対して五月にはもう半ば会津征伐は確定事項になりつつあった(承兌が書状を送ったのが四月一日、四月二十七日には六月下旬までに事態が好転しないなら家康が直々に遠征すると触れが出てる)謀叛の疑いを掛けられた利長が五月まで人質を延期させる理由も史料も見当たらないから芳春院の江戸下向は上杉討伐が理由なんだろう。 義演准后日記5月20日条
伝聞、東国・北国悉和談候、珍重
慶長5年5月13日付堀尾忠氏宛前田玄以・増田長盛・長束正家連署状
羽柴肥前守殿御袋、江戸へ御下ニ付而、浜松ニ一夜御泊之賄方ニ、
八木五石、大豆壱石之分、
奥村伊与守・村井豊後守両人ニ可被相渡候、恐々謹言、
五月十三日
長大 増右 徳善
正家 長盛 玄以
芳春院(まつ)が伏見を発ったのは慶長5年5月17日とされ、江戸に着いたのは6月6日とされる。
義演准后日記5月20日条からは前田と徳川の和睦は慶長5年5月にまとまったみていいと思われる。 「家康は加賀征伐をゴリ押ししようとした」
「利長は母を人質に差し出して降伏した」
「家康は加賀征伐の成功を基に今度は上杉を屈服させようとした」
これらは一次史料に反していてまぁ要は江戸時代・明治時代に作られた逸話を小説家が真に受けただけよ。史料では家康は一貫して話し合いで解決しようとしてるし利長はそれを受けて和解してる。上洛もせずに解決させてみせたのは利長の外交能力が高かったのか取次が有能だったのか。それでも数ヶ月掛かった訳だけど(慶長五年二月に解決させたとはいえ) 島津忠恒宛義弘書状
尚以帖佐、山田、蒲生、吉田之人衆出水表へ可被召移之由、度々御談合申定候き、然處庄内堺へ御城取に付、
右四ヶ所之人數被召移之由相聞候、無心元存候、當時之地頭に内談いたし、移望申儀も可有之候、
倂庄内事は一節の儀に候、いつみの儀は肥筑表之一の城戸にて候間、彼表之儀手かたく御かくこ候はては、
貴所御爲に罷成ましく候、其御心得專一候、我等事は老軆にて候間、後年貴所御手前可然樣に可被仰付候、
はや肥筑表きざし候之由申來候、就夫もいつみ表之儀於不番は、庄内口の御行も急に難濟候之条、さて申入候、
以上、
態令啓達候、
一 今度於大坂 内府樣天下之御仕置被仰定候に就き、いかやうの子細候之哉、羽柴肥前守殿當時賀州へ在國候を、
無上洛樣にと被仰下候、自然強而於上洛者越前表にて可被相留之由候て、刑少殿の養子大谷大学殿、
石治少之内衆壱千餘、越前へ被下置候事、
一 加藤主事も無上洛樣にと被仰付候、其上に罷上におひては、淡路表にて可被相支之由候て、菅平右衞門尉殿、
有馬中書兩人に被仰付彼表へ被指越候、如斯必定承付候間、爲心持申入候、乍不申諸人不承樣に、
校量肝心候、其故は京都之出合、國元へ申通候と露顯候へは、爰元の仕合も難計候之事、
一 出水表之儀心遣候之条、 竜伯樣江被逐御熟談、彼境之番尓々可被仰付事に、賴入候之事、
一 加主事は連々氣任之仁候之間、無思慮弓箭をも被取出儀も可有之候之歟、左樣なる時、出水表於不番に者、
油斷に可罷成候、殊佐敷表之儀も、小攝、相良なと被乘取軆に候ては、後年御爲如何敷候、
又加主方より手色不見處に、從御方角佐敷表へ楚忽なる儀をも仕出候へは、一揆の手初に可罷成候間、
いかにも丈夫なる仁を被召置、其仁壹人迄に内證被仰聞、油斷をも不仕、又楚忽なる儀をも
不申出樣に能々被仰付、彼表之樣子被聞屆、賢慮賴入候事、
一 庄内表之儀いまた於無落去は、右之出合承付候はは、彌下城之御侘も六ヶ敷可申歟と存候、從有方の内證は、
先此節は下城仕候樣に被仰調候はは、後日はいかやうにも御噯可有之と被思食候間、時分からと申、
分別可入由被仰候、定而加主方よりは庄内へ山くぐりをも被指越、樣子可被申談と推量申候、
能々才覺此時候、恐々謹言
九月廿一日 惟新(花押)
少將殿 一 今度於大坂 内府樣天下之御仕置被仰定候に就き、いかやうの子細候之哉、羽柴肥前守殿當時賀州へ在國候を、
無上洛樣にと被仰下候、自然強而於上洛者越前表にて可被相留之由候て、刑少殿の養子大谷大学殿、
石治少之内衆壱千餘、越前へ被下置候事、
一 加藤主事も無上洛樣にと被仰付候、其上に罷上におひては、淡路表にて可被相支之由候て、菅平右衞門尉殿、
有馬中書兩人に被仰付彼表へ被指越候、如斯必定承付候間、爲心持申入候、乍不申諸人不承樣に、
校量肝心候、其故は京都之出合、國元へ申通候と露顯候へは、爰元の仕合も難計候之事、
>菅平右衞門尉殿、有馬中書兩人に被仰付彼表へ被指越候
「兩人に被仰付」加藤清正が上洛しないように家康が命じてる。
全体では前田利長、加藤清正が上洛しないように命じてる。 10月6日付千世宛芳春院消息(慶長10~19年ヵ) 千世…利家七女、細川忠隆室、村井長次室
よくそ?たひ?人を給候、御うれしく候、
まこ四郎事、はしめハする?としたる御返事申され候て、
いま何かとの事候、せひもなく候、
そはにて人か、いかほと?せいをいれ候ても、ならぬ事候、かうきハすミ申候、
こんとも人の御物語候か、
大御所さまの御くちハ、大かたよく候よし申候へ共、かしく、
しにてのちの事まて申され候、
大かうさま日本のしゆにせいしをさせ、いかほとの事仰おき候へ共、
ミな?むになり申候に、おかしき事ともにて候、
これと申も我身かいんくわのほとを、なを?かんし申候、
くわいふんかめいわくに思ひまいらせ候、
ふつしんにもやう?はなされたるわか身と思ひまいらせ候、
九月よりのとけさし出申、むねもいたくてけんかんのくすりのミ申候事候、
すき?とよく候つるか、又さし出申候、
さりなから、物ハよくくい申候、御心やすく候へく候、めてたくかしく、
又申候、一日給候ひきやくに、と山のもくかたまて、
ひせんへやうの事候て、あけ申候文、事つて申候か、
もくハしかられ申候よしにて候、
御たつね候て、その文ひせんへとゝけて給候へく候、
とおき所ハあとさきとなりまいらせ候、たのミ申候、かしく、
孫四郎(前田利政)の赦免の件で、(徳川家康は)初めは滞りなく返答していたが
未だに実現していない。
わたしがどんなにがんばっても無理のようです。
公儀の決定は出てしまいました。
人づてに聞いたところ、家康様は口ではいいことを言うけど
(利政赦免は)実行してくれません。
「人づてに聞いたけど」と注釈を入れつつも、
家康は口ばっかりで実行してくれない、と愚痴というか家康批判をしている。 >>536
景勝と連携してるかと
三成は首謀かどうかは
別にそこまで固定ではなかろ
西軍としては家康がいるうちには動けずp >>536
景勝と連携してるかと
三成は首謀かどうかが
リンクしてるというのは
論拠が薄いかな 三成が首謀者だとしても西軍が勝てば実権を握るのは毛利なんだよね >>559
現実では三成は西軍参加後に上杉との連絡を任されてる(七月十五日島津書状より)ただしこれは捗りが悪かったらしく同月三十日になってもまだ力添えを探している(真田宛三成書状)
三成が最初から西軍決起を企てていたらこんな動きになるか?ならんだろう。上杉との連絡を密にしていないとおかしい(上杉には対徳川としての役割もある) >>562
いやそうとは限らないぞ
講談のように三成と上杉が最初から
共謀して挙兵したというのは否定されるが
それだけだ 三成と上杉の共謀はなかった
→三成は挙兵を企んでなかった
とはならんよ
企んでないのに他の西軍首脳と
ほぼ同時に動けてる理由も分からんし
島津や東軍側が最初期から三成も挙兵の中心と
認識してたこととも整合が合わなくなる >>557
手元の兵力増強を促したり有名な書状類だが、総じて家康の真意を図りかねていたり、嵐の前触れをみなが感じていた様子が分かる >>564
>三成と上杉の共謀はなかった
>→三成は挙兵を企んでなかった
そもそもこれが成り立つなら他の西軍主要メンバーは誰も上杉と連絡取れてないんだから西軍の首謀者は存在しないという事になるしな 三成が「巻き込まれただけ」だとすると
一体誰になのかとなるものね
三成の西軍参加が確認できるのが挙兵直前というが
三奉行や大谷刑部だって毛利だって別に
そんなに早くから文書上で確認できるわけじゃない
上杉との連携が不可欠なのに連絡取ってない
てのも西軍全員が共通なので特別三成について
後から参加したと断定する根拠にはならない
三成の場合毛利側の文書ではもっと古い段階で
家康を狙って毛利に大阪入りを促してきた
という文書はある訳でな
その後失脚があったとは言え無関係に
西軍が結成され巻き込まれたと見るよりも
その活動の延長線上に西軍結成があった
と考える方がずっと自然ではないかな 愛知川に関所設置して西国からの軍勢を引き返させたの三成の兄貴だから
最初期から活動してたと考える方が自然だよね
秀頼と家康が離れることを危ぶんだのが会津征伐の反対理由だし
何者かが秀頼担いで蜂起することへの懸念は早い段階から存在していて
奉行衆にその気があれば上杉に事前に連絡することは可能だと思うがそれはしていない
となると三成か輝元あたりがノリノリで行動した結果
三奉行は引きずりこまれたということになるのかな 三成は西軍が決起してから漸く上杉との連絡を試みてる。上杉との連携は西軍にとって重要戦略だからここまで後ろ回しにする必然性は何も無い。三成は七月時点まで挙兵するつもりが無かったなら分かるが。
じゃあ誰が首謀者か?っていうとそれは毛利輝元と三奉行だろう。例えば三成と吉継を呼んだのは輝元(吉川家文書)だし西軍の命令書を書いてるのは三奉行。こいつらが首謀者で三成はあくまで参加人の一人。最悪のババを引かされたせいで首謀者みたく言われてるが… 輝元は前のめりで進めてるから輝元恵慶大谷主導で見切り発車での挙兵じゃないかな
石田は大谷から誘われた説はありうる
大谷は北陸、石田は東海筋で色々やってるから大谷と石田はガチっぽい
増田と玄以は石田大谷の謀反と最初は通報してるし、その後も玄以は仮病を使ってるぽいし
長束の本気度がよくわからない 七月十二日付毛利輝元宛三奉行書状が輝元の下に届いたのが十五日、即日で輝元は出発して大坂に十七日に到着してる。
輝元が何も知らなかったならこんなに手際良く動ける筈が無いからこいつ結構なピカロよ。最初からある程度計画が練られていて手筈が整ったら書状が来る事になってたんだろうさ。 >>569
重要戦略だとして後回しにしたのは
三成だけでなく西軍全体なのに何故それが
三成が首謀者から外れる理由になるの?
三成は首謀者じゃないと言いたいために
その結論ありきで考えすぎてるよ 西軍が三成参加以前に上杉と交渉してた史料って何かあったっけ?知ってる限りだと七月十五日に島津が西軍参加した時に「三成が上杉の担当になった」連絡が初と聞いたが…
その後七月三十日に三成は真田昌幸に会津連絡への手助けを頼んでるから上手くいってない事が窺える。この不手際は三成が西軍決起以後(十五日以後)参加したからだと説明出来る。問題は三成が首謀者だとするとお前何してたの?って話になって詳しい解説が要る。何故事前に上杉との連絡路を作ってないのか?何故連絡しなかったのか?何故三奉行より動きが遅いのか?江戸時代以降の軍記物語にはそれっぽいのが書いてあるけど。 準備不足がおかしいといい出すなら
首謀者が三成でも他の誰かでも同じだよ
そもそも西軍挙兵自体が広く支持を得られない
無謀であった訳だしね
全体的に泥縄的に推移してる中で
上杉と三成の関係だけを特別視しすぎ 事の性質上家康が上方にいる間に察知されたら終わりだし
江戸に向かう途上で通報されて引き返してこられるのもまずい
結局家康が江戸についてから行動するしかなく
真田にすら事後通告で詫びてるくらいなんだから
そんな準備期間のある計画ではないということ 当時の西軍が挙兵前から会津の上杉と書状で連絡を取り交わすとか計画露見のリスクが高すぎるんじゃないか?
実際上杉との共謀は無いだろうけどやるにしても密儀や口伝の方が理にかなってるしその場合資料として後世には残らない 毛利-三成間で対家康の謀議をしてるのは
毛利側の文書にあるのよね
それは関ヶ原前年の三成失脚前と比定されてる
でもだからって上杉ともそこまでツーカー
って訳ではないだろう
三成と兼続が盟友みたいのは後世の創作のイメージ 本能寺の明智でも事前に上杉やら義昭やらと連絡してたとか言ってる人がいるけどそんなことするメリットより露見するリスクの方がやべーんだよな
家康が畿内から離れた時に事を起こせば上杉も挟撃してくれるだろうという見込みがあればそれでいいわけで、リスクを冒して事前に協議する理由がないのよね
まあ上杉は本能寺でも関ヶ原でも期待を裏切ってるんだけどな あと単純に失脚していた三成の指示にだれが従うのかという話でもある
結局毛利や三奉行による保証が必要なら
事前連絡なんかするだけリスクを高める行為でしかないもんなあ 西軍が上杉とコンタクト出来なかったのはその窓口が徳川派に占領されてたからなんだろう。だから元取次の石田三成が参加するまで連絡が出来なかった。元でも取次ならある程度以上連絡は出来るから三成が最初から家康に刃向かうつもりなら「景勝を上洛させる為に説得」という題目で景勝に使者を送れば良い(実際そうした動きは他家でもある)それどころか三成と西軍がコンタクトした史料は七月十二日まで出てこない訳で。 三奉行がやたら暗躍してるけど対して三成って運動してる形跡が無いんだよなぁ。恵瓊が言ってる事は正しかったのかも知れない >>579
既に三奉行や輝元と繋がってたならそれこそリスク高いんじゃないの?広いとは言え大坂に居る三奉行や輝元が連絡していてもそこまでリスクは無いが佐和山にいる三成が彼らと連絡していたら流石に怪しまれる。逆にそのリスクを呑むんだったら上杉と連絡するリスクだって呑めるだろう。元取次で「取次してた上杉が豊臣公儀と戦争しようとしてるのを止める」って名目で堂々と使者を送れる。西軍にとって上杉が徳川と戦争するか否かはかなり重要なんだからリスクを呑む価値はあったはず。 上杉は隣国の堀から訴えらたりで疑惑の渦中にあり家康とも一触即発の状況で天下の注目を集めてるので増田やら毛利と連絡するリスクとは比較にならんでしょ
というか上方から会津に人を派遣するには徳川や親徳川の領地を通過しなきゃ行けないんじゃなね >>581
いや三成自身がろくにコンタクト取れずに苦労してる
単に三成と上杉の特別な関係というのが
史料上フィクションのように確立してない
それを「三成が首謀者じゃなく後から巻き込まれた」
「だから西軍は上杉との連絡に苦労した」と
解釈するのはかなり無理矢理だぞ >>584
というか連絡は別にそう難しくないだろうけど
奉行である以上その連絡は当然政権の一翼として
恭順を促すものでなくてはならない
家康気に入らないから一緒に戦おうなんて
万一漏れたらその時点でアウトでおいそれと
書けるはずないのよな
それが可能になるのは覚悟を決めて対家康の
挙兵を起こした後ってことになる バレるとヤバいから、だとすると尚更三成首謀説は遠ざかるかなぁ。三成が首謀者だとすると佐和山と大坂の間を何度も使者が往復してたことになる。そうなれば徳川派諸将がいの一番に気付いて家康が知る事になる。気付かれてないって事は三成は大坂とコンタクトしてないか凄まじく巧妙な交通網があったことになる。そんな外交力があるなら上杉との連絡なんて楽勝だろうに… 豊臣蔵入地だらけの大阪佐和山間と徳川派で占められた東海道周辺を通過する会津では全然違うでしょ
街道が徳川側の手中にあり困難だったからこそ挙兵後も連絡網に支障をきたしてる 首謀者は複数いていいし途中参加で首謀者になることもありえる 徳川にバレたらマズいから連絡しなかった説は確かに一理あるんだがだとすると佐和山にいる三成が大坂と連絡するのは問題無いの?って話になってしまうのがね。実際三成が西軍に参加したのは輝元に呼ばれたから(吉川家文書)でそれまで大坂とすら連絡してた史料も残ってないときてるし。
上杉と連絡するのもそんなに難しい話じゃない。三成は元取次なんだから書状で「景勝と内府の仲が悪いと聞いて心配です。詳しくは使者が話します」とでも書いて送れば良いだけだし。それで使者が何を喋っても景勝が言わなければバレないからね。 そうやって使者に口上で伝えさせた場合後世には一次資料として残らないね
要するに実際どう言うやり取りが交わされてたとか現存する資料だけでは分かりようも無い話 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています