石田三成の挙兵
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 ぶっちゃけ結論10で言われた通りだしなぁ
しかも西軍、挙兵後ほぼ全く東国の情報掴めず信之の去就も知らないまま真田介して上杉と連絡取り合おうとする状態だし 取次は主と利益相反にさえならなければ基本的に相手国の利益を優先して良いらしい
らしいんだが上杉と堀が仲悪くなったらそれは公儀に悪影響与えるのは必然なんだよなぁ…で、問題は三成さんこいつ普通に依怙贔屓するタイプの奉行だったらしくそうした逸話が多い(島津とか佐竹とかの検地の逸話)。人間らしいっちゃそうなんだが奉行がそんなことをするとなぁ 豊臣政権下の取次の、相手国うまいこといかせたら評価上がる制度っぽいのと監視との噛み合いが悪すぎるのはそれはそう >>38
取次が確認してるの??
他大名の家臣が領内に入って検断してたってこと?? 検地とかでも石田三成とかが出張ってきてるから多分そう 慶長3年の秀吉の死の前後だけど
三成越後に行ってたのか 確か慶長三年の三成は会津やら九州やらでてんてこ舞いだったはず。それで七月末くらいに上方に戻ってきて秀吉臨終まで大坂だったんじゃなかろうか。 多分蒲生の宇都宮移封から関わっていると思われる
蒲生の旧臣雇用しているもで 仮に上杉が軍事行動起こすとなると一番ダメージ受けるのは周辺国だからね。だから実は徳川よりも堀や伊達、最上といった連中の方が危機感あったはず。
その上杉と仲良し子よしが三成な訳で黙ってはいられなかったろうなぁ。ここで上杉を取られると奉行派の勢力は激減するし。 そう考えると三成が西軍に居なかったら歴史は大分変わってたかもしれん。三成憎しの連中がどっち付くかわからんし。 三成が憎いから東軍についたってだけが要因じゃないっしょ
向こうの大将が信用出来ないと同じくらいこっちの大将はまあ信用できるってのも大事
東国と取次してて一応伝手があると見込まれた石田を抜いたとして、東国に全く伝手のない連中が東国の連中切り崩せるとも考えられないでしょ >>1
合戦勃発後にやるのが普通
それをしてない時点で三成の戦略・戦術眼の無さが
よく表れている
仮にそれをしても関東まで進撃するのは無理
だって伏見城で2週間も無駄にしてるんだし
史実でも8月中旬の時点でまだ尾張にすら到達してない
これではどうしようもない
上杉は最上程度に大苦戦する程度の軍隊
徳川が半数も返しただけで西軍は進めなくなる 敵の敵は味方
まっこと憎き三成なり・・・
家康はそこを最大限利用して勝てた
三成は良いように利用されて負けて捕縛されて斬首で終わった 勝手に政務の足引っ張りに来て案の定信用失った三成の自爆であって、利用とかどうとかのもんでもねーよ 仮に首尾良く上杉と挟撃の形になったとしても、毛利一族の二心は変わらないだろうからなぁ
遠からず九州は東軍勢が席巻して、その後毛利輝元とどうなるのか
長期戦でも結果的には西側から崩れていくことになりそう 私的に気に入らないやつを引きずり降ろそうwith巻き込まれた連中だから、そもそも足並み揃わないのは当然ではある
まあ上杉との連絡がそもそもほぼできてないからまあ画餅 上杉と交信するってなると西軍領だけで出来たっけ…?東軍領を通るとなるとかなり危ない気がする 出来ない、できてないから慌てて真田介して連絡取ろうとしてる 最近は上杉と石田が通じ合ってないとか言われているけど、もしそれが事実なら三成と上杉は只のバカです、ってことになるような 家康が会津征伐で空いた機会に慌てて動いたんでしょ、泥縄式に
上杉は上杉の都合で揉めただけだし、それがバカとは思わん
ただ、上杉と西軍が挙兵前から通じてたとわかる史料なんてないしむしろ挙兵してから慌てて真田に連絡の仲介を頼んでるところから、連絡は取り合えてない この時の五大老の石高を見ると徳川は前田を後見して計三百万石以上という圧倒的勢力を誇ってる。で、上杉討伐で上杉に勝ち目なんて万が一も無い。やられたら死ぬか降伏するかしかない。そうなると上杉領は大幅に削られるか下手すりゃ無くなる訳でそれは徳川に流れるのも明らか。そうなりゃ奉行派に復興の目は無くなる。感情もあったのかも知らんけど政治的状況が西軍を動かしたんだろう。
上杉の取次は石田三成だったから動かなければ景勝が三成に泣きついた、ってのは有りそうな話だけど連絡取れんとなると戦略的にかなり厳しかったろう。 というか上杉との共謀によるというのが
小説的想像力の産物
>>65
上杉は家中統制に苦労して弱腰の対応と
取られるような政治的態度を取れずにいて
三成はかなり早い段階から対内府の
クーデターを画策するも失敗して隠居
追い詰められて起死回生を狙った
毛利は古くからの領土的野心があるとこに
政権掌握を餌にされて先走った 上杉征伐ならばまずこの書状だろう、史料スレの>>42より引用。
六月十日付安田能元・甘槽景継・岩井信能・大石元網・本庄繁長宛上杉景勝書状
今度上洛不成樣子、第一家中無力、第二分領仕置之ため、秋中迄延引之趣、奉行衆へ令返答之處、重而逆心之讒言を以、是非上洛無之者、
向當郡可被及行之旨候、就之存分雖有之、元來無逆心筋目之条、 抛萬事可令上洛覺悟落着、倂読人糺明之一ケ條申入候處、
無是非只不相替上洛與計有之而、剩日限を以催促如此被押詰、上洛之儀者如何としても不成候、數通之起請文反古になり、
堅約も、好も、不入讒人之糺明も無之軆、時刻到來無二思詰候条、譜代・旧功牢人不依上下、右之趣、無拠分別仕候者は、
供之用意可申付侯、自然、無分別を以、理不尽之滅亡被述懐を存候者は、何者成共無相違可出暇候、然者、上方勢下候日限聞屆次第、
半途へ可打出候、諸口之儀に候条、領分端々被押破、 地下等心替可仕義必然候、其時節、或在所を無心元存知、
或妻子を難捨心中候者、當座之不覺末代之名をくたすへく候条、兼而肉を切而、可存是候、内々無疑心仕置無二奉公存詰者之糺明直に申出候者、
人により遠慮可有之候条、各以分別急度可被相究者也、
六月十日 景勝
安田上総介殿
甘槽豐後守殿
岩井備中守殿
大石播磨守殿
本庄越前守殿
以上。上杉景勝の上杉征伐に対する覚悟表明だが、死にたくない奴は帰っていいと
やる気満々なんだが、西軍関ヶ原敗報を聞いたあとのへたれっぷりは
なんなんだろうと感じる。なにか引っ掛かる。
元々有事の際には共闘しようという密約でもあったか、
そういうものはないが、内心薄々味方してくれる可能性が高いだろうと思っていたのか、
そういうものがまったくないのなら、西軍が関ヶ原で敗退しようと、
当初の方針通り征伐軍を迎え撃てばいいと思うのだが、なぜへたれるのか疑問に思う。 会津征伐時と西軍挙兵後の最上領侵攻とで意味合いが大きく変わってしまったからでしょ 元々挟撃の密約があったと信じ込んでるから
西軍挙兵後へたれたと思うだけかと
元々独自に揉めて征伐くるから
仕方なく迎え撃つ覚悟ってだけでしょ
そしたらなんか知らんけど
中央でクーデター起きたw
南下しろ?イヤイヤ後方脅かされたらヤバいし
旧領との連携もあるから最上領獲れてから考えるわ
って別におかしくなくね? >>71
そうじゃなくて、西軍が関ヶ原で負けようと、最上領からの撤退は征伐軍迎撃の観点から
仕方ないとしても、なぜ降伏するのかという点。
関ヶ原勝利後に今度は上杉征伐に来るであろう征伐軍を当初の予定通り迎え撃てはいいじゃんと
言う部分。なぜへたれて降伏するのと。 >>72
最上単独にすら、しかも最上主力軍では無く属城の守備隊にすら勝てない上杉が
家康やそれに従う諸大名の軍勢に戦って勝てると思うかねえ……
景勝は自軍の余りの弱さを知ってへたれてしまったんじゃないの? 横からだが、上であげてくれたように死地において迎え撃つと配下に号令して上がっていた士気が
友軍とも言うべき西軍の蜂起によって死地を脱したことによって勢力拡大という方向へ変化し
そのきっかけとなった西軍が壊滅したとなれば士気を保ったままもう一戦とはいかなかったでしょうよ 西軍との示し合わせは無くとも自分達が徳川を引きつければ中央で動きがあるという風には考えてたんだろ
元から玉砕覚悟とは思えない おそらく毛利が大坂なり本国なりで徹底抗戦の構えしてたら戦ったかもしれない。でも輝元含め奉行派完全敗北ってんじゃ上杉が孤独に戦っても無益というか無意味だもの。
しかも「今なら全部石田三成のせいにできてそうすれば領土は残る」っていうオマケまであるし… >>72
勝てる見込みが無くなったから
それによって主戦論を装わず
降伏する道が開けたから
日本中敵に回して本気で勝てるとも
戦って滅んでもいいとも
君臣共に本気では思ってはいないでしょ 佐竹相手に威勢のいい書状を送ったが本能寺の変によって救われ
奇しくも西軍の蜂起によってまた命拾いをすることになった上杉
上杉の上洛前はまだ島津も降伏してなかったけど辺境だったしな
とはいえ島津は九州諸侯に動員かかっているし、交渉中に徳川の朱印船沈めているしで 書状で勇ましいこと言ってるけど上杉家がほんとに玉砕覚悟だったかつーのも眉に唾をつけとかなきゃダメだしね
ある程度当たって強硬派へたれたら即詫びる予定だってありえるし、何より上杉家が正しく家中の意思統一しきれてるかというと怪しいというかできてない可能性のが高い 越後に残った家臣がいたのも
謀略というより統制できなかったんじゃ 頭下げる気がないならどの道戦争不可避なんだし
内心がどうであろうが威勢のいいこというしかないってだけじゃないの
弱腰だと士気にも関わってくるんだし 景勝も家を滅ぼすのは嫌だったんだろうなぁ。
例え弱腰と言われようが。若しくは密かに助命の保証は貰っていたのか 石田三成は徳川家康に命助けて貰ってるのになんで刃向かってしまったのか やってることは完全に豊臣の遺言体制崩壊させて自己が政権握ろうとする行為だから、野心でしょ三成の
ある意味秀吉の影響番受けた振る舞いではあるな 七将に死刑求刑されたのに庇ってくれたのは家康なんだよなぁ。家康がその気なら物理的な死でなくとも大名としての死(改易)、政治家としての死(嫡子含めた出仕停止)と幾らでも殺し方はあったのをなんとか謹慎に留めてくれた。 一応言うと、あれは謹慎ではなく隠居
確か隠居としてある書状がある
ただ毛利や北政所含めた話し合いの結果裁定が七将の求めた死刑ではなく三成の隠居、しかもその息子は秀頼の下へ出仕できるなのでド甘い裁定なのは確か 白峰氏曰く隠居ではなく謹慎とのこと。
根拠としては三成が奉行から除かれた痕跡が無くその後も奉行として署名してる事をあげてたな。 そもそも三成はほぼ無関係ないざこざから隠居まで追い込まれてるんだから普通に理不尽な裁定では?
死刑という無理矢理な要求から結局謹慎に持ち込まれて完全に力負けしてる 俗に家康は「今三成を殺すと豊臣は一つになる。三成を生かしておけば豊臣は分裂する。それが徳川の天下に繋がる」として三成を敢えて生かした、って言われるけどだとしてもここまでのゲロ甘裁定を出す必要は無いしむしろ出仕止めか減封にすれば三成が焦って戦争する確率も上がった訳で。どうも家康は三成の事をそれなりには評価してたっぽいんだよなぁ。 白峰のあれは西軍が挙兵したあとに奉行として署名だから、西軍が豊臣公儀の軍であるっていう証明があって初めて成り立つけど
白峰はそこの証明をしてないしでその説はかなり難しいと思うよ
あくまで西軍挙兵後自称奉行として勝手に行動した、と解釈すべき >>89
要求が死刑だからね…しかも七将はかなり過激な要求をしていたらしく増田長盛も「三成が身を退かないとこのままじゃ済まない…」って報告してる。下手すりゃ死刑、良くても改易、気に入らないなら実力行使ってところをギリギリで踏み留めた訳で私情は呑み込まないといかん状況よ。しかも領土も減らず出仕も認められてるから石田家としては万々歳な訳で。 むしろこの頃の家康ってトップとしては
ひたすらことを荒立てず済ませてね?
悪い言い方すんなら下の顔色伺って
流されてくことなかれ
元々遺言にもなかった自分の権限削ぐような
誓詞で縛られても文句言わず従い
弾劾受けても誓詞交わして和解に努め
自分の暗殺疑惑の容疑者でも殺さず流罪
三成隠居の経緯も家康黒幕説は小説の類で
元を辿れば豊臣子飼いの奉行人の内輪揉めでしょ
余計なことして波風立てるより
穏便にすましたってとこじゃないの?
何かと対立する三成の苦境にいい気味と思うのも
人情かもしれんがそれは正直弾劾した側の
7将の中にも変わらん奴おる訳で 遺言に反した婚姻進めて前田や浅野を屈服させて、七将との揉め事にかこつけて三成の失脚に成功した
家康の野心的な派閥形成自体は否定出来ないな 遺言に婚姻してはいけないなんてない
あるのは御掟、で、この御掟が秀吉没後も生きてるかはかなり怪しいところ いわゆる家康の私婚問題だけど、当時他に大名家同士の結婚てなかったんかな?
あったとしたらその時は五大老五奉行の合議で許可されてたんだろうか
他の事例があったのかよくわからないな >>95
前田が徳川の支配下になったのは利家からの利長後見の要請が理由だし、
浅野長政に至っては対三成のために徳川に近付いてるし… 婚姻について合議で決めるべしという
なんらかの文書なり合意なりが明確にあったなら
その時点で穏便に済ます余地がななくね? まぁ実際、あって無きが如き文章よ。
仮に婚姻の話があったとして反対したらどうなる?そんなことしたら相手方に喧嘩売ったと看做されるし下手すると戦争になる。だからどのみち婚姻は賛成って話になる。
だから御掟でも「婚姻するって時には公儀に届け出て許可を取ってね」って言ってる訳だし。しかも徳川家康は公儀な訳で尚の事文句はつけられんわな。
むしろ、家康がいちゃもん付けてきた奉行衆を返り討ちにした強硬な態度が利家らを不審がらせたのかもしれない。 >>100
不審がらせるどころか日をかけずにあっさり解決してる
利家も穏便路線だったと思われる
病気もあったかもしれないけど
利家の家に大名が集まったという史料を探してるんだが、どなたか知ってる? 秀吉恩顧の三成ぜってー殺すマンたちって家康に絶対的な忠誠誓ってたわけじゃないからな
あえて生かそうと思ったのを創作と決めつけるのは早計かもよ
殺すマンたちも後で狡兎死して走狗烹らるとばかりに処理された奴ら多いし 黒田・細川・池田・藤堂・蜂須賀たちは元気に幕末まで存続しているし
反三成派の大半は別に処理されてなんかいないぞ? 加藤と福島の改易処分についての論文まず読んでから喋ってくれ
あれ完全に加藤と福島のやらかし大きすぎるから もっと言えば、譜代家臣とされる連中の改易の率も見てやってくれ
そういうの見ずビッグネームの家系が断絶したって話だけで歪んだ結論出すのはよろしくない 加藤に至っては改易の機会はいくらかあったけど徳川が配慮してただろうが 加藤に至っては改易の機会はいくらかあったけど徳川が配慮してただろうが 関ヶ原によって家康は天下を取った
とされるようになったから
何故豊臣恩顧の武将達が三成に付かなかった?
と言われるようになり
三成と仲が悪かったからだ
となった
ただ実際は関ヶ原当時家康は政権トップで
豊臣家も朝廷も支持した軍事行動の最中
多くの諸将が豊臣政権に従って従軍していた
三成ら西軍はその留守に放棄したクーデター軍で
正当性も確保できてたとは言い難い
7将「襲撃」や福島正則の捕縛された三成への雑言
と言った不仲のエピソードについても
何処までが史実であるのかもっと吟味されて良い >>100
徳川に関しては家忠日記かなんかだけど前田はなんだろう…
利家夜話か利家公御代覚書?取り敢えず調べてみます。 とは言うものの、関ヶ原の大乱では豊臣家は何も出来なかったのが、豊臣家が政権の座から滑り落ちる原因だからな…
西軍の人々も、豊臣家を大切に思うなら徳川打倒は秀頼の成長か、家康の死を待ってから大乱にならないようにした方が良かったのではと思うのは、結果論なんだろうな。
毛利家にしても、上杉家にしても自分達の為の行動が見えるのが、何か面白い。 政権中枢が続々と徳川に切り崩されてたからなぁ
上杉がやられて太刀打ち出来なくなる前にと決起するのは分からんでもないけど、そういう方向に持っていった時点で家康の勝ちな気がする >>111
上杉と毛利は自分たちのためだよ
上杉は家中統制がとれず豊臣政権の出兵を招いた
毛利は私欲で四国九州に出兵してる 豊臣が政権の座から降りたのは遺言で秀頼成人まで豊臣家を政治から切り離した秀吉によるものだしね
んで切り崩すもなにも上杉や宇喜多らしたことは政務の後継者が誰であれ仕置しなきゃならん行為だし、その上でいえば秀吉より甘々の裁定で切り崩すといった行為ではないね そもそも政権運営を家康に頼らざるを得なくしたのは秀吉だからなあ
それを認めたくなかった奉行らが反家康で結託しなければ切り崩しもなかったという 西軍があのタイミングで挙兵したのは
あのタイミングじゃないと彼らが損をするタイミングだっただけで
豊臣家からしたら秀吉が作った秩序である惣無事を真っ向から否定されるわ、自分とこのお膝元でクーデター起きて人質奪われてるのに何もできないサマを周知されてしまうわでろくな目にあってないからね 三成にしてもせいぜいが
「中枢に自分がいる豊臣家」
のためでしょ
トップである大老と諸大名の結びつきを
派閥形成だと攻撃するのも
そのために断罪できないような形で
御掟を弄んでしまうのも
はっきり言って政権のためどころか
その枠組みを揺るがす行為だぞ 政権への打撃の極め付けは西軍挙兵
もはや政権には世を泰平に保つという
統一政権として最低限の機能さえないと
はっきりと示したようなもの
せっかく家康が朝廷まで動かして
豊臣政権としての体裁を整えて
惣無事のための軍事行動を起こしたのに
その矢先にそれじゃあね
そりゃ家康も朝廷もこのままの枠組みでは
無理があると思い切らざるを得ない そこまで家康をクリーンに捉えて野心を否定することも無いだろ
秀吉死んで事実上のトップになったから自分中心の政権固め始めた
そうなると不都合だったのが元々政権中枢にいた豊臣の奉行衆たち 秀吉が徳川と豊臣の利益を共通にお膳立てした上で家康をトップに据える体制にして、それが飲めないって反発したのが奉行(特に過激に動いたのが三成)って感じ 家康はクリーンでもないし野心もあったろ
そんな聖人君主はいないよ
三成を忠臣とするような夢物語の中にしかな
でも政権のトップとしてその野心と
政権の安定を一体させる筈だったのが
何故か秀吉の死の直前に覆された ノッブが鬼畜すぎて怖くて従ってただけなのに律義者のイメージ付いたのは得したな
長篠の戦いの前に武田側に寝返らなくてよかった 信長が鬼畜?
なんかだいぶ古いというか、浅い知識で語ろうとしてないか ああそうね信長ほど優しい大名他にいなかったよな
ごめんごめん勉強不足だったわ ご高説賜りたい
出来なければ逃げたとみなす
信長が優しいってねねへの手紙とか松永許したとかそんなくだらない理由じゃないだろうね勿論 むしろ信長を鬼畜と判断する要素何?
当時の大名と比して特別残酷と取れる要素あるか?
万福丸処刑にしたこと?寺社焼き討ち?
当時の大名として突出して残酷だと判断する要素を少なくとも俺は知らない 逃げたと見なすキリッじゃなくこうこうこういうのがあって残酷でしたっての頼んますね
まあ加藤や福島の改易についても論文すら読まず雑な結論出してきたやつだから期待はしてないけど 自分が残酷だって主張しだして
それおかしくね?って言われたらそれか
ほんとただただ頭が悪いのな、主張した側からちゃんと論拠出すのが当たり前だぞ、論文提出したことないか?おこちゃま君 長島一向一揆や有岡攻めの戦後処理は鬼畜の所業じゃなかったんだ
信長が鬼畜じゃないって真面目に主張してるのは初めて聞いたな 鬼畜ってほどの所業で家康がそれに恐れたなんて話は聞いたこともねーな
寺社勢力と対立してその寺社勢力に凄惨な報復する大名は信玄しかり浅井長政しかりいる
有岡城も荒木の蓄電による見せしめである
ひどい話ではあるが当時として常軌を逸した行為でもなんでもない 当時の大名なんて多かれ少なかれ鬼畜な所業はしてて、その上で信長がそれらを上回る程凄惨な行為なんかをして、しかもそれに怖くて従ったなんて寝言吐いた以上それら証明するのは腫脹した側がせにゃならんこっちゃ
ほら、上辺だけでなんか語った気になってないで2点について答えろよ、荒らし まあ、今はやりのサイコパステストやったら盗将大権現は高得点だろなとは
思うね
盗将大権現様の行動は正しいよ、疑いの余地が無く正しいそれは事実
只、普通の人間の情として嫁や息子や孫娘生贄にする謀略はできんだろ、出来るのが権現様 主張した以上証明しないと行けないって話の最中に、主張するだけで証明もろくにしないまま逃げ出すを繰り返してるたとえ話荒らしが出張ってくるのか
自覚がない程頭が悪いのか 西軍のやらかしは一つは大義無く挙兵したので豊臣公儀の力を借りれなかったこと。そしてその結果豊臣公儀の権威を失墜させたこと。更に戦略を見誤り多方面に戦線展開した結果東軍の集中攻撃に成す術が無かったこと。
上杉の軍拡は周辺国から警戒されてた訳で要は此奴のせいなんだけどさ… 関ヶ原の西軍は平治の乱の藤原信頼源義朝のようなクーデター失敗者てことなんかな
義朝に「日本一の不覚人」と罵られた信頼は関ヶ原で言えば三成か輝元か 例え話君は家康のこと盗将大権現って書くから分りやすいな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています