石田三成の挙兵
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 >>404
毛利が豊臣政権内での地位を低下させたのは自業自得だから難しいだろう
どういう事かというと、輝元に嫡子である秀就が誕生してしまった事だ
これ自体はまあ文句を言うべきことではない、実子が生まれた以上は
後継を養子からそっちに変更したいと思うのは当然だ、秀吉ならわかるだろう
しかし、問題は秀元を後継の座から外したことで(秀元は即座に養子から降りている)
毛利と豊臣の縁が極めて薄くなってしまっているという点だ
毛利の後継が豊臣と縁もゆかりもないのなら、当然政権内での地位や重要性が
低下してしまうのは避けられないだろう、本当に縁のない上杉よりはマシだが 毛利は事実上主導的立場にあった隆景が死んでしまった時点でね…
小早川は実質豊臣家に取り込まれて輝元一人五大老に名を連ねる形になっちゃったから政権内に占める重要性は必然的に落ち込む
吉川家はひっそりと冷遇されて広家と恵瓊が対立してる始末だし 数年前に発見された秀吉近臣の輝元宛書状では、秀次の死の3ヶ月前の時点で
秀吉は秀次の息子を大和国主に取り立てようとしてたことが述べられてるし、
この3ヶ月の間に二人の仲を裂く決定的な出来事があったんだろうな
また死の1ヶ月前の6月9日付秀次宛秀吉朱印状では
「河内八箇所の堤防が大水により決壊したので秀次が巡見すると聞いたが、
状況は酷いようなので巡見は無用だ。近日伏見で面会しよう。」
と言ってて、この時点でも秀吉には不穏な空気は見て取れない >>406
確かにその通りなんだがフロイスの記事が「伴天連追放令を受けて宣教師が「秀吉を殺す!」と激昂。そこで宣教師が秀次に釈明(というか信仰宣言)してそれを穏やかに聞く秀次」って話だから結構嫌な感じなのよね… 秀吉はまだ39歳の時にもう子供は出来ないと思ったのか信長の子をあっさり養子に貰い受けて跡継ぎにしたからなあ…
秀次はもう生まれてたのに そりゃ織田の家臣として考えれば信長の子を養子に迎えて後継者にしたらお家安泰だしな 自分の領地はいずれ信長様の子供が引き継ぎますよ、
って明確化させとけば、佐久間みたいなことにならん、ってこと。 重臣たちが遠方で国をもらう流れだけど羽柴だけ畿内周辺に留まれそうだったしな
秀勝継承後は羽柴の血を引く者はまた別枠で大名にしてもらえたかもしれない
そういう方面から考えても織田重臣たちで一番裏切る理由がないのは秀吉なんだよね まあそのへんの話しはわかるんだけどね
もともと秀吉にとっては秀次はその程度の存在で、どうしても羽柴家の跡を継がせたいとも考えてなかったんじゃないかなと 諦めてたら実子が出来たとかあるあるだしな
応仁の乱の原因も畠山のそれだし 切腹って武士の名誉刑か己の無実を証明する為の手段だよね確か。だから秀次の件は秀吉の命令かさもなくば秀吉が秀次を憎悪していたかの話に落ち着きそう。
そういや三成がこれを仕組んだって俗説も有名だけど、三成は三成でこの一件に乗じて浅野長政を追い落とそうとしてるからなぁ… 少なくとも秀次とその家臣団が消滅したことで
三成は秀頼の代でも政権の中枢に残れたわけだから利益を得た立場ではあるな
三成って明への冊封体制メンバー案でも自分を家康ら大老より上位に置いてたそうだし
いろいろきな臭いところあるんだよな 秀吉はそのまま信長の天下になった方が幸せだったんじゃないかね。家も残っただろうし 養子が早死にしたり子供が全然生まれなかったりって事がなければここまで拗れはしなかっただろうな
それも兄弟揃って それが家運というもの
貴賎問わず家門繁栄が最上とされていた当時では
豊臣は呪われた不吉な縁起の悪い家と思われたろうな
そこも天下人としての求心力低下に繋がったかと 織田に頼らなくとも秀吉に男児が産まれてたらそもそも家康の天下は無かっただろ 秀吉の男児は3人いたが2人は早死にして最後の秀頼だけが成人した むしろ秀吉に男児が生まれなければ家康の天下はなかったね 秀頼の誕生ってタイミング的に奇跡的に最悪だからなぁ
秀次が関白になった後で、朝鮮・明と戦争中とかいう… 取次元で友人だったから守る為に家康に刃向かった、みたく言われる三成さんだけど考えたら景勝って三成に対してなんかしてたっけ?襲撃事件の時に三成を助けたのって宇喜多秀家と佐竹で裁判で動いてるのは家康と輝元だし…景勝なんか見殺しにして家康の下についてたら割と面白い事になってたかもしれない。 別に景勝を助けたとかじゃないと思うよ
家康を叩くなら会津征伐が始まる前がギリギリだったってだけで 徳川の下に着くというかそもそも
隠居した時点で豊臣の一家臣だし
奉行だった当時から内大臣たら家康の
下にいないのがおかしい訳だがな
関ヶ原がなきゃ普通に石田家は
豊臣-家康政権の一大名として
存続してただけだろう >>428
佐和山の領地守る事が勝利条件なら、確かに有り得る
その場合、太閤の晩年は現在以上に悪く言われただろうね
秀頼がどんどん追い詰められていくのに、豊臣家取り立ての者でだれも本気で
守ろうとする奴が居ないという事で >>426
あの時代の上杉家って謙信教団なんだよね
行動原理が、謙信なら如何動くかになってるので教えに背けば景勝とて危ない
謙信なら、負けると分かってても化狸と勝負するよ 神格化した謙信ならやる
宗教なんてそんなもん
実際の謙信ならわからん
いきなり単身上洛で家康と直談判もやりかねない 景勝は謙信が保護し自家の拠り所であったはずの上杉憲政をあっさり殺したり会津移封時に堀に嫌がらせしたり
関ヶ原後は一貫して徳川に服してるしで特段義に篤いわけでもなく当たり前にエゴある戦国大名の生き残りでしかない
三成との謀議も無かったし創作エンタメで書かれるような格好いいものじゃない まぁ謙信って家康とは仲良かったしそのおかげで上杉も残った側面あるし…
三成の息子、重家は家康からかなり可愛がられてたらしく三成が謹慎くらった後も秀頼への出仕を認められてる。多分上杉征伐の時は石田家復興の時と感じてたろうに親父が… 看羊録には「徳川家康が都合の悪い前田利長・上杉景勝の勢力を削る為に朝鮮再出兵を企図してる」っていう話が載ってる。この一報は朝鮮にも送られて和睦交渉が進むという家康の外交術らしいがもう一つ狙いがある。この時期、前田利長・上杉景勝には謀叛の疑いがあってその証拠に「前田・上杉は武器を貯蔵してる」って報告があった。だから家康は敢えて外征の噂を流して「外征に備えて軍備をしてました」という拳の振り下ろし処を作ったと見られてる。西笑承兌の書状にも「朝鮮への出兵を口実にして上洛して家康に面会しよう」ってあるから謙信だったらこれに乗ってたかもしれないね。 秀吉が期待した通りに家康筆頭で豊臣が残らなかったのは何故だろう
家康はかなり秀吉に期待されてたしその実力もあったのにね 元々豊臣政権は秀吉がカリスマでまとめてただけで諸勢力が対立し続けてる。なのに秀吉死後に十人衆合議を取り入れてしまった。一見すると各勢力のバランスが取れるように見えて実は対立関係がそのまま政権上層部まで上がってきてしまう最悪の構造になってた。 >>436
秀吉死後の動乱によって豊臣-徳川体制では
世が治らないのがはっきりしちゃったから
それで徳川も自身を中心の体制再構築に動き
朝廷(返り咲き狙った摂関家含む)も支持
諸大名も反対できない >>436
関ヶ原で奉行衆が消滅した結果、豊臣公儀が機能不全に陥り、
徳川家家臣団で天下を回すしかなくなった。
そのまま家康が天下人になった。
つまり、三成が挙兵しなければ、形式上の豊臣政権は続いたはず
(スレタイに戻した) まぁ三成が挙兵する前に輝元と三奉行がクーデターしてるから三成がどうしようがどのみた… 結局三成の挙兵は家康側に誘い込まれる形なんだよな
家康からすると諸大名を上杉征伐の名の下招集して戦争準備万端
東海道の豊臣恩顧も必然的にそっちに着く流れになるし逆に反対勢力が明確化されて一掃出来る
奉行側でのある程度の反抗を期待しての上杉征伐だったように見えなくもない 秀吉が死んですぐに宇喜多と島津が御家騒動
利家も死んで利長が家中を抑えられずに無断帰国
上杉は直前の転封も絡んで御家騒動で会津征伐を招く
毛利も輝元恵瓊が暴走を始めて関ケ原になった
豊臣家の名前だけでは抑えることが出来ず諸大名と朝廷に見限られた あの時代割と意味不明なのが上杉景勝で秀吉に従っておきながら旧領に未練たらたらで火種を残す、十人衆合議を決めたのに秀吉の遺言を盾に帰国(この時点で合議制は破綻同然)、家康が何度も和平のチャンスを与えてるのに戦争強行、何か勝機があるのかと思えば全く無い(つまり輝元がクーデターをしなかったら詰んでた)
お前一体何がしたかったのかと。 元々徳川を迎え撃つ手筈だった上杉があの時点で北面の最上に攻め込んで何の意味があったのか本当に分からん
家康が思わぬ転進を見せて気が引けたのか領地切り取りの好機と見たのか
大局を意識しての行動にはどうしても見えない >>443
真面目に聞くが、確実に天下人になれる、天下の主導権を握れるという確信があるならともかく、
そうでない状況で自分を押さえつけて無理やりいう事を聞かせた挙句、
先祖伝来の土地まで取り上げられた存在をありがたがる必要性がどこにある?
あんなもの、かつての室町幕府のように無力化させて、都合のいい時だけ
形式上担ぎ上げるだけの古ぼけた神輿にした方が、余程都合がよかろう
毛利は大内の失敗をよく見ていただろうし、上杉だってあんなもの気にする義理はないだろ
英雄秀吉や強大な徳川幕府ならともかく、家康が上方でぐだぐだ遊んでくれるなら
戦国大名として目先の土地を切り取りに走るのなんか当然というか常識としか言えない
彼らからすれば、この期に及んで豊臣政権護持にこだわる家康の方が余程変だろう >>446
勝算が全く無いのに、政権に喧嘩売った意味がわからないという話だと思うんだが
勝算があれば別 同じ目に遭った徳川も多分水面下では大変だったんだろうが一応問題無く移転しとるからね。豊臣政権に参加する者としては当然でむしろ景勝みたく旧態然とした姿勢で居る方が問題かと。その挙句討伐になった訳だし。 北面に軍を振ったのは鎖の一番弱いところを突きたかったのかもしれん。てかそうしないと絶体絶命だしな上杉…ますますなんで豊臣に喧嘩売ったのかわからん 単に転封に不満の家中が押さえられなくて
(あるいは大名としての野心もあって)
旧領にちょっかいかけるの止められず
糾弾されても引っ込みつかなくなってただけじゃない?
三成との友誼がどうこう直江状がどうこう
後世のフィクションに惑わされてるだけかと 何度かあげてるけど史料スレより再掲
六月十日付安田能元・甘槽景継・岩井信能・大石元網・本庄繁長宛上杉景勝書状
今度上洛不成樣子、第一家中無力、第二分領仕置之ため、秋中迄延引之趣、奉行衆へ令返答之處、重而逆心之讒言を以、是非上洛無之者、
向當郡可被及行之旨候、就之存分雖有之、元來無逆心筋目之条、 抛萬事可令上洛覺悟落着、倂読人糺明之一ケ條申入候處、
無是非只不相替上洛與計有之而、剩日限を以催促如此被押詰、上洛之儀者如何としても不成候、數通之起請文反古になり、
堅約も、好も、不入讒人之糺明も無之軆、時刻到來無二思詰候条、譜代・旧功牢人不依上下、右之趣、無拠分別仕候者は、
供之用意可申付侯、自然、無分別を以、理不尽之滅亡被述懐を存候者は、何者成共無相違可出暇候、然者、上方勢下候日限聞屆次第、
半途へ可打出候、諸口之儀に候条、領分端々被押破、 地下等心替可仕義必然候、其時節、或在所を無心元存知、
或妻子を難捨心中候者、當座之不覺末代之名をくたすへく候条、兼而肉を切而、可存是候、内々無疑心仕置無二奉公存詰者之糺明直に申出候者、
人により遠慮可有之候条、各以分別急度可被相究者也、
六月十日 景勝
安田上総介殿
甘槽豐後守殿
岩井備中守殿
大石播磨守殿
本庄越前守殿
要約すると上杉としては特段過失や非があるわけではない。
告げ口をした相手側(堀ら)にも取り調べをしてもらえるなら上洛する(条件付き上洛)と
言っているのに、奉行衆は時限を切ってただ上洛せよさもなくば討伐されると言うばかり。
熟慮したが(理不尽な要求を呑むより筋を通すことにした)迎え撃つことにした。
理不尽な滅亡、死にたくない者は帰っていい。
まぁ面子というか筋というか武士の体裁というか、死んでも(討伐されても)いいから
名誉を重んじた結果、ってわたしはかんじる。
この時点だと景勝は子供(定勝)生まれていないようなので(能登畠山の養子はいる?)
この決断は討伐されてほんとに上杉滅亡しかねないと思う。
それほど景勝は名誉を重視したということなのかな?、 あとwikiの上杉景勝の項に、天正10年5月に上杉景勝が佐竹義重に送った書状に
「自分は良い時代に生まれた。六十余州を相手に越後一国をもって戦いを挑んで対峙し、
滅亡することは、死後の思い出である」とあると書かれている。
書状全体を確認できないから詳細がわからんけど、
景勝って滅びの美学みたいなのに酔っちゃうタイプだったのかなと。 伊達政宗も畳の上で死にたくないとか、武士なら戦場で死にたいとか遺してる
ヤーさんと同じで舐められたらおしまい、簡単には頭下げんという精神は間違いなくある 猿に土下座してる時点で、武家の面目も何もないんだよなぁ 猿に土下座するのを嫌ったのが北条
朝廷の権威と大義を悟って猿に土下座したのが伊達というところか 滅びの美学でかぶいたなら最期までかぶき通して欲しかった…
もしかしたら「家康が強いのは秀頼を抱えてるから。つまり家康自身はそれ程強くない」って思ってたら家康単体で毛利・宇喜多を粉砕する力量があると知って怖くなったのかもしれない。 面子があって頭下げられないなら
勝てないまでも有利な講和条件狙っての抗戦以外に道はなく
士気に関わるから弱腰な態度はとれない
通説のような西軍首脳陣との連携はないとしても
相手方の親上杉的な勢力が(講和に向けて)働きかけてくれることは計算に入れていたはず
それが軒並み壊滅した以上じたばたあがいても傷が深くなるだけだからな 西笑承兌書状で「家康は話が分かる男。謝れば許してくれる。上洛して話をせよ。朝鮮再出兵を口実に使えば良い。兎に角上洛するんだ」って書いてあるのを完全に投げた訳でよっぽど謝りたくなかったんだろう。前田は話し合って解決してるのに…
まぁ家康暗殺計画「疑惑」だった利長と違って景勝は完全にクロだったから逃げられないと思ってたのかもしれないけど。 前田は家康との間を取り持ってくれる重臣がいたけど
上杉は取次役に内通の疑い掛けて出奔されちゃってるから
これで今更家康に頭を下げるならそもそもなんで家康と対立したのって
景勝主従の責任問題になるから面子にこだわるのも仕方がないというか
対内的な問題と対外的な問題の解決策が矛盾してて
動くに動けないってのは現代でもままある話だからねえ
関ヶ原の敗報を受けて勝ち目がなくなってやっと頭が下げることができるようになったというか 景勝個人の滅びの美学とかじゃなく
GHC当時の武家として現実的な処世術
って側面あると思うよ
疑いが心外だから一戦してやるってのは
私婚問題で吊し上げられた時の家康も言ってる
釈明しに行ってまんまと失脚した秀次みたいのもいる 一戦するとまで言ってたっけ?真実を確かめようとは言ってたけど(上杉の記録によれば) 本能寺前夜も関ヶ原前夜も
威勢のいいこと言ってるけども
その後の動きとはあってないのよね
むしろ180度方針転換して生き残ってるんで
義の武人とかじゃなく機を見るに敏な
政治家だと思うけどね 岐阜城を防衛するべく送り出した軍勢が裏切ってたりするし勝てねぇぜ絶対 上杉家は徳川との取次役に出奔されて、
豊臣公儀との取次役だった三成も失脚して、
政治的に動きようが無かったし。
無策で上京すれば、そのまま処刑されて
とり潰されかねない 西笑承兌がわざわざ具体的な交渉口を示してるのになぁ。全く何を考えていたんだろう… まあ無実の謀反でも釈明に行ったら
高野山追放→切腹させられる政権だからな
命令無視して年貢取り立てて行ったのも
旧臣残して行ったのも単なる事実だし
そりゃ素直に上洛するのは怖い そうなると身から出た錆だ
特に落とし所を探そうということも考えてない 石田三成と上杉景勝の共謀は最近否定されてるけど、史料がないだけで実際は共謀してたんじゃね?
いくら景勝や三成が馬鹿でもそこまでの馬鹿とは思いたくない >>470
共謀した人間が本国への通信ルートも押さえてないとはなんと杜撰な
真田に頼んでる文書あるでしょ その慶長5年8月10日付真田昌幸・真田信繁宛石田三成書状より抜粋
一、菟角早々會津へ使者を被立、公儀無御如在、拙者と被仰談候由、可被迎合候、
不及申候へ共、國ならひにて物のそかどを申方?候間、
如此御入魂上は、少々出入りはいらぬ事候間、
物やわらかに、彼方気に入候樣に被仰越、御入眼此時候事
>國ならひにて物のそかどを申方?候間、
ここね、「物のそかど」は原文ママとある。
訳が難しいんだけど、学者・研究者は「変わり者とか気難しいひと」あたりで訳してる印象。
言うまでもないがと言ってる以上、景勝がそのような人物であるというのは
知れ渡ったいたと思われる。
ただ肝心の訳が難しくてどのような人物だったのかがわからんけど、
普通ではないのは確かだと思われる。
前田利益が心酔してるんなら傾奇者とかかもしれないw
だれかこの訳わかります? てか連絡に苦労してる状態では
共謀どこじゃないべな
景勝が難しい人ってのはあるのかもだけど
家として判断ができない訳ではないし
普通に頭下げるタイミング探してたんじゃないの? 三成の動きが謎過ぎるもんね。事前共謀してたにしては内府違いの条々はおろか輝元への上洛要請文にすら署名が無いし。 ちょっと前に出てたけどその辺は
政権としての公式の動きとするために
既に奉行じゃない三成が外れてるだけだね
三成の動きは逆に巻き込まれただけとすると
他の奉行と比べて確認できる西軍としての活動は
せいぜい3日程度遅いだけでほぼ同時に動いてて
むしろかなり積極的なのでおかしくはない
ただ三成-上杉の共謀があった場合おかしいのは
弾劾を呼びかける動きが毛利宇喜多と比べ
上杉側が歩調を合わせてる様子がない 言うほど政権として振る舞った結果かな?
内府違いの条々は全国の諸大名に宛てたものじゃなくて九州地方に向けて出されてるものだから理論的正当性は二の次に作られてる。しかも三成は結局奉行に復帰してる事を考えるとここで除名してる理由としては薄い(特に条々で家康の悪事の一つとして取り上げてるのが三成への扱いなんだし)輝元への大坂上洛要請文に至っては公的な要素は無い訳で三成が一枚噛んでるなら省く必要性がこれまた薄い… >>472
「重箱の隅」くらいに考えてる
それも踏まえてめちゃくちゃ意訳すると「景勝はごちゃごちゃうるさい人(だけど筋さえ通せば納得するから)」
あくまで勝手な推測です
「す」はあまり意味のない言葉で「物の角」と捉えて >>477
三成が噛んでないとすると奉行側の首謀者は誰なんかというのがなぁ
増田長盛の行動は消極的で中途半端だし >>478
なるほど、「物の素角」ってあたりですか、
現代で言う「角が立つ」の角のことかな、 國ならひにて、国並びにて、同格同士でも、前田・毛利相手でも、
前田・毛利相手でも角が立つような物言いをするひと、
どうだろ? 「すみ」と「かど」は同義だから、物の隅っこまでもの申す人、ってところじゃないか
小姑みたいに口うるさいのではなく、礼法や仁義、筋道、自分の考える正義にとことんこだわるという意味で
あの文書からは「景勝は物事の筋に頑固だが、筋さえ通せば力になってくれる」というニュアンスを感じる
それを三成が語ってるのも滑稽ではあるが
いずれにせよ、事前に共謀していたとは解せないね たとえば家臣宛の>>451書状でもすごい面倒くさい
伝統的に家臣団統制に苦しんだ影響もあるんだろうが >>476
地味に奇妙なのは内府違いの条々が三奉行連名で出てることよな。公儀として正式に発布したなら豊臣秀頼の署名が要るけどこれが無い。なら十人衆として発布する事になるけど三奉行の名前しか無い。最低でも輝元の署名が要るし石田三成・宇喜多秀家と連署すれば十人衆から六人が集まる事になってこっちの方が正当性を感じさせられる。まぁそれが出来なかったから西軍は条々を全国に発布しなかったんだが…
じゃあ何考えてたの?っていうとかなり奇怪。 >>479
七月十二日に宍戸ら毛利三家臣が榊原を通して家康に「恵瓊が会津征伐に参加するということで我らも参陣するべく近江まで来たところ三成と吉継が大坂に向かうところを見た。恵瓊から「これは輝元が呼び戻したもの」と聞いて困惑している」という報告がされてる。
何故恵瓊は先に「三成と吉継が大坂に来る」事を言わなかったのかと言えばこの時点では三成が西軍に与するか分からなかったからじゃないか。 誰が西軍の黒幕かといえば毛利輝元じゃなかろうか。こいつ実は秀吉の死直後から暗躍してる。かなり巧妙に自分が黒幕だと分からない様にしてるけど。では何故クーデターに全力を尽くさなかったかという疑問が生まれるけど勝っても負けても生き残れるように保険を掛けていたと解することもできる。 >>477
政権として云々は三成の奉行復職じゃなく
三成が内府違いに名を連ねてないことね
三成は巻き込まれただけと言いたいようだけど
だとしたらほんの数日前に知らされた決起に
ノリノリのちょっとやばいヤツになるな 西軍が豊臣公儀として動いてないと言う主張なら
それはかなり不思議な主張なのでもう少し詳しく頼むわ 勘違いされがちだけど内府違いの条々は公的な書類じゃない。小説で「内府違いの条々が送られてきて読んで激怒する徳川家康」なんて描かれる事が多いけど内府違いの条々は九州地方の限られた者達を対象に送ってる。当然「東軍の豊臣恩顧大名に呼び掛ける」モノでは全く無い。とどのつまり内府違いの条々とは発布者すら認める歴とした「怪文書」であってそこでは公儀の法則だの規則だのは無視されてる。三成の名前が無いのはそうした規則とは違った理由がある事になる。 >>486
単に宍戸らが謀議の枢要からハブられていたかもしくはしらばっくれているだけなんじゃ? いや豊臣家の奉行(年寄)が連署してんだから
彼らが公式に発した書類だよ
それを「怪文書にすぎない」と見るか
「公式なもの」と考えるかは
政治的立場の違いによってくるが
発した側の理屈としては「怪文書ではない」
「奉行連署による文書」であることに意味がある
そこに意味がないなら署名しないよ 内府違いの条々で気になるのは三成もだが「何故毛利輝元の署名が無いのか」ということ。九州の大名が知っていたかという問題はさておき建前上十人衆で合議する仕組みが豊臣公儀だった。奉行三人が出した内府違いの条々はこのルールにすら違反しつまり西軍は謀反軍ですよと公言してるに等しい。最低でも毛利輝元の署名が必要だし宇喜多秀家や石田三成の署名で十人衆の過半数が賛成してる事を演出しないといけない。西軍はそれをしなかった。狙いが非常に小さなものだったからだろうが。 >>491
それが真実だとしたら安国寺恵瓊の戦略能力が問題視されることになるね。宍戸らは近江まで進軍した挙句そこから徳川に弁明状を出してる。これらは予め輝元の本意を伝えて家中統制していれば防げたこと。無駄な進軍までしてしまった訳で参謀としての資質に疑問符が付く。 合議を前提にするから不思議なだけで
元々合議を規定する文書もなけりゃ
合議で決定した案件もない
奉行というのも後世の用語であって
彼ら自身は自分達を豊臣の年寄(重臣)
俗に大老と呼ばれる者たちを奉行と呼んでる
つまり元々成立してない合議違反など
初めから弾劾していない
内府違いにも奉行5人の連署が必要なのに
一人で署名したとだけ書かれているにすぎない 内府ちかひの条々が九州大名限定に宛てられたものっては違うな
真田家文書の7月17日付三奉行連署状には「内府公御違之条々別帋ニ相見候」とある
真田家にちかひの条々の原本は現存してないけど、この連署状と共にちかひの条々も届いてる 合議を規定してる誓紙自体はあるんだよなぁ…
内府違いの条々はツッコミどころ満載で現代ではかなり批判的な評価をされてる。問題はそれを西軍が理解していたかどうかでおそらく理解してた。理解してなかったらそれこそ諸将に送付してたろう。ところが中央から遠く離れた九州に向けて出した。つまるところその程度の書類で後世の小説にあるようなもんじゃない。 内府違いの条々が小説にあるように全国の諸将に送られた訳じゃ無いってのは高橋陽介が証明していたな。
徳川家康は当初西軍を「三成と吉継が謀反した」程度と認識していた。それは七月二十七日榊原書状に「三成が謀反して淀君と三奉行から救援要請がきた」とあることやその前に奉行に宛てて「佐和山攻めの兵糧を用意して欲しい」と言ってるから。内府違いの条々を見れば三奉行が謀叛の中心なのが明らかなのだからこの時まで家康は内府違いの条々を受け取ってない。また東軍諸将も西軍からこうした書状が届いた事を隠す理由が無いのだから東軍諸将も受け取って無い。 事情が変わったのは二十九日、ここで家康は「大坂奉行衆謀叛」と書いてる。この事から高橋陽介はこの日に家康は内府違いの条々を知ったとしてる。ただし、家康筆頭に東軍は内府違いの条々を戯言と断じた。それで東軍は内府違いの条々に一切の反論を行っていない。尤も東軍は最後まで内府違いの条々の存在を知らなかった可能性も否定は出来ない。三奉行が毛利と連んでる事が露見した可能性があるからね。どのみち内府違いの条々は西軍諸将も思っていた様に特段の効果を持たなかった。 >>494
現にそのあと一貫してグダグダだっからね毛利 毛利は恵瓊と広家の対立関係が結局致命的な西軍の敗因にまで繋がったな
三成が毛利家取次就任後も吉川家に気を配ってれば或いは防げてた事だったかも 信長や秀吉だって成り上がっている間に山ほど糾弾状を書かれたけど
それによって倒されたわけでも何でもない
むしろ仮に光秀が事前に糾弾状を書いてばらまいてくれていたら
信長としては逆にラッキーで助かったと言えるだろう
中央の歴史を知らない田舎大名ならいざ知らず
そうした歴史を知っている武将からしたら内府違いの条々なんて笑いの種でしかない
西軍がやっていることは過去30年間にわたって失敗に終わってきた敗者の戦略だった 恵瓊ー三成と広家ー黒田のラインでの対立ってあんまり語られないよな
新取次と旧取次との間での派閥の違い
関ヶ原の明暗って所ではかなり重要な要素だと思うけど >>504
明応の政変なんかは成功例じゃねえかな
まああれは権力者が将軍の座を挿げ替えただけだとも言えるけどさ
豊臣奉行衆では細川政元になれなかったな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています