石田三成の挙兵
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 そこに三成の名前があったら俺を追い落とした!ってなっちゃうな >>331
内府違ひの条々は、単純に要約するとこういう内容
家康が勝手に独裁権握って勝手な事してるんで、豊臣政府軍が討伐令だすよって事
家康が勝手な事してるから、大老奉行が同盟して討伐軍だすよって事です
家康が合議制無視して勝手に上杉討伐軍編成してるのを非難してるのだから手続きは大事
この時点で奉行じゃない三成が自分一人の名前で命令したら家康の同類 >>334
まあ、内府違ひの条々で徳川独裁体制非難してるしなあ
大老奉行の合議制無視したって批判してる人が、奉行じゃないのに署名したら変になる
家康じゃないんだし >>331
内府ちかひの条々に三成の署名がなくても、東軍諸将は三成が中心となって挙兵したと早々に認識してるしな
7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状
「仍今度石治・大刑逆意、無是非存候」
7月21日付家臣宛細川忠興書状
「石治部・輝元申談色立候由、上方ゟ内府へ追々御注進候」
7月27日付秋田実季宛榊原康政書状
「然者於上方石治少・大刑少別心仕ニ付而」 石田三成が大谷義継とゴニョゴニョやってるっていうのは家康も会津攻めの前に把握してたみたいだ
で、そんなもんだろうと甘く見て会津に遠征してみたら毛利宇喜多と三奉行まで絡んでて仰天したみたいだね 会津攻めが発動する前に把握してたって
そんな文書あるっけ?
>>338
そうなんよね
少なくとも東軍というか周囲から見て
三成が主導してるように見えるような
何かしらの活動をしてた訳よね 遠征前から把握してたって記録が残るわけねーよな
家康は最初は石田大谷が畿内で騒いでるぐらいの認識ではあったけど おそらくだけど毛利内のゴタゴタがそのまま出てる。輝元が大坂城を占拠するって話は毛利家内で合意が無い恵瓊ら西軍派の独断専行だった。それで東軍派(というか穏便派か?)は仰天して事態を調査したり輝元を説得すると同時に家康に万が一に備えた弁明を行ってる。それが七月十三日益田・熊谷・宍戸書状。内容は「我々が会津征伐に参加しようとして近江まで来たら大坂に向かう三成と吉継を見ました!恵瓊は輝元が呼んだって言ってるけどこれは嘘です!」ってもの。輝元が家臣の言う事にフラフラ動かされる道理が無いからこれは東軍派の苦しい言い訳。てことは三成と吉継は最初から毛利のスケープゴート役だったことになる。 だから家康は確かに西軍の決起計画を七月十二日時点に察知してる。ただしそれは毛利家によって「石田三成と大谷吉継による謀反計画」という歪曲されたものになってた。現実にはこの謀反計画は大坂の三奉行と毛利輝元によって起こされたもので三成が関わってた形跡が無い。例えば七月十二日の輝元宛増田・前田・長束書状では輝元の大坂入城を要請してるけどこれには三成も吉継も書かれてない。 その辺の動きも全部会津征伐の途中だね
家康が事前に察知してたというのは
それこそ司馬遼太郎あたりじゃないか
挙兵直前時点でご注進があったのは確かだが
それも数日明けて入ってるわけで >>338
7月16日竪田宛蜂須賀書状は結構面白くて竪田元慶は毛利家臣で輝元の懐刀的存在。何故竪田に蜂須賀が手紙を送ったのか?っていうとこれは輝元に対する諫止状。蜂須賀はかつて毛利との取次をしてたのでその縁を使ったらしい。じゃあ蜂須賀はどこで「石田・大谷が謀反」と聞いたかというと多分竪田ら毛利家臣から聞いたんじゃないかと。輝元は三奉行と内通して決起した訳だが家中で意見を統一してなかった。それで情報がダダ漏れ状態になってたと。 おそらく家康が事前に云々の元ネタは細川忠興書状でこの中で忠興は「こんな事が起こると思ってた」って書いてる。それで忠興が思ってたなら(彼より上位の)家康が思ってなかったはずが無い、で小説家が作ったんだろうね。勿論家康は知ってたろう。でもそれはよくある噂話で密告等の確証があるものじゃない。良くある噂の一つ、可能性の一つに過ぎんかったろう。 その可能性があんな大規模なものになるとは思ってなかったんだろう 秀吉が勝てなかった家康を、三成や輝元みたいな小者が何とかできると考える時点でなあ……なぜ、おとなしく時期を待つことができなかった…… 外国人が書いた看羊録ですら、景勝が徳川領を攻めて家康が畿内を離れれば必ず畿内の反家康勢力が一斉蜂起して家康は窮地に追いやられるだろうと倭人は噂しているとか書いてるからな
外国人や庶民レベルですら噂していたことを家康が全く予想してない訳はない
どのくらいの可能性として見積もっていたのかは謎 石田と大谷が悪巧みしてるらしい
↓
毛利宇喜多も?
↓
三奉行も??マジで???
書状とかの時系列見るとこんな感じ 三成が家康に遣り合うって、毛利輝元が織田信長と遣り合うくらい無理筋でしょ
所領や軍事力の問題じゃなくて、人間という格が違いすぎて話にならない 家康は七月二十五日に長束正家に「佐和山攻めの為に兵糧を渡してくれ」と書状を送ってる。この事から東軍は内府違いの条々を受け取ってない事がわかるんだとか。長束正家は内府違いの条々に署名してるから知っていればこんなのは送らない。この時点では「三成と吉継が謀反」だと思ってる。二十九日徳川家康書状で「大坂奉行衆裏切り」とあるからここで家康は内府違いの条々つまり裏切りの証拠を入手したと思われる。内府違いの条々は九州方面の大名に宛てて出されたっていうから加藤清正か、若しくは毛利と交渉してた蜂須賀が入手したのか。 信長や秀吉はいろんなエピソードで凄えってなるけど
家康は皆無だな
実績は凄くても人間的魅力と華が全くないのよね
頼朝とか大久保みたいにね 内府違いの条々って諸大名には出されてなかったんだってね >>354
ということは東軍というか会津遠征組の切り崩しは考えてなかったのかな
色々とアホか そもそも家康に付き従ってる連中に怪文書送ったところで味方になる訳が無いからね。西軍もそれくらいは分かってた。だから主に九州地方の大名に宛てて発布したんだろうとのこと。九州の大名は中央情勢に詳しくないから公儀が毛利に移って恩賞が約束出来る風に見えればそれで良かったんだろう。仮に九州方面が東軍に与すると毛利は東軍にサンドイッチされるから良くないって理由が主だったのかもしれんが。 状況的には三成の陰謀ってか輝元と三奉行の陰謀なんだよなぁこの一件は >>353
いや凄いと思うぞ、本当
この人の持ち味は見事なまでの、動と静の使い分けでね、普段の臆病とすら見える堅実な
所と、自分の時「まってたぜ、この瞬間を」が来たと思った時の素早さが見事
そして、思考に慣性が見られない「突然切り替えるんで周囲が啞然とする」為に最善手を
素早く打てるのが持ち味
桶狭間の後も、本能寺の後も同じ、動くにしても素早すぎるんよな
直前まで、今川や織田の機嫌取ってたのに何の抵抗も無く動くんだから >>355
そっちは大坂の妻子を人質にとる事で切り崩すつもりだったんじゃないかな
結果論で言えば失敗したが まあ単なるハッタリだったのかもしれんが福島はこっちにつくとか書状に書いてるぐらいだし、秀頼さえ確保すれば秀吉恩顧の大名は家康から離れると思ってたんじゃないか?
実際既に家康派と言えたのは黒田とか池田とかあたりで福島あたりは敵の敵は味方理論で家康側にいただけなわけだし
まあその敵がまさに三成なのに三成が福島はこっちにつくと言っているのは滑稽なんだけど 昔から不思議だったが家康打倒後に豊臣家主導の政権を構想していたのなら
三成から見て第2の家康になりかねない所詮外様の毛利と組むなんて何を考えていたんだろう
毛利なら御せると思っていたんだろうか
輝元は家康のような野望は持っていないと擁護の声が出そうだが
そんなん断言できるものじゃないし希望的観測に過ぎない
少なくとも加藤福島らと組むよりはよほどリスキーだったと思う 家康に対抗するには匹敵する石高の毛利と組まざるを得なかったのはわかるんだが
その前に何としても事前に加藤福島らと和解し彼らを一味に引き入れるのが最低限の絶対条件だったと思うんだよな
家康打倒後外様の毛利を大きくするよりまだ豊臣への郷愁を持つ加藤福島を大きくする方がはるかにマシだった 加藤清正・福島正則とは朝鮮の一件で完全に敵対してるから和睦の可能性は無いと踏んでたんだろう。しかも自分を殺そうとした相手でもあるから尚の事。良いとこ秀頼の名前で何とか中立を取れるかどうか…
毛利輝元は実は出兵反対派で朝鮮領を内定された時に「迷惑」と言ってる。そこで同じく出兵反対派の三成と繋がりが出来たんだろう。 そもそも論で言うなら天下をどうこうする野心なんかより
それぞれの地方で好き勝手に領地拡大や政権運営をしたいって野心の方が
全国政権視点だと余程厄介なんだよ、要は戦国時代に時計の針を戻すって事だし
地方での争いや不穏な動きっていうのを止めようとしたら邪魔するってどう考えてもマズいだろ
中央政権の権威や立場を維持するための行動を妨害することの意味を考えていたのだろうか >>363
毛利は全国統一の過程でも国替えを秀吉に指示されて小早川が代わりに被ってるからな 一次史料上、西軍決起に輝元と三奉行が同心してることは分かるけど三成がこれに関わってるところが見られない。三成を西軍に加えたのは上杉の取次だったからだろうと言われてるけどこの時三成は景勝へのコネクションが切れていたらしく真田にも口添えを頼んでる。なんで三成を味方にしたのか。まぁ佐和山が徳川に属するとどうしようもなくなるからかもしらんが… 輝元ってどこを切り取っても無能という印象しかないな
しかも動きたがる無能っていう1番質の悪いやつ >>367
せめて関ヶ原で隆景が生きていたら……
あるいは家康を止める存在になれたかもな >>368
秀吉が死んだ後に子飼いが分裂したのと似てるね
方向を一つにまとめてた隆景が死んで一門がバラバラに動いてるんだから 隆景生きてれば、って言うのはちょっと怪しい気もするけどね
というのは、毛利って本能寺の時にも秀吉と和睦した後に織田方の宇喜多や南条の領地を
攻撃したりしているから(両川も参加してる)
つまり、毛利って圧力(織田軍の圧迫や秀吉の押さえつけ)がなかったら近視眼的に
周囲にちょっかいを出そうとする、そんな御家な可能性がある(隆景が生きてても)
もっともある程度の大きさの地方大名なんて多かれ少なかれそんなもんな気もするが
秀吉死後から関ヶ原までの間を見ても島津や上杉、伊達が不穏な動きをしているし というかあまり家康を止める必要もなく
止めようと思ったのもそう多くない
それこそ野心ありありの毛利と
政道から遠ざけられたくない奉行と
それに担がれたり付和雷同したのが西軍だが
しかもしっかり戦ったのなんか一握り 徳川家康のすごいところは事態が自分の想定外だった事が分かっても自分が打つべき一手は打っている点よ。つまり毛利が黒幕と分かってもまずは岐阜を落とそうという戦略的正解を落とさなかった。ここで焦って動いても落ち着き過ぎて動かなくても失敗してた(宇喜多隊が大垣に移動中で岐阜救援隊として配備される前に岐阜を落とせた)
西軍と違って戦略でゴタゴタしても居ないしやっぱり「東海一の弓取り」「秀吉に勝った男」の威光が強かったんかな。 美濃を取らなきゃ西に進めないんだから戦略もくそもない >>358>>372
いやとにかく人間が寒々としているんですごいというよりも気色悪いとしか感じない
信康や秀康を持ち出すまでもない親子関係や
築山殿を持ち出すまでもなく女関係も信長には意外とあり、秀吉がそれで豊臣を弱体化させたような人間っぽいエピソードが皆無
自分のためにプラスかマイナスになるかそれだけが判断基準
忠臣と言われる家臣団も筋肉馬鹿か佞臣しかいないイメージ
他人を陥れることしか頭にないから決断が早いだけの猜疑心の塊
例えるなら頼朝や大久保よりもスターリンや毛沢東だな
だからこそ長期政権を打ち立てられたとも言える な?やっぱこいつには
家康は極悪立ち向かった三成正義スレ
が必要なんよ 普通に因果を遡っていけば秀吉が1番の元凶で最も悪いんだけどね
わざとなのか何なのかなぜかそのことは言われないんだよな 信康はお家分裂の危機だったから粛清したんだろ?秀康は自分の子か疑ってたんだっけ 秀康と仲が悪かった、ってのは後世の作り話で史料上は息子として仲良かったみたいだけどな。石田三成を護送する任務も秀康に任せてるし。 部下としてはだろう?
なんで嫡男になれなかったんだっけ? >>367
一応大名としては最高の能力を持っとる。刃向かえそうな時に刃向って、いざと言うときの保険に石田三成を用意しておいて、負けても三成を差し出して御家安泰。それで250年後まで生き延びた。ただ天下を担える器では無かったのだ… 当時の毛利は当主が輝元であるのは揺るぎないんだが豪族連合からも脱せてない
力のある家臣団に救われて損切できた >>361
三成から見ると、自分の政敵である福島・加藤らと組んでる家康を敵にせざるを得ない
ので、毛利・上杉と組むしかない。
上杉がつぶされると、毛利単体では家康に勝ち目がないので、上杉がつぶされる前に
動かないと復権の目が完全になくなる。 >>383
組んでるの、あれ?福島も加藤も家康を一方的に担ぎ上げてるようにしか見えないけど
三成の切腹要求も却下して隠居にとどめて佐和山まで送り届けてるし
息子の大阪城出仕も認めてるしで石田をかばえる範囲でかばってるでしょ、あれ
まあ三成からすりゃ納得いかんのかもしれんが、だからって加藤ら子飼いを厳罰処分にしたら
譜代をこれから作らにゃならん豊臣家や政権が大きな支障を抱えることになるぞ
ぶっちゃけあの時点だと三成一人が泥かぶってくれれば全て丸く収まるんだが 三成擁護派からは大坂の重家が人質にされて選択肢が無かったんじゃないかとかいう説もあるが…(重家は関ヶ原後に大坂城を脱出して出家して家康の元に出頭して許されてる)
今も「三成襲撃事件は家康の陰謀」説を信じてる人は居るし三成も「もしかして家康が俺を嵌めたんじゃないか」って疑心を取り除けなかったんじゃないか。 というか本来武断派と揉めてたのは三成の縁戚だった軍監連中だからな
当人の明確な過失無くそれで失脚まで追い込まれるんだから道理もクソもあったもんじゃない とはいえ三成らも私婚問題でいわゆる武断派を家康ごと葬り去ろうとしてるわけで
襲撃事件の頃にはとっくに対立構造ができ上がってる 秀次が存命していたら少なくとも家康に権力が集中することは避けられたし、何より豊臣の家政にまで口出しさせる権利を与えることもなかった
秀次とその一党をぶっ殺した秀吉が全部悪い 秀吉って頼朝と似てるよな
晩年になって年の離れた後継者のためにバタバタと対策した結果裏目になるという 秀次の何が不満だったというのかねえ
子供はあの年齢でそれなりに作ってる
豊臣の家系はほんと子供ができないからこれ自体役立ってるし
戦争経験もそれなりに積んで、治績も挙げてる
家康と比較したらそりゃ劣るけど愚物ではない
それを殺して秀次よりはるかに劣る秀頼立てて自ら終了フラグ立てるし 例によって秀次が勝手に自害したんだとかいろいろ秀吉擁護の説が出てるけど
政治的影響を考えたら明らかに悪手であり秀吉の失敗なんだよな
大体養子を後継者に定めたあと実子が生まれてお家騒動はテンプレみたいなもの
相模三浦氏はそれで滅んだし室町幕府でも応仁の乱の原因の1つになった
藤堂は家が潰れるところまではいかなかったが後代まで蟠りは残った
配られたカードが悪かったと言えばそれまでだが手持ちのカードでなんとかできなかったのなら
それが巡り合わせであり家運というものであり滅びる運命にあったんだねってこと 秀長の子供が亡くなってなかったら
色々事情変わってくるだろうな >>392
秀次が勝手に自害したなら理解できないのは、
なぜ家族をほとんど族滅したのかということ
秀次が勝手に自害したならそれ打ち明けて家族は助けて僧籍にでも入れたらいいやん
男子は生かしたら禍になるというなら、女子だけでも生かしたらいい
ところが女子すら皆殺しに近い真似している
勝手に自害して家族まで処分するとか普通あり得ないよ
こんな新説ぶち上げたの、誰だよ >>393
秀長の娘って確か毛利秀元に嫁いでたよな
その縁で秀元を豊臣一族に迎えて毛利丸ごと取り込んで豊臣後見にしたらよかったんじゃないか? >>397
吉川広家あたりが死ぬ気で阻止するんじゃない? 同じ発想で徳川を取り込んだんだけどな
秀頼を孫婿にして
それを気に入らず覆すのが西軍首脳の目的な訳だが >>396
早合点して勝手に自害したとか言えないから謀叛人てことにして族滅にしたとかだったような 自害したのが秀吉の命だったのか秀次の勝手だったのかは問題じゃなく
肝心なのは次世代も政権として磐石との印象と信頼感を天下に示すことに完全に失敗したということ
あんな陰惨なお家騒動満天下に晒して後継者は何も出来ぬ子供たった1人
秀吉死後の豊臣政権は諸侯の家と領土を安堵できる保証と実力はなくなりましたと宣言したに等しい 処罰としたら高野山在住命令と切腹の矛盾があり
切腹命令を扱う史料の信憑性は低いのだが
切腹命令の有無に関わらず政権としては痛手だし
その意味で失策以外の何者でもないよな
次世代の天下様として世間も諸大名も
認めて動いてた存在にあやふやな謀反の嫌疑を
かけて失脚させる時点でかなり危うい >>390
ソースは忘れたけど小牧長久手での敗戦の責を秀次に転嫁して秀次と仲が悪かった説、秀次が猿を飼っていたところ「秀次が猿(=秀吉)を女にけしかけて遊んでいる」と噂になり秀吉の機嫌を損ねたという続武将感状記の説、と色々あるけどよくわからんな。でも確かなのは秀吉と秀次は人間性が違ったらしくフロイスの日本史にも「伯父(秀吉)とは全く違って賢明にて聡明」だの書いてあるし元々ソリが合わなかった雰囲気は残ってるのが怖い。 >>399
毛利の権限を増して、政権運用上は徳川と毛利のツートップ、
秀頼は前田を守役にして両家と距離を置く、
ってダメかね?
徳川一強への反発が関ヶ原の原因だったんだから、
同等の存在がいて、バランサーもいれば安定するんじゃね?
長くは持たないだろうけど、秀頼成人までなんとかなればいいんだし 一強にならなきゃ結局は安定しないのだから反対勢力は叩き潰すしかないよ >>403
フロイスの人物評はキリスト教から見てどうか?だからなあ
秀吉より秀次の方がキリスト教に寛容だったんだろとしか >>404
毛利が豊臣政権内での地位を低下させたのは自業自得だから難しいだろう
どういう事かというと、輝元に嫡子である秀就が誕生してしまった事だ
これ自体はまあ文句を言うべきことではない、実子が生まれた以上は
後継を養子からそっちに変更したいと思うのは当然だ、秀吉ならわかるだろう
しかし、問題は秀元を後継の座から外したことで(秀元は即座に養子から降りている)
毛利と豊臣の縁が極めて薄くなってしまっているという点だ
毛利の後継が豊臣と縁もゆかりもないのなら、当然政権内での地位や重要性が
低下してしまうのは避けられないだろう、本当に縁のない上杉よりはマシだが 毛利は事実上主導的立場にあった隆景が死んでしまった時点でね…
小早川は実質豊臣家に取り込まれて輝元一人五大老に名を連ねる形になっちゃったから政権内に占める重要性は必然的に落ち込む
吉川家はひっそりと冷遇されて広家と恵瓊が対立してる始末だし 数年前に発見された秀吉近臣の輝元宛書状では、秀次の死の3ヶ月前の時点で
秀吉は秀次の息子を大和国主に取り立てようとしてたことが述べられてるし、
この3ヶ月の間に二人の仲を裂く決定的な出来事があったんだろうな
また死の1ヶ月前の6月9日付秀次宛秀吉朱印状では
「河内八箇所の堤防が大水により決壊したので秀次が巡見すると聞いたが、
状況は酷いようなので巡見は無用だ。近日伏見で面会しよう。」
と言ってて、この時点でも秀吉には不穏な空気は見て取れない >>406
確かにその通りなんだがフロイスの記事が「伴天連追放令を受けて宣教師が「秀吉を殺す!」と激昂。そこで宣教師が秀次に釈明(というか信仰宣言)してそれを穏やかに聞く秀次」って話だから結構嫌な感じなのよね… 秀吉はまだ39歳の時にもう子供は出来ないと思ったのか信長の子をあっさり養子に貰い受けて跡継ぎにしたからなあ…
秀次はもう生まれてたのに そりゃ織田の家臣として考えれば信長の子を養子に迎えて後継者にしたらお家安泰だしな 自分の領地はいずれ信長様の子供が引き継ぎますよ、
って明確化させとけば、佐久間みたいなことにならん、ってこと。 重臣たちが遠方で国をもらう流れだけど羽柴だけ畿内周辺に留まれそうだったしな
秀勝継承後は羽柴の血を引く者はまた別枠で大名にしてもらえたかもしれない
そういう方面から考えても織田重臣たちで一番裏切る理由がないのは秀吉なんだよね まあそのへんの話しはわかるんだけどね
もともと秀吉にとっては秀次はその程度の存在で、どうしても羽柴家の跡を継がせたいとも考えてなかったんじゃないかなと 諦めてたら実子が出来たとかあるあるだしな
応仁の乱の原因も畠山のそれだし 切腹って武士の名誉刑か己の無実を証明する為の手段だよね確か。だから秀次の件は秀吉の命令かさもなくば秀吉が秀次を憎悪していたかの話に落ち着きそう。
そういや三成がこれを仕組んだって俗説も有名だけど、三成は三成でこの一件に乗じて浅野長政を追い落とそうとしてるからなぁ… 少なくとも秀次とその家臣団が消滅したことで
三成は秀頼の代でも政権の中枢に残れたわけだから利益を得た立場ではあるな
三成って明への冊封体制メンバー案でも自分を家康ら大老より上位に置いてたそうだし
いろいろきな臭いところあるんだよな 秀吉はそのまま信長の天下になった方が幸せだったんじゃないかね。家も残っただろうし 養子が早死にしたり子供が全然生まれなかったりって事がなければここまで拗れはしなかっただろうな
それも兄弟揃って それが家運というもの
貴賎問わず家門繁栄が最上とされていた当時では
豊臣は呪われた不吉な縁起の悪い家と思われたろうな
そこも天下人としての求心力低下に繋がったかと 織田に頼らなくとも秀吉に男児が産まれてたらそもそも家康の天下は無かっただろ 秀吉の男児は3人いたが2人は早死にして最後の秀頼だけが成人した むしろ秀吉に男児が生まれなければ家康の天下はなかったね 秀頼の誕生ってタイミング的に奇跡的に最悪だからなぁ
秀次が関白になった後で、朝鮮・明と戦争中とかいう… 取次元で友人だったから守る為に家康に刃向かった、みたく言われる三成さんだけど考えたら景勝って三成に対してなんかしてたっけ?襲撃事件の時に三成を助けたのって宇喜多秀家と佐竹で裁判で動いてるのは家康と輝元だし…景勝なんか見殺しにして家康の下についてたら割と面白い事になってたかもしれない。 別に景勝を助けたとかじゃないと思うよ
家康を叩くなら会津征伐が始まる前がギリギリだったってだけで 徳川の下に着くというかそもそも
隠居した時点で豊臣の一家臣だし
奉行だった当時から内大臣たら家康の
下にいないのがおかしい訳だがな
関ヶ原がなきゃ普通に石田家は
豊臣-家康政権の一大名として
存続してただけだろう >>428
佐和山の領地守る事が勝利条件なら、確かに有り得る
その場合、太閤の晩年は現在以上に悪く言われただろうね
秀頼がどんどん追い詰められていくのに、豊臣家取り立ての者でだれも本気で
守ろうとする奴が居ないという事で >>426
あの時代の上杉家って謙信教団なんだよね
行動原理が、謙信なら如何動くかになってるので教えに背けば景勝とて危ない
謙信なら、負けると分かってても化狸と勝負するよ 神格化した謙信ならやる
宗教なんてそんなもん
実際の謙信ならわからん
いきなり単身上洛で家康と直談判もやりかねない 景勝は謙信が保護し自家の拠り所であったはずの上杉憲政をあっさり殺したり会津移封時に堀に嫌がらせしたり
関ヶ原後は一貫して徳川に服してるしで特段義に篤いわけでもなく当たり前にエゴある戦国大名の生き残りでしかない
三成との謀議も無かったし創作エンタメで書かれるような格好いいものじゃない まぁ謙信って家康とは仲良かったしそのおかげで上杉も残った側面あるし…
三成の息子、重家は家康からかなり可愛がられてたらしく三成が謹慎くらった後も秀頼への出仕を認められてる。多分上杉征伐の時は石田家復興の時と感じてたろうに親父が… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています