石田三成の挙兵
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 >>249
実は連れてきていたとか
小早川 裏切りは許さない
と輝元に言われてしまう
広家も渋々引き下がる 東軍は情報戦で西軍を圧倒してる。西軍の布陣や作戦を把握してる事がわかってる。なんでこんな事になってるかというと西軍内の徳川シンパによる通報も確かにあるんだが…
髙橋陽介は石田三成が漏らしたとしてる。三成は仲の良かった真田一族に書状を送ってるけどこの中に信幸の名前がある。どうも三成、真田一族全員が西軍に着くと思ってたらしい。三成は筆マメな男でこれが裏目に出て西軍の初期戦略が筒抜けになったんじゃないかとか言われとったわ。 三成さんの逸話
三成「信雄さん!西軍に味方してくれたら軍資金に金1000枚と尾張の国をあげます!」
信雄「マジで!?わかった味方するからまずは金1000枚ちょうだい」
三成「はいよ!」→銀1000枚
信雄(えぇ…こんなんじゃ尾張も貰えるかわからねぇ…)
秀雄「父上!内府に逆らうとか馬鹿じゃないの!?」
信雄「お前もそう思う?俺もそう思うわ」
三成さんがケチだったので味方が一人居なくなったお話 三成って確か大坂の増田長盛に
「度々伝えていて申し訳ないんですが、資金と兵糧を送ってください。現在私が立て替えてますが限界です。今が勝負どころですからやってるのです。なんとか早くお願いします」
って書状送ってなかった?おそらく恩賞の提示は大坂が行っていて三成はそれを伝えてるだけなんだと思われる。つまり大坂が前払いを渋って三成が自腹を切ってたんじゃなかろうか。すごい悲惨な話だけど。 兵糧は刈田すればいくらでもあるって言ってなかったっけ?その書状。 苅田すれば幾らでもあるのに(長束らが)やろうとしない、って書状もあった気がする。 関ヶ原の合戦の全体像は後世の創作という説がある
実際は大谷吉継軍のみが戦って玉砕したようだ 毛利が降参していて秀秋は14日前に東軍に味方してるって前提で見れば俗説と全く違う状況が見えてくるからね。
石田三成らは松尾山の秀秋を攻撃しにいったわけだけど前提として南宮山が東軍を押さえてくれる(下山しなくても裏を掻かれるかもというプレッシャーくらいは期待できた)
ところが東軍は南宮山をスルーして関ヶ原に吶喊してきた。この時点で勝負有り。悲惨なのは松尾山に近かった部隊で前門の小早川後門の東軍でサンドイッチされてしまった。そりゃ壊滅するじゃろ。 >>248
合理的理由そのものが不確定だと言ってるんですが?
確かに通常はリスクが高まれば、人は安全資産に資金を移すから金は値上がりする
でも、本当にリスクが耐えられない程高まれば、今度は非常用安全資産を換金する人が出て
きて、こちらの方が優勢になる事もある訳
確率で行くと安全資産の値上がりの方が普通高いけど、絶対じゃないのよな
実際にギャンブルした事の無い人は、この別の要素も無視できないのが理解出来ない
思考の前提が、必ず優勢な方に人は付きたいものってなってるでしょ
勝ち組に味方しても、自分の破滅が回避出来るかは未確定だからね 卜斎記を基に当時家康は従来言われてたところには居なかったって書いてある本あったな 調べたら古今消息集の九月十二日三成書状だった
「度々申し入れた如く、金銀米銭を使うのはこのときである。自分などは分相応にはや手許に持っているだけ出してしまった。人をも召し抱えたので、手元の逼迫は御推量ありたい。この際が一番大事な時期だと思うので、あなたもその御心得がありたい」
他には
「当地で苅田を行えば、兵粮はいくらでもあるのに、敵を恐れて苅田にさえ人を出さず、兵粮は近江から運ぶことにしているようだが、近頃は味方中が畏縮してしまっている。」
こんな内容。 兎角言われる岐阜防衛失敗だけど状況を見ると如何ともし難いものを感じる。特に竹ヶ鼻が落ちた事が痛かったんじゃないかな。
竹ヶ鼻城は確かに小さな城だがここからは岐阜城が攻撃出来る上、地図上だと大垣城すら射程圏内に収めてる。だから織田秀信はここに三成からの増援(毛利広盛ら)を入れてまで防備を固めてた。ところがその援軍が福島正則と内通して裏切り、竹ヶ鼻城主杉浦重勝は討死し城は東軍が占拠する。こうなると軽々に動けない。兵力の分配が相当難しい局面だったはず。 >>249
毛利という言葉を都合の良いように使ってるけど人名ではっきり指定してもらえませんかね?
安国寺恵瓊も毛利秀元も毛利秀包だって毛利なんだけど 毛利は南宮山に布陣していなかった
山はあまりにも狭く見張り程度しかおけなかった
南宮山付近に布陣していた毛利
深夜目前を通る東軍の数が多すぎて手が出せず
このままでは取り残されると旗印をその場に残し
南宮山勢は全軍伊勢街道を進み十九女池付近に布陣した
最後まで移動を嫌がった吉川広家は遅れてしまい少し離れた伊勢街道に布陣した
合戦なかば三成は毛利勢へ突撃せよとの狼煙を合図に
秀元 安国寺 長束 長宗我部は
東軍の横っ面を襲うのである >>265
竹ヶ鼻は地点として見るなら大垣へも岐阜へも行けるが、
大垣・岐阜間を遮断するには至らない地点だと思う。
大垣・岐阜間を遮断するなら墨俣辺りの長良川渡河点付近を押さえておくべきだと思う。
実際黒田・藤堂・田中隊は岐阜城攻撃時その方面に展開し
大垣城からの後詰を阻止している。
それ以前に市橋・徳永らが大垣南方の西軍方の城落としてるから
既に大垣自体も危険な状況に陥りつつあり、大垣・岐阜・犬山を堅持して
後詰が来るまで耐えるのが最善の状況。
貴重な籠城戦力の損失を招いた木曾川渡河迎撃失敗が致命打と見る。
>>266
9月15日の関ヶ原で行われた関ヶ原本戦の話でしょ?限定する必要もないが、
当該地域にいる毛利は南宮山に布陣する毛利でしょ。
他の地域を含めても毛利は毛利全て。
もっとも和睦がなったのが9月14日なら輝元を経由し
その情報が伝わるまでのタイムラグは生じるだろうけど。
それとこのifの場合、小早川秀秋が西軍方として信頼できるなら、
大垣の西軍主力はなにしに関ヶ原に行ったのかという疑問が生じる。
近年だと松尾山の小早川秀秋を攻撃しに行った、だし、
島津(だっけ?)の言う「二重引き」なら大垣は放棄して段階的な佐和山への防衛線後退だろうし、
もし二重引きなら当然ながらそのことは南宮山部隊にも連絡は行ってて
南宮山部隊が後衛的部隊となるが。 二重引きするように見えたと言ってるのは吉川広家だな
9月17日に書いたとされる広家自筆書状案に記載されてる 垂井に布陣されて大垣は死に石同然だからな…南宮山を起点とした防御線を構築してたのに突然佐和山に向かって走られたら動揺が走るさね。吉川広家はこれで誰もが東軍に降伏して全く戦にならんかったとか言ってるらしいけど、となると石田三成らは自分達の行動理由を仲間に通達してなかった事になる。良いのかな…秀秋が東軍に寝返って松尾山を取ったと知られたら西軍の士気が無くなると思ったのか。 三成
何故小早川は動かぬ、南宮山も
大筒を松尾山に向け放て
ドカーンドカーン
小早川秀明
なんじゃこれは
殿、三成殿が我が隊に大筒を打ち掛けてきました
なんじゃと
ドカーンドカーン
ドカーンドカーン
わかったわかった
出陣じゃ敵は藤堂、京極
いざぁ >>272
尾根迂回しないと東軍側に出れないから数時間掛かるぞ >>273
東軍接近で半分移動
通過後残りが移動
最後にいやいや広家が移動
間に合うよ >>273
南宮山組がすぐ近くにいるし
大谷ともやりあって京極はかなり焦っている
そこに小早川が流れ込 毛利秀元って小早川秀秋と同じく西軍の作戦に従ってなかったんだとか。輝元から命令が来て従ったけど奉行連中の作戦には従いたくなかったんじゃないか。しかもそれで毛利軍は損害被ってる訳でもう切るかこいつらって思ってても不思議じゃない。 >>276
そもそも西軍総大将の輝元の命令に従ってるのに、
西軍の作戦に従っていない、という言葉が出てくる時点で
西軍はどうしようもない。 分かりにくいけど西軍で指揮採ってるのは毛利輝元じゃなかったらしい。一次史料上指揮してるのは増田長盛・長束正家・前田玄以・石田三成・大谷吉継・安国寺恵瓊。彼らが戦略を決めて諸将に相談通告をしていた。ただしこれ自体はおかしくない。数万規模の戦で総大将が一から十まで決めていたら臨機応変な動きが出来ない。家康も大戦略を指示したら現場の事は現地諸将に任せてる。井伊直政ら軍監を派遣するのも忘れてないけど。 >>277
だからさ
輝元はお忍びで関ヶ原にきていたんだよ
黒田の内応は世鬼に暴かれ
このまま放置だと負けてしまうからな
小早川 広家は渋々従うのである ただ何が問題だったかと言えばその西軍指揮官の戦略に疑義を持つ者達がいたってところ。それが毛利秀元・吉川広家。彼らは元々奉行の作戦能力を疑問視していた。それで秀元は作戦を拒否。困った奉行は主人の輝元を動かして命令に従わせた訳なんだが、その裏で完全に軍令から離れてる小早川秀秋の存在が忘れられつつあった。 吉川小早川が黒田に引き込まれてるのがどうしようもなさ過ぎてなぁ
広家なんかは三成恵瓊と対立してて黒田親子と昵懇だからどうしたって東軍に転ぶ 広家は奉行衆の指揮能力を疑問視してた。広家が輝元に送ったっていう書状には「家康はあの太閤に(小牧長久手で)勝った程の戦上手でその上その時よりも勢力が増してます。その上多数の名将が家康に従っている。対して奉行どもの無能っぷりときたら朝鮮の事を思い出せばわかる筈です。どうして家康に勝てるでしょうか」と書いてるそうな。秀元も朝鮮外征組だし同じ様な思いだったんじゃないか。それで戦略をミスした挙句家康の動きに踊らされてる姿を見て切り捨てる事にしたと。安濃津城攻めで大損害を被った事も一因だろうけど。 >>276
>>280
それについては微妙にニュアンスが違う。史料スレの吉川廣家自筆覺書案より一部抜粋。
一 伏見之城へ人數差寄、責口被申付候刻、勢州へ可相仂之旨、奉行衆相談被相究候、惣別濃州北國兩口之仕置、
堅被申付候て社尤候、勢州さしむかひたる儀にもあらす候間、出勢無詮候、雖然、長太、安國寺被罷向、
あのの津近邊掠夲よ申所、兩人被陣取候、如何候哉、夜中我等陣所關之地藏へ被引取候、其より猶以敵味方覺相替候、
其後又津之城可指寄之由被相催候、左樣へは、大御所樣被成御打上候は、大分之一戰可有之前かとに、
不數城乘崩候ても無詮候、萬一手負死人罷成候はは、一方御をくれに罷成儀に候處、首尾不合行被仕、城被乘崩候へ共、
手負死人候て人數半分に罷成、味方之覺莫大に罷替候事、
>惣別濃州北國兩口之仕置、堅被申付候て社尤候、
勢州さしむかひたる儀にもあらす候間、出勢無詮候、
ここね、瀬田で陣地構築後、伊勢に行けと言われたが伊勢なんぞに行ってもしゃあない、
北陸か美濃に行くべきだと言ったが伊勢行け伊勢行けうるさいんで、
(秀元は)兵が足りないからとしばらくごねた後仕方なく伊勢に行った。
この時点では別にやる気がないわけではなく、長束・安国寺が伊勢行けとかアホなこと言い出したんで
ごねてた。この覚書が正しいなら、秀元らの瀬田の毛利勢は北陸か美濃ならすぐに向かったと言える。 伊勢は美濃からも行けるので、桑名さえ保持していれば問題ない。
伊勢は長束・安国寺・長曾我部・明石掃部だけでも十分だと思う。
瀬田の毛利勢は大垣辺りにでも詰めておけば史実通り岐阜が攻められても
そのまま後詰決戦、あるいは渡河迎撃が成功した可能性がそれなりにあると思う。 >>282
横からですがそれっていつ時点の書状なんですか? 広家・秀元は美濃方面に兵を進めるべきと主張したけど聞き入れられなかった(内通を疑われていたとも)そしたら岐阜城は落ちるわ大垣城が包囲されるわでそりゃもうこいつらやっぱダメだね話にならないねってことに。 東軍が来る前に清須城を奪うのが先
よ
秀元、広家、小早川秀明、立花宗茂らは岐阜城に進軍した >>285
内容からは、>>283と同じ吉川広家自筆覚書案と思われる。 >>260
結果的に勝利に向かって理に適った行動をした方が勝つ
合理的に行動しようとしてたかどうかなんて関係ない
そこを問題にしてる時点でずれてる 当初岐阜に進むよう主張したのは吉川広家・毛利秀元だけど多分石田三成も主張したと思うのよね。佐和山城主で大垣預かってる身だし。
そういや有名な「佐和山城を探しても何も無かった」って逸話だけど信雄への逸話や九月十二日書状からするともしかして恩賞の前払いで破産してたんじゃ… 奉公のための金は自弁が基本だから戦前は蓄えがあったけど開戦して使い切った可能性はある だとするとマジで何の得もしなかった三成さん…九月十二日までは三成は自信に溢れた書状書いてるけどこの十二日書状は一転かなり弱気なんだとか。この時既に南宮山の毛利は家康との和睦に奔走、その他の西軍諸将も混乱とまぁ最悪の状況だから弱気になってもおかしくない… そりゃ投資失敗で死んでんだから
手元に現金あったらそれこそ異常者 徳川家康、関ヶ原に居なかった説もあるんだよね。卜斎記の記述が基なんだがどうも家康は南宮山の東に居たんだとか。
そこを取られちゃ西軍に勝ち目なんか無いぜ… 西軍の勝ち筋って岐阜落城前まで戻らないと無い気がする。 朝鮮出兵の時と同じ気分でやってたのが敗因でしょ
秀吉の名代として命令一下各大名が働くのが三成の前提
関ヶ原に砦築いて、そこで待ち構えれば成功すると信じてただけ
今まではそれで上手くいってたからね
成功体験にこだわることの危険性よ 吉川広家は「家康と奉行衆じゃ格が違い過ぎる」と輝元を諌めてたわけだが輝元自身はどんな戦略図を描いていたんだろうか。 増田長盛とかも何を考えてたのかよくわからん
東軍が勝っても知らぬ存ぜぬで逃げ切れるとでも思ってたのか? >>297
野戦ではだいたい勝ってるよ
毛利や小早川がよく戦ったからね >>299
両建てしてたんだろう、西軍が勝ったら西軍首脳で東軍が勝ちそうなら西軍への補給を潰して「私も東軍でした」で逃げ切ろうとした。
まぁ大坂城を毛利に占拠された時点で東軍には与せない訳でタイミング次第では生き残れた気もするけど… >>299
奉行の三成の担当は野戦のような戦術ではなくて戦略だろう
秀吉が耄碌してるからどうにもならないけど成功とは言い難い 三成はそも朝鮮出兵に反対していて現地みてその思いは強くなってるしねぇ… この場合の成功体験て戦略的戦術的それではなく
単純に政権として号令したら無理なことも
諸大名の大半が従うって言うものでしょ
その意味だと秀吉の関白就任以降十数年
ずっとそう言う状態だったわけでそのせいで
秀吉死後の状況を読み間違えたのはあるだろね >>305
家康自身もそう考えてた節があるのが皮肉だな
諸侯が自分の指示に従っているのはあくまで豊臣政権の第一人者であるからで
その立場がなくなれば諸侯が自分に従う保証などありはしないと
実際、西軍挙兵した後にしばらく関東にとどまってた理由の一つは諸侯が
反西軍としてちゃんと戦ってくれるかどうかわからなかったからだろうし と思ってたらえ?実は豊臣じゃなくてもいいの?からの征夷大将軍で政権確立っていう。秀吉からすりゃ寝た子を起こすなよ…って話だったのかも >>301
両建ては、結局双方から疑われて滅ぶ事が多いですよね
カエサルは、有名なカエサルの寛容で両建てしてた元老院議員大量に許してますが
がしかし、彼らはカエサル暗殺の後、アウグストゥスが作った処罰者名簿に載り消されてます
何をしたかじゃ無くて、反対派閥だから問答無用で消すと言う酷い目に
酷いのはカエサル傘下で軍団長まで務めてたキケロの弟まで消されてる事
当人に疑われる要素は無いので、元老院派のキケロの弟で消されたという事でして
太閤が寛大だったんで、感覚ずれてたんでしょうね >>299
秀次の義兄(兼家康の娘婿)の池田輝政に(秀次事件で)徹底的に
憎まれていたことを軽視したのだろう。
自分は池田輝政に憎まれていて負けたら滅亡以外残っていないと最初から
判り、水口(岡山)城で池田輝政に徹底抗戦し玉砕した長束正家とは対照的。
なお、水口城は落城時に徹底的に屠城され、生きるものはなに一つ残ら
なかった。それは、長束の正室の本多忠勝の妹ですら例外ではなかった。 池田とかいうラッキーマン
ご都合主義過ぎて信じてもらえないぐらいの幸運っぷり 岐阜城攻略に打って付けだったな。
そして竹ヶ鼻に入れた増援は福島正則と旧知とかいうさぁ… 関ヶ原時点の家康って
日本の軍事力の何%くらいだったのかね? 太閤検地で1850万石ってハナシだし石高と軍事力を乱暴に当て嵌めれば徳川250万石で14%くらいじゃないかな?もっと精密に計算すれば更に増えるのかもしれんけど… >>310
主君豊臣秀次への復讐に生きるという点では物凄い一本筋。
ただし、時には敵に機嫌を取ったり、敵を思いやるふりして分裂
させたり、プライドなどどこ吹く風というぐらい手段を選ばない。
そして、それができる数少ない日本人で、ある意味最も怖い人物。 そもそも家康と三成では人物が違いすぎる
名目上は輝元を立てた、といっても、輝元や秀家でも家康とは格が違いすぎる
なんで挙兵して勝てるなんて思ったんだ…… >>315
豊臣政権を悪い意味で絶対視していたんでしょう
政権からの命令であれば諸大名は皆絶対に言うことを聞くし、逆らうものなどいないと
秀吉生前はそれが当たり前だったのだし、死んでから二年ほどしかたってないのだからな
だから内府違いの条々を諸大名が受け入れさえすれば家康は政治的に孤立して詰み、
後はかつての北条のように江戸征伐やっておしまい、この程度の認識だったと思われる
問題点は、豊臣政権は秀吉政権でしかないという指摘がある事(つまり秀吉死後は…)
でも毛利や上杉はともかく、奉行や宇喜多がそれを認めるはずがない
そもそもこの点は家康でさえ勘違いしていた節があるので、どうしようもないだろう >>315
輝元は家康が信長に従属してた頃から中国の覇者なんだがな
まあ秀吉からも隆景のオマケ程度にしか見られてなかったみたいだけど あながち勘違いとも言い切れないと思うよ
家康自身別に小説みたく野心剥き出しで
政権無視した訳じゃない
ちゃんと政権内での手続き踏んで動いてる
(内心の話ではなく政治的行動としてな)
その家康が政権として出征した隙に
主君の城に兵を入れて号令する
という西軍の行動にはそれがあるか
西軍蜂起で家康は政権トップを降りてない
西軍はその地位を追ったと主張したわけだが
東軍諸将がそれを認めて政権より家康を取ったか
認めず引き続き政権トップとして家康を支持したのか
後者の見方は成立し得るし
それが建前論として成立することは
政治的にかなり大事だよ いや別に善悪を論じたいわけじゃないぞ
関ヶ原を起こしたのが三成なのは
そもそも異論が出るようなことなのか?
むしろあなた家康は極悪三成正義スレでも立てたら? こいつの特徴は秀吉と家康って変わらないよねって言われるとムキになって否定するところ 秀吉と家康は全く真逆の人間だろう
秀吉は良くも悪くも人間臭い
対して家康には全く人間味を感じない
知恵をつけた昆虫か何かが人間のふりをしてるだけって感じ
妻子を何の躊躇なく殺したり、長久手の時に機密保持の為
出入りの商人皆殺しにするエピソードには
信長や秀吉の残虐性とは違う無機質な冷酷さを感じる 昔から散々言われてることだけど
信長秀吉と家康に対する好悪って義経と頼朝、西郷と大久保に対するそれと構図が同じなんだよな
子供にもわかりやすくその時だけ華やかな義経信長秀吉西郷に大衆的な人気が集まり
それとは一見真逆で陰湿なイメージの頼朝家康大久保は毛嫌いされる
でも実際に前者がもたらした混乱を収拾し秩序立て安定に導くのは後者の現実主義と堅実さ
人間の歴史的な評価の系列としてお決まりのパターンなんだろうな
大久保なんかは家康に私淑してたくらいだからはっきり自身をそっち系列と認識してたんだろう
人望好みの西郷と真逆で大衆の人気など顧慮せず
とにかく仕事を冷徹にこなすことを身上とした点でも家康に重なる 家康なんて信長秀吉の路線をそのまま踏襲しただけじゃん
別に信長や秀吉がそのまま生きていても同じような国になってたよ。都が京都のままだったろうなぐらい 三成が挙兵したんじゃなくて輝元が仕掛けたって説もある(高橋陽介とかが主張)
というのもそもそも佐和山に蟄居してる三成が西軍を構築出来るはずも無い。また三成は確かに西軍の幹部だけど独断で作戦命令を出してる史料が無い。そんな三成が挙兵して輝元を招くなんて出来るのだろうか?って話なんだとか。 輝元は野心家だよね
三成もそうだから付け込まれたというか
winwin狙って失敗しただけと思うけど
前政権から新政権立ち上げの過程は
秀吉も家康もよく似てると思うよ
というかそこで筋違いのことしたら
うまくいかないよね 関ヶ原の毛利の豊臣家をないがしろにする行為を見た、三成はどう思ったのだろうか。
愚痴を書いた手紙は確かあったが…
毛利にしても、上杉にしても豊臣家に絶対忠誠を誓う筋合いはないわけだが。
秀頼を擁してるかしてないかの違いだけど、家康の方が秀頼をたててるよな。
奉行の中でも、東軍に通じてみたりする連中がいる中で、三成は筋を通したけど、彼が首謀者なのか巻き込まれたのか、いろいろ研究が待たれる。 毛利も上杉も信長相手に虫の息だったのが織田政権内部のゴタゴタによって一気に戦略的価値が上がって重要視されるようになったという流れがある
秀吉の天下取りに対して重要な立ち位置を占めていたけど別に豊臣家に思い入れがあるとかじゃないからな 三成が最初から西軍に参加していたか?というと一次史料ではその様子は無いとのこと。確かに予兆はあって七月十二日に「大谷吉継が病気で代役に石田三成が出陣するように指名されたが三成は出陣を拒否してるらしい」って噂が流れた。高橋陽介氏は七月十五日上杉景勝宛島津義弘書状から十五日には西軍に参加してたとしてる。
しかし毛利軍の大坂城占拠が七月十七日で同日内府違いの条々が発付されてるけどここには三成の署名が無い。三成が最初から蜂起計画を練っていたなら内府違いの条々に名前を書かない理由は無いと思う。 内府違いに名前がないのはむしろ自然じゃね
三成は失脚して奉行でもなんでもない
その名で諸大名を従わせるのはなんの根拠もなく
政権トップとして振る舞いたい西軍としては避けたい
15日の段階で島津義弘は三成も決起の一員としてて
文書上それより早く確認できる西軍の活動て
12日の4奉行による輝元大阪入り要請
13日の関東に向かってた毛利勢の転進あたりで
それほど遡れないよね
一方東軍側が西軍の動きを把握した
最初期から三成吉継の名前は出てるし
書状を出しているとされてるので
巻き込まれただけでなく実際動いてる 確か後々、三成は奉行に復帰してたよね書状の上では(それで白峰氏は「三成は奉行職をクビになってない」と主張してたはず)奉行に戻れるなら別に内府違いの条々出した時に戻さなかったのは何故なのだろう? >>331
その通り
むしろ解任されてる三成が三奉行と連名してたら、なんだこいつが家康殿を逆恨みして蠢動してんのかって思われるだけ 家康の罪状として「五奉行のうち二人を追い落とした」って言ってるから今更な気がするけどね そこに三成の名前があったら俺を追い落とした!ってなっちゃうな >>331
内府違ひの条々は、単純に要約するとこういう内容
家康が勝手に独裁権握って勝手な事してるんで、豊臣政府軍が討伐令だすよって事
家康が勝手な事してるから、大老奉行が同盟して討伐軍だすよって事です
家康が合議制無視して勝手に上杉討伐軍編成してるのを非難してるのだから手続きは大事
この時点で奉行じゃない三成が自分一人の名前で命令したら家康の同類 >>334
まあ、内府違ひの条々で徳川独裁体制非難してるしなあ
大老奉行の合議制無視したって批判してる人が、奉行じゃないのに署名したら変になる
家康じゃないんだし >>331
内府ちかひの条々に三成の署名がなくても、東軍諸将は三成が中心となって挙兵したと早々に認識してるしな
7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状
「仍今度石治・大刑逆意、無是非存候」
7月21日付家臣宛細川忠興書状
「石治部・輝元申談色立候由、上方ゟ内府へ追々御注進候」
7月27日付秋田実季宛榊原康政書状
「然者於上方石治少・大刑少別心仕ニ付而」 石田三成が大谷義継とゴニョゴニョやってるっていうのは家康も会津攻めの前に把握してたみたいだ
で、そんなもんだろうと甘く見て会津に遠征してみたら毛利宇喜多と三奉行まで絡んでて仰天したみたいだね 会津攻めが発動する前に把握してたって
そんな文書あるっけ?
>>338
そうなんよね
少なくとも東軍というか周囲から見て
三成が主導してるように見えるような
何かしらの活動をしてた訳よね 遠征前から把握してたって記録が残るわけねーよな
家康は最初は石田大谷が畿内で騒いでるぐらいの認識ではあったけど おそらくだけど毛利内のゴタゴタがそのまま出てる。輝元が大坂城を占拠するって話は毛利家内で合意が無い恵瓊ら西軍派の独断専行だった。それで東軍派(というか穏便派か?)は仰天して事態を調査したり輝元を説得すると同時に家康に万が一に備えた弁明を行ってる。それが七月十三日益田・熊谷・宍戸書状。内容は「我々が会津征伐に参加しようとして近江まで来たら大坂に向かう三成と吉継を見ました!恵瓊は輝元が呼んだって言ってるけどこれは嘘です!」ってもの。輝元が家臣の言う事にフラフラ動かされる道理が無いからこれは東軍派の苦しい言い訳。てことは三成と吉継は最初から毛利のスケープゴート役だったことになる。 だから家康は確かに西軍の決起計画を七月十二日時点に察知してる。ただしそれは毛利家によって「石田三成と大谷吉継による謀反計画」という歪曲されたものになってた。現実にはこの謀反計画は大坂の三奉行と毛利輝元によって起こされたもので三成が関わってた形跡が無い。例えば七月十二日の輝元宛増田・前田・長束書状では輝元の大坂入城を要請してるけどこれには三成も吉継も書かれてない。 その辺の動きも全部会津征伐の途中だね
家康が事前に察知してたというのは
それこそ司馬遼太郎あたりじゃないか
挙兵直前時点でご注進があったのは確かだが
それも数日明けて入ってるわけで >>338
7月16日竪田宛蜂須賀書状は結構面白くて竪田元慶は毛利家臣で輝元の懐刀的存在。何故竪田に蜂須賀が手紙を送ったのか?っていうとこれは輝元に対する諫止状。蜂須賀はかつて毛利との取次をしてたのでその縁を使ったらしい。じゃあ蜂須賀はどこで「石田・大谷が謀反」と聞いたかというと多分竪田ら毛利家臣から聞いたんじゃないかと。輝元は三奉行と内通して決起した訳だが家中で意見を統一してなかった。それで情報がダダ漏れ状態になってたと。 おそらく家康が事前に云々の元ネタは細川忠興書状でこの中で忠興は「こんな事が起こると思ってた」って書いてる。それで忠興が思ってたなら(彼より上位の)家康が思ってなかったはずが無い、で小説家が作ったんだろうね。勿論家康は知ってたろう。でもそれはよくある噂話で密告等の確証があるものじゃない。良くある噂の一つ、可能性の一つに過ぎんかったろう。 その可能性があんな大規模なものになるとは思ってなかったんだろう 秀吉が勝てなかった家康を、三成や輝元みたいな小者が何とかできると考える時点でなあ……なぜ、おとなしく時期を待つことができなかった…… 外国人が書いた看羊録ですら、景勝が徳川領を攻めて家康が畿内を離れれば必ず畿内の反家康勢力が一斉蜂起して家康は窮地に追いやられるだろうと倭人は噂しているとか書いてるからな
外国人や庶民レベルですら噂していたことを家康が全く予想してない訳はない
どのくらいの可能性として見積もっていたのかは謎 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています