石田三成の挙兵
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 とにかく理屈抜きで西軍に都合の良い変化があり
東軍には一切何の変化もなく史実通り動く
その上で西軍がまるで東軍の動きを見越したような
采配のもとに一糸乱れず動けば勝てる
あっそうwそりゃそうだろとしか そもそも関ヶ原に限らず、史実の敗北側を理屈抜きに勝たせたいんなら
『敗北側が当初考えていた勝利ルートの想定通りに物事が進みました 終わり』でいいのよね >>219
松尾山は東軍先鋒の側面を突ける位置にあるけど、
後退されるとその効果は薄れるよ。 吉川広家の記録によると
1 既に南宮山の毛利諸将は連署して家康に起請文出してるので戦闘することは出来ない
2 よしんば裏切りをするにしても山を降りたその先には東軍の監視隊二万がいる
3 しかも当時は濃霧で身動きが取れなかった
と書いてある。
毛利軍が動かなかった事は既に東軍に降伏してるからなんだが幾つか他の要因が説明されてる。 まず確かに南宮山は簡単に登り降りが出来るような山じゃない。だが仮に毛利軍が下山(方向は問わない)しようとすると東軍の監視隊が前進してくる事になる。下山してるところを襲われるのも反対方向に降りてる時に山を登られても面倒なことになるし。しかも毛利軍には東軍の総数が分からないから下手すると南宮山を包囲しながら伊勢街道を突かれる可能性も考えていたはず。
次に石田三成らの関ヶ原進出は事前から決まっていたものじゃ無かった。だから南宮山の毛利軍はそもそも関ヶ原の布陣を知らない。しかも濃霧となると尚のこと。下手に突っ込んでそこが味方でした、なんていう事になったら笑えん。それで二重に動けなかったんじゃなかろうか。 https://i.imgur.com/ELidjAH.png
>>214
秀秋が逡巡してた話しや問い鉄砲、家康が焦り黒田長政に詰め寄った逸話も全てなかったということですか
広家にだけは嘘情報を流すって書いてますよね
あと東軍は午前2時頃に西軍移動の情報を入手し
取るものも取りあえず関ヶ原に進出したので情報や作戦会議なんてできません
夜が明けて各自、目に付いた敵の前に布陣しただけで
それは極端に右翼に偏った布陣にも現れてます
あと伊勢街道は不思議なほど東軍は無警戒です
証拠は西軍が問題なく関ヶ原への移動に使ってるし
島津が撤退する時も追撃のみで何ら途中の妨害なく伊勢街道を離脱してる
また敵の物見を防ぐためにわざわざ島津の別働隊も情報遮断のため残置してます
>>217
秀元と広家を毛利として同一視し過ぎでは
秀元と広家は仲が良いとはいえないし
秀元が広家に出陣を詰め寄ったり大阪城でも主戦論を張ったという逸話は無視ですか
また最悪大垣城が落城したとしても八倍以上の東軍を関ヶ原に参加させなかっただけでも充分な働きでしょう >>221
私は14日の時点で西軍が物理的に可能なあらゆる手段(兵力、布陣、偽装、ブラフ、嘘)を講じ
それを東軍が察知出来ないなら大まかな動きは史実どおりに動くと思います
結局私が事前にしつこいくらい前置きしていた
従来説に沿った議論という前提と、わざわざ説明した西軍諸将の立ち位置まで崩さないと否定出来ないなら
机上の作戦としては問題ないということでしょうかね
あとこの板に限らないですが、歴史修正不可能派とでも言いましょうか
史実はどんな改変を加えても絶対に変化しないという人が多いいですが
私は逆で、さじ加減ひとつで歴史の天秤は大きくぶれ180度史実は変わると思っています 最後に家康を神格化する人も多いいですが、私は家康にはもはや長久手以前の切れはないと考えてます
勝ったから良かったものの、秀忠軍の遅参は東西両軍でも最大の誤謬であり
その責任の大半は秀忠ではなく家康にあるでしょう
東軍諸将にはあれほど気を配っているのに息子と直参の将には不思議なほど配慮に欠けてます
徳川軍自体にも往年の精強さはないと考えてます
精強揃いの秀忠軍ですら上田であの体たらく
関ヶ原本戦でも目立った働きはなく、逃げる少数の島津すら反撃されて取り逃がす始末
お陰で東軍諸将に大幅に加増せざるを得ない羽目になってますが
これらの理由は朝鮮の戦いに参加せず実戦から遠ざかっていたためでしょう
逆に朝鮮で鍛え抜かれた島津や毛利、長宗我部と相対してれば
15年早く、遥かに寡勢の寄せ集め浪人衆に潰乱した大阪夏の陣のようなことになるかもしれません
14日の時点でも西軍が絶望的とも思いません
大局的に見れば前田利長と徳川秀忠が参戦出来ない時点で五分と五分
作戦次第で移ろいやすい人間の心情を変え
勝利することは可能だと考えてます >>226
西軍だけは無制限に動けて
東軍だけは史実から一歩も外れられない
それがちょっとした匙加減? >>225
福原広俊がどういう立場の者かよく確認してくれ。
輝元は秀元に「福式とよく相談するように」と書状を送っている。 >>226
最初の2行でもう論外としか言いようがないね、その部分の変更はできない前提で考えている
そこを変更した時点で理屈抜きで勝たせようとしたと判定するな、私は 結果論なんだからこうすれば勝てていたなんてことは誰でも言える
IFにはなぜ史実とは違う行動をとったのか・とれたのかという説明・設定が必要なんだよ >>191と>>226の最初の2行で
>さじ加減ひとつで歴史の天秤は大きくぶれ180度史実は変わると思っています
が無理だと自分で言ってる
歴史の天秤を動かすには莫大な力が必要だと思ってるが何故か自分でそれを認められない
あるいは自分が何を主張してるのかがわかっていない 小早川秀秋が史実どおりの動きを見せるが、
実はその全てが家康を罠にはめるために西軍首脳部と示し合わせた
行動だった、って仮定かな?
一番の問題はその作戦が西軍内部の裏切り者を通じて東軍に漏れないように
する方法が無い、ってことだろうか。 異説では石田三成と家康は縁戚関係
乱の首謀者は大谷吉継 関ヶ原での一番の問題は既に毛利が降参してるっていう状況だよな。この時点で西軍は瓦解してる。後は毛利の生け贄処分セール。
吉川広家は一貫して徳川との和睦を叫んでいた訳だけど彼単体で毛利軍を止められる訳じゃ無い。秀元含め毛利軍全体として不戦の約定を守る気だった。こうなると三成は辛い。舞台に上がったのは三成の意思じゃないのに… 毛利の内通と小早川の寝返りがなければ関が原がああいう形にはなりえないし
それらを家康をおびき寄せる偽装工作でしたとするなら
それこそ徳川家以上の領地を彼らに恩賞としてくれてやるくらいの見返りがないと無理じゃね
仮にそれで勝てたとして何のために戦を起こしたのか分からなくなる事態になりそう >>222
関ヶ原は平地が殆んど無い狭隘な地形で、ここで崩れると部隊の再編制とか
出来ませんよ
こうなると、敗走する東軍先鋒は東軍本隊の直ぐ横を通って敗走になるんだよね
これが起きたとすれば、本隊の士気も低下して逃げるしかないのでは
賤ケ岳の戦いだと、佐久間隊の敗北より裏崩れ「後方の部隊が勝手に退却」が起きた
事が「前田隊」致命傷だったんですよ
味方が逃亡して自分達が取り残されるって恐怖が伝染すれば士気は簡単に崩れる
柴田の本隊は未だ数も居るし、堅固な陣地に居たはずなのですがね
柴田軍右翼が総崩れで敗走してるの見せられたら...(-_-;)
あの地形で先鋒が崩れたら本隊まで巻き込まれますよ 別にあなた方とシミュレーションゲームをしたいわけじゃあないんですけどね
こうなることが簡単に予測出来たから
163や166や191で前提や状況をしつこく何度も前置きしたんだけど案の定、完全無視ですか
>>228
東軍が動きを変更するには西軍の新たな情報を入手する必要がありますが
どうやって大垣城守備隊の兵力をリアルタイムで知ったんでしょうか?
どうやって南宮山の部隊が伊勢街道に下りるのをリアルタイムで知ったんでしょうか?
情報を短時間で処理し決断に変える時間的余裕はあるんですか?
それを明示したなら別に変更してもかまいませんが
>>229
福原広俊?吉川広家と同じで使いっ走りの黒田や藤堂としか接触せず
家康本人には一度も直接交渉しなかったため
約束を反故にされ毛利を滅亡の危機に追いやった無能ですよね
>>233
私は人間の小さな決断次第で歴史は大きく変わると書いたんで
そこに莫大な力が必要なんてどこにも書いてませんが?
>>237
秀包が何人もの武将や重臣を失ってでも大津城を落としたことや
秀元が出撃を主張して広家と対立したことや大阪城で徹底抗戦を主張したことには全く触れませんね
そんなに意思統一が出来てたのなら戦後、秀元が広家を恨んだ訳は?
結局、勝者の行動は全て合理的で事前の計算どおりであり
勝者は常に勝つべくして勝ち、敗者は常に負けるべくして負けるという考えなんでしょうね
まあその方が物事考えなくていいから楽なんでしょう まあ実際合理的な行動をした方が勝って
負けた方はそうではなかった訳だがな
それなのに西軍だけは謎の要因で
勝てると言ってるのは何が言いたいんだろ やっぱり菅沼例え話だったわ
都合の悪い質問はスルーするから シュミレーションゲームがしたいわけじゃないと言いながら自分がやってるのは渾身のギャグかな? >>238
小早川への見返りとしてはすでに「関白」を提示しているわけで、
それ以上は無理でしょ?
毛利・吉川は負け、と判断してるわけで、恩賞とかよりも、
勝てる、と判断できる材料が必要 >>242
人間が常に合理的理由で動くと思ってるのがなんも分かってないなと
ギャンブルと言う物を理解してないから、同じ話のループになるんだと思うね
ギャンブルを理解するのに重要なのは大抵の場合答えは二つあり、そのどちらが実際に来るのかは
実際には確率でしか分からないって事ですよ
例えば、投機の世界では皆が恐怖に怯えると「リスクオフ」安全資産の値段が上昇
するという法則が有ります
金とかの値段が買われて上昇するって事ですね、でもこの法則は実は絶対では無く
逆に金が暴落する事も「コロナ恐慌の初期に実際に起きてる」あります
この現象を理解出来ない人が暴れてるんじゃないのかな? 通常、世界的な危機が起きればリスク資産は値下がりし、これで損した投資家は
これ以上の損失の拡大を防ぐ為に手仕舞いします
そして手仕舞いした資金で安全資産を買い込む為に、金価格が上昇するわけです
でもね、本当に危機が深刻になると正反対の行動する人も出て来るわけ
非常用に貯めてた金を処分して当座の資金を何とか確保しようとする人もね
だから、この動きが大規模に起きれば逆に金価格が下がる訳ですよ
同じ、世界的に恐怖が蔓延するという同じ現象に対して、正反対の結果が起きてる訳です
ギャンブルって、実際はこういうものなんだよ >>246
合理的に動くのと合理的理由で動くの
全く違うことなんだがそれすら区別してないの? なんつーか、「関ヶ原本戦で小早川秀秋が西軍側で参戦したらIF」でしかないわ。
そしてなぜ小早川秀秋が西軍側で参戦するかの理由はない。
伏見攻略後自分勝手に近江うろついてた小早川秀秋が
急に西軍側でやる気出しだす理由がね。
松尾山占拠したら9月15日に西軍に松尾山包囲されたんで、山降りて布陣し直し西軍側で参戦しました、ならまだわかる。
なにもなしで都合よく西軍側で参戦など、
だれも納得しない、そんなのはおかしいと言われるだけ。
そして何度もいっているが、和睦がなった以上、
もはや毛利は戦局有利にならない限り動かない。
無能がどうとか関係なくて、立場。
本多忠勝、井伊直政と吉川広家、福原広俊、
同格同士で交渉してる。
家康と交渉?なら輝元連れてこいって話。 >>249
実は連れてきていたとか
小早川 裏切りは許さない
と輝元に言われてしまう
広家も渋々引き下がる 東軍は情報戦で西軍を圧倒してる。西軍の布陣や作戦を把握してる事がわかってる。なんでこんな事になってるかというと西軍内の徳川シンパによる通報も確かにあるんだが…
髙橋陽介は石田三成が漏らしたとしてる。三成は仲の良かった真田一族に書状を送ってるけどこの中に信幸の名前がある。どうも三成、真田一族全員が西軍に着くと思ってたらしい。三成は筆マメな男でこれが裏目に出て西軍の初期戦略が筒抜けになったんじゃないかとか言われとったわ。 三成さんの逸話
三成「信雄さん!西軍に味方してくれたら軍資金に金1000枚と尾張の国をあげます!」
信雄「マジで!?わかった味方するからまずは金1000枚ちょうだい」
三成「はいよ!」→銀1000枚
信雄(えぇ…こんなんじゃ尾張も貰えるかわからねぇ…)
秀雄「父上!内府に逆らうとか馬鹿じゃないの!?」
信雄「お前もそう思う?俺もそう思うわ」
三成さんがケチだったので味方が一人居なくなったお話 三成って確か大坂の増田長盛に
「度々伝えていて申し訳ないんですが、資金と兵糧を送ってください。現在私が立て替えてますが限界です。今が勝負どころですからやってるのです。なんとか早くお願いします」
って書状送ってなかった?おそらく恩賞の提示は大坂が行っていて三成はそれを伝えてるだけなんだと思われる。つまり大坂が前払いを渋って三成が自腹を切ってたんじゃなかろうか。すごい悲惨な話だけど。 兵糧は刈田すればいくらでもあるって言ってなかったっけ?その書状。 苅田すれば幾らでもあるのに(長束らが)やろうとしない、って書状もあった気がする。 関ヶ原の合戦の全体像は後世の創作という説がある
実際は大谷吉継軍のみが戦って玉砕したようだ 毛利が降参していて秀秋は14日前に東軍に味方してるって前提で見れば俗説と全く違う状況が見えてくるからね。
石田三成らは松尾山の秀秋を攻撃しにいったわけだけど前提として南宮山が東軍を押さえてくれる(下山しなくても裏を掻かれるかもというプレッシャーくらいは期待できた)
ところが東軍は南宮山をスルーして関ヶ原に吶喊してきた。この時点で勝負有り。悲惨なのは松尾山に近かった部隊で前門の小早川後門の東軍でサンドイッチされてしまった。そりゃ壊滅するじゃろ。 >>248
合理的理由そのものが不確定だと言ってるんですが?
確かに通常はリスクが高まれば、人は安全資産に資金を移すから金は値上がりする
でも、本当にリスクが耐えられない程高まれば、今度は非常用安全資産を換金する人が出て
きて、こちらの方が優勢になる事もある訳
確率で行くと安全資産の値上がりの方が普通高いけど、絶対じゃないのよな
実際にギャンブルした事の無い人は、この別の要素も無視できないのが理解出来ない
思考の前提が、必ず優勢な方に人は付きたいものってなってるでしょ
勝ち組に味方しても、自分の破滅が回避出来るかは未確定だからね 卜斎記を基に当時家康は従来言われてたところには居なかったって書いてある本あったな 調べたら古今消息集の九月十二日三成書状だった
「度々申し入れた如く、金銀米銭を使うのはこのときである。自分などは分相応にはや手許に持っているだけ出してしまった。人をも召し抱えたので、手元の逼迫は御推量ありたい。この際が一番大事な時期だと思うので、あなたもその御心得がありたい」
他には
「当地で苅田を行えば、兵粮はいくらでもあるのに、敵を恐れて苅田にさえ人を出さず、兵粮は近江から運ぶことにしているようだが、近頃は味方中が畏縮してしまっている。」
こんな内容。 兎角言われる岐阜防衛失敗だけど状況を見ると如何ともし難いものを感じる。特に竹ヶ鼻が落ちた事が痛かったんじゃないかな。
竹ヶ鼻城は確かに小さな城だがここからは岐阜城が攻撃出来る上、地図上だと大垣城すら射程圏内に収めてる。だから織田秀信はここに三成からの増援(毛利広盛ら)を入れてまで防備を固めてた。ところがその援軍が福島正則と内通して裏切り、竹ヶ鼻城主杉浦重勝は討死し城は東軍が占拠する。こうなると軽々に動けない。兵力の分配が相当難しい局面だったはず。 >>249
毛利という言葉を都合の良いように使ってるけど人名ではっきり指定してもらえませんかね?
安国寺恵瓊も毛利秀元も毛利秀包だって毛利なんだけど 毛利は南宮山に布陣していなかった
山はあまりにも狭く見張り程度しかおけなかった
南宮山付近に布陣していた毛利
深夜目前を通る東軍の数が多すぎて手が出せず
このままでは取り残されると旗印をその場に残し
南宮山勢は全軍伊勢街道を進み十九女池付近に布陣した
最後まで移動を嫌がった吉川広家は遅れてしまい少し離れた伊勢街道に布陣した
合戦なかば三成は毛利勢へ突撃せよとの狼煙を合図に
秀元 安国寺 長束 長宗我部は
東軍の横っ面を襲うのである >>265
竹ヶ鼻は地点として見るなら大垣へも岐阜へも行けるが、
大垣・岐阜間を遮断するには至らない地点だと思う。
大垣・岐阜間を遮断するなら墨俣辺りの長良川渡河点付近を押さえておくべきだと思う。
実際黒田・藤堂・田中隊は岐阜城攻撃時その方面に展開し
大垣城からの後詰を阻止している。
それ以前に市橋・徳永らが大垣南方の西軍方の城落としてるから
既に大垣自体も危険な状況に陥りつつあり、大垣・岐阜・犬山を堅持して
後詰が来るまで耐えるのが最善の状況。
貴重な籠城戦力の損失を招いた木曾川渡河迎撃失敗が致命打と見る。
>>266
9月15日の関ヶ原で行われた関ヶ原本戦の話でしょ?限定する必要もないが、
当該地域にいる毛利は南宮山に布陣する毛利でしょ。
他の地域を含めても毛利は毛利全て。
もっとも和睦がなったのが9月14日なら輝元を経由し
その情報が伝わるまでのタイムラグは生じるだろうけど。
それとこのifの場合、小早川秀秋が西軍方として信頼できるなら、
大垣の西軍主力はなにしに関ヶ原に行ったのかという疑問が生じる。
近年だと松尾山の小早川秀秋を攻撃しに行った、だし、
島津(だっけ?)の言う「二重引き」なら大垣は放棄して段階的な佐和山への防衛線後退だろうし、
もし二重引きなら当然ながらそのことは南宮山部隊にも連絡は行ってて
南宮山部隊が後衛的部隊となるが。 二重引きするように見えたと言ってるのは吉川広家だな
9月17日に書いたとされる広家自筆書状案に記載されてる 垂井に布陣されて大垣は死に石同然だからな…南宮山を起点とした防御線を構築してたのに突然佐和山に向かって走られたら動揺が走るさね。吉川広家はこれで誰もが東軍に降伏して全く戦にならんかったとか言ってるらしいけど、となると石田三成らは自分達の行動理由を仲間に通達してなかった事になる。良いのかな…秀秋が東軍に寝返って松尾山を取ったと知られたら西軍の士気が無くなると思ったのか。 三成
何故小早川は動かぬ、南宮山も
大筒を松尾山に向け放て
ドカーンドカーン
小早川秀明
なんじゃこれは
殿、三成殿が我が隊に大筒を打ち掛けてきました
なんじゃと
ドカーンドカーン
ドカーンドカーン
わかったわかった
出陣じゃ敵は藤堂、京極
いざぁ >>272
尾根迂回しないと東軍側に出れないから数時間掛かるぞ >>273
東軍接近で半分移動
通過後残りが移動
最後にいやいや広家が移動
間に合うよ >>273
南宮山組がすぐ近くにいるし
大谷ともやりあって京極はかなり焦っている
そこに小早川が流れ込 毛利秀元って小早川秀秋と同じく西軍の作戦に従ってなかったんだとか。輝元から命令が来て従ったけど奉行連中の作戦には従いたくなかったんじゃないか。しかもそれで毛利軍は損害被ってる訳でもう切るかこいつらって思ってても不思議じゃない。 >>276
そもそも西軍総大将の輝元の命令に従ってるのに、
西軍の作戦に従っていない、という言葉が出てくる時点で
西軍はどうしようもない。 分かりにくいけど西軍で指揮採ってるのは毛利輝元じゃなかったらしい。一次史料上指揮してるのは増田長盛・長束正家・前田玄以・石田三成・大谷吉継・安国寺恵瓊。彼らが戦略を決めて諸将に相談通告をしていた。ただしこれ自体はおかしくない。数万規模の戦で総大将が一から十まで決めていたら臨機応変な動きが出来ない。家康も大戦略を指示したら現場の事は現地諸将に任せてる。井伊直政ら軍監を派遣するのも忘れてないけど。 >>277
だからさ
輝元はお忍びで関ヶ原にきていたんだよ
黒田の内応は世鬼に暴かれ
このまま放置だと負けてしまうからな
小早川 広家は渋々従うのである ただ何が問題だったかと言えばその西軍指揮官の戦略に疑義を持つ者達がいたってところ。それが毛利秀元・吉川広家。彼らは元々奉行の作戦能力を疑問視していた。それで秀元は作戦を拒否。困った奉行は主人の輝元を動かして命令に従わせた訳なんだが、その裏で完全に軍令から離れてる小早川秀秋の存在が忘れられつつあった。 吉川小早川が黒田に引き込まれてるのがどうしようもなさ過ぎてなぁ
広家なんかは三成恵瓊と対立してて黒田親子と昵懇だからどうしたって東軍に転ぶ 広家は奉行衆の指揮能力を疑問視してた。広家が輝元に送ったっていう書状には「家康はあの太閤に(小牧長久手で)勝った程の戦上手でその上その時よりも勢力が増してます。その上多数の名将が家康に従っている。対して奉行どもの無能っぷりときたら朝鮮の事を思い出せばわかる筈です。どうして家康に勝てるでしょうか」と書いてるそうな。秀元も朝鮮外征組だし同じ様な思いだったんじゃないか。それで戦略をミスした挙句家康の動きに踊らされてる姿を見て切り捨てる事にしたと。安濃津城攻めで大損害を被った事も一因だろうけど。 >>276
>>280
それについては微妙にニュアンスが違う。史料スレの吉川廣家自筆覺書案より一部抜粋。
一 伏見之城へ人數差寄、責口被申付候刻、勢州へ可相仂之旨、奉行衆相談被相究候、惣別濃州北國兩口之仕置、
堅被申付候て社尤候、勢州さしむかひたる儀にもあらす候間、出勢無詮候、雖然、長太、安國寺被罷向、
あのの津近邊掠夲よ申所、兩人被陣取候、如何候哉、夜中我等陣所關之地藏へ被引取候、其より猶以敵味方覺相替候、
其後又津之城可指寄之由被相催候、左樣へは、大御所樣被成御打上候は、大分之一戰可有之前かとに、
不數城乘崩候ても無詮候、萬一手負死人罷成候はは、一方御をくれに罷成儀に候處、首尾不合行被仕、城被乘崩候へ共、
手負死人候て人數半分に罷成、味方之覺莫大に罷替候事、
>惣別濃州北國兩口之仕置、堅被申付候て社尤候、
勢州さしむかひたる儀にもあらす候間、出勢無詮候、
ここね、瀬田で陣地構築後、伊勢に行けと言われたが伊勢なんぞに行ってもしゃあない、
北陸か美濃に行くべきだと言ったが伊勢行け伊勢行けうるさいんで、
(秀元は)兵が足りないからとしばらくごねた後仕方なく伊勢に行った。
この時点では別にやる気がないわけではなく、長束・安国寺が伊勢行けとかアホなこと言い出したんで
ごねてた。この覚書が正しいなら、秀元らの瀬田の毛利勢は北陸か美濃ならすぐに向かったと言える。 伊勢は美濃からも行けるので、桑名さえ保持していれば問題ない。
伊勢は長束・安国寺・長曾我部・明石掃部だけでも十分だと思う。
瀬田の毛利勢は大垣辺りにでも詰めておけば史実通り岐阜が攻められても
そのまま後詰決戦、あるいは渡河迎撃が成功した可能性がそれなりにあると思う。 >>282
横からですがそれっていつ時点の書状なんですか? 広家・秀元は美濃方面に兵を進めるべきと主張したけど聞き入れられなかった(内通を疑われていたとも)そしたら岐阜城は落ちるわ大垣城が包囲されるわでそりゃもうこいつらやっぱダメだね話にならないねってことに。 東軍が来る前に清須城を奪うのが先
よ
秀元、広家、小早川秀明、立花宗茂らは岐阜城に進軍した >>285
内容からは、>>283と同じ吉川広家自筆覚書案と思われる。 >>260
結果的に勝利に向かって理に適った行動をした方が勝つ
合理的に行動しようとしてたかどうかなんて関係ない
そこを問題にしてる時点でずれてる 当初岐阜に進むよう主張したのは吉川広家・毛利秀元だけど多分石田三成も主張したと思うのよね。佐和山城主で大垣預かってる身だし。
そういや有名な「佐和山城を探しても何も無かった」って逸話だけど信雄への逸話や九月十二日書状からするともしかして恩賞の前払いで破産してたんじゃ… 奉公のための金は自弁が基本だから戦前は蓄えがあったけど開戦して使い切った可能性はある だとするとマジで何の得もしなかった三成さん…九月十二日までは三成は自信に溢れた書状書いてるけどこの十二日書状は一転かなり弱気なんだとか。この時既に南宮山の毛利は家康との和睦に奔走、その他の西軍諸将も混乱とまぁ最悪の状況だから弱気になってもおかしくない… そりゃ投資失敗で死んでんだから
手元に現金あったらそれこそ異常者 徳川家康、関ヶ原に居なかった説もあるんだよね。卜斎記の記述が基なんだがどうも家康は南宮山の東に居たんだとか。
そこを取られちゃ西軍に勝ち目なんか無いぜ… 西軍の勝ち筋って岐阜落城前まで戻らないと無い気がする。 朝鮮出兵の時と同じ気分でやってたのが敗因でしょ
秀吉の名代として命令一下各大名が働くのが三成の前提
関ヶ原に砦築いて、そこで待ち構えれば成功すると信じてただけ
今まではそれで上手くいってたからね
成功体験にこだわることの危険性よ 吉川広家は「家康と奉行衆じゃ格が違い過ぎる」と輝元を諌めてたわけだが輝元自身はどんな戦略図を描いていたんだろうか。 増田長盛とかも何を考えてたのかよくわからん
東軍が勝っても知らぬ存ぜぬで逃げ切れるとでも思ってたのか? >>297
野戦ではだいたい勝ってるよ
毛利や小早川がよく戦ったからね >>299
両建てしてたんだろう、西軍が勝ったら西軍首脳で東軍が勝ちそうなら西軍への補給を潰して「私も東軍でした」で逃げ切ろうとした。
まぁ大坂城を毛利に占拠された時点で東軍には与せない訳でタイミング次第では生き残れた気もするけど… >>299
奉行の三成の担当は野戦のような戦術ではなくて戦略だろう
秀吉が耄碌してるからどうにもならないけど成功とは言い難い 三成はそも朝鮮出兵に反対していて現地みてその思いは強くなってるしねぇ… この場合の成功体験て戦略的戦術的それではなく
単純に政権として号令したら無理なことも
諸大名の大半が従うって言うものでしょ
その意味だと秀吉の関白就任以降十数年
ずっとそう言う状態だったわけでそのせいで
秀吉死後の状況を読み間違えたのはあるだろね >>305
家康自身もそう考えてた節があるのが皮肉だな
諸侯が自分の指示に従っているのはあくまで豊臣政権の第一人者であるからで
その立場がなくなれば諸侯が自分に従う保証などありはしないと
実際、西軍挙兵した後にしばらく関東にとどまってた理由の一つは諸侯が
反西軍としてちゃんと戦ってくれるかどうかわからなかったからだろうし と思ってたらえ?実は豊臣じゃなくてもいいの?からの征夷大将軍で政権確立っていう。秀吉からすりゃ寝た子を起こすなよ…って話だったのかも >>301
両建ては、結局双方から疑われて滅ぶ事が多いですよね
カエサルは、有名なカエサルの寛容で両建てしてた元老院議員大量に許してますが
がしかし、彼らはカエサル暗殺の後、アウグストゥスが作った処罰者名簿に載り消されてます
何をしたかじゃ無くて、反対派閥だから問答無用で消すと言う酷い目に
酷いのはカエサル傘下で軍団長まで務めてたキケロの弟まで消されてる事
当人に疑われる要素は無いので、元老院派のキケロの弟で消されたという事でして
太閤が寛大だったんで、感覚ずれてたんでしょうね >>299
秀次の義兄(兼家康の娘婿)の池田輝政に(秀次事件で)徹底的に
憎まれていたことを軽視したのだろう。
自分は池田輝政に憎まれていて負けたら滅亡以外残っていないと最初から
判り、水口(岡山)城で池田輝政に徹底抗戦し玉砕した長束正家とは対照的。
なお、水口城は落城時に徹底的に屠城され、生きるものはなに一つ残ら
なかった。それは、長束の正室の本多忠勝の妹ですら例外ではなかった。 池田とかいうラッキーマン
ご都合主義過ぎて信じてもらえないぐらいの幸運っぷり 岐阜城攻略に打って付けだったな。
そして竹ヶ鼻に入れた増援は福島正則と旧知とかいうさぁ… 関ヶ原時点の家康って
日本の軍事力の何%くらいだったのかね? 太閤検地で1850万石ってハナシだし石高と軍事力を乱暴に当て嵌めれば徳川250万石で14%くらいじゃないかな?もっと精密に計算すれば更に増えるのかもしれんけど… >>310
主君豊臣秀次への復讐に生きるという点では物凄い一本筋。
ただし、時には敵に機嫌を取ったり、敵を思いやるふりして分裂
させたり、プライドなどどこ吹く風というぐらい手段を選ばない。
そして、それができる数少ない日本人で、ある意味最も怖い人物。 そもそも家康と三成では人物が違いすぎる
名目上は輝元を立てた、といっても、輝元や秀家でも家康とは格が違いすぎる
なんで挙兵して勝てるなんて思ったんだ…… >>315
豊臣政権を悪い意味で絶対視していたんでしょう
政権からの命令であれば諸大名は皆絶対に言うことを聞くし、逆らうものなどいないと
秀吉生前はそれが当たり前だったのだし、死んでから二年ほどしかたってないのだからな
だから内府違いの条々を諸大名が受け入れさえすれば家康は政治的に孤立して詰み、
後はかつての北条のように江戸征伐やっておしまい、この程度の認識だったと思われる
問題点は、豊臣政権は秀吉政権でしかないという指摘がある事(つまり秀吉死後は…)
でも毛利や上杉はともかく、奉行や宇喜多がそれを認めるはずがない
そもそもこの点は家康でさえ勘違いしていた節があるので、どうしようもないだろう >>315
輝元は家康が信長に従属してた頃から中国の覇者なんだがな
まあ秀吉からも隆景のオマケ程度にしか見られてなかったみたいだけど あながち勘違いとも言い切れないと思うよ
家康自身別に小説みたく野心剥き出しで
政権無視した訳じゃない
ちゃんと政権内での手続き踏んで動いてる
(内心の話ではなく政治的行動としてな)
その家康が政権として出征した隙に
主君の城に兵を入れて号令する
という西軍の行動にはそれがあるか
西軍蜂起で家康は政権トップを降りてない
西軍はその地位を追ったと主張したわけだが
東軍諸将がそれを認めて政権より家康を取ったか
認めず引き続き政権トップとして家康を支持したのか
後者の見方は成立し得るし
それが建前論として成立することは
政治的にかなり大事だよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています