石田三成の挙兵
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 それだと関ヶ原で西軍についた将が本来の目的どおり上杉討伐に加わってもっと三成ヤバいことになるのでは
上杉討伐軍挙兵、三成街道封鎖、大名人質確保で西国大名通れなくなり西軍に参加だったのが徳川に合流してしまう
だからミッチーも焦って挙兵したのでは 2011年フィギュア世界選手権モスクワの開会式で人工地震を示唆か?
- フジテレビがカットした映像
https://youtu.be/961-akJUeh8?t=29
家康の狙いは五大老のうち自分を除く4大老を支配下に置くことだよね
前田利長が一人目、上杉景勝が二人目、ここで三成が挙兵しなければ景勝も家康の軍門に降る
次は宇喜多で、最期に毛利。結局は家康の天下になる
あのタイミングで三成が挙兵したのは悪くない決断
パールハーバーの日本軍よりよほどまともだ 秀吉がちゃんとお膳立てした家康に政務回してもらう政権だと自分たちがこのままだと政権牛耳れないとわかって上杉巻き添えにした癇癪からの挙兵
上杉も迷惑だったろうな
ろくに連絡も取れない状態で勝手に巻き込まれたんだから
どこでも史料も研究も出さないで妄言垂れ流してはすぐにまた例え話荒らしだとバレてまたトンズラこくの、楽しいか? 前田家は慶長四年三月に利家が家康に後見を頼んだ事で既に徳川の旗下に属してる。上杉はそれまでの悪行の報いを受ける羽目になってしまった。 上杉討伐に参加予定だった関ケ原の西軍武将って
大谷吉継以外誰がいる? 基本的に兵連れて上京してた連中はみんな会津征伐だと聞いて来てる
そしたら大坂で西軍が急に挙兵してなし崩しに西軍に組み込まれたのばっかよ 宇喜多、毛利、小西、安国寺以外三成が挙兵して徳川と戦になるなんて誰も思ってもいないだろ
>>1は勘違いしてないか
三成が挙兵してから三成のために軍勢率いて味方したわけじゃないぞ >>1
>石田三成が上杉討伐で挙兵をしない
上杉征伐が実行され、高確率で上杉が敗北する。
>合戦勃発後に挙兵していたらどうなっていたか
仮に上杉征伐中に石田が挙兵したとして、畿内周辺で石田に味方するかもしれないのは、
小西、宇喜多、島津、奉行衆くらいか、それも畿内周辺にいれば。
安国寺恵瓊、吉川広家は上杉征伐に従軍してるはず。
こんな戦力で挙兵してなにやるの?
伏見城すら落とせんわ。
さすがに無謀すぎて挙兵などしないと思われる。
こんな内容はいちいちスレ立てずに質問スレで聞け。
20レスもあれば結論出るテーマ。 と思ったけど、よく考えたらこの上杉征伐って小田原北条征伐以上の兵力動員してるよね、
九州、四国の大名まで従軍してるわけで。
奉行衆は東海道の行軍の兵粮手配はしてるけど、そこから先(江戸以降会津方面)の
兵站どうしてたのかよくわからん。
これもし上杉が冬まで粘るという善戦をした場合、征伐軍の兵站崩壊するんじゃないだろうか?
その状況ゆえに上杉に有利な条件での和睦、という結果もあるような気がしてきた。
まぁすべては、上杉が冬まで粘れば、という前提条件だけど。 上杉領での刈田でしのぐというのも考えたが兵が多すぎて足りないような気がする。 防衛用の陣立てすらしてなかった(遺構がない)から、来た瞬間土下座も普通にあり得るぞ
そもそも景勝が出向けなかった理由として家臣が言うこと聞かなくて領国空けたらやばいかもだから、家臣がこんな大軍勢の相手無理つった時点でしがらみはなくなる 家康が率いる軍勢以外にも相手にしないといけない連中がいるから
佐竹でも味方につけない限り守り切れないんじゃないの 防御用の陣立て無いとかウッソだろ…そんなの攻められた死亡確定やんけ 整備どころか軍事増強はしてたがな
挙げ句違反の越後に家臣置いてきてるし
言っとくけど上杉、ぐうの反論も出来ないレベルにドアウトな事してっからね 上杉の勝ち筋はとにかく冬まで粘って少しでも有利な条件で和睦する、
これくらいしかないでしょ?
野戦で云々は、小牧・長久手時の家康以上の立ち回りをしてどうにかなるかも?だが、
上杉にはそんなことできなさそうに思える。 実際に兵がぶつかる前に家臣ちゃんと説得してひたすら詫びるって手はあるぞ
家臣も日本中の武家が敵になりましたじゃこれまでの国衆気質やってられずにちゃんと景勝の指示従うでしょ 上杉に嫌がらせされた堀秀治が上杉征伐の一因だし土下座しても潰されるって恐怖があったのかもしれん。自業自得だが。 堀が急速に検地を進めたのが上杉側が一揆を晒しやすくした一因ではあったみたいだけどね 備蓄米持ってかれたなら強引なことするしかないから結局堀としては上杉を憎むことになるのでは 隣が隙さらしてるからやったるでは完全に惣無事にツバ吐いてるのだわ 順序が逆
攻められることになって隣で隙晒していたから狙われた 家臣置いていってるから故意犯よ、どっちかといえば
そもやるなと言われた城の改築なり軍道の整備もしてるしね 入封して新城建築や街道整備がいけないってのは何で決まったんだろう
福島正則が減封になったのは武家諸法度だろうが 秀吉死亡時に上洛したんだからそこで報告でもしとけば問題なかったのか 当たり前だが、道や城ってのは軍事上非常に重要なものだよ、それを中央に無届けのまま作るってのは軍事行動起こす気なの?ってレベルではある
まあ一番の問題は加増で家臣全員連れていきなさいって秀吉から朱印状出てるの無視して越後に家臣置いていった挙げ句それら諸問題あって更に申し開きの上洛もしないだから、中央統制にツバ吐いてるようなもんだね そうだね、秀吉死後の中央統制に唾吐きたくなったのかもね
移封は公儀の監督下で行われているんだから責任は公儀が負うべきだと思うが え?移封された大名が命令に背いて
徴税したのや旧臣残してるのの責任を
中央が取るの?
戦争準備してるのも受け入れて負けろと? 家臣置いてったのは秀吉没前だし、あえて言うなら秀吉含めて中央政権なんてクソ喰らえ、勝手にやらせろのがまだあり得るかな
少なくとも当時は、移封で起きたゴタゴタなどはその地が任された大名が責任を負うものだからそれを今の個人的な見解で述べても詮無いよ むしろ移封を命じた責任を取るために
ちゃんと討伐しようとしたのでは? 監督下っていうのは残していく家臣や年貢の半分の件のことね、一応 豊臣から派遣された取次が本来見てないとおかしいんだけど、はてさてどうして確認や報告されてないのかなというのはたしかにそう 取次ってそう言うもんじゃないぞ
目付けが派遣されたかどうかも知らんけども 年貢の関係は豊臣政権だと確認するよ、元来の取次というのから離れて取次兼目付けって感じかもしらんが 上杉景勝と堀秀治の悶着って
慶長三年・景勝会津移封決定。豊臣公儀より上杉取次・石田三成が派遣されて移封作業が始まる。旧領越後には堀秀治が入る。
しかし上杉家臣直江兼続が法に背き年貢米を持っていってしまう。秀治は返還を求めるも上杉は拒否。秀治は秀吉に訴えようとするものの三成に妨害され失敗する。秀治、上杉の旧領奪還の野心を確信。三成に負けない後ろ盾を求めて徳川家康に接近する。
慶長四年末までに景勝は城砦・街道の整備、兵器の貯蓄等の動きを見せる。上杉の動向を注視していた秀治はこれを豊臣公儀つまり家康に報告、景勝に叛意有りと征討を要請。
周辺国(伊達、最上)からも同様の報告がなされまた景勝は家康への弁明を拒否して叛意を肯定。征討が決定する。
こうした流れだった気がする。つまり割と三成のせいなのでは… 三成上杉の取次だしな、本来彼が秀吉に朱印状の履行が為されてない旨伝えないと行けない立場 転封に伴い年貢米も持っていって揉めた件は黒田・細川でもある。
まだ慣例として成立していないんじゃないのか、この時期は。 ぶっちゃけ結論10で言われた通りだしなぁ
しかも西軍、挙兵後ほぼ全く東国の情報掴めず信之の去就も知らないまま真田介して上杉と連絡取り合おうとする状態だし 取次は主と利益相反にさえならなければ基本的に相手国の利益を優先して良いらしい
らしいんだが上杉と堀が仲悪くなったらそれは公儀に悪影響与えるのは必然なんだよなぁ…で、問題は三成さんこいつ普通に依怙贔屓するタイプの奉行だったらしくそうした逸話が多い(島津とか佐竹とかの検地の逸話)。人間らしいっちゃそうなんだが奉行がそんなことをするとなぁ 豊臣政権下の取次の、相手国うまいこといかせたら評価上がる制度っぽいのと監視との噛み合いが悪すぎるのはそれはそう >>38
取次が確認してるの??
他大名の家臣が領内に入って検断してたってこと?? 検地とかでも石田三成とかが出張ってきてるから多分そう 慶長3年の秀吉の死の前後だけど
三成越後に行ってたのか 確か慶長三年の三成は会津やら九州やらでてんてこ舞いだったはず。それで七月末くらいに上方に戻ってきて秀吉臨終まで大坂だったんじゃなかろうか。 多分蒲生の宇都宮移封から関わっていると思われる
蒲生の旧臣雇用しているもで 仮に上杉が軍事行動起こすとなると一番ダメージ受けるのは周辺国だからね。だから実は徳川よりも堀や伊達、最上といった連中の方が危機感あったはず。
その上杉と仲良し子よしが三成な訳で黙ってはいられなかったろうなぁ。ここで上杉を取られると奉行派の勢力は激減するし。 そう考えると三成が西軍に居なかったら歴史は大分変わってたかもしれん。三成憎しの連中がどっち付くかわからんし。 三成が憎いから東軍についたってだけが要因じゃないっしょ
向こうの大将が信用出来ないと同じくらいこっちの大将はまあ信用できるってのも大事
東国と取次してて一応伝手があると見込まれた石田を抜いたとして、東国に全く伝手のない連中が東国の連中切り崩せるとも考えられないでしょ >>1
合戦勃発後にやるのが普通
それをしてない時点で三成の戦略・戦術眼の無さが
よく表れている
仮にそれをしても関東まで進撃するのは無理
だって伏見城で2週間も無駄にしてるんだし
史実でも8月中旬の時点でまだ尾張にすら到達してない
これではどうしようもない
上杉は最上程度に大苦戦する程度の軍隊
徳川が半数も返しただけで西軍は進めなくなる 敵の敵は味方
まっこと憎き三成なり・・・
家康はそこを最大限利用して勝てた
三成は良いように利用されて負けて捕縛されて斬首で終わった 勝手に政務の足引っ張りに来て案の定信用失った三成の自爆であって、利用とかどうとかのもんでもねーよ 仮に首尾良く上杉と挟撃の形になったとしても、毛利一族の二心は変わらないだろうからなぁ
遠からず九州は東軍勢が席巻して、その後毛利輝元とどうなるのか
長期戦でも結果的には西側から崩れていくことになりそう 私的に気に入らないやつを引きずり降ろそうwith巻き込まれた連中だから、そもそも足並み揃わないのは当然ではある
まあ上杉との連絡がそもそもほぼできてないからまあ画餅 上杉と交信するってなると西軍領だけで出来たっけ…?東軍領を通るとなるとかなり危ない気がする 出来ない、できてないから慌てて真田介して連絡取ろうとしてる 最近は上杉と石田が通じ合ってないとか言われているけど、もしそれが事実なら三成と上杉は只のバカです、ってことになるような 家康が会津征伐で空いた機会に慌てて動いたんでしょ、泥縄式に
上杉は上杉の都合で揉めただけだし、それがバカとは思わん
ただ、上杉と西軍が挙兵前から通じてたとわかる史料なんてないしむしろ挙兵してから慌てて真田に連絡の仲介を頼んでるところから、連絡は取り合えてない この時の五大老の石高を見ると徳川は前田を後見して計三百万石以上という圧倒的勢力を誇ってる。で、上杉討伐で上杉に勝ち目なんて万が一も無い。やられたら死ぬか降伏するかしかない。そうなると上杉領は大幅に削られるか下手すりゃ無くなる訳でそれは徳川に流れるのも明らか。そうなりゃ奉行派に復興の目は無くなる。感情もあったのかも知らんけど政治的状況が西軍を動かしたんだろう。
上杉の取次は石田三成だったから動かなければ景勝が三成に泣きついた、ってのは有りそうな話だけど連絡取れんとなると戦略的にかなり厳しかったろう。 というか上杉との共謀によるというのが
小説的想像力の産物
>>65
上杉は家中統制に苦労して弱腰の対応と
取られるような政治的態度を取れずにいて
三成はかなり早い段階から対内府の
クーデターを画策するも失敗して隠居
追い詰められて起死回生を狙った
毛利は古くからの領土的野心があるとこに
政権掌握を餌にされて先走った 上杉征伐ならばまずこの書状だろう、史料スレの>>42より引用。
六月十日付安田能元・甘槽景継・岩井信能・大石元網・本庄繁長宛上杉景勝書状
今度上洛不成樣子、第一家中無力、第二分領仕置之ため、秋中迄延引之趣、奉行衆へ令返答之處、重而逆心之讒言を以、是非上洛無之者、
向當郡可被及行之旨候、就之存分雖有之、元來無逆心筋目之条、 抛萬事可令上洛覺悟落着、倂読人糺明之一ケ條申入候處、
無是非只不相替上洛與計有之而、剩日限を以催促如此被押詰、上洛之儀者如何としても不成候、數通之起請文反古になり、
堅約も、好も、不入讒人之糺明も無之軆、時刻到來無二思詰候条、譜代・旧功牢人不依上下、右之趣、無拠分別仕候者は、
供之用意可申付侯、自然、無分別を以、理不尽之滅亡被述懐を存候者は、何者成共無相違可出暇候、然者、上方勢下候日限聞屆次第、
半途へ可打出候、諸口之儀に候条、領分端々被押破、 地下等心替可仕義必然候、其時節、或在所を無心元存知、
或妻子を難捨心中候者、當座之不覺末代之名をくたすへく候条、兼而肉を切而、可存是候、内々無疑心仕置無二奉公存詰者之糺明直に申出候者、
人により遠慮可有之候条、各以分別急度可被相究者也、
六月十日 景勝
安田上総介殿
甘槽豐後守殿
岩井備中守殿
大石播磨守殿
本庄越前守殿
以上。上杉景勝の上杉征伐に対する覚悟表明だが、死にたくない奴は帰っていいと
やる気満々なんだが、西軍関ヶ原敗報を聞いたあとのへたれっぷりは
なんなんだろうと感じる。なにか引っ掛かる。
元々有事の際には共闘しようという密約でもあったか、
そういうものはないが、内心薄々味方してくれる可能性が高いだろうと思っていたのか、
そういうものがまったくないのなら、西軍が関ヶ原で敗退しようと、
当初の方針通り征伐軍を迎え撃てばいいと思うのだが、なぜへたれるのか疑問に思う。 会津征伐時と西軍挙兵後の最上領侵攻とで意味合いが大きく変わってしまったからでしょ 元々挟撃の密約があったと信じ込んでるから
西軍挙兵後へたれたと思うだけかと
元々独自に揉めて征伐くるから
仕方なく迎え撃つ覚悟ってだけでしょ
そしたらなんか知らんけど
中央でクーデター起きたw
南下しろ?イヤイヤ後方脅かされたらヤバいし
旧領との連携もあるから最上領獲れてから考えるわ
って別におかしくなくね? >>71
そうじゃなくて、西軍が関ヶ原で負けようと、最上領からの撤退は征伐軍迎撃の観点から
仕方ないとしても、なぜ降伏するのかという点。
関ヶ原勝利後に今度は上杉征伐に来るであろう征伐軍を当初の予定通り迎え撃てはいいじゃんと
言う部分。なぜへたれて降伏するのと。 >>72
最上単独にすら、しかも最上主力軍では無く属城の守備隊にすら勝てない上杉が
家康やそれに従う諸大名の軍勢に戦って勝てると思うかねえ……
景勝は自軍の余りの弱さを知ってへたれてしまったんじゃないの? 横からだが、上であげてくれたように死地において迎え撃つと配下に号令して上がっていた士気が
友軍とも言うべき西軍の蜂起によって死地を脱したことによって勢力拡大という方向へ変化し
そのきっかけとなった西軍が壊滅したとなれば士気を保ったままもう一戦とはいかなかったでしょうよ 西軍との示し合わせは無くとも自分達が徳川を引きつければ中央で動きがあるという風には考えてたんだろ
元から玉砕覚悟とは思えない おそらく毛利が大坂なり本国なりで徹底抗戦の構えしてたら戦ったかもしれない。でも輝元含め奉行派完全敗北ってんじゃ上杉が孤独に戦っても無益というか無意味だもの。
しかも「今なら全部石田三成のせいにできてそうすれば領土は残る」っていうオマケまであるし… >>72
勝てる見込みが無くなったから
それによって主戦論を装わず
降伏する道が開けたから
日本中敵に回して本気で勝てるとも
戦って滅んでもいいとも
君臣共に本気では思ってはいないでしょ 佐竹相手に威勢のいい書状を送ったが本能寺の変によって救われ
奇しくも西軍の蜂起によってまた命拾いをすることになった上杉
上杉の上洛前はまだ島津も降伏してなかったけど辺境だったしな
とはいえ島津は九州諸侯に動員かかっているし、交渉中に徳川の朱印船沈めているしで 書状で勇ましいこと言ってるけど上杉家がほんとに玉砕覚悟だったかつーのも眉に唾をつけとかなきゃダメだしね
ある程度当たって強硬派へたれたら即詫びる予定だってありえるし、何より上杉家が正しく家中の意思統一しきれてるかというと怪しいというかできてない可能性のが高い 越後に残った家臣がいたのも
謀略というより統制できなかったんじゃ 頭下げる気がないならどの道戦争不可避なんだし
内心がどうであろうが威勢のいいこというしかないってだけじゃないの
弱腰だと士気にも関わってくるんだし 景勝も家を滅ぼすのは嫌だったんだろうなぁ。
例え弱腰と言われようが。若しくは密かに助命の保証は貰っていたのか 石田三成は徳川家康に命助けて貰ってるのになんで刃向かってしまったのか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています