関ヶ原から家康征夷大将軍就任まで歴史について
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
関ヶ原戦い以後徳川家康の征夷大将軍就任までの間の歴史って
どんな歴史だったのだろうか
日本史の授業では教えてもらえない空白の時期の歴史についついて語ろう 高校までの授業で駆け足かスルーなだけで、二重公儀論とか
近年むしろ研究が盛んな分野じゃないの? ずいぶんと期間を区切ったな。まあ、それはいいとして、秀忠本体が間に合わなかったこともあり、関ヶ原勝利後は徳川と味方した大名の連合政権に近い。
その中での布石打ちにも、一定の制約が入る。豊臣蔵入地の剥奪とならび、関白の豊臣家世襲を否定すべく、九条兼孝に就任させたとか、いろいろ その時代は葵徳川三代で結構時間をかけてやったけど、豊臣をいじめてる印象しかない 毛利が減封
島津征伐
上杉が降伏、米沢に減封
島津本領安堵
佐竹が降伏して出羽転封
宇喜多秀家の身柄引き渡し ところで島津ってなんで本領安堵されたんだろ
「秀吉は家康政権を遺言していた」(だったはず)によると
明との国交正常化で島津家がその窓口だったからとあったけど実際どうなんでしょう? あまりにも遠隔地過ぎたのと、地生えの勢力だから侮れなかったのでしょう。あとは脱出時に直政と忠吉に大ケガさせているし 兵300で島津の退き口やられたら
損害が大きすぎて島津領で戦いたくないよな 清正や鍋島には島津に備えるように命令していたはず
関ヶ原終わったばかりで東北の上杉やらの処分もまだだし宇喜多も見つからないしで
遠隔地だから話が立ち消えになったんだろう
長宗我部みたいな明らかな戦後の過失があったわけでもないので 宇喜田匿っていたのが失点といえば失点だがバレたのいつだっけ
近衛の仲介もあったんだよな 隆造寺高房30万石を改易
鍋島直茂に10万石加増(勝茂は吉川と同じく家中で考えろ)
と
前田利長63万石から越中を召し上げ
利政21万石と丹羽・山口領で20万石を与え70万石程度にする
くらいは出来そうだが この時期は、欧州諸国や朝鮮や明への警戒も
より厳重にしてたろうなあ 家康は基本室町鎌倉体制の後継を自認してるから
朝廷としても安心して任せられたんでしょ 今日か明日か今年中にnhkとその周辺か日光東照宮あたりに空から石の塊が降ってくること確定((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル 将軍就任の1か月前に年賀拝謁に大阪まで参上してるけど、どういう空気だったんだろ 家康が将軍になってある意味ほっとした大名武士も多かったろうな
武家の伝統にない関白なんてわけわからんのより理解も順応もしやすい
豊臣関白時代は外征に秀次事件とまあろくな事ない「悪夢の豊臣政権」だったし
公家にとっても関白取り戻せたし官位叙任も正常化したしで公武共にwin-winだったろう >>4
蔵入地の解消や関白の返還はむしろ大名や公家が望む物だったろうからな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています