今川氏真はどうすれば今川家滅亡を避けられたのか
一般的に今川氏真は暗愚であり、
そのために松平元康の独立を招き、
武田に裏切られ、滅亡したとされている
では、どうすれば今川家は滅亡を回避できたのか
そもそも回避することはできたのか
考えてみよう 我々が思う以上に義元が超有能で
ワンマン経営に近かったんじゃない?雪斎のサポはあったにせよ 今川家が断絶したのは明治時代だっけ?
そんな遥か先のこと、氏真にどうこうできることじゃねーだろ
支流にした品川家は残ってるし
なお、晩年の氏真は品川家(次男の家)で隠居生活を送った
長男は既に若くして没していたため、今川本家はまだ少年だった孫が当主に就いていた
さすがにまだまだ年若い孫の家に厄介になる訳にはいかなかったのだろう 誰も高家の話なんてしてないだろ
アスペって大名としてのスレッドてレスしあってるのわからないのか
そもそもここ戦国スレだ馬鹿 >>688
そこまでのやる気を見せてくれたら家康も味方のままでしょ こちらから同盟破棄して信濃に攻め入ったらどうなっただろう? 今年の大河じゃ、氏真は裏主人公っぽいし
そのうち、早川殿と夫婦揃ってのW主人公な大河やるかもね
同じ夫婦なら立花宗茂・ァ千代の方が見せ場あると思うけど、
あっちは仲悪いし、嫁の方が早死
夫は朝鮮出兵で活躍だからなあ 義元死んだだけで遠江反乱起きまくり
別にどっかの勢力が調略したわけでも攻めてきたわけでもないのに
イヤイヤ今川に従ってたんだね
20年以上統治してたのに義元の政治は巷で言われてるほど高く無いな そりゃ遠江の城主達とその近習も多数討ち死にしてるし仕方ないかと 武田は長篠で重臣死にまくりさらに国衆の親族参加しまくってた高天神城見捨てたのに1582年の甲州征伐おきるまでは寝返り起きてない
今川は桶狭間から速攻で反乱ラッシュ
元々今川が嫌われてたのか氏真が魅力なさすぎたのか遠江が加賀なみに当地の難しい土地なのか
でも家康は順調に統治してたからな
武田の大軍来ても甲州征伐のような現象は起きなかった 信秀、信長の対今川の経済封鎖で家臣の不満が高まっていたようだし
今川氏真一人に責任を被せるのは違うだろう 現代人の感覚なら徳川に色々差し出して仲良くして織田にとりなしてもらうのが一番合理的だな 甲州征伐で駿河に戻れたんだから、実は勝ち組なのでは 北条にしろ武田にしろ滅んだ訳で実は徳川と繋がれただけでも…てかすげぇ根性してるだろ 家康を頼るしかなかっただけじゃん
確かにプライドのなさは凄いが 氏真も滅んだのは同じじゃん
家康の情けで高家になれただけ 駿河は婆様に任せて自身は遠江国の掛川辺りに入らないと駄目だろうな 氏真信長の前で蹴鞠披露した
親の敵で滅亡の原因の前で怒ることなく中々できることじゃない 其れにしても甲相駿同盟の国は全て滅びたな。
三国同盟が後の信長の甲州征伐まで続いてたらどうだったのか?
勿論桶狭間は無しか痛み分けで今川義元が健在だったとしてだが。 上洛できないどころか1560年代前半までに滅ぼされるor今川傘下に入ってる 1560年の攻勢で決定的な勝利得られない限り無理だろ
信長が継いで10年あったのに今川は信長の勢力伸長抑えられず
1560年にはある程度今川と戦える程度にまで盛り返してるぐらいだし
そのままならそのうち織田が今川を尾張から追い出すだろうと思う 50年代後半は三河で反乱が相次いでて
その間織田は今川方の鳴海・大高城に対して
付け城を築いて包囲を仕掛けてた
話が入り組むからフィクションでは桶狭間前夜まで
織田が今川に圧迫され続けてたみたくされがち
でも実際は攻勢を強める織田に対する
反撃として義元は出陣したのよね 北条の一人勝ち状態で必ず分解する
あれは国力が同程度だったから機能した
武田は3万動員できなかったのに北条は50000余裕。
勝頼時代は長篠前でも2万以下まで落ち込む
これだと織田徳川の関係になっていく
北条は武田を見下すだろうし武田も北条に危機感持つ。ましてや北条とはかつては仇敵の間柄
ゲーム脳は武田と北条は同盟関係で仲いいと思ってるけどかつては武田は扇谷上杉と同盟関係にあり武田北条は双方お互いの領土に侵入し放火しまくった関係
義元死後の反乱ラッシュから今川の統治も駿河以外盤石でもないのが判明
信秀死後から桶狭間まで9年もあったのに攻めてこなかった外征なんかできる状態じゃなかったってこと その割には甲相同盟が破棄されてからは勝頼の猛攻に晒されて上野は失うし小田原付近で防戦を強いられて終始劣勢だったという 氏政にいやんは花押を武田流にするほどの
信玄スキーやろ
長篠でボロボロになった勝頼に妹と持参金提供して
酷い目に遭ったり >>718
この板やたら勝頼見下すけど実際は武田に連戦連敗で上野から北条勢力駆逐され武田が上野制し
伊豆駿河国境に北条が築城したら速攻で武田に裏切り水軍も武田水軍に敗戦の連続で
なんか気づいたら武田、宇都宮、佐竹と
周りをぐるりと包囲された絶体絶命の危機だったんだよな
武田に軍派遣すれば佐竹宇都宮に背後つかれ佐竹に向かえば武田に背後つかれると。
信長に「当家滅亡」(このままだと北条は滅びます一刻も早く武田征伐してくれるようお願いします。信長様に従属しますんで一刻も早いご出陣を)と泣きついてるんだよなw
築城したら速攻で裏切り上野国衆も裏切り当時の人は北条すげー、勝頼オワコンとは思ってなかったみたいだよね
そんなオワコンだったら裏切らないって 本体が上野ボーナスステージに夢中のなか
替わりに救援すっぽかだれた信濃国人がみな寝返ったわけだが 勝頼も徳川と北条の二面作戦を強いられて挟撃される状態だったが
逆に徳川も北条も勝頼に押されまくってもはや正面から戦う事も出来なくなり信長に助けを乞うだけになっていたからな
勝頼の強さは凄まじいものがある
さすがに織田も加わっては無理ゲーすぎたけど
逆に言えば信長本人を引っ張り出した訳だからそれだけ信長にも脅威を与えていたと言う事でもある 義元の死後氏真自ら三河に出陣し仇は討てなくても、織田勢の脅威を取り払っておけばよかっただけ
松平元康だって今川がちゃんと守ってくれないから独立して織田と同盟したんだから 徳川を潰すべきだったのに何でろくに攻めなかったのだろう 上杉が北条を攻めて小田原まで侵攻→北条に援軍だ!
三河と遠江反乱→領主を粛清だ!
と言うわけであんまり徳川だけに専念できる状況じゃなかった
三河に出兵できたのは一度だけだったかな 三河一向一揆という千載一遇のチャンスにすら攻められなかったしな
龍造寺とか織田もそうだけど当主が討死するって現代人には理解し難いくらい求心力の低下を招くのだな 義元すら太原雪斎亡き後は精彩を欠いてたしな
その義元も死んだらもうどうしようもありません 高僧の地位にあった雪斎の人脈が切れちまったからな
特に寺社勢力には雪斎上人が頭を下げたら従わざるを得ないけど
彼が居ない今川には従う義理はありませんわって連中も居ただろうし 甲陽軍鑑の品第十一にある馬鹿な大将は
氏真よりみしろ義元の方が当てはまるんだってね まだ掛川落ちてないのに
おまえもう大名じゃないやろ無礼者ゆうた上杉謙信ガチパワハラ大魔王 江戸時代の家康と氏真って会ったらお互いに気まずい感じがするけど
逸話を見ると案外仲は悪くなかった感じだな むしろ氏真の方から江戸城にしょっちゅう訪問してて家康がうんざりして江戸城から離れた品川に館を与えたとか >>740
長篠の戦いで徳川方の後詰やったりしてるわけだし今更気まずいとかいうこともないだろ >>741
出世した後輩にたかりにくる先輩みたいで嫌だな
よう、竹千代遊びに来たぜw
みたいに毎日来られたら逃げだすわ >>741
なんか「長州人の山の神」っていう短編小説思い出した
司馬遼太郎だったかなあれ >>745
関東移封から朝鮮出兵に伴う名護屋在陣までの短い期間だな。
以後は 名護屋→秀次事件に伴い京都にしばらく滞在→
→再び名護屋在陣→秀吉危篤により京都にしばらく滞在→
→秀吉死去後に大坂入城→関ヶ原後は京都に長期滞在→
→将軍職を秀忠に譲って駿府隠居 だからな。 >>741
恐らく人質時代に可愛がってあげてたんだろうね
俺昔お前のことよくしてやったよなぁ
親父も子供のお前に英才教育して瀬名も与えて準今川一門にして無理な戦もやらせないで将来今川軍率いる男にしてやってたのに
それを裏切ったの誰だっけ?この恩知らずが。
お前俺の面倒見る責任あるよな
てな感じでタカってたかもな つうかまあ今川人質時代はそんな悪くなかったんだろうなってのは
隠居場所に駿府選んでるの見てもなんとなくわかる
普通、子供時代に嫌な思いをした地域は二度と戻らないし 本来なら松平は攻め滅ぼされてもおかしくない状態だったのに今川は庇護してくれて織田から領地を守ってくれたし
居候同然の家康を一門に加えて優遇してくれたからな
家康は今川になんの恨みもない
むしろそんな大恩ある家をどさくさに紛れて攻撃して乗っ取ってしまったので家康も負い目から氏真には気を遣っていたのだろう 仮にも日本の最高権力者にまで成り上がった家康が私情で火種になりかねない元主君を優遇するかね?
氏真が優秀な人材だったから起用し続け、その功績に報いる為に厚遇しただけでは? 当時の氏真に対する家康の態度の評価で「良くなされている」ってのがあるから
能力以上に傍から見て旧主だからという事で優遇していたんだと思うで >>750
家康が天下を手中に収めた段階だと、
氏真が火種になる可能性なんか0%だろが。
秀吉が足利義昭を厚遇したのと同じようなもんだよ。
自分の度量の大きさを誇示するため。 >>750
人望や能力がなくて崩壊した家だから何の火種にもならないと思う
氏真自身もそれを認めていたから家康にも警戒されず一定の敬意をもって接してくれたのだろう
ある意味氏真は勝ち組だと思う
他人も世の中も恨まず受け入れて分相応の生き方をする事に決めたから後半生は好きな事だけやって楽しく暮らしていた
一時は裸足で妻と逃げ出す有様だったけど、それも良い思い出になるくらいには後半生は平穏だったと思う
早川殿とは夫婦仲が良かったみたいだし 家康は遠江や駿河を統治するのに氏真を上手く利用してたからね >>750
今さら今川に何が出来んだよ
もしなんの力もない落ちぶれた旧主君に嫌がらせなんかしたら名声落ちるわ
上でも言ってる人いるが人質時代に良くてもらってたんだろ
嫌な思いしてたのなら普通はそんなとこに住みたいとは思わない 氏真からしたら武田の方が憎いだろうからな
武田を倒してくれるなら親の仇の信長の前で蹴鞠もそりゃしますわ まあ、信長の場合は義元の方から喧嘩売って返り討ちにされただけだからな
恨むのは逆恨みだわ 氏真の生涯を大河でやってほしい コメディ調にしないでまじめな感じで もうって関東で大河になった大名なんて一つもないけど 家康のこと言ってるんだろ
丁度タイムリーでやってるしアスペか
生まれは関東じゃないとか揚げ足取りたいだけだろお前 REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 生まれも育ちも東海で死んだのも東海で73年の生涯のうちせいぜい5年いたかどうかという程度の家康を関東の大名というのは無知すぎるだろう 徳川家康
1542-1547 岡崎
1547-1549 清洲
1549-1560 駿府
1560-1570 岡崎
1570-1586 浜松
1586-1590 駿府
1590-1607 江戸
1607-1616 駿府 >>766
文禄4年の頃から将軍宣下を受けるまでは殆ど伏見に居たよ
家康って駿府がホームだよな
だから終の住まいも駿府にしたんだろうけど >>769
お前しか思ってないことを他人に強要すんなカス。
お前って劉備や諸葛亮が蜀の人間って言ってるやつにいちゃもんつけるんだ
すげーな
お前の言ってることこれと同じだから >>771
いちゃもんつけたのはお前
見事な論破されるやつってこうやって逃げるよなw
ほらお前三国志板で劉備は蜀の人間じゃないって言ってこいよ馬鹿にされるからよ 人にいちゃもんつけといて
何一人でしゃべってんの?
だってw
しかも反論もできない見事な論破されてまともに反論もしないで逃げゼリフで逃げたヘタレ
ダッセぇ
お前最高にダサいよ >>766
で劉備は涿県中国北東の人間だからとか言いはるのお前
蜀の劉備か諸葛亮のドラマやって欲しいにお前みたいに劉備と諸葛亮は蜀の人間じゃないなんて間抜けないちゃもんつける馬鹿見たこと無いわ >>775
それはお前だろ逃げやがって
ほら逃げゼリフじゃなくレス返してこいよ
お前ひろゆきにソックリだよ
論破されると必死に話題そらして論点ずらして逃げる
あいつ見てみっともないと思うだろ
お前あいつと同じだから
お前からいちゃもんつけたんだよ
一人でしゃべってるじゃないよ >>777
早くお前は三国志板で劉備は蜀の人間じゃないって書いてこいよ
ちなみに東京都民に家康は関東大名じゃないよなんて言ったら馬鹿にされるから止めたほうがいいよ 私は生まれも育ちも都内ですが家康は関東の大名ではないと思います 出世大名家康君とかいるし普通にあの地域の大名だと思ってたけど
俺の世代だと信長の野望で初期位置がどこかってのが大きいっすね 家康といえば岡崎か浜松だからな
江戸時代は駿府のイメージ >>779
俺は生まれも育ちも愛知だけど徳川は関東の大名だと思います 年数で言ったら家康が三河にいたのなんて関東より短い
生まれの場所で決めてる奴は伊達政宗が仙台の大名じゃないよ米沢だよとか言って仙台の大名と言ってる人にいちゃもんつけるんだろうか
同じく毛利も周防長門じゃないよ安芸だよと言うのだろうか 秀吉も大坂の大名と言ったら否定されるのかすげーなw
長浜になるのかな?姫路になるのかな?
アホすぎる >>782
愛知とかなに寝ぼけた事いっているんですか
家康は静岡の大名なので当たり前です 東海←生まれた場所、育った場所、一番長くいた場所、死んだ場所
近畿←大老や将軍時代に政務をとっていた場所、天下を取った場所、二番目に長くいた場所
関東←5年程度ちょこっと居ただけ、特になにもしていない
まさか家康が関東の大名だとか主張する無知な馬鹿なんていないよねw >>783
加藤清正を尾張扱いしたら熊本県人が怒り出しそうだ それ以前に加藤清正は10歳くらいまでしか尾張にいなかったから尾張の大名な訳がない
尾張にいた時は武士ですらなく鍛冶屋の子供だったし
清正が大名になったのは肥後に入ってからで死ぬまで国替えもなかったので正真正銘肥後の大名 秀吉は辞世の句からして大阪の人間の自覚があったかと あれは浪花の人間としての自覚というより自分の立身出世の象徴的な意味合いじゃないすかね
いまで言えば地方の田舎の店舗から成りあがって東京に本社を移した社長が
東京での事は夢みたいなもんだったなぁって回想しているような