奥州南部氏の主家、総量、棟梁は八戸根城南部氏
奥州南部氏の主家、本家、総量、棟梁は八戸根城南部氏
八戸根城南部氏が主家であり本家であり総量であり棟梁
三戸南部氏が本家、主家ではない
三戸南部氏は根城南部氏の傘下の一つ 根城の南部は、なぜ、小田原城の合戦に行かなかったのか?
根城の南部は謎だらけ。 鹿角や岩手郡、あと閉伊への侵攻過程で三戸南部が台頭してきたのかと >>2
政栄息子の直栄は小田原に同行してる
結局根城南部が没落して三戸の風下に落ちたのは変わらないし、このスレタイ意味ある? >>6
晴継派と信直派に分裂してた隙を突いて復権できなかったのかね?
石高は低いけど砂金が採れ、西廻り航路の寄港地を複数持つ下北半島と
糠部郡の玄関である八戸港を有してたから財力は抜きん出ていただろうに。 その頃は九戸政実率いる九戸党が斯波御所を従属させ、急速に勢力を拡大させていたからだろう。
根城南部と三戸南部が手を組んで、ようやく九戸党に対抗しえる。って状況で迂闊に動いたら
九戸政実が漁夫の利を得るだけの恐れがある