【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る10
>>409
「親子を殺す」どころか「信長をころすことにばかり気を取られてた」としか思えないんだか
本能寺包囲だけならもて余す十分すぎる兵を率いていながら、信忠を囲んだのは本能寺への攻撃を始めてから二刻(約4時間)もあと
いかに信長だけに夢中になって他が迂闊だったか分かる そろそろ落ち着いてきたと思いたいところだが
大河の嘘イメージひっくり返すためには10年単位で時間かかるんだろうなあ
丹波とか恩恵ほとんどないのに嘘だけ押し付けられるとか不憫だわ 陰謀説の人は考え過ぎなのよね
光秀がとち狂ってやっただけの話よ 宿泊しているところを夜襲して支持されるわけないんで孤立して討ち果たされるのは当然よね 大河の影響で興味もって
光秀の家臣に興味あるけど
いうほど情報は少ないね 光秀の自称子孫の人の光秀が信長騙して信長本人に計画練らせた説は嫌いじゃないよ
それ以外の部分はあれだけど 来週5/8の「世界ふしぎ発見」で、「本能寺の変」を扱うそうだけどなにを描くんだろうか 明智光秀が殺されず生きていて別の場所で死んだとかやってたけど
南光坊天海の話は出てこなかった。真偽は別として片手落ち 「世界ふしぎ発見! 〜本能寺の変 解き明かされる新たな真実〜」2021年5月8日(土)
https://s.kakaku.com/tv/channel=6/programID=271/episodeID=1466086/
> 信長の侍女の証言として、信長の最期の言葉も記されている。
信長が侍女を逃がして1人で最後まで抵抗したようだが
あれは信長が侍女を逃がした後に
床下の抜け穴から1人で逃げたものと考える。
だから、死体が見つからなかったのだろう。 信長が家康を討てと言ったとかやってたけど、そもそも光秀は秀吉の援軍にいけと言われてたんで全くのデタラメ
ちゃんちゃらおかしい 先生の話によると乙夜之書物は老人のホラ話として三次史料扱いになったそうで残念でしたね
天王山と混同
圧倒的兵力差がありながら至近で遺体すら見つからなかった信長を見たという信ぴょう性に欠ける記述
確かに話にならんな >>421
乙夜を取り上げたテレビがあったんですか
あなたの言う先生が誰か知りませんが、ちゃんと乙夜の原史料の一部でもあなたは読みましたか?
久しぶりに覗いたらいつものことながら、愚にもつかないことが書き込まれていてw >>423
テレビの演出より自分で読んで確かめた方が早いし正確でしょ
読めない人はテレビみておきましょうね 武田が滅びると自らを神と称し、誕生の日を聖なる日と為した。
そして、帝を自らの膝下に置かんとする所業。
武田攻めの御折檻、徳川様接待不首尾のお怒り、近江坂本・丹波領地を召し上げ、出雲・石見を切り取れとの冷たき御沙汰、
又、丹波で、足の不自由な母を、見殺しにされた仕打ち、など!
語り尽くせぬ怨みあれども! 信長が当時としても異常な人間ということはわかっていて長年仕えたわけでしょう
それを天子様をどうこうを理由に殺そうとするかな 天皇家は幕末になって討幕派が神に仕立てたわけで当時は神社の代表者の地位だったのよ >>421
そりゃ約100年後にまた聞きでってなると信憑性はどうしてもねー 光秀「黒奴は物を知らない動物」
弥助さん
トリリンガル以上
相撲バリ強
鉄砲等も使用可
本能寺が落ちると信忠に参じて戦う忠義の人 【戦国こぼれ話】『乙夜之書物』は本能寺の変の真相を知るうえで、信頼に足りうる史料なのか(渡邊大門)
ttps://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210511-00237186/ ヒムラーとヒトラー 氷のユートピア
遠くウラルに至る沃野に、ゲルマンの一大帝国を!整然とホロコーストに動きだす!狂気と合理性に彩られた 光秀恨む女の霊 神社に残る戦国悲話/兵庫・丹波市
12/2(日) 11:02配信
岡女の霊がまつられている厳島神社=兵庫県丹波市柏原町柏原で
本殿や拝殿が国指定文化財になっている兵庫県丹波市柏原町柏原の柏原八幡宮。その八幡宮の鳥居をくぐって、すぐ右側に厳島神社がたっている。この厳島神社には、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公で、戦国武将の明智光秀によって兄たちが殺されたことを恨んだまま息を引き取り、死後、幽霊となって里人たちを恐れさせた女性の霊がまつられている。
織田信長の命を受け、丹波の国を攻めた光秀だが、「丹波の赤鬼」との異名をとった武将、赤井悪右衛門直正らの抵抗に遭い、敗走を余儀なくされるなど、さんざん手を焼いた。
そんなある日の夕暮れ。丹波に構えた戦陣にいた光秀に向かって、流れ矢がうなりを立てて飛んできた。身をかわして難を逃れた光秀は、背後の木の幹に突き刺さった弓矢を引き抜き、険しい目つきで矢尻を凝視した。
そこには「土屋(はんや)」の印が入っていた。その印を見て、光秀の怒りが増した。
土屋三坂と名乗る矢匠をはじめ、その一族が捕らえられ、光秀の前に引き出された。三坂は、柏原八幡宮の近くに居を構えていた。
光秀は、三坂に言い放った。「わしは、土屋の矢が憎いのじゃ。わしを苦しめているこの矢がな。わからぬか」
すでに死を覚悟した三坂は、光秀の剣幕にひるむことはなく、堂々と言い返した。「とんとわからぬ。わしは丹波の矢匠ぞ。頼まれて矢を商うに何の遠慮があろうぞ。赤井方であろうと、明智方であろうと、戦あっての矢匠ぞ」
ふてぶてしい三坂の態度に光秀の怒りは頂点に達し、鬼と化した。「こやつらを、ことごとく火あぶりにいたせ」
まもなく火あぶりの刑が執行され、火焔が夜空を照らした。処刑された者は、三坂をはじめ一族ら9人。見苦しい最期をさらした者は誰一人としていなかったと言われている。
ただ、一族の中に火あぶりから逃れた者がいた。岡女という三坂の妹である。三坂らを捕えるために光秀の家臣たちが押しかけたとき、いち早く裏庭に逃げ出したのだ。
兄の最期を知った岡女は、兄の後を追い、自害しようと思ったが、自分のすべきことは兄たちの霊を慰めることだと思い直し、髪を下ろして仏門に入った。兄をしのび、供養の日々が続いた。
しかし、心に深手を負ったためか、ちょっとした風邪が命取りとなり、光秀を恨んだまま息を引き取った。
柏原の里人たちの間で幽霊の話が交わされるようになったのは、それから間もなくだった。兄の三坂らが火あぶりにされた沼池のほとりに美しい女の幽霊が出るという噂だ。
「昨日は、うめき声がもれていた」
「一昨日は、しくしく泣いていた」
のちに、心ある人たちによって沼池のほとりに小さな祠が建てられた。そのおかげか、幽霊の噂は途絶えた。
霊をまつっていた祠はやがて柏原八幡宮に移され、今は厳島神社となって戦国の悲劇を伝えているが、地元でもこの話を知る人はそう多くない。
(参考文献・榊賢夫氏著『丹波柏原・続篇』) とちゅまで読んでて兵庫厳島神社の縁起になってて混乱したw そう怒るなよ。むかしのドラマのいかした台詞を楽しもうぜ >>432
秀満と光春が別人だったんだっけ?
新史料でこういう説がでるの面白いなあ >>440
新刊の「真相解明 本能寺の変」にその説が載ってるね
著者は菅野俊輔 丹波新聞より
光秀恨む女の霊 神社に残る戦国悲話/兵庫・
丹波市
12/2(日) 11:02配信
岡女の霊がまつられている厳島神社=兵庫県丹波市柏原町柏原で
本殿や拝殿が国指定文化財になっている兵庫県丹波市柏原町柏原の柏原八幡宮。その八幡宮の鳥居をくぐって、すぐ右側に厳島神社がたっている。この厳島神社には、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公で、戦国武将の明智光秀によって兄たちが殺されたことを恨んだまま息を引き取り、死後、幽霊となって里人たちを恐れさせた女性の霊がまつられている。
織田信長の命を受け、丹波の国を攻めた光秀だが、「丹波の赤鬼」との異名をとった武将、赤井悪右衛門直正らの抵抗に遭い、敗走を余儀なくされるなど、さんざん手を焼いた。
そんなある日の夕暮れ。丹波に構えた戦陣にいた光秀に向かって、流れ矢がうなりを立てて飛んできた。身をかわして難を逃れた光秀は、背後の木の幹に突き刺さった弓矢を引き抜き、険しい目つきで矢尻を凝視した。
そこには「土屋(はんや)」の印が入っていた。その印を見て、光秀の怒りが増した。
土屋三坂と名乗る矢匠をはじめ、その一族が捕らえられ、光秀の前に引き出された。三坂は、柏原八幡宮の近くに居を構えていた。
光秀は、三坂に言い放った。「わしは、土屋の矢が憎いのじゃ。わしを苦しめているこの矢がな。わからぬか」
すでに死を覚悟した三坂は、光秀の剣幕にひるむことはなく、堂々と言い返した。「とんとわからぬ。わしは丹波の矢匠ぞ。頼まれて矢を商うに何の遠慮があろうぞ。赤井方であろうと、明智方であろうと、戦あっての矢匠ぞ」
ふてぶてしい三坂の態度に光秀の怒りは頂点に達し、鬼と化した。「こやつらを、ことごとく火あぶりにいたせ」
まもなく火あぶりの刑が執行され、火焔が夜空を照らした。処刑された者は、三坂をはじめ一族ら9人。見苦しい最期をさらした者は誰一人としていなかったと言われている。
ただ、一族の中に火あぶりから逃れた者がいた。岡女という三坂の妹である。三坂らを捕えるために光秀の家臣たちが押しかけたとき、いち早く裏庭に逃げ出したのだ。
兄の最期を知った岡女は、兄の後を追い、自害しようと思ったが、自分のすべきことは兄たちの霊を慰めることだと思い直し、髪を下ろして仏門に入った。兄をしのび、供養の日々が続いた。
しかし、心に深手を負ったためか、ちょっとした風邪が命取りとなり、光秀を恨んだまま息を引き取った。
柏原の里人たちの間で幽霊の話が交わされるようになったのは、それから間もなくだった。兄の三坂らが火あぶりにされた沼池のほとりに美しい女の幽霊が出るという噂だ。
「昨日は、うめき声がもれていた」
「一昨日は、しくしく泣いていた」
のちに、心ある人たちによって沼池のほとりに小さな祠が建てられた。そのおかげか、幽霊の噂は途絶えた。
霊をまつっていた祠はやがて柏原八幡宮に移され、今は厳島神社となって戦国の悲劇を伝えているが、地元でもこの話を知る人はそう多くない。
(参考文献・榊賢夫氏著『丹波柏原・続篇』) 信長の死後、秀吉が信長の息子達を傍流に追いやって主導権を握るあたり、光秀も秀吉も本音は同じだったか。
「狡兎(こうと)死して走狗烹(に)らる」という、合戦を勝ち抜いた家来から領地が取り上げられて信長の息子達ばかりに与えられる事に対する不満が「本能寺の変」を引き起こしたか。
「やるなら今しかない!」と、公家衆が囁いたか。 「桶狭間の戦い」「本能寺の変」に共通する事は、間者による情報漏れを防ぐために事前の打ち合わせを行わず、いきなりトップが指揮して合戦を起こした。
斥候を使った情報の探り合いという面で、非常に上手く行った例だろう。 ゲームというか90年代流行の
情報戦勝利説そのままかと 敵ゴール前に居たらボールが転がってきたので、迷わずに蹴ったという事だ。 信長、光秀の子孫が延暦寺でシンポ 比叡山焼き討ちから450年
今年の法要では焼き討ちから450年の時を経て、信長の子孫、織田茂和氏と光秀の子孫である
明智憲三郎氏が参加し、比叡山の関係者らと犠牲者を悼む。延暦寺を開いた伝教大師最澄は「怨みを
以て恨みに報ぜば怨み止まず、徳を以て怨みに報ぜば怨みすなわち盡(つ)く」との言葉を残しており、
延暦寺はこうした教えに基づき、公益社団法人「びわこビジターズビューロー」との共催で今回の企画の
実現に漕ぎ着けた。
https://www.sankei.com/article/20210908-K75T7TK2RJN2PAGJSMZDEYYWKE/ 明智光秀(千葉真一)は、足利義昭(蓮司)をライフルで射殺し、また、明智家御庭番の亜利助(黒崎誠輝)に織田信長の行動を探らせ、本能寺で信長(松方)を襲殺しました。
正に戦国の野良犬の所業。 >>1
定政伝記
天正十年(1582)五月、
神君到江州(徳川家康は近江国に到着した)
謁見信長公於安土(安土に於いて信長公に謁見した)
日向守光秀、定政は従父昆弟(従兄弟)
不堕家誉(家の名誉を落とさぬよう)
贈遺(家宝を贈る)
剣・備前兼光、
甲冑・烏絲綴織、
馬轡・佐々木高綱、
鎗・血水銘
而(しかも)通好みの品を贈る
光秀は定政の父親である定明の遺品を持っていた
これは明智本家の長男であったことを示す
明智家臣団の妻木、小里、肥田、遠山はいずれも分家や養子先
光秀の妹御妻木は月経があったことから30代から40代つまり明智定政と年代が近い
光秀の母親御牧は実在しないとされるが、室町幕府の奉公人に御牧景重の名が見える 本能寺の変に関しては、+出雲と石見−丹波と近江志賀郡の件を
信長は、毛利潰してからのつもりだったのに、説明不足だったり、
追放された佐久間信盛の件もあって、光秀が勘違いした?
世界的な銀山のある石見の統治を、任せるつもりだったのだから、
信長が光秀を、冷遇するつもりがあったとは思えん
また信長は、毛利と長曾我部と上杉を潰したら、
九州方面は秀吉、中国方面は秀吉→光秀、四国方面は信孝近畿方面は光秀→?、
北陸方面は柴田→?、関東方面軍は滝川、東北方面軍は柴田に
任せるつもりだったので、事前に慣れてもらう為、毛利攻めに加えただけなのに、
これまた説明不足で、秀吉の傘下になると光秀は勘違いした? 応援するため中国にいくなら羽柴の、北陸にいくなら柴田の指揮下に入ることになる
今までにもあったことなのに何で >>454
明智軍記にしか見えない記述だよ
信じるに値しない 石見・出雲なら喜んで丹波・近江坂本差し出すな、俺は
800万石もある信長の天下統一は時間の問題だったし
石見銀山と出雲の砂鉄と日本海側の豊富な海産資源と戦国随一の月山富田城まで貰える
実質300万石くらいの価値はある
だから国替えの指示は信じるに値しない 秀吉「明智は延暦寺虐殺を
提唱した極悪人ですよ。
石山合戦にも関わっていまーす。
延暦寺や石山合戦反対派の
僕は上記の極悪人明智
を始末しました。
どう考えても正義の行為でしょう」 変起こしたのは放っておいても粛清されそうな予感はあったんじゃないかな。
古今東西上司のおかげで出世出来た者が主君を殺して生涯全う出来たためしはないし。
例え大返しなくてもいずれは誰かに討たれるのは間違いなし。光秀のおかげで滅亡を免れた毛利も上杉も北条も光秀に加勢は絶対にしない。
それをしてしまうと家臣が自分を討っても良いことになってしまう。
秀吉に勝てても柴田が丹羽が家康が出てくる。
変起こした時点で光秀の運命は決まっていた。 落武者狩りってなんで光秀が落武者やとわかったん?
今でも
指名手配犯をすぐそいつやと見てわからんやろ?
仮に落武者やとわかっても、光秀とはわからんはずやで 狩ったあとで身分の分かる身につけていたモノ見つけたか
奉行所なりの織田家に届けてたんじゃないか
ちゃんと埋葬なりしとかないと遺族に恨まれるし そこは創作ちゃんうや?
いやな、落武者狩りにあって本当に光秀かどうか調べるころには遺体は腐ってるやん普通?
歯の治療痕ぐらいのレベルぐらいやろ、光秀とほんまにわかるの 落武者狩りは奨励されてたし、金目の物は剥いで売り払うだろうし
そのブツから辿りつくのもあるかもしれんよ 6月とはいえそんなにすぐに遺体は腐らんだろ
特に処理してない遺体でも火葬するまで数日間のうちに葬式するし
あと落ち武者狩りしたやつと首を届け出たやつは別みたいだ 秀吉「明智光秀? 奴は弱くて
単なる馬鹿だよ!
俺なんか3分でやっつけちまったぜ!
娘も石田三成で始末してやったぜ!
サイコー は?明智光秀を
尊敬してるかって?馬鹿か?
天下の俺があんな愚将尊敬してるわけねーしw」 463ですが気に障ったのでしたらすみません。
ただ光秀が謀叛起こした後、どう考えても光秀の未来が開ける展開が考えられないのです。
やっぱり主殺しを認めることは自分にも降りかかることなので、そのことを他の大名も公然とは許さないと思います。地方勢力ならともかく、天下人では目立ちすぎるので。
もし光秀が天下人になる合理的な戦略があるのでしたら教えて欲しいと思います。 >>470
面白くないし気持ち悪いからやめてくださいね 秀吉「明智光秀は3秒で始末したw!
百姓の俺が3秒だぜ!マジ俺tsueee!だろ!
明智光秀なんかサイコーに弱かったよ。
ついでに明智家の家臣も
俺の配下として従わせることもできて
サイコーって感じ」 秀吉「僕は延暦寺虐殺や石山合戦には反対してたし、
賛成していた悪の光秀とは違う訳で。
山崎の戦いで正義の粛清を俺は
行った!何が悪い」 >>471
個人的には単純に情勢を見誤ったんだと思うよ
成功させるには5年、あるいは10年遅かった
彼の経歴は結構異色で戦国大名家臣と言うより
取り立てられた幕臣という認識だったんじゃないかと
義昭と信長を結び付けて幕府再興を企画し
義昭追放後は旧幕臣を取り込んで
畿内支配を進める仕事をしてたわけだから
その目で見て信長さえ死ねば旧幕府≒反織田勢力
による巻き返しがあると期待したが
もはやそんな勢力もなく
戦国大名信長に安堵されただけの家臣たちも
権力基盤を失って自分を討つ余裕なくすと予測したが
実際には権力基盤を奪った光秀を真っ先に
排除しに動いた
変の後に彼自身が動機らしきものを示したと
される史料としては「息子らを取り立てるため」
と旧幕臣仲間の細川藤孝に宛てた書状の写し
それと将軍上洛への協力を要請する国衆への書状
他の方向性を考える必要をあまり感じないかな 変の前に進んでた織田政権の関東や四国の仕置きや
九州奥州からの帰順は幕府本来の権能を
幕府以上に直接的に実効するものだったし
三色推任は朝廷が諸に幕府の否定するに等しい
その意味では追い込まれてもいたと思う
粛清(殺される)とかでなくても
政権中枢から自分含めた旧幕臣が遠ざけられる
と言う意味の危機感はあったろう
幕府や義昭への忠誠という個人的感情より
自身の権力基盤による政治的立場からの危機感が 今日は19時から「世界の何だコレ!?ミステリーSP」で
明智光秀と裏・本能寺の変をやるで 自称子孫の戦国芸人、明智憲三郎をマスコミから出版界から、追放しよう! 秀吉「俺が明智なんか尊敬してる
わけねーだろ?
百姓に負けた馬鹿って
明智のことw」 秀吉「土屋三坂を殺した明智光秀は
悪人ですよ!僕はこんな悪人を
山崎で殺したんですよ。正義でしょ?」 光秀はどれほど秀吉をパクれば気が済むのか?
光秀は延暦寺の虐殺に
反対していたとか実際は嘘で、
本当に反対してたのは秀吉。
光秀は秀吉と同じく足軽だった?
これも単なる秀吉のパクリ!
昔から明智は摂津源氏の
末裔って言われてるでしょ? 『柳営婦系』に「明智平三(十)郎」とみえる。
斎藤利宗は斎藤平十郎と名乗っていたことは『石谷家文書』で確認できるので、同時代資料で明智名字を名乗った形跡は見られないものの、可能性までは否定できない。三存の明智名字授与は確実
主君と結び付き強いな 何度もいうけど、信忠が近江に逃げたら光秀は西をまずは目指す
となれば秀吉が光秀を討つ可能性が高い
勝手に戻ってきたとかは謀反人を討つことすらできなかった当主に
言う資格はない 異説かも知れんが光秀は山崎の合戦で落ち延び
故郷の岐阜で隠遁生活して関ヶ原で徳川方として参戦するため移動中に洪水の河に落ちて溺死したと云われてるよね。 家康・光秀・政宗らの書状ずらり、井伊直政隊の初陣史料も…彦根城博物館で展示
木俣守勝は三河国岡崎の出身で、岡崎城主だった徳川家康の小姓を務めたこともある。岡崎を離れ、明智光秀のもとで
武功を上げ、家康のもとに召し戻された後、直政の部下になった。「徳川家康自筆書状」(天正11年、1583年)は、
家康が信濃に出兵するにあたり、直政に隊の一部を送るように命じた書状。兵士のまとめ役として清三郎(守勝)か
誰かを遣わすように、と書かれており、直政隊の初陣に関する貴重な史料という。「明智光秀書状」(天正6年、
1578年)には、播磨神吉城攻めの戦功があったとして、光秀が守勝に50石を与える旨が記されている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/86d278f0552af2613eb497dd7492301174470050 謎解き 伝説のミステリー3時間SPは新しかった
光秀はもともと武田に内通、穴山が織田に寝返ったことでそれが露見することを恐れ
取り急ぎクーデターを起こしたと >>492
穴山信君を暗殺すれば良かったんじゃない?
家康がやったように
信長を討つって斜め上すぎる とはいえ穴山が寝返ってから3ヶ月ちょっと経ってるしのぉ・・・ >>492
穴山より前に勝長が織田に戻ってるからちと苦しく思えるし内通を穴山しか知りえないというのもなあ…
木曽は国境を接しているから知っていて然りだと思うけどね そもそも内通してないぜ
していたら信康の時に合わせて詮議されたろ 内通とかウケルわな。単なる視聴率稼ぎのでっちあげ
光秀が農民に殺されたなんてのは、どう考えても光秀を貶めるための作り話
真相
↓
農民に殺されたのが本当だったとしてもそれは影武者。
実際は光秀は逆に逃げ、安土城に入った。
秀光が光秀から安土城を死守するよう言われていたのに、速攻城を出て坂本城に向かった理由がこれ。
安土城に来た光秀から、妻子の後事を頼まれたからである。
信長しか見ることのできなかった天守からの光景を眺めつつ光秀は、対岸の坂本城が燃え始めたのを確認、
自らも天守とともに逝った。
光秀のことだろう。信長と一献酌み交わし、誰にも聞かれることのない歌でも一句読み逝ったのだと私は思う。 光秀は元々将軍義昭に仕えてたんだから
義昭と信玄の間の取り次ぎという形で
信玄とのやり取りは多少はあっただろ。
そんなのは内通とは言わない。 【AI】
本能寺の変は明智光秀の部下斎藤利三の暴発
以前に斎藤利三は明智光秀の四国の長宗我部を説得して織田-長宗我部の同盟を成し遂げた、そして長宗我部の家臣との縁戚を結んだ
その後、織田が長宗我部への圧力を掛け始めたため斎藤利三は板挟みになり信長への反感を募らせた
明智光秀は部下の斎藤利三の不満を解消できず、遂に斎藤の暴発を黙認した
その代わり本能寺をせめるのは斎藤利三の手勢のみ、さらに信長を討ち漏らした時は明智光秀は斎藤利三を討つことを伝えた
斎藤は了承して本能寺は向かい、明智光秀は本軍を遠く後方で待機させて結果を待った
本能寺の変は信長と信忠の討ち死となり、明智光秀は斎藤利三を配下へ戻し、天下取りの道を目指した REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 沈んでいた“幻の城跡”姿現す!琵琶湖が渇水「取水制限も」
水中にあった「坂本城」の石垣が姿を現したのです。湖岸に本丸を置く城は織田信長の命を受けた明智光秀が築きました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/463c3f07995ae11630562d237aa87aeef65c158c 織田!信長は!これと〜日向守光秀が!てえぇぇぇばぁいいたす! てえぇぇぇばぁしたのは誰のためですか?
ミッツ「共産主義者さんたちのためです」
中◯共産党「褒めてとらす!褒美に犬HKで主役にしたる」 信長は弥助に黄色い猿🐒と言われ本能寺で斬首。森蘭丸も信長に介錯され斬首
光秀〜村重〜信長はベロチュ〜する間柄。家康は刺客に狙われまくり影武者無限に存在
最後はビート秀吉が獅童と光秀首を蹴飛ばして終。 ノブ「デアルカ ブツフデェ!」
ミッツ「そうじゃあぁぁ!貴様のクビじゃあぁ!」
ノブ「ブツフデェ!バシはシナヌド!」 >>492
穴山が武田見捨てる頃もう御家ボロボロだし光秀が加担するとは思えない 光秀の坂本城石垣を保存へ 宅地造成工事中止
71年か 初期に造った城だから規模は小さいのかな? 天海が、犯人だった ってあってるけど
天海は明智光秀じゃない
そして坂本龍馬は、天海の分家と言ったらいいかな、天海元々武将だし
だから、坂本龍馬は織田信長の仇打ちで織田家に殺された