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【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る10
0001人間七七四年
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2020/05/31(日) 20:10:21.88ID:mP+Q8JqG
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代、安土桃山時代の武将。

通称は十兵衛。
父は明智光綱のほか、明智光国や明智光隆の説もある。
さらに信長に仕えるまでの前半生には不明な点が多いが、
明智軍記では美濃明智城主として斉藤道三に仕え、その没後は諸国を遍歴したとされる。
-------以上wikipediaより転載---------

その他秀満や光忠などの明智一族、
斎藤や妻木や溝尾や藤田などの家臣も話題も歓迎。

■武家家伝_明智氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aketi_k.html

■過去スレ
01 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1167303526/
02 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298723473/
03 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307845255/
04 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1313811216/
05 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1335185140/ 
06 http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1356441969/
07 http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1405418610/
08 http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1422822273/
09 https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1486627556/

■関連スレ
天海=明智光秀だった!!!
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151671577/
本能寺の変の真実
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1436049039/
0310人間七七四年
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2021/03/07(日) 00:45:13.89ID:KNghJvtw
このスレ、信忠スレのやべーやつに次の移住先として狙われてるな…
0311人間七七四年
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2021/03/07(日) 06:38:34.62ID:RMHbHH5z
ぜひこちらで保護してください!
0312人間七七四年
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2021/03/07(日) 11:03:22.87ID:Vdm1gDg7
どちらかと言うと彼は嫌がってるけど
武田内通説とか折檻説とか本能寺の詳細を
連投するからこっち行けって言われてる
0313人間七七四年
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2021/03/07(日) 11:50:18.32ID:pWTX4zuK
本能寺の詳細ならともかく武田内通とか折檻説とかなら仮想戦記スレじゃ?
0314人間七七四年
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2021/03/07(日) 11:59:32.58ID:WjqZnnsA
仮想戦記大嫌いだそうですいません
0315人間七七四年
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2021/03/07(日) 14:10:56.90ID:Mv8K5fRi
>>313
なに言ってやがる
先入観なくして史料読み込んだ上での仮説提唱だ
現状では折檻は間違いなくあったと思っている
同時代史料ほどそこに触れているのは信忠スレで何度も史料を示してきた
武田内通説(この場合、細川家記の斎藤利宗発言)については、私だって内心は疑問です
ただ、乙夜の再発見前から利宗の重要性に着目していたし、利宗は細川家に預けられていた人物ですよ
乙夜の記述をおおむね信用できるとするなら、細川家記の利宗発言だって再検証してはどうですか?と提案しているんです
0316人間七七四年
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2021/03/07(日) 14:22:17.05ID:RMHbHH5z
史料モーモーさんキターーーーー!
0318人間七七四年
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2021/03/07(日) 14:51:40.32ID:Mv8K5fRi
では、本能寺襲撃に限った史料比較
取り扱うのは同時代史料ないじは準同時代史料で、簡素な現代訳語します
まずはもっとも成立が早い惟任退治記(天正10年10月)、光秀は2万余騎で本能寺を襲撃

将軍(信長)はこのこと(謀反)を夢にも思っていなかった。前夜は宵近くまで信忠と親しく語り合い、愛妾と過ごした(中略)光秀は進軍途中、明智弥平次光遠、同庄兵衛、同次右衛門、同孫十郎、斎藤利三以下、諸卒を四方に分け、御所(本能寺)を夜明け前に取り巻いた。壁を引き壊し木戸、門を破り、一斉に侵入した。信長の運は尽きた、天下静謐なので用心していなかった(中略)たまたまお供していたものも洛中に散らばり遊興していた。身の回りには小姓100人弱しかおらず、信長は夜討ちに際し、森蘭丸を呼んで問うと、蘭丸は惟任の謀反だと言った。
恩を仇で返すのか、生者必滅もこれまた常道、いまさら驚かんと、弓をとって広縁に出て、5,6人を撃ち倒したあと、十文字の鎌(鑓)で何人か倒して門外に追い散らした。
だが、数カ所に傷を負い、蘭丸はじめとしたお側を片時も離れぬ小姓が名乗りを上げて枕を並べて討ち死に。中尾源太郎以下70、80人もいったんは防いだが衆寡敵せず果てた。信長は愛妾をことごとく指し殺し、自らの手で御殿に火をかけて切腹した。
0321人間七七四年
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2021/03/07(日) 16:20:48.95ID:Vdm1gDg7
大村由己は秀吉の祐筆で命令で
伝記や新作能をほぼリアルタイムで
書きおろした人物

つまり基本的にその著作は政権の
その時点での公式見解と観ていい
0322人間七七四年
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2021/03/07(日) 16:59:26.95ID:+EhuZvrI
6月1日夜、明智光秀が亀山城を出陣。
「六月一日夜に入り、丹波国亀山にて明智光秀が逆心を企て、明智左馬助(秀満)・明智次右衛門・
藤田伝五・斎藤内蔵佐(利三)らと話し合い、"信長を討ち果し天下の主となろう"と策略を企てた。
(【当代記】では溝尾庄兵衛も加わっている)」

「亀山から中国方面へは三草山越えをするところ引き返し、東向きに馬首を並べ、老の山へ上り
山崎から摂津の地へ向かうと兵に告げ、話し合った者達に先手を命じた。
六月一日夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎の天神馬場、摂津街道である。左へ下れば
京へ出る道である。ここを左へ下り、桂川を越え、しだいに夜が明けてきた。」【信長公記】
0323人間七七四年
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2021/03/07(日) 17:01:10.15ID:+EhuZvrI
(この時の様子を明智軍の兵士が記録している)
「信長様に腹を切らせるとは夢にも思いませんでした。ちょうどその時、太閤様が備中に毛利輝元殿を
討つために攻め入っていました。そこへ、援軍として明智が向かうよう命令がありました。 山崎の方へ行くと
思っていたのに、思いのほか、京都へと命じられました。 私は、ちょうどその時、家康様が上洛されていたので、
家康様とばかり思いました。 本能寺という所も知りませんでした。」【本城惣右衛門覚書】
0324人間七七四年
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2021/03/07(日) 17:07:19.02ID:+EhuZvrI
「左馬助様(明智秀満)先手にて、信長様御宿本能寺へ取り懸けられ、門が開かないので、左馬助様より
仰せられたことは、"城之介様(信忠)が謀反により光秀がお味方に参り申した、早々に門を開かれるように"
と伝えると、御門番の衆は驚き、ひとまず門を開いたので、そのまま押し入り…」
【吉浦郷右衛門覚書 明智一族 三宅家の史料】※明智秀満の子、三宅重利の子孫による覚書(江戸中期成立)
0325人間七七四年
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2021/03/07(日) 17:20:05.31ID:Mv8K5fRi
>>321
惟任退治記見返すと、女房衆を逃した描写がないんですよね
それどころか(詳しい描写は省いたけど)愛妾と遊びふけって、あまつさえ最後は殺している
これは信長を崇めつつ、暴君という印象をつけようとした秀吉の意向と想像してます
信長公記と乙夜では(愛妾ではないが)女房衆は逃しているし、夜遅くまで囲碁を観戦したなんて記録はありますが、愛妾の部分は信用できないと思います
0326人間七七四年
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2021/03/07(日) 17:26:16.85ID:Mv8K5fRi
>>324
この史料はしりませんでした
しかし、中国方面に向かう明智勢が予告なく現れ、しかも近くにいて手勢も少ない信忠の謀叛を信じるものかは疑問
光秀はどこで信忠の謀叛を知ったんだ?という疑問も浮かぶでしょうし
乙夜之書物では、「下郎」(中間)が朝、門前の水撒きのために門を開けた
そこに軍勢がいてびっくり
慌てて門を閉めようとしたが付け込まれた、という展開です
0327人間七七四年
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2021/03/07(日) 17:44:14.68ID:X01PzGAC
>>325
>これは信長を崇めつつ、暴君という印象をつけようとした秀吉の意向と想像してます
本能寺後の安土の炎上を秦の阿房宮にたとえているのもそれの一環だろうな、
信長=始皇帝的な。
更に言うなら明智を楚にして秀吉自身はそれを討った存在=劉邦のような印象を読んだ人に抱かせることを考えているかもしれない。

参照ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348/175
0329人間七七四年
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2021/03/07(日) 18:30:44.33ID:Vdm1gDg7
>>324
「信長が信忠の謀反を疑った」という説
(というか創作)はその辺がネタもとなんかね
0331人間七七四年
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2021/03/07(日) 18:43:00.14ID:+WfbXYqN
三河物語のほうが成立早いんじゃない
0332人間七七四年
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2021/03/07(日) 18:48:33.75ID:X01PzGAC
三河物語
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992777/108
0333人間七七四年
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2021/03/07(日) 22:52:34.11ID:xb1TDjGz
史料比較第二弾、信長公記から

そんなところに思わぬ事態が起きた。6月1日の夜に光秀は亀山で、明智左馬之助、次右衛門、藤田伝五、斎藤利三と談合し、信長を討って天下人になろうと調議した。(中略、桂川を越えるとようやく明け方になった)すぐに本能寺を取り巻き、四方より乱れいった。信長も小姓も下々が喧嘩を始めたと思ったが、そんな様子はなく、鬨の声があがって鉄砲が撃ち込まれた。
信長が「これは謀反か、誰の仕業だ」ろ問うと、森乱は「明智軍と思われます」。これを聞いた信長は「是非に及ばず」。すぐに敵が御殿に侵入し、面御堂の番衆も御殿に集まり一手になった。馬屋からは矢代らが打って出て討ち死に。このほか中間衆24人が討ち死にした。
御殿では森乱ら27人が戦死した。小姓らは斬りかかって死んだ。湯浅、小倉は分宿していたが、敵に混じって寺に駆け込み戦死した。台所口では高橋虎松がしばらく支え、比類ない働きだった。
信長は最初、弓を2、3回射たが、天運が尽きてつるが切れ、その後は鑓で戦った。肘に鑓で傷を負って引きのき、これまでそばにいた女房衆に「女は苦しからず、急いで逃げろ」と声をかけて追い出し、すぐに御殿に火を放った。遺体を敵に見せまいと思ったのか、殿中深くに入り込み、内から納戸の扉を締め、一思いに切腹した
0334人間七七四年
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2021/03/07(日) 23:06:04.77ID:xb1TDjGz
信長公記のほかの記述と違い、きわめて淡々と事実を並べています
だいたい、ほかの合戦では「敵味方火花を散らし」などといった定型の形容があるんですが、本能寺襲撃ではなし
せいぜい高橋虎松の比類なき働きくらい
太田牛一は実地に体験していないと思われますので、伝聞と女房衆への取材成果を脚色なく記したと推察されます
また、女房衆を逃したという記述の初見でしょうか?
乙夜の記載(恒川斎仁が女房衆の生き残りから話を聞いた)を考える上で極めて重要であろうと考えます
ただし、ここらはのちに触れようと思うのですが、恒川が女房衆に話を聞く前に、太田牛一は女房衆(同一人物かも?違うかも)に取材しているのは確実でしょう
0335人間七七四年
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2021/03/07(日) 23:10:25.25ID:+EhuZvrI
「明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。ところでこの事件は市(街)の人々の意表を
ついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こったなんらかの騒動くらいにしか思われず、事実、
当初はそのように言い触らされていた。

我らの教会は、信長の場所からわずか一町を隔てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこちらに来て、
折から早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリオン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。
そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかもしれないと報じた。まもなく銃声が響き、
火が我らの修道院から望まれた。」【フロイス日本史】
0336人間七七四年
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2021/03/07(日) 23:36:39.87ID:xb1TDjGz
>>335
ちょうどいま、そこ読み返していたんですが、3000で本能寺を囲んだというのが乙夜の2000余騎に近似しているんですよね
フロイス自体は事件当時は九州にいても、南蛮寺は本能寺至近
あと、あなたがお示しになられた吉浦郷右衛門覚書、原文の一部?を読めるサイトがあったので目を通しました
きわめて興味深い
一部を除いて史実とされるものに整合するし、左馬之助が安土から坂本へ移る描写は、とても乙夜に似ています
また、別のサイトでは、史料中に見える大文字屋が当時あったか検証したものがありました
私も手元の信長公記で確認しましたが、永禄12年に上京の大文字屋が初花を徴発されてます
細かいところはともかく信憑性はありそうですね
0338人間七七四年
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2021/03/08(月) 08:42:30.87ID:NtBrUsLv
それなかなかの力作よね
たまに観る

>>332
三河物語からだったのか!ありがと
前読んだ筈だが忘れてる・・・
0339人間七七四年
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2021/03/09(火) 22:18:40.72ID:eTgY/MWt
今回は乙夜之書物から、前後に分かれている本能寺襲撃シーンをつなげて記します

一つ、明智弥平次、斉藤内蔵助は2000余騎にて本能寺に押し寄せると、早くも夜はほのぼのと明けた。水撒きの下郎(中間)が水桶を担いで外に出ると、敵が押し寄せている陣を見た。寺内に入って門を閉めようとすると「あの門を閉めさせるな」と押し詰め、門を打ち破って乱入した。
当番の衆が「これは何事だ」と慌てて出てくると、すでに敵は門内に押し込んぢた。おのおの鑓を持って縁側の上下で攻め合い、信長公は白い帷子姿で髪を乱して出てきて、弓にて座の敵を射た。弓の弦が切れたようで、弓は投げ捨て、十文字の鑓を持って攻め合った。そんなとこりに傷を負ったようで、白い帷子に血がついていたように見えた。鑓を捨てて奥に入ると、ほどなく奥の方から焼け崩れた。
一つ、番衆も随分働いたが、思いもよらぬことだったのでいずれも素肌でわずかの人数だった。敵は具足兜に弓鑓鉄砲を備え(以下は朝日新聞写真が途切れて不明)


ここまでが前半パート。番衆以下の部分はわかりませんが、その前の部分は明智方(というより斉藤利宗)の見た本能寺襲撃と明確に読めます。水撒きが出てきてから戦が起こり、信長が縁側の上から弓や鑓で戦い、けがを負ったようで白い帷子に地が染まり、奥に入ったら時間をさほど置かずに出火した経緯を明智方から目撃しています。乙夜のすごいのは次の、別部分に記された描写です
0340人間七七四年
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2021/03/09(火) 22:38:44.39ID:eTgY/MWt
こちらのパートは本能寺内部から見た描写です


信長公は傷を負ったようで、明け方になって居間へ帰った。台所の方から焼亡したようで、煙がやってきた。信長公はどのように思ったのか、畳をあげて四方に立て掛けた。女房衆が4、5人(近くに)いたが、「いずれも出ろ出ろ」と声を掛けたので逃げでた。女房衆だったからか、敵も構わずに逃げることができた。
右の女房衆のうち、長生きしたものから聞いたと恒川斎仁が語った。


信長の(ほぼ)最後を見た人の証言がソースつきで残っている超重要史料です!恒川斎仁という人物については別スレ(信忠スレ)で詳述したのですが、身元の確かな人物です。こちらでものちに記そうと思いますが。
まず、惟任退治記と比較すると、十文字の鑓が共通(惟任退治記の原文では鎌で、後世の編者が鑓か?と付記)。ただし、付記はあくまで後世なので、乙夜が惟任退治記を参考にした可能性は考えられますが、やはり斎藤利宗からの情報と考えたいところ。信長公記では単純に鑓としており、肘に傷を負ったというのが惟任退治記、乙夜よりも詳しい点。
信長公記と乙夜の共通点は、女房衆に逃げろといっているところです。細かい文言は違いますが。こちらも乙夜が信長公記を参照した可能性はありますが、生き残りから恒川が直接話を聞き、それを乙夜著者の関屋政春に話している部分が目新しい
0341人間七七四年
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2021/03/09(火) 22:44:03.59ID:eTgY/MWt
信長公記の情報元がだれなのかは謎ですが、逃げ落ちた女房衆とも容易に想像できます
少なくとも4、5人落ち延びた誰かから事件から遠くない時期に聞いたのでしょう
恒川は、長生きしたと特記している女房衆から聞いているので、同一人物か別人かは定かでないですが、太田牛一よりかなり遅れて聞いたのは間違いない
しかし、一つ言えるのは両史料ともかなり信憑性が高いといえそうだということです
また、内容も酷似しています
そこも信用がおけそうなポイント(信長公記から丸パクリしたとは思えない記述があるので)
0342人間七七四年
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2021/03/09(火) 23:00:56.08ID:eTgY/MWt
とともに、惟任退治記とも大筋は同一である(愛妾と遊びふけって、ついでに殺したという部分以外)
いままでも陰謀論者以外はおおむね、信長が弓、鑓で戦った、けがをして奥に引きのいて火をかけた、という展開は信じられてきたと思います
そこにソースが(名前なし、間接とはいえ)示されたことが乙夜の画期ではないでしょうか
細かい話でいえば、信長が畳をあげて四方を囲ったところ
前後、原文では「信長公いかが思召たるか、たたみあげて四方に立かけたまう」
女房衆はその意味を理解していないんですが、なぜそんなことをしたのか
祖父物語では、森乱が信長の遺骸に畳5、6帖をかぶせたという記載があります
森乱の証言が残るはずもなく、これは畳を四方に囲ったのを見た女房衆の話から類推して逸話が残ったと考えたいのですが、どうでしょうか
0343人間七七四年
垢版 |
2021/03/10(水) 01:55:30.75ID:okQMRhN7
槍(やり)と槍疵
薙刀(なぎなた)と弾創
尊経閣本では「その後、御長刀(なぎなた)取らせられ候ところに、御肘に鉄砲あたり、引き退き候」
0344人間七七四年
垢版 |
2021/03/10(水) 02:12:59.44ID:okQMRhN7
畳が現在のような寸法になったのは織田信長が敵の鉄砲や槍から身を守る糧として使用する為、
人間の大きさに合わせたと言われている
0345人間七七四年
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2021/03/12(金) 22:01:01.07ID:A1yK/NQJ
>>343
これは有益な情報
ありがとう
最近は天理本に注目が集まったり、信長公記研究も進んでおり、いろいろ楽しいですね
0346人間七七四年
垢版 |
2021/03/12(金) 22:13:04.34ID:A1yK/NQJ
>>343
乙夜から推察するに、退治記も信長公記も信長の戦闘描写は明智方の証言に取材したと考えたい
本能寺で明智方に降った人は弥助くらいしか明示されていない
ただ、中間あたりは降伏して証言した人がいたのかもしれないが、どうだろうか
信長の最後の描写は女房衆証言プラス想像(ソース明記の乙夜は畳をなぜだか理解できなかったが四方に立て掛けたところまで。利宗も火が上がったとしか書いていない)といったところか
乙夜の再発見により、かなり信長の最後は詳らかになってきた
もっと正確に言うと、これまでおおむねそうだと考えられていた記述にかなり、信憑性がもたらされたというべきか
さらにほかの史料も挙げて解明していきたい
0347人間七七四年
垢版 |
2021/03/12(金) 22:16:41.36ID:A1yK/NQJ
>>343
あと付言
乙夜証言(斎藤利宗と思われる)では、目撃談に「○○と見えて」とある
私は「のようで」と訳したが、つまり利宗は忙しい戦闘の渦中で一部始終をきちんと見られたわけではない
だが、そういう断言していない叙述姿勢に信頼がわくのです
0348人間七七四年
垢版 |
2021/03/12(金) 23:13:56.40ID:ckraQ8hR
何でその程度の根拠で信憑性がもたらされたなんてなるんだ?
単に元史料参考に創作していったとも取れるし。
0349人間七七四年
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2021/03/13(土) 00:13:52.09ID:62inCNQr
>>348
恒川斎仁について語る必要がありそうですね
そう、乙夜作者の関屋政春に、信長の女房衆から聞いた話を伝えた人物であり加賀藩士です
恒川という一族は尾張津島の有力者で、さらに前田家の荒子七人衆
の一人、山森久次という人物がのちに恒川姓を名乗ります
恒川というのが信長、利家に極めて近い氏族と分かります
で、恒川斎仁なんですが、史料に痕跡が残っています
大日本史料所載の加賀藩歴譜という史料です
この中で、前田利長が本能寺の際、上洛途中で瀬田橋にいた
そこで変の一報を受けて荒子に嫁を避難させるのですが、こんな記述がある

「恒川斎仁筆記云、奥村次右衛門、恒川久次(荒子七人衆の山森久次ですね、中略)急ぎ内所の供をし、荒子へ」

恒川斎仁は、主に恒川氏の顕彰のためかもしれませんが、歴史を調べて筆記を残しているんです(これは憶測ですが、信長女房衆であれば信頼できる人間を置く、つまり取材相手は恒川まわりか津島、荒子出の人間ではないか?)
また、恒川の兄か弟か分かりませんが、斎仁とともに二人、利長の御伽衆だったという記録もあります
これでも信憑性薄いと言えますか?
史実を探求していた人が信長女房衆にそのほぼ最後を聞き、又聞きではあるが関屋政春がその証言を残した
信長の最後に関し、いまのところ情報源を記した唯一の史料といってよいわけですよ
私は朝日新聞のホームページに載った乙夜之書物の写真しか読めていないので断言はできませんが、とても信用できると思うんですよ
信用してよいと思う傍証がほかの史料からも出てきますから
逆に、信用できないといえる部分を教えてほしい(といっても、乙夜の記述の全部が正しいなんて言う気はさらさらありませんが)
0350人間七七四年
垢版 |
2021/03/13(土) 00:43:22.00ID:62inCNQr
ふと、尊経閣文庫は前田家の文庫ですね
太田牛一の古態を残す信長公記抜粋を所持していたり
尊経閣文庫の15巻がどんな形態か無知ゆえ知らぬのですが、鉄砲傷というのは加筆の可能性は?
太田牛一よりも詳しい情報を知っていたからとか
ここまでいくと誇大妄想ですが
いずれにせよ、前田家は信長への執着がすごいんです
利家の各種夜話読んでもそうです加賀藩歴譜(本藩御譜)自体は幕末の成立ですが、そこで恒川斎仁の筆記が採用されている
これ、いまに残ってたらすごい史料の可能性ありますよ
なにしろ関屋の乙夜は又聞き(これでも十分すごい!)ですけど、もっと詳細に書かれているかもしれない
また、脚色せずに「女房衆は意味が分からなかったが、信長公は畳で四方を囲った」という情報を関屋に伝えたのは、史実に対して誠実であろうとした姿勢も感じられますし(そのまま記した関屋にもいえます)
0351人間七七四年
垢版 |
2021/03/13(土) 00:56:07.89ID:62inCNQr
元史料から創作した
そもそもこういう意見が出ると思って、成立時期の早いものから順に検証してるんです
もっとも成立が早いのは惟任退治記
次は信長公記でしょう
それぞれ違いがあります
世間に広がった範囲でいえばどっこいどっこいです
乙夜は江戸初期のあと、といった成立で、関屋はおそらく両書を読んでいる
パクって創作するなら、信長公記に記された「是非に及ばず」なんてキャッチーなセリフを使うでしょう?
乙夜の構造として、攻め込む側、攻め込まれた側が、それぞれ知り得る範囲のことが記されている
家中秘伝の軍学書であるから、誠実に聞いたところを記している
そう思えませんか?
0353人間七七四年
垢版 |
2021/03/13(土) 09:32:22.03ID:So0ACpTQ
パクって創作という作為的な行為ばかりでなく
著述にあたって先行する書物を参考にすると言う
しごく当たり前で誠実な態度もあるよね

本を書くなら独自ソースがあっても
先行書物も当たるし独自ソースで足りない部分は
それで(意識的、無意識的どちらにせよ)補うことになる

殊更に乙夜の信用性に疑問を挟む気はないけど
信用できるできないというのは文書単位より
記述単位で考える方が適切ではある
一般論として
0354人間七七四年
垢版 |
2021/03/13(土) 10:15:55.79ID:UpvBGWo2
むしろ何でその程度の人間関係で信用できると思えるんだ?
判断基準が違い過ぎて妄想乙としか思えないが、これは私が疑り深いだけだろうか
0355人間七七四年
垢版 |
2021/03/13(土) 11:04:15.77ID:42mUN1OY
>>351
>家中秘伝の軍学書であるから、誠実に聞いたところを記している
>そう思えませんか?
全く思わないなー、そんな理屈が通るなら軍記物の大半が信用出来るってことになる。
そもそも誠実に聞いたところで話してくれた人が誠実かどうか記憶が正しいかって問題もあるし。
0356人間七七四年
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2021/03/13(土) 11:41:09.12ID:42mUN1OY
畳部分はそれなりに検証しても面白いと思った。

畳の記述は惟任退治記信長公記など乙夜之書物が書かれたとされる時期
その当時において知られているような軍記物に記述は無い。

祖父物語の畳を被せたとした記述部分
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348

・祖父物語を乙夜之書物の作者が参考に出来るほど当時知られていたか
当時祖父物語が知られていないなら、
それ以前に出た軍記物にはない記載が全く別系統の記録にそれぞれあるってことになり、
その部分に限定すれば信憑性が出てくる。

・祖父物語だと、光秀が死体が見つからないと慌てた所、
利三が落ち着かせようと森が信長の死骸の上に畳を、なので利三がハッタリかました可能性
これだと話自体が嘘ということになる。
その場合だと、乙夜之書物の作者がどのように畳の記述を思いついたかだが、
利宗(か誰か)が利三の嘘を真に受けていただと、本能寺内の記述は当てにならなくても
それ以外の記述は本当に利宗とはいかなくても明智関係者から聞いた可能性が出てくる。

・あと一応可能性は更にないと思うが、
江戸時代初期辺りの軍記物や社会通念などで籠城や屋敷攻められて死ぬとき
畳を使う例があるようなら、祖父物語乙夜之書物ともに独自に畳の記述を考えたという偶然論もあるか。
0357人間七七四年
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2021/03/13(土) 11:48:52.89ID:Mld8craM
足利義輝の畳に押し包まれて討ち取られたも近い時代の史料にはないんだよな
0358人間七七四年
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2021/03/13(土) 12:01:49.42ID:42mUN1OY
信長公記惟任退治記以外だと
当時有名な軍記物はこの辺りだろうか。
甫庵信長記初めて読んだw
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544605/32
川角太閤記
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899814/12

もっと後の明智軍記は祖父物語を参考にはしていないようだ
ttps://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200005236/images/200005236_0009_00024.jpg

>>357
そういえば義輝で畳使うってありましたね、
だったら上で挙げた戦死時に畳の記述が使われるからたまたまって可能性も切り捨てては駄目ですね。
0359人間七七四年
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2021/03/13(土) 17:39:17.53ID:So0ACpTQ
いざ探すとなかなかソースとして適当なものが
見つからないのだけど武術の世界では
防御手段として畳を立てると言う話は稀に聞く

畳返しと言ってしまうと途端に怪しくなるが
大真面目にやってた人もいる
http://www.taikyokuken.co.jp/goshin/story8.html
0360人間七七四年
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2021/03/13(土) 20:25:34.50ID:62inCNQr
>>352
noteの方は私も参考にしています
私より史料を読む力は深いので

もう片方ははなはだ疑問です
太田牛一「信長公記」成立考 でPDF検索してほしいです
とても古い論文ですが、慶長3年が下限という結論です
九州にいるフロイス、なんて関係ないほど時期が離れています
それとは別に、宇野主水日記で太田牛一が顕如に三木合戦あたりの読み聞かせしてた記述があったんですが、何年かは忘れました
ただ、少なくとも天正10年中ではない(こんど確認しますが)
私は、やはり大事件なのでその場にいた人の話がすぐ広がったと考えてます
祖父物語なんかに残滓がある
それとは別に、改めて恒川が老後の女房衆に取材して、関屋に伝わったと思うんです
0361人間七七四年
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2021/03/13(土) 20:29:38.16ID:62inCNQr
>>353
私もあなたの論に賛成なんですよ
たとえば乙夜に山崎の戦いの描写がありますが、すごく通俗的なんですよ(次男坊が行方不明だからサヨナラって利三が戦線離脱したり)
ただ、私は鳥羽に光秀が控えていたという描写や戦闘の一部始終、信長の最後については信用してもいいかな、と
0362人間七七四年
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2021/03/13(土) 20:43:24.52ID:62inCNQr
>>356
祖父物語はとくに後半の秀吉がでてくる前後から荒唐無稽(信長がお付き1人で諸国漫遊したり、秀吉に小便かけたり)なんですが、話し手が清須の古老だけあって、流布されていた噂をきっちり収載している雰囲気があるんですよね
これは推測ですが、尾張へ逃げ落ちた女房衆の話が清須で流布していたと思うんです
身の回りの世話をする女房衆は尾張、美濃、広げても近江出身である可能性が高い
玉石混交の噂の中で、上様は最後、なぜだか分からないけど畳で四方を囲んでいた、という証言もあったという読みです
祖父物語は噂集と捉え、前後の一貫性にはあまり注目する必要がないかなあと
ただ、関わりがなさそうな史料同士で類似の点があるので、そこの部分については両書が補完して信憑性考えてもいいかな、と
0363人間七七四年
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2021/03/13(土) 20:53:24.34ID:62inCNQr
>>359
あくまで女房衆なのですが、乙夜の原文掲げると「信長公いかが思召たるか」とある
女房衆は畳をあげる意味がわかっていなかった
明確な防御の動きではなかったと読みたいところなんです
信長は居間に帰って、ほどなく台所の方から煙がやってきた
それに続く記述が上記です
死を覚悟した信長が遺体を隠すかより焼けるためにした行動と個人的には思うんですが、異論も多いかと思います
女房衆も歴史家である恒川も、軍学者の関屋もはっきりとは目的が分からなかったと思います
0364人間七七四年
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2021/03/13(土) 21:05:15.05ID:42mUN1OY
何故かPCで書き込めないスマホで書き込むの厳しい

>>362
流布しているなら他の史料に一切話がないのはおかしい
流布しているなら乙夜も噂聞いて創作したという可能性も考えられる
0365人間七七四年
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2021/03/13(土) 21:21:54.49ID:62inCNQr
>>364
天下にあまねく流布、とは言いません
尾張出身の女房衆が逃げ帰って狭い範囲で流布、という可能性もあるわけです
乙夜は創作する必要がないし(公刊する書物ではなく、関屋なりの軍学の秘伝書)、恒川という人をおいていますがソースが明示されている
恒川という一族は津島、荒子以来の家臣で、その周辺の筆記を残しているのが斎仁
女房衆に話を聞く動機も手段、地縁もいかにもある人物です
秘密の暴露じゃないですが、尾張つながりの乙夜、祖父物語にほぼ同じような記述がある
ここを重視したいんですよ
まあ、場合によっては乙夜、祖父物語のどっちも同じ女房がペラペラ吹聴した可能性もありますが
0366人間七七四年
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2021/03/13(土) 21:25:41.04ID:62inCNQr
あと、当時の本能寺に関して必見の論文を紹介します

中世本能寺の寺地と立地について−成立から本能寺の変まで−

これで検索すると立命館大学のPDFで読めます
2008年なので発掘成果などは反映されていませんが、立地や位置づけ、信長の政権構想にまで肉迫しています
真ん中付近からの信長絡みだけ読んでも十分
0367人間七七四年
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2021/03/13(土) 21:56:30.21ID:PnT0pIGu
明智光秀が何時に亀山城を出たかいろいろ説があるが、
光秀が亀山城を出た時には信忠はまだ本能寺に滞在していた
(夜が更けたので信忠は暇乞いをして、妙覚寺の宿へ帰った)

明智軍が本能寺を襲撃して、その後二条新御所へ移動したのは
信長殺害が最優先事項だったか、信忠が妙覚寺に帰った情報が
後から入ってきたかではないかと個人的に思う

いずれにせよ、光秀がどうやって情報収集したのか個人的には気になるところ
光秀が京に(幾つか)屋敷を構えていてそこから情報収集したって説もあるけど
外からの情報だけで本能寺を襲撃するリスクを負えたのか甚だ疑問
0368人間七七四年
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2021/03/13(土) 22:02:59.24ID:42mUN1OY
武功夜話がそうとは言わないが非公開とされていたとしても創作する理由などいくらでもあるだろ
0369人間七七四年
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2021/03/13(土) 22:06:14.30ID:42mUN1OY
武功夜話みたいにって意味

スマホじゃ無理だまともな文章書けない、もうやめる
0370人間七七四年
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2021/03/13(土) 22:22:15.74ID:62inCNQr
>>368
理由も動機もあるにはあるでしょう
ただ、それ以上にいろいろつながるわけですよ
一次史料だって事実誤認や誇張、ウソが混じっている
他史料やさまざまな情報を鑑みて史実か否かを探っていくわけですよ
乙夜については、まず公開前提の史料ではない(萩原先生も信憑性を担保する重要な証拠に挙げている)
情報元が明記されている(斎藤利宗、井上清左衛門、恒川、女房衆などなど)
目撃者でなければ知り得ない情報が含まれている

とくに情報元が記されているのは重要ですよ
なぜそこを軽視するのか分からない
掘っていけば納得の人物ですし、加賀藩は公式記録に恒川の筆記を採用している、それも本能寺周りの記述で
情報元が記されている史料では、川角太閤記もそうです
あれも、ソースが明示されている部分はおおむね信用できると思っています
次は川角太閤記を引用します
祖父物語と川角太閤記ってとても似ている史料です
祖父物語は慶長12年頃、川角太閤記は元和の成立
清須の田舎村の祖父物語を参照したとは思えないと先に付記しておきます
0371人間七七四年
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2021/03/13(土) 22:26:22.19ID:62inCNQr
>>369
また今度
武功夜話は昭和になって悪意をもって捏造されたもので比較にならないかと
三河物語とかでしょう、あれも門外不出
だからといって全部信用はできない
一つひとつ検証するのが大事
0372人間七七四年
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2021/03/13(土) 22:46:49.49ID:62inCNQr
>>367
京屋敷があったのは一次史料に残っています
ただ、きちんと情報収集なんてできていたのか
結果的に謀反が成功したことからの合成の誤謬ではないかと
とにかく信長を叩き殺せ!という短慮しか感じられない
変に至る過程を細かくまとめた論文に以下があります

本能寺の変の再検証 : 先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合

四国説なのが玉に瑕なんですが、とても参考になります
電子データで読めます
近衛を讒訴した宮内卿法印と光秀の確執とか
文武のトップに対立があったようだ
動機をひとつに絞ろうとするからおかしくなるわけで、いろいろ追い詰められていたんでしょう
0373人間七七四年
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2021/03/13(土) 23:02:27.80ID:V9+lamaW
悪意をもって捏造とか言っちゃうやつが史料語ってんのね
もう書き込まなくて良いよ
0374人間七七四年
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2021/03/14(日) 00:56:27.00ID:YuZbOSXv
1582(天正10)年1月11日、光秀家臣の斎藤利三が石谷光政に、長宗我部元親の軽はずみな行動を諌め
信長の指示に従うようにと伝える。【石谷家文書】

1582年5月7日、信長が信孝に讃岐、三好康長に阿波を与える領地配分を伝える。【寺尾菊子氏所蔵文書】
(信長は信孝と三好康長を養子縁組の画策)

光秀側も長宗我部元親にこれ以上信長に逆らうなって意図が感じられる
四国説は無いかなって個人的に思う
0375人間七七四年
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2021/03/14(日) 17:03:19.65ID:poCLAxDT
>>374
四国説は光秀を悩ませた要因の一つ、くらいに考えたい
新しい史料が見つかって悪ノリしてる勢力がいる
0376人間七七四年
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2021/03/14(日) 17:37:33.25ID:K1BtgXoc
そう、光秀の置かれた立場を理解するには重要な情報だろうね
でも光秀にとって一番の重要事項ではない
0377人間七七四年
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2021/03/14(日) 19:18:45.32ID:4PX2POF2
>>373
そう言わずこっちのスレで蟄居させてください
0378人間七七四年
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2021/03/14(日) 21:26:50.96ID:YuZbOSXv
信長は、長宗我部元親に切り取り次第としていた四国の所領の約束を反故にしたが、
土佐一国と阿波南郡半国を所領として認めようとしていた

1581年8月、毛利と同盟を結ぶ。【8月7日付 乃美兵部丞宛 長宗我部元親書状】

光秀側も長宗我部元親にかなり手を焼いてる感じで、四国征伐を阻止するために
本能寺の変を起こす理由付けは無理がある
0379人間七七四年
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2021/03/14(日) 22:11:52.16ID:CdICMe4R
>>377
君らずっとレベルの低い口喧嘩してよく飽きないね
あっちいけ
0380人間七七四年
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2021/03/14(日) 23:55:13.72ID:fD950sGb
あっちいけなんていう幼稚園児レベルの発言が出るようなスレだもの
0382人間七七四年
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2021/03/16(火) 22:56:47.71ID:3KbjPZkJ
>>378
概して四国説の論者は史料の取り扱いが雑というか、恣意的なものすらある印象です
石谷文書は信長政権と四国政策に裏付けを与えるもの、くらいに捉えておきたい
そこらはこれまで、長宗我部系の軍記にしか記載がほとんどなかったと記憶してます
元親記だったか、たしかに本能寺に関して元親と光秀の関与をにおわす記述自体はあるんですけどねえ
あれ読んでも四国周りがほぼちんぷんかんぷんなので、意味が取りにくくて困るんです
研究者はさすが
0383人間七七四年
垢版 |
2021/03/17(水) 08:23:12.95ID:ZFzjy9Sd
光秀ラインで進んでた対四国政策が
あの時期頓挫しつつあったのは確かだろう
だからといって四国のために光秀が立ち上がる
なんてことが起きたと思えないけど

単純に「秀吉との出世競争で」とか
「織田家での影響力がなくなって」とか
言われてることの具体例と考えていいと思うけどな
0384人間七七四年
垢版 |
2021/03/17(水) 13:06:36.80ID:LB4wQXpE
土佐には明智の系図があるらしい
坂本龍馬がその子孫だとか、そんな話を見た

普通に山内氏の入国に付いてきた中に明智氏の縁者がいただけと思うが、
こういう戦国から幕末への歴史ロマン的なものも四国説を後押ししてるんだろうか
0385人間七七四年
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2021/03/17(水) 17:42:08.63ID:AYXRnM4L
>>384
あれは明治の小説が出元なので
残念ながらまともな研究者の中で信じている人はいないと思います
最近じゃ坂本龍馬の位置づけも下がっていますし
明治と昭和の小説家が生み出した幻影というよりないのではないでしょうか
0386人間七七四年
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2021/03/17(水) 20:39:54.31ID:AYXRnM4L
それでは川角太閤記の本能寺描写
まず、信長公記記載の謀反5人衆を挙げて、山崎長門守、林亀之助の雑談(ぞうだん)ではそれはなかったと指摘
以下に抄訳

光秀は6月1日申の刻(午後3時頃)ごろ、家中の物頭に「森乱が上様の意向として、中国出陣の用意ができたならば閲兵したいと飛脚でいってきた。心得てい出陣すべきだ」と亀山をたって東の柴野へ出たときは酉の刻(午後6時)だった。光秀自身が馬に乗って周り、軍勢を三段に備えた。光秀が斎藤利三に軍勢の数を聞くと、1万3000はあると答えた。
光秀はそれより南に馬を出し、軍勢から一町半離れたところで重臣5人と話し合った。5人以外おらず、光秀は床几を降りて敷皮に座り、存念を語った。
「上様が私をここまで取り立ててくださったことは皆もよく存じておろう。3000石だったとき、にわかに25万石を拝領し、家臣が少なかったので大名衆から呼びとった。すると3月3日の節句に岐阜で、大名高家の前で面目を失った。その後、信濃の上諏訪にて折檻され、このたびは家康接待で失態があったとしかられ、西国出陣を命じられた。こうしたことが再三あったので、我が身におおごとが及ぶといろいろと考えたが、右の三か条の恨みがある。世は有為転変だ。老後の思い出に一夜なりとも天下の思い出を得たいとこのほど思い切った。みなが同心しないなら一人で本能寺に乱れいって腹を切る覚悟だ。おのおのいかにいかに」
0387人間七七四年
垢版 |
2021/03/17(水) 20:58:23.49ID:AYXRnM4L
読み返したらとても長いので大幅に抜粋

一同は賛同。天野源右衛門を先行させて防諜活動、瓜畑の農民20、30人を殺害(これは天野の証言に基づく)。桂川につくと軍装を改め、今日より天下様になるとお触れ。利三が先手を指揮。ここまでは山崎と林から直接聞いた話だ。これから先は信長公記に詳しい。

と記している
桂川で謀反の意思を兵卒に伝えたのは乙夜と一緒
襲撃場面については信長公記に異論がないという
別スレに詳細記したので省くが、山崎と林の素性はたしか
川角太閤記にでている経歴や逸話も他史料で確認できる
天野の防諜活動については(ようするに行軍中に人がいたら殺す)は本城覚書にもある
おおむね、他の史料と整合します
0388人間七七四年
垢版 |
2021/03/18(木) 13:37:42.02ID:eA9h8FlU
単に他の史料を参考にしたで済む話
0390人間七七四年
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2021/03/18(木) 19:33:53.49ID:YJ2bOcZv
創作だと尚更有名どころの軍記物なんかと整合性取りつつ、微妙に変えたり、独自の逸話を入れたりするもんな
0391人間七七四年
垢版 |
2021/03/18(木) 19:39:58.26ID:Gztu/nFT
>>388
川角太閤記は甫庵信長記よりも成立が前
頼れるものは惟任退治記と信長公記
実際、川角太閤記では信長公記に言及し、かつそこにないところや間違っていると主張しているところを描いてるんです
ソースつきで
それをとくに論証もなく「参考にしただけ」とはね
0392人間七七四年
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2021/03/18(木) 23:25:04.33ID:4W+wXAH7
>>390
ほう、史料に詳しそうだ
ぜひ勉強させてもらいたい
例えば具体的にどんな史料が挙げられます?
5つ6つくらいは教えてほしい
参考にしますので
0393人間七七四年
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2021/03/19(金) 01:12:13.26ID:Swst6Dlg
390じゃないが有名どころだと甲陽軍鑑とかか。

石水寺物語他を編集してか、甲陽軍鑑が作られ
北条五代記とか川中島での一騎打ち描写とか軍鑑の影響と言われてる
(一騎打ちは北越軍談にもあるらしいが読んだことない)

韮崎合戦も軍鑑が初出だと思うが、その影響受けて溝口二木の家記にもあるし
武田三代軍記や小平物語も影響受けて韮崎合戦があったことになってる。

ちょっと違うが高白斎記も軍鑑の影響を大きく受けているというかほぼ丸映し部分が混入しちゃってる
0394人間七七四年
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2021/03/19(金) 01:18:00.47ID:Swst6Dlg
武田三代軍記はデジタルにあったから貼っとく。
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881523/58

>>391
自分としては388に賛成で
碌に検証しないで他の史料と整合性があると言われても、そりゃ388みたいな意見しかでないだろと。
0395人間七七四年
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2021/03/19(金) 01:24:47.09ID:cQVasskX
上にあった畳の話ぐらいには検証しないと、話の膨らませようがないとしか

概ね史料と一致すると言われてもそりゃそうだろとしか、
そんなこと言ったら歴史小説だってある程度は一致する
0396人間七七四年
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2021/03/19(金) 01:40:27.55ID:Swst6Dlg
史料の検証したいなら
論点がわかりにくい、どの部分を検証したいのか明確にしないとってのもあると思う。
0397人間七七四年
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2021/03/19(金) 09:19:59.35ID:peG9goSn
山田風太郎の書いた忍法帖という膨大な史料だが
なんと当時起きた事件の顛末については
他の史料と概ね整合してるんだ
0398人間七七四年
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2021/03/19(金) 12:46:39.75ID:LF/IQpYu
他の軍記物にはない独自の記述が一次史料で裏付け取れるとかだとその部分は信用出来るってなるけど、
他の軍記物と似たような記述があるってアプローチじゃ
既存の軍記物参考にしたのか独自の情報ソースがあったのか簡単には判別付かないからな。

そもそも簡単に判明するようなら学者がとっくに結論出してる。
0399人間七七四年
垢版 |
2021/03/19(金) 17:20:55.41ID:6Umy0bBa
>>398
甲陽軍鑑の信用できる部分も裏付けがとれる箇所だからな
0400人間七七四年
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2021/03/20(土) 07:57:29.37ID:Upu/9BjX
>>9
どこかの総理大臣みたいだな。
でも総理と違って光秀は頭いい。
0401人間七七四年
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2021/03/20(土) 09:17:15.73ID:WnECV36Y
どうも土岐源氏の由緒ある血筋とかでもないみたいだし、けっこう成り上がり者らしくガツガツした人だったみたいだけど、ルーツがどうあれ有能だったことだけは疑いようのない事実ではあるな
0403人間七七四年
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2021/03/20(土) 09:36:25.51ID:yJletSoM
頭が悪くても出世できるんだ。織田家ってちょろいんだな。
0404人間七七四年
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2021/04/22(木) 10:10:17.82ID:6jaDAd2r
頭良くても悲惨な末路を辿る歴史人物は結構いるからな
0405人間七七四年
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2021/04/22(木) 13:11:37.30ID:h4C0E67A
信雄は勝ったのか負けたのか。大禄を喪失しながら1630年で天寿を全うしたが
0406人間七七四年
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2021/04/22(木) 17:22:20.37ID:n3cIHrqQ
勝ったか負けたしかないのかお前には
0409人間七七四年
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2021/04/24(土) 12:02:12.20ID:4sEyt4+y
信長父子を襲ったのは光秀乱心だと思うね
父子を殺した先の準備をしていないからね
0410人間七七四年
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2021/04/26(月) 14:16:14.10ID:7+3wyBhd
>>193
細川は羽柴の援軍明智のさらに与力としね中国攻めの準備はしてたはずだよ
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