三好長慶と一族が長生きしていたら?
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信長の前に中央に政権を築いた三好長慶。
しかし十河一存、三好実休、三好義興、安宅冬康と兄弟・子息を立て続けに失い、自分も病死して政権は崩壊同然になった。
もし、長慶と兄弟子息が生きていたなら、信長は畿内に進出できたのであろうか。 全国政権だと言っているわけじゃないのだから何の問題もないだろう 長慶があと数年存命なら畠山と通婚するか重臣を送り込んで実質支配下に置いてた可能性が高そうだ
三好政権の武将は大軍や混成軍のの運用には慣れてるから案外早くに天下統一までいった可能性もないとは言えない 江戸時代までは本朝百将伝や英雄百人一首にも選ばれるくらい知名度があったのにな
オランダだかの日本史の統治者の変遷にも、内裏(天皇)、室町公方の次に、三好殿、信長、羽柴太閤様、内府様と書かれてるくらいだし、少なくとも当時の日本においては天下人として認められていたってことだよな 朝廷が足利義輝と幕府頼りねえと思って三好長慶頼ってたくらいだから天下人であったことは間違いない 三好が天下人?
六角程度の兵力しかないじゃん。
同時期の上杉輝虎、北条、毛利、大友の方が巨大勢力だろ
西機内勢力にしてもとくになんもなかった
信長みたいに朝廷、将軍使って何かしたわけでもない
むしろ傀儡将軍立てたけど各地の大名は認めず
義輝に使えてた武田信虎でさえ味方につかず去っていった 大友の官位を上げて毛利牽制に使ってたはずよ三好
ましてや変えた元号をみんな使ってるし 動員兵力は三人衆+松永と上杉北条毛利大友でいい勝負だろ
地方と違って畿内は万の軍勢はすぐ集まる 3万程度の織田軍に蹴散らされた三好が
毛利大友北条以上は無いわ
検索してみたらやっぱり少なかった。
三好は数千程度が多く、集めてもせいぜい2万ほど
畠山の軍勢たして4万とかあるが ちょこっと思い返しても教興寺の戦いとかでがっつり兵率いてると思うが
まぁ、四国と畿内で領国が分かれるしあっちついたりこっちついたりが畿内衆は特に多いんで正確な兵数測りにくいってのはあるだろうが
なんか本郷あたりが兵数少なかったって本出してた気がするけど、それを真に受けてしまったんだろうか 教興寺の戦い 三好6万?
さすが誰でも書けるWikipedia
内訳もあるけどひでーなこれ
これ信じてるやつって龍造寺の沖田畷6万、河越野戦8万、上杉の小田原征伐10万をころっと信じるアホでしょ こういう兵数ってのは相手側の記録もないと信憑性無い
一次史料だなんだ言われてる信長公記だと長篠1ヶ月前に10万騎集まって感動しただの
桶狭間のおかしすぎる兵数、
上野ほとんど領有してないころの北条対武田では北条軍6万など書いてしまってるが武田の軍艦では4万。
軍艦のほうが正解に近いだろう。
桶狭間も信長公記では今川軍4万5000
軍艦では2万。これも軍艦の方が正解に近いだろう。
こういう兵数ってのは対戦相手の記録か第三勢力の記録もないと実数がわからない
では三好は250万石近くあったのかというとそんなにない。
6万ってどっから沸いたんだ
三好の場合だと四国にも兵は残さなければならず全軍を畿内に向けるなど不可能 言継卿記なり多聞院日記なりでも畠山抜きの畿内勢のみで2万程度
全軍とまでは言わないが四国勢からさらに2万程度はちょくちょく上陸させてる様子は描かれてるな
教興寺の記述はヴィレラ書簡で盛られてるだろってのはその通りだけどやはり1万単位で兵動かしてる
やはりそこらの大名に兵数で負けてるって認識はしづらいな 教興寺の戦い Wikiペディア
三好方 60000余
摂津35万石 国人衆:25000余(多すぎる。10000が妥当)
丹波26万石 国人衆:7000余(多すぎる。5000が妥当)
山城22万石 国人衆:300余
播磨:500余 播磨の東南1/20程度領有してるだけなのでこんなもん
淡路:200余
讃岐12万石 国人衆:7000余(多すぎる。2200が妥当)
阿波18万石 国人衆:5000余(多すぎる。3000が妥当)
譜代・旗本:5000余 ???
一門衆:10000余 ???
摂津:25000
丹波:7000
讃岐:7000
阿波:5000
からすでに動員してるのに譜代、旗本、一門衆 15000どっから湧いて出た
2重に計上してんじゃん
朝日新聞みたいな印象操作するの好きだね三好ファンって。
しかも上のこれ守備兵割いてない全力出撃の兵数。実際はもっと減る
もぬけの殻で出陣なんてあり得ない
こんな計算でいいなら武田軍120万石は4万で西上作戦してるわ
永禄5年(1562年)5月14日 三好義興、松永久秀、三好康長、三好政康、三好長逸、安宅冬康、十河存保の軍勢が飯盛山城救援に出撃。
「「「「号して5万」」」」ともいう大軍であったという。
ああ、よくある自称ね
ってか太閤検地でさえ120万石に余裕で届きませんねぇ
1562年なんて太閤検地の頃より石高は低いはずでもっと下がる。
石高+金収入とかいいそうだけどそれ出していいなら織田なんて桶狭間の時点で2万動員したりとんでもない兵数になり
毛利、大友なんて8万動員しちゃうわ
1578年宇喜多も味方で中国地方の大半の国人衆が毛利に味方してた時でさえ毛利は6万さえいったこと無く3万程度だ
1562年の三好が6万も動員できるわけねーだろ 人の話読めよちょっとは、読めないならそもそも他人を煽るなよ というわけで三好の石高計算から最大でも2万程度の軍勢動かすのが精一杯
のちの完全制圧してない大和入れても3万行くことは無いだろう
ましてや無駄に広範囲に国があるため兵を置かないで済む国が無い
武田が上杉と戦っていた時は北条、今川と同盟結んでて美濃からの侵入も木曽さえ置いとけば大丈夫で
斎藤は斎藤で国内ガタガタ、織田に攻められ対外侵略などしてる余裕は無しで留守は少なく済みほぼ全力で北に迎えた
武田信玄が北条と戦っていた時は織田家と同盟。平山優氏いわく明確な史料は無いが信長が徳川に武田領に攻めないよう自重求めたのだろうと推測。
その言葉の通り徳川静観で北信濃に守り置くだけで北条と戦えた
三好にはこれができない。
守備兵割いたら2万きるね 動員可能数は4万程度、もちろん四国の虎の子1万強を入れての計算なので
即座に動かせる兵数は自前の1万と畠山氏の支配領域から1万程度と考えるのが妥当
これは関ケ原の動員数だけ見ても明らかに間違いのある石高からの兵力算出ではなく、言継卿記なり多門院日記、細川両川記の記述から
もちろん目測なりがあるので過信はできないが、第三者の記録としてある程度信用していいと思うよ >>66
六角氏が戦わずに敗走したのは三好義興が一色(斎藤)龍興と同盟に向けた交渉をしていたと古簡雑纂にあるねぇ残念ながら
あと教興寺の戦いが三好対畠山の戦いだと思ってるやつはWikipediaを批判しつつも結局はwikiに毒されてるのな
実質は三好対足利義輝だったことにこの戦いの意義がある
兵数が〜とかどれも概算こねくり回してるだけだろアホらしい >>47
確かに、信長の野望を織田信長でプレイすると、隣国の隙を突いて戦争仕掛けまくって気付いたら近畿と山陽を制圧してたわ。
で、本願寺や武田やらの仕業で禁裏から朝敵にされる 当時5畿内に200万の人口(総人口の6分の1)と国内最大の商業都市を抱えてるのに5万も徴兵できないのかよ 職種も多様だしね
あと畿内は寺社の勢力圏が強いから寺社所属の兵士や人口も差っ引かないと あのあたりの時代で5万以上の兵隊が出てくる戦いってよっぽど限られると思うが
それこそ鵜呑みにできない記述ばっかだし 摂津の人口は当時の九州一個分とどっこい
25000くらいいても不思議ではないな 池田単独で万余の軍勢を動員できるのに
最盛期の三好なら5万は動員できる
東国とちがって銭で雑兵を雇えるし米も買えば調達できる
なんせ本願寺も法華宗も三好と組んでるんだから物資は潤沢に調達できる 石高とかいうド田舎の指標で兵数を推定するのは妥当性がない 三好久助だけで2万人率いてたって言継卿記か多聞院日記に書かれてなかったけ? 将軍相手とか勝ち確だから2万ぐらいすぐ集まりそう
雑兵を臨時雇用する形なら それは結果論
将軍側につきそうな六角とか寺社に対して三好は切り崩し工作してる
結局はカネ払い
織田のような殲滅戦争しないから負けても死なない 相手が国人の寄合世帯の戦国大名なら
信長が朝倉や浅井にやったように
調略しかけまくって内部崩壊させたろうけど
紀北から泉南・河南に進出してた根来寺は難敵だよね
金はうなるほど持ってるし
養ってる僧兵はガチで強いし 三好一族は主君細川を下克上で討つわ、将軍義輝を殺害するわ、将軍義昭を襲撃するわで、逆賊、大悪党じゃないか?
当時は新聞やラジオ、テレビ、インターネットがない時代だから世間の評判なんてものは当人たちの耳には届かないけど、当時の公家や他の大名や庶民たちからは三好一族はどんな評判だったのだろうか?
天下の大悪党?逆賊?
戦国時代はこんなのは当たり前だから特に問題なしなのかな? 細川との揉めは細川との確執や国衆問題もあって畿内国衆はある程度わかってる
義輝殺害も当時の公家の記述に将軍が謀反したため、と書かれてたりかなり三好寄り
ただ地方の方はわりかし将軍が死んだのはショッキングな出来事だったようである
って感じ
うわべだけを見ず、なぜ揉めたのかとかまで見た方がわかりやすいんじゃないかな >>83
将軍が謀反ってのがおかしい
謀反は家臣が主君にそむいて兵をおこすことだから
将軍に力が無くお飾りのような存在だったにせよ、主君は将軍で家臣は三好でしょ
鎌倉幕府も室町幕府も将軍が殺されたり追放されたりして、将軍の存在意義が無いな それを俺に言われても困る
当時の公家に主上ご謀反って書かれてるし
天皇だろうと当時の実力者に対しての反逆は謀反とみなされるのはいくらかあるし 信長公記にも書かれてるからな
当時の人の認識が伺える 弘治改元の朝廷への費用負担を義輝が怠っていてさらに辛酉、甲子の年は慣習で必ず改元しないといけないがそれも義輝が費用を捻出できず怠った
永禄改元後は朝廷からの知らせもないほど完全に無視されているので朝廷と公家は義輝に代わって費用負担したと見られる三好を支持してたのは明らかだよ
ちなみに義輝は改元を知っても永禄の元号を使わなかったんでこれは天皇の権威に服さないのと同様と見なされる 主君であるのはその義務を果たしてこそな訳で
それが果たせてないとみなされた場合は世間でも扱い雑よね 三好長慶って麒麟がくるでも凄い悪人っぽく描かれてるけど、地元民からは尊敬されてるって話も聞いたことがある。
良い評価とかも結構されてたりするの? 天野先生の研究とか読んだらいいんじゃないかな
少なくとも単純な悪人像を思い描く人は研究読んだ人では結構少ない
というか麒麟が来るのあれも別に悪人のように描いたわけではなかろうよ 三好長慶(山路和弘)のキャストメッセージ
どう演じるのがいいのか?三好長慶の人物像を自分なりにあれこれ考えながら撮影初日を迎えたら、
監督から「めちゃくちゃ悪そうな感じで」と言われました。
それは得意分野だったので「よっしゃ、わかった!」という感じだったのですが、次の監督からの言葉には驚かされました。
「このころの長慶は20代です」。いやいや、むちゃおっしゃる(笑)。
大河ドラマの三好は悪役で描かれているね >>91
あれ悪役として演じるよう指導されてたんですね、それは知らなかった
ありがとうございます 仕方なく長慶が悪役させられてるけど実際は義輝の方が暗殺しかけたり反三好扇動したり裏で色々あくどい事してる >>95
代替わり後は文化人としての名声も高いから相当賢かったと思うよ 現代人の感覚からするとこの時代は理解しがたい。
将軍は偉い人で三好君の上司なんだよね。
三好君は上司が気に食わないことをすると怒って兵を集めて襲撃して上司を追い出したり、仲直りしたりしてるんだよね。
会社がこの時代だったら面白いね。
部長と課長が対立して部長派と課長派の社員が戦ったり、専務が社長を暗殺したり、非正規雇用の契約社員と派遣社員が一揆を起こして正社員を襲撃したり。 >>100
三好長慶は将軍から給料もらってないし自分で領地を経営して稼いでるんだから会社に例えるのはちょっと無理があるんじゃない? 無理なたとえは理解にゆがみ生むからやらない方がいい
分かりやすいと正しいは別 でも戦国時代の人間関係って会社の雇用関係に似てるなってのは俺もそう思う。
武士って主人である殿様に自分の人生も命も捧げて誇りを持って忠義を尽くす…ってイメージが昔はあったけど
実際には自分の主人は結構コロコロと何度も変えたりするし、
元々自分より身分の低い血筋の成り上がり社長にも、普通にお仕えするし
ドライな雇用関係みたいなイメージがだんだん強くなってきた。 会社の雇用関係に全然似てない
現代は職業選択の自由
「能力があれば」どこの会社を選ぶのも自由だし起業してもいい
戦国時代はまだ身分制度がキッチリあった時代だから
家臣の家系に産まれたら「下克上」しないと主君を超えられない
他家に仕えるのも自由でなく、いつ殺されてもおかしくない
旗揚げしようとしたら、いつ殺されてもおかしくない
この辺の感覚は現代と全然違うことを忘れないようにしないといけない 国家公務員みたいなもんだな、キャリアとノンキャリア。議員さんにはハイかイエスでノーはないさか。
大名は国会議員みたいで、上洛したり配置換え、江戸時代は参勤交代もあるし。 >>82
細川との関係は微妙だとは思うよ、当時幕府って言われてたのは実際には管領細川家の勢力だし。
その細川家の本家に分家の阿波守護家から養子が入った時についていったのが三好。
それが畿内のごたごたで気が付いたら本家の家老を事実上全部倒してたってのが三好長慶の親父。
其の後細川の当主と険悪に成って戦死だから、主君と言うより手切れした元同盟者かな。
細川家自体が複数系統で内紛繰り返してて、三好は阿波から来た養子担いでた訳。
でも、三好の勢力拡大が面白く無くて粛清と。
だから三好長慶から見れば細川晴元は親の仇でもある。 問題ばかり起こす細川専務より現場で指揮する三好部長の方が信望があったんだろ
だから元長を排除するのにも宗教団体に頼らざるを得ない
下剋上は三好氏の独断専行ではなく摂津周辺の武士の総意 どうしても会社に例えたいのなら三好長慶と松永久秀の関係でしょ
三好と細川管領家、将軍家の関係は企業と管轄省庁や政治家との関係みたいなもんだよ
いずれにしろ現代に当てはめたいからといって歴史を歪めるのは良くない 三好長慶は天下を治めるべく帝王学を叩き込まれた麒麟児だよね
義興も同様に教育されてたろうから両者の早すぎる死がなければ
どんな世の中になっていたか興味深いよね その三好も阿波三好家と三好本宗家は別会社みたいなもんだしな 長慶がしばらく元気で生きていれば将軍義輝の殺害はなかっただろうね
そうなると信長の上洛も将軍義昭もなく歴史は大きく変わっていただろうな >>111
その場合、義輝が暴走しかねん。
義輝が織田や浅井らに上洛命令だしかねんし、嫌でも反三好戦争が起きそう。 >>112
三好家と織田家は守護代家同士で早くから誼を通じてるからそれはないかと
大友は毛利と鍔迫り合いで東進する余裕はない そもそも長慶ら三好一族は武力で天下を統一する気はあったのかな? まず戦国武将のすべてと言い切ってもいいレベルで、天下統一なんて考えてない
支配領域や権威が増えるに従って責任が増えていつの間にか天下を差配しないといけなくなってるってのばっかり
天下取りたがる奇特な人物なんて足利将軍くらいじゃないかな?
天下人になるっていう名誉以外、デメリットしかなくて そもそも日本を支配するってことは社会を作るってことだからね
信長でもこんなこと考えてないだろう
例えば鎌倉の源氏の目的も公家になって朝廷に入ることを目指した
武家政権なんてどこまで本気で考えていたのかわからん
結果に的に幕府と朝廷が敵対して朝廷を頼ることができなくなって
泰時が武家の法律を作り社会をつくった >>113
三好と織田が通じていた事実なんてないぞ。
大友? 何で大友が出てくるのかな? まあ信長が義輝担いで上洛戦やるのは十分あり得るな
濃尾北伊勢に浅井の軍勢加えたら三好の倍くらい兵力あるだろうし >>119
長慶が政長を攻め滅ぼしたとき勝手に晴元が義輝を巻き込んで逃亡しただけで、長慶に将軍家と敵対する意思はなかったじゃん
義輝不在時に代わりの将軍を立てなかったことが何よりの証明だし
それにプライドが高く猜疑心の強い義輝がわざわざ素性の知れない信長のところまで行くと思うか? >>120
素性の知れない信長と1559年に会見してるだろ。それと長慶の手足になる兄弟が死んでるなら長慶に往時の判断力はないだろう。 それはそうと義輝は景虎を上杉家の後継と認めたうえで近衛前久を連絡役にしたりと
長尾景虎への肩入れはすごいね 当時の状況考えれば信長のところに行くくらいなら六角とか斎藤のところに行くだろ普通 >>123
六角は野良田と観音寺でボロボロ。
斎藤は義輝より13も年下のガキが当主でやはり家中はボロボロ。
頼ってもこいつらはもう無理だ。 景虎は唯一義輝の上洛要請に応じて兵連れて上洛したからな 近衛前久って関白なのに義輝に連絡役に使われたり、義昭によって京から追放されたりしたけど、関白は将軍よりも地位が上のはずなのに、何で将軍にそんな扱いを受けていたのか疑問だ。 >>118
取次を介して互いにやりとりしてるしその史料も残ってたはず
でないと永禄2年に500の軍勢率いて上洛したり堺を訪問できるわけないじゃん
堺は三好の軍事拠点にして本拠地だよ
最も幕府の権威を当てにして義輝に献金してたのが大友義鎮でしょ >>122
謙信も素性考えると不思議な人なんだよな。もともと謙信の産まれた春日山長尾家は守護代で
守護の上杉氏の当主を弑逆「謙信の親父」したりしてる。
其の後分家筋の上条上杉の上杉定実を確立。でもこの人は病死して越後上杉家は断絶。
つまり、山之内上杉から見ると同族の越後上杉の家老なんだけど険悪で戦争までしてる。
幾ら北条氏に追い詰められたからって、よくも越後に逃げる事考えたな。
建前では家来筋だけど、この時代だと下手すると殺される可能性有るのに。 >>122
三好長慶の方でも小笠原長時の信濃復帰ために
長尾輝虎に動いてもらいたい思惑があったとか
長慶は老獪であらゆる階層に食いこんで勢力を拡大させたから
義輝もうまく利用してたたんじゃないかな >>129
親父や親族を殺した人間は自分の親より強いということで尊敬の対象になるのはこの時代の武家の思考にあるので別に不思議なことではない >>132
何言ってんのこいつ?
色々間違えてないか? 安っぽいifの話ばかりでどうでもいいと思ったけどこのスレ自体がifのスレなのな 紀伊と丹波に爆弾抱えていたからどのみち長く続かなかったろうな
丹波方面の戦いだとそのうち朝倉が介入してくるだろうし >>135
朝倉が丹波まで長駆行ける能力はないだろ。
若狭ですら手に余ってたのに。 朝倉は加賀一向一揆がいるから本格的な上洛戦は無理だよ
三好長慶は本願寺の荘園の代官をしてるくらい法主との関係が良好だからね >>137
仲が良かった割には、長慶が死んで織田が上洛したらあっさり鞍替えしたな本願寺。最初から三好と組んで抵抗したら良かったのに。 >>138
あれは信長というより義昭に挨拶しに行ったんだろうね
最近は信長公記が織田信長寄りにバイアスかかってるという研究も出てきていて信長公記を元にすると辻褄合わないことが結構指摘されてる 義昭に挨拶しに行った時点で「信長寄りです」って表明したも同じだろう。
まさか義昭に挨拶して信長に挨拶したわけじゃないんだからねッ! って言うのは通用しないと思うぞ。信長は義昭の事実上の後見人なんだから。地位や官位はどうあれ。 >>136
朝倉義景の叔父は越前波多野氏の養子に入ってるぐらい関係深いよ
その関係もあって波多野宗高は越前に朝倉氏の支援に赴く途中で討たれてる
波多野氏から兵が出せるという事はまたその逆だって可能と言えば可能 美濃側にちょくちょくちょっかいかけてるよね、朝倉氏 >>140
ところが信長上洛直後の京都より西側は松永久秀
おまえはもう信長公記の虜だな >>136
若狭に援軍出して松永弟を殺しているはずだけど この時期だと若狭国の三好シンパは逸見氏ぐらいだ
特段、越前〜丹波の往来が困難になる事もない >>144
ところが信長上洛直後の京都より西側は松永久秀
なんじゃこれ?
松永久秀は当時大和だからどう考えても西側はあり得んよな?
河内若江に三好義継、高屋に康長、摂津有岡に池田、それに三人衆とかのはずなんだが……。
誰か144の翻訳してくれ。
大和っていつから京都より西側になった? >>138
win-winの関係を築いてる畿内の覇者の三好を切って朝倉と結ぶわけないじゃん
信長には恫喝されたから矢銭を納めたけど
その後は三好三人衆と結んで信長と戦っただろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています