三好長慶と一族が長生きしていたら?
信長の前に中央に政権を築いた三好長慶。
しかし十河一存、三好実休、三好義興、安宅冬康と兄弟・子息を立て続けに失い、自分も病死して政権は崩壊同然になった。
もし、長慶と兄弟子息が生きていたなら、信長は畿内に進出できたのであろうか。 畿内の覇者って、長慶が死んでゴタゴタを数年間もやらかした時点でもうその地位から転落してたってことに気づけてなかったのか。そもそも宗家当主の義継と結んでない時点で三好家と結んでたと言えるのか。 >>140
本願寺は享禄・天文の乱で滅亡寸前まで追い詰められた後に
三好長慶の尽力で和睦にこぎつけてから
武家との武力闘争を放棄して融和路線を取ってたんだよ
寺社が紛争する勢力から禁制を得るために礼銭を納めるのはごく普通のことで
本願寺の矢銭5000貫も既得権の保証のための上納金であって
それをもって信長と同盟したということではないよ >>149
ここは長慶が存命というifスレなんだが… >>147
三好三人衆や篠原長房の京都への東進を全て引き受けたのは松永久秀だよ
信長と足利義昭の上洛に合わせて村上武吉や毛利元就との連携を取り次いだのも松永久秀
信長の上洛時に三好の抵抗がほとんどなかったのは三好の軍勢が大和から備前にかけて兵力が分散されてしまったため
その兵力分散させたのが松永久秀
確かに松永久秀は大和を領地としてるが三好長慶の部下としては摂津が領地だった時が長くて三好政権下で畿内一帯及び隣国の西国大名との取次をしていた関係で顔が利く
もちろん堺も
そもそも信長公記の記述だけを信じて信長の軍事力だけで上洛戦が完結したと考える方が無理あると思わないかい? 横からだけど
天野氏が言ってた織田政権はあくまで織田・松永(三好)・足利の同盟連合政権であったり
当時の松永は決して織田から家臣扱いされるほど影響力が低くないって話かー
言わんとしたことがわかってとてもすっきりした
ただ信長公記の記述のみしか見てないって煽ったり、京都より西側は松永久秀って発言はさすがに説明不足すぎてちょっとよろしくないかな
相手の方は荒意見聞かなかったり決して調べないような人ではないし、ご自身の主張に自信があればあるほど言葉を気遣って話してもらえるといいかなって 連合政権って言うけど、例えば細川政元や三好長慶の場合、前政権との連合政権だったかな?
政元の場合は、日野富子と伊勢氏の力が必要だったから、まあ連合政権といえる。日野富子が死んで解消ってところか?
長慶の場合は、氏綱をどうしても必要としたから、三好、細川連合政権。
信長の場合、久秀が必要かな?
義昭と昭元を抑えてるし、当時の松永って筒井や三人衆に押されるくらい弱体化してたはずだが。 実際最終的には筒井との関係とか考えないで松永キレさせて攻めてるけどそれはともかく
畿内に顔が利いてしかも幕府の要人としてノウハウもあるっていう部分は充分に必要になる要素じゃない?
義昭は顔が利くとは言い難いし昭元は信長上洛時で20いくかいかないかくらいだっけ? 織田政権の当初は京都と幕府御料地は義昭、大和は松永、河内は南北を三好義継と畠山、摂津は三守護で分割
畿内各地の自治都市は信長に恭順することで三好時代同様の都市特権を認められてたはず
畿内のほぼ全域を直接統治していた三好家よりもずーっと緩い支配体制だよ
だから度々三好の反抗でぐちゃぐちゃになり
離反者が相次いで最後に明智光秀によって完全に瓦解するに至った 長慶とその兄弟がもう少し長生きしてたらなとは思う。
長慶ひとりではどうにもならないだろう。 >>157
そういう事、畿内の殆んどは名目上は幕府の傘下に入っただけで、実質的に織田の従属同盟下に入った
だけでしかないね。
畿内の諸勢力が別孤に織田と同盟結んでる状態。
信長は上洛後にすぐに伊勢に戻ったりしてるし、尾張美濃伊勢の三ヶ国の完全平定が優先だった
んでしょうね。
この辺を理解しないと大和の筒井や摂津の荒木の存在が理解できない事に成ります。
筒井は松永の宿敵で間接的に織田と抗戦してるし、荒木も摂津三守護の池田氏の婿で家老の
立場から三守護全員倒して摂津一国の領主に成りあがった。
間接的に織田と抗戦してるんですがね。 >>155
上洛当時畿内に織田の勢力基盤存在してないしね。
幕臣の領地戻してやったくらいしかしてない。
松永を敵にすれば、簡単には潰せないでしょう。 >>100
人々は従順で頭がよく女も東アジアではかわいい。権力基盤がないこの時代を征服できたら最高だな
秀吉が女に狂いまくって豪遊しまくったのも納得だわ >>162
袖がスりあっただけで殺し合いするくらい殺伐として
人間関係がドライで人情が希薄だったのがこの時代の特徴だけど 阿波の三好軍。皆、竹柄の鎗であった。それは京都人から見るとめずらしかったのだという 元々、三好長慶は嫌いじゃなかったが最近以前よりも増して好きになってる。
wikiの三好政権がかっこええ しかしたったあれだけの登場でネットでの一般評価は鰻登り
天下人と認めない人でも知勇兼備の名将というのは否定しなくなった 会合衆と仲良くするためには茶の湯は必須スキルだったんだろうな
返す返すも実休の死が痛すぎる 英雄たちの選択の武将ランキングで関西ブロック4位
天野先生も露出増えてきたな 大内から足利義維連れ戻して担ごうとしてたんじゃねーの
実際連れ戻してるし 長慶に義輝を排除する意思がないにも関わらず、義輝存命時に長逸がわざわざ義維を連れ戻してるしね
松永と三人衆が対立したのは長慶死後ってことになってるけど、もうその頃から三好三人衆とその母体である阿波三好家は、本宗家とそれに仕える松永と対立してたんだろうなって感じ 三好関連の本を読み漁っての私見だが
三好は細川を乗っ取ったがために細川政権の悪い所(あくまで同族連合体で
家中統制が緩い、特に阿波統治家は畿内の本家から事実上独立している)をそのまま受け継いでしまい
阿波守護家の当主だった実休が死んだ段階で長慶、義興親子では阿波三好家を抑えきれなくなり
二人ともストレスで憤死
この二人の病死後阿波三好の家宰の篠原長房を誰も抑えきれなくなり
篠原が無謀な織田、毛利の二正面作戦を繰り返した挙げ句国力がガタガタになって滅亡した
感じがある 三好関連の本を読み漁っての私見だが
三好は細川を乗っ取ったがために細川政権の悪い所(あくまで同族連合体で
家中統制が緩い、特に阿波統治家は畿内の本家から事実上独立している)をそのまま受け継いでしまい
阿波守護家の当主だった実休が死んだ段階で長慶、義興親子では阿波三好家を抑えきれなくなり
二人ともストレスで憤死
この二人の病死後阿波三好の家宰の篠原長房を誰も抑えきれなくなり
篠原が無謀な織田、毛利の二正面作戦を繰り返した挙げ句国力がガタガタになって滅亡した
感じがある そもそも実休存命時から阿波三好家と三好本宗家との間に確執が何度か生じてその度に三好康長が四兄弟を集めて仲裁してるんだよなあ
戦国期に兄弟仲が良かったとこなんて北条氏くらいなもんだよ >>177
ただ本格的に抑えが効かなくなった感じがあるんだよね
元々阿波三好家は堺公方寄りだし、教興寺の戦いの黒幕は義輝なわけで
当主を殺された事で本格的に義輝から義維流に将軍の首をすげ替えたい阿波三好(篠原長房)
義輝の近習という側面があるためその路線は絶対受け入れられない義興
という 史実通りに信長が濃尾伊勢を制圧したら三好の国力を超えるので結局は史実通りになるだろう
本国四国での長宗我部の台頭も抑えられないだろうし 三好と織田って商業的(堺ー熱田)に繋がりあるし三好が長慶が死んで御家騒動で崩れなきゃそもそも戦にならん気がする
毛利ー三好ー織田で組んでなあなあで戦国終わりそう 「最初の天下人」三好長慶の子孫健在 広島藩の要職歴任 信長や秀吉の文書守る
徳島新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/d6cd6300bf265ff7c77d05da34b6d093d0d95328
16世紀半ば、最初の天下人になった徳島ゆかりの戦国武将三好長慶(1522〜64年)の直系子孫が、
現在も広島市に住んでいる。15代目の三好喬(たかし)さん(80)だ。長慶の死去後も三好家は
存続し、子孫は織田信長や豊臣秀吉に仕えた。江戸時代は広島藩主浅野家の要職を歴任し、藩主一族が
養子に入ったほどだ。喬さんは長慶や信長、秀吉らの手紙などを大切に守っており、来年の
長慶生誕500年を控え、家の重みをかみしめている。 三好元長、長慶の本買ったけど兵力2000とかでしょぼいな
本願寺にまったく葉が立たず殺されてるし朝倉、松平時代の家康より弱い
六角、紀伊畠山も倒せなかった雑魚 >>184
六角も畠山も武田北条朝倉より強大な戦国大名なんですわ グーテンモルゲン!わし、三好やすなが、たぶん戦国武将! 三好及び畿内九州は太平記なみに盛ってるから信じないほうがいいよ
平和になって復興ブーストして大坂本拠地にした秀吉時代でもこんな動員できない
永禄以前なんて全国動員少ないのでわかるだろ
武田信虎なんて甲斐に北条今川侵入して国家存亡の危機にもかかわらず動員できたのは2000
信長も尾張統一戦から桶狭間数百人から3000
桶狭間終わって美濃攻めもそのぐらい10000なんか超えてない
福島正則は尾張半国で5000
20万石無い黒田長政が上杉討伐に5000連れていき本国で如水は9000動員90年以降と同じ石高とは考えないほうがいい
大名の国替えで短期間で築城、城下町作成してる
教興寺の戦い
三好方 60000余
摂津国人衆:25000余 丹波国人衆:7000余 山城国人衆:300余 播磨国人衆:500余 淡路国人衆:200余
讃岐国人衆:7000余 阿波国人衆:5000余 譜代・旗本:5000余 一門衆:10000余
この時代摂津が25000ありえないだろ。摂津だけで100万石相当もあるわけねーだろせいぜい5000
丹波が7000だぁ?波多野が味方とはいえせいぜい2000
讃岐7000んなできるわけねーだろ1000低度
阿波も多すぎ2000以下
てかこの譜代旗本15000ってなんなんだよ
摂津讃岐阿波の兵力からなに更に動員かけてるの馬鹿なの思いっきりだぶってるじゃん
しかもこれ守備兵の概念まったく無し
普通領土広がれば接する敵が多くなり戦力分散強いられる 関東や九州のようなド田舎と
腐っても1000年近く日本の中心で大陸との交易の終着点だった畿内では経済力が格段に違う >>189
東京は石高100万石もねーから1000万人もいるわけねーだろと言ってるのと同レベル
地方都市とは意味合いが違うんだから同列に語るのはおかしい 石高なんて軍役の量を示すもんでしかないから実際にどれだけ動員できるかは別の問題 >>189
讃岐は細川管領内衆で応仁の乱が両細川の乱などの主力だったから、
動員数が1000なら応仁の乱の規模も1000人程度同士の戦いだったことになるな >>182-183
三好義興
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三好義資
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三好義紹
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稲田義信 三好長政
三好義興の嫡男で本来ならば三好氏嫡流となるべき三好義資は、三好康長の甥である
横田村詮を頼って米子へ移ったとも言われている。
しかし、米子騒動によって横田一族は滅び、義資の息子・義紹もその戦いの中で討ち取られた。
生き残った義紹の長男・義信は姓を稲田に変え帰農し、次男の長政は姓を変えず町人となった。 三好義継
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三好義兼 三好義茂
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| 伊吹島大川家
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正継 貞治 正治 成継 正廣
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義浄(伊吹島政所)
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三好作右衛門家 長慶が長生きするには義興の生存一択だな
義興の病死という史実は無視して、阿波の一族が暗殺を計画した事にして影武者でも用意して生存させるifが妥当かな 義興が長生きしてある程度安定したらさっさと隠居しそうな気がする 中公新書の三好一族読んでるんだが義輝はマジでヤベエな
逆ギレ挙兵や暗殺画策には注力するけど本業の明使対応や改元は朝廷と三好政権に丸投げとか