明石掃部、関ヶ原の戦いで敗れた西軍武将の一人として知られていますね。しかし、その最期は謎に包まれており、仙台藩に匿われたという説、彦根藩兵に討ち取られたという説など、諸説ある状況です。

近年、明石掃部に関する史料の調査が進み、その最期をめぐる研究も活発化しています。最新の研究成果によると、以下のような説が有力視されています。

1. 仙台藩に匿された説

従来から有力視されてきた説です。明石掃部は、旧主である宇喜多秀家と共に仙台藩に逃亡し、そこで匿われたというものです。この説を裏付ける史料として、仙台藩の記録に「明石掃部」という人物の名が記されていることが挙げられます。

しかし、この説には疑問も残されています。例えば、明石掃部が仙台藩に匿されたという明確な記述はなく、また、仙台藩がなぜ明石掃部を匿ったのかという理由も十分に説明されていません。

2. 彦根藩兵に討ち取られた説

近年有力視されている説です。明石掃部は、関ヶ原の戦いの後、各地を逃亡していましたが、最終的に彦根藩兵に追いつかれ、討ち取られたというものです。この説を裏付ける史料として、彦根藩の記録に「明石掃部」を討ち取ったという記述があることが挙げられます。

しかし、この説にも疑問点があります。例えば、明石掃部がいつ、どこで討ち取られたのかという具体的な記述はなく、また、討ち取られたという確証となる遺物なども発見されていません。

3. その他の説

上記以外にも、明石掃部は海を渡って海外に逃亡したという説や、農民に扮して身を潜めたという説など、様々な説があります。しかし、いずれの説も確たる証拠に基づいているわけではなく、真偽は不明のままです。