【豊臣】 大坂の陣総合スレッド 6 【徳川】
慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権内部の対立が激化し、慶長5年9月15日には関ヶ原合戦が起こり、徳川家康率いる東軍と石田三成ら西軍が激突。
この合戦に勝利した徳川家康は慶長8年2月12日に征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開きます。
けれども大坂城には秀吉の遺児豊臣秀頼が母淀殿とともに未だ健在で、徳川家を凌ぐ権威を保持したまま君臨していました。
この豊臣家と徳川家という二大権力の最終決着戦となり、戦国時代最後の大合戦となったのが「大坂の陣」です。
慶長19年10月〜12月には「大坂冬の陣」、翌20年5月には「大坂夏の陣」が起こり、慶長20年5月7日に大坂城は落城し、翌8日に秀頼・淀殿が自害して豊臣家は滅亡しました。
過去スレ
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【豊臣】 大坂の陣総合スレッド 4 【徳川】
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【秀頼】 大坂の陣総合スレッド 3 【家康】
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【陰謀】 大坂の陣総合スレッド 2 【南禅寺】
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1337983344/
【冬】大坂の陣総合スレッド【夏】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1233143817/ いや。族滅させておいて
「殺す気は微塵もなかった」は流石に通らんだろ
信じるヤツが居たらオウムだ
「救済(ポア)するつもりはあったが殺意は全くなかった」とか信じちゃうんだろ? ネットで検索できないなら大阪の陣をテーマに図書館行って調べてこい。それなら出てくるだろ。わからなければ司書の人に聞け。運が良ければ教えてくれるかもね。 >>81
異常な説を唱えるあんたが説明するのは分かる。教科書レベルの常識を説明する必要なし。だから図書館いけ ああ、結局出せないんだ
出せないから名前も出てこないし根拠も一つも出てこないんだ
でもそれがばれたくないから大勢いるのー!図書館行けばあるのー!名前言わんけど
寝小便隠したい子供の言い訳と一緒じゃん いや。難しく考える必要なくね?
被疑者が殺人を犯しておいて「殺意がなかった」と主張する場合は
被疑者側が殺意が全く存在しえなかった証拠を差し出せばいいだけだし。 教科書レベル
教科書も尊氏だと思われてた肖像画が信ぴょう性なかったから変わってんだよね
教科書レベルってその程度のものなんだけど、知らなかったの? >>86
何だ、行きたくないのか。普通に調べて出てくるのが怖いのか。 まあ殺意があったのは間違いないわな。なかったと主張するならこれまで出したような証拠もどきじゃなく誰もが納得できるものを出せば? なんだ、出したくないのか。そんなもん存在しないのがばれるのが怖いのか。 山口敬之が現在裁判で戦ってるけど
「私は全くレイプする気がなかった」
「彼女が嘔吐したからレイプした」
「彼女が抵抗したからレイプした」
「彼女が声をあげたからレイプした」
「彼女が扇情的な服装だったからレイプした」と
散々セカンドレイプをしてるが彼の言い分を信じるのはここの徳川応援団だけだと思う。 言ってるじゃんほんとバカだからすぐ忘れちゃうのね
納得する気のない人間は納得させられないってば、二度も言わせないでよ
バカにつける薬はない >>94
それはこっちのセリフだ。いい加減目を覚ませ。家康ファン。 なんで家康が殺意を持ってなかったと思ったの?と前スレで聞いたら
「マルシマガー」連呼なんだもん。心底驚いたよ。
丸島がこのカルトのグルだという事だけは分かった。 この2人はメールでやり取りでもやってって感じ
スレの私物化 こっちは研究者の名前出てるけど、そちらは一人たりとも出てこない
出てくるのは一般的な歴史(笑)っていうふわふわした言葉だけ、ソースはウィキペディアレベル
しかも自分はできないのに大坂の陣研究者の名前全部言ってみろ、なーんてバカまで言い出す始末 >>91
ばれるって何。家康が豊臣に対する殺意がなかったなんて説が嘘って事?自分でも信じてないでしょ。 5人程度研究者の名前挙がってたと思うけど覚えられたのは丸島氏のみか
1以上の名前は覚えられない脳みそって鳥以下じゃん >>97
すまん。やつがバカ過ぎてつい返してたらこうなった。しばらくこないんで許してくれ。まともな意見なら突っ込まなかったんだが。異常な事いってるから。 丸島って結構ヤバい奴だよ。
テレビの脚本家に「こういう脚本を書きたいんですけど」と言われるたびに
「じゃあそういう事も資料を曲解すればありえないくもないのでOKです」と言ってたもん 最後、真田信繁と徳川家康が1対1でタイマン張ってたけど
あれも時代考証をしてた丸島がGOサインを出したそうだし。
タイマンを張ってないという明確な証拠は無い(ビシッ)って言ってた。 創作と史実の区別もつけられないのと一般的な歴史ガー君が昨日から散々別スレも荒らしまわってて申し訳ない そもそも真田家は5人兄弟なのに下二人の弟は存在が消されて
信之「われらたった二人の兄弟なので支え合わなきゃいかん」とか
何度も劇中で言ってた。もちろん監修は丸島 劇中
劇、つまりフィクション
フィクションに史実と違うって文句つけるのかー なんで伸びてるのかと思ったら
根拠も著者も出さないで一般的とか言う主観しか出さず証明すら出来てないのが、根拠も研究者の名前も明かして証明してる相手にマウント取ろうと粘着してるだけか >>101
「そろそろ息切れしてきたので逃げます」てことですね
そしてしばらくしたらID変えてシレッと戻ってきて「研究者に敬意をはらえないヤツはカス!」て真逆のことを唱えるんだよね
知ってる
それやるの何度目かな? 幕府の豊臣家への対応ってできものができて
自然に治癒しないかとか投薬で何とかならないかとか
手術しない方向で済むように容態を見守ってたけど
いよいよ病状が悪化して切除せざるを得なかったって感じだよな
存在自体が盲腸みたいなもんだし 大野は下の弟がね
兄の方は関ヶ原前にやらかした感じだけど 治長は且元追い出しをやってしまったのがね
その後は現実知ったのか和平結ぼうと頑張ってたけれど、自分が且元へやったのと同じように弟に襲撃されてるからなぁ
淀君はもう何度も何度も言われてるし少しくらい研究読んで欲しいのだけれど、最初から現実的融和路線
いわゆる大砲飛んできて日和って和睦みたいな話も、豊臣優勢だったという事にしないとお話的に面白くないからで終始劣勢のまま物資尽きかけてたのが実際のところ
秀頼本人とその近臣が異常に過激路線 淀君の君って一昔前から女性に対する蔑称にあたり失礼だから淀殿と呼ぶべき流れになったけど、秀頼誕生周りを調べたらそう呼ばれるのも仕方ないと思うようになったわ
何としても自分を価値ある存在にしたかったのかねぇ 信用皆無の史料にしか出てこない人物の実在を聞かれても >>116
それよくわからんのは姫君とか若君とかは蔑称なのだろうか? >>116
そもそも淀君呼びが蔑称というのは
一部の研究者が出してきた珍説ですよ 君主のことを指すところから始まった君って呼び方が蔑称ってそもそも意味不明だものね
遊女に〜君って呼び方が多いからきっと蔑称だったはずだってのが主張だったみたいだけど
天璋院篤姫も篤君呼びを当代でされてたはずだし、他にも君呼びの女性はいっぱいいる
むしろ遊女側を最大限の敬称で客が呼びたいなり遊女たちが箔をつけたくて貴人の呼ばれ方を真似しただけじゃないかね
今でもSM嬢を女王様なり様づけで呼ぶのと同じ感覚で なんかここ過疎ってるね。閉鎖的で特定の意見しか認めないなら、スレッド閉めた方がいいんじゃない? 下手うっても何故か死なない信雄が下手打つ前に逃げたあたり城内の雰囲気はお察しだったんだろうな 信雄は途中まで主戦派寄りだった説もある
本当に戦交えようの空気になって名ばかり大将にされそうになったから逃走決めたけど
信雄を大将にして名目上は織田vs徳川になってたら面白そうだ 信雄はびっくりして大坂からバックレ、板倉に内通して、龍安寺に身を隠した。次に織田長益を総大将にせんとしたというのは事実か? 織田の系譜で妙にやる気満々だったのは頼長だったかな 片桐排斥事件の時に信雄はすぐに徳川に異心なしって旨の書状を京都所司代に出してるし、穏便に済ませたかった派じゃないかね ゴリゴリの開戦派に総大将として担がれかけたんだから調子のいいことを言ってた可能性が高いんじゃないか
出典は忘れたが片桐暗殺にも当初は加担してたらしいが >>134
それは聞いた事がないなぁ
そもそも襲撃されそうな事を片桐に伝えたのがほかならぬ信雄だし
開戦派に担がれかけたからってのはちょっと根拠として薄いんじゃないかな
あの時点で信雄以上の実戦経験と家柄の人いないから担がれただけともとれるし 信雄、あれでもあの時点の大坂方では数少ない
万単位の兵を指揮したことのある大将なんだよな
官位も元内大臣とかなり高いし 一番最初に逃げた人物に期待をかけるしかないとはもう無理だな 中身はともかくガワだけ見たら神輿としては十分というか適任なんだよな
二度目の改易食らってまたまた拾われた恩があるんだから呑むと思ったのかも 三介殿、大坂の陣と同じ発端で同じ運命になりそうだった小牧長久手の戦でちゃんと軟着陸してるから
ただそのあと移封イヤイヤして秀吉キレさせただけで
ほんと大坂の陣って収拾つけられなかった小牧長久手じゃないかな 信雄くん小牧長久手初期は活躍してたのに
陸路の池田森と海路の滝川九鬼を撃退してるよ 伊賀でやらかして信長に大目玉食らい
本能寺の事後処理でへまをやらかし
織田家復興に熱心だった信孝を秀吉の片棒担いでぶっ殺し
わざわざ自分から秀吉に喧嘩売って大事な伊賀と伊勢を切り取られて臣従する羽目になり
馬鹿でもアホでも勝ち組になれた小田原でKY発揮して改易され
関が原でも秀吉との関係をとりなしてくれた家康に味方せず改易され
こんなのでも当時の大坂にあっては最上位の人材なんだよな…
で、その人材にスパッと見切られてるんだから最初から終わってる 流石の信雄もこの時期には自分の立場を理解していないとどうなるか身に染みていただろうし
主家のプライドに拘泥する秀頼一派を諫めはしたかもしれん
てか、信雄という全てを失った好例が目の前にあるのに開戦一本槍の連中は異様だわな 有楽の息子が総大将やらせろと言い出したのは、皆からよってたかって潰されるのを予期したうえで、城を退去する口実が欲しかったという解釈で良いか? >>145
有楽と息子頼長とはだいぶ考え方に隔たりがあるように見える
過激派な頼長に有楽が巻き込まれる形だったんじゃないかな
とりあえず親子とはいえこの二人が一枚岩って考えは危険だと思う まあ一部で言われるように長益が徳川方の内通者だったなら頼長も同じだろうがな
内通者が秀頼の名代までやってたことになるわけだが… >>134
浅井一政自記にも
常心より佐々雅楽助が使者としてたてられ(片桐を成敗するかもしれないという噂がある旨を)片桐に知らせた
それまでは何の沙汰もなかった
とあるし流石にその線は薄そう そんな担当っていうように分けてたわけではあるまい。親は親、子は子だよ。
頼長は勝手に強硬路線煽って冬の陣の後駄目だこれって抜けただけだろ。 頼長って冬の陣でなにか失態を犯してなかったっけ
それで居辛くなったというのはないかな >>151
自分の隊で喧嘩騒ぎが起きてる間に藤堂隊に攻め込まれてその間指揮しなかった、でしたっけか
統率できなくてへそ曲げたんですかね それこそのぶおや有楽が家康からなんらかの確証を貰ったから逃げ出したんじゃないの
そもそも冬で主戦派だった理由も謎だし >>153
内通してたってのも疑惑だけで一切確証もないしなんで
とりあえず主戦派だったのがブラフだよ、って言える確証でもない限り、そう見るのは難しいかと
薄田が博労淵でやらかしたのは家康と内通してたからだとか、豊臣方のやらかしは全部内通してたからだと言えてしまう まあ所詮人間のやることだから
直近に帰参した立場だったから強硬な立場で歓心を買おうとしたのかもしれない
明らかに死亡フラグが立ったのぶおは真っ先に逃げた
頼長長益は豊臣への義理立ても出来たし明らかに情勢が悪いから玉砕する前に退散したと
でも何かあっても変では無いとも思うけどね 有楽と息子頼長が強硬派と穏健派というのが面白いな。
大野道犬と大野治長兄弟も同じ感じじゃなかったっけ。
道犬が治長を切って重症を負わせたけど、あれは演技じゃなかったと思う。 それこそ淀と秀頼も穏健派と過激派に分かれてるので
とことん親子、兄弟で認識のズレが表面化しまくってるね 織田を凋落させた信雄やそれを見ていた淀の世代は諦めモード
若い世代はイケイケの印象 諦めとイケイケというか
ちゃんと状況把握できてる方と向こう見ずとの差というか
牢人衆ですら又兵衛あたりは状況把握してるし、中立組の真田ですらこれ死ぬわって認識してるし まあ徳川の方も家康は穩便派、秀忠は強硬派に分れているしね
と言うより父親の余光に縋り我儘勝手にやってきた豊臣に対して
家康が甘いだけで秀忠や徳川家臣連中の態度の方が普通だと思うけど
豊臣恩顧の大名も呆れて見限っている感じだし 家康にしてみれば、ここまでくればさすがに臣従するだろうと思ったんだろうなぁ つか二条城会見の時点で常識的には臣従なのよ。実際徳川家から豊臣への
年頭礼は止めているにも関わらず、豊臣家からは徳川家に行っているし。
客観的には誰が見ても豊臣は徳川に服したという状況だったと考えられる。 織田三介信孝を死に追いやり、柴田、滝川を攻め滅ぼし、秀吉から謀反人の濡れ衣を着せられた時点で、ようやく手を握ってはならない 相手と手を握っていたことに気づかされた 改易前の振る舞い見てても信雄ってちょっと池沼入ってると思う
その池沼にすら見捨てられる豊臣… なんだかんだ言っても信雄は秀頼のような世間知らずの箱入り息子ではなかったからな
それなりに己の器量と実力を思い知って生き残るために何が必要なのかわかってた
秀頼はなまじ親父が天下人でなおかつ成人するまでまともに外の世界を知らずにいたのが致命的
完全に夜郎自大の勘違い、武家としても公家としてもやっていけそうにない中途半端な
始末に負えない存在に育ってしまった 結局大坂の陣って、
自分の事を天下人と勘違いしているボンクラ大名が暴走して公儀に反抗してきたので叩き潰された
という認識でいいの? ちょこっと花火上げて健在アピールしたら誰も擁護に回ってくれなくて
意地になってもう一回やったらサクッと潰されたボンクラだよ 御家騒動的性格もだいぶ混じってそうなのよね豊臣方
元々が家中の事の殆どで奉行する事になってた淀派の片桐への襲撃未遂事件だし >>168-169
研究者ででも秀頼評価しているのって福田千鶴くらいしか知らないし、実際才器の欠片も感じられないからなぁ 評価を行おうにも若死にすぎて起こした事績が大坂の陣くらいしかないので他で評価のしようがないってのもありますね
統治に関しても実権を淀から譲られてたのか、譲られてたとしてもその期間はかなり短いでしょうし、そも徳川の代官に肩代わりしてもらいながらの統治だし
言うならば答案用紙に空欄多数で数少ない記述されてる所も間違ってたから0点、ってのに近いですかね
ゆえにロマンを求める方は空欄に深い意味を見出そうとするんでしょうけども つっても大坂の陣の時点で二十歳超えてるからなあ
この年齢で実権を渡してもらえなかったもしくは取り返せなかったのなら
周りの人間から器量を評価されてなかったということだし
実権を握っていたなら一連の顛末はいい点数をつけようがない 癇癪起こして立ち上がり、特に何するわけでも無くそのまま座る
秀頼の人生は座布団のシワを少し増やしただけのこと 大阪の陣で対徳川主戦派は秀頼側近連中なんだけど、、あれも
秀頼がそうだったから周りもそれに従ったのか、逆に側近連中が勝手に秀頼を祭り上げたのか、
それすらわからんからな。 長曾我部元親は数え年で二十三、徳川秀忠は数え年二十二で初陣じゃなかったっけ スケベったらしく佐野道可を入城させている毛利輝元は、毛利元就の孫だ どちらに転んでもいいように
万が一のための二股保険を忘れないソツの無さこそ輝元が名将たる所以よ
大坂方にどうせ勝ち目ないんだから一点張りでいいだろ、なんていうのは愚将がすること
関ヶ原の時もそう
総大将なのに、じゃないんだよ、むしろ自分が総大将というハイリスクハイリターンのヤバい地位になるからこそ
負けた場合に全て失うのを回避する保険は用意しておかねばならん
つまり敵に通じるパイプ(吉川)を用意しておき、いつでも引き返せる状況を作って置くことが必要だったのだ
さすが知将元就の孫よ
世間一般で格好いいとされる基準からは確かに外れる、しかし、その事と能力とはまるで別の話だ
この区別が判らん奴が多いから輝元の評価が不当に低いんだよな