【豊臣】 大坂の陣総合スレッド 6 【徳川】
慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権内部の対立が激化し、慶長5年9月15日には関ヶ原合戦が起こり、徳川家康率いる東軍と石田三成ら西軍が激突。
この合戦に勝利した徳川家康は慶長8年2月12日に征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開きます。
けれども大坂城には秀吉の遺児豊臣秀頼が母淀殿とともに未だ健在で、徳川家を凌ぐ権威を保持したまま君臨していました。
この豊臣家と徳川家という二大権力の最終決着戦となり、戦国時代最後の大合戦となったのが「大坂の陣」です。
慶長19年10月〜12月には「大坂冬の陣」、翌20年5月には「大坂夏の陣」が起こり、慶長20年5月7日に大坂城は落城し、翌8日に秀頼・淀殿が自害して豊臣家は滅亡しました。
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【秀頼】 大坂の陣総合スレッド 3 【家康】
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【陰謀】 大坂の陣総合スレッド 2 【南禅寺】
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【冬】大坂の陣総合スレッド【夏】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1233143817/ 家康と秀吉じゃ現代人と原始人くらい知能の差があった
律儀者と死ぬまで信じ込む馬鹿が秀吉
チョロ過ぎ 少しでもまともな知能があれば律儀者なんて思わないよな
家康なんか 「思わないよな」じゃなくて同時代の資料ベースでそれを示さないと歴史に相対する正しい姿勢とはいえない。
不明瞭な処に無理して結論を急ぐ事はないですよ。それは歴史研究者が一番禁忌にしているやつ。 まあ、秀吉の隣にいたら誰でも律儀者に見えるだろうな
気分次第で人を嬲り殺すエテ公を「明るく陽気な人たらし」だなんて思い込む知能の低い人以外には 大坂の陣は豊臣家が間違った外交を続けた結果なので家康云々はどうでもいいレベル
家康から任命された執事でれっきとした大名を殺そうとしたらどうなるかわかってたろ ならぬ。家来の呼び出しに、何ゆえ主人が出向かねばならぬのじゃ。考えても見よ、家康は、亡き太閤殿下に、大老にまで取り立てていただいた御恩も忘れ、亡き太閤のおん血筋、秀頼公を二条城にまで呼びつけるとは、言語道断 大坂60万石で子飼いの兵力が1万5千
浪人が10万も押し寄せてきちゃうと思わなかったんじゃないの
せいぜい5千くらいだと思って呼んでみたら想像以上に膨れ上がって
収拾つかなくなったとか >>801
子飼いの兵って七手組よね?。実戦経験がまるでないし始めから徳川に内通する気満々の将も居たね。
日ノ本全国もう潜む処は摂河泉しかなかった訳で10万でよく済んだものよ。 徳川家出奔して七手組になった青木は冬の陣後に豊臣家出奔!
徳川家に帰参、一万石 徳川家出奔して七手組になった青木は冬の陣後に豊臣家出奔!
徳川家に帰参、一万石 この板どんな過疎スレでも家康批判したとたん何処からともなく家康厨が湧いてきて擁護しだすの最高にキモい
あの徳川の子孫とやらにバイト代貰って監視してるのか? そうなんです。俺のスパイクも、お袋が得川のパートで働いて買ってくれたもんなんです >>805
何言ってんの?。一次史料にもあたらず夢みたいな事を書き連ねるんだったらそこに徳川推しだの豊臣推しだのの区別はないよ。
比率で滅んだ方に夢見がちなのが多いから目立ってるだけ。 >>805
キモいのは感情論でしか物を見れないお前だよw
誰を批判したとか擁護したとかどうでもいいわ
異論があるなら史料を根拠に反論すればいいんだろうけど、この手のアホは
史料なんて当然見たこともないだろうし小説とか漫画が関の山ってとこかな 散々、徳川史観で歴史や思想、生活様式まで長年統制し歪めた側が同時代とか一次史料とか最高に笑わせてくれるw
流石は歴史学者さんの言うことは違うねw
まあ令和の時代になってもその呪縛に捕らわれてる知能の低い馬鹿がいるんだから素直に凄いわ >>810
ほんとに何言ってんの?本気?
「徳川史観で書かれた史料」が一次史料や同時代史料と呼ばれる訳ねーだろ・・・。
徳川史観と呼ばれる時点で「同時代の一次史料、例えば書状、第三者の日記、感状などの古文書」ですらないんだよ。
判り易い例でいうと『甲陽軍艦』は一次史料じゃないんですよ
生まれてから一度も「一次史料」「同時代史料」で用語の意味を調べた事すらないのが丸判り。
笑わないから今まで何の媒体で歴史に触れてきたのか書いてみ? 豊臣は徳川が鐘銘に難をつけてると思ってたかもしれないけど徳川が問題視してたのは豊臣が牢人衆集めてた事で次元が違う。豊臣は政治・外交を見る力が弱過ぎた >>810
境界知能くんは一次史料に触れたことないんだな
徳川史観とやらで書かれた一次史料って何?あるなら見せてよw >>813
境界知能くんの言う一次史料って
<徳川史観で書かれた一次史料>
山岡荘八著「徳川家康」
NHK「葵 徳川三代」
NHK「どうする家康」
他「水戸黄門」「暴れん坊将軍」等
<歴史の真実が書かれた一次史料>
司馬遼太郎作品全般
隆慶一郎著「影武者徳川家康」
NHK「秀吉」
NHK「真田丸」
他「花の慶次」「戦国無双」等
こんな感じかなw まてまて多分武将の能力基準はコーエーのぶやぼシリーズ準拠も入れてやらんと じゃあ当時の豊臣がなすべきだった正しい外交ってどんなの? ふつうに方広寺建てて
ふつうに右大臣やって
千姫とぱこぱこやって跡継ぎ作ってればよかった
なんで家康健在なのに大坂側から喧嘩うってんの?
バカなの? 死ぬの? >>817 単発IDくんは何か読んできたの?タイトルを教えてよ。
歴史を振り返って「正しい」だの「正解」だのは主観でしかないと思うけどね。
最大公約数で平たく言えば「片桐且元の持ち帰った条件のいずれかを飲んで徳川の覇権を認めて一大名として存続する」が
お家が生き残るにはベターな手だとは思うよ。滅ばされる口実を与えない事。関ヶ原から14年も経って誰も味方してくれなくなってる。 >>814
1次史料で出してきたのが現代の小説やドラマって……
こんな相手にレスしてたのが恥ずかしくなるくらいのド低能ぶりだな
信長公記とかにしても筆者の当時の主従関係やら何やらで必ず何かしらのバイアスがかかるということも理解出来ないんだろうな
頼むから俺にこれ以上レスするなよ
議論するレベルですらないから 片桐且元が徳川家に出した十一箇条の要請書の中に「我々は家康さまから執事をするよう言われてましたが全く役割を果たせてません、方広寺でも我々が関われず仕事になりません」と書いたというから既に豊臣家全体が危険な状態だったっぽいんだよな 真田という浪人が隊士を集め赤備えの甲冑まで揃えたことが信じがたい >>822
長野の個人宅で見つかった鉄製の部分に赤味が鮮明に遺る甲冑
(昭和9年の箱書きには「海野小太郎ご誕生の祝いの品として、京都から下賜(かし)され(た)」との記述がある。)だけど、
「降幡学芸員は「真田信之(信幸)が家臣に赤い甲冑を薦めた古文書が残るほか、
弟の信繁が赤備えを旗印にしたのも赤の派手さが勇猛さを演出することを理解していたからではないか。
真田家に伝わる赤備えは、血筋の正当性の証にもなっている」と話す。」と。
「大坂夏の陣で、徳川軍との激戦の末に散った信繁らが身につけていた赤備えは見つかっていない。」が
「見された赤い甲冑はそのルーツとして学術的な史料価値が高い。」と。
大河ドラマにも登場 「真田の赤備え」は幻ではなかった 赤い甲冑を発見 長野の個人宅で保管 真田宝物館で公開中
https://www.sankei.com/article/20170315-SOS2VJULBVLCPDUKNUXKKTAKDE/2/
数千人分の甲冑を赤く染めるのは無理にしても旗は赤く、主要な武者の甲冑は赤くは出来た可能姓もあるかもね。 この時代の浪人ってある程度の手勢を持っている場合もあるって聞いたことがあるな
浪人衆でも上位組はそういう奴らだった、らしい
本当かどうかは知らん >>824 大坂籠城衆の主立った将でいえばこんな感じ。実戦経験を積んでいたりある程度の指揮を任せられる「手勢」が居たかどうか怪しいよ。
・真田信繁:130人~300人の幅(家族や百姓を含む) ※Wikipedia
・後藤又兵衛:情報に到れず。乞食生活も経ていたので寄り添った家臣が居たかどうかすら怪しいレベル。
・長宗我部盛親:従者6人 ※Wikipedia
・毛利勝永:小舟で土佐を離れたので恐らく嫡男と次男と3人で。 ※『真田より活躍した男 毛利勝永』 / 今福匡
・明石全登:4,000? ※大西泰正氏「明石掃部の研究」には、「大坂御陣山口休庵咄」の中の、掃部が「四千の人数を率いて入城し、のちに素性不明の者を抱えた」という記述が取り上げられ(史料として一部が抜粋されています)、素性不明の者について、「それが或いはキリシタンかという想像もできなくはない」と書かれています。
※『大坂御陣山口休庵咄』は1639年~1727年にかけて発表されたもので同時代史料ではない。行き場を失ったキリシタンを引き連れたという解釈が自然。
主立った籠城諸将は大坂城に入城してからより格下の浪人衆を改めて麾下の将兵としてあてがわれたと考える方が自然だと思いますよ。 豊臣家は政権から転落してキリシタン弾圧の権限を失ったわけだが、キリシタン容認に変更したわけでもない。なのに明石全登が大坂方に与した理由がよく分からない。秀吉在世中は散々弾圧していたのに どのみちキリシタンが日本で生きてくには豊臣に味方するしかなかったんだろ
何もしないのはノーチャンス 現在進行形で禁止してる政権は徳川だし>>826によれば明石は手勢を率いてたようだから
戦力欲しい豊臣が勝った暁には信仰認めるとか何とか調子いいこと言ったんだろう
明石は豊臣だろうが徳川だろうがどうでもよくて信仰認めてくれさえすればよかっただけ >>830
同意だけど「手勢」じゃなくて「信徒」だと思うよ、老若男女込みね。明石ジュスト殿が我々を導いてくださるといった体でついてった辺りかと。
関ヶ原の後は黒田如水の弟でキリシタンの黒田直之にかくまわれていた時期もあったららしい。 他の大坂牢人五人衆と比べて目立った戦働きがないのは主体が実戦経験豊富な牢人ではなくて単なる信徒だったせいだろうか?
空振りに終わった夏の陣での精鋭300人がほんとの実戦力だったのかも 明石掃部は逃げ延びて仙台藩が匿ったとか、彦根藩兵に討ち取られたとか、諸説有ってまるでハッキリしない。困ったもんだ。 (慶長20年)6月7日付松井興長他宛細川忠興書状
「明石掃部于今行衛不知候、大略長崎へ可下かとの各推量ニ候、
自然其元舟付ニかゝり候事も可在之候間、急度可相改事肝要候」
戦後すぐの頃は明石は長崎へ下ったとの噂があったようで、忠興は船改めをするよう家臣たちに命じてるな 京都所司代板倉勝重の息子を豊臣家附家老として迎え、家政をすべて見て貰う。
豊国大明神の神号廃止を朝廷に頼み、摂家待遇を返上する。
また、淀君は江戸で人質として過ごし、
お拾は駿府にて養育を受ける
養育掛は本多出雲守忠朝、青山因幡守秘成、
松平下総守忠明が受け持つ。
このようにへりくだれば、徳川家も軟化し、ウフ様が死ぬこともなかったと存じます 喜連川足利家みたいに格式だけ上位で小藩として存続するなら生き延びる道もあったと思うけど、
摂津河内和泉六十万石と大坂城をどうするかという問題が。
大和転封という話があったけど、大和一国で四十万石くらいだから、大坂を離れることも含めて大減封になってしまう。
やっぱり穏便に徳川幕府体制に組み込まれていくのは難しいな となると完全に公家化ルートなんだが、これは五摂家が許さない。
折角秀吉逝去でほぼ回収出来た筈の摂関職をまた豊臣に掠め盗られる事態は何としても避けたい。
そして徳川も朝廷の統轄を五摂家に任せる方が楽だし後の公家諸法度の理念と朝廷・公家の統轄の実際は正にその路線。
摂家であるのはダメ、徳川が清華成だから同格は徳川的に嫌がるだろうが他にも清華成の武家は居るから多分通る
公家化ルートで収まろうとすると豊臣は所領の九割近くと居城の喪失と摂家から清華に落としてやっとでなかろうか。
一公家で数十万石クラスの所領の保有は江戸初期の公家徳川双方からして脅威でしかない。 >>838
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1601/18-2-3/1/0077?m=all&s=0077
近衛さんが徳川に怒ってますが
上記を読んで感想お願いしますね 淀、秀頼が大和で我慢できていれば姻族だしそのまま行けたんじゃないのかな
初期に紀州家と結びついたらどう転ぶかはわからんけど >>839
そういや豊臣はそもそも近衛の猶子として関白職に就いたから
近衛としては歴とした身内のままなんだよな、豊臣氏と賜姓され別家となっても
豊臣からも近衛からも最後まで絶縁してないので変わらず身内の家。
猶子は本家の家督相続なんかは基本無いが絶縁するまで完全に身内や親族扱いとする慣行だから。
近衛家的には身内の豊臣が摂家として尊重され続けるのは当然で、その身内を(理由はどうあれ)
攻撃した清華で武家の徳川は格上の自家を攻撃してきたも同然。
近衛家としては無礼かつ身内への攻撃で怒るのは至って自然だろうと思う。
ただ近衛はともかく他の四摂家の意向としてはどうかだし、また当時の政治力学的に
近衛が豊臣を全力カバーするのは当然無理な相談な訳で。結局怒りの声を挙げる程度しか出来なかったかと。
もっとも近衛を始めとする朝廷公家全体が大領を持つ武家としての豊臣を公家に取り込み
徳川ら武家に対抗していこうという意図が実はあったのなら話は別。
でも豊臣だけで徳川など武家を相手に回わすのなんて無謀だったのがこの大坂の陣なんで。 >>841
すいません
慶長六年の日記なんですけども
リンクを読んでないですね? 主計頭清正と紀伊守幸長は、やはり毒を飼われたとみるべきであろうや? >>844-846ってまさかのID切り替えながらの自演ですか?
それはどうでもいいんだけど陰謀論に傾くなら根拠や出典を添えてくれ。 根拠なくID切り替えを疑うのだって陰謀論じゃねえか フィクションや願望の話をしたいんだったら別の板に行けば? 家康様の批判する奴は許さない
出ていけ!ってかあ?
流石は陰険な家康の信者だわw またこいつか・・・。家康だろうが秀頼だろうが同時代史料ベースで語ってくれるなら同列だっつーの。何でそこが判らない。 じゃあ天王寺の戦いの話ししようぜ
何で東軍ってあんなに弱かったの
特に徳川軍
夏の陣全体:東軍16万5千 大坂方5万5千 3対1
天王寺・岡山の戦い:14万対3万5千(実質2万)7対1
家康本陣に突入した大坂方はどう多くても10対1を切っていただろう
それがあの有り様
圧倒的な数の差で何とか勝っただけ
徳川軍のどこが精鋭だ?
家康のどこが野戦の名手だ?
最初から統一指揮が出来てれば大坂方が勝ってただろうな
こんな戦力差で首獲られてたら義元や隆信以上の無能として名が残っただろうに >>856
普通「天王寺の戦い」とは呼ばない。「天王寺・岡山の戦い」よ呼ぶ。自分で5行目に書いてんじゃん・・・。
両軍の兵力の出典は何?俺も目を通す。
他にも書きたい事はあるけどまずは順を追って。 >>856
開戦劈頭の大坂方の攻勢部分のみを切り取って見たらそう見えるだけ
軍事的に見て、最終的に大坂は全戦力を喪失して5万の兵力がおよそ3時間で壊滅し、総大将は自刃している
幕府方にも大名が複数討死するなど損害はあったが、大勢に影響はなかった
本陣に突入されたとか馬印が倒されたとかうんこ漏らしたとかどうでもいいのよ
結果的に完全勝利やろが >>856
もう少し尋ねたい。
>それがあの有り様
の処だけど具体的にはどこのどの部分?。
別に映像記録が残っている訳ではないけど通説では真田隊は幕府方の前線部隊を粉砕し壊滅させながら前進した訳ではなく
松平隊の備の角を掠めて又は削って家康本陣へと前進していった。
なので後から持ち直した幕府方の大軍に退路を断たれそうになったので真田隊は撤収した。
>圧倒的な数の差で何とか勝っただけ
野戦では数が物を言うのは軍事の常識であるし(詭道で勝つのは極例外)「何とか」には共感するけども
大御所の首級を上げられなかったのでいずれ数で負けるのは至極予想された結果だよ。
>徳川軍
という呼称は辞めてくれ。外様も居ただろ・・・。
>どこが精鋭だ?
そんな事どこに書いてあったの?。豊臣方浪人衆の方が代替わりしてまるで実戦を経験してなかった幕府方大名よりも
実戦感覚を失ってなかったのは一般的な見解だよ。
>野戦の名手だ?
これ攻城戦なんだけど。もしかして「家康は野戦の名手だが城攻めは苦手に違いない」と巷間よく言われている
ステレオタイプを真に受けてる?(家康が出馬していない徳川軍が二度上田城を落とせなかった処も含めて)。
対今川戦、対武田勝頼との戦闘を細かく振り返ってみ?。家康は付城を用いて敵方の城を包囲して陥落させる実績に長けてるんだけど。
>最初から統一指揮が出来てれば
タラレバに付き合ってあげるけれども一応名目的には秀頼が総大将の体だし織田信雄・織田長益なんてのも居た。
天王寺・岡山の戦い当日は真田に軍配が預けられたけれども大野治長が前日から全軍に周知していた訳ではない。
この程度しか出来なかったのが大野治長の限界であり豊臣方の限界だったんですよ。 大事な事だけどこれだけの大軍に対して家康が「右翼前へ」とか細かな部隊への指示を出していた訳はもちろん無くて
各々の部隊の裁量に任せていたのは考えるまでもなく当たり前の事ですよ。そこに野戦の名手だのなんだのは関係無いです。
例えば長久手の戦い一つだけとってみてもいいけど豊臣方にそれに匹敵する戦果を挙げた事のある将が居たのかどうか。 フォローも入れておくけど昔司馬遼太郎の『関ヶ原』『城塞』を読みふけっていた事は家康憎し豊臣方推しだったぞ。
今は歴史的事象を俯瞰して見る様になったし江戸期になってから書かれた軍記物やその他書物はまず疑ってかかる様にしている。
あと著作を買えまでは言わないけど(出来れば買ってほしいけど)現在進行系で研究を進めている歴史研究家の
先生方の論文や見解に目を通す様にした方がいい。 そもそも家康が戦上手なんて後世のファンタジー
生涯に二度も馬印を踏み潰されて逃げ回った武将なんてまずいない
関ヶ原だって数に劣るの石田宇喜多らに苦しんだし
だいたい戦国時代だって瀕死の今川を攻撃して遠江を手に入れたくらいしか実績がなく
格上を倒していって何ヶ国も切り取った著名な戦国武将達と比べると酷いものである 関ヶ原って開始早々小早川が裏切って一刻(2時間)でケリがついたというのが最近の主流な。
またID変えた?。聴かれた事にも答えずに? >>862は>>861をまるで読解出来てないのな。 そもそも小早川は別に石田や宇喜多の味方じゃない
勝手に行動していて指揮下には入っていない
というか身分的に石田が命令できる訳もないし
石田、宇喜多と大谷らの小部隊だけがいわゆる西軍の戦力なんだよ
それを徳川らが大軍でリンチしたという形
それでも数時間戦いが続いた そうだね。伏見城の戦いの事もあるから西軍の監視の目が強い時期には動くに動けなかった。
伊勢に流れて自由が効く様になってから好きに動き出したとみるべきか。
参謀本部編の関ヶ原布陣図も否定される見方が強い。 大坂の陣の殆どは後世の創作で豊臣方は大して対抗出来ず負けたって話だし 平山先生の説だと
家康が苦戦した理由て
合戦初期に敗退した本多・小笠原勢の一部が
後陣まで入ってきて陣形が乱れたんじゃなかったけ?(それを見て味方崩も連鎖でおこって)
立て直し後は押しつぶされて
豊臣方が壊滅したのは上で指摘されてる通り 大坂でも苦戦しまくり活躍したのは外様大名ばかりというね
伊達、藤堂、上杉いなかったら徳川本陣まで勢いづいた敵が乱入してひっくり返ってたかもしれん >>867
出たー後世の創作とか言っていっさいソース出さないやつ
お前そればっかだなw馬鹿だろ
お前それしか言えないの? >>867
お前のソース
ユーチューブ
正解だろ
お前簡単にコロっとなんでもホイホイ信じるもんなアホだから >>867
お前の好きそうなネタ
関ヶ原は短時間で終った
!New 大坂の陣は短時間で終った
次は何だい?
本能寺の黒幕?w
家康、秀吉、毛利、朝廷とか信じてそうこの馬鹿w >>872
「関ヶ原は短時間で終った」は単発IDとは違う俺が>>863で書いたんだけどね。
書状等を加味するとそうとしか解釈できない。英雄達の選択でも紹介されていたと思う。
>>867の「!New 大坂の陣は短時間で終った」
こっちは人生今まで生きてて初めて目にした。 大坂の陣で徳川が苦戦した、なんてのは後世の創作では出てくるけど一次史料には少ないし
関ヶ原で島津が家康本陣に突っ込んだ、みたいな逸話で面白いけど信じるかと言われたら眉唾みたいなね 浅井一政という近江浅井氏に連なるものが大坂方にいて『浅井一政自記』という戦功覚書を遺している。
この内容を現都立大の史学博士の堀智博先生が解析しているんだけどなかなかに興味深い。
・(恐らく毛利側ではなく真田側で)戦端を開いたのは浅井一政である(戦功誇張で持っている可能性有りかと)。
・戦端を開いた後も味方諸将と書簡のやり取りをしている(戦術的に味方の位置を把握する為と戦功申告の為の両面か)
・真田や毛利の突撃に触れている訳でもなく「(書簡の取り交わしの話の後に)その後豊臣方の軍勢が崩れ始め」とかなりあっさりしている。 家康信者ってほんと家康の分身みたいで気持ち悪いな
特に>>857とかのどうでもいいことに難癖つけるところは広寺鐘銘を連想させるし
>>859の一字一句に粘着的に反応するところが城内の餅の値段を小僧に直に聞いたり
せこせこと頻繁に味方を陣代えする神経質の家康そっくり
まあ家康そっくりってのは信者にとってはかえって褒め言葉かもしれんが
両軍の戦力比はWikipediaで充分だろ
Wikipedia(笑)というならお得意の同時代史料とやらで信()者の意に添う根拠や出典を添えてくれ
Wikipediaの参考資料となった「大日本史料」や「日本戦史 大坂の役」以上のな
そもそもこの戦いは一方が恥を晒して、一方がほとんど壊滅した混乱した戦場だったので客観的な史料なんてないだろうし徳川としてはひた隠しに葬りたい戦い
ただし戦力比に大きな矛盾はないはず
大野治長の本隊と明石全登隊は秀頼の出陣待ちと作戦ミスにより本戦には参加していないし幕府軍が圧倒的多数だったのは家康信者がいかに詭弁を弄しようとも変わらんよ
天王寺・岡山の本戦で戦ったの大坂方は天王寺口の真田信繁、毛利勝永ら14,500
岡山口の大野治房ら4,600のせいぜい2万弱だろう
対する幕府軍はどう少なめに見ても10万は遥かに越えてる
家康危うしなんて全て後世の創作だと信者は言いたいだろうが
勝ち戦にもかかわらず徳川家中の処分が大量に出てる時点で醜態は明らか >>876
あのさ、答えもしないで他人を貶める事に全力を出してないで真面目に答えろよ。それこそ周囲に呆れられるぞ。
自らが書いた>>876を他人の目線のつもりで読み直してみろ。
>Wikipediaで充分だろ
通常Wikipediaからのコピペは猛烈に馬鹿にされる。但し注釈で出典を添えているケースもあり、
その出典に辿り着いて資料名や史料名、著者名を書けっつってるの。手間を惜しむか惜しまないかだけの話だ。
少なくとも
・両軍兵力
・「それがあの有様」
・「どこが精鋭だ?」
この3点についての出典(Wikipediaが出典とした処でいいから)を出して。誰々の研究論文のPDFとかに辿り着いたりするから。
お前と俺らの複数の目でダブルチェック(社会では重要)を行いたいだけなんで。
それをやらないと「それってあなたの感想ですよね」案件にしかならないっつーの。
重要な事だが 俺 は 家 康 信 者 じ ゃ ね え
夢みたいな事を書いてもいいけど(江戸期編纂の軍記物とかだろうが)出典は添えろって話だ。 >>876
>一字一句に粘着的に反応するところ
アホか?書かれた事を一つ一つ検証するのは 当 た り 前 だ。
「城内の餅の値段を小僧に直に聞いたり」←出典を出せ(知ってるけど皆に周知させたい)
「せこせこと頻繁に味方を陣代え」←出典を出せ
「大日本史料」や「日本戦史 大坂の役」←関ヶ原布陣図も同じだが明治期のものは論外なんだよ
「そもそもこの戦いは一方が恥を晒して、一方がほとんど壊滅した混乱した戦場だった」←そこまで断言・名言する根拠は何?
以降は割愛するが別の機会に尋ねるかもしれん。
いいか?否定したくて神経質にあげつらってるんじゃねーぞ?
書いてる事を一つ一つ皆で検証する事が大事だから一つ一つについて出典を出せっつってるの。何で最初から添えない?
出典も添えずに何だかんだ書かれてもお前の感想でしかねーんだよ。
それは家康ageでも豊臣ageでも同じ話だ。それを判れ。 >>874
うろ覚えだけど
「日本一の兵で」有名な
島津家臣が国元にあてた手紙には
大御所様半分負けみたいなニュアンスのこと書いてなかったけ? >>879
→「真田日本一の兵」の手紙の主は島津忠恒『薩藩旧記雑録』(手紙は慶長二十年(1615年)六月十一日付け)。
島津は冬の陣も夏の陣も参陣していなくて忠恒は又聞きで真田信繁の評価を書いた。
→「大御所様半分負けみたいなニュアンスのこと」を書いたのは細川忠興のはず。
「はず」と書いたのは手持ちの書籍でもググってもなかなか該当する情報に到れなかったから。
豊臣方に細川興秋と毛利勝永が居て武勲を挙げているので盛っている処はあるかもしれん。
尚、忠興はかなりの手紙魔で関ヶ原の戦いより後だけでも2,000通の書状を出している。
俺は別に毛利と真田の大御所本陣への突撃を否定している訳じゃねーぞ。
「いつ」「誰が遺した」「何」をベースに歴史上の事象と向き合いながら語るべきだと主張してる。
ゲーム・アニメ・小説・偏って取材不足でステレオタイプな民法の歴史特番・結論有りきのYouTuberの動画、そしてコンビニに置いてある様な歴史カテゴリのムック本。
こういうのを論拠としても別にいいし責めもしないけどその見解なりの出典にしっかり辿り着いてから自分の意見を披露して欲しい。
あとな、歴史に絶対の正解とか無いんで少しでも不明瞭な点があればそれは「判らないままでいい」んですよ。
歴史研究家達は皆断言・明言を極端に避けてるぞ。 >>879
その書状にはないけど似たような記述なら細川忠興の書状にあるな
(慶長20年)5月7日付細川忠利宛細川忠興書状
今日七日午ノ刻ニ、大坂江少シ御寄被成候處ニ、茶磨山ゟ岡山迄取續六七萬も可在之候、「此方之人数を立、
自是ひた物無理ニ合戦を懸候處ニ及一戦候、数刻相支申候、半分ハ此方へ、半分ハ大坂江勝申候へ共、
此方之御人数之段数多ニ付御勝被成、不残相果候、」度々之せり合中々推量之外ニ候、本田雲州も討死、
小笠原兵部殿も手を負候、是ニ而推量可在之候、我等事先書ニ申入候様ニ、鉄炮頭三人其外小性計にて大坂へ参、相合戦候事、
「」の部分だけど大意は、こちらより人数を立て無理に敵へ攻めかかり、数刻の間攻撃を防ぎ戦った
半分はこちらが、半分は大坂方(豊臣方)が勝ったが、お味方多勢により勝利し敵を残らず討ち果たした
要するに局地戦で互角の勝負をしたってことだろうね
結局お味方多勢により勝利したと言ってるし
ただ後段では本多忠朝の討死や小笠原秀政の負傷を報じていて、敵の強さが想定外だったとも忠興は言ってるな >>881-882 貴重な書き込みを有り難う。助かります。 明石掃部、関ヶ原の戦いで敗れた西軍武将の一人として知られていますね。しかし、その最期は謎に包まれており、仙台藩に匿われたという説、彦根藩兵に討ち取られたという説など、諸説ある状況です。
近年、明石掃部に関する史料の調査が進み、その最期をめぐる研究も活発化しています。最新の研究成果によると、以下のような説が有力視されています。
1. 仙台藩に匿された説
従来から有力視されてきた説です。明石掃部は、旧主である宇喜多秀家と共に仙台藩に逃亡し、そこで匿われたというものです。この説を裏付ける史料として、仙台藩の記録に「明石掃部」という人物の名が記されていることが挙げられます。
しかし、この説には疑問も残されています。例えば、明石掃部が仙台藩に匿されたという明確な記述はなく、また、仙台藩がなぜ明石掃部を匿ったのかという理由も十分に説明されていません。
2. 彦根藩兵に討ち取られた説
近年有力視されている説です。明石掃部は、関ヶ原の戦いの後、各地を逃亡していましたが、最終的に彦根藩兵に追いつかれ、討ち取られたというものです。この説を裏付ける史料として、彦根藩の記録に「明石掃部」を討ち取ったという記述があることが挙げられます。
しかし、この説にも疑問点があります。例えば、明石掃部がいつ、どこで討ち取られたのかという具体的な記述はなく、また、討ち取られたという確証となる遺物なども発見されていません。
3. その他の説
上記以外にも、明石掃部は海を渡って海外に逃亡したという説や、農民に扮して身を潜めたという説など、様々な説があります。しかし、いずれの説も確たる証拠に基づいているわけではなく、真偽は不明のままです。 >>884はあちこちでテキトウなことをほざき散らかしている荒らし。
コピペの疑いもあり。