【豊臣】 大坂の陣総合スレッド 6 【徳川】
慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権内部の対立が激化し、慶長5年9月15日には関ヶ原合戦が起こり、徳川家康率いる東軍と石田三成ら西軍が激突。
この合戦に勝利した徳川家康は慶長8年2月12日に征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開きます。
けれども大坂城には秀吉の遺児豊臣秀頼が母淀殿とともに未だ健在で、徳川家を凌ぐ権威を保持したまま君臨していました。
この豊臣家と徳川家という二大権力の最終決着戦となり、戦国時代最後の大合戦となったのが「大坂の陣」です。
慶長19年10月〜12月には「大坂冬の陣」、翌20年5月には「大坂夏の陣」が起こり、慶長20年5月7日に大坂城は落城し、翌8日に秀頼・淀殿が自害して豊臣家は滅亡しました。
過去スレ
【豊臣】 大坂の陣総合スレッド 5 【徳川】 [無断転載禁止]©2ch.net
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【豊臣】 大坂の陣総合スレッド 4 【徳川】
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【秀頼】 大坂の陣総合スレッド 3 【家康】
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【陰謀】 大坂の陣総合スレッド 2 【南禅寺】
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1337983344/
【冬】大坂の陣総合スレッド【夏】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1233143817/ 明石全登
幕府に依る激烈な禁教令下に集まったキリシタン部隊の中心人物。
鉄砲指揮から部隊指揮までなんでも出来る名将中の名将。
関ヶ原では杭瀬川の戦いでの指揮、福島粉砕劇など華々しい活躍をみせている。
戦後執拗な明石狩りが行われた。
長曽我部盛親
元大名。関ヶ原では西軍として活躍している。
大部隊を指揮した事がある数少ない武将であり、その点期待されていた。
藤堂隊を破るなど活躍をみせた。
大野治長
事実上の総大将。兄弟治房・治胤が戦場に立つ中秀頼を補佐。
後に和平交戦と意見をころころ変えたため兄弟仲は決裂。
最後は秀頼と自害。豊臣宰相としての器は足りなかったようだ。
真田幸村
昌幸の息子。真田丸を築き武功をあげる。
籠城を決められる際に宇治川−瀬田川ラインでの野戦主張などをしていたが実際それが有効かは未知数。
道明寺の戦いでは伊達政宗と戦い、天王寺口の戦いでは家康本陣を崩した。
毛利勝永
父は豊臣古参大名の勝信。
関ヶ原では伏見城の戦いにおいて、格別の働きにより首脳たちより感状を受けている。
天王寺口の戦いでは、次々と敵陣を突破して家康を追い詰め、
大坂城への生還を最後に果たす。
大野治房
治長の弟。主戦派の中心人物。本町橋の夜襲戦を成功させる。
大部隊の指揮は未熟だったが、岡山口の戦いでは秀忠に奇襲を仕掛け、
豊臣勝利寸前の処にまで持ち込む。
生死不明で幕府は長く探索を行った。
後藤基次
軍功豊富な事実上の参謀長。
大野治房を戦術面で補佐し、遊撃部隊としても活躍した。
道明寺の戦いでは先鋒を務め、進軍に不慣れな後続が遅れる中で、
幕府軍の先鋒大将水野勝成の大軍と長時間渡り合った。
木村重成
秀頼の元小姓。開戦論に関わった一人。遊撃部隊を率いる。
基次と共に今福の戦いでは佐竹を破り、真田丸の戦いにも加わった。
若江の戦いで叔父宗明と共に藤堂、井伊に大打撃を加えた。
木村・後藤の残存兵が、天王寺口の戦いで、勝永・幸村に道を開いている。 とりあえず新スレ立てて、関連スレと前スレにあったテンプレぽいの貼っておいた 前スレの>>4も貼ろうかどうか、一瞬迷ったけど煽りっぽいからいいかな 煽りで頭がアレなのがが癇癪起こして連投してきたら面倒だし
それでいいと思うよ わからん
昨日あたりから関ケ原IFスレなりずっと荒らしまわってる
今は大坂の陣IFスレ荒らしてるし そもそも関ヶ原の時と大坂の陣の時の家康の対応が違うのは当たり前なんだよな
関ヶ原の時の家康は豊臣政権筆頭大老であり、その時点での彼の目的は
豊臣政権の政務代行者として安定した政権運営をすることだから、
戦乱をいち早く鎮める為に妥協するのが優先されることもある
しかし、大坂の陣の時の家康は天下政権である徳川幕府の運営者として
天下を徳川の元で統制、管理を行わねばならない立場であり
あくまでも統制に従わぬものを放置することは天下の乱れに繋がってしまう
従って秩序を乱すものに厳しい態度をとるのは当然という事になる
要は、人は立場や地位、その時の状況によっていくらでも態度を変えねばならず、
あの時こうしたのなら今回も〜みたいな意見は論外だという事だ
つーか、出世したり立場が変われば本人の言動行動や周囲の反応、態度が変化するなんて
それこそ秀吉の人生を見ればわかりそうなもんなんだけどね
秀吉が織田家の下っ端だったころから、関白になるまでの間で
親しい身内を除けば、周囲の人で言動や態度が変わらなかった奴なんてほぼいないだろう 国松が千姫との子だったら命だけは助けてもらえたかあ 基本的には日本での族誅の範囲は本人から子、しかも概ねは男児くらいかな? 組織として決定した以上は組織としての行動を取らねばならない
ゆえに個人として組織の決定に反対な場合はどんな地位であろうと組織の決定が起こる前にしか行動できない
ってだけの話なんだがなぁ、なぜか組織としての決定が下った後を個人の性格として見る人がいるんだよなぁ >>10
なるほど身内であっても非情に撤して処罰すべしというわけだ。
本当の身内を許しといてそれはないんじゃないか。戦国の世の習いなら女子供とて容赦しないのが普通じゃないか。 >>13
敗れた相手の命は助命嘆願などをし大将の裁量で生かされる事もある。かつて秀吉は小田原攻めでも北条氏氏直を生かした例もある。あれも通例どおりなら殺して当然だった。だからなにがなんでも殺さなければならないわけでもない。
組織があらかじめ決めたからにはというのはむしろ現代的な考えに近いと思う。 >>15
千姫は豊臣に嫁いだのだからそれを許したら示しがつかない。 千姫許しても普通に示し付くが、なんで付かないと思ってるのか謎なんだけど
まじで通例位しらべろ 信長も浅井長政の息子は殺してるが
浅井に嫁いだお市とその娘三人は助けてるけど
男と女では扱いが違うんじゃない? なんで例に挙げるのが大将が落城前に降伏してる北条なんだよ
降伏してない大名じゃなきゃ比較にならんやろが 男女の区別すらつけられもしないで喚いてたのかよ、しょーもな 助けた3姉妹は市の子で信長の血も入ってるけど
殺された万福丸は側室か先妻の子だろう
あと万寿丸は男だが助かったらしいが、これも市の子ではない だから?
万寿丸が身をひそめるのやめたの、だれが死んだ後だと思う? ああ言えばこう言うを繰り返しているだけで彼の言葉はその場その場の思いつきを口にしているだけだな 荒らしてた彼じゃないし性別の違いの他にも自分の血が入ってるか否かもデカイ
んじゃないかって話、3姉妹云々
特に信長に関しては 浅井長政も市との間の息子は助命されて寺に入れられてるな またそれかよ
石田三成がいつ西軍の大将になったよ? なんにせよ、いざとなれば総大将が助けるといえばできないこともなかった。それだけ当時はトップの権限が大きかった。そういう意味では現代では無理だろうが。 >>29
それをいうなら総大将輝元を生かす事自体矛盾してるだろうが。 どこがなんにせよだ、お前の妄想の中でしかねーよキチガイ 毛利は吉川を通じて降伏しとるやろ、残った西軍残党出汁にして
そういや降伏した毛利はわざわざ手元にいた子西行長の子供の首切ってたな 輝元や景勝を生かしたのも利用価値があるからで
秀頼を生かしても、やらかしたことのデカさと天秤にかけると
あまりない、というか全く 落城だろうが降伏だろうが、生かすも殺すもその時次第、当主の意思次第なところがある。戦国のしきたりに従ってもいいし、そうでなくてもいい。まして豊臣を救いたい一心なら可能だったということ。端からみればそんなつもり毛頭なかった。言ってる事の主旨ぐらい分かれ。 いいや?
そもそもあの時点で家康は当主じゃねーし何寝ぼけたこと言ってんの?
言ってる事の趣旨は分かってるよ?わかった上でまるで解釈が間違ってるから突っ込まれてるの、理解できてない? >>34
言い訳だな。しきたりなんだろ。
都合で変えられるならしきたり
に従う必要はないってこと。天
秤も何も家康は豊臣を助けたか
ったという主張だろ。
本当は助けたくないのは見てれ
ば分かる。数々の豊臣に対する
助け船みたいなものも徳川はこ
こまでやったのにというある種
のアリバイみたいなもんで家康
の本意は最初から殺すつもりだ
ったんだよ。その最初の時点と
は二条城会見の時点と広く認識
されてるが。ここの戦国マニア
からしたら違うんだろうが。 秀頼を殺す気はなかったのは事実でしょう
でも秀頼はある一線を越えてしまった
輝元も景勝もまずいと思ったら臣従を誓ってリカバリ能力を発揮している
秀頼はそれが出来なかった 見てればわかるとか噴飯ものの発言でクッソウケる
どの史料見てわかったんですかー? 見てればわかる(キリッ)
なおこの時代を研究されてる人の名前は一人として知らなかった模様 テンプレな陰謀論者の語り口だよね
本心は〜〜とか、それやってたのはアリバイで〜〜とか
これ以上に似合う言葉はないよね「お前が思うんならそうなんだろ、お前の中ではな」 頭の安いってなんですか?どこの言葉ですか?
お顔真っ赤すね、見てればわかる(笑) >>41
そのまま返す、その言葉徳川のやって来た事を見て、野心も悪意もなかったなんてほとんどの人は思わない。だからあんたらが崇める歴史の専門家の間でも稀な意見になってる。つまりあんたらの意見は少数派だ。 結局どの史料を見てればわかったのかも答えてくれないしなー
見てないんだろうなーなにも 大坂の陣の研究者の人数全部知ってる口ぶりしてたから
じゃあ名前挙げてみせてって昨日聞かれてたのに答えもしないでうだうだ言ってたしなー >>48
一般的な歴史の話。証拠の固まってない俗説ではなく。歴史くらいどこでも習うだろ。 研究も史料も見ないで何見てたんですかねー、ドラマ?ゲーム?小説? >>50
荒らしとかいうけど実際荒らしてるのはあんたじゃないのか うわーお、専門家の研究を俗説って言っちゃうんだその頭実際お安い!
あなたの言う一般的な歴史ってそれ誰が研究したものなんですかー?
その時に証拠も挙がってるんですよね?見せてくださいよ証拠ー 史料からも家康に一大名としての豊臣家を滅ぼす気も秀頼を殺す気も無かったのはほぼ確実だよ
問題はそれは何があっても滅ぼさないという絶対条件ではないということ
豊臣家が生き残る為のハードルはかなり低いものであり家康や片桐はもちろん、近年の研究では悪玉扱いされていた淀の方や大野治長もそこに向けて尽力していた
それをぶち壊しにしたのが秀頼
それを最終的に滅ぼしたから最初から滅ぼすつもりだったと短絡的に言われては、関わった人間たちがあまりにかわいそうだ 昨日出してた真田丸の時代公証の人はあんたらからしたらあの時代の第一人者か?ちょっと調べたがまだそんなに年いってないようだけど。 あなたの主張、証拠もそれを研究した人物の名前も、一度も上がってこないじゃん
出てくるのは間違った比較による歪んだ主張だけで
なのに相手の根拠ある主張は根拠提示されてるのに確認もしない、どこがまともなの君の頭 ねー、いつあなたの言う一般的な歴史を主張した研究者やその人の根拠出てくるの?
一般的な以上すぐ出てこないとおかしくね? >>25
バカのひとつ覚えみたいに研究者に敬意とかいってるが、お前さんら本当に歴史の研究者に敬意を持ってるか?そんな風に見えないね。 >>59
あくまで普通の意見だがらな。あんたらのような変態の意見とは違う。 なんだ結局研究者の名前もその論拠も、出せないのね
まともに科学としてやってる人間で、主張の論拠も研究してる先人の名前も出せないとか
恥ずかしくて一日引きこもるレベルだわ、うわー見てるだけで痛々しい 歴史研究家には十分敬意を払ってるよね
一般的に知られてる事と科学的にはすさまじく乖離してる事柄も多いのに
一般的なを無敵の言葉だと思い込んで根拠も研究者の名前も出せない、曰く頭安い人間をバカにしてるだけで マルシマガーたちは
丸島が死ねって言ったら死ぬの? 丸島氏の名前だけ覚えられたのね
えらいね〜、このまま大坂の陣の研究者の名前全部言えるかな〜? >>66
荒らしは禁止と言われなかったか。気に入らないなら無視すればいいだろう。 早く一般的な歴史を主張した研究者やその人の根拠出してよ
主張の根拠がないもので他人の研究を小ばかにしたキチガイじゃないって証明して見せてよ
自分で覚えてないもんを他人に強要したのか、どういう神経してんだろ それより家康が豊臣を滅ぼすつもりがなかったことを納得させろ 納得する気がないもんな
自分の気に入る主張は無根拠でも飛びつくけど、気に入らない主張は確認もしないしバカにするだけ
そんなやつ納得させる方法なんてないよ、バカにつける薬はないもの >>70
あまりにも当たり前で山ほどいる。だから一般的と言ってる。そんなに知りたきゃ自分で検索して調べろ。普通の意見なんだから普通に出てくる。
誰かが上げた五人よりは当然多い。 >>73
そのまま返すよ。バカの妄想は始末に負えん 新説なんて言うのがそもそも間違いで妄想だよな。そんなに徳川が好きか? 一般的な歴史って名前の研究本なんてないんだけど
ちゃんと正しく誰それの研究です、根拠はこれですって言ってみせてよ >>77
だから横着せず検索しろ。掲示板以外のネットが使えんのか?手間かけさすな。 調べるために聞いてるんだけどオツム大丈夫?論文書いたことある?
主張するからには根拠と出典載せなきゃいけないって当たり前の事も知らない? >>79
本当に頭の安いやつだなそんなことを聞いてどうする。自分で考えるんだよ。さすが家康ファン本人と同じで安っぽいわ。 手間かけさすなじゃないんだよ、主張するからにはやらなきゃいけない大前提の労力なんですわ、ご存知ないのですか?
そうでなきゃ根拠のない妄想だって調べたらわかる、調べてもわからないならお前が悪いっていう無敵論法できちゃうからね
ゆえにこんな主張したらまともな人間は恥ずかしいし、やった時点でバカだと思われるからやらない いや。族滅させておいて
「殺す気は微塵もなかった」は流石に通らんだろ
信じるヤツが居たらオウムだ
「救済(ポア)するつもりはあったが殺意は全くなかった」とか信じちゃうんだろ? ネットで検索できないなら大阪の陣をテーマに図書館行って調べてこい。それなら出てくるだろ。わからなければ司書の人に聞け。運が良ければ教えてくれるかもね。 >>81
異常な説を唱えるあんたが説明するのは分かる。教科書レベルの常識を説明する必要なし。だから図書館いけ ああ、結局出せないんだ
出せないから名前も出てこないし根拠も一つも出てこないんだ
でもそれがばれたくないから大勢いるのー!図書館行けばあるのー!名前言わんけど
寝小便隠したい子供の言い訳と一緒じゃん いや。難しく考える必要なくね?
被疑者が殺人を犯しておいて「殺意がなかった」と主張する場合は
被疑者側が殺意が全く存在しえなかった証拠を差し出せばいいだけだし。 教科書レベル
教科書も尊氏だと思われてた肖像画が信ぴょう性なかったから変わってんだよね
教科書レベルってその程度のものなんだけど、知らなかったの? >>86
何だ、行きたくないのか。普通に調べて出てくるのが怖いのか。 まあ殺意があったのは間違いないわな。なかったと主張するならこれまで出したような証拠もどきじゃなく誰もが納得できるものを出せば? なんだ、出したくないのか。そんなもん存在しないのがばれるのが怖いのか。 山口敬之が現在裁判で戦ってるけど
「私は全くレイプする気がなかった」
「彼女が嘔吐したからレイプした」
「彼女が抵抗したからレイプした」
「彼女が声をあげたからレイプした」
「彼女が扇情的な服装だったからレイプした」と
散々セカンドレイプをしてるが彼の言い分を信じるのはここの徳川応援団だけだと思う。 言ってるじゃんほんとバカだからすぐ忘れちゃうのね
納得する気のない人間は納得させられないってば、二度も言わせないでよ
バカにつける薬はない >>94
それはこっちのセリフだ。いい加減目を覚ませ。家康ファン。 なんで家康が殺意を持ってなかったと思ったの?と前スレで聞いたら
「マルシマガー」連呼なんだもん。心底驚いたよ。
丸島がこのカルトのグルだという事だけは分かった。 この2人はメールでやり取りでもやってって感じ
スレの私物化 こっちは研究者の名前出てるけど、そちらは一人たりとも出てこない
出てくるのは一般的な歴史(笑)っていうふわふわした言葉だけ、ソースはウィキペディアレベル
しかも自分はできないのに大坂の陣研究者の名前全部言ってみろ、なーんてバカまで言い出す始末 >>91
ばれるって何。家康が豊臣に対する殺意がなかったなんて説が嘘って事?自分でも信じてないでしょ。 5人程度研究者の名前挙がってたと思うけど覚えられたのは丸島氏のみか
1以上の名前は覚えられない脳みそって鳥以下じゃん >>97
すまん。やつがバカ過ぎてつい返してたらこうなった。しばらくこないんで許してくれ。まともな意見なら突っ込まなかったんだが。異常な事いってるから。 丸島って結構ヤバい奴だよ。
テレビの脚本家に「こういう脚本を書きたいんですけど」と言われるたびに
「じゃあそういう事も資料を曲解すればありえないくもないのでOKです」と言ってたもん 最後、真田信繁と徳川家康が1対1でタイマン張ってたけど
あれも時代考証をしてた丸島がGOサインを出したそうだし。
タイマンを張ってないという明確な証拠は無い(ビシッ)って言ってた。 創作と史実の区別もつけられないのと一般的な歴史ガー君が昨日から散々別スレも荒らしまわってて申し訳ない そもそも真田家は5人兄弟なのに下二人の弟は存在が消されて
信之「われらたった二人の兄弟なので支え合わなきゃいかん」とか
何度も劇中で言ってた。もちろん監修は丸島 劇中
劇、つまりフィクション
フィクションに史実と違うって文句つけるのかー なんで伸びてるのかと思ったら
根拠も著者も出さないで一般的とか言う主観しか出さず証明すら出来てないのが、根拠も研究者の名前も明かして証明してる相手にマウント取ろうと粘着してるだけか >>101
「そろそろ息切れしてきたので逃げます」てことですね
そしてしばらくしたらID変えてシレッと戻ってきて「研究者に敬意をはらえないヤツはカス!」て真逆のことを唱えるんだよね
知ってる
それやるの何度目かな? 幕府の豊臣家への対応ってできものができて
自然に治癒しないかとか投薬で何とかならないかとか
手術しない方向で済むように容態を見守ってたけど
いよいよ病状が悪化して切除せざるを得なかったって感じだよな
存在自体が盲腸みたいなもんだし 大野は下の弟がね
兄の方は関ヶ原前にやらかした感じだけど 治長は且元追い出しをやってしまったのがね
その後は現実知ったのか和平結ぼうと頑張ってたけれど、自分が且元へやったのと同じように弟に襲撃されてるからなぁ
淀君はもう何度も何度も言われてるし少しくらい研究読んで欲しいのだけれど、最初から現実的融和路線
いわゆる大砲飛んできて日和って和睦みたいな話も、豊臣優勢だったという事にしないとお話的に面白くないからで終始劣勢のまま物資尽きかけてたのが実際のところ
秀頼本人とその近臣が異常に過激路線 淀君の君って一昔前から女性に対する蔑称にあたり失礼だから淀殿と呼ぶべき流れになったけど、秀頼誕生周りを調べたらそう呼ばれるのも仕方ないと思うようになったわ
何としても自分を価値ある存在にしたかったのかねぇ 信用皆無の史料にしか出てこない人物の実在を聞かれても >>116
それよくわからんのは姫君とか若君とかは蔑称なのだろうか? >>116
そもそも淀君呼びが蔑称というのは
一部の研究者が出してきた珍説ですよ 君主のことを指すところから始まった君って呼び方が蔑称ってそもそも意味不明だものね
遊女に〜君って呼び方が多いからきっと蔑称だったはずだってのが主張だったみたいだけど
天璋院篤姫も篤君呼びを当代でされてたはずだし、他にも君呼びの女性はいっぱいいる
むしろ遊女側を最大限の敬称で客が呼びたいなり遊女たちが箔をつけたくて貴人の呼ばれ方を真似しただけじゃないかね
今でもSM嬢を女王様なり様づけで呼ぶのと同じ感覚で なんかここ過疎ってるね。閉鎖的で特定の意見しか認めないなら、スレッド閉めた方がいいんじゃない? 下手うっても何故か死なない信雄が下手打つ前に逃げたあたり城内の雰囲気はお察しだったんだろうな 信雄は途中まで主戦派寄りだった説もある
本当に戦交えようの空気になって名ばかり大将にされそうになったから逃走決めたけど
信雄を大将にして名目上は織田vs徳川になってたら面白そうだ 信雄はびっくりして大坂からバックレ、板倉に内通して、龍安寺に身を隠した。次に織田長益を総大将にせんとしたというのは事実か? 織田の系譜で妙にやる気満々だったのは頼長だったかな 片桐排斥事件の時に信雄はすぐに徳川に異心なしって旨の書状を京都所司代に出してるし、穏便に済ませたかった派じゃないかね ゴリゴリの開戦派に総大将として担がれかけたんだから調子のいいことを言ってた可能性が高いんじゃないか
出典は忘れたが片桐暗殺にも当初は加担してたらしいが >>134
それは聞いた事がないなぁ
そもそも襲撃されそうな事を片桐に伝えたのがほかならぬ信雄だし
開戦派に担がれかけたからってのはちょっと根拠として薄いんじゃないかな
あの時点で信雄以上の実戦経験と家柄の人いないから担がれただけともとれるし 信雄、あれでもあの時点の大坂方では数少ない
万単位の兵を指揮したことのある大将なんだよな
官位も元内大臣とかなり高いし 一番最初に逃げた人物に期待をかけるしかないとはもう無理だな 中身はともかくガワだけ見たら神輿としては十分というか適任なんだよな
二度目の改易食らってまたまた拾われた恩があるんだから呑むと思ったのかも 三介殿、大坂の陣と同じ発端で同じ運命になりそうだった小牧長久手の戦でちゃんと軟着陸してるから
ただそのあと移封イヤイヤして秀吉キレさせただけで
ほんと大坂の陣って収拾つけられなかった小牧長久手じゃないかな 信雄くん小牧長久手初期は活躍してたのに
陸路の池田森と海路の滝川九鬼を撃退してるよ 伊賀でやらかして信長に大目玉食らい
本能寺の事後処理でへまをやらかし
織田家復興に熱心だった信孝を秀吉の片棒担いでぶっ殺し
わざわざ自分から秀吉に喧嘩売って大事な伊賀と伊勢を切り取られて臣従する羽目になり
馬鹿でもアホでも勝ち組になれた小田原でKY発揮して改易され
関が原でも秀吉との関係をとりなしてくれた家康に味方せず改易され
こんなのでも当時の大坂にあっては最上位の人材なんだよな…
で、その人材にスパッと見切られてるんだから最初から終わってる 流石の信雄もこの時期には自分の立場を理解していないとどうなるか身に染みていただろうし
主家のプライドに拘泥する秀頼一派を諫めはしたかもしれん
てか、信雄という全てを失った好例が目の前にあるのに開戦一本槍の連中は異様だわな 有楽の息子が総大将やらせろと言い出したのは、皆からよってたかって潰されるのを予期したうえで、城を退去する口実が欲しかったという解釈で良いか? >>145
有楽と息子頼長とはだいぶ考え方に隔たりがあるように見える
過激派な頼長に有楽が巻き込まれる形だったんじゃないかな
とりあえず親子とはいえこの二人が一枚岩って考えは危険だと思う まあ一部で言われるように長益が徳川方の内通者だったなら頼長も同じだろうがな
内通者が秀頼の名代までやってたことになるわけだが… >>134
浅井一政自記にも
常心より佐々雅楽助が使者としてたてられ(片桐を成敗するかもしれないという噂がある旨を)片桐に知らせた
それまでは何の沙汰もなかった
とあるし流石にその線は薄そう そんな担当っていうように分けてたわけではあるまい。親は親、子は子だよ。
頼長は勝手に強硬路線煽って冬の陣の後駄目だこれって抜けただけだろ。 頼長って冬の陣でなにか失態を犯してなかったっけ
それで居辛くなったというのはないかな >>151
自分の隊で喧嘩騒ぎが起きてる間に藤堂隊に攻め込まれてその間指揮しなかった、でしたっけか
統率できなくてへそ曲げたんですかね それこそのぶおや有楽が家康からなんらかの確証を貰ったから逃げ出したんじゃないの
そもそも冬で主戦派だった理由も謎だし >>153
内通してたってのも疑惑だけで一切確証もないしなんで
とりあえず主戦派だったのがブラフだよ、って言える確証でもない限り、そう見るのは難しいかと
薄田が博労淵でやらかしたのは家康と内通してたからだとか、豊臣方のやらかしは全部内通してたからだと言えてしまう まあ所詮人間のやることだから
直近に帰参した立場だったから強硬な立場で歓心を買おうとしたのかもしれない
明らかに死亡フラグが立ったのぶおは真っ先に逃げた
頼長長益は豊臣への義理立ても出来たし明らかに情勢が悪いから玉砕する前に退散したと
でも何かあっても変では無いとも思うけどね 有楽と息子頼長が強硬派と穏健派というのが面白いな。
大野道犬と大野治長兄弟も同じ感じじゃなかったっけ。
道犬が治長を切って重症を負わせたけど、あれは演技じゃなかったと思う。 それこそ淀と秀頼も穏健派と過激派に分かれてるので
とことん親子、兄弟で認識のズレが表面化しまくってるね 織田を凋落させた信雄やそれを見ていた淀の世代は諦めモード
若い世代はイケイケの印象 諦めとイケイケというか
ちゃんと状況把握できてる方と向こう見ずとの差というか
牢人衆ですら又兵衛あたりは状況把握してるし、中立組の真田ですらこれ死ぬわって認識してるし まあ徳川の方も家康は穩便派、秀忠は強硬派に分れているしね
と言うより父親の余光に縋り我儘勝手にやってきた豊臣に対して
家康が甘いだけで秀忠や徳川家臣連中の態度の方が普通だと思うけど
豊臣恩顧の大名も呆れて見限っている感じだし 家康にしてみれば、ここまでくればさすがに臣従するだろうと思ったんだろうなぁ つか二条城会見の時点で常識的には臣従なのよ。実際徳川家から豊臣への
年頭礼は止めているにも関わらず、豊臣家からは徳川家に行っているし。
客観的には誰が見ても豊臣は徳川に服したという状況だったと考えられる。 織田三介信孝を死に追いやり、柴田、滝川を攻め滅ぼし、秀吉から謀反人の濡れ衣を着せられた時点で、ようやく手を握ってはならない 相手と手を握っていたことに気づかされた 改易前の振る舞い見てても信雄ってちょっと池沼入ってると思う
その池沼にすら見捨てられる豊臣… なんだかんだ言っても信雄は秀頼のような世間知らずの箱入り息子ではなかったからな
それなりに己の器量と実力を思い知って生き残るために何が必要なのかわかってた
秀頼はなまじ親父が天下人でなおかつ成人するまでまともに外の世界を知らずにいたのが致命的
完全に夜郎自大の勘違い、武家としても公家としてもやっていけそうにない中途半端な
始末に負えない存在に育ってしまった 結局大坂の陣って、
自分の事を天下人と勘違いしているボンクラ大名が暴走して公儀に反抗してきたので叩き潰された
という認識でいいの? ちょこっと花火上げて健在アピールしたら誰も擁護に回ってくれなくて
意地になってもう一回やったらサクッと潰されたボンクラだよ 御家騒動的性格もだいぶ混じってそうなのよね豊臣方
元々が家中の事の殆どで奉行する事になってた淀派の片桐への襲撃未遂事件だし >>168-169
研究者ででも秀頼評価しているのって福田千鶴くらいしか知らないし、実際才器の欠片も感じられないからなぁ 評価を行おうにも若死にすぎて起こした事績が大坂の陣くらいしかないので他で評価のしようがないってのもありますね
統治に関しても実権を淀から譲られてたのか、譲られてたとしてもその期間はかなり短いでしょうし、そも徳川の代官に肩代わりしてもらいながらの統治だし
言うならば答案用紙に空欄多数で数少ない記述されてる所も間違ってたから0点、ってのに近いですかね
ゆえにロマンを求める方は空欄に深い意味を見出そうとするんでしょうけども つっても大坂の陣の時点で二十歳超えてるからなあ
この年齢で実権を渡してもらえなかったもしくは取り返せなかったのなら
周りの人間から器量を評価されてなかったということだし
実権を握っていたなら一連の顛末はいい点数をつけようがない 癇癪起こして立ち上がり、特に何するわけでも無くそのまま座る
秀頼の人生は座布団のシワを少し増やしただけのこと 大阪の陣で対徳川主戦派は秀頼側近連中なんだけど、、あれも
秀頼がそうだったから周りもそれに従ったのか、逆に側近連中が勝手に秀頼を祭り上げたのか、
それすらわからんからな。 長曾我部元親は数え年で二十三、徳川秀忠は数え年二十二で初陣じゃなかったっけ スケベったらしく佐野道可を入城させている毛利輝元は、毛利元就の孫だ どちらに転んでもいいように
万が一のための二股保険を忘れないソツの無さこそ輝元が名将たる所以よ
大坂方にどうせ勝ち目ないんだから一点張りでいいだろ、なんていうのは愚将がすること
関ヶ原の時もそう
総大将なのに、じゃないんだよ、むしろ自分が総大将というハイリスクハイリターンのヤバい地位になるからこそ
負けた場合に全て失うのを回避する保険は用意しておかねばならん
つまり敵に通じるパイプ(吉川)を用意しておき、いつでも引き返せる状況を作って置くことが必要だったのだ
さすが知将元就の孫よ
世間一般で格好いいとされる基準からは確かに外れる、しかし、その事と能力とはまるで別の話だ
この区別が判らん奴が多いから輝元の評価が不当に低いんだよな 取り潰し寸前だったのを吉川に救ってもらっただけなのに知将もクソもあるかよ
元就の血を引くなら吉川をも犠牲にしてでも100万石の大大名として生き残っただろうよ 保険と背負わなくてもいいリスク背負うはてんで別の話
ましてや佐野道可の事件においてはその保険のせいで怪しまれてるんだから 佐野道可事件は輝元が派遣したのか勝手に出奔したのか史料的にはなんとも言えん >>181
次は道端に落ちてる犬のウンコにでも美点を見いだしてやってくれ 自分的には光成氏の言う
最初は知らなかったけど、知ってから悪さ考えて黙認してたって認識が近いんじゃないかなって
真田とか黒田は確認できてすぐに、独断で家中の人間が豊臣に付いた事を強調してすこぶる厳しい扱いしてたでしょ確か 20年だか前に出奔した縁も遠い佐野道可が大坂城に入って輝元に何か良い事あんのか。ちゅうのが 吉川廣家が単独で徳川方との和議のために動いているのを後から知り、輝元があとからそれに乗った。
合戦前日の起請文には、吉川ほか、福原式部少輔も、連署しており、毛利家全体の総意だと、信じるに値するものだと考えられる、こう光成氏は指摘している その説、南宮山には輝元側近たちも在陣していたんだから、輝元に知られず和議を
行うなんて事が可能とは全く思えん。普通に輝元にも話は通っていたと考えるのが
自然だろ。
光成氏の説はこういっちゃ何だがロマンチックすぎる。 >>176
秀頼の場合、結局戦場にも出なかったし、戦闘の指揮をしたわけでもないから
初陣すらせずに死んだ事になるような気がする 片桐は徳川からも扶持を受けていたこと、片桐は徳川の指名で豊臣家付家老を担当してからである。 つか片桐且元は徳川より所領を安堵されている徳川大名であり、これを攻めることは
江戸幕府の所領安堵権を否定したものとなり当然討伐対象となる。 茨木城に立てこもった片桐は、京都の板倉に通報し、援軍の要請もしている。 ときどき本光国師日記とか駿府記を徳川方の記録だから信頼ならないとか言い出す奴いるよな 実際豊臣方に良いところ何もないからなぁ
難癖つけるしかないんだろう 単純に片桐且元は大坂方の和睦派、大野一派は開戦派だったってことでしょ もうちょっとややこしい。
譜代の家老である片桐且元らは徳川体制への恭順派
大野修理ら淀殿側近は反片桐派
秀頼側近層の織田左門や木村長門、渡辺糺などが主戦派 淀殿と大野治長は開戦後一貫して和睦派だからそこはまぁ分けた方がいいんじゃない?
片桐は淀殿配下っぽいけども 大野治長ラインは徳川との開戦までは望んでおらず、基本的には片桐と同じ、
徳川体制と共存した豊臣家の存続を目指してた感じだしな。
ただ片桐派と大野派の権力闘争が起こり、大野派が主戦派だった秀頼側近層を引き入れて
片桐の追い落としを成功させてしまったことで、話が混乱した。 偶には趣向を変えて大坂の陣の史料を一つ
関ヶ原に比べ探し方がまだよく分っていませんが
島津家文書から、家久あて山口直友書状 山口直友書狀
尚々、御人數御殘候て、御上洛尤存候、將又此書狀惟新樣へ早々可被成御屆候、ョ入そんし候、以上、
追而申入候、去五日に兩 御所樣御出馬被成、則七日に御先手之御人數押入、
將軍樣御自身被成御詰、同七日之申ノ刻に、本丸殿主燒申候、翌日八日に秀ョ御切腹、同御袋御自害、
其外女房衆數輩自害候、大野修理も相果申候、又諸牢窂人幷大坂之侍衆、悉相果申候、可御心安候、
将又、越中殿去六日に 御目見被成、」仕合殘所無御座候、然者貴樣之儀、急度御上洛候て、被成 御目見可然存候、
早々御人數者不入儀御座候、不及申候へ共、御急被成御上洛㝡存候、猶堀弥右可被申上候、恐惶謹言、
山口駿河守
五月九日 直友(花押)
奧州樣
人々御中
參 島津家久書狀案
不存處、從
秀ョ樣被成下御書、先以忝奉存候、仰被思食在儀御座候に付而、早〻可致上洛之由、被仰下候、尤雖可奉應尊意候、
先年石田治部少輔取趣弓箭時節、老父兵庫入道上方に在合候故、雖不罷成分別候、相守 大閤樣之一筋、關東雖盡粉骨、
合戰相破、御所樣天下被成御安堵候之間、當家迷惑に相究候處に、被指捨御遺恨、我等被召出、兵庫入道身上」まで無异儀被指置候、
然時者 大閤樣御一筋之御奉公に付而、當家者一篇仕候、 御書樣被成御取立、數年種〻御厚恩儀、世上に無其穩候条、
背御當代申儀者、不罷成候、御尊察所仰候、將又、正宗長銘之御脇指拜領、誠に雖奉存忝候、右之御理に候間、致返上候、
可然樣に、可預御披露候、恐〻謹言、
刁 嶋津陸奥守
十月十二日 家久
大野主馬头殿 >>216
自分で調べろよ
その手に持ってるものはおもちゃか? こういうのってぱっと見偽書っぽく思っちゃうんだけどどうなの 偽書かどうかの調べ方もあるでしょ
当時の記述方式じゃないとか、明らかに書かれてる事とその後の行動がかみ合ってないとか >>218
出典は島津家史料になります、ついでに真田家関連で史料を二つ
前者は眞田文書、後者は大蓮院殿御事蹟稿が出典になります 信之宛幕府老臣連署狀 眞田文書
尚以、貴殿御煩にて御越候義不罷成候者、御息河内守殿へ御人數御付、早〻當地まて可有御越候、以上、
急度申入候、仍大坂片桐市正与大野修理申分有之由候而、彼地之事外さはき申之由、板倉伊賀守方より御注進申上に付て、
駿府も御陣觸之由候間、有御陣用意、早々至江戶可有叅上之旨候、恐〻謹言、
安藤對馬守
重信(花押)
十月四日 土井大炊助
利勝(花押)
酒井雅樂頭
忠世(花押)
眞田伊豆守殿 木村茂綱宛真田信之室書狀案 大蓮院殿御事蹟稿
返返、せうくんさま昨日廿三日おゑと御たちにて候、くわしくはよくよく申まゐらせさうらふへく候、ひきやく給候へく候、
一 いつ殿御めみへ候て、一たんのし合にて候、わつらい候まゝ、こなたにてようしやう申候へく候、いつ殿は御ちんへ御たち候はす候、
一 かわち殿、ないき殿はかり御ちんへたち候し、廿七八日にわそつとたち候、
一 かみかたいよいよ御てきれと申候、その外かわり候事候はす候、心やすく候へく候、
一 ようの事とも御座候者申まゐらせさうらふへく候、きもいり候て給候へく候、
一 ろし中きけんよく万いり候、心やすく候へく候、
一 さへもんのすけ殿、大さかへ御入候よし申候、かしく、
又〻、かわち殿さし物いそき候、給候へく候、さかやにあるへく候なと申候、
ゑとゟ
十月廿四日 久
とさ殿
同かみへ 矢澤ョ幸宛信之書狀
以上
以書狀申遣候、仍何方迄叅陣候哉、此方にて如申、此節候間、何事も無油斷肝煎ョ入候、下〻軍法〻度之儀不及申堅〻兼而可被申付候、
不可有油斷候、朝夕此方にて案入候、萬〻雲州請御指圖候て、路次中も可被罷上候、又陣中賄以下之儀むさといたし候はむ
○○藤右衞門尉下〻あつかひ候ものに堅可被申付候、河内守は若候間、萬其搆有之間敷候間、何事にも可被入念事專一に候、
菟角此時候間、被入精可給候、謹言、
霜月四日 信之(花押)
矢澤但馬守殿 小笠原政直宛犬甘久知書狀案
尚以、路次中、宿以下被仰事無之やうに、上下御法度能〻被仰付、御越可被成候、御先手御法度、一段つよく御座候間、
其御心得可有之候、御うしろぞないの衆、佐渡殿なと、御あとのよし申候間、何とそ被成、それゟも先に御越候やうに、
御才覺可被成候、なかはま通は御無用に候、本道を御出可被成候、やすに御待被成候間、其分御心得可被成候、
又〻外記に被仰付、我等もの引まはし參候やうにと、御心得ョ入候、以上、
八日之御書中、八幡山におゐて、令披見候、無何事路次中御越之由、先以目出存候、
一 八日に長澤にて、御目見被成、御仕合無殘所候間、可御心易候、信濃衆は一手に被仰付候由、御年寄衆被仰候事、
一 路次中、こみ不申候て、御越候由、尤に存候、信濃樣も、やすに御待被成候付、早〻御越奉待候、
一 夫傳馬に被入御念、御引付候て、御越可被成候、先手之儀は、相替儀も無御座候、御人數も御急にても無御座候、
長澤に八日、九日者御逗留にて候、ぜゞにも一兩日御逗留と申候、先〻、爰許迄御出候へは、信濃樣も御心易思召候はんまゝ、
其分御心得可被成候、恐〻謹言、
(朱書)
「慶長十九甲寅年也、」
十一月九日 犬 半左衛門(花押)
小隼人樣御報 陣中目付連署狀案
追而、御組中へも、右之通可被仰觸候、以上、
急度申入候、仍、境へ下々罷越、猥に在之由、成P隼人殿被付置候人、幷境惣中より申來候、堅可被申付候、然者、
苅田之儀、彌御法度候間、只今之御陣取ゟ跡に而、苅り不申候樣に堅可被仰付候、被入御念、御家中下々へ能可被仰聞候、
若緩々被仰付候者、可致言上候、爲御屆如此候、恐惶謹言
霜月十一日 鈴木久右衞門書判
瀧川豐前守書判
初鹿野傳右衞門書判
眞田隱岐守書判
横田甚右衞門書判
城和泉守書判
山代宮内少書判
太田美濃守樣
御陣所 >>227の史料、苅り田に関する注意なんだろうけど、むしろ陣中目付の連中が気になるな 大名が代替わりで若返って経験不足な代わりに
陣中目付は武田旧臣を中心に歴戦のじじい共揃えました感がなかなか燃えるな >>231
山城忠久、元秀吉家臣で臨時役の使者や奉行を務める
関ヶ原合戦では小山評定後に大坂や京極高次に家康の書状を運ぶ
合戦後も使者や奉行を務めるも日光東照宮造営時の喧嘩により切腹 >>226
小笠原政直ってどんな人?ググっても出てこないんだけど >>233
出てくるよ
小笠原秀政の家臣で、親族でもある
直接秀政に宛てるのは失礼なので家老の政直に出している 戦国時代人に「そちらの○○家と通商条約を結びたい」って言っても「?」ってなりそうなんだが
該当する訳語になったら↑は何ってなるん? >>227
陣中目付、鈴木伊直、瀧川忠征、初鹿野昌久、真田信尹、横田尹松、城昌茂、山代忠久か 梶原政景って太田氏継げなかったと思ってたけど、違ったのかな 今日は久し振りにこちらに史料を
出仕を止めるよう且元に助言する常眞の書狀 織田常眞書狀寫
尙々、貴樣次第に、誰にても可然候、とかくとかく承候子細候間、今日之御出仕、返々御やめ可被成候、委細之事、
御返事四大に申度候、已上、
一筆申候、今度之御氣遣不及是非次第候、左樣に候へは、此たひの御樣子、何共御せうし成躰内々風聞承申候、
それに付て、貴樣今日之御出仕之事うけ給候子細候條、是非共是非共御延引候へく候、爲共如此候、
此段ふあんに被存候へく候、たしかに御聞屆度候はゝ、たれに而も、貴樣次第に可給候、我々承屆候分申進候、
有無に今日之御城へ之御出仕を御やめ候へく候、御出仕候てからは、何事も申度事も御談合不成事候、貴樣次第に、
條々申入度事御入候間、具に申度候へ共、夜明申條、急一書令申候、恐々謹言、
九月廿三日 名判
片桐市正殿 常眞
まいる 史料の人、今度は大坂の陣の史料も書きはじめたけど、こっちの史料スレは立てないのかな? 大坂の陣は大日本史料が刊行・ネット公表されているから見たい人はそれを見れば良い あの人好きでやっているだけみたいだから、その内つくるんじゃないの >>253
まあその内気が向いた時にでも立ててみようかとは、思っていますね
それはそれとして御書集と金澤本多家所蔵文書から史料を一つずつ
小笠原政信宛忠脩書狀案
(朱書)
「本書折紙御自筆 初紙一枚絶」
御絕間無御座候、平野ゟ一里半へたてゝ鉄炮之音計承候てい申候、中中腹立申候しかたにて御座候、
一 本多美濃守殿なとも、先日者天王寺口に御座候か、城へ十七八町計ならては無御座候處に御入候か、是も大御所樣御旗本あへ野まて、
又歸候、是を承候て、我等共も少氣をなくさみ申候事、
一 我等召連叅候者共、下〻に至迄、物いひなく、何れも何事無御座候、可御心安候、弥法度已下、無由斷堅申付候事、
一 保肥後殿、此中は淀に御番に被爲置候か、是も御旗本へ御越被成候、平野にも堀御普請被成候、
一 昨日大津ゟ人叅候か、于今七郎左衞門不叅候由申候、何と仕候哉、不存候、七郎左衞門に被仰付候八木をたよりに仕候に、
それかちかひ申候故、皆大津、堺に而かい申候、先日我等叅候時に遣候金子、又其後跡ゟ御越候銀子、もはや無御座候、
上樣ゟ被下候扶持方、來月之も今月渡申候ことくに候て、何之用にもたち不申候、其元ゟ被遣候はゝ遣を待申候、
無御由斷被仰付可被下候、
一 其元ゟ召連候夫丸三人相煩、用に立不申候間、藤森に指置申候、夫馬も壱疋用にたち不申候、其外者無何事候、
一 來四五月之比まて罷有候はゝ、何共成申間敷候、百石なみの者共なとをは、早〻かはりを、正月は御越可被成候、
けつく、みくるしき樣成者は、大形は御無用に可被成候、其元萬事口留所〻、御番已下、不及申候へ共、
堅可被仰付候、爰元今日迄は別に替儀無御座候、御心安可被思召候、尙追〻可申上候、恐惶謹言、
(朱書)
「慶長十九甲寅年也」 信濃守
霜月晦日 忠脩(花押)
主水佐殿 本多政重宛正純書狀
尙々、さなたさ右衞門介殿御身上之儀、我等に御まかせ可有候、少もうたかわしくおほしめし候ましく候、以上、
一態申入候、さなた左衞門尉殿儀、御ちうせつ被成候樣に御さいかく可有候、爲其さなたおき殿それへ被遣候、
委段はおき殿とよくよく御そうたん可有候、御身上之儀は我等うけおい申候間、其御心得候てきんと御ちうせち被成候樣に可被成候、
くはしき段はおき殿御申可被成候、又おき殿と我等別而とうかん無之間に候へく候、御心おきなく御たんかう可有候、
爲其我等ぢ筆以申入候、此方之儀少も少も御きつかい被成ましく候、時分もよく候かと存候間、
いそき御てあわせ被成候樣によくよく可被申上候、恐〻謹言、
十二月十四日 正純(花押)
本あわのかみ殿 地元に戦況を知らせる忠脩の書状と信繁への誘いに関する正純の書状ですね >>256
正純、信繁の左衛門佐を介とか尉とか二個とも間違っているけど
本気で誘う気あったのかな いつも通り変なのが所かまわず荒らしまわってるだけちゃうか 史料を読む事が出来ないんで、くやしいんじゃないのか 淀君が内府に無理やり○○されるプレイを、なかよひモグダンに発注したいです 普通に晩年の家康側室で良い
ただし晩年の家康側室は高級女性官僚としての格付けで、
家康が性交の対象としたかは疑わしいけど 流れを読まずに諏訪文書から史料を二つ投下
大坂夏の陣における幕府軍の軍法と道中条目 大坂夏の陣幕府軍軍法 諏訪文書
軍法
一 喧嘩口論堅御停止之上、若於違輩者、不論理非、双方可爲御成敗、其上或傍輩或依知音之好令荷擔者、從本人猶以曲事之條、
急度可加御誅戮、若令用捨者、縱雖相聞後日主人可爲曲事、
一 先手不斷物見を出儀、堅停止之事、
一 先手を差越、縱雖令高名、同軍法上者可爲曲事、
一 無子細他者備相交輩於有之者、武具・馬共に可取之、自然其日人及異儀者共以可爲曲事、但於有用所者、其備者相斷可通事、
一 諸事奉行之申旨不可違背事、
一 當坐之爲使、何篇之者雖差遣之、不可違背事、
一 持鑓者爲軍伇之外之間、閣長柄不可持之、但長柄之外於之者、主人馬之廻り可爲壹本事、
一 於陣中不可取放馬之事、
一 不可押買狼藉、若於違背之族者、見合次第可處死罪事、
一 小荷駄押事、路次中右之方相通之、不交軍勢之樣に兼日堅可申付、但於山坂者、附山之方而可通之事、
一 船渡之儀、不相交他之備、可爲一手越、夫馬以下同前之事、
右之條々、若於有違犯者、速可處嚴科者也、
慶長廿年四月四日 大坂夏の陣幕府軍道中条目 諏訪文書
條〻
一 今度御供之時、脇道すへからす、幷まち通におひて、家之際者右をよきて~妙に供奉あるへき事、
一 クとまりへ御着座之時、馬よりおり、馬は其所にをき、御供衆を通し、其次に馬を通し、其後ゥ道具を通へき事、
付、御座所へ御供當番之外可爲無用、若此旨相背輩にをいては、過䉼として銀子壱枚可出事、
一 御目付之細〻并御番頭ゥ奉行之儀者不及申、縱如何何樣之者申といふとも、御法度之旨違背仕へ閑らさる事、
付、御目付衆御番頭ゥ奉行過䉼可出儀を仕、類輩を見のかし、聞のかすに付而者、右之面〻銀子貳枚可出之事、
一 如何樣之儀出來候とも、番頭組頭之下知なくして、其身乃事者勿論、下人等に至迄出へからざる事、
一 馬上乃際、めしつるゝ閑ちものゝ儀、馬取貳人、沓持壱人、さうり取壱人、持鑓壱本、此外若黨を可召連事、
一 騎馬之中へ乘替之馬入へからす、若相交ものあらは、銀子壱枚可出之、但御用あつて御召の人之馬各別たるへき事、
一 御供之時、馬之口とらする儀、并高聲仕るに付而者、銀子壱枚可出事、
一 ゥ道具入こみに參間敷事、
一 御とまりへ御着座之刻、於町中笠・頭巾取へき事、
一 町通にをひて口を洗へからす、并馬に聲かくへからさる事、
一 何茂くみ頭無之輩之分者、間として自行事をさため、御本陣に相詰事、
慶長廿年夘月四日 >>267
側室の年代と寵愛の性的な嗜好で言うと、熟女マニアからロリコンに転身したかのように見える権現様… 本日も自己満足の為の史料を投稿、夏の陣の出陣の際の書状を二つ
出典は西尾松平文書と薩藩舊記摯 秀忠書状 西尾松平文書
今日十日、江戶を罷立、~奈河まで參着仕候、廿四五日比には、かならす罷上可申候之間、大坂表之儀、御とりつめなされ候事、
我々まかりつき候まて、御まちなされ被下候やうに可申上候、誠慮外成申上やうにて候へとも、此等之趣、能々可令被露候、
恐々謹言、
四月十日 秀忠(花押)
○○○○○とのへ 島津義弘家久宛忠興書状 薩藩舊記摯
猶々、關東むき出秩A奧州之儀、未何共聞え不申候、以上、
急度申入候、
一 自本上州御觸狀、今日十六午之刻下着仕候間、不移時日寫進申候、定而其方へは結句早く御觸狀參事も可有御座候へ共、先申入候事、
一 大御所樣、去十日名子屋迄、御着之由候事、
一 伏見爲御番、江・勢・尾・濃・三・遠之御人數、淀・伏見迄はや參着候由候、藤泉なとも被罷上候由申來候事、
一 信州之御人數も、おもてむき御陣觸となしに、悉可罷上候旨御觸之由候、勿論陣用意候て罷上之由、彼國之衆之内ゟ申來候事、
一 北國之衆も、はや西近江に、陣札打申候由申來候事、
一 本上州書中にも、手きれに成候者、可罷上之由相見へ候、如此に候へ者、未被仰ふん半と相聞候、乍去、從大御所樣御條子之内、
秀ョ樣大坂に其儘可有御座ならは、古參之衆々歷々、去年新參之衆不殘被成御拂て、國々へ可被成御預との儀、
又御國替之分に御同心候者、古參之衆者其儘被置、新參衆者御拂候へとの被仰懸樣に候、此外も御座有げに候へとも、
しかと聞不申候、右之儀、御同心有かね可申樣に、自上方申來候、兎角此度萬事究かと存候事、
一 先度も申入候つる、我等駿府へ遣候者、未上州に被置留、慥之樣子聞不申候、替儀は何時も可申入候、又其地へも相聞候者、
可預御知候、別紙に可申入候へ共、爲御相談態一紙に申入候、恐惶謹言、
四月十六日 忠z中
惟 新尊老
秩@奧州樣
人々御中 >>267
そういやナイフ様は秀吉の妹とセックスしたんだろうか? 村松宛信繁書状 小山田文書
たより御さ候まゝ一筆申あけ候、さてもさてもこんとふりよの事にて、御とりあひに成申、われわれこゝもとへまいり申候、
きつかいとも御すいりやう候へく候、たゝし、まつまつあひすみ、われわれもしに申さす候、御けさんにて申たく候、
あすにかはり候はんはしらす候へとも、なに事なく候、しゆせんとのにも、さいさいあひ申候へとも、
こゝもととりこみい申候まゝ、心しつかに申うけさたまはらす候、こゝもとなに事もなく候まゝ、御心やすく候へく候、
くはしく申たく候へとも、此ものいそきたちなから申入候まゝ、さうさう申候、かさねて申入候へく候、かしく、
正月廿四日
むらまつへ さへもんのすけ
まいる 小山田茂誠宛信繁書状 岡本文書
返〻、おほしめしより御飛札忝候、久〻か樣之住居にて候へは、何かたよりも見舞便狀にもあつかり候はんとも不存候、
御手前なと御心中更〻可有御志等候とも不存候、~そく其分に候、切〻人を御越候儀御無用にて候、御用之事も候はゝ無隔心可申入候、
菟角〻〻年之より申候事口惜候、我〻なとも去年より俄にとしより、事之外病者に成申候、はなともぬけ申候、
ひけなともくろきはあまり無之候、今一度遂面上度存候、以上、
遠路預御飛札候、如仰當はる御慶不可有盡期、仍爲御祝儀鮭二尺、被懸御意候、忝次第候、乍去、其許萬方御手透も有間敷處、
御隔心之至、却而迷惑いたし候、然に其方何も相替儀無御座候由、市右物語具承致滿足候、此方におゐても無事に御座候、
うそかちけたる躰市右物語可被申候間、委申入れ候にも不及候、もはや懸御目候事有間敷候哉、いつもいつも申くらし候、
猶市右可被申候、恐〻謹言、
眞好白
二月八日 信繁(花押)
壱岐守殿
御報 石合道定宛信繁書状 長井彦介氏所蔵文書
父子事御安事、作兵衞方迄御尋尤候、我等篭城之上は、必死に相極候間、此世にて面談は有之間敷候、何事もすへこと不叶き候共、
御見捨無之やうにョ入候、委者惣右可申候、謹言、
二月十日 眞左衞門佐(花押)
石合十藏殿 小山田茂誠、之知宛信繁書状 小山田文書
尙々別帋に可申入候へとも、指儀無之候、又御使如存候、少用取乱申候、早〻如此候、何も追而具可申入候、以上、
遠路預御使札候、其元相替儀無之由、具承、致滿足候、爰元おゐても無事に候、可御心安候、我等身上之儀、
殿樣御懇比も大かたの事にては無之候へとも、萬氣遣のみにて御座候、一日一日とくらし申候、面上にならて委不得申候間、
中〻書中不具候、樣子御使可申候、當年中も靜に御座候者、何とそ仕、以面申承度存候、御床敷事山〻にて候、
さためなき浮世にて候へ者、一日さきは不知事候、我〻事なとは浮世にあるものとはおほしめし候ましく候、恐〻謹言、
眞左衞門佐
三月拾日 信繁(花押)
小壱岐様
同主膳殿
御報 >>272
そもそも家康晩年の「側室」が若返ったように見えるのは、端的に言えば徳川家の奥の運営上の理由が大きく
性欲の対象とはかなり趣が異なる。 奥って普通にお仕事いっぱいあるみたいだものね
あまりスポットが当たらないんでなんかいまいちイメージしづらいけども当主権力の補佐官って感じよね
当主不在だと領地経営代行したり、内向けの書状発行したり、側室っていう若い人手ないと大変そう 何で関ヶ原後くらいに家康の所に若い側室が増えるかと言うと、
秀康秀忠は無事成人し、また関ヶ原後に新しい子が次々と生まれ、
跡継ぎの心配がほぼ解消したため、奥としては「即戦力」よりも、
奥のしきたりやら運営やらを一から教育できる若い人材の需要が出たため。
野球のドラフトで、チームにベテランが多いから高校生中心に指名する、
なんて事があるけど、アレに近い。 義演準后日記
三月廿八日、快晴、秀ョ公御上洛、御七歳の時、伏見より大坂へ御移徒已後、今日初也、鳥窒ネて大御所の若公兩人御迎、其外大名罷出、
歷々群衆、近代の見物云々、御城へ入御、重疊御振舞御機嫌云々、一時計ありて御城御出、直に豐國へ御社參、大佛作事柱を立て御見物以後、
伏見へ御越、加藤主計へ御成云々、乗船還御無事、珍々重々、
廿九日、雨、大坂へ御上洛賀申、折進上、使大藏卿、今日雨、御仕合、大明~御加護無疑者歟、珍重々々、
四月朔日、霽、大坂より大藏卿歸、市正大藏卿局留主也、 當代記
廿七日、秀ョ公立大坂、淀に著給、京都より爲迎、右兵衞主、家康公息、年十二歳、常陸介、家康公息、年十歳、幷池田三左衞門、
加藤肥後守、淀へ參向也、秀ョ公大坂を立給時、彼地虚空に光と云、○創業記考異には「義直主、ョ宣主、二十八日、鳥忠ヘ原迄迎に被出」とあり
廿八日、辰刻秀ョ公入洛、則家康公の御所二條へ御越、家康公庭上迄出給、秀ョ公慇懃に禮謝し給、家康公坐中へ入給後、秀ョ公庭上より座中へ上給、
先秀ョ公を御成之間へ入申、其後家康公有出御、互之可有御禮之旨、家康公曰と云共、秀ョ公堅有斟酌、家康公を御成之間へ奉出し、
秀ョ公遂禮給、膳部彼是美麗に出來けれ共、還而可有隔心かとて、たゝ、御吸物迄也、大政所、是は秀吉公の北の御方也、出給相伴し給、
頓而立給、右兵衞督、常陸介途中迄被相送、秀ョ公直に豐國へ有參詣、大佛を見給、伏見より船にて、其日及酉刻大坂へ歸著し給、
大坂の上下萬民之儀は不及申し、京幾之庶民ス只此事也、此時も大坂光ると云云、
此度於京都、家康公へ秀ョ公御進物之事、
御太刀眞盛、御馬K毛、金子三百枚、猩々皮三枚、色一枚、一枚K、一枚緋、長一枚に付五間つゝ、○慶長見聞錄案紙、慶長見聞書、
慶長年錄には、猩々皮三十枚に作る、緞子三十卷、此内錦十卷也、刀一腰、一文字、異名有、○創業記考異には、此下、號南泉の三字あり、
脇指一腰、左文字、是は故秀次隨一道具也、
秀ョ公より右兵衞主への進物、
太刀一腰光忠、金百枚也、
常陸主へも右同前也、○慶長見聞錄案紙には、太刀一文字、とあり、續撰C正記には、太刀守家、とあり、
女房衆へ遣物、あちや、かめ、かち、此三局へ、金一人三十枚宛也、○慶長年錄には、金を銀子に作る、下同じ、
家康公近習の衆へ秀ョ公より被下物之事、
本多上野介、大久保石見守、板倉伊賀守京都代官、此三人へ一人に付金三十枚つゝ、安藤帶刀、村越茂助、成P隼人、
米津C右衞門、是四人へ、一人に付金二十枚宛也、
永井右近、大澤、西尾丹後、城和泉、榊原伊豆、此五人へ、一人に付銀子百枚つゝ也、○創業記考異に「一說、永井は黄金廿枚の列なり、
水野對馬守銀子百枚の列にあり」とあり、續撰C正記もまた、永井右近を金二十枚の列に入れたり、扨總の女房衆へ金子三百枚、
其外藥師臺所人へ被下物、銀子卷物等也、豐國大明~へ銀子三百枚、於大佛、大工大和へ銀子二百枚被下、○續撰C正記には、
この外に猶「銀子五十枚後藤庄三郎、同永忍、同御馬屋別當諏訪邊宇右衞門、銀子三十枚御鷹匠三人へ、同御馬取三十人」とあり、
家康公より秀ョ公へ被遣物
御刀一腰大左文字、 御脇指一腰鍋とをし、○創業記考異には、鍋藤四郎に作り、~君年譜には、吉光の短刀、號鍋藤四郎に作る、
御鷹三居何も鳥屋大鷹也、 御馬十疋也、 江戶幕閣宛本多正純書状 慶長見聞錄案紙
態申上候、
一 御讓位、一昨日廿七日に御執行被成候、禁裏樣御機嫌能被成御座候由に御座候、
一 大御所樣は、御供無御座候事、
一 秀ョ樣、昨廿八日大御所樣江御禮被仰上候、其樣子の御事、
一 秀ョ樣御供に織田有樂、片桐市正、同主膳、大野修理、其外御番頭衆、御小性衆三十人計に而御座候事、
一 右兵衞督殿、常陸介殿、上鳥猪御迎に御出被成候、右兵衞督殿御供に淺野紀伊守、常陸介殿御共に加藤肥後守被致之、
其外虫ト三左衞門、藤堂和泉守計御迎に被罷出候事、
一 秀ョ樣、竹田通京都へ御座候て、片桐市正所まて御著座被成候、市正所にて御肩衣袴被爲召、其より二條の御所へ被成御座候事、
一 二條の御所にて大御所樣へ御禮被仰上候事、○中略秀ョよりの進物のことにかゝる、
一 三獻の御祝御座候而、御一獻目に、大御所樣御盃秀ョ樣へ參、其時大御所樣より大左文字の御腰物、鍋通御脇差被進候、
其外御鷹三居、鳥屋之大鷹、御馬十疋被進、其盃大御所樣へ參候時、秀ョ樣より一文字御腰物、左文字の御脇差御進上被成候事、
一 高臺院樣も二條御所へ被成御座、秀ョ樣御對面被成候事、○中略「異二」として、義利以下への進物を記せり、當代記異る事なし、
一 秀ョ樣江御禮相濟、卽御迎に御出被成候、本通を被成御座候て、大佛御見物被成、其より豐國御社參被成、(異、秀ョ公則御歸、
本通を被成御座、大佛御見物、大工大和守に銀三百枚被下、豐國江御社參、銀子三百枚御寄進、其日大坂江御下向、)
今日大坂に御下向にて御座候、爰許上下萬民目出度奉存候、此趣可然樣に可被仰上候、恐々謹言、
三月廿九日 本多上野介
正純
酒井雅樂頭殿
大久保相模守殿
土井大炊頭殿
山圖書介殿
本多佐渡守殿 松井康之宛細川忠興書状 細川家記
猶々、此由藏人式部に可申候、已上、右同、
態申下候、先書如申候、秀ョ樣昨日廿七大坂被成御出今日廿八二條御やしきへ御出、則大御所樣御對面、たかいに御機嫌能候て、
只今未の上刻豐國大明~へ御社參候て、其儘御舟にめし、大坂へ還御候、
一 今朝鳥窒ワて爲御迎、右兵衞さま常陸さま御出、又、御送にも御兩殿御出にて候、頓て大坂にも爲御禮返、
右之御子さまたち御出なさるゝ由に候、
一 右兵衞さまへは淺紀州、常陸さまへは加肥州御共にて、鳥窒ワて被參候、此外にも、藤泉も御に被出之て、二條御やしきへも右之三人、
三左衞門殿まて、秀ョ樣御出候時、はいられ候、其外は、大名小名一人も不被罷出候、此外無別條候、恐々謹言、
三月廿八日 越判
松井殿 なんで忠興、淺野、加藤、藤堂にはつけてないのに
池田にだけ殿つけているんでしょうか >>289
秀次の所有物だった刀を秀頼が贈り物としているのは、ある意味業を感じるな この淀殿のAVなら見たい
戦国艶物語(1969年・朝日放送) 演:岩下志麻 当時28歳
おんな太閤記(1981年・NHK大河ドラマ) 演:池上季実子 当時22歳
独眼竜政宗(1987年・NHK大河ドラマ) 演:樋口可南子 当時29歳
天下を獲った男 豊臣秀吉(1993年・TBS 演:沢口靖子 当時28歳
利家とまつ?加賀百万石物語?(2002年・NHK大河ドラマ) 演:瀬戸朝香 当時26歳
天地人(2009年・NHK大河ドラマ) 演:深田恭子 当時27歳
寧々?おんな太閤記(2009年・テレビ東京) 演:吹石一恵 当時27歳
GOEMON(2009年・松竹、演:広末涼子)
真田丸(2016年・NHK大河ドラマ) 演:竹内結子 当時36歳 徳川は豊臣の権威をなお恐れていたからとにかく滅ぼすために難癖つけて大坂の陣を引き起こした
そういう旧来の俗説フィルターからの見方に思えるし別に鋭くも目新しくもないな 1行目から、なんでそう言いきれるんだ?という内容だよね。
石田三成は忠臣だから、秀吉の言うことは絶対守るということなのかな。 関白は既に秀次に譲渡されており秀次には男子もいた
既に豊臣は3代目まで準備が進んでいる状況だったのに
秀頼がウイルスのように突然現れて今までの準備を何もかも破壊しつくした
まるでコロナウイルスが突然現れて莫大な準備を費やした五輪を一瞬で破壊したかのように
さらに秀頼ウイルスは関ヶ原や大坂の陣で日本中に破壊と混乱をまき散らす要因となり
戦国のコロナウイルスと言っていい程に迷惑で悪質な存在だった
現代人は秀頼ウイルスを撲滅した家康を手本にして
日本に破壊と混乱をもたらすウイルスに立ち向かう必要がある 秀頼が突然生まれた豊臣家は、コロナウイルスに突然襲われた現代日本と同じだよ
それまで時間をかけて準備していた関白制度は五輪のように瞬く間に破壊され
日本中に混乱が広がり大勢の人たちが命や生活を奪われる羽目になった
秀頼ウイルスに振り回された福島たちの気持ちは同じ状況にある人間としてよく分かる
自分だったら大坂城が燃えて秀頼ウイルスがいなくなったら、むしろホッとするだろう >>307
意味分からないたとえ話する奴と同一人物だろうけどまさにゲーム脳そのものだよな >>303
一連のレス見てると結構的をいたことを言ってるが 何故そう言い切れるのかという実証の部分を言わないままなので
あーそう言えるかもしれないね程度で終わる
必要なのはそこに至るまでの実証 ただ素人の史料精査は意味ないしな
この人も言ってる ただ素人の史料精査は意味ないしな
この人も言ってる 別にプロ程の史料精査しろとは言わんが
こういう史料をソースとしてます位の事を言わないのは不誠実だわ
ソースなしで読んだ人が納得するだけの発言は演説などの手法であって、理解を深めるための方法じゃないよ
まぁツイートなんてそんなもんであって、これが一理あるってわざわざ持ってきちゃうのが問題ともいえる 元々が根拠ないものに目からうろこが落ちたとか言ってたので
かなり強引な意見だって言ってるのにわざわざつっかかってきたんでしょうに
そもそもこの人の意見が金科玉条とも思ってないよ自分は
大体他人のツイートを自分の意見の為に許可なく張りなさんなよ、その人にも迷惑かかるでしょうが >>308
それは結果論でしょ
前田利家が家康並みに長生きしていれば、関白秀頼もありえたわけで、秀頼が関白制度を壊したわけじゃない 前田利家は長生きしてもできるのは家康一強阻止までで、
その結果は豊臣政権というより統一政権が崩壊するだけ >>319
秀次は既に多くの子供を作っている
殺されなければさらに多くの子供を作って政略結婚で巨大派閥を作り上げるだろう
こんな状態で現職関白を秀次が保持したまま秀吉が死ねば
孤立無援になった秀頼が秀次に対抗できるわけもなく殺されて
秀次の子孫が関白を独占して繁栄を続けるのは確実だった
これは秀吉にとって許容することができないことなので
秀頼が生まれた時点で秀吉には武家関白制を破壊するしか選択肢がなかった >>320
わが子の為にといえば聞こえがいいが、
丹羽長秀や蒲生氏郷の息子に「大領土を治める資格なし」と
あんな仕打ちをした秀吉が秀頼に対してだけそんな対応をするのは
諸侯からしてみれば白けたというか『ズルい』の一言だろう
実力無き者に大領を治める資格なしっていうのを、一応あの時点では
豊臣の当主であった秀次にまで適応してしまった以上、
秀頼だけそのルール適用外です、なんてのは秀吉生前ならともかく
秀吉死後になど通用する訳がない
政権が実力と権威を保持し続ければ話は別だが、史実では両方とも
秀吉死後、早々に失ってしまっているし 二条城の会見時、秀頼から贈り物を受けた側室として
女房衆へ遣物、あちや、かめ、かち、此三局へ、とあるけど
雲光院、英勝院はともかくとして相応院ってとうじ影響力有ったのかな? >>322
石清水八幡宮に連なる家系の出だから、家康の側室としてはかなり地位が高い
その上、家康の男子も生んでいるし 巨人 大野治長
阪神 後藤基次
広島 真田信繁
中日 毛利勝永
ヤクルト 明石全登
DeNA 長宗我部盛親 >>323
石清水八幡宮か、内府違ひの条々にもあったな 大阪の陣では伊達まさむねと松平忠輝が豊臣方に内通していたのは
明白ですね しかし大坂夏の陣のときですら、家康は豊臣を滅ぼす気は無くて、大坂からの国替が目的であり、戦闘にはならないと思って
西国の大名達には待機を命じていたと言う見方もあるのに、未だに司馬作品を引きずって家康謀略論を連呼する奴がいるんだな その手の連中は自分の中の結論有りきで語るから、相手にするだけ無駄 家康が何が何でも滅ぼす気だったっていうことにしないと豊臣がバカみたいだからな
贔屓の人には受け入れがたいんだろう そもそも冬の陣の時点で豊臣家は明確に徳川に敗北、屈服してるしな 自分達で統御も出来無いのに後先考えず大量には浪人を雇った豊臣がそもそも馬鹿なだけで >>336
無視無視
まず京都
次藤堂高虎の首
すると筒井なんかびびって大阪方に
できれば九鬼水軍は味方にしたい
浅野も >>335
タダのならず者集団じゃないか、つか、秀頼を無視ってどういう事態だ
豊臣は別に浪人の為に戦をする訳じゃないんだから
豊臣の制御から離脱しようとした時点で論外なんだけど >>338
徳川本体が来る前に機内制圧
福島 加藤 毛利が大阪方に >>339
まず豊臣が制御できないようなものを作るな
もう一度書くぞ、豊臣はならず者の浪人に好き勝手させる為に
大坂の陣を起こしたんじゃないんだよ 佐助が淀を暗殺
秀頼は幸村の言うとおり
京都に出陣
あっさり制圧
彦根城と伊賀上野城は手こずるが
福島正則が駆けつけ落城 さっさと国替に応じていれば生き残れたものを
仮に改易されたとしても福島家の様に高級旗本で再興されたり
或いは高家豊臣して再興される可能性もあったのに
あそこまで徹底反抗したら、もう滅ぼされるしかないわけだし >>343
読んだけどあれの何を「勝利」としているのかさっぱりわからんかったわ。冬の陣の「和睦」って、
実態は豊臣の降伏だろうに 平山優氏も豊臣方勝利だったな。理由は宣教師がそう書いているだったかな >>344
あれだけの大軍動員して城を落とせず、国替えも強要出来ずなら戦略的には大敗北だろ。
騙して堀埋めて夏の陣にしたから目立たないだけで、あの儘三年も経過すれば大敗北じゃん。 城攻めは攻城側にも甚大な被害が出るから無理押しをしなかっただけとも言える
あと総堀の埋め立ては豊臣家とも合意したもので騙したわけじゃないというのが近年の説 あと堀や櫓と言った城の戦闘施設の破却は、戦国期だと明白に降伏・屈服の作法 >>346
冬の陣時点だと和議ありきだった可能性があるからな
確か和睦交渉がかなり早い段階で始まってたはずだし
だからそもそも冬の陣時点で徳川が豊臣を滅ぼす気だったか少し怪しい
夏の陣時点だともうどうにもならなかっただろうが
要は冬の陣と夏の陣でそもそも徳川の戦略目標が違うと思われる >>349
爆薬で吹き飛ばす形の坑道戦術を実行直前だったたから年内には総構は落ちたかと 欧州では普通に吹き飛ばしている
密閉空間だから威力も高まるかと 大坂冬の陣では総構えの城壁も、幕府軍の大砲でそうとうボコボコにされていたらしいので、まあ坑道からの爆破にせよ、総構えの崩壊は時間の問題だわな 大阪城に一年前行ったときは城の入り口に真田幸村だけでも5人はいて
そのうちの一人は老兵で騎馬武者だった(自転車持ち込み止める人いないのか)
しかも中に入れば誰でも真田幸村になれるセットがあった
しかし、コロナの影響か今年上田にいったら、城や周囲の博物館含めて
真田幸村が一人もいなかった
コスプレするコーナーも消えたみたいで悲しかったな
gotoの影響で街の店は儲かったところから「完売御礼」で閉店してるし >>355
あれだけ大軍動員して、総構えの中に一歩も入れないんじゃあ普通に負けでしょ。
それと、砲撃してた大砲の殆どは個人携帯の国産砲なので、実は攻城戦での意味があるかと。
城壁を崩すんじゃ無くて、士気を削る兵器って事だね。
それと問題なのは、当時は火薬は殆んど輸入「硝石が日本で取れない」ですよ。
火縄銃の何千倍もの火薬消費して、城壁崩せない大砲って、あの時代ならロマン砲だと思います。
城方がもう少し粘れば、砲撃自体出来なくなりませんかね、火薬無くなるし。
お金の問題じゃ無くて、火薬自体あの時代は国産少ないですし。
史実は敵の士気を削る「まあ本丸が射程内」効果が上手く行っただけでしょ。 >>350
普通に記録では、場内に内応者が居て力攻めで城を落とす気だったってありますよ。
只直前に気付かれ、内応者が城内で処刑された為、やむなく史実の流れに。
真田丸の激戦とかは、時系列的にはその後に成ります。
和議有りきで、場内に内応者っておかしくないですかね力攻なら、成功しても其れなりの
論功行賞しないと駄目なんで矛盾かと。 結果的に負けて滅ぼされた大坂の陣の一局面に過ぎない冬の陣の勝ち負けに
何をそんなにこだわってるのか理解できん >>358
キミは結果として豊臣家の受諾した「和睦」が完全に降伏の作法に則っていることをどう考えるのかね?
少なくとも当の豊臣家は、自分たちの戦いが「勝利」であるとは全く認識していなかったわけだが。
そもそもキミの「勝利」の定義はどうなってるの?
タイムアップまで拠点を守れば「勝利」みたいな、ゲームとは違うんだぞ >>357
個人携行の大鉄砲は逆に狙撃可能だから、櫓や塀の柱を狙い撃ちして結構倒壊せしめたとか 豊臣方の浅井一政が冬の陣を
秀頼が腹切って負けて終わったっもんだと思ってたとまで書いてるね >>360
正直、徳川視点での勝利条件は意外と厳しいと思うんだよね。
徳川の覇権安定させる為にあえて主君殺しって批難されかねない事を強硬した訳だし。
日本中の大名を残さず動員したのも、秀頼殺しの共犯者にするためでしょ。
幾ら言葉飾っても、幼児の頃臣従してた事実は変わりませんしね。
だもんで、長期の攻城戦や大規模な野戦に成ってしまえば戦略的には負けじゃないでしょうか。
望ましいのは大阪城みたいな堅城が味方の内応で直ぐ溶けたって無能さが際立つ展開。
それを当初狙ってたんだと思います。 大体さあ、大阪城落とせても大損害出せば当然論功行賞しなければならなくなり、それは豊臣家の
領地なんかでは補えない。
あの場合、最終的に城落とせても長期の攻城戦に成ったら戦略的には敗北でしょ。 笠谷丸島あたりの研究書全部読んでから出直せ
あまりに知識なさすぎて、聞いてて恥ずかしいレベルだぞ 言ってることがまんま司馬遼太郎の「城塞」で笑える
ガチで司馬遼太郎を経典にした豊臣教信者なんだな
こういう輩に研究書すすめても意味ないよ、冗談抜きで宗教信者と同じなんだから 封建制の社会では、勝てばすべて良しって訳には行かない現実があるじゃん。
早い話が鎌倉幕府は元寇の時に十分な論功行賞出来ずに潰れました。
一歩間違えば、大阪城を落としたけど論功行賞出来ずに徳川幕府崩壊しましたに成ってるよ。
大体史実でも冬の陣で財布が空に成った大名が困り捲りの話あるしさ。
城方が粘れば、相当な不満が蔓延すると思うんだけどねえ。 >>368
お前は「封建制」の中身も知らないくせにわかったような口をきくな。 読むべき専門書をまず読むっていう当たり前のことから始めろ
当たり前が出来てないのに一丁前に物を語れると思ってる舐めた根性直して来い 未だに二条城の会見での秀頼を見た家康の感想、加藤、浅野の豊臣家に関する姿勢
方広寺の鐘銘問題、冬の陣での惣堀の件などなど、旧説で語る奴らがいるからな 方広寺の鐘の銘文の話。
人の名前を織り込むのもよくないし、あまり例が無いらしいけど。
「わざとやったんだ、かっこいいでしょ」みたいな回答をした、清韓は天然なのだろうか。 今でいえば淫夢語録や恒心教用語をお堅い文章に使って炎上したとかそんな感じ つか鐘銘は方広寺の工事でワラワラ出てきた問題の中の一つでしか無い 関ヶ原並に大坂の陣の一般書も充実してくれないかなぁ 豊臣との二重公儀論とかあるけど、京都追放後の義昭が将軍位を保ちながらも公儀と見るには無理がある様に、豊臣家も特殊な存在ではあるにせよ、公儀として見るには無理があるよね 公儀じゃなくて、単なる財力・武力を持ったお公家様でしょ
秀頼時代の豊臣家の事績を見ても、領内のことと氏の長者のことばっかりで、
それ以外は単に金で物事を動かしているだけ
公儀として何かを動かしたことはない 領内ですら殆どが幕府の国奉行も兼務した片桐且元の名で行われているので、
どこまでが豊臣家として行ったのか不明なのがオソロシイ 二重公儀なんて言っているのは笠谷和比古氏くらいか
あと光成凖治氏も吉川弘文館の新刊で触れてたかな >>378
関ヶ原後でも、豊臣家の名義で領地の安堵してたそうですが。 >>381
やってたとしてもただただ形式的なもので実態として意味はない >>382
武家ってのは、領地の安堵してくれる人が主君なんですけど?
家康が強引に豊臣家滅ぼしたのそれが原因でしょ。 >>383
豊臣家ってそれ出来てるの?
諸大名が安堵の保証対象として秀頼を信用してると思えないんだけど
こればっかりは形式を求めても意味ないからね
肩書だけで保証が成立するなら戦国時代は発生しないぞ
後、正直秀頼母子討伐の名分がそれ程強引と認識してないんだが >>381
豊臣家臣よりも多く徳川家臣が連判している
どちらかというと豊臣家臣が徳川家臣化したとも言える 家康を悪人にしておきたい人間としては、豊臣と徳川は同等の公儀でないと気がすまないんだろう >>387
大体さあ、関ヶ原の論功行賞だって建前は豊臣家の名義だからね。
実の所、豊臣家が完全な形で臣従してると言えるかというと。 年頭礼してる豊臣自体が家臣と思ってるな
そうじゃなきゃマジで自分が何してるのかすら理解できてないバカって事になる トランプも自分が勝ったから政権が存続しているとか
本気なのか演技なのかもよくわからない主張を続けているけど
末期の豊臣もこんな感じだったんだろうな 少なくとも関ヶ原の決着以降「政権」として活動はしてないわな >>389
春秋戦国の晋も、晋陽の戦いで三家分晋の後は公室の当主が三卿にやってるね。
でも、その状態で100年くらい経過してますし。
実は魏の文侯も、恵王も、公的な立場では晋の正卿だったり。
家康自体幼児の秀頼に臣従してた過去あるから、そりゃあ「主君殺しの奸臣」って言われるよ・ >>392
> 「主君殺しの奸臣」
誰がいってんの?その資料を提示してみ? 家臣が主君に対して礼をしに行く年頭礼を行っているって話をしてるのに何を関係ない事を言ってんだ? ましてや、
年頭礼と大坂の陣はなんら関係がない上に、大坂の陣は豊臣がとんでもない非礼を何度も繰り返したうえで御家騒動状態にまでなってるのに時代も状況も違うものとを比較できてると思ってる辺り何一つ理解できてないとしか言いようがないんだけど 家康は夏の陣でも戦に成らずに降伏するだろうと思って西国大名達には当初待機を命じてたくらいだしな
そしたら無謀にも豊臣が挑んできたんで、待機を命じた大名達にも出陣を命じたわけだが、島津とかは結局間に合わなかったんだよな
ついでに言えば平山優氏の「真田信繁」が根拠だよ >>395
思い出せませんが、領地の安堵状を豊臣家の名義でしてたって解説してた本有りますよね。
後、上で出してる晋だって前403年に周王が正式に諸侯として封建するって建前踏んでから
潰してます。
事実上、晋が滅亡したのは知氏滅亡の前453年ですから既に50年経過。更にそれ以前の六卿が
淘汰されて4卿に成った時点で崩壊とみる人も「完全に公室が無力化したし」居ます。
そして、前403年以降も魏公が晋の正卿名乗ってたりしますね。
無力化しても100年ぐらい経過してるし何代も当主変わってます。
幼児の頃の秀頼に完全に臣従してた人がやれば当然評判悪くなるよ。
家康の死後を待てないって部分が、あるいみ。 >>397
> 思い出せませんが、領地の安堵状を豊臣家の名義でしてたって解説してた本有りますよね。
思い出せよ。その本の内容をきちんと提示してこそ初めて議論の舞台に上がれるんだよ。
そんなフワッフワの根拠が一切ないお前の思い込みなんて何の意味もないんだよ 誰が言ったのかについての史料を出せって言われたのも結局言わないまま当然悪くなる(推測)だし
晋と豊臣家では話が違う旨を散々したのを一切無視してるし
そんなろくでもない態度をとってなんで自分の主張が通ると思ってるの? >>397
三成は豊臣に取り立てられて完全に臣従していた紛れもない豊臣家臣だけど
秀吉を明の臣下に貶めて、秀次を罪状をでっちあげて殺害し、秀頼に謀反を起こしているからな
ここまで執拗にやる奸臣は歴史上でもそうはいない
豊臣に完全に臣従してた人がやれば当然評判悪くなるよ 関ヶ原の恩賞を与える際、領地宛行状が出されず口頭伝達だったと言うのならば笠谷和比古氏の関ヶ原合戦と大坂の陣で読んだな
ちなみに佐竹あたりから家康による宛行状が出される様になったと言うのは黒田基樹氏の羽柴家崩壊だね 徳川の場合、関東領国時代から知行宛行状は旗本クラスが対象で、大名には出されていない
大名には奉行衆による知行目録でこの徳川の習慣が関ヶ原後の論功行賞にも適応されただけ 豊臣名義で安堵状出していた研究者ってどうなったんだ
結局証明出来ずに逃げたのか 配る土地がない豊臣家は、地権者が「俺のものだって証明書ください」と求めて来た時に
奉行にチェックさせて安堵状を出すことしかできない
豊臣家に安堵状を求めるような勢力がもしいたとしても、当然先に徳川幕府に安堵状の
発行を求めているはずで、豊臣家にはセカンドオピニオンや保険として求めているに過ぎない >405
5000円は高いと思ったが「四六判・約450頁(カラー口絵16頁)」と厚いわ 西軍だった信貞が徳川側、東軍だった有楽斎が豊臣側と言うのが面白いな >>354 (某記事)
>豊臣方の大坂城下では「火縄銃の弾」の生産がおこなわれていたが、それを可能にした
>原料の鉛を海外から提供したのは、スペインと繋がるキリシタンの商人であった
対して、家康側が、イギリス・オランダ(プロテスタント)からカルバリン砲を輸入して
大坂の陣に勝利したんだっけ
(引用元)http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/476102544.html
しかし、オランダは家康にスペインの策略の裏側を知らします。
オランダの責任者が、ヤックス・スペックス
スペインは、技師を派遣する代わりに、キリスト教を保護し布教の許可をすることを求めていました。
オランダは、
実はその布教こそ、家康が亡くなった後、キリスト教徒を使ってスペインが日本を征服する目的があるのだ。と進言。
激怒した家康は、スペインを追い出します。
そこで、スペインがとった手が、豊臣秀頼に近づき、秀頼を勝たせること。 大坂の陣より土佐の長宗我部残党討伐のほうがやばかったと思う
文字通り一向一揆のような暴徒の集まりだしな おっ〇いを揉まれる淀君「あん!あん!大阪城は豊臣家の牙城ぞ!家康なんかに渡してなるものか!はぁはぁ♪」 大坂三人衆:元・大名格の以下三名
長宗我部盛親:西軍22万石。
真田信繁:西軍3万8千石の真田昌幸(慶長16年(1611年)没)の子。昌幸とは別に1万9千石。
毛利勝永:西軍6万石の毛利勝信(慶長16年(1611年)没)の子。6万石のうち1万石が勝永。
大坂五人衆:三人衆+元・大名の家臣で所領も大名級である以下二名。
明石全登:西軍57万石の宇喜多秀家の家臣。知行は10万石。
後藤基次:東軍18万石→52万3千石の黒田長政の元・家臣。知行は1万6千石。
大坂七人衆:五人衆+豊臣家家臣の以下二名。牢人ではないため「大坂牢人七人衆」とはいわない。
大野治房
木村重成
つまり
長宗我部盛親:関羽
真田信繁:張飛
毛利勝永:趙雲
明石全登:黄忠
後藤基次:馬超
大野治房:魏延
木村重成:陳到 細川興耿や北信景、大谷吉隆、石川康長あたりの入城の経緯も 江戸時代の歴代大坂城代
松平氏 19
内藤氏 7
水野氏 5
阿部氏 4
青山氏 4
堀田氏 4
酒井氏 3
太田氏 3
土岐氏 3
牧野氏 3
井上氏 2
稲葉氏 2
土屋氏 2
安藤氏 1
稲垣氏 1
永井氏 1
間部氏 1
久世氏 1
戸田氏 1
大久保氏 1
土井氏 1 サザエやかまぼこばかり食べていて極度の肥満ゆえ、馬にも乗れなかったと聞いたぞ 2m200kgだろ? 全盛期の曙ぐらい? 肥満か? 馬に乗ろうとしたら馬がつぶれるだろうけど サザエやかまぼこはタンパク質
そんなに太らんやろ
むしろ白米(炭水化物)の喰いすぎ サザエは海の生物ではなくてサザエの木になるものだと思ってたらしいな 全盛期の朝青龍(154kg)がモンゴルで普通に馬に乗ってたし
43貫(161kg)なら馬は耐えられるんじゃないの
秀頼が乗れたかどうかは別だけど 太っているだけなら家康も同じだが、そもそも秀頼
馬術の訓練なんかしたこと無いんじゃないか 俺も「太っているから馬に乗れない」じゃなくて「乗ったことがないから乗れない」だけだと思う
城内は徒歩か駕籠
駕籠デフォルトの貴人であるうえに戦争がない時代に生まれ育ったから馬を乗る必要がなかっただけ
秀吉だって、山崎の戦い以降は中川清秀の骨折りエピソードのように、貴人としての権威付けのために駕籠を使い始めている となると秀頼の所有してたという名馬太平楽は秀頼を乗せないまま死んだという事か。
まあ名馬を飼うのも当時はステイタスの一つだから当然か。 >>422
ああ、ボブ・サップぐらい、って聞いた気がするな。
でも、鎧と武器を身に着けたら結局200kgになるんじゃね? 鶴丸が病死せず、よって秀次も関白になることなく(=切腹もなし)、秀勝・秀保も病没しなかった場合、
秀次事件(1595)・関ヶ原(1600)・冬の陣(1614)の頃に秀吉の子・甥たちは何歳になっていたか
1595 1600 1614
豊臣鶴松 7 12 26
豊臣秀頼 3 8 22
豊臣国松 − − 7
豊臣秀次 28 33 47
仙千代丸 6 11 25
百丸 4 9 23
十丸 3 8 22
土丸 1 6 20
豊臣秀勝 27 32 46
豊臣秀保 26 31 45
豊臣秀俊 14 19 33 秀頼に限らず体格が何尺あった何貫あったなんて記述は大げさに誇張して書いてるのが多いだろうし眉唾
本当の体格がわかる方法は2つだけ
一つは本人の遺骨を調査した場合、これは文句無しに一番確かなので伊達政宗とか徳川秀忠なんかは確定
もう一つは本人が着用していたのが確かな衣服や鎧等が残ってる場合、そこから類推して体格が判る
なので前田利家や真田信之が180cmあったのは確かと言えるが
一方文献の記録では六尺三寸といわれる加藤清正は実身長160cm台、サバ読みすぎ 大阪勢は勝負に負けた奴の集まり
こんな運のない奴らが勝てるわけない
薄田とか徳川軍なら切腹ものだよね 外国人の日誌でも
秀頼は太り過ぎで自力では歩けないらしい。いつも城の中に閉じこもっているそうだ。
みたく書かれてるので有名だったようだ。
太ってるか否かより、城からあんま出ないっていう事に問題を感じる。
家康なんか鷹狩りやら囲碁やらやってるんだぞ。若い男が城から出ないのは… 肖像画見ても祖父の浅井長政も肥満系でっぷり大柄で体格よかったし
祖母のお市、母の淀も長身で大柄だった
だから秀頼も祖父ゆずりの肥満系
しかも身長も2m近くの大男だったてのはまあ間違いない
秀吉が150あるかないかの小男なのによくそんな巨漢が生まれたものだよな
両親の身長から子供の身長を予想する計算式に当てはめると
秀吉が150cmとして、秀頼を明良洪範にある197cmとすると淀殿の身長は227cmなきゃならない
盛ってるとして180cmくらいとしてもそれでも淀殿は190オーバーになる
淀殿の身長を当時の平均より高く170くらいとすると今度は秀吉が2m越えしなきゃならない
秀頼を180としても秀吉が173必要
計算式が間違ってるのか実は秀吉の身長は平均以上にあったがなぜか後世捏造されて小男にされたのか
秀頼の身長が過大に書き遺されてるのかそれとも突然変異だったのか >>434
大人になってから家から出たことないんだろうね。両親と子供の体格がイコールではないことは社会生活していれば普通にわかること
普段まともに人に接していないから親が小さければ子供も小さくなる大きいなら托卵という単純計算思考になる 別に秀頼が大男でおかしくはないでしょ
隔世遺伝つうか祖父母、母親みな大きかったんだから
むしろ自然 とは言えど当時から秀頼は不義の子、って噂が立って(挙句外国人すら書き残してる)いる事にも注意を払わないとならんけどね。
何の証拠も無い噂話で要は「夫の居ない内に女の腹が大きくなる」っていう有りがちなシチュから出た話なんだろうが…
外国人すら知ってるんだ。かなり広範囲に散らばってた噂なのは確かだろう。 >>437
ただしそういった「秀頼は不義の子」という噂が、実際に秀頼の地位に何か影響を与えたという証拠は無く、
彼は終始、誰からも豊臣宗家の正当な継承者として遇されている。である以上そういった噂のあったことと、
現実の存在としての秀頼については分けて考えるべき 秀次が生きてるなら問題無かったと言えるけど、
秀次殺してるからなぁ。 秀吉がどんどん小さくなる…
140足らずって小学生だぞ オランダ人のイザーク・ティチングは日本風俗図誌で
「秀吉は背丈がほとんど50インチ(約127cm)にも満たぬ小男」
と書いてる 豊臣時代の肖像画見ると相当小柄な人間に描写してある。
羽柴時代はそうでもないが。
実際は140〜150くらいかな。
50インチうんぬんは小さめの人間を大袈裟に言ってるだけかも。 一応、戦国時代の平均身長は158cmということになってるんだっけ? まぁ昔の事だからね。割と適当ではあろう。
小男から大男が生まれたからといって即血が繋がってないとはならないし。
とはいえ状況的にかなり怪しいのも事実なのだが… >>445
> とはいえ状況的にかなり怪しいのも事実なのだが…
それが「主観的」という奴な。別の言い方をすると「偏見」 秀頼は裏切った武将を殺人スープレックスで投げて自ら処刑したと宣教師が書いているから
巨人症だったとしてもバスケ選手やプロレスラーのような動ける巨人症だよ 秀吉の身内の清正もでかかったらしいからでかくなる可能性はあるんじゃねえの 着用した甲冑から計算したらそんなでかくなかったはず、清正 そもそも秀頼を巨漢とする初出は江戸中期の説話集に過ぎない『明良洪範』で、信頼性は低い。
一方、それよりはマシな史料である『長澤聞書』(作者(後藤又兵衛に仕えて
大坂の役で戦った長澤九郎兵衛)の見聞録)には、単に「すげーデブ」としか書かれておらず、
巨漢だなとどは書かれていない。 どっちにしろデブなのは変わらないのか
肖像画は何を元に描いたのか何故か細身だけど 「且元はサザエの成る木まで持って行ってしまったのか…」 秀頼が巨漢ってのは外国人の見聞録にも出てくるので一般に良く知られた話ではあったらしい。
老人の家康はエクササイズに勤しんでるのに… 巨漢と言ってもデブとは書いていないだろ?
家康は秀吉の時代からデブだと一次記録がある。 宣教師の記録にあるのは「秀頼はクソデブすぎて身動きすらできん」ということで
巨漢(デブ+長身)などとは書かれてない まあ秀頼の問題点はデブなことじゃなくて無能な事だから
豊臣方の首脳陣の大多数なのが更に問題なのだが 現実見えてたのが且元くらいなのがなあ
その且元も追放した挙げ句、取次追放が宣戦布告になる事も理解してなかったぽいし 武家のしきたりとか学んでこなかったのかね
じゃあ公家として生きていけたかというと
秀頼勉強嫌いだから公家の作法身につけられたか怪しいよな 研究を知らなくて申し訳ないけど、
傅役だった前田利家は秀頼に何を教えてたんだろうか?
俗に家康には野心があったが利家には無かった
みたく言われるけど、野心があろうが無かろうが友人の息子を任されてるんだ。利家の教育は非常に重要だったはずだが… >>463
豊臣秀吉の死が慶長3年8月18日で、前田利家の死が慶長4年閏3月3日やぞ。
秀頼の傅役とされた期間は半年ちょっと、しかも当時秀頼は4、5歳。
何を教えられるというのか。 それでも一家言遺しとくのが傅役じゃないのか?
13には戦争に行くような時代なんだし… 立場的に秀頼に何か教えることができるとしたら
信雄とか大坂の陣の直前に亡くなった信包みたいな織田家の人間でしょ 傅役の教育って割と重要な気がする…
するんだけど、その割に利家さん遺言にも遺してないし… そういう意味での傅役なら小出秀政とか片桐且元じゃないの?
後見人的意味じゃなくて教育係的な意味での傅役は
利家は前者でしょ 結局、傅役連中は何してたんだろ
片桐且元は所謂三成襲撃事件の時には徳川派になってたらしいが >>469
淀殿が秀頼に、一条兼良が足利義尚のために著した『樵談治要』の講義を受けさせたが
2度ほどやって以降行われた形跡がないこと、他に何か学んだ形跡も見られないことからの類推 まぁ勉強なんてやってられんし…
とは言えやっぱり傅役が色々やっておくはずなんだが… もともと秀吉が気に入らない侍女がいたら言え、儂がその女を折檻してやるなんて育て方をしているからな
傅役程度の言う事なんて聞かなくなるんじゃないか 俗に三つ子の魂百までと言うし幼少時の秀吉の育て方が
人格面に与えた影響はあるだろうな >>453
細身なのは江戸中期制作の遺影。
それより以前の制作とされる束帯姿で横向きの秀頼は、デブというかムッチリ体型。
江戸中期作の細身なのは、恐らく粉本すら無い状況で没年齢に沿わせ描いた想像図に近いもの。江戸中期行われた追善法要の為制作されたらしい。 外国人の日誌でも、
秀頼は城の奥で動く事もせず毎日踊りを見てるんだって
とか書かれてるし結構有名だったっぽいなぁ。
てか家康は武術もやるし食事も気を遣ってるし薬学まで修めてるんだぞなんとかせい。 >>475
ググってきたら顔が右を向いてるから生前に書かれたものってそんなルールがあるの知らんかったわ >>477
基本個人の肖像は生前のものは少なく遺影として描くのが常(現在でもチベットなんかでは生きている人間を描くのはタブーだという。写真はノーカンらしいw)。
そのため何等かの理由で生前肖像を描く時のルールとして顔の向きで区別する。 >>476
なんとかせいと言っても、肝心の本人が勉強嫌いなんだから仕方が無い
しかも無能な癖にプライドは高いから始末に悪い
滅びるべくして滅んだ 秀吉が長生きしたとしてもただただ可愛がり甘やかすだけでさらにひどい人間に育ったことだろうな
出自から仕方ないことだが秀吉は子育てに関しては全くの無能どころか親バカ丸出しの害悪にしかならなかったろう
家康のように早くから子をなして子育ての苦労や失敗を味わっていればまた違ったかもしれないが
それも含めてやはり豊臣というのは秀吉1代限りの運命だったのだろう
そもそも豊臣なんて姓からしていかにもキンキラキンのメッキを施しただけのようで浮薄軽薄極まりない
朝廷の誰が撰したのか知らないが見事に秀吉の「その時限りの瞬間最大風速」て本質を言い表してる 天下人としては兎も角、家としてだったら存続できる機会何度もあったのに
それを無自覚に破壊して破滅に突き進んでいくんだから救いがない
こんな当主と家臣連中も珍しいよな、それは大名達も見放すよ >>481
一大名として生き残る方策を取ったとして、本当に生き残れたかは未知数だよ
冬の陣、夏の陣のときの家康って同世代史料読んでもおかしいというか、完全に躁になっている
それがどこで発露されるかだけの問題に過ぎないと思う
家康が先に死ねば秀忠の人脈で生き残れたかもしれない 秀忠の方が豊臣には厳しいんとちゃう?
家康は秀頼に何度も降伏の使者を送ってるけど秀忠は早く戦争したがってるし(最速で大坂城を囲んでる)
家康の慈悲に縋れば生き残れたかもしれんが、
その後の秀忠時代は生き残れない気がする >>476
家康は、ブレイクダンス踊れるデブだもんな。
普段の鈍いとか馬鹿にさえ見れるとろさと、突然自分の時が来たと思った時の
ましらみたいな素早さ、この使い分けが凄い。
家康は、鈍いデブにか見えない男が突然ブレイクダンス踊る感じ。
相手は普段の鈍い印象で動きに付いて行けずやられてしまう >>483
秀頼の方も家康は兎も角、現将軍でしかも舅でもある秀忠とは殆ど没交渉みたいな感じだしな
政治的に有害と見做せば弟(忠輝)だろうが甥(忠直)だろうが息子(忠長)だろうが
処断する秀忠相手にそれは拙かった気がする 夏の陣終幕で秀頼が石垣から突き落とした裏切り大名たちって誰なんだろうな 料理頭が裏切って放火したのを成敗したのが面白おかしく伝わった説があったな >>485
天下取り立役者の本多正純もきっちり罰したり、幕府に有害と判断するとマジで容赦ないのよね。
数は減りつつあったが戦国時代の生き残りが居た事を考えると、これくらいドライな方が良かったんだろうけど。 夏の陣で戻ってきた千姫を怒鳴ったのも
演技じゃなくて本気でそう思っていそうなのが恐いよな、秀忠 秀忠の中で千姫が豊臣に殉じてくれたほうが徳川も犠牲を出したってことで政治的釣り合いがとれるという計算はあったと思う
当時の両家の関係や将軍としての立場、諸侯への示し等々を勘案して親の温血より政治家の冷血を取ったということ
戻ってきてしまったのを斬るわけにもいかないから最低限示しとして半ば以上本気で怒ったんだろう
福地桜痴が政治家に必要な冷血を持っていたと大久保利通を評してるが
秀忠も体制を固める時期の政治家として絶対必要な冷血を持ってた 偉大な初代の陰に隠れて超冷酷だからね…
一番改易をしておきながら一度も反逆を許さなかったと言う意味でも異質 >>491
一番酷薄なしの文句なしに家康だろ、間違いなく。
嫁と長男を政治的必要性で殺せでのみ込める奴は、あの時代でも化け物だと思うぞ。
秀吉が、嫁と母親殺せって言われたら負けるの覚悟で籠城抗戦するのでは。 >>489
>>490
あの時点では家康生きてるんで、弱腰とみられたら秀忠の命に係わるぞ。
家康がどんなに恐ろしい奴か、一番理解してる奴に無茶言うなよ。
宇喜多直家の弟は、兄の前に出る時必ず鎖帷子来てたそうですが秀忠の心境も
それでしょ。 >>493
秀吉も妹と母親人質にしてるし、
戦国大名なんてみんなそんなもの 秀吉の場合既に結婚していたのを無理矢理離縁させるという妹の人生を引き裂くようなことしてる
それはそれで政治目的を達成できたからまだしも秀次事件に至ってはその残酷さと政治的結果の凄惨さにおいて日本史上でも類を見ない
あの刑殺の惨たらしさは冷徹な政治計算からくるものでなくただただ憎しみと生来の嗜虐心と残虐性からくるものとしか思えない
結果としても秀次事件以来豊臣政権の運命は明らかに暗転し政治的には失敗だった
秀吉の場合秀頼宛の手紙で気に入らない侍女がいたら叩き殺してやるとまで書いてるから
もともと感情的に子供っぽいところがあり盲愛もするが裏返しで抑制がきかなくなると子供の残虐性も出たのだろう
個人的には秀次事件の刑殺を擁護したり理解できるという人間は秀吉同様生来嗜虐心と残虐性をもつシリアルキラーの気質があると思ってる 本当秀吉って妹は離縁させて道具に使い寂しく死なせるわ姉は息子と妻子共々無惨な死に追いやるわ弟は死後あっさり断絶させるわ
一族を極限の不幸に陥れてろくな目に遭わせてないな
秀頼も生まれたはいいが秀吉のせいで人の操り人形になるか殺されるか二択の宿命背負わされた点で被害者といえなくもない
大人しく器相応に織田家臣として全うしていれば彼らも穏やかに人生を過ごせただろうに秀吉の権力欲の犠牲にさせられた
秀吉一人のために彼らの人生は滅茶苦茶にされた >>498
だから?
ここに書き込む意味が分からない 秀吉は完全に愛に狂ったんだと思う。もう耄碌が始まっていたのかもしらんが…
普通だったら敢えて秀次に叛乱を起こさせたり、秀次謀反の証言を取って潰すくらいしてる。そうすればどうあれ、道理は通るからね、
ところがそんなことせずに無理矢理皆殺しにしたもんだから大きな綻びになってしまった。
例えば奉行衆(具体的には石田三成)が秀次事件を利用して政敵排除を狙ったりとか。
それが滅びへと繋がってるから天道の恐ろしさ、か 昨日のNHK見たが
水攻め説が本当なら今までの大河全部嘘だったのか
夏の陣の頃は水引いてたのか?屏風には描かれてないが 水攻め自体が眉唾だろ
そんなもんがあれば沢山の大名が参戦していたのだから
記録に残すはず 10月に大坂方が堤を決壊させたのは事実だが、大坂一体が水没する規模では無いはず
史料でも12月初めに復旧して京との往来が自由になったとあるので目的も交通、特に淀川水運の遮断かと 歴史探偵の録画みたけど
籠城戦、水に浮かぶ城、泥濘を土嚢で埋める、堤防を切って決壊させる、っての
のぼうの城を思い出した 実際の所、冬の陣だと総構えに一歩も入れてないんだよね、幕府軍。
大砲の砲撃の脅しで講和させた訳だけど、あの時代の大砲は単純に火縄銃を巨大化
しただけで城壁崩す効果はない。
という事は、本丸まで届くぞって只の脅しの効果しか無い訳でして。
心理戦での勝利だよね 水攻め説って初耳。しかも秀頼発案?とかちょっと俄に信じ難いわ
秀頼って無能のボンクラじゃん
確か淀に武将というより公家みたいに育てられてたはず
だから戦のこと何か全く分かるはずないし 実は冬の陣だと大坂城は落城寸前だった。
まず南口の担当織田がサボタージュをしてるから攻められ放題、
東と西からは横堀(塹壕)を掘り抜いて総攻撃を行う手筈になってた(藤堂書状) >>507
番組視てないけど父親が水攻め得意だったからその影響かね >>506
普通に攻城戦の事前砲撃段階で大坂方が屈しただけなので >>506
そうなのか
大河ドラマで本丸まで届いてたから
そのイメージが残ってたわ >>506
後、大砲は大から小まで色々な口径ある上に射距離で威力も異なる
例えば、小口径で遠距離なら瓦を割る程度だが、近距離なら土塀を抜いたり柱を折ることも可能
これが大口径・近距離なら土塁・石垣の破壊も可能になる 水攻め説っていうか
籠城側が決壊させてるんだから水守り? >>510
事前砲撃の意味は、通常は防御側の拠点を壊して防御力を下げる事。
しかし、この時代の大砲は城壁とか櫓とかを壊す効果はないんですよ。
大体、大砲がそんなに効果あるなら本丸狙うんじゃなくて攻城戦の主役で有った
南側で「真田丸とか」使えばよいじゃないですか。
大手門とか崩した方が良いでしょ。 >>512
国産の大砲は殆んど個人携帯用で、撃った瞬間に転がって反動逃がすとかだぞ。
狙う所じゃないんで、殆んど投石器と変わらん。
逆に言うと、本丸みたいな巨大な目標じゃないと当たりもしないって事。
有名な本丸の命中弾も、数百で毎日砲撃して有効弾一発ともいえる。 >>514
>>515
効果はあるのは先に触れた通り、大型の火縄銃の撃ち方も地面に置くとか、台座に固定するとか色々ある
また更に大型のだと木製の台座に固定して射撃する
ちなみに南方でも総構に対して普通に撃っていますよ大砲
それで土塀や櫓の狭間越しに相手を倒して射撃を難しくしつつ、塹壕を掘って近接している だから、大砲がそんなに効果出るのなら南の方で城方の総構え崩してるはずでしょ。
大手門とか砲撃で崩せるはずでね。でもそんな記録はない。
総構えは記録残ってないから具体的な規模は分からない。
でも効果あるのなら、普通に正攻法で突破出来るじゃないですか。
あのね、砲弾が届くのと攻城戦に意味があるかは別。
攻め込む為には、城門を崩さないと駄目でしょ。あの当時は城門は内側に桝形の
門が付いてる二重構造だぞ。この内側の門が攻城側から見えず砲撃するのが困難。
内側の門が壊れてないなら、近くによれば十字砲火。 >>517
砲撃による防御施設破壊は数週間というスパンで行う
破壊と補修のせめぎ合いな訳
で、完全破壊に至る前に大坂方が屈して和議になった
後、土塁の破壊は坑道戦としても行われ、これは土塁
直下に爆薬を設置して吹き飛ばすというもの
これも実行前に和議となった 南口は織田との密約で攻めなかっただけじゃないか?
豊内記に南口の織田がサボタージュしてて戦争にならんって話があったはず。 冬の陣前にわずか数十間まで接近されとるな、大坂城は
ギリギリ降伏に近い和睦で一命取り留めてるが、豊臣方から総堀の破却を申し出すほどには普通に豊臣の負け戦よ >>513
そう、蒋介石先生がやらかした黄河の堤防決壊作戦。
やられた側の東洋鬼が被災地の救援活動やらされる羽目になった。 虎口、桝形で検索して見な。大阪城の総構えも多分あの構造に成ってたはずだぞ。
土塁と水掘、そして二重構造の門、当時の築城方式からしてまず確実。
でね、単なる巨大な砲弾飛ばしてるだけの当時の大砲だと、二重構造の門は簡単に
崩せないぞ。
防御側に十分な兵力と火力が有れば、簡単に落とせないのは他の戦闘でも実証されてる。
そして一番の問題は火薬の原料の硝石。当時硝石は殆んど輸入物だから使い果たせば
簡単に補充出来ないんだよ。
正直、あれ以上砲撃続けられる火薬が幕府軍に有ったんですかね。
日本で大砲が普及しなかった理由に不経済「火縄銃の何千倍も必要なのに効果が薄い」も
あるのに。 サボタージュする将に下手言えば反乱起こしかねん浪人衆、備蓄を分配するノウハウのある片桐を追放してままならない状況
そら豊臣方の人間からすらも冬の陣和睦の時に秀頼が腹切ったと思ったと言われるわ >>522
なぜに城門の攻略にこだわる?
土塁上の塀や櫓を中小砲で破壊し、堀を埋め、更には土塁自体も大型砲や坑道戦で破壊する
火薬については特に幕府は従前から海外からも購入しているし、冬の陣中も大名・商人から
献納されている
むしろ火薬不足が深刻なのは大坂方で仕寄毎破壊するため、大型の鉄砲が多用された結果、
想定以上の火薬が使用され、欠乏した まぁこの時の徳川って実質全日本軍みたいなもんだしなぁ…兵糧にしろ火薬にしろ無尽蔵に引っ張ってくるでしょうな
確かに榴弾じゃないから破壊力は限定的だろうけど大砲弾は対策が出来ん。飛んできたら避けるしかない。それを防御拠点に放り込み続ければ下手な鉄砲なんとやら…
そうしておいて、塹壕を掘り抜いて突入戦の準備を進めておくと。 そもそもが天下の孤城で援軍の当ても皆無
関ヶ原後食い詰めた後の無い牢人が死に狂いで立てこもってるのが大坂方の実態
島原の乱や三菱銀行人質事件と同じで自ら雪隠詰めになってるだけなんだから幕府軍が無理押しする必要など全くない
持久戦心理戦で籠城側の戦意をくじき内部崩壊を誘発させるのが常道で相手の陣地に踏み込んだら勝ちの野戦と同じにするのがおかしい 丸島氏あたりがこの辺りの大砲と大鉄砲の効果について史料を用いて言及してたな確か
あれなんの史料だっけ、櫓の倒壊せしめたとか寄せ手がかなり接近してて豊臣方が普通に追い詰められてるみたいなのも書いてたよね 豊内記だったかなぁ
「冷たい飯と汁を啜り、聞こえてくる話と言えば誰それは敵と内通してるとか明日決戦になって皆討死にするとかそんな話ばかり。こうした状況だから次第に勇気は消え失せて今日は生きたい、明日も生きたいというそれのみしか考えなくなり…」
悲惨な籠城戦って感じの話が残ってたはず。
冬の陣時点では徳川のスパイも牢人衆に多数入り込んでいてこいつらが情報工作もしてたからもう疑心暗鬼の坩堝だったろうな。 家康は若い時から追い込まれると逆に強気のはったり「ブラフ」を出す癖があると
思いますよ。
この本丸の砲撃は如何にも家康らしい心理作戦って思うのですがね。
実際には攻城戦に意味がありそうな大砲は10門かそこいらなのですが、国産の大砲を
数百混ぜて砲撃させるとか。
実際には有効弾は数える程なのですが、砲撃音は物凄いでしょうね。
只、だからこそそんな無駄使いする程の火薬の備蓄があるのかと。
日本は硫黄は出るけど、硝石が出ない。 >>529
この時点で幕府保有の西洋砲なら、リーフデ号の備砲を含めて35門は確実、
更には12門追加される可能性があるが? 備蓄が無い方がおかしいじゃろ。
数万発分の弾薬を家臣に与えたりとかしとるのに 思う思うじゃのうて史料なり研究を出せ
事実積み重ねたいのか、自分の中だけの真実妄信したいのかどっちじゃ 『大坂冬の陣夏の陣』(岡本良一)によると
家康はポルトガル商人等から火薬や鉛を大量購入してる。
鉄砲鍛冶に小型大砲を大量生産させている。
オランダ商人から砲弾と大砲を購入している(四貫目玉、五貫目玉という大石火矢を十二台購入) コンスタンティノープルを陥落させたとされるウルヴァン砲も
そこまで決定的な被害を与えたわけではなく後世の大砲神話による神格化ではないか、と
心理的な影響は記述に残りにくくとも大きかったでしょうが >>535
コンスタンティノープルはメフメト2世の
金角湾に丸太並べて艦隊ごと山越えと
イエニチェリはじめ総攻撃の混乱で城門の鍵の閉め忘れ 家康が購入したカルヴァリン砲は14キログラムの砲弾を6キロ飛ばせるらしいけど、
これを家康は四門購入してる。代金はセーカー砲一門と併せて1400両とのこと。
こんだけのカネ掛けてる以上、火薬も弾もたっぷりあったんだろうなぁ。てか14キロって。結構怖いな。 参考にするのはイタリア戦争から八十年戦争で、この時期に大砲等で従来の城が次々落城、
その対策としてイタリア式築城術が生まれたが、これとて相応の装備と兵と時間があれば落城できた
もっとも大抵は冬の陣同様に不利を悟って開城のパターンだけど 当時って銃弾は自作していたらしいけど砲弾も自作していたのかな
さすがに海越えて持ってくるのは面倒だろうし鋳型でやればそこまで誤差でないか 当時の日本だと大型砲用の鋳鉄弾を作る技術も無かった可能性があるので、
鉛製か銅製の可能性もありそう、その場合は貫通力は下がるがダムダム弾の
ように破壊面積は増えそう >>540
普通に鉛だろ、何で火縄銃に鉛かって言うと柔らかくて変形するんで砲身と少し
ずれてても問題ないから。
鋼鉄製にすると少しのずれでも隙間からガスが抜けてしまい威力が落ちる。
でね、水平に撃って敵の戦列を崩すなら効果あると思うけどさ。
攻城戦では限定的じゃないかね。 >>541
鉛は柔らかすぎて腔発の危険性があるのよ
なお、近距離で撃つ無垢弾は恐ろしい威力がある
例えば33ポンドカノンは射距離180mで土塁に4〜7m侵徹する
48ポンドカノンは射距離120mで城壁に6m侵徹する
24ポンドカノンは射距離80mで土塁に4m侵徹する
土塁の場合は侵徹部後方が同心円状に抉れるので、土塁自体が崩壊する
土塁上部を狙えば、上部の土塀・櫓毎吹き飛ぶ 大砲なんてもともと岩ぶっ飛ばしてた訳でな
鉛だろうが鉄だろうがあの質量のもん飛んでくんだから、大砲対策がまだ不十分な過渡期の城相手なら十分効果あるわいな
自分に都合のよろしい大砲のデメリットを机上の空論せずに大坂の陣の際の大砲の効果について研究した本をまず読めばええんでないの まぁ現代の砲撃戦の様なド派手な威力は無かったろうし、効果は薄かったかもしれん。
でも問題は「敵は攻撃してくるのに此方は出来ない」という事態だと思うの。
6キロってのはもうどうにもできんもの。 つか天守とかじゃなくて大砲で普通に大阪城の城壁攻撃したぞ。 そもそも大砲で天守を攻撃云々というのは寛文12年(1672)成立の
『難波戦記』で初めて出てくるわけでな >>548
真田丸がある南口は密約交わした織田が守ってるから下手な事はできん。
織田がサボタージュを止めたら面倒なことになるし。 その事件発生から60年以上後に初めて記されたことを信用できるかと言えばノーでしょ 真田丸の戦いは大坂各所の砦をトントン拍子に陥落させてさぁ大坂城に取りかかりましょうっていう最初の時の話でしょ?
そこで初めて無理攻めだと厳しいとなって大砲と仕寄と坑道と戦術に切り替わるんじゃろ? 戦後の混乱を抜けて漸く史料編集したって言えば充分信用出来るようになるから不思議。
1800年辺りなら信用は難しいけど60年程度ならまぁあるんじゃないの。
大砲を購入してる以上使ってるのは当たり前だし >>552
家康は最初から正攻法での攻略を命じたけど、現場が大坂方の挑発とその場の勢いで
大した攻撃準備もせずに攻撃してしまった でかいイベントとはいえ60年も経てば記憶も薄れるでしょ、人間の記憶力なんて昨日の晩飯の献立すら怪しいんだから
ましてや難波戦記は戦記物、事実を正しく書こうってもんじゃなく手汗握るよう面白おかしく書いたもんなんだから
そこでしか出てこないものはあったと解釈するのは厳しい思うよ >>554
あー、そういう突発的な衝突なら余計に真田丸の戦いで大砲使ってないじゃんって批判は的が外れてるってことか
詳細ありがとー >>542
あの、もしもし、あの時代は鉄を溶かす技術は日本に無いはずですが。
鉄を溶かせないから、日本の火縄銃は鋳造ではないんですよね。
柔らかくした鉄の板を心棒に巻き付けるって製法で砲身作ってたはず。
鋼鉄製の砲弾は、それこそ輸入物って事になりますね。 >>556
記録だと、城内で内応させて簡単に正攻法で総構え突破する気だったみたい
所が、内応自体が計略だったのか直前にばれて処刑されたのか内応は起こらず。
まあ事前準備に時間かける家康らしいけど、最初につまずいてるのよな。
真田丸の激闘も、その流れから来てる部分有りそう。
予定の内応が起こらず、現場がいらついたのかも。 >>557
鋳鉄弾の製造は砲身より簡単なので鋳造されたが、どうしても品質に問題が生じた
なので江戸時代だと実戦の機会もなく回収も可能なので青銅製の弾も多くあった >>558
改めて調べたら丸島和洋氏は前田勢が鉄砲の挑発に引っかかり夜中に竹束などを持たず真田丸の堀に侵入、他部隊も功名心から乗り込んでいって被害
その時、石川康勝陣所で失火したのを南条の裏切りと判断した寄せ手がさらに被害拡大って形と言うてるな
発端は前田隊の抜け駆けやね 内応と言えば一次史料でも真田調略しようとしてる本多正純の自筆書状が残ってるな
弟の政重に真田信尹そっちに遣わしたからよく相談して信繁味方につけるようにって
書状の日付は12月14日だから真田丸の戦いの後になるが 徳川のおっかないところは多分これらの内応の狙いは単純な裏切りじゃないってこと。
「だれそれは徳川と内通してる」
って噂を流させて豊臣に戦術的な動きをさせないようにしたんじゃなかろうか。 >>562
それは秀吉の得意技
信雄との戦いの前に重臣3人が内通していると嘘の噂を流して
それを信じた馬鹿の信雄が3人を斬っている 海外交易、天下普請、鉱山開発、河川開発、街道整備等
大坂冬の陣は江戸幕府が手掛けたインフラ整備の成果で殴っているからコワイ それだけ中央政権として機能し実績を積み重ねてる幕府に喧嘩売った豊臣の世間知らずっぷりが際立つ 当人たちは喧嘩売ったという認識すらなく
ただただ淀派の片桐が御家の殆どの事をまとめてるのにムカついた秀頼派の大野が兵隊動かしたんで、仲裁したつもりで片桐追放処分にしたらえらい事なったくらいの認識だったんでしょ >>568
寧ろ、攻城側の方が食料不足に成ってますよ。
あの儘大砲の脅しで和議に成らない場合、長期の攻城戦出来たのかってのがね。
講和の交渉中も大砲の砲撃続けてますが、家康の性格からすると寧ろ焦り感じるけど。
「夜中に鬨の声上げて、城内寝不足にしよう」って寧ろ焦ってる気が >>570
それ大軍勢が集結した直後で、後続の兵糧輸送が届く前の一時的なものだが
まぁ、あれだけ言っても、全く考えが変わらない人にそんなこと言っても無駄か 少しは今進んでる研究読めばいいのに
それすらしないで自分の思うとか信じるしか妄信しないなら、そもそも議論したいんじゃなくて自分の思い込み押し付けたいだけじゃん、迷惑な でも実際、勝つならその時しか無かったよな。
動けなかったのが武運の尽きよ。 >>570
それでしたら、幕府が兵糧輸送に特別な対策建ててた資料ください。
食料不足の話は、ちゃんと資料にもある話ですが。 家康が十万石以上の米を送るよう命令した書状がなかったか?
その後特段問題が起きてないからこれで解決したと見做されるんじゃないか >>575
間違えた正確には
>>571
へのレス
中国の古典に、呉王不差の逸話ありますよね。
華北で諸侯と会盟したとき晋公と牛耳を争い一触即発状態だったと。
其処に国元から急使が来て越軍が呉の都を急襲中だとの知らせ。勿論飛んで帰りたいが
今帰ると晋軍の追撃を受ける可能性がる。
困った呉王は夜中に鬨の声上げさせて晋公を威圧、見事牛耳を取る事に成功。
そして全速力で帰国。
大坂の陣の時の家康ってこの逸話思い出すのよな。家康って若い時から不利な状況で
相手威圧する事してますし 丸島氏の研究読めよ、その兵糧の件においてもしっかり書いてあるから
あとまあ全く関係のない時代も国も関わってる人物も違う逸話を、自分が似てると思うからという理由で出してもなーんの正しさの担保にもならんよ というか、戦国期の再研究が著しい中
それらの研究の潮流を追いもしないで自分の古いままの話を他人に押し付けるの、普通にたち悪いからやめときな
批判するにしろなんにしろ興味があってそこの内容について人と喋りたいならある程度自分で調べておくのが筋だし、調べてないならこういうのがあるよって言われた時点で主張やめて読むなりしなよ この例え話くんは豊臣政権崩壊スレでも皆から史料なり研究なり出すよう散々指摘されてるのに
それ無視してずっと自分の妄想垂れ流すのやめないし荒らしみたいなもんだよ 上遡って見たら似たような全く関係のしない中国王朝から例え話を出してるの奴が
なんの本か忘れたけど豊臣の名前で本領安堵を出したと解説してるのがあるって言い出して、なんの本なのか聞かれてるのにトンズラかましてるのね
まずそれ出すのが先か出せないなら一旦主張引っ込めるなりが先じゃないの?
信用があって初めて話し合いって成り立つけど、最低限の信用を自分で捨ててるじゃん >>578
大昔から人間がやってる事はたいして変わってませんよ。この呉王不差が夜中に鬨の声
あげて威圧した話は、よく孫子の解説書なんかにも出てきます。
家康が長期の攻城戦をやれる状況だったのなら、何故そんな威圧する様な事するの?
交渉中に砲撃続けるとか、夜中に鬨の声上げて城方の睡眠妨げるとかさ。
別に和議が成立せずとも困らないならやらないでしょ。
家康って古典の教養あるからこの話知ってた可能性有りますよ。 >>581
徳川幕府が出す安堵状だけで済むのなら、豊臣家は只の65万石の大名ですよね。
家康が強引に秀頼を殺す必要ないじゃん。
豊臣家が明確に臣従してるなら、改易処分で済むわけで。 >>582
>>583
だーかーら
過去にそういう事がありました、自分はこれが似てる事案だと思います
だから同じこと考えてたに違いない
これが成り立つ訳ないだろ、論理としてすら破綻してるのわからない?
んで、ないんだな?安堵状について書かれた本なんてものは、自分で読んでて著者名すら出ないなんてことある訳ないし
また、秀頼を家康は無理に殺したわけでもない、これも昨今の大坂の陣研究をほんの少しでも齧ってればすぐにわかることでしょ
因果関係が違うものを無理に繋げた所で正しさの証明には決してならない
つまり君はろくに調べもしないで、完全な思い込みだけで他人に絡みまくってる訳だ
調べないならそれでいいけど、ちゃんと調べてる人に絡むべきじゃないし、絡みたいならちゃんと調べて昨今の研究事実を知っておく
なんら実証すらできてないものを他人に押し付けるな、大迷惑 老婆心ながら、相手怒るまでコレやる気ならマジで頭を疑うからちょっとはご自分の性格見直した方がいいよ
論の内容以前の問題だからね、君が今呆れられて顰蹙買ってるの 渡辺大門氏のコラムで
大坂の陣で松平信綱が女中を脱出させたってあるんだが
これの資料ってある?
信綱この頃まだ家光の小姓だよね?
養父の正綱かな >>586
別に無視するのは自由だが、わざわざ書き込む事じゃないですよ。
つまり、わざわざ荒らしだって書くと言う事は実はダメージがあると。 ごく普通に、豊臣家滅亡後に徳川幕府が朱印状大量に出してるでしょ。
もし、幕府が自分の権威のみで朱印状だしてるならこれは矛盾では? >>589
豊臣滅亡後でなく、家康が死んで秀忠の親政下になってから
つまり江戸幕府の慣例になる代替わり知行宛行の始まり >>589
徳川家が朱印状のみで発行するのは大名時代からの名残です、幕府権威の強弱と朱印状に因果関係はありません
そこに因果関係があると言い張るなら、またそれを紐づけしてる研究なりを出してからにしてください
言うだけ言ってをする前にまず立証の責任果たしてからにしなさい
次のコメントで、上で求めた研究の著者名すら出さないなら、あなたは人と関わるだけの品性すらない人間だと判断します あと、実際荒らしておいてNGしなさいって言う人にNGするからには後ろめたい事があるんだ、なんて論理破綻した事言うの自体、おかしな事言ってると自覚してください
いま、あなたは、調べもしないで自分の思い込みを他人に押し売りしてる完全な荒らしの状態です
そうじゃないんだと言い張りたいならまず、読んだと言う本の著者名程度は出すべきだし、なによりあなたは少しは人と研究内容について話す際に何をすべきで何をしてはいけないのか弁えるべきです >>587
あれ江戸城の火事のときの話だと思う
脱出繋がりで何か入れようとして推敲しそこねたんじゃないかな
主題のお菊さんは自己判断でいち早く脱出して常光院一行に合流したから助かったので 渡邊大門氏はもう最近は拙速のコラムばっかで歴史好きな素人でも間違いだとわかるもの出してて研究者としての信用面がなぁ
H郷レベルだなという感じ >>587
明暦の大火の時の江戸城での逸話だね
まあこれも出典が名将言行録なんで信憑性の程はお察し >>594
言っても本郷さんはド本流の研究者
専門外で露出するのがあれだが
そこらの在野と一緒にしては駄目だ >>593-596
ありがと
信綱は江戸城、正綱の話は駿府城だったかw >>590
家康はあの時点では隠居でしょ、徳川幕府が自分の権威のみでだしたのなら
秀忠が将軍就任時点のはずですよね。
豊臣家滅亡後の大量の朱印状の発行は、従来の物が無効に成ったからだと考えるべきでは。
まあ、建前の話ですがね。
従来の物が無効に成ったから新たに公文書出すよって風にしか。 >>598
持ってこいと言われたものをここまで経ってろくに持ってきもしない
貴方は人と話す資格はありませんね、そんな態度取る癖に話しかけるのやめて下さい
あなたの態度も論も、マトモじゃないし誰もそんなことしかできないあなたのことなんか認めませんよ 知識更新する気も事実を追求しようという気もないのだから、二度と歴史の話をしないで欲しい
自分の中だけの最強の歴史観という殻にこもっていたいなら殻に籠もれる場所でやってよ、ここでちゃんと事実追求してる人間に絡もうとしないで
自分が関心を持った研究著者名すらろくに出せないあなたの発言も、指摘を無視して反省すらできない品格も、ろくでもない人間だってご自分で発信し続けてるんですよ >>601
「普通」にすら遥かに劣るから問題なんだぞ てか朱印状ってそんな重要なの?
信長だって朱印状も、黒印状も書いてるやん アンチ徳川の豊臣信者が最後に縋るのがそういう形式主義なんだよ
秀頼に仕えるって誓詞出してるんだから裏切りだ謀反だとか
領知朱印状出せなかったから豊臣の権威の方が上だった、だから豊臣を滅ぼそうとしたんだとかさ
で、同じ誓詞出した毛利や上杉も豊臣を見捨ててるじゃんと言うと
それは徳川の強権に従わざるを得なかったからだ、だから徳川が悪いという論法 まあ、建前の問題で有る事は事実ではあるけどね。
只時系列として、家康は五大老五奉行の合議制を崩し邪魔な他の大老を戦争で滅ぼして
覇権握った。
只建前として、関ヶ原後の処置も秀頼様からの恩賞なんだぞ。朱印状とかも豊臣家の
名義じゃないと変でしょ。
実質は豊臣家の領地山分けでもね、建前はそうなんだから。
で、この豊臣家からの公文書回収して、これからは徳川の朱印状にするってイベントが
何処にあったの。
そんな物は無いので、建前としては大坂の陣前まで豊臣家の朱印状なのでは。 例えば、三国志の曹氏軍閥や孫氏軍閥の幹部は後漢王朝の官位名乗ってました。
勿論実質は曹操からの恩賞ですが、建前としては後漢王朝の皇帝から貰った物。
建前は後漢王朝の丞相で有る曹操が献帝に推挙して貰った官位ですね。
中国だと、官位の象徴は印綬ですがこの印綬は後漢王朝の物だぞ。
勿論いつまでもそのままでは無く、曹否が魏王朝作った時に回収しました。
そして、魏王朝の印綬配った訳です >>605
だからそれらの研究持ってこいって何度言えばわかるの、持ってこれないから無視しまーすって幼稚にも程があろうよ
日本において前政権の朱印状回収しますなんて慣習はない
また、自分で散々大坂の陣段階でも秀忠ではなく隠居した家康の名前を連呼して隠居した人物の影響力の高さ理解してる癖に、それの死亡時にはその影響がないと無視できる訳もないだろ
時代も状況も一切違う例え話持ち出す意味もないぞ
更には一度いまの研究がどう進んでるのか読んでから主張しろとも言ってるでしょ
君の喋りは長いだけでその実何一つも証明の担保になるものもなく、指摘にもろくに答えられてない
逃げるくらいなら主張しようとするな ろくに先達の研究一つも触れないで自分の中だけの妄想を開陳して押し付け続ける、妄想への指摘が自分に都合が悪ければ無視して逃げる
君の態度のどこに、あーこの人の主張は立証もなされてて理路整然としてるし信憑性が高いなーとなる要素がある?
違うと言いたいのなら正面切って、この主張は~~って研究者の主張で論拠としてる史料はこれですなり言いなさいよ、それが出来ないなら素直に勉強不足認めて一度勉強してきなさいよ
自分の言いたいことで他人に絡み続けます、でも他人からの指摘は聞きたくありません、論拠になるものも一切ないけど無視して押し付け続けますなんて勝手が通ると思うなよ 確かに幼稚な例え話を繰り返しているだけの馬鹿だが、ここはこういう人たち向けでしょ。
学術議論がしたいなら研究会でやるべきかもね。 >>609
このレベルを研究会だなんだ言ってるのは意味がわからない
主張するなら根拠出せってのと、その根拠になってる本は何かしか聞いてない
なんなら口を出してきたのは彼の方で、彼がどうやら思い込みだけのデタラメで私が喋ってるものにケチをつけてきたから、それをおかしくないか何が元ネタなのと聞いてるのだが 彼が、僕が勝手にそう思ってるだけで他人の考えに口を出す気はサラサラありませんって態度だったなら、ここまで言ってないよ
明確に自分から絡みに来るので、だったら根拠なんなのか出すか絡むのををやめろって話になってる訳 関ヶ原後に徳川が強制したわけでもないのに諸大名が競って江戸に参勤し屋敷を構えてるのは
関ヶ原の恩賞が実質誰からのものなのか、誰が諸大名の盟主として家と所領を安堵してくれる真の天下人なのか
諸侯が自ずから認識していた、彼ら自身が天下人を選んだということの証じゃないかな
諸侯からしたら何の益にもならぬ建前形式論より己の家と所領を本当に安堵してくれるのは誰なのかを見極めることのほうがずっと重要
それをおかしいというなら「豊臣家」自身が徳川家以上に諸侯から盟主として認められるような実力を持てばいいだけのこと
他家に依存したり寄生したりせずに 確かに、所領安堵状の件は読んだ記憶があるのですがね。
只まあ、こういう建前の話って実の所下克上の世界では余り重視されませんし。
しかし、建前の書き換えって余程の事が無いと「主君弑逆とか」普通なされない物でも
有ります。
太閤没後から大坂の陣での秀頼弑逆まで15年程度しか経過してないのに、諸大名の
朱印状の書き換えとかしてる訳ないと思いますよ。 別に家康が卓越した才能の持ち主で有る事を否定してる訳ではないですよ。
只、以前の関連スレで言うと、「五大老五奉行の合議制の証拠ない」とか言い出すのは
如何だろうかと。
常識的に言うと、合議制じゃないのなら何のために他の大老や奉行が居るんだって
事に成りますからね。
別スレで此処での事書いたらこういう助言が。
「その方の言い分は超時空大権現への信仰告白ですよ、信心だから」とな。 だから読んだ記憶があるはなんの証明にもならんから著者名くらい出せよ、著者名からお前が読んだであろう本をこっちが探すって最大限に譲歩してるんだから
お前が読んだと言い張ってるだけでこちらからは読んだんだろうと判断できる証明が一つもないんだわ
他のことも全てそう、思う思うというだけでまともな論拠にした研究なりを一つたりとて出してこない、それで他者がお前が読んだと思うのならきっと存在するから信用するわになると本気で思ってるのかよ?
朱印に関してもすでに指摘したことに反論できてもない
どうせ合議だなんだの時も同じように遺言のどこに書いてあるのか聞かれて逃げたんでしょ
形式が大事なんだよと言うなら、主張するなら聞かれたらソースも示すっていう当たり前の形式を守れよ >>614
別のスレでもそりゃ今回と同じようにまともな論拠も出してこないで、はずだ〜思う〜を繰り返して指摘されても省みることすらしなければ
証明がなされない限り疑う科学の精神から逸脱して妄信の域だし、そういう風にもバカにされるだろうね
まともな人なら論拠が出せなければ主張を一旦保留にするし、指摘を受けたら反省して調べ直すなりをするものなんですよ
自分で自分の前科ひけらかして何がしたいの?というかそれだけ言われてなおその態度取ってるの?それだけの時間があって自分が興味のある事柄に対してほんの少しも調べようと言う気が起きなかったの?
君がPCだかスマホ使ってるのか知らないけど、それ思い込みを書き込むだけじゃなくて図書館がどこにあるのかとか今研究がどういった潮流なのか、それについて書いた本はどれなのかも調べられる代物だからね? 秀キチくん、関ヶ原スレが過疎ったから今度はここに居ついたのか
キチガイが「常識的に言うと」とか冗談は顔だけにしろっていう >>606
NGじやすいようにコテハン付けてくれない? いわゆる豊臣恩顧の大名が誰一人味方に付かなかった時点で秀頼は悟っとくべきだったんだよな 牢人衆にジャックされてたんじゃないか。
豊内記とかだと牢人衆の言うままだし。 淀派の片桐追い出しの為に大坂城に兵入れてお家騒動に発展させて、幕府が武力介入する必要が生まれたそもそもの発端の人ですやんか、大野治長 伊達政宗の「お袋」への悪口が酷い。
自らの母親に重ね合わせて淀殿に
同情しなかったのか? 1615年、政宗のカーちゃんは、大坂に出陣する政宗に、手作りのカレーライスをふるまいました 女が口を出すと…
ってのよりも指揮系統が混乱するから良くない。現に混乱した訳で。
だから本来、息子が大きくなったなら指揮系統を一本化するべきだったのよ… 昔は母親の言いなりなだけの息子ってイメージだったけど、今だとむしろ茶々はある程度現実が観えていたけど、世間知らずでプライドだけは高い秀頼が主戦派連中や牢人達と暴走して自滅したって話だしな ただ正直牢人衆相手に指揮権発動するって相当難しいと思う
自前の軍隊の数が多く無いと下手すりゃクーデターだろうし というか、そもそも制御できないレベルで浪人を雇い入れしてる時点でなあ
家中で浪人の制御に関して意見したやつはいなかったのか? そんな意見が出るくらいならあんな無様な最期迎えていないだろう 秀頼が何かしら有名な事を決断した事があったのか疑問かな
ほとんど大野や片桐に丸投げしてたんじゃないの?
秀頼は蒲鉾さえ食べられれば文句なさそう 島津の書状にある「逃げざる者無し」とはどういう意味だろう
「逃げなかった者はいない」「逃げた者はいない」どっちだろう? 「逃げなかった者はいない」=みんな逃げた
だからこちらは違うんじゃね? そうなると島津の書状にあった旗本が逃げたという話を入手した後、
徳川家臣と面談した際に逃げた者はいないとの見解を受けていたのか 伊達政宗は有名なよからぬ輩に利用されないよう家康の手元で養育すべき発言といい何故か豊徳関係にかなり気をつかってるのが結構謎
しかも何故か高台院と積極的に文通してるし 秀頼はせめて夏の陣で城内に攻め込まれる前に家来や領民のために恥を忍んで降伏できたのなら未完の大器を感じさせなくもなかったけど、実際は身内と蔵に引きこもって自分たちだけ命乞いをして乱取りされてる民を見捨てていたのでいわゆる戦国時代の大名や領主の中でも最低最悪だった
能力を評価しようにもそれを裏付ける実績が何もない上に人間性も擁護不能のゲロ以下なら一体どこを再評価してやればよいのやら そもそも徳川家康を秀頼を助けようとしたという偽プロパンダのために
秀頼が蔵に隠れたということになっていたらしい
実際は千畳敷で徳川に降伏しょうとしたところ徳川軍がなだれ込んできて
うち時にしたらしいです 織田や徳川と違って豊臣宗家はこれからどれだけ研究が進もうが未来永劫最終的に悪だわ
大坂の陣に限っても大坂方にしか非がないじゃねえか 細川忠興の秀頼評、実際は母親の言うこと全く聞かないからお袋様専制は間違ってるけど、大人のくせに無能非力だから乳飲み子という評価は間違ってない 国松は豊臣家の庶長子に生まれてしまった以上もし仮に万が一豊臣家の天下が続いたとしても史実のほうがよっぽど幸せに思えるような人生が待ってる可能性高そう まあ秀頼なんていう、助ける気ならその厳命が行き届いてるはずの奴をうっかり殺すとかないから最初から殺す気だったのは知れる 2度も公儀に対して兵を挙げたんだからそりゃ生かしとけないでしょ
何度も生き残るチャンスはあったのにことごとく蹴ったのは豊臣の方
大坂の陣当時はもう主従関係ではなくなっているから豊臣はただの反逆者でしかない 徳川との婚姻関係とか少なからずいる恩顧の大名たちとか本来なら天下を失っても豊臣家を残すために大きなプラスになるはずのものだったのに、教育が先代からの甘やかし路線を継がざるを得なかったせいで秀頼が人間社会から隔絶された野生児と同レベルの非常識に育ったから悉くマイナスにしかならなかったのはもう芸術的ですらある 主君じゃないとか
暗君だったとか
未だに律儀とか信じてるのかね
素直に野心の為ですでいいと思うんだけど
何でこう言い訳ばかりなんだろ
未だに小説信じてるのだろうな。じぃさんは 表向きは○○の為と言いつつ野心の為で何もおかしくない時代だしな
バカは表向きの事だけ信じるのかもしれんが
和平交渉してる時は他の事を考えてはいけないんだとか1ビット脳な老人も居るし
大笑い 秀頼より取り柄のない人は日本史で見てもおそらく一人いるかいないかだけど、江戸時代が長らく平和だったのはある意味こいつが日本史上最悪レベルの暗愚だったおかげなんだよな 【水俣病】 被害者が死ぬのを待つ環境省 【銀歯】
://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/nanbyou/1575029903/l50
大坂は物資の集積地だから幕府としては直轄化することになり、参加大名に功績があっても土地の配分はもう不可能で、かなりの部分を感状で済ませている。
藤堂や井伊が加増を受けたが、忠昌や忠輝は不満を表明した 大坂の陣に比べると、やる気ゼロの大名を大量に巻き込んで自爆することで
たった一日で日本の半分を配分できるようにした三成は凄いな
あんな奇跡みたいな自爆テロは繰り返せないのだから仕方がない 西軍についた大名矢面に使って功績立ててもこれでチャラなで逃げれば良かったのに
景勝なんて頼んでもいないのに大野軍12000相手に後退せず全力で戦ってくれちゃってしかも追い返しちゃって褒美は感状と絶賛コメントで家臣ともどもよろこんじゃってまー単純なこと
あわよくば当主死んでもらえてラッキー 寝返る可能性を捨てきれんだろ。実際輝元は一族を変名で城の中に送っていたし あれだけ国力差あって寝返る馬鹿なんていない
徳川がどーしょうもないほど無能で悪政しまくって民から恨み買ってたとかならまだしも名君家康いまだに健在
上杉軍のように西軍についた大名は徳川に気に入られてなんとかして取り潰しから逃れようと必死
あと寝返り組を先鋒で使うなんて当たり前のことだぞ
信長公記でも上洛戦で寝返り組の美濃三人衆が先鋒命じられるだろうから頑張ろうとしてたら後方待機命じられて信長様は不思議な方だと書かれてい?
伊達に寝返った猪苗代なんかも奮戦してただろ >>659
どうなんだろうな
あんなの送ってもなんの担保にもならんとおもうが 佐野道可って大坂の陣の20年以上前に毛利家追放されてて毛利家とは無関係
大坂に集まった多数の牢人の中の一人でしかないって説もあるんでしょ? ・片桐且元を西方が殺そうとしたから交渉打ち切りになった説
・片桐且元の裏切り説
どちらかによって評価が変わるわね 片桐且元はやるだけの事はやってそう
どのみち且元に裏切られるようでは秀頼に問題があると思う 要するに豊臣贔屓
信雄を裏切った三家老は正しい
秀頼を裏切った片桐は許せない 秀頼は引き籠りマザコンのイメージで誤魔化されているけど
実際は家臣の忠言に耳を貸さない暴君で、気に入らない人間を石垣から突き落として殺害とか平気でやるからな
片桐も暴君秀頼に精一杯尽くした方だろ 豊臣の外交姿勢に問題あったって話も。
正使が出てるのに女を送ったのが最高に良く無かった。どうあれ悪い結果しか招かん。 真田昌幸が大坂方10万人を率いていたら、徳川幕府軍に屍の山を築かせたのは
想像に難くなく、豊臣家は存続できたと思う。
ここで重要になるのは、真田昌幸に一切横やりを入れず、自由にやらせておくということ。
気候、地形、心理、情報、物、などあらゆる奇策・策略を用いて、圧勝すると思う。
馬上筒、地雷火、投擲弾、簡易型迫撃砲、空中炸裂弾など当時の技術力で作れるであろうから、
これら新兵器も真田昌幸は大胆に駆使して、徳川幕府軍を翻弄すると思う。 大坂の陣で立花宗茂や加藤清正が徳川方について豊臣方の真田昌幸と対決したら
どうなるかも気になるな。個人的には、真田昌幸に勝ってほしい。 まるで立花宗茂が大坂の陣に参陣してないような言い方じゃないか 飛騨守宗茂は御伽衆兼御書院番頭格として徳川方で参戦しておる。 乳子秀頼
片桐且元は無能では無いが力量不足
大野一族は論外
七手組は小物、裏切り者揃い
信雄、有楽斎は空気
木村重成は小僧
このラインナップで勝負するとか罰ゲームやろ 真田信繁は馬上筒、地雷火、投擲弾、簡易型迫撃砲、空中炸裂弾、
といった新兵器を開発できる才能がありそうだから、豊臣家からの援助で
ぜひ開発・生産してほしかった。 真田信繁って他の戦国武将とは一味違う魅力を感じるんですよね。
もちろん、徳川家康を追い詰めたっていうのはあるんですけど、
兵器開発でも優秀な気がします。 第一次世界大戦では、毒ガスが使用されたけど、大坂の陣当時は毒による暗殺も
近づいて、やろうと思えばできた。有名なのが徳川家康による加藤清正暗殺じゃないかな。もちろん、これは真相ははっきりしてないみたいだけど。
ただ、当時使われていた毒を毒ガスのように生成させることに成功すれば、
普通に使われていたと思う。
真田信繁は天才だから、何年かかけて開発できそうな気がする。 大坂の陣だと大坂城に徳川のスパイが紛れ込んでるのがなぁ
雇い者を大量に入れたらそうなるよ 大坂の陣当時に手動式のガトリンクガンがあれば良かったなと思う。
真田信繁にぜひとも有効活用してほしかった。 大坂の陣当時に原爆があれば良かったなと思う。
真田信繁にぜひとも有効活用してほしかった。 弩が復活したりしなかったのかな
火薬や鉛の節用になり矢の再利用も可
防衛側が使えば城壁の上から堀下に逃げた敵を狙えるし
練度も要らず最大の弱点である速射性もあまり問題にならない 明日の夜7時から大坂夏の陣で家康は幸村に撃たれて
死んでいたというのがテレビでやるよ 徳川家康が真田信繁に討たれていたとしても、普通に隠蔽されるよね。 真田信繁に突撃されて本陣から駕籠にのって逃げた家康であったが
前日に討ち死にした後藤又兵衛に討ち取られてしまうのであった 大坂冬の陣が始まる前に東へ向けて進軍していればどうなっていたか?
ここはひとつ、真田信繁に大坂方10万人の指揮権を授けて思いっきり暴れさせてやりたかったものだな。 なんで秀頼みたいな引き籠りデブのためにそんなことをするんだよ
これまでにも関白殺害を誘発したり奉行に大乱を起こさせたり
引き籠りデブのくせに日本中に迷惑をばらまいてきたんだから
せめてデブが死ぬ時くらい大坂の外に迷惑をかけるなよ >>687
包囲殲滅されて終了
はい次の真田ガイジ 真田に本陣を蹂躙された時も糞を漏らしたんだろうか? 気に入らない侍女を鞭打ち刑
邪魔な関白を妻子もろとも殺害
代わりに来た筆頭大老も気に入らないので軍を使って殺害を計画
大坂を出るのが嫌だからと浪人を集めて暴動
秀頼は周囲の忖度を含めると日本史上最悪レベルの暴君だろ
しかも本人は単なる無能ニートというのがさらに悪質と言える
秀頼なんて最初から生まれなければよかったのだけど
生まれたにしてももっと早く死んでほしかった 昨日のテレビ、信繁を一切使わず幸村で終始してたね(笑) テレビは見てないがあえて名前を幸村で通すのはそういうスタンスなんでしょ テレビによれば、徳川家康は後藤又兵衛に討ち取られたみたいだけど、
それはもっと有名になってもいいのではないかな。 アンチ秀頼の意見も分からないわけじゃないが。
秀次事件は秀頼自身の意志は関係ないだろ。ほかも二次史料依拠のネタを本気にしてもなあ。
今川家裏切り、一向宗弾圧、嫡男殺し、正室殺し、豊臣家根絶やしと家康もかなりエグいことはしてる。それでも家康が名将中の名将であることには変わりない。
秀頼レベルで史上最高レベルの暴君というのは違和感あるな。 ていうか、アンチ秀頼ではなくて、家康盲信派なのか?
史上最高レベルの暴君だから、死の床にあった旧主から頼む頼むと懇願されていた息子を殺してしまっても、孫を磔にしても仕方ないだろ、ということにしたいのかな。
単に家康も聖人君子ではなく、覇権のためには手段を選ばない権力者の一人だったというだけで、結果的に江戸時代の安定を導いたのだから、それでOKだった、でいいと思うけどな、 国松は磔じゃないな。
市中引き回しの上、斬首だったわ。すまん。 槇島昭光ってなんで負けたのに家康に許されて細川家に仕えられたんだろ? 秀頼本人は無能な引き籠りニートデブでしかないけど
そこに痴呆症になった親父、ヒステリーな母親、三成みたいな奸臣などが組み合わさって
生まれてきてはいけない放射性廃棄物レベルの迷惑なゴミが出来上がった
秀頼が大坂の陣まで生きていたこと自体が許されない犯罪だろう 不思議なのは、秀頼の首級が大坂の陣直後に発見されなかったことなんだよな。
資料を見ると、既に戦闘は終わってるし、井伊勢に囲まれてるし。 >>695
家康みたいに自分の意思で最善な手段と信じて実行したうえで成功したなら問題ないけど
秀頼の場合、本人はろくに意思のない脂肪の塊でしかないのに
周囲が脂肪の塊を忖度して勝手に虐殺や武装蜂起を繰り返して自滅していくからな
正直言って秀頼本人は有能か無能かのスタートラインにすら立っていない置物
周囲の忖度も含めるなら日本史上でもトップに君臨するほど迷惑な置物だけど まあ、情勢変化は本人のせいにはできないよ。長州征伐失敗は家茂のせいか、戊辰戦争は慶喜のせいかと考えれば、それぞれの責任はあるだろうが、個人で全てが変えられるわけじゃない。 個人ができることと言えばいかに情勢を見極めて身を処すかだが秀頼にはそれができなかった 徳川家にとってベストシナリオだったのかどうかといえば、大坂の陣は微妙だよな。
将軍職と関白職の流れを見れば、関ヶ原後、政権を豊臣に渡す気はなかったのは明白。 でも、関ヶ原後、15年経ってから滅ぼそうとは思ってなかったんじゃないか。
家康が先に死んでしまう可能性がある。
豊臣家をコントロール下に置きたかったなら、なぜ関ヶ原前に確保していた大坂城西の丸から出てしまったのか。 前田家に本多を置いたように、大坂城西の丸に譜代や久松松平とか置いておけば、もっとうまく豊臣家をコントロールできたのに。 アンチ秀頼の味方をするわけじゃないけど、秀頼側は外交努力が乏しすぎたよな。
自ら江戸屋敷をつくって豊臣家の威勢を見せつけるくらいで良かったのに。 江戸にいる大名たちのサロンに入っていかない時点で、いざという時の後詰めとか期待できない。
秀吉は敵勢力のたらし込みがうまかったのに。 片桐且元が「豊臣は江戸の普請を免除されました。一見豊臣を立てているように見えてその裏には大きな意味がある」って言ったらしいけど(慶元記)
徳川から意図的な仲間はずれ食らってたのか、豊臣を立てた結果そして豊臣が受身になった結果全てを失ったのか まあ、そこらへん徳川も陰湿ではあるよな。
もしかしたら豊臣の暴発は徳川の目論み通りだったのかもしれないが、だとしたら危険すぎる統治。
双方に犠牲も出たし、家康、秀忠が豊臣暴発より先に死んでたら動乱の時代に逆戻りしていたかもしれん。 俺らは結果を知ってるから、歴史はその通りに進んだに違いないと思いがちなバイアスかかりやすいけど、よーく調べてみると、結構危ない橋を渡ってたりするよな。 慶元記による片桐且元の指摘(全十一条)だと
1 秀忠の将軍宣下の時大坂に知らせが無かった
2 大坂にいる大小名に江戸参勤の命令が無かった
3 外国の大使が大坂に来ない
4 秀頼と千姫が不仲だと知っているのに関東から旗本一人が上ってくるだけ。
とか言われてるけど徳川の戦略なのか豊臣の失敗なのかが微妙にわからんのう 徳川の戦略だったという印象は強いけど、だからといって豊臣の失敗がなかったわけではないんだよなあ。
片桐はともかくとして、板倉や井伊とは親密な関係を築いておくべきだった。
トラブった時に弁護してくれる人物がいるかいないかで、随分違う。
自分たちは主筋という建前があるのなら、それこそ自分たちを凌駕する実力を持つ家来との関係には意をそそぐべきで、足利将軍家の事例を知らなかったわけじゃないだろうしね。 豊臣家の舐めた態度を止めれる人物が誰もいない時点で終わりやろ
加藤清正、浅野幸長、前田利長が生きていれば豊臣の挙兵は停めれたかもしれん
残ってるのが正則じゃな >>714
足利将軍家以前に父親である秀吉の事績を知らないわけがないだろうに
信雄とか長益とか織田家の人間が身近にいることに何も思わないんだから 別に現代社会での社長の息子でも相関関係がわからない、興味もないという人も多いから秀頼みたいな箱入り息子だとまともに育ってない気がする
学校すら行ってない訳だし 秀吉はその辺の社長と一緒にできるようなクラスではないし
秀頼のように早くに父親を亡くしてその生涯に興味を持たなかったら
周囲の人間も含めて人としてどうかしてる
当時は学校とかないからこそ武功話とかを先達に聞いて学習する時代で
主に貴族的な教養らしいが秀頼が教育を受けたという話は残ってるわけだし
大体父親の事績に関心がなければ徳川家に対して主筋だなんだという話にはならないだろう 利家死後、関ヶ原後は、徳川方の人間を教育係にすれば良かったのにな。
家康の異父弟とか、酒井、大久保、鳥居…。候補はいるんだから。
それだけで徳川に対する敵対意識は減殺し、暴発を防げた可能性もある。 豊臣家の孤立からの暴発を狙っていたとしたら、15年は長すぎる。
家康はもちろん、秀忠だって先に死んでたかもしれん。
家康が死ぬ直前に暴発してくれたのは、徳川にとってラッキーだったにすぎない。信玄みたいに戦場で倒れることもあんるだから。 家康は関ヶ原後豊臣を見捨てていくけどこれもどうとでも言えるから正解はわからんと思う。秀頼の養育係を決めるのは豊臣の仕事で徳川の仕事じゃないとか 片桐は武将としてはそれなりだけど、そんなに大物じゃないからなあ。
徳川と豊臣の取次役としても荷が重すぎる。 たとえ物凄く且元が有能だとしてもそれなりの地位と権限を与えないと無理 方広寺の件も片桐兄弟は殆ど触れなかったらしい
なのに尻拭きさせられる悲哀… そもそも縁故採用の大野一族が幅きかせてるのがもっとやばいでしょ コネが幅利かせるのは仕方ない。他に人材居ないのが悪い 松平定勝あたりを大坂城西ノ丸に入れとけば、いろいろうまくいったかもな。
秀頼の牙を抜いて、適当な頃合いで屋根の修理かなんかを理由に転封してもいい。
徳川の娘以外の正室を許さず、豊臣家は家康の子孫が継ぐ。絶えたら徳川家から養子。 状況としては圧倒的に有利なのに、大坂の陣は小田原の戦いに比べて攻撃側の犠牲が大きすぎる。
2段階に分けたのも一般には評価されることが多いが、本当は愚策だったんじゃないか。 氏政には切腹を受け入れる良識はあるが
淀・秀頼なんて自軍の犠牲がどうなろうが切腹する気なんて一切ないのだから比較にならないだろ
2段階に分けたのも砲弾が本丸に届いたことで淀・秀頼が怖くなったから一時的に講和になっただけで
豊臣が戦うかどうかなんて淀・秀頼の気分次第で決まるからな そりゃ裸の城にされたから
もうアカンとどんどん逃亡したから 冬の陣で勝てないと分かった離職組と豊臣が徳川と和睦したときの条件で牢人衆を解雇するって事になっていたのでクビにされた整理解雇組。あと最大閥の織田が抜けたからそれについていった連中、徳川から送り込まれたスパイが離脱。こんなところだろう。 ところが家康は外堀の一部を埋めるだけと約束したにも関わらず
内堀も全部埋めたから牢人共を解雇する必然性が無くなったんだよね 豊臣の同意無し説は否定されてなかった?豊臣が抗議した史料が全く無いから。元々全て埋めるのが和睦の条件だったからやっただけっていう。堀埋めるのは戦意無きを証明するものだから妥当ではある。なのに戦争吹っかけたのはアホの極みだけど。 >>736
NHKで特番があったのよね
オネエキャラの城郭研究家も出演していた
豊臣方は自ら内堀も埋めて浪人を自発的に退去させようとした 浪人が出ていかないなら豊臣秀頼が城から逃げ出せばよかったのだが、不可能だったのだろう 本当に浪人を排除したかったんなら、徳川方に要請すれば良かったと思うがなあ。堀の埋め立てをやってくれたんだから。
豊臣と真田、毛利ら浪人衆との関係は、そう単純ではなかったんじゃないかなあ。 言ってみれば秀頼はトラブルの元凶なのに
徳川家から何かを引き出そうと条件闘争したのがまずかった
ならいっそのことお前ごと葬ってくれようとなるわな 豊鑑だったかな。牢人衆の為の恩賞を徳川に頼んだら「牢人衆をクビにしないとかまだ戦うつもりなのか」って黙殺されて夏の陣になったとか。片桐兄弟が居ないから交渉も出来なくなってたんだろうか。 大坂の陣に参加した浪人の罪は不問にするけど
彼らに対する処遇を含めた責任は豊臣家でとってねというのが
講和の落としどころなのに幕府に負担を求めているわけだからね 浪人衆は戦力というだけではなく市中で暴行や略奪をすることが問題だった
初期の新撰組もそうよね 冬の陣で傾いた天守閣を秀頼が夏の陣までに作り直していたというのは真実ですか? ソースがわからんけどあってもおかしくはない…のかな 豊臣家は!牢人衆を養うために、戦をしているのでは無いっ! 根本的なことを言えば制御不能なレベルで浪人を雇い入れる時点でもう間違ってる
統制不可能な不穏分子の大軍なんてどうするつもりだったんだ
軍の指揮権を正規雇用ですらない一時雇いなんぞに渡せる訳ないんだから
軍勢をまともに出撃させることすら不可能だし、籠城するなら必要以上の人数など
物資の無用な消耗を強いるから邪魔なだけ、本当に何を考えていたんだか >747
有力家臣でもある片桐追放して浪人雇いまくったらバランス取れないんだよね
親族枠の織田も心中するつもりまではないし 古今東西、自分達を守る為に外部勢力を招き入れ瓦解していくのは定番やからな 片桐追放して家康の勧告はねつけて浪人雇い入れて決戦
それはそれでありだと思うが最期蔵に追い詰められた時助命嘆願の使者を出したのは情けなさすぎる
秀頼可愛さか自分の命惜しさか知らんが 片方の総大将たる秀頼がどんな戦略を持っていたのかとか何を考えていたのかとかどんな行動をしていたのかってのが不思議なくらい語られない
幼少ならともかく20歳超えてこれだけの大戦でここまで空気の総大将も珍しい 一挙手一投足淀の言いなりなら秀頼の意思なんて誰にも分からん
秀頼自身もわかってなかったろう 秀頼淀のロボット説ってどの辺からきてんだろね?
司馬遼太郎の「城塞」が有名だけど 秀頼の文書とか集めて調べたら人となりがわかるだろ
秀頼のはないの? 豊鑑だと淀君どころか牢人衆すら指揮できて無い描写がされてたが… 秀頼も若年ととは言え当時であれば元服もとうに終えた一介の武将
その秀頼の文書が一通も残っていないと あるにはあるけど人柄が伺い知れるようなもんじゃないな
一番有名なのは家康宛の自筆書状で家康から贈られた鷹の礼状でめっちゃ達筆
あと高台院宛の自筆書状で寒中見舞い状があるな
他には秀頼の黒印で発給してる知行宛行状が数通ある イギリスからカルバリン砲4門、セーカー砲1門が陸上げした瞬間
真田忍者達が奪う >>761
暗殺を試みるが半蔵に阻止される
だがこれは家康警護に目を向けさせる為の作戦
才蔵とサスケはイギリス製大砲を大阪城に持ち帰った 持ち帰ってどうする
そいつらの装填速度は?
流弾じゃないんだから大軍相手には嫌がらせにしかならんぞ 大正の円本の真田幸村は榴弾砲も戦車も装甲車も地雷も機雷も使うんだぜ 秀頼の人間性は夏の陣の終局で大坂の民を見殺しにして蔵に閉じこもって自分だけ助かろうとしたところに全てが現れてるから、やっぱり豊臣宗家の血筋は世のため人のためには根絶やしにされても仕方のない卑しく浅ましい邪悪の血統だわ REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 方法は淀君が駿府翁の指示に従い、江戸下向、大坂を退去し、大和広隆寺に違法 米蔵に閉じこもって秀頼と淀殿の助命嘆願は情けない
どうする家康では描かなかったな 大坂冬の陣のあと、家康の提示に従い、大坂を明け渡し、大和西大寺、又は、伊勢朝熊山に異邦を受け付けるべきでした。また、淀君は駿府で人質を受け、秀頼は江戸に産近甲龍を 家康のこと何も分かってないな
生かしておくわけないだろ >>773
そりゃ秀頼みたいにまともな領国経営もできない無能なくせして二度も天下を乱す大乱を起こした挙句家臣や領民を見殺しにして自分だけ助かろうとするクズなんて生かしておく価値無いからな 心情的に豊臣方の勝利の目を幾分かは見立ててあげたい処だが、戦略戦術よりもまず兵站ですよ。
開戦前に確保に走っただけあって米だけは向こう1年弱は持つ計算があったけど矢弾の供給源が存在しない。
どこも売ってくれないから。矢を竹から切り出すのだって限界がある。
馬の飼料だって足りてたんだか足りてなかったんだか。
冬の寒さに城内で燃やせるものを壊して燃やしていたのも兵の戦意低下の一因となっている。
兵站面の不安を解消してはじめて勝つ為の戦略を定める処に前進できる。 >>776
その辺を問題にするのなら大量に浪人を雇い入れる時点でもう間違っているとしか…
必要以上の人数を城に入れたところで物資の無用な消耗を強いるから邪魔なだけだし
勝手なイメージだが飲み食いも派手にやりそうだ、腹が減っては戦が出来ぬというからな
運用も難しい、拠点の一部の防衛担当程度ならともかく出撃させるには信用がなさすぎる
夏の陣においてさえ、連携に失敗してるという話があるから戦術的にもあまり期待できないし >>777
■兵の質
関ヶ原改易家浪人から何から、日ノ本の中でもはや摂河泉しか潜む場所が無かったっていうね。もう14年も経ってるし。
島津でさえ大坂までは行かないという精神的で消極的な支援しか出来なかった。
■出撃策
初手から籠城した先に何があるのかというと、大御所が運悪く寿命で落命するかもしれない位で他に無いんだよね。
大御所あるいは将軍の首級ひとつのみ狙う出撃策はデメリットよりも可能姓の方が見込まれますかね。
朝廷公家などへの対外的な宣伝の意味でも。 本多忠勝も「平家物語を読んでみなさい。そこに諸国からかき集めた兵は簡単に逃げるとある」って牢人衆を雇う危険性を教えてたりするしそうした逸話は山ほどある。それでもやらないといけなくなるのが追い詰められた証か 本当に欲しかったのは西国の有力大名だろうけどどの大名も無視またはお祈り書状または八丈島から泳いでこなかったしね。 秀吉の威光なんかほんと大したことねーな
存命時も諸大名はボケた下賎の猿はやくしね、くらいにしか思ってなかっただろう
小牧長久手の時点ですでに
家康>秀吉の印象は全国に知れ渡っていたのでありましたw 御恩と奉公は一代限り、なので代替わりしたら新しく御恩を提示して人望を集めないといけない
一代で成り上がった豊臣にはそれしかなかったけど60万石では幕府には勝てない 関ヶ原敗戦直後であれば毛利は戦意は無いけど大坂城で大軍と健在、立花は戦意旺盛で軍勢もある、上杉だって気が変わる可能姓もある。
それから年月が経過して家康は将軍になり後継の秀忠に譲って日ノ本への支配体制が摂河泉を除いて盤石に。色々と無理よね。 天皇践祚の上洛を機会に、胸襟を開いて、歓談したいとの、御下知である。 小牧長久手の時点ですでに
家康>秀吉の印象は全国に知れ渡っていたのでありましたw
>秀吉に人質取られ、小牧で味方勢力だった長宗我部、雑賀、佐々を見殺し
小牧後こんなに無様で何言ってんだw 家康なんて三河の一向一揆や今川氏直の頃から約束なんて守ったことないのにな
こんなクズを信用する大阪方…… だが家康が明確に秀頼を殺そうとした同時代の史料って残ってないんよ。むしろ家名存続の為の逃げ道を提供している。
逆に秀忠が許さなかったし意を汲んだつもりの井伊隊が山里曲輪の隅矢倉を取り囲んで「○ね!○ね!」と
ドッカンドッカン撃ち放って自刃の圧をかけたので詮無しとみんな自刃して放火して滅亡したのが真相。
家康は自分の目が黒い内に豊臣家に滅んで欲しかった「のかもしれない」。だがそれを示す史料は無い。 家康は約束は守ったからな
その後豊臣が牢人衆から恩賞せびられて破産しても徳川の知ったことじゃないし 会いたければ、家康が大坂に出向くがよい。わが叔父、信長公に散々世話になった、三河の田舎大名めが!無礼であろう! >>789
朝廷の官位とか位階で考えると家康の方が立場上のはずだが、しかもそうしたのは秀吉だぞ
そこら辺に文句つけたいなら秀吉に言えばいい、大体関白にもなれなかった奴が何言ってんだ 冬の陣で荒れた大坂城を復興して戻す、復興相には松平下総守忠明を充てる。だから、秀頼は数年、大和か伊勢に移転せよとあれだけ駿府翁は言ったのに、秀頼は言うことを聞かなかったのである。 清洲同盟が真っ先に出てくるじゃろ。先入観や決めつけから一旦離れて自分の見解に疑問を挟む処からしなよ。 豊臣の命令で嫌々娘を秀次の側室に出したら連座で殺される
豊臣の命令で朝鮮出兵したら恩賞を貰うどころか讒言されて処罰を受ける
豊臣の命令で上杉征伐に出たら内府違いの条々で糾弾される
豊臣家ってのは約束を破るどころか命令に従った相手に嫌がらせするのが趣味なのか?
で、お次は
秀頼「豊臣の命令だ。諸大名は豊臣に従い徳川幕府を討て。従わない奴らは太閤殿下の恩を忘れた不忠者だ、裏切り者だ」
ってか?
誰が従うんだよ馬鹿馬鹿しい
実際滅んで当然の糞一族と思われてるから大名は誰も味方に付かず除名嘆願もしなかったんだろう 家康と秀吉じゃ現代人と原始人くらい知能の差があった
律儀者と死ぬまで信じ込む馬鹿が秀吉
チョロ過ぎ 少しでもまともな知能があれば律儀者なんて思わないよな
家康なんか 「思わないよな」じゃなくて同時代の資料ベースでそれを示さないと歴史に相対する正しい姿勢とはいえない。
不明瞭な処に無理して結論を急ぐ事はないですよ。それは歴史研究者が一番禁忌にしているやつ。 まあ、秀吉の隣にいたら誰でも律儀者に見えるだろうな
気分次第で人を嬲り殺すエテ公を「明るく陽気な人たらし」だなんて思い込む知能の低い人以外には 大坂の陣は豊臣家が間違った外交を続けた結果なので家康云々はどうでもいいレベル
家康から任命された執事でれっきとした大名を殺そうとしたらどうなるかわかってたろ ならぬ。家来の呼び出しに、何ゆえ主人が出向かねばならぬのじゃ。考えても見よ、家康は、亡き太閤殿下に、大老にまで取り立てていただいた御恩も忘れ、亡き太閤のおん血筋、秀頼公を二条城にまで呼びつけるとは、言語道断 大坂60万石で子飼いの兵力が1万5千
浪人が10万も押し寄せてきちゃうと思わなかったんじゃないの
せいぜい5千くらいだと思って呼んでみたら想像以上に膨れ上がって
収拾つかなくなったとか >>801
子飼いの兵って七手組よね?。実戦経験がまるでないし始めから徳川に内通する気満々の将も居たね。
日ノ本全国もう潜む処は摂河泉しかなかった訳で10万でよく済んだものよ。 徳川家出奔して七手組になった青木は冬の陣後に豊臣家出奔!
徳川家に帰参、一万石 徳川家出奔して七手組になった青木は冬の陣後に豊臣家出奔!
徳川家に帰参、一万石 この板どんな過疎スレでも家康批判したとたん何処からともなく家康厨が湧いてきて擁護しだすの最高にキモい
あの徳川の子孫とやらにバイト代貰って監視してるのか? そうなんです。俺のスパイクも、お袋が得川のパートで働いて買ってくれたもんなんです >>805
何言ってんの?。一次史料にもあたらず夢みたいな事を書き連ねるんだったらそこに徳川推しだの豊臣推しだのの区別はないよ。
比率で滅んだ方に夢見がちなのが多いから目立ってるだけ。 >>805
キモいのは感情論でしか物を見れないお前だよw
誰を批判したとか擁護したとかどうでもいいわ
異論があるなら史料を根拠に反論すればいいんだろうけど、この手のアホは
史料なんて当然見たこともないだろうし小説とか漫画が関の山ってとこかな 散々、徳川史観で歴史や思想、生活様式まで長年統制し歪めた側が同時代とか一次史料とか最高に笑わせてくれるw
流石は歴史学者さんの言うことは違うねw
まあ令和の時代になってもその呪縛に捕らわれてる知能の低い馬鹿がいるんだから素直に凄いわ >>810
ほんとに何言ってんの?本気?
「徳川史観で書かれた史料」が一次史料や同時代史料と呼ばれる訳ねーだろ・・・。
徳川史観と呼ばれる時点で「同時代の一次史料、例えば書状、第三者の日記、感状などの古文書」ですらないんだよ。
判り易い例でいうと『甲陽軍艦』は一次史料じゃないんですよ
生まれてから一度も「一次史料」「同時代史料」で用語の意味を調べた事すらないのが丸判り。
笑わないから今まで何の媒体で歴史に触れてきたのか書いてみ? 豊臣は徳川が鐘銘に難をつけてると思ってたかもしれないけど徳川が問題視してたのは豊臣が牢人衆集めてた事で次元が違う。豊臣は政治・外交を見る力が弱過ぎた >>810
境界知能くんは一次史料に触れたことないんだな
徳川史観とやらで書かれた一次史料って何?あるなら見せてよw >>813
境界知能くんの言う一次史料って
<徳川史観で書かれた一次史料>
山岡荘八著「徳川家康」
NHK「葵 徳川三代」
NHK「どうする家康」
他「水戸黄門」「暴れん坊将軍」等
<歴史の真実が書かれた一次史料>
司馬遼太郎作品全般
隆慶一郎著「影武者徳川家康」
NHK「秀吉」
NHK「真田丸」
他「花の慶次」「戦国無双」等
こんな感じかなw まてまて多分武将の能力基準はコーエーのぶやぼシリーズ準拠も入れてやらんと じゃあ当時の豊臣がなすべきだった正しい外交ってどんなの? ふつうに方広寺建てて
ふつうに右大臣やって
千姫とぱこぱこやって跡継ぎ作ってればよかった
なんで家康健在なのに大坂側から喧嘩うってんの?
バカなの? 死ぬの? >>817 単発IDくんは何か読んできたの?タイトルを教えてよ。
歴史を振り返って「正しい」だの「正解」だのは主観でしかないと思うけどね。
最大公約数で平たく言えば「片桐且元の持ち帰った条件のいずれかを飲んで徳川の覇権を認めて一大名として存続する」が
お家が生き残るにはベターな手だとは思うよ。滅ばされる口実を与えない事。関ヶ原から14年も経って誰も味方してくれなくなってる。 >>814
1次史料で出してきたのが現代の小説やドラマって……
こんな相手にレスしてたのが恥ずかしくなるくらいのド低能ぶりだな
信長公記とかにしても筆者の当時の主従関係やら何やらで必ず何かしらのバイアスがかかるということも理解出来ないんだろうな
頼むから俺にこれ以上レスするなよ
議論するレベルですらないから 片桐且元が徳川家に出した十一箇条の要請書の中に「我々は家康さまから執事をするよう言われてましたが全く役割を果たせてません、方広寺でも我々が関われず仕事になりません」と書いたというから既に豊臣家全体が危険な状態だったっぽいんだよな 真田という浪人が隊士を集め赤備えの甲冑まで揃えたことが信じがたい >>822
長野の個人宅で見つかった鉄製の部分に赤味が鮮明に遺る甲冑
(昭和9年の箱書きには「海野小太郎ご誕生の祝いの品として、京都から下賜(かし)され(た)」との記述がある。)だけど、
「降幡学芸員は「真田信之(信幸)が家臣に赤い甲冑を薦めた古文書が残るほか、
弟の信繁が赤備えを旗印にしたのも赤の派手さが勇猛さを演出することを理解していたからではないか。
真田家に伝わる赤備えは、血筋の正当性の証にもなっている」と話す。」と。
「大坂夏の陣で、徳川軍との激戦の末に散った信繁らが身につけていた赤備えは見つかっていない。」が
「見された赤い甲冑はそのルーツとして学術的な史料価値が高い。」と。
大河ドラマにも登場 「真田の赤備え」は幻ではなかった 赤い甲冑を発見 長野の個人宅で保管 真田宝物館で公開中
https://www.sankei.com/article/20170315-SOS2VJULBVLCPDUKNUXKKTAKDE/2/
数千人分の甲冑を赤く染めるのは無理にしても旗は赤く、主要な武者の甲冑は赤くは出来た可能姓もあるかもね。 この時代の浪人ってある程度の手勢を持っている場合もあるって聞いたことがあるな
浪人衆でも上位組はそういう奴らだった、らしい
本当かどうかは知らん >>824 大坂籠城衆の主立った将でいえばこんな感じ。実戦経験を積んでいたりある程度の指揮を任せられる「手勢」が居たかどうか怪しいよ。
・真田信繁:130人~300人の幅(家族や百姓を含む) ※Wikipedia
・後藤又兵衛:情報に到れず。乞食生活も経ていたので寄り添った家臣が居たかどうかすら怪しいレベル。
・長宗我部盛親:従者6人 ※Wikipedia
・毛利勝永:小舟で土佐を離れたので恐らく嫡男と次男と3人で。 ※『真田より活躍した男 毛利勝永』 / 今福匡
・明石全登:4,000? ※大西泰正氏「明石掃部の研究」には、「大坂御陣山口休庵咄」の中の、掃部が「四千の人数を率いて入城し、のちに素性不明の者を抱えた」という記述が取り上げられ(史料として一部が抜粋されています)、素性不明の者について、「それが或いはキリシタンかという想像もできなくはない」と書かれています。
※『大坂御陣山口休庵咄』は1639年~1727年にかけて発表されたもので同時代史料ではない。行き場を失ったキリシタンを引き連れたという解釈が自然。
主立った籠城諸将は大坂城に入城してからより格下の浪人衆を改めて麾下の将兵としてあてがわれたと考える方が自然だと思いますよ。 豊臣家は政権から転落してキリシタン弾圧の権限を失ったわけだが、キリシタン容認に変更したわけでもない。なのに明石全登が大坂方に与した理由がよく分からない。秀吉在世中は散々弾圧していたのに どのみちキリシタンが日本で生きてくには豊臣に味方するしかなかったんだろ
何もしないのはノーチャンス 現在進行形で禁止してる政権は徳川だし>>826によれば明石は手勢を率いてたようだから
戦力欲しい豊臣が勝った暁には信仰認めるとか何とか調子いいこと言ったんだろう
明石は豊臣だろうが徳川だろうがどうでもよくて信仰認めてくれさえすればよかっただけ >>830
同意だけど「手勢」じゃなくて「信徒」だと思うよ、老若男女込みね。明石ジュスト殿が我々を導いてくださるといった体でついてった辺りかと。
関ヶ原の後は黒田如水の弟でキリシタンの黒田直之にかくまわれていた時期もあったららしい。 他の大坂牢人五人衆と比べて目立った戦働きがないのは主体が実戦経験豊富な牢人ではなくて単なる信徒だったせいだろうか?
空振りに終わった夏の陣での精鋭300人がほんとの実戦力だったのかも 明石掃部は逃げ延びて仙台藩が匿ったとか、彦根藩兵に討ち取られたとか、諸説有ってまるでハッキリしない。困ったもんだ。 (慶長20年)6月7日付松井興長他宛細川忠興書状
「明石掃部于今行衛不知候、大略長崎へ可下かとの各推量ニ候、
自然其元舟付ニかゝり候事も可在之候間、急度可相改事肝要候」
戦後すぐの頃は明石は長崎へ下ったとの噂があったようで、忠興は船改めをするよう家臣たちに命じてるな 京都所司代板倉勝重の息子を豊臣家附家老として迎え、家政をすべて見て貰う。
豊国大明神の神号廃止を朝廷に頼み、摂家待遇を返上する。
また、淀君は江戸で人質として過ごし、
お拾は駿府にて養育を受ける
養育掛は本多出雲守忠朝、青山因幡守秘成、
松平下総守忠明が受け持つ。
このようにへりくだれば、徳川家も軟化し、ウフ様が死ぬこともなかったと存じます 喜連川足利家みたいに格式だけ上位で小藩として存続するなら生き延びる道もあったと思うけど、
摂津河内和泉六十万石と大坂城をどうするかという問題が。
大和転封という話があったけど、大和一国で四十万石くらいだから、大坂を離れることも含めて大減封になってしまう。
やっぱり穏便に徳川幕府体制に組み込まれていくのは難しいな となると完全に公家化ルートなんだが、これは五摂家が許さない。
折角秀吉逝去でほぼ回収出来た筈の摂関職をまた豊臣に掠め盗られる事態は何としても避けたい。
そして徳川も朝廷の統轄を五摂家に任せる方が楽だし後の公家諸法度の理念と朝廷・公家の統轄の実際は正にその路線。
摂家であるのはダメ、徳川が清華成だから同格は徳川的に嫌がるだろうが他にも清華成の武家は居るから多分通る
公家化ルートで収まろうとすると豊臣は所領の九割近くと居城の喪失と摂家から清華に落としてやっとでなかろうか。
一公家で数十万石クラスの所領の保有は江戸初期の公家徳川双方からして脅威でしかない。 >>838
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1601/18-2-3/1/0077?m=all&s=0077
近衛さんが徳川に怒ってますが
上記を読んで感想お願いしますね 淀、秀頼が大和で我慢できていれば姻族だしそのまま行けたんじゃないのかな
初期に紀州家と結びついたらどう転ぶかはわからんけど >>839
そういや豊臣はそもそも近衛の猶子として関白職に就いたから
近衛としては歴とした身内のままなんだよな、豊臣氏と賜姓され別家となっても
豊臣からも近衛からも最後まで絶縁してないので変わらず身内の家。
猶子は本家の家督相続なんかは基本無いが絶縁するまで完全に身内や親族扱いとする慣行だから。
近衛家的には身内の豊臣が摂家として尊重され続けるのは当然で、その身内を(理由はどうあれ)
攻撃した清華で武家の徳川は格上の自家を攻撃してきたも同然。
近衛家としては無礼かつ身内への攻撃で怒るのは至って自然だろうと思う。
ただ近衛はともかく他の四摂家の意向としてはどうかだし、また当時の政治力学的に
近衛が豊臣を全力カバーするのは当然無理な相談な訳で。結局怒りの声を挙げる程度しか出来なかったかと。
もっとも近衛を始めとする朝廷公家全体が大領を持つ武家としての豊臣を公家に取り込み
徳川ら武家に対抗していこうという意図が実はあったのなら話は別。
でも豊臣だけで徳川など武家を相手に回わすのなんて無謀だったのがこの大坂の陣なんで。 >>841
すいません
慶長六年の日記なんですけども
リンクを読んでないですね? 主計頭清正と紀伊守幸長は、やはり毒を飼われたとみるべきであろうや? >>844-846ってまさかのID切り替えながらの自演ですか?
それはどうでもいいんだけど陰謀論に傾くなら根拠や出典を添えてくれ。 根拠なくID切り替えを疑うのだって陰謀論じゃねえか フィクションや願望の話をしたいんだったら別の板に行けば? 家康様の批判する奴は許さない
出ていけ!ってかあ?
流石は陰険な家康の信者だわw またこいつか・・・。家康だろうが秀頼だろうが同時代史料ベースで語ってくれるなら同列だっつーの。何でそこが判らない。 じゃあ天王寺の戦いの話ししようぜ
何で東軍ってあんなに弱かったの
特に徳川軍
夏の陣全体:東軍16万5千 大坂方5万5千 3対1
天王寺・岡山の戦い:14万対3万5千(実質2万)7対1
家康本陣に突入した大坂方はどう多くても10対1を切っていただろう
それがあの有り様
圧倒的な数の差で何とか勝っただけ
徳川軍のどこが精鋭だ?
家康のどこが野戦の名手だ?
最初から統一指揮が出来てれば大坂方が勝ってただろうな
こんな戦力差で首獲られてたら義元や隆信以上の無能として名が残っただろうに >>856
普通「天王寺の戦い」とは呼ばない。「天王寺・岡山の戦い」よ呼ぶ。自分で5行目に書いてんじゃん・・・。
両軍の兵力の出典は何?俺も目を通す。
他にも書きたい事はあるけどまずは順を追って。 >>856
開戦劈頭の大坂方の攻勢部分のみを切り取って見たらそう見えるだけ
軍事的に見て、最終的に大坂は全戦力を喪失して5万の兵力がおよそ3時間で壊滅し、総大将は自刃している
幕府方にも大名が複数討死するなど損害はあったが、大勢に影響はなかった
本陣に突入されたとか馬印が倒されたとかうんこ漏らしたとかどうでもいいのよ
結果的に完全勝利やろが >>856
もう少し尋ねたい。
>それがあの有り様
の処だけど具体的にはどこのどの部分?。
別に映像記録が残っている訳ではないけど通説では真田隊は幕府方の前線部隊を粉砕し壊滅させながら前進した訳ではなく
松平隊の備の角を掠めて又は削って家康本陣へと前進していった。
なので後から持ち直した幕府方の大軍に退路を断たれそうになったので真田隊は撤収した。
>圧倒的な数の差で何とか勝っただけ
野戦では数が物を言うのは軍事の常識であるし(詭道で勝つのは極例外)「何とか」には共感するけども
大御所の首級を上げられなかったのでいずれ数で負けるのは至極予想された結果だよ。
>徳川軍
という呼称は辞めてくれ。外様も居ただろ・・・。
>どこが精鋭だ?
そんな事どこに書いてあったの?。豊臣方浪人衆の方が代替わりしてまるで実戦を経験してなかった幕府方大名よりも
実戦感覚を失ってなかったのは一般的な見解だよ。
>野戦の名手だ?
これ攻城戦なんだけど。もしかして「家康は野戦の名手だが城攻めは苦手に違いない」と巷間よく言われている
ステレオタイプを真に受けてる?(家康が出馬していない徳川軍が二度上田城を落とせなかった処も含めて)。
対今川戦、対武田勝頼との戦闘を細かく振り返ってみ?。家康は付城を用いて敵方の城を包囲して陥落させる実績に長けてるんだけど。
>最初から統一指揮が出来てれば
タラレバに付き合ってあげるけれども一応名目的には秀頼が総大将の体だし織田信雄・織田長益なんてのも居た。
天王寺・岡山の戦い当日は真田に軍配が預けられたけれども大野治長が前日から全軍に周知していた訳ではない。
この程度しか出来なかったのが大野治長の限界であり豊臣方の限界だったんですよ。 大事な事だけどこれだけの大軍に対して家康が「右翼前へ」とか細かな部隊への指示を出していた訳はもちろん無くて
各々の部隊の裁量に任せていたのは考えるまでもなく当たり前の事ですよ。そこに野戦の名手だのなんだのは関係無いです。
例えば長久手の戦い一つだけとってみてもいいけど豊臣方にそれに匹敵する戦果を挙げた事のある将が居たのかどうか。 フォローも入れておくけど昔司馬遼太郎の『関ヶ原』『城塞』を読みふけっていた事は家康憎し豊臣方推しだったぞ。
今は歴史的事象を俯瞰して見る様になったし江戸期になってから書かれた軍記物やその他書物はまず疑ってかかる様にしている。
あと著作を買えまでは言わないけど(出来れば買ってほしいけど)現在進行系で研究を進めている歴史研究家の
先生方の論文や見解に目を通す様にした方がいい。 そもそも家康が戦上手なんて後世のファンタジー
生涯に二度も馬印を踏み潰されて逃げ回った武将なんてまずいない
関ヶ原だって数に劣るの石田宇喜多らに苦しんだし
だいたい戦国時代だって瀕死の今川を攻撃して遠江を手に入れたくらいしか実績がなく
格上を倒していって何ヶ国も切り取った著名な戦国武将達と比べると酷いものである 関ヶ原って開始早々小早川が裏切って一刻(2時間)でケリがついたというのが最近の主流な。
またID変えた?。聴かれた事にも答えずに? >>862は>>861をまるで読解出来てないのな。 そもそも小早川は別に石田や宇喜多の味方じゃない
勝手に行動していて指揮下には入っていない
というか身分的に石田が命令できる訳もないし
石田、宇喜多と大谷らの小部隊だけがいわゆる西軍の戦力なんだよ
それを徳川らが大軍でリンチしたという形
それでも数時間戦いが続いた そうだね。伏見城の戦いの事もあるから西軍の監視の目が強い時期には動くに動けなかった。
伊勢に流れて自由が効く様になってから好きに動き出したとみるべきか。
参謀本部編の関ヶ原布陣図も否定される見方が強い。 大坂の陣の殆どは後世の創作で豊臣方は大して対抗出来ず負けたって話だし 平山先生の説だと
家康が苦戦した理由て
合戦初期に敗退した本多・小笠原勢の一部が
後陣まで入ってきて陣形が乱れたんじゃなかったけ?(それを見て味方崩も連鎖でおこって)
立て直し後は押しつぶされて
豊臣方が壊滅したのは上で指摘されてる通り 大坂でも苦戦しまくり活躍したのは外様大名ばかりというね
伊達、藤堂、上杉いなかったら徳川本陣まで勢いづいた敵が乱入してひっくり返ってたかもしれん >>867
出たー後世の創作とか言っていっさいソース出さないやつ
お前そればっかだなw馬鹿だろ
お前それしか言えないの?