【秀吉・秀長】豊臣氏・羽柴家総合スレ5【秀頼・秀次】
秀吉や秀頼、秀長、大政所や旭など豊臣家と一族やその家臣団
あるいは研究者・論文まで、豊臣氏、羽柴家に関する話題を
肯定、否定的意見を含め包括して語る総合スレです。
都合が悪くなったり反論できなくなったりしたら
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【秀吉・秀長】豊臣家総合スレ4【秀頼・秀次】
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1498995052/ 西軍に加担し手紙を出しまくっていた家康の政敵増田長盛が前田に異心ありと家康に報告したり
上杉の隣国の堀最上が上杉が不穏な動きをしていると報告したりしているので、大大名は乱世を望んで独立の動きを見せていたのだろうな。
伊達も黒田も乱世を望んでいた。
伊達は東北制覇の夢、長宗我部は四国制覇の夢、島津は九州制覇の夢、黒田は冷遇された恨み、織田家家臣も豊臣に義理はない。
家康の豪腕がなければ戦国のやりなおしだった。戦国ファンとしてはIFで見てみたい 星稜の馬鹿監督まだグチグチ言ってるのかよ
・証拠ない
・むしろ自分たちが盗んでいた証拠が出た
・一度不正なしと判定されたのに相手陣営に二度も突撃
・言ってることがコロコロ変わる
・ソースの大半が脳内で第三者の証言なし
早く球界から追放されろ
星稜のサイン盗み
サイン盗むのに夢中で遅い牽制で刺される
https://i.imgur.com/p696xXY.gif 草履取りから引き上げてくれた主君の妻と孫娘を串刺しにして殺して
次男を犯罪者に仕立てて流罪にし、三男を自殺に追い込み、四男は秀吉が関白になると病死だものな
信長の妻と孫娘を殺したのは信長の喪中。息子を切腹に追いやったのが命日前後、大阪城を建て始めたのは一周忌と思えば
秀吉以上のクズはいない。 だよね
豊臣秀吉によって関東に追放されたわけだもん 【ことわざ】
犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ
しかし
秀吉は30年飼っても3年で恩を忘れる
注:秀吉は1554年に織田家に仕え、1582年に呼び出した主君が殺されると10ヶ月で主君のお方様と孫姫様を殺害した。
そして1年目に主君の息子と妹を殺害し大阪城を築城。没後3年で関白になり主家を乗っ取った。 於次秀勝に関しては以前から病気がちだったし不審ということはないのでは?
あの時点ではまだ織田旧臣への遠慮もあっただろうしわざわざ始末するメリットはない
生存したまま鶴松が生まれてたら知らんけど
その場合でも関白を譲られる前なら秀家あたりと同じポジションに収まっていたかもしれん
秀次みたいに関白を譲られてからならアウト 詐欺康は必要もないのに私欲の為に政権を乗っ取ったからな
秀吉の場合はまだ天下は統一されていなかったし 家康が政権を担わなきゃ間違いなく戦国に戻ってたよ
それくらい秀吉死後の豊臣家はあまりに非力で脆弱過ぎた というか全国規模の戦乱で仮にも天下を預かる家が中立を決め込むとかありえない話だからな 幼少では仕方ないとも思うが
いまはおねが西軍、淀が東軍ってことになるのか? 仕方ないで済まされるのは混乱しても影響がさほどない家だけだろうね
統一政権の長の立場の家でそれは許されない
実際秀吉は当主が幼少の場合責任が果たせないということで領地や家臣を取り上げてるんだから 圧倒的な戦の強さ
羽柴秀吉こそ首領に相応しかったな
信長を除いては 大阪府のやつおめでとう。大仙陵古墳、仁徳天皇陵が世界遺産だってね。
豊臣家という引き上げてくれた主家を乗っ取り、関白として公儀性を得たのに関白を殺し
明征伐を主張しながら朝鮮でつまずくクズじゃなくて、本当の偉人だぞ。こっちを客寄せに使うんだ。
仁徳天皇のおばあちゃんは神功皇后なんだが、秀吉と違って三韓征伐で活躍して征伐を成功させた英雄で、女性初の摂政だ。
秀吉のような親を殺した女を犯すクソや、親を殺した老人にまたを開いた淀より、すさまじく魅力的な素材ですよ。
大阪府おめでとう 秀吉様は皇族の人気は抜群だったからね
それに引き換え家康はw 神功皇后←仁徳天皇のおばあちゃん。男系女子。三韓征伐をおこない半島を属国にする
仁徳天皇←最大の古墳を作る
雄略天皇←仁徳天皇の孫。倭王武。宋から、「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に認めてもらう。百済も自称では入っていた。 >>209
秀次事件が起きてしまったなら、秀勝もタダで済んだとは思えない。
まず、秀次残党(池田輝政、浅野幸長、田中吉政、中村一氏、山内一豊、
堀尾吉晴ら)に擁立される危険性がある。直系の系譜なだけに、血の価値は
史実で擁立された池田輝政とはけた違いで、秀吉がその猜疑心で耐えられる
とは考え難い。 大坂役で大坂方についた木村重成の父 木村重茲は秀次事件連座で賜死しているが、遺児の重成はなぜか豊臣家を見限らなかったのだな。
あと、本多正信の甥が秀次の家臣で、賜死(殉死とも?)してるの知らなかった >>227
木村重茲は三族皆殺しになっているから、木村重成は重茲の実子でない
のはほぼ間違いない。息子も娘もことごとく殺された、と記録に残っている。
とは言え、形式的に重成は重茲を継いでいる。
で、木村重成の正体だが、弟が篠原重之と名乗って許されていることから、
元は篠原姓であることは濃厚。篠原長房の三男で、秀吉の用人で使えた
篠原義房が実父ではないかと考えられるが、証拠はなく真相は闇の中だ。 >>226
ただ豊臣秀勝の妻は淀殿の妹のお江
秀勝は朝鮮に出陣もしている
恭順の意を示せば、謹慎程度で済んだ可能性はある >>229
秀次事件に連座し、能登に配流され秀吉が死ぬまで許されなかった
浅野幸長も文禄の役に出陣している。朝鮮出兵は免罪符とはならない。
ただ、お江は死を免れたかもしれない。恩人の娘の若政所は処刑
されたから、こっちも絶対ではないが。娘の方はアウトだろうが。 (とはいえ、浅野幸長は秀次に朝鮮出兵の現地での惨状を伝え、
朝鮮出兵をやめさせるため、「謀反を促した」から、やはり特別だった
と考えるべきかもしれないが。) 信長の息子で秀吉が天下取る前に早世した於次秀勝の話題と
崇源院の元旦那で朝鮮で陣没した小吉秀勝の話が混じってない? >>226
1582年以降は不審死や流罪が多い。秀志の恩知らずっぷりを考えれば殺されるだろうね
織田信長 秀吉に呼ばれて移動中に京都で殺される
長男信忠 父信長に同行し京都で殺される
次男信雄 秀吉に改易にされ流罪。家康のとりなしで大名復帰
三男信孝 父信長の喪中に母と娘を秀吉に串刺しにされ切腹で殺される
四男秀勝 秀吉が関白になった数ヵ月後に病死する
五男勝長 父信長に同行し京都で殺される
信長お方様 喪中に秀吉にはりつけにされて殺される
信長孫姫様 喪中に秀吉にはりつけにされて殺される
関白豊臣長者秀次 関白左大臣豊臣長者になるも3年後に切腹。一家は皆殺し。
秀次の弟秀保 秀次一家が虐殺される数ヶ月前に不審死
近衛信尹 関白を譲る約束で秀吉を近衛家猶子にして関白任官に貢献するが流罪
菊亭晴季 秀吉の関白任官に協力するも、関白一家虐殺に連座して娘を殺され流罪 >>227
本多正信・正重兄弟が気軽に出奔しすぎだからな
短気で意地っ張りな典型的な三河武士
秀次事件がなかったら正重の子の正氏もそのうち帰参してただろうけど秀次に仕えてたタイミングが悪かった よく秀吉と劉備比べられるけど格がちがうよな
劉備と諸葛亮二人で秀吉と同等 秀吉を劉備と比べるなんて聞いたことないが
中国史で比べるなら劉邦か朱元璋だろ
その二人と比べたら秀吉なぞ足元にも及ばないけどな 一瞬で崩壊する統治機構の時点で中国史の連中と比べてもかなり格下だよな 草履温めて秀吉が出世した後の後任の草履取りは大変だね。
秀吉を見習って草履を温めれば
「禿ネズミの真似をして儂に取入ろうとしてこざかしい。手打ちにしてくれる!」だし
草履を温めなければ温めなかったで信長の癇に障り
「気のきかんやつだ手打ちにしてくれるわ!」だから
組織がこれまでやってきた慣習を合理的だからとか独善で変えちゃいけないのね。 日本で劉備枠って誰や
地方大名レベルならいそうだが 劉備ってヤクザみたいなもんだし謙信がしっくりきそう >>250
自分が子供だった三法師を傀儡にしてたのと同じことになるって想像しなかったのかね? 野人の子だった秀吉を引き上げた信長が秀吉に呼びだされて殺されると
そのお方様や孫姫様をはりつけにして息子を殺し、信長が生涯かけて育てたものを奪ったのが秀吉だ。
そして帝を利用し、惣無事と聚楽第行幸で簒奪を正当化して公儀性を得たのに、関白豊臣長者一家を皆殺しにした。
豊臣が続くわけがない。さらに明征伐を主張して朝鮮でつまずく阿呆で、関白の下にいるのは聚楽第行幸で帝に忠義を誓った
徳川ら戦国大名。領地を奪われたり左遷されたりしたのが大大名として存続。豊臣は滅ぶべくして滅んだよ 「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」 織田信孝
『それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。
しかるに、いったん信長公の寵遇を受けて将帥にあげられ、大禄を食みだすと、
天よりも高く、海よりも深きその大恩を忘却して、公の没後ついに君位の略奪を企つのみか、
亡君の子の信孝公を、その生母や娘とともに虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。
その言語に絶した大逆無道 黙視するあたわず、わが主君 源家康は、信長公との旧交を思い、
信義を重んじて信雄公の微弱を助けんとして蹶起せり。
もしかの秀吉が、天人ともに許せぬ悪逆を憤り、義の重きを思うものあらば、
父祖の名誉にかけて、この義軍に投じ、以て逆賊を討伐し、海内の人心に快せん・・・・・』
天正十二歳 榊原小平太康政
まさに因果応報 家康が上杉征伐に出れば三成が伏見城を攻撃することを読んでいたように、
秀吉は信長を呼び出せば光秀が信長を討つことは読んでいたな
秀吉と光秀にはっきりとした共謀関係は無かったとしても、
いわゆる未必の故意というものはあったと見るのが妥当だろうな 榊原家の家譜に全文残っておる。
https://togetter.com/li/293061
夫レ羽柴秀吉ハ者野人之子出テ於草業ニ而僅カ為馬前之走卒。
信長公寵異之遇一且時ニ挙ラレテ拜セラレ於将師ニ食ム於大拜ヲ其恩高以天ヨリモ深以海ヨリモ此挙ツテ世ニ知也。
然ルニ信長公卒タマイテ而秀吉忽忘レ主恩ヲ遂ニ因テ際會ニ謀企非背将ニ減シ、
其君後ヲ奪其国家惨シイ哉、向ニ弑シ信孝公ヲ今又與信雄公ヲ結兵ヲ、
大逆無道不可勝言其レ誰不疾視之。
今我ガ寡君深懐信長公ノ旧好ヲ、切ニ恤レミ信雄公ノ之微弱ヲ赫然整ヘ旅不ス量勢之衆寡ニ仗ツ、
大義之嘗然伐夭人之昨悪人々豈ニ可ヤ黨モ彼凶悪以汚乃祖ノ佳名於千戴乎惟尚専ハラ合力於義軍速ヤカニ撃彼逆賊、以快海内之人心因以ニ告。
それ羽柴秀吉は野人の子。そこから馬前の走卒になり、信長公の寵遇を受け、挙げられて将帥を拝し、大国を領する身になった。其の恩は天よりも高く、海よりも深く、其は世の知るところである。
しかし信長公が死に給うや、秀吉は主恩を忘れ、非企を謀て、その亡主の子孫を滅ぼし、其の国家を奪おうとしている。いたましい。向きに信孝公を殺し、いままた信雄公と兵を結ぶ。其の大逆無道なること、言うに勝えざるものがある。
彼の凶悪を汚し、佳名あげんとする者は我が義軍に合力し速やかにかの逆賊を討って、海内の人心を快くせんと告ぐ。 調べなおしたらいってたっぽいね
小牧・長久手だしね
サンクス 大宮影連の矢が秀吉の太腿を貫通したそうだけど
当時治療する技術なんてあったのか? 河原ノ者・非人・秀吉読んだ
秀吉は秀次一派粛正後に拾(秀頼)が死んだら、また淀殿に子供作らせるつもりだったのかねぇ 秀次の切腹は彼の暴走の結果で秀吉の意図じゃなかった説の本を読んだけど
問責の使者を送って罪状謀反と秀次が認識してる時点でやっぱ大チョンボだよな
秀次からしたらその時点で政治的な死に等しい訳で たとえ秀次の切腹が暴走の結果だとしても、その後が頭おかしい
なぜ切腹したかって、抗議の意味もあるだろうが
自分の命を差し出すから一族は見逃してくれという意味が大きい
男児の命を奪うことはよくあっても、妻妾まで皆殺しは必要がない
無駄な恨みを買って悪評が広まるだけだった だね
殺す気がないなら余計なことしてるし、政権を守りたいのに幕引きがおかしい
結局秀吉の判断力が衰えてたか統制が効かなくなってたんだと思う 秀長が生きていたらってよく言われるけど、あんまり長生きすると
秀吉に粛清されちゃうと思うな
源頼朝の例を出してシビアぶって親子兄弟で争うのは当たり前な時代なのだから
ライバルになりそうな敵の子供は完全には排除せよという人がいるけど
それをやりすぎた(身内を排除しすぎた)頼朝は人材がいなくなり結局北条に乗っ取られた
一門の意味をよく考えないと 秀吉が早死にして秀長が長生きして秀次の後見人となって秀次政権を支援する
秀頼が生まれない
というのが豊臣家存続のベストスタイルだったなあ 係類の少ない豊臣にとって子沢山の秀次はもっとも必要な才能をもった人物だったのにな
つくずく秀頼は災厄の子だった 実子は3人
小一郎は夭逝し成人したのは娘2人
養子も3人
ともの子の秀保、丹羽長秀の子でのちに藤堂高虎の養子になる仙丸(高吉)、それに名古屋山三郎の妹岩 疱瘡だかなんかの病気療養で来ていたって説もあるんでしょ
あとはお決まりの極悪人説からの殺害 >>277
秀次事件を見ると、秀長が粛清を逃れられた可能性は低かったと思うな。
結局、秀長も邪魔だったから
大和大納言家を結局存続させようとしなかったのでは。
血縁的には人材難だけど秀長家存続させるという手もあったのにしなかったね、なんでだろ 淀の政治能力や権限については触れんけど縁故採用された大蔵卿局と大野一族がジョーカー過ぎて話にならん
素人集団が豊臣家の重役やぞ?有り得ん ちな世界史板での秀頼の評価
豊臣秀頼
評者: マフムード
【統率】 13
【武力】 10
【知力】 31
【政治】 24
【魅力】 68
【特殊能力/修正】
【統率チェックポイント】
一度も指導力を発揮することなく23歳で没した。査定自体に果たして意味があるのやら、という感じもしないではない。実権は終始母の淀殿の手にあり、秀頼が一度でも自ら状況を判断して主体的に行動したという確かな事例すらない。
ただ大坂の陣の終盤近くでは、自分自身の意志で抗戦論や前線出馬などを主張して母や側近を狼狽させたという説もある。もっとも確証はない。
【武力チェックポイント】
未経験・未知数。体格は極度の肥満といわれ、武芸の心得もまったくなかった。
【知力チェックポイント】
仮にすぐれた素質があったとしても、それは幼少時からの環境によって完全にスポイルされてしまったと思われる。積極性に欠けるばかりか、
そもそも人生のほとんどを大坂城という温室の内部で過ごしたため、実社会の様子もあまり知らなかった可能性がある。ただ1611年に家康と会見をしたさいに「賢き人なり」と驚かれており、高い教養も持っていた。
【政治チェックポイント】
家康との会見をいちおう問題なくこなしたり、勢力地図の複雑な大坂城内でとりあえず御輿として座っていられる程度の器量はあった。だがもちろん常人レベルにも遠く及ばない。
【魅力チェックポイント】
父の七光りが大きなウエイトを占めるだろうが、三成にも家康にも錦の御旗として担がれた。
また加藤清正をはじめとする豊臣恩顧の大名たちは長い間秀頼に礼を尽くしていた。上述のように立ち居振る舞いも立派だったという。死後はその死を哀れんだ人々によって多くの伝説が作られた。
【列伝】
豊臣秀頼(1593〜1615)
豊臣政権 第2代当主(在位1598〜1615)
活動地域:西日本
最高官位:右大臣
―― 太閤の遺児 ――
豊臣秀吉が晩年にもうけた息子。幼名「お拾い」。
5歳で父の後を継ぐが当然実権はなく、1600年以降、本来豊臣家の臣下であった徳川家康が事実上の天下人となった。秀頼の権威が否定されることはなかったが、これ以後の豊臣家は実質上一大名に転落した。
むろん政権安定をはかる徳川方がいつまでも旧政権を放置するはずはなく、結局1614年に大坂冬の陣が勃発。さらに翌年の夏の陣を経て豊臣家は完全に滅亡し、秀頼も自刃した。 瀬田に出陣案を止めただけでも浪人衆よりマシなんじゃないかと思うが
低レベルな比較だけどさ 大野は大坂夏の陣でやっと現実見てまともな判断下せるようになってる
浪人衆よりマシは同意 豊臣秀吉
信長に仕え非常に重用されたが、信長が秀吉に呼びだされて殺されると、
半年ちょっとで信長のお方様と孫姫様をハリツケにして虐殺し、三男を自害に追い込み主家を乗っ取った恩知らず。
関白になり主家簒奪を正当化すると、信長四男が関白就任後半年で病死し、
小牧長久手で対立した信長次男は5年で改易される。
関白になるために猶子にしてあげた近衛家は当主が流罪にされ、関白就任に協力した菊亭も流罪にされた。
そして聚楽第行幸で承認された関白を秀次に譲ると、3年で関白一家を皆殺しにした。
最後に明に出兵し、朝鮮につまずいて死亡。家康が尻拭いをした。
遺児の秀頼は適正体重から76.48kgもオーバーした体重161kg、BMI41.91で、
顔が疱瘡のにきびあとのデブだったという。武士なのに馬にも乗れなかった。
五山が認める呪いで家康を呪い殺そうとしたが、幕府に出頭せず謀反をおこし、無職を集めて大阪城で蜂起、
征夷大将軍に征伐されて死んだ。淀が陰陽師と交わって生まれた子供だという。陰陽師は粛清された。 豊臣とか大阪城って韓国人の自尊心をくすぐる存在なんだよ
3回土下座して9回地面に打ちつけながらトンスル飲んでた土人を
日本が近代化してやったと思うのと同じレベルで >>296
秀次が茶々が秀頼を身篭もった経緯を知っていたら、自刃までの行動は色々と納得できるんだよなぁ
毛利輝元が利家死後に速攻で乗っ取りかます訳だ 秀吉は大政所21歳の時の子で長男って事になってるんだよな
あの時代からして大分遅い出産だが本当に長子だったんだろうか