【秀吉・秀長】豊臣氏・羽柴家総合スレ5【秀頼・秀次】
秀吉や秀頼、秀長、大政所や旭など豊臣家と一族やその家臣団
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【秀吉・秀長】豊臣家総合スレ4【秀頼・秀次】
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1498995052/ 清須宗論で弾正忠良信らと判者を務めた左京亮広長
そういや秀吉の姉日秀と加藤清正も日蓮宗だな 1547年9月5日付「義元加判天野景泰手負人数注文写」木下藤蔵、矢手壱ヶ所
1547年9月20日付「天野安芸守宛今川義元感状」被官木下藤三、溝口主計助 (去る5日、三河国田原本宿での合戦)
1552年11月15日「」木下八郎次郎 (鵜殿長持・飯尾乗連らと本興寺〈湖西市鷲津・日蓮宗〉の仏殿を修復)
1555年8月25日付「義元加判飯尾善右衛門尉宛天野虎景披露状写」被官…木下藤二郎矢手、中村兵衛太郎切疵弐ヶ所、片切彦三郎矢手 (去る16日、今井狐橋での合戦)
1568年月日「湖西市古見八幡神社棟札銘」禰宜太郎左衛門尉吉次…郷長木下次郎左衛門尉家次…時ノ大工藤原朝臣杉原九郎衛門尉家長 (南無妙法蓮華経、鎮守正八幡宮奉上葺)
日秀尼、加藤清正、遠江木下氏・杉原氏は日蓮宗か
偶然?
『諸系譜』「太閤母公系」女子〈杉原七郎左衛門家利妻〉 (大政所の姉)
『諸家系図纂』「平氏杉原」家利〈七郎兵衛、自祖父住尾州〉ー家次〈七郎左衛門尉〉ー長房〈弥兵次〉
『諸家系図纂』「平氏杉原」女子〈号朝日、杉原道松妻〉ー家定〈木下肥後守〉・女子〈政所、秀吉室家〉 (朝日は家次妹。姉に〈号七曲、浅野又右衛門妻〉) 堀尾吉晴の伯母は甲斐又太郎の妻
15世紀斯波氏の遠江国守護代だったのが甲斐氏
甲斐氏一族の同国蒲御厨(浜松市)代官に大谷豊前守がいる(1440年)
豊前守ののちに同御厨の代官になったのが石田四郎左衛門義賢(1455年)
木下氏が西遠江に見える
杉原・片切(片桐)・田中・大谷・石田も西遠江に見える 遠江今川が名古屋に入るとき麾下に福島・木下・杉原もいたんだろう
そしてその息子世代が在地の大政所姉妹と結婚したと
尾張入部3世代目の秀吉とおねが結婚したのも必然的なものだったんじゃないか 妄想
関清三郎兼吉が美濃から尾張に移住、子の五郎助兼善は下中村、弥五郎兼員は御器所村に住み、娘は加藤小次郎清信に嫁ぐ
遠江今川氏が名古屋に入り福島・木下・杉原を連れてくる
弥五郎兼員の娘が杉原・木下・福島の息子ら(七郎左衛門家利、弥右衛門、市兵衛正信)、青木勘兵衛一重・加藤弾正左衛門清忠に嫁ぐ
杉原の娘は浅野又右衛門、尾張杉原の息子に嫁ぎ、尾張杉原に家定・おねが生まれる
秀吉とおねが結婚 秀長は子供いなかったんだっけ?もしいたら歴史はだいぶ変わったな 子供ができない傑物より無能な子沢山のほうが遥かにマシなのが世襲政権の滑稽で残酷なところ
政治軍事という人間としての高度な能力より動物的繁殖力のほうが重要なのが皮肉 1513年那古野に新五郎が在城
1533年7月那古野の今川竹王丸(数えの12歳)が勝幡に赴き飛鳥井雅綱に弟子入り、雅綱・山科言継・織田信秀らと蹴鞠を楽しむ
1536年秀吉生まれる
1538年那古野今川氏が織田信秀に城を追われる
1548年おね生まれる
1561年秀吉・おね結婚
秀吉とおねは生まれたときからの許嫁だったんじゃないか
遠江の古見郷周辺にルーツを持つ木下氏の孫息子と杉原氏の孫娘(父は尾張杉原氏の入道道松)
秀吉が25歳まで妻を取らなかったのはおねの成人(初潮)を待っていた、と ついで
義元の弟だ、名越北条だなど見るけど那古野今川氏は小鹿
「又五郎→民部少輔」と「新五郎→右馬助→下野守」の2流あったんじゃないか
1487年に討たれた小鹿範満の仮名が今川新五郎(1466年6月3日付「御内書案」)
1513年『為広駿州下向記』今川一家交名
一、民部少輔 【傍注】子に又五郎、その弟に慶千世
一、下野 【傍注】親は入道
一、那古野の新五郎
二、瀬名源五郎
三、葛山八郎 【傍注】早雲の子
四、関口刑部少輔 【傍注】慶王
五、新野
1533年7月23日条『言継卿記』今川竹王丸【傍注】在名ナコヤ…今川竹王丸【傍注】那古野、十二才
1557年3月2日条『言継卿記』今川那古屋殿 (遠江国で言継の使者の訪問を受ける)
1564年9月28日付「大沢右兵衛佐宛今川氏真感状」小鹿右馬助 (遠州錯乱につき油断なきよう小鹿にも伝るべく)
年未詳11月9日付「法寿寺宛今川氏真判物写」小鹿民部少輔 (河野庄内5貫文の売買を承認) >>540
毛利や徳川の子供の使い方見てるとグチの一つも言いたくなるよな 晩年の秀吉の迷走はキリシタン勢の工作とかもあっただろうし、疑心暗鬼になりすぎてる感じは否めないね >>545
豊臣兄弟ではそんな秀吉は見れないけども
弟秀長亡くなって千利休秀次一族キリスタン弾圧朝鮮出兵だからな、豊臣家滅ぶ要因のほとんどは秀長死後におきる わが伯父、信長公にさんざん世話になった、三河の田舎大名が無礼であろう! 秀長の死が豊臣家の崩壊のターニングポイント
前田利家の死も影響あるだろうな 秀吉の台頭なんか民主党フィーバーみたいなもんで
能力的にも統治システム的にも最初から穴だらけの即席政権だから
ちょっと待ってればすぐ終わる 結局、どんな偉人だろうが
跡取りなしなら台無しなんだよな。
秀吉の妻ねねの家系、木下家は
代々1万石程度の小大名であるが
明治時代まで継続し、現在も子孫がテレビに
出たりする。
子供がいなければ、他どんなに成功しても
最低ランクに堕ちる。 秀次を死に追いやったのが全てだな
秀次って長久手以外は別に落ち度もないのに妙に評価低いよな 最初から穴だらけの即席政権だから
ちょっと待ってればすぐ終わる
結果論でしょ
家康に都合がいいように若い人も同年齢の人も死んでいく
例えば家康と秀長、又は家康と利家の寿命が逆だったとする
まず徳川の天下にはならないよね >>554
秀次一族は豊臣家の力になる可能性もあった
敵の家康に秀頼頼むって泣きついて豊臣家は滅ぶけど >>555
加藤清正の毒殺の噂と同じで
秀長と利家も毒殺の噂はあったタイミング的に >>556
基本的に秀吉が見据えてるのは秀頼の行く末でしょ
豊臣家を考えたときに戦国時代を生き抜いた連中がまだまだ健在なときに幼君を立てるのは自滅を意味してるんだから秀長としては諫言するだろ 正直秀長も秀次と同じ末路になる前に病気で死んだようなもんでどのみち秀吉自身が変わらないと無理じゃないかな 秀吉は軍の大将によく官僚系の人間を据えてるけど、武勇より兵站のほうが大事と思ってる秀吉流ともいえるね 大和中納言秀保の溺死、それを受けて附家老佐渡守高虎が高野山に あんな安定しない室町幕府ですら200年以上続いたのに
10年ってwww 黒田、細川はだから九州に飛ばされたのかな キリシタンだから >>560
前田利家は暗殺って本出たり
千利休と家康の怪しい動きあって秀長暗殺疑われたり
前田利家と秀長も暗殺の可能性否定できないぞ
前田家に家康と通じる者いたり千利休と家康は密会してたり >>563
ただキリシタンを自分の目が届かないしかも海があるところに飛ばすかと考えると 日本史スクープ砲で利休は切腹してない説やってたなあ
おもろかった なぜ打ち切りなのか・・ おもしろかったのに 由来守護大名の支配をなかなか受け付けなかった大和と紀伊を秀長に任せたは妥当な人選であったが、養子は溺死、家老の高虎は高野山に入り、山を下りるようにとの指示がなければそのまま終わっていた 藤堂高虎はころころ負けて朝鮮軍へ勝ち星を進呈しているし
後に家康のポチに成り下がるからそのまま終わっていたほうが豊臣家の為には良かった >>569
巨済島や鳴梁では大きく勝っているし
襲撃されて撃退したのにそれを負け負けと評価するのは偏見 >>566
利休は切腹してない説やってるから打ち切りになったんでしょw まあ寝返りと言っても関ケ原時点ではどっちも豊臣側だからな
豊臣家の為に戦い、将軍様の為に戦ったら、うっかり32万石の
大名になってしまっただけ 藤堂は太閣から見れば陪臣の時機が長かったのだからあまり忠誠心なくても驚くに足りない >>574
でも高虎と黒田は完全に徳川の味方
家康が勝てばどうなるかわからないわけない
加藤清正と福島正則もわかってた 鑑定団に新出文書でたね
1583年閏1月に出された秀吉・長秀・恒興の連署状 小早川秀秋の肖像画なんて明らかに心病んでる顔だもんなあれ
かわいそうにw >>580
死んでから描かれたものだったのか 知らなかった 豊臣秀長亡くなった時点で秀吉の負け
秀次一族殺しと朝鮮出兵を止められる人はいなくなった ストーカーサルうぜえ 必ずみなころす
でないと終わらねえ