【柴田・丹羽】清洲会議について【羽柴・池田】
清洲会議とは、天正十年六月二十七日に開かれた、織田氏の継嗣問題及び領地再分配に関する会議です
この会議についての通説や俗説の虚実やこの会議によるその後の歴史への影響等々色々と考えてみませんか 例えばこの会議で織田宗家は三法師と決まったのに、信孝が三法師を抱え込んでしまったため
それに対抗するため秀吉と長秀が改めて信雄を織田宗家に立てた事なんて近年まで出てこなかった話だし 池田影薄いけど、大坂貰った他、この会議で何やったんだ? 一応信長の準一門級で声だけはでかいつまて感じでしょ 結局秀吉の織田家からの権力簒奪の前段階でしかなかったからなぁ 自分が織田家跡取りに三法師推挙しといて、都合悪くなるとあっさり信雄を織田宗家にしているしね 特に対立も何もなかったシャンシャン会議。シャンシャン会議だったからこそ、合意を最優先するあまり見て見ぬふりをされた
諸問題が会議後爆発した 結局、織田家の領地、重臣連中で勝手に分けあっただけの話だろう 後見人の地位を争っていた信雄も信孝も外して、重臣達の合議で政権を運営していくってことになった筈 安土城修築中三法師を預かる事になった信孝が三法師を手離さないので
丹羽と池田に相談の上、信雄を新たに織田当主にして安土城に迎える。
その後信孝に対する攻勢を強め三法師を手に入れると安土城に迎える
柴田と信孝を滅ぼし、大阪に入った秀吉は信雄と三法師を安土城から移す
大凡だとこんな流れかな 「預かる」ということだけど誰が手に入れる予定だったの? 三法師は何故秀吉に尽くしたんだろ?
徳川に降っておけばいいものを
それとも、あくまで豊臣内部の内輪揉めの範囲内で
秀頼が政権を担うように思えたのか?
或いは三成が勝つと 物心ついたときにはもう秀吉のある程度優遇扱いされてるとは言え、家臣的立場だったろうしね
しかし信雄は阿呆扱いされているけど、こいつの方がよほど無能に感じるんだけど 安土4万石から岐阜13万石に加増し
中納言にまでしてくれた 秀吉以外の3人は、結局豊臣家にろくな目にあっていないんだよね。
柴田勝家 ---- 賤ケ岳で滅亡
丹羽長秀 ---- 死後、息子は大幅減俸
池田恒興 ---- 死語、秀次の正室の娘は秀次事件で刑死。息子も連座し失脚。 この清須会議で家臣として織田家を支えていくことを取り決めたはずなのに
秀吉が実力で織田家を家臣化したことで前例を作っちゃったんだよな
実力があるなら主家を上回って家臣化してもいいと
後年家康が豊臣家を上回る立場になって臣従をせまったのも秀吉がやったことをそのままやったに過ぎない
家康はもともと独立した大名だったのが中央政権になった豊臣家の傘下に入っただけなんだから
その意味では織田家中で引き立てられた秀吉の方が主従の忠不忠の倫理で言えばよほど不忠者