上杉謙信が川中島の戦いで圧倒的だった軍事的理由
上杉謙信が「川中島の戦い」で圧勝できた本当の理由
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181018-00009717-besttimes-cul
>永禄4年(1561)9月10日、
>上杉軍は信州川中島て?武田信玄の軍勢と戦い、圧倒的な戦果を挙げた。
>上級指揮官を多数討ち取ったのだ。
>このとき謙信が使った戦術が「車懸り」である。
>そして、その「車懸り」は近世の「大名行列」との共通点が――。
川中島の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 https://twitter.com/shosengnd/status/1053096368032661504
>[4F]10/19本日19時より開催! 大名行列の起源は<車懸かり>にあった!!
>【『戦う大名行列』(ベスト新書)発売記念 乃至政彦先生トークサイン会】
>強い武将の秘密は「行列」にあった!武士の行列は、
>どのようにして戦闘用となったのか? 当日参加、可能です。
宣伝するけど
今日東京の神保町で『戦う大名行列』書いた人のトークサイン会がある
参加した人は今からでも間に合うそうだ
参加するには書泉でその本買う必要があるみたいで
ハードル高くなってるけど
興味ある人は今からでも本買って参加するのもアリかもよ
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 敗走して逃げ帰ったのに圧倒的とか、知恵遅れの考えることはいつでもこんな間抜けなザマ この人はどちらかというと研究者よりも作家のほうが向いているじゃないだろうか
優れているかどうかは度外視して言うと この研究家の人は在野だからこそ車懸りの真相みたいなプロパーがフォーカスを当てないような題材について取り上げるから好きだわ。
そもそも上杉研究をしてる人は意外と少ないからなー 北信勢の所領回復するという目的も果たせず戦術レベルの損失比で多少勝ってただけというオナニー好きだよね謙信厨ってw
その後も武田が駿河に攻め込み北条と戦ってた時に信濃攻めれば難なく攻略できたのに攻めなかった2流戦略家謙信。
武田の西上作戦の時も信濃攻めれば難なく攻略できたのに攻めなかった2流戦略家謙信。
長篠の時も信濃攻めれば難なく攻略できたのに攻めなかった2流戦略家謙信。
ちなみにこの時まで上杉と織田の関係は良好で信長からも何度も信濃一緒に攻めようと打診されている。にもかかわらず信濃攻めれば難なく攻略できたのに攻めなかった2流戦略家謙信。
それどころか裏で落ち目の武田と手を結んでるのバレて信長大激怒。
後に景勝が信長に和睦してもらおうと必死だったが謙信の不誠実にブチきれていた信長が応じるわけも無くシカトされる。
そして武田が織田に和睦しようとしてるの知ると「ズルイ!和睦てきたら上杉も仲介して」と泣きつく。
何故信長と関係良好だったのに落ち目の、しかも長篠で大敗した武田と手を結んだのか理解に苦しむ。
対北条も戦略目的なんら果たすことなく撤退。
戦略目的果たせなかったけど撤収。でも戦術面では勝ってたんだ!ってオナニー好きだよね謙信厨ってw 星海社新書から上杉謙信の新書が出てるね
これ読んでから書き込んだ方がいい >>13
信玄の本当の狙いは川中島の先にある謙信の拠点だった上越だったと個人的には思ってる 北条が隙を作って上杉が関東に侵攻している隙に
武田は海津城築城に成功して戦略的にすでに武田は勝利していた
両軍、この海津を巡り争っていたが信玄本体が海津に入場した時点で
上杉は城攻めを諦めて威嚇程度退却する。信玄も退却を開始する
両軍、早朝の霧が出ている時を選んでしまった。退却するなら早朝の霧は一番安全だから仕方ないが
そして高坂が1万2千で信玄の退却のために妻女山に向かい上杉軍を動かないように威嚇しに行く
結果、信玄の8000と上杉13000が八幡原で遭遇してしまう。霧のせい両軍はギリギリまで気付かず
鉢合わせになった可能性が大。
つまり、第四次川中島は不慮の遭遇戦で信玄謙信の失策だった。 >>15
あらゆる事が無茶苦茶だなw
上杉の最大の敵は北条だぞ。
それに武田が撤退する理屈は存在しない。 車懸り=行軍隊形のまま攻撃に移るっていうのは、2chの過去スレでも書き込みあったな。 南から北に行軍する上杉勢は東側の海津城に集結している武田勢を警戒するために特に軍の右翼を固めながら行軍=車懸かり ということだと思います
城の枡形虎口もそうだけど、右に折れる枡形では攻め手が右側への槍や弓による攻撃がしにくいようにしてある
敵軍が右翼にいるのは分かっているので、特に右翼の警戒として小隊を順に繰り出してその間を行軍していたのではないかな 引き分け、痛み分けだろ
謙信は攻めきれずに引き上げたのが勝利では無い理由
信玄は1〜3次と同じく前線を下げて台風が去った後にまた信濃まで出れば良かったが判断を間違えて被害を大きくさせたのが勝利では無い理由 そもそも、車懸りの陣、なんて命令して実行できる軍隊
戦国時代にゃ存在しないから...
その時点、無意味すぎる考察。 車がかりって名前はよく聞くけどどんな戦術なんですか? 大八車みたいなヤツに数名の槍衾兵が乗ってチャリオッツみたいに戦うこと 大きなイベントの終わりにタクシーの配車したりお車代を渡したりする係 >>22
槍衾兵ってなんだ?
そんな兵科はないけど 誰も言わないが川中島以降謙信の方が信玄を恐れていたとしか思えない
信玄に箕輪城を取られた時など絶対に援軍を出さなくてはいけないはずなのに見殺し
その後何度も関東への出兵しているが真っ先に手を付けるべきと考えるのが普通の箕輪城には一切手出ししていない >>7
謙信が信長や家康と手を切り、勝頼と和睦したのは越前一向一揆を1575年8月に滅ぼし、北陸進行を進めたからだろう。その2ヶ月前に本願寺顕如から救援要請が謙信の元へきているし。 >>14
実際、1561年7月2日に信玄は越中・加賀一向一揆に対して越府(越後府中=直江津)を攻めるように要請してる。上手くいけば信玄得意の挟撃の可能性もあった。 >>26
いや第五次で武田を攻めようとしたじゃん
武田は応じなかったけど 越後勢は虎御前を護るために戦ったのだ、だから強かった
謙信が負けて捕らえられたらひん剥かれて強制性交されてしまう可能性があるからな 武田信玄の家臣宛て書状を入手 川中島合戦の戦費負担求め 長野
領地拡大のため北信濃に侵攻した甲斐の戦国大名武田信玄(1521〜73年)が家臣の在地領主に
対して宛てた書状を長野県立歴史館が入手した。越後(新潟県)の上杉謙信と争った川中島合戦の
戦費負担を求める内容で、信玄が善光寺平(長野市中心部)での勢力拡大の手法をうかがえる新史料。
同館文献史料課の村石正行課長(50)は「川中島合戦に関わる戦略的な文書はほとんどなく貴重だ」と
指摘する。 書状は1555年7月、第2次川中島合戦(犀川の戦い)の最中に埴科郡清野郷(長野市松代町清野)を
治めていた清野信秀(生年不詳〜1565年)に宛てたもの。これまで存在すら知られておらず、昨夏に
京都の古書店から同館が286万円で購入した。出家して信玄と名乗る前の「晴信」の署名と花押がある。
要所の綱島(長野市青木島町綱島)に近い本陣「大堀館」の整備に必要な費用を信秀に負担させるため、
信秀から所領の帳簿を預かったことに感謝する内容。信秀の領地のうち清野郷や雨宮郷(千曲市雨宮)の
支配を認める一方、これらの土地の収益約4000貫を臨時の税とするが、綱島再興にあたっての
費用負担を評価し、3000貫に減税したことが読み取れる。今回見つかった文書について、
村石課長は「晴信が善光寺平でどのように勢力を広げようとしたか、拠点づくりをしようとしたかが
垣間見える興味深い文書」と分析する。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e76f44862055ca98298c25ef23d7860f82eeb1c0 まあ謙信が信玄にビビっちゃうのは仕方ない
元々担がれての棟梁で勝ち続けないと訴求力なくなっちゃうしな https://president.jp/articles/-/55289?page=1
「川中島の戦いは武田信玄の勝利と解釈するべき」日本史の常識を覆す"合戦の勝敗"の見極め方 バカしかいないと言われる上杉オタとは言え何だこのスレ
クズだとここまで間抜けな事が出来るという見本w >>7
謙信は野戦は強いけど攻城戦は並みの印象
信濃は武田がほとんど領有していて重要な城は丸馬出とかあって手痛い反撃食らい攻めあぐねて農繁期になるか雪が積もる前に帰るというパターンで結局攻略はできなかったと思う