もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら
第二次戦国時代は防げたか
九州のキリスト教の内乱は防げたか
中国大陸の三国時代は防げたか
それを語るスレです 小早川秀秋が60で死んだときのエピソードがすごい。戦では出陣しても全く戦わずに加増だけ受け取ってたそうだ
一説によると小早川秀秋は戦を宴会だと勘違いしていて飲み呆けてただけだったそうだが
関白となったのとにも大坂城でも内治をせずに遊んでただけ、こいつが働いてれば第二次戦国時代は無かった説がある 石田三成が実権を握るためにわざわざ秀頼より秀秋を傀儡に据えてたんだよ
秀秋はそう何もしなかったからね、秀頼は不満たらたらで太閤の実子をということを根拠に挙兵して内乱が始まる
これが第二次戦国時代の始まり 1、2、3を書いたのが同一人物というのは流石に寒い 江戸夏の陣で秀秋が味方が崩れそうなときも動かなかったせいで敵方は崩せず勝った
当然誰一人として動いてなかったが 西軍が勝っただろどこの妄想野郎だ
秀秋と秀頼の関係が悪化したのは江戸の陣の後あたりだな
秀頼の部隊は蹴散らされて秀秋の部隊は傷付かずの始末 初代:ジャンク収集人コバ(のらくら)の自慰スレ
二代目:初代の流れを否定するが菅沼遼太の暴走で1日600レスとかいう埋めで潰れる
三代目:秀秋の評価爆上げで子飼い大名が誕生
四代目:瞬殺
五代目←イマココ
また瞬殺かね 九州では遠い欧州の影響でカトリックとプロテスタントが暴れてたんだよね
最初はカトリック有利だったけど、徐々にプロテスタント有利になっていった 豊臣がわりかし早いこと退場して日本初の「権威なき戦乱時代」に突入したからな
天皇も政治的な役職を放棄して仏教界との結びつきばかり強めて行った結果虐殺がオンパレードの時代だった 秀頼側(東軍)
上杉、小野寺、南部、伊達、北条、大野、前田
秀秋側(西軍)
石田、増田、長宗我部、大友、島津、小西、毛利
これで毛利と上杉の代理戦争が決定したようなもん 毛利はすぐ滅んで上杉は東国世界に固執するんだよな、関東管領の威光とかで
再び東国世界に秩序を作りたかったぽい 毛利は小早川家と吉川家に分裂した
上杉家は伊達との構想に忙しくなかなか上洛できずじまい 上杉は景勝死後、上田と三条で分裂して分家にされてる。
越後系統が、長尾家に戻り、三条系統が関東の上杉を継いでる。
石田と毛利の弱体化の策だとか。
秀秋はこの時、なんもしてないどころか越後で舟遊びしてただけ。
秀頼は、関東で分裂した後の指示を行ってたみたいで、
上杉を粗相にしないと、どちらか取り潰す計画があったのを阻止してる。
権限がなかったため、行動には制限あったけど、
上杉が東軍に付いたのはこの時の行動も有る。
遊んでただけの秀秋は長尾政景みたいに転落して死ねばよかったと秀頼ファンは主張してる 伊達が奥州探題に復帰した過程
関ヶ原西軍勝利
↓
政宗、東軍方の南部を攻める
↓
直江、最上を併合後、伊達領に進出
↓
伊達家、逃げてきた最上親子のクビを切って直江に和睦を求める
↓
景勝軍、関東へ、無視して直江軍伊達領へ
↓
上杉家の勢力が肥大化することを危惧した毛利家、伊達と上杉家の和睦を斡旋
↓
直江、渋々受諾(毛利との遺恨が残る)
↓
直江、そのまま越後に侵攻、伊達、関東に上杉軍の先鋒として出陣
↓
徳川が早期に降伏したため上杉家、下野、上野しか切り取れず
↓
徳川家、結城系統のみ温情で残り、残りは全員切腹
↓
戦後
論功行賞で上杉家、越後、下野、上野が加算されるが
奥州の領土は伊達にある程度分けられる
↓
当然毛利と、上杉の間に遺恨が残る ちなみに徳川は武蔵、相模、伊豆の100万石で残った 戦後の論功行賞
石田 九州52万石、畿内50万石
毛利、 備前、加増
宇喜多 播磨、丹波 加増
上杉、下野、越後 加増
長宗我部 伊予 加増
織田 美濃、尾張、飛騨
徳川 伊豆、相模、武蔵
黒田 八丈島へ島流し
福島 切腹
加藤 切腹
池田 断絶(ほぼ皆殺し) 石田なんか30万石で充分だろアホか
あいつ西軍の総大将でも首謀者でも何でもないぞ
石田が100万石を得たのはその後の追討戦で徳川家康を生け捕りにしたからだよ
あと親毛利と思われていたため、毛利家がgoサインを出した
上杉は割を食って越後と下野だけだった だから上杉家は「火事場泥棒」みたいな印象を受けて大坂会議で
ろくに領土を認められなかった、佐竹に至っては旧南部領に飛ばされてる 大河ドラマ、大谷吉継の最終回
藤堂高虎を打ち破って東軍に楔を打ったところで倒れて
石田三成に看取られて陣没したシーンで泣いた >>22
大谷吉継は手勢1000で藤堂高虎と井伊直政を裏切らせて
家康を撃ち破る要因を作り上げたのがいいよね
あそこで死んで良かったのは後年の豊臣家の運命を見たら分かる通り >>24
大谷さん長生きしてたら司馬孚並に嫌なものを見続ける欝な晩年になっただろうなぁ
鯉沼の乱の一部始終見てたら、なんで井伊なんて助けたんだろうって舌を噛み切りそう >>25
大谷吉継の子孫は乱の時、珍しく西軍にしては豊臣家に忠誠を誓ってたんだよね
西軍のほとんどは毛利与党だったのに
おかげで早めに滅びたのは仕方がないことか。 ナイナイ。徳川のクソ狸なんてあからさまな偽源氏だよ
どうやって征夷大将軍になんのよ
賊軍に付いてた奴らだって豊臣恩顧は多いんだから、家康ごときがそこまで調子に乗れるもんかね 徳川秀康が江戸の陣で倒れた後、露骨に秀頼は権力拡大に走っているのが感慨深いな。
上杉と毛利でパワーバランスを保つ政権だったのにそれで崩れたようだね
鯉沼の乱なんてもろそうだし 徳川潰した後はろくに論功行賞で分け与えられるような土地が残ってなかったのが痛い
具体的には地質UNKな江戸とか
だから石田長束が圧力で大名を抑えつけるしかなかったし秀頼もその路線を継続して中央集権+大名権限剥奪に走った
江戸仕置の時にもっと大名(特に前田毛利)の勢力が削げるような激闘に発展すればよかったとつくづく思う
そうなりゃ「自ら先陣切って敗走したバカ大将が」って秀頼に対して面従腹背する輩が多少減っただろ 秀頼は江戸の陣後に鎌倉に鎌倉府勝手に作ってるからね
名目上は東国の治安維持だけど上杉や伊達との連絡も密にしてたし
奉行衆がやってたことも鎌倉府に権力を集中させて明らかに打倒秀秋の行動をとってる
大名は鯉沼の乱で豊臣家の乱を利用した自立を図ってたわけで豊臣政権を支えようとする大名は
皮肉なことに秀次事件で処罰された前野や浅野くらいしかいなかったのがきつかったかな豊臣家にとっては
まあ秀秋が関白継いで大阪で遊び呆けてる時点でどうしようもならなかったと思うけど 呂不韋がいない始皇帝という秀頼評は結構合ってるからな
江戸の陣から猜疑心と行動力だけが先走って、朝廷から外交権すら剥奪して独裁政権築こうとしてるし
粛清のせいで優秀な補佐が不在になり自滅したのも秦の末路と重なる
とはいえ上杉が趙高も真っ青な秀頼悪用劇を見せ付けたからこそ提唱された説なんだけども まあ秀頼は限りなく怪しいとはいえ、秀吉の実子だったわけだからね
決起したら諸侯が付くだろうと思ってたら、毛利ら西側の大半が秀秋に付くとは思ってなかっただろうから
石田三成は当初、秀頼と秀秋の調停に走ってるけど、結局乱が起きてからは奉行衆の大半は西軍についたのは未だに研究課題、
増田は東軍だったけど >>31
鯉沼の乱は軍縮の時流だったのに白札なんて制度作ってエセ武士増やしたのが悪い
財政難の解消と私兵の増加には一役買ったが、あれから頭赤鬼なヒャッハーが溢れ返った
>>35
武田が信虎追い出した時と一緒さね
担ぎやすい神輿の秀秋のほうが利用できると踏まれて秀秋側に付くのが多かった
上杉はもちろん伊達前田も秀頼をラジコンにできるくらいズブズブだったから付いただけ 国内グチャグチャなのに外国相手にドンパチやらかした島津・・・
オランダやイギリス海軍相手に倍以上のキルレシオ叩き出すとかキチ過ぎる 最強と自称する薩摩隼人
三河武士と対戦したら戦慄
九州と朝鮮でしか通用しなかった
九州征伐の折豊臣秀吉麾下の堀秀政に弱すぎと言われた薩摩隼人…
イキリの直江兼続
空気読めない石田三成
西軍が東軍に勝ってる所が見当たらない
なんでこんな無謀な戦いを起こしたのか謎すぎる
勝てるかも?と思ったんだろうが…どこで勝てると思ったのか
詳しい人教えて 戦わざるを得なくなって防衛本能が働いただけ
井伊と黒田の裏切りがなければ秀忠ら遅参組が合戦に加わって敗北したかもって言われてるからな
数年後だったら徳川が内部を腐らせてきてただろうし、よくあそこで合戦に踏み切ったと思う まあ、250万石の大大名が露骨に脅しかけてきたら警戒するよね
マジメに豊臣に尽くしていれば人望が傾いただろうに、強硬策が見事に裏目に出た >>38
イーガ団かな?
三河組は井伊への寵愛や石川流出で、本領発揮できなかったとはいえ
小早川の進軍で瓦解したのはねぇ・・・
関が原じゃ影武者戦術で遅延行為してた印象しかないわ
江戸の頃だって、結局は武田とか加藤の残党が主力だったし
小牧で見せた精強さがここまで錆びるのかと痛感した 島津は、スペインと同盟してたんだけどね
小西はイギリスと同盟という代理戦争ぶりだよ スペインは伊達から国家主権を密かに買い取ってたりと手広いな
開国前のロシアといい海外で負けてる国に限って日本に影響与えてるのが何とも言えない
徳川だったら朝廷の持ち物である外交権を縛るなんて発想出なかっただろうな
海外の自由化の時流や産業革命から蚊帳の外になりそうだ
んで結局抜け駆けして外交してた大名に出し抜かれて潰されると オランダ相手にキルレシオ2倍叩き出した戦いもスペインの主力艦隊がわざわざ来てたからね
勝利を祝って島津の姫が神輿入れしたらしい、今のスペイン王室にも島津の血が流れてる、この前テレビでやってた >>44
国民党フランコを叩き潰したハイメ二世の特番か
フランコの支援していたイギリス(フランスもだが)は二度も島津に敗れるという皮肉 徳川ってキチ系キリシタン細川とか味方に付いてるんだよな
仮に関が原で勝ったとしたら朝廷に働きかけてキリスト教宣教を許したりとかしそうだ
大阪湾に進入した軍艦から艦砲射撃なんてされたらたまったもんじゃないわ それ言うたら、西軍も小西だとか立花だとか大友だとかいるんだけどね
そいつら江戸の陣でも凄まじい活躍してるし むしろ今時そこまでsageにこだわる人久しぶりに見たかも >>47
立花なんて江戸で秀頼を敗走させた信之隊を迎撃して被害抑えたからな
これで攻めが緩いとか難癖付けるんだから、秀秋支持になってくださいと言ってるようなもんだった 秀頼は生涯苦労知らずのボンボンだからね
誰かに感謝したエピソードとかあったっけ?
自分のわがままを引っ込めたのだって古田織部の茶器砕きの逸話ぐらいじゃないか? >>51
強いて挙げるなら南部かと
偽九戸を正式な遺児と認定して、伊達と松前の間に九戸の緩衝地帯を作ってくれたからね
(実際は分割された長尾上杉と東北三雄を融和させるための方策だったけども)
本物櫛引を連れてこられた後ボコボコにされた?それは自業自得 sage進行か
南部は名前通り日本の南部に逃げさせてもらっただけ幸せかな
普通ならあのまま擂り潰されてる
東軍勝ってても南部はたいして加増されなかっただろうな
最上伊達に囲まれてどの道動けなかったし >>39
ぶっちゃけ上田にあんな戦力削いだのが戦略ミスだよね
おかげで本多が少ない手勢で戦わざるを得なくなったり、必要以上に背後を気にして福島ら先鋒組への無援護に繋がった
鯉沼とかの時もそうだけど、これ以降の野戦は出鼻挫かれて短期で壊滅するケースが多過い >>54
真田の動員兵数を考えると4万で包囲なんて馬鹿げてる
いくら挟撃怖いからって臆病過ぎ
秀吉の小田原包囲で餓死病死が横行したことを忘れてたんだろうか
しかもあの時と違って外部からの攻撃のおそれもあったのに 仮に上田に戦力削がないとしたら、家康の手勢は約13万
クソボケ秀信あたりは篭城どころかビビって鞍替えするかもしれないな
安国寺のせいで不和が起こってる毛利も怪しいが、さすがに西軍奥深くで同士討ちを始める度胸はないだろう
あとは上杉真田が合流可能になるのがどう影響をおよぼすかだな
手薄になった関東襲撃すれば御の字なのに堀にちょっかいかけそうで怖い >>56
安国寺のせいで不和が起こってるは見当違いやろ
小早川隆景死後の所領巡って輝元・秀元・広家の関係がこじれ始めて
奉行や徳川の介入招いて宇喜多程ではないが家中の統制は上手くいってない 小早川や直江の取り立て、蒲生の領地削りといった分断工作は秀吉が一番見事だよね
秀頼や関白畠山氏も真似をしたけど、すぐしっぺ返し喰らったり逆効果になったりしてる 250万石て言うても結城秀康10万石や井伊直政10万石コミコミの石高だからなあ
豊臣222万石は石田も大谷も小西も別枠 いくら家康が閉鎖的な田舎者だといっても、徳川家程度の力で鎖国は無理でしょ
関ヶ原で勝つには徳川以外の大名の力に頼らないといけないのに、その彼らから貿易の利益を取り上げるなんてできないよ徳川が貿易をしない=鎖国というならやるかもしれんけど 秀吉の扱いが近年妙に悪い
秀次を切腹させ秀秋、秀頼の二重権威を作り上げた鯉沼の乱の遠因を招いてるだとか
刀狩をやったせいでむしろ旧式の武器が廃れて新式の武器だらけになり虐殺が横行しただとか 中世日本の特徴である荘園制
各権門間の重層的土地権益構造
さらに農民階層でも土地権利義務の重層構造に終止符をうったのが
太閤秀吉
豊臣政権以前と以後で
日本は中世と近世に区分される それを秀秋と秀頼が内乱始めたものだからカオスになり、中世どころか室町初期くらいのような
惣村乱立状態になってしまった わざと大大名を作らないために惣村自治を強化したって説はある 武田信秋が中国地方160万石領有したのは第二次戦国時代の特筆するべき出来事 関ケ原って映画見たんだけど
家康が「正信!勝ったぞ」という場面が哀れだった
決着してから攻めかかるなんて吉川さんもえげつないよね