織田信長の人物像・人間像について考える
織田信長像というものは、明治以後も現代に至るまで、例えば神国である日本における、桶狭間の戦いのような奇跡的な勝利を挙げる軍人のモチーフとして現れたり、慣例にとらわれずに合理的な手段で改革を進める型破りな組織のリーダーや経営者の姿として、 時に応じて、断続的なものではないものの、断片的に日本人の精神の中にその姿を見せる存在となっています。 織田信長の人物像・人間像すなわち織田信長像についてみなさんで考えていきましょう。 それ言うなら最近の武田信玄は完全にあの鎧姿。上杉謙信はGacktになってしまっている。 >>75 いくらなんでも頭悪すぎるだろ ゲーム発売以前からどれだけの役者が燃え上がるようなルックスの信長を演じてきたと思ってんだ 現代のイラストは全部その影響だ ゲームとアニメの世界しか知らないオタクが分かった風なことを言うな 「であるか」の口調も もとは信長公記の道三との会見だろうけど 信長キャラの口癖みたいにつかわれるようになったのは大河なんかの影響か というか、最近信長の評価が落ちすぎと違う? 武田信玄や上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康は相変わらずだけど。 信長に最近は斬新性がない、保守的、縁故重視の人材登用と信長に何か恨みでもあるのかみたいな評価されてるけど。 鉄甲船の開発。 西洋人が見て驚いた安土城の建設。 滝川、明智、木下と何処の馬の骨かわからんのを登用した事実。 楽市楽座の拡大。 長篠での前例のない殲滅戦。 これらが無視されていると思うんだが。 >>83 鉄甲船は鈍足だから遠征ましてや外征に使えるシロモノでは無かった欠陥品 楽市楽座は親父のモノマネ 滝川はともかく秀吉はそこそこの家の出だった説が濃厚なので、であれば濃尾優遇の一環だったのかも 光秀の土岐氏だったのであれば織田の主君筋にあたる由緒正しい家柄になる 殲滅戦自体は浅井朝倉や長島一向宗相手にもやってるね >>84 土岐氏が織田の主筋? 織田の主筋は斯波だが。 楽市楽座はモノマネだけど、それを拡大拡張したのは信長。 鉄甲船は当時最強の毛利水軍を破るためのものだから、遠征に使う必要はない。 信長の功績を否定したい訳じゃないんだけど新しいことを始めた革新者というより既にあるものを上手く使う才能に優れていたと思う 秀吉がそこそこの家出身って武功夜話に書かれたような与太話だろ >>85 土岐って元々は尾張、美濃、伊勢の守護代じゃなかった? 足利義教に習って比叡山焼き討ちするような信長だから過去の歴史は重視してたと思うんだ >>87 元々は今川配下で足軽やってたという 足軽大将が侍大将になり、やがてひとかどの武将になるってのはまぁまぁある話かと 有能なやつに権限渡せる度胸はすごいけどね >>82 秀吉の大河ドラマで渡哲也がやたら連呼してた印象 >>89 正確には今川のそのまた家臣の奉公人 それだけじゃそこそこの家の出という証拠にはならんと思うが 革新的とかは置いといて 魔王キャラじゃなくて意外に優しい、甘いところも多いというのが近年の評価になってない? 最初に信長はイメージより厳しくないと言い出したのは永井路子あたりかも 失敗には寛容だよね 秀吉はすぐ手打ちにするけど信長は次頑張れで許しちゃう 謀叛も鎮圧までは苛烈だけど処分は甘い感じ 武田の残党を勝手に処分したのは信忠だし 本願寺顕如、足利義昭、荒木村重なんかも結局生き延びてる 俺が信長だったら弟とか松永は真っ先に処分してるな 昔は『秀吉の数々の逸話は全部嘘だが信長の伝説的な話は全て本当らしい』 と得意満面に主張する奴がいた 現実には 大嘘の三段打ちに始まって、眉唾の鉄工船、平安時代(多分もっと前)から 戦場では弓が主力なのに見かけ倒しの長槍をさも革新的であるかのように扱う 平安時代から起きている寺社の焼き討ちを神仏を恐れぬ合理主義者と印象操作 その過程で秀吉始め部下たちは天罰に恐れおののく原始人扱い その他パクり政策をオリジナルだと印象操作 信長は何一つ悪くないが信者が持ち上げ過ぎて実像の姿とかけ離れてるね 信長の伝説は全て真実だと言ってた連中は引き下がれないのではないかな この手の連中にとっては本当の事より自分の面子の方が大事だろうから 三段打ちは実際にあった戦術だと判明したけど、信長オリジナルかどうかまでは不明だな 秀吉&秀長は妙に字が上手かったりするから、底辺の農民説を疑う人が出てくるのも無理ないと思う 三段撃ちなんて普通に雑賀がやってたから新しくもない 信長の場合、坂本龍馬と同じで過大評価しすぎて、一度落ち着いて再評価しようって流れでしょう 秀吉の書状はめちゃくちゃな当て字が多い それでいかに無学な成り上がりものだったかがわかるって 高校の先生が言ってたなあ >>96 無学なのでどれが「事実」かはわかりかねますが、 最終行内容はすげええ判る。想像つく。 確か日本では他人のまわし・・・ ああダメだ思い出せない。 桶狭間の圧倒的戦力差っつー話も実は怪しいんやろ 最近は今川義元最強説や浅井長政豪傑説をよう見るで 当時の京でもやらないような牛車や御輿に乗ってる勘違い公家モドきの太ってキモいおっさんと優柔不断でお家を滅ぼした典型的ボンボン 素直に考えたらこんなもんやろ このへんも信長さんの凄さを際立たせるために盛ってるんちゃうの 上総守とか名乗っちゃうからおそらく信長は官位への教養が低かったと思う 北野武の映画を見れば想像つく。 目が座ってる奴は怖い。 >>57 信長は正義漢だし。 しかも陣頭で自ら戦を指導。しかも その判断も優れていることが多い。(ヘマはあるが。) 声はよく通る響く声だし、武芸は鍛錬しているし、 仕事人間だし、まさに当時の英雄。 死後最も早く描かれた肖像画だと信長はいびつな形の頭で長い顔で左頬っぺたにほくろがあったな。なんか怖いって言うより気だるそうなオッサンだった 織田信長の家臣団―派閥と人間関係って本に書いてあったけど、母親に嫌われてたって話も根拠となる資料がないって 書いてあったけど、なぜ、嫌われてたってことに今日までなってるの? 信長の若い頃ってざんばら髪を纏めたでかい丁髷生やした髪型 してる事多いけど事、そういう髪型してたって記述はあるの? >>114 信長公記の首巻 「御髪はちやせんに、くれなゐ糸、もゑぎ糸にて巻き立て」と描かれてる 自らの名声の為に通説を捻じ曲げてまで新説を主張すればいいという今の歴史学会のスタンスでは永遠に事実などわからないだろう。 それで今一番迷惑しているのが織田信長である。 中身の伴わない新説なんてプロパーには相手にされないから名声なんて得られないし、むしろトンデモ説を唱える輩として腫れ物扱いされるだろうな 故人が迷惑しているとか、>>116 は信長と話ができると称して同人漫画を描いていた人か 関係ないスレで信長が評価されたのは平成に入ってから 大河だって信長主役は後からだと主張してる人がいたが ドラマにする場合、信長は秀吉と被っちゃうからな 近年は秀吉の評価が下がってきたから信長メインが増えてる可能性はあるな 残忍な革命児信長像は山岡荘八が作っただとかイワン雷帝をモデルに日本陸軍が作っただの聞くなぁ >>119 しまいにはスレも立ててたけど、あそこまで自説を絶対視してるのもどうかと思う 信長が確実に呼んだと言える和歌ってある?信長記には載ってるようだけどまぁあれじゃん 封建的な人物だと言うことが最近の研究でわかってきているんだって 吉川英治や司馬遼太郎の影響で、秀吉からみた暴君信長像が昭和の大衆の原像だったと いうことがおおきいんじゃないか。「サル!」だの「イヌ!」だの暴言はいて、気分次第で上級 武将を殴り飛ばしたり粛清したり。平成ころから信長像を問い直すような小説が出始めて流れが 変ったようにおもう。個人的には津本陽の「下天は夢か」が面白くて、個人的な信長像が大きく かわるきっかけになったわ。 下天は夢かって武功夜話が元ネタだし有名所の戦国時代小説の中じゃ一番あかんやつだろ 間違った知識を世間に振り撒いたという点では司馬遼太郎とかよりもタチが悪い 信長公記読むと猿だの金柑だの全く言ってないんだよな まあ太田牛一が聞かなかったか省いたかした可能性もあるけど そもそも太田牛一って途中からは丹羽長秀付きで信長の側にはいなかったんでないの? さらにいうなら、まことは、「豚」に反応しているのだろうか 牛一さんは秀吉に仕えたからね、ご主人様の悪いことは言えん ましてや秀吉は光秀関連の資料をみんな破棄させたというじゃない >>131 では側室に鍋だのひょうし、たこ、とか台所にある名前つけたって言うのも嘘? お鍋さんはいますよね。 >>103 不意打ち食らって死んだのは今川義元も織田信長も同じ。 まあ信長は首だけは敵に渡さず切腹したらしいが。 藤吉郎が草履を差し出した。履いてみたら温かかった。その理由(わけ)を次の中から選べい! なお正解者は家臣に取り立てる。 Ⓐ藤吉郎の心がこもっていたから。 Ⓑ藤吉郎が尻に敷いていたから。 豪商加藤図書とか土豪横井時延とか取り込んで、とにかくカネ儲けに長けてる奴を重用してたイメージ。 実は戦争っていうものが大嫌いだから天下統一したかったんだろうなあって思う 戦争をなくすために戦争をするしかない矛盾を生きた人 信長、秀吉、家康はサンカの出身だという説があるけど、 ココの人たちはそれどう思う? >>1 桶狭間の戦いは別に奇跡ではなくで信長の代表的な奇襲戦なんだけどな 牛一の信長記見てわかるように太田牛一も信長の作戦知らされていないし 清州城の家臣は全く信用されていないのな 間者による情報漏洩を恐れての行動で長篠の戦でも信長が同じような行動をとり酒井に奇襲させるのな 桶狭間の戦いも信長が信頼していた武将のみに知らせていた奇襲作戦 桶狭間が奇襲ていうのはとっくに 否定されてんじゃなかったっけ >>149 それは信長記によってだけどよく読むと太田牛一自身が信長の真意をわかっていないからな ただついていっただけで何がそこで計画されて行われたかは書かれていない 安倍「プーチンは言ってみれば戦国時代の武将みたいなもの。たとえば織田信長に人権を守れと言っても全然通用しない」 [デデンネ★] https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1650610796/ 信長公記に若き日の信長の鷹狩りの様子が描かれているが @「鳥見の衆」と呼ばれる斥候を各地に先行させ、どこにどんな鳥がいるか調べて 獲物を見張り、1名は報告に戻る A 鐙にわらを巻き付けた「馬乗り」が、鳥のまわりをゆっくりと乗り回しながら 徐々に獲物に近づく B 馬乗りの陰に隠れていた信長と鷹匠が飛び出して鷹を放つ C 獲物の周りで百姓に扮して田を耕していた「向待ち」が鷹が組み付いた鳥を押さえる 獲物の情報を得たうえで、獲物には自分の存在を悟らせないまま虚をついて仕留める。 ここまで読むと信長は桶狭間で義元相手にこれをやったのだと気づく。 よって桶狭間の戦いは、基本奇襲であったと自分は考える。 >>153 それが正解だと思うね 従来型の桶狭間奇襲が正しいね 信長は用心深い性格だし桶狭間の戦いでも清州城の家臣には何一つ真実を語っていないし 織田軍2000が義元本体5000を攻撃したのが桶狭間の戦い。 兵数2000で奇襲は無理。ぜったいに気づかれる。 実際は雹が混ざるほどの激しい豪雨が降ったので 2000の兵が今川方に気づかれることなく義元本体に接近できただけ。 つまり、桶狭間の戦いは狙った奇襲攻撃が成功したのではなく 豪雨のせいで奇跡的に勝てただけなのだ。 雨が降らなければ信長は殺されていただろう。 >>155 偶然の嵐が信長の勝利に寄与したという点は同意。 信長公記では信長が(義元本陣の)山際に近づいたところで豪雨になったとある。 これは義元が「豪雨の前も」織田勢の接近に気づいていなかったことを示している。 そしてこれが信長が企図した結果だということは、全体の記述から明らかだろう。 つまりは奇襲だったということである。 豪雨の雲(ゲリラ)って俺の地方だとに来る方向ってパターン化してた 南西から此方へ黒い雲が雨を降らせながら向かってくるのが屋上から見える 商業施設の設備やってたから浸水を防ぐ土嚢や排水道具とかの準備してた まだガラケーでネット黎明期の頃 尾張の国はわからないが、少なくとも地元民経験値で遠くに見えるゲリラ豪雨雲の移動予測は出来たのではないかと思う 信長なら義元の本陣とゲリラ豪雨雲の当たるタイミングは計算していたかもしれない >>156 そもそも、信長公記で言うなら、信長は自身達が戦おうとしてる軍勢を、 大高城に兵糧を運んで、丸根鷲津で戦って疲れてる今川の前衛部隊だと解釈してた、っていう話になると思う。 信長公記をそのまんま解釈するなら、そうなると思う。 >山際 これも義元本陣に近い所まで言ってたのか、もっと遠くの距離での山際だったのか、微妙に思うし、義元本陣が気が付いていなかったかも不明瞭としか。 少なくとも、信長公記を読むなら、の話だと。 >>157 さすがに、信長公記でさえ、予想外の豪雨だったように書いているように思われるし、織田勢の反応もそんな感じに思えるので、そんな事はないように思う。 >>158 信長の「今川の武者どもは(略)鷲津・丸根に手を焼いて」云々というセリフは、 すがりついて止める家来に対し、「敵は疲れているから恐れず進め」という 鼓舞として言ったのであって、自身が戦おうとしている軍勢を これらの前線部隊であると解釈していた、と考えるのは無理がある。 なぜなら信長は先ほどの鼓舞のなかで @前日の夜に糧食をとり A夜通し大高へ兵糧を運び B鷲津・丸根に手を焼いて披露しきっている と前線部隊(松平元康隊)の行動を完全に把握しているからである。 このような信長が中島砦から桶狭間方面に移動するに際し その方面の敵を両砦を攻略した前線部隊であると思った、というのは あり得ないことと考える。 (普通に考えて信長でなくても間違わないとは思うが。。) >山際 信長公記の桶狭間合戦に関する記述の中で、山というのはおけはざま山しかでてこない。 このような文章で山とだけ書かれている場合、前述の山を指すのが一般的と思う。 また豪雨が過ぎた直後に信長が今川勢に攻めかかっていることから その山に今川勢が布陣していたことが分かる。 この一致から織田勢が近づいたのはおけはざま山の山際である可能性が大きい。 さて織田勢に攻めかかられた今川勢は算を乱して崩れたとある。 これが攻撃を予知していない部隊の反応であることは言うまでもない。 その際義元の塗輿も打ち捨てて逃げたとのことなので、その部隊は義元の輿を担ぐ人達の 所属する部隊(義元本隊)ということになる。 (しかしながらその後信長が「義元の旗本はあれだ、あれにかかれ」と下知していることから 義元の旗本とは遠目にそれと分かる程度の距離があった) 桶狭間奇襲説の否定は信長公記の解釈によるとのことだが 信長公記に基づきやはり奇襲であったと自分は考える。 >>159 君がそんな事を書いたって、 逆に信長がその時点で、桶狭間山にいる軍勢を、義元本陣だと認識していた、 という論拠自体が無いと思うんだけど。 少なくとも、信長公記を読むなら、その時点で信長が義元本陣の位置を知っていたと思しき記述はどこにもない様に思うし、 義元本陣の状況を知る情報を得ていた形跡もないように思う。 そんなの、敵軍勢の前衛部隊が行う当たり前の事だと思うけど。 信長には、信長公記を読むと、敵が大高城に兵糧を運んだ事、 その後で織田側の丸根、鷲津の砦を攻撃した事、は報告が入っているように思われるし、 その後で救援に向かう信長は、信長公記だと、丸根、鷲津が攻略されたと思しき煙を確認してるように思われるので、 今川勢のここまでの動向は普通に信長は把握してると思う。 問題は、この後の今川勢の動向で、今川勢前衛の松平勢が、信長公記を読むと、 丸根、鷲津が攻略された後で、後方の大高城に戻って休息している事を、 信長がその当時に知れた形跡がないと思われる事。 上記のように、信長は丸根、鷲津の砦が攻略された事さえ、少なくとも、信長公記を読むと、 直接的な情報ではなく、救援に向かって移動中に、それ(丸根、鷲津が攻略された事)を示すと思われる前線からの煙で確認してるように思うので、 この後の今川勢前衛の動向を、信長が知れたと思われる記述は、少なくとも信長公記にはないように思う。 つまり、信長公記を読むと、信長が桶狭間山の軍勢に向かって移動しようとした時に、 義元本陣や今川軍前衛の動向を示す情報を得ていた形跡は、少なくとも僕にはないように思える。 この状況で、信長としては、前線に来ている自身達にほど近い位置にいる、今川のまとまった軍勢を、 順当に今川軍の前衛だと思うのは、極めて自然なように思うけど、どうなの。 >>160 山といったって、結構範囲が広いと思うので、豪雨が来た時に、信長が近づいていたのが、 義元本陣の近くだったかは、まだ疑問の余地があると思う。 言ってみれば、桶狭間山の、義元本陣が布陣していた場所から結構距離のある山際に来た時に、 豪雨が来て、信長公記を読むと、その雨は今川勢にとっては正面から当たる雨で、 桶狭間山の方に向かう織田勢にとっては後ろに当たる通り雨だったように思うので、 そのまま今川勢が前線の状況を把握しにくくなってる状況で、織田勢は義元本陣近くまで移動し、 織田側にはその通り雨が行き過ぎて、今川勢にはまだ当たっていると思われる状況で攻撃した、 っていう解釈も可能だと思う。 上記に書いたように、信長公記を読むと、その豪雨の通り雨は、桶狭間山の方に向かう織田側にとっては背中に当たり、 今川勢にとっては正面から当たる向きの雨だったように思う。 なので、今川勢にとっては正面から当たる向きでいきなり豪雨が、しかも信長公記を読むと、 雨の勢いでそれなりのサイズと思しき木が倒されてるように思うので、 そんなのが正面から当たってきたら、前線の把握どころじゃない状況になっておかしくないと思う。 それで、そうやって今川勢が混乱してる所に、上記のように信長公記を読むと、 今川勢と違って、通り雨が背中に当たる向きで、しかも通り雨が今川勢より先に移動しきって落ち着いた織田勢が攻撃を仕掛けてきたなら、 今川勢は文字通り戦闘どころじゃなくなって、逃げ出すのが普通だと思う。 信長は、信長公記を読むと、今川勢が混乱して敗走した事で、義元の塗輿が捨てられたと思しき描写の後で、 義元の直属部隊について言及してるように思う。 なので、この時点まで信長が自身達が戦っている部隊が、 今川勢の本陣であるかを知っていたのか、疑問に思う。 >>161 にあるような感じで、 少なくとも、信長公記を読むと、信長が桶狭間山に向かって移動しようとするまでにおいて、 信長が義元本陣の場所がどこなのか、を知れるだけの情報を得ている形跡はない様に僕は思う。 呉座勇一の新書が信長などの武将の神格化・人気に至るまでの過程を書いたものだった。 >>161 >逆に信長がその時点で、桶狭間山にいる軍勢を、義元本陣だと認識していた、 >という論拠自体が無いと思うんだけど 信長が善照寺砦に入った際の記述 「軍兵を立て直し、軍勢をそろえられ戦況をご判断なさる。 敵の今川義元は四万五千人の兵を率い、いま桶狭間山で人馬に休憩を与えているところであった」 善照寺砦で報告を受けたことが分かる。 >>164 それは厳しいと思う。 >善照寺砦で報告を受けた 仮にこんな事になってたなら、その後の信長公記にある記述と矛盾してしまうと思う。 なぜなら、信長公記において、信長が桶狭間山の敵に向かおうとした時に、 家臣達が引き留めて、それに対して、信長はそれが疲弊した今川勢前衛だと説明してるように思う。 だけど、仮に善照寺の砦の時点で、桶狭間山にいるのが今川義元本陣だという情報が織田勢にもたらされていたなら、 家臣達に信長が桶狭間山にいるのが今川勢前衛だと言っても、困惑されるだけに思う。 そもそも、信長公記の桶狭間の戦いにおいて、家臣達が信長を引き留めているのは、その前の善照寺の砦からの移動の時もそうと思われ、 この時に信長を引き留めたのは、信長公記を読むと重臣達のように思うから、 信長が桶狭間山の敵に向かおうとした時に、それを引き留めようとしたのも、重臣達に思う。 なので、重臣達であるなら、善照寺の砦の時点で仮に桶狭間山にいるのが今川義元本陣だという情報が、 織田勢に入っていたら、それを知ってるはずに思うので、 その重臣達に対して、信長が桶狭間山にいる敵を今川勢前衛だというのは、個人的にあり得ないと思う。 >>165 の >それが は 信長公記において、桶狭間山にいると思しき敵軍勢の事だね。 わざわざ書かなくてもわかるとは思うけど、わかりやすくする為に補足説明をしておくね。 >>163 呉座先生は色々と大変な目にあったが、非を素直に詫びつつよく耐え忍んだよ 正義の棍棒を振りかざして袋叩きしていた側のまあ醜いことったらありゃしない >>165 信長は情報漏洩を恐れて清州城の家臣には何も教えていないからね 太田牛一にも教えていない そんな何も知らされていない家臣たちが止めただけ 信長の行動はかなりおかしい 清州城の家臣には何も教えないどころか無視して城を出ている ついてきた家臣=太田牛一(信長公記の作者)にも何も教えていない しかし桶狭間の戦いでの今川強襲には2000人余りが参加した まあどう見ても信長は清州城にいた家臣ではなく他の古参の家臣と共に奇襲作戦に及んでいるよね で作戦を理解していない家臣をその場で何とか説得させようとしている つまり信長は清州城の家臣にもスパイ=間者がいると想定していた そして桶狭間の奇襲主力部隊は初めから今川義元を監視しており現地でひそかに展開していた その情報を逐一信長に伝えておりあとは信長到着を待つだけであった >>170 この時の信長自身が若いし周りの家臣も若かったので古参という表現は間違いだった 林や柴田は弟についていたのでまだ完全に信用しておらず柴田の家来の太田にも詳細は明かしていない 但し親しい家来と作戦を練ったのは間違いないと思う 今川強襲も初めから計画されたものだった 信長は本当は隠れながら迂回して今川強襲部隊と合流する予定だった しかし強い雨が背中から降ったのでこれ幸いと最短ルートを選んで進軍した これが信長の判断 そこで今川強襲部隊と合流して位置を特定されている今川義元を囲いながら攻撃したのだ 今川強襲部隊こそ信長の信頼していた精鋭部隊であった 彼らは既に現地に展開していたが、完全に姿は消していた これが桶狭間の真実だと予想する 今川強襲部隊とは信長が信頼を寄せていた部隊 佐久間盛重は丸根砦を守り戦死 前田利家は参戦していたものの出仕停止中で何も知らず 森可成佐久間信盛丹羽長秀織田信房らが中心 この作戦は練りに練った作戦だったので情報漏洩だけは阻止せねばならなかった それが清州城の信長の行動の答えであった つまり 「迂回攻撃説」 「正面攻撃説」 「別動隊説」 「乱取り状態急襲説 」 全部が実は概ね正しい事になる ただ解釈の仕方が異なっただけで 全面的に同意する。 もともと兵力差もなくて勝って普通とか、近くの敵攻撃したら たまたま義元本陣だったとか、だったら当時からそう言われてるだろう。 read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる