織田信長の人物像・人間像について考える
織田信長像というものは、明治以後も現代に至るまで、例えば神国である日本における、桶狭間の戦いのような奇跡的な勝利を挙げる軍人のモチーフとして現れたり、慣例にとらわれずに合理的な手段で改革を進める型破りな組織のリーダーや経営者の姿として、
時に応じて、断続的なものではないものの、断片的に日本人の精神の中にその姿を見せる存在となっています。
織田信長の人物像・人間像すなわち織田信長像についてみなさんで考えていきましょう。 有能ではあっても革新的でも合理的でも無神論でもない
って言うだけやね
20世紀的天才像が突然戦国の世に現れた的な
そういう現代小説的な理解は覆された 天下布武の説明も変わってきてるしね
昔は信長が天下を武で統一する事と当然のように語られてきたけど >>406
痛いと思うのならその理由を書けよ
お前のつまらん感想なんか書くな >>410
いや、書き込みの史料上の根拠書いて
書けるんでしょ? 鉄砲で言えばこの武器が戦の役に立つと理解してなければ国産化しようとはならんよね
信長ら大名は戦の役に立つと分かっていた武器を買って使っただけ 結局、多少戦争が強い以外は
極々普通の戦国大名でことね 逆になんか特徴はないのかな
あまりにも平々凡々すぎる ・本気で足利幕府を復興させようとした
・朝廷を重んじていた
・寺社勢力を保護した
他の大名よりも伝統と秩序を重んじていたという特徴がある 伝統重んじたせいで幕臣と対立する
朝廷寺社公家保護しようとしたため畿内の大名国人衆、一部寺社に反発される
反発した相手を潰していったら結果として革新的みたいな行動になった
と個人的には思っている >>411
じゃあ根拠となる史料はなんですか?と聞けよ
痛いとか書き込むな
無礼にもほどがあるわ >>418
アンカーつけてないのに自分の書き込みが痛いと思われたという自覚があったんでしょ?
で、史料的な根拠は?
ないんだったら痛いという印象から変化なし
それとも小説かなにかの読書感想文でも書き込んだの?
ていうかすべてが幼稚 >>419
お前が幼稚なんだが、アホか
出典は日本史な
信長好きなら軽く目を通しておけ >>420
まずはお前の脳みそに沸いているウジ虫をどうにかしろ >>421
ん、フロイスの日本史か?
小姓のネットワークで叛意サーチなんて書いてあったかな?
足蹴にしたくらいなら角川太閤記や稲葉家譜などに記述あるけどな
ほんとにあなた史料読めるの?
崩し字まで読めと、そこまでは求めないけど >>423
川角ね、間違えた
なんの小説か漫画読んだのか知らないが、小姓ネットワークだの泣いて謝っただのはどこソース?
居酒屋で不勉強なおっさんが「政治が悪い」とか床屋政談してるくらいにみっともない書き込みだよ
それを痛いとか幼稚と表現したまで
君はおうむ返ししかできなさそうだから語彙も乏しいんだろう
珍説?を周囲に言い触らさないことをおすすめする
史学かじった人間には確実に鼻で笑われるからね >>423
蘭丸ら森三兄弟は小姓だったからな
しかも蘭丸は各地に使者として派遣されているのは信長公記にも書かれている
おまけに小姓で5万石だから特別待遇で信長の家臣を観察していた >>424
当時はネットワークとかそんな言葉はなかったな
だけれども蘭丸はいろいろな情報を使者という立場から把握していたから
お前の言うように全くの出鱈目というわけではないぞ そもそもその時代にわずか十代で5万石とか異常なんだがな >>425
手元の信長公記でいま確認したが、森乱が派遣されたのは岐阜城に銭溜め込む仕事だけで、ほかは安土含め信長のところで「御使」やってるだけだな
万見仙千代はじめ、政務に活躍した小姓は検使役なんかでいろいろ出回ってるけどな
はい、史料ありませんでした
えらそうに言うなら信長公記くらいせめて一度は通読してるよね?
してれば森乱があまり派遣されてないの分かるはずだけど
幼稚だから理解できないか
安土にほぼいて大名監視とは恐れ入るね
森乱はドラマの水戸黄門みたいに諸国行脚でもしてたのかい? >>427
そこの信長公記引用しようか?
天正十年三月二十九日条
武田征伐の論功行賞だな
「金山よなだ嶋、森乱に下さる。是は勝蔵忝き次第なり」
森乱はじめ兄弟が優遇されたのは事実だが、長可の旧領をもらっただけで、長可の功績である
だから勝蔵が喜んでいると記述されているな
なんか反論ある?
そもそも金山五万石もらったからといって森乱が諜報活動に従事していた証拠になんてなんらならないんだが 森家譜は現代の人間が読むとどーなのよと思う残虐行為まで赤裸々に書いているんだが(史実かはともかく)森乱が諜報活動していたなんて記述なかったね
ほんと、なにが根拠なのか意味不明
単なるニワカの妄想でしょ >>428
信長公記では使者の任だけで3回書かれているからな
活躍した方だろうよ
あまり派遣されていないとかないからな
あと報告などに関しては他の小姓もやっていることでそれが当たり前のことだぞ
信長はそれらの情報をもとに動いいているからな >>429 >>430
ううん?
俺が蘭丸が忍者のように諜報活動したとか書いているか?
それこそお前の妄想だろうが >>431
三回ってどれ?
信長の元を離れて使者やったのは岐阜城、もう一件怪しい塩河伯耆への褒美の使者も常識的に考えれば安土でだろう
曖昧なのじゃなくて明確な根拠示して
しかし、信長の小姓諜報網とやらはよほどずさんだったんだな
松永にせよ荒木にせよ、信長は謀叛するはずがないと当初疑っているからねえ
小姓が嘘の報告していたのか、信長が報告を信じなかったのか
いやあ、君の論は実に素晴らしいねえ
慧眼慧眼 >>434
偉そうに知ったかしているんだから
それくらい調べろよ
どんだけ他人便りなんだよ、お前はよ
つうか、蘭丸が諜報活動したと俺が発言した部分はどこにある
まずはそれをちゃんと指摘しろよ >>433
小姓の監視網で光秀の謀叛の兆候をキャッチしたと書いたのは誰ですか?
そもそもね、二次史料で言及されているのは光秀が出すぎた真似をして信長がぶん殴る
それでカツラまで取れたりして恨みを募らせて謀叛なんで順番もあべこべ
細川家記だったと思うが、武田に内通していたのが穴山帰順でばれるのが怖くて謀叛なんて二次史料はあるがな
こっちは証言者が証言者だけになかなか信憑性あるんだが、そんなこと知らなかったろ >>435
いや、こっちは手元の信長公記の索引で森乱の全部読んだ上で指摘してるんですけど
なんなら全部書き上げてもいいぞ
君が信長公記を読んでないのが明白すぎて草 >>438
いいんじゃないか?
お前のぼろ検索で引っかからなくても俺の知ったことではないわ >>437
なんだそりゃあ
お前も妄想がすごいよな
かつらとかどこの史料が元なんだよ >>440
稲葉家譜だよ
史実かはともかく、一応史料にはある
小姓が謀叛察知してなんて妄想よりはましでしょ
>>439
大家の奥野先生監修の索引にオンボロとは、君は相当えらい研究者なんだなあ
そういうところも含めて信長公記すら読んでいないのが分かる
現代語訳くらいは読んでるのかな?
読む価値ないけどな 結局まともな返答なしか
どの作家の作品をソースにしたのかは知りたかったな >>440
というか史料に疎すぎない、君?
読んでてこっちが恥ずかしくなる
そんな程度でも周囲からは歴史の先生とか呼ばれてるのかな
受ける >>444
?
索引の意味すら知らないのか?
もしかしてあなた子供?
一般的な教養レベルにすら到達してないな
まあいいや
森乱が信長公記で三回、信長の元を離れて使者にたったソースをくれ
こっちはいつでも出せるからな >>445
お前がいつでも出せるのなら問題ないじゃないか >>446
詳細はともかく信長公記読む限り森乱が信長の元を離れて仕事をしたのは一回だけ
そこはもう書いただろ
三回っていう君の根拠を示せよ
ウスノロ >>434
俺が書いたのは使者の任だからな、お前の言う変な条件はないからな
でその他、本領安堵の朱印状の件で矢部善七郎、森乱を使者としてつかわしている >>447
つうか、なんだよ、ウスノロとかよ
お前はケンカ売って遊んでいるだけだろうが >>434
つうかよ
荒木の謀反の時に蘭丸はまだ13歳だぞ
小姓としてまだ入ったばかりだからな >>449
ウスノロが返答した
こっちが要求した三回の根拠出せばいいだけだろ
それもできずにグズグズクチャクチャ言い訳しているからウスノロと書いたんだ
これでも遠慮した表現だよウスラバカ >>451
つうかよ、バカはお前だろうが
お前みたいなのに返答する義理もないんだが と言うか明智光秀オタはマジで頭おかしいのな
自分の恩人で上司の信長だけではなくまだ高校生の蘭丸まで殺しているからな
それで反省もなくただただ犠牲者の悪口しか言わないし >>452
自分で三回と書いたんだから相手がどんなバカでも開示する義務があるだろ
そんなことも分からないのか
ウスノロ、早く出せよ >>452
口先だけと判断するぞウスノロ
トロトロすんな
三回分をきっちり耳揃えて出せよ
出せねえからウスノロつってんだよ >>455
御託はけっこうウスノロ
自分で書いた三回分を早く書けウスノロ
それともウスノロじゃなくて頭がトロいだけか? >>458
お前の書いた二回に俺のその他足して三回だろうが
アホか >>459
その三件目はなに?
君の言うことは毎度具体的な指摘がない
つまり発言の意味がないウスノロ
いつ、どこになぜ派遣されたか書けよウスノロ >>422
ケンカ吹っかけるようなレスする人に言ったのに
君も同類だったのね 元となった小説は明智軍記だな
蘭丸もちゃんと出てくる >>460
天正7年(1579年)「四月十八日 塩河伯耆守へ銀子百枚遣はされ候、御使森乱(蘭丸)、中西権兵衛相副へ下され、過分忝きの由候なり」
天正8年(1580年)「正月廿六日、森乱御使にて、濃州岐阜御土蔵に、先年、鳥目一万六干貫入れおかれ侯」
>>448
本領安堵の朱印状の件で矢部善七郎、森乱を使者としてつかわしている
で3件だな >>465
塩河伯耆については「どこで」が特定できないと言及したでしょ
伯耆の在所まで運んだというより、銀子下賜なんかは本人が挨拶に来たときにするのが通例
この場合は伯耆の安土邸かもしれない
三件目については少なくともあなたが挙げた信長公記には記述がない
では森乱と同じく夭逝した代表的小姓、万見はどうか信長公記で見てみよう
天正6年、兵庫に派遣され防御体制について信長に報告
同年、神吉城攻め御検使
同年、自邸で南部を饗応
同年、謀反疑いの荒木を詰問
同年、甲山で百姓を撃退
同年、伊丹攻めで鉄砲衆の奉行を務めて討ち死に
同9年、二代目に知行あてがい
森乱なんかより重大業務や出張ばかり
森乱はじめ小姓が使者業務で謀反の兆候をつかんだとか妄想はたくさん マンツーマンで光秀が泣いて謝ったというのも二次史料にすらソースないな
いくつか光秀に手を上げた逸話があるが、どれも公衆の面前でやられて恥をかいて恨みを募らせたってストーリー
稲葉家譜じゃカツラまで取れて面目を失ったと
殴られた、蹴られた原因はいくつかあるけどな 万見は若いけど森乱ほどには若くないから比較としては不適切な気が 訂正
若くないだろうから
生年不明だから推測でしか話せんが あんま関係ないけど乙夜之書物がまたニュースになっている
引用写真をざっくり読むと、斎藤道三は山城山崎の油屋で美濃に下って謀反
子の「吉辰」が実子か疑って不和になり、紛争が勃発
大方の美濃衆は土岐の実子と思って吉辰につき、竹中半兵衛が吉辰の兄弟二人をいっぺんに斬り殺した
いよいよ明日合戦というとき、吉辰は道三の生け捕りを二人の家臣に命じ…で写真終了
古い道三一代説がどう広まったかの証明にはなりそうだが、史実をなにか補強するものではない印象
半兵衛が二人の道三実子を討ったというのが珍しいといえば珍しいか >>469
幼名で最後まで記されているから若いとしか思えないよ
奇妙丸もかなり歳いくまでそうだったから織田家が特殊なのかもしれないが
仮に不適切だったとしても小姓が謀反を察知したとかいうとんでもよりはマシだろう
万見は荒木の謀反に気づかずのこのこお話にいったことになるしなあ >>471
>仮に不適切だったとしても小姓が謀反を察知したとかいうとんでもよりはマシだろう
それに関しては全く同感だ 美濃国諸旧記(1640年ぐらい?)で道三一代説出てるから
それの影響受けたと考えるのがまず一番自然な考え方だろうな >>467
フロイスの日本史で光秀は詐欺師で必要とあれば平気で嘘の涙を流すと書かれているけどな >>473
油売りの記述はこれまで初出が18世紀前半だったから最古だろうということだってさ
著者の関屋は斎藤利宗と間接的に繋がりがあったから、一代説で記述しているのはどうなんだろうか
まあ最近の二代説の詳細(根拠は六角の史料だったよね)を知らないからなんとも言えないけど
乙夜はちゃんと取材先を書いてあるところはそこそこ信用できると思ってるんだが
今回の記述にソースがついているかは写真がないから不明 >>474
あの人物評はフロイスの宗教的バイアスを含めて考えても秀逸とは思うよ、確かに
ただ具体的にいつどこでってのは一切書いてないからね
例えばちょっと上で話題にした乙夜関係者の斎藤利宗
ちろっと昨日も書いたけど、細川家記では利宗の証言として、光秀は武田に内通していたが、穴山が降伏してきて露見することを恐れて謀反したという記述がある
ちなみに利宗は一時、細川家に身を寄せている
穴山安土訪問と饗応役解任とぴったりだし、こういうせめて二次史料でも記載があることから妄想するのは楽しいんだけどなあ >>466
それは万見の死があったからだろう
つうか君はなぜか蘭丸の事を知らないし憎んでいるだけだけだからね
万見の死は蘭丸が13歳で入ってきて間もない時に発生した
で幼い時はそれこそ信長の身の回りの世話
それから数年後にだんだん使者の仕事をしている
実際には万見と同じような事をしている
最後は信長を命を懸けて助けているから万見なんかよりはるかに有名なんだけどね
万見の仕事が蘭丸以上とか言うのは明智の子孫くらいだろうな >>477
憎むとか子孫だからとかそういう幼稚な話してないんだけど
二次史料でもいいからあなたの妄想の根拠を耳揃えて出してくださいって言っているだけ
「森乱は謀反の兆候を探っていなかった」なんて一次史料があるわけないんだから、こっちは傍証を挙げている >>478
森乱(蘭丸)の光秀反乱推測説にすればいいだけだろうよ
妄想ばかり流していろいろな黒幕説たれ流しているのは光秀子孫も同じことだぞ >>479
やってることは光秀の自称子孫と変わらんな
下らない
さわって損したよ 100年ほど後に書かれたのを信用出来ると考えるのは流石にまずいだろ 現代でいうなら老人が昔シベリア出兵の関係者からいろいろ聞いたのをまとめました
みたいな感じか? >>481
今回のニュースも「発見者」がいうように史実というより道三が油売りからのしあがった逸話がどう広がったってとこで
斎藤利宗が実際に参加したはずの山崎の戦いも軍記物っぽいエピソードになっていたり
ただ、引用者を明示しているところはある程度信じてみたいとも思う
原文写真が切れてるから細部は不明だが、右三ヶ条を斎藤佐渡守(利宗)が語っていたのを井上清右衛門から話を聞いたとか
本能寺の最後の信長の様子については、女房衆が4、5人いたが、信長は出よ出よと退出させた
その内の一人が長生きして恒川斎仁に語ったことを関屋が聞いたとある
この時代だから女房衆はともかく、実名で記している
>>482
シベリア出兵経験者に話を聞いたじいさんからさらに話を聞く又聞きだね たとえば女房衆は信長の身の回りの世話をするからセキュリティが大事
ビズリーチで雇用するはずもなく縁故、尾張美濃に広げても近江から採用したと考えるのが史料はなくとも自然
信長と利家の関係を考えれば尾張荒子の前田家関係者が採用されているのは当然とも思える
前述の井上は利宗の甥だったはず
恒川の一族は前田の古くからの重臣
もちろん嘘や誇張、勘違いや聞き間違いも多々あろうが、まあ出所として?ってのはない 本能寺の描写とかは、信長公記やフロイス日本史とよく似ている
それらを参考にした可能性は捨てきれないが、当時の直後から生存者の証言が出回っていたとも考えられる
乙夜が面白いのは、本能寺襲撃について利宗視点と女房衆視点でそれぞれ語られていること
細かい違いとしては、乙夜だと明智左馬、斎藤内蔵の五千が日が昇るまで外に待ち、下男が水打ちに門を開けたところを付け入ったこと
信長が最後、四周に畳を立て掛けさせたこと(ほかの史料にもあったような気もするが)
女房衆が逃げられた理由は「女房なるに依てか敵かまわず逃れ出たるよし」と推測してるが、本城覚書でも本城は男は斬っても女は主人の在処や服装を聞いただけだった
ついでだからその後も翻刻すると「右女房達の内ながらえ居て語りけると恒川斎仁物語なり」 俺の妄想の何が悪い
この場で何も関係ない第三者もやってるだろ!
て地獄かな? >>486
すまないね
お手間だけどNGにでもぶちこんどいて まあ大半が創作だったり他の軍記物参考にしたりだろうけど、
中には本当に又聞きしたことも混ざってるかもしれない程度だろうな。 >>489
まあ気が向いたら本能寺襲撃についての(おそらく、というか原文写真のつづきがないから確定できない)利宗視点と女房視点のとこあたり翻刻するから自分の目で見て確かめてくれ 利宗視点
手元に崩し字字典ないし漢字カタカナは常用などに変えるんで参考までに
一 明智弥平次斎藤内蔵助五千余騎にて本能寺え押寄たれば早夜はほのぼのと明にけり
内より水●の下郎水桶をにない出けるが敵の押寄たる体を見て内えにけこみ(逃げ込み)門を立る
「あの門たてさするな」とて押詰門を打やぶり乱入る
当番の衆「是は何事ぞ」とをき(起き)ふためきはしり出て見ければ敵早門内え込入たり
各(おのおの)鑓を取て縁の上下にて攻合信長公白き御帷子をかしみだれがみ(乱れ髪)にて出させたまい御弓にて座の敵をさし取引つめ射たまう
御弓のつるきれたりと見えて御弓をなけすてたまい十文字の鑓を取てせり合たまう
然所(しかるところ)に御手(怪我)を負はれたりと見えて白き御帷子に血かかつて見える
御鑓投すて奥え御入ほどなく奥の方より焼崩たり 女房視点
一 信長公御手を被負ける(負われける)と見えてあけ(明け)になつてほだい所(お台所)え帰りたまう
ほだい所の方より焼崩たりと見えてけむり来る
信長公いかが思召たるかたたみあげて四方に立かけたまう
女房達四五人在りつるを「何も出よ出よ」(いずれもいでよいでよ)のたまうに依てにで出たれ共女房なるに依てか敵かまわずのかれ(逃れ)いでたるよし右女房達の内ながらえ居て語りけると恒川斎仁物語なり >>466
君の信長公記には記述がないのかもね
まあなんといういい加減な人間なのか? >>476
フロイスの日本史にはちゃんと本能寺の変の前に信長が光秀を足蹴りにしたとの記述があるけどな
まああまりに有名で忘れているのかもしれないが
信長公記では信長がどこの軍勢が攻めてきたのかと蘭丸に尋ねて即座に蘭丸は明智の軍と答えている >>476
武田が既に滅んでいるのに内通露見とかおかしくね?
穴山じゃなくてもいつ露見してもおかしくない状況だったろうに 足蹴りとか折檻とかは実際にあれば
大事件なので生前記録されたと思うんよね
当時として巨大な軍事力を握った大名同士なので
そんなんあればあわや戦争待ったなしの
大ニュースなのに死後の噂話としてだけ出てくる
信長-光秀間にそんな緊張関係があった様子もなく
本能寺の奇襲作戦が成立してる訳だし
あるいは信長と家臣の間では暴行が日常茶飯事
みたいに言われることもあるのだけども
それも仮にも大名同士異常な関係なので
記録されないというんはどうなんだと この時折見る二次史料をやたら推す人は関係者か何かなのか? >>497
一次だろうが二次だろうが大事なのは史料批判することでしょ
その材料の一部を読みやすいように翻刻して提供したまでだ
二次二次とレッテル貼りする前に中身を読むべきでないかい?
信長の最後について証言者が提示されている史料をほかに知らないし まあ442みたいな人もいるんだし
歴史の楽しみ方は人それぞれだから
興味ない話題はスルーしとけばいい
乙夜之書物に拘ってる人もあまりむきになるな
荒らしと思われるだけだぞ
詳しく検証したいなら史料スレ行くか新スレでも建てればいい 昔から無駄に煽るのが害悪
加えて煽るのは仕方ないなど開き直る 小姓による監視網といい二次史料といい、どっちもまともに信用できないと言うのが素直な感想なんだが >>502
横からだけど、君の定義だと2次資料って信長公記とか、三河物語とか、甲陽軍鑑とかは含まれないのかな?
これらの2次資料は、著者が戦国時代当時に生きていたと思われる人である事から、
参考になると思うし、これらをまったく参考にしないとなると、例えば桶狭間の戦いとか、
ものすごく実相がわかりにくくなると思うんだけど。 >>501
>>410の人の書き方もどうかと思う。 >>503
その辺の当時の人間が生きていたような時代の書物と、
100年ぐらいだってからの軍記物は別だと思っているんじゃないか?
自分は信長公記はそれなりに信用する、
三河物語甲陽軍鑑はある程度は信用するって感じだな、
ただ信長公記は桶狭間というか首巻自体あまり信用していないが。 >>496
明智光秀はただの信長の家臣
はじめの領地の5万石も信長から貰ったもの
別に武田のように大名というわけではないからね
その関係は本能寺の変まで変わりはない
それだけ信長は光秀を信用していた