織田信長の人物像・人間像について考える
織田信長像というものは、明治以後も現代に至るまで、例えば神国である日本における、桶狭間の戦いのような奇跡的な勝利を挙げる軍人のモチーフとして現れたり、慣例にとらわれずに合理的な手段で改革を進める型破りな組織のリーダーや経営者の姿として、
時に応じて、断続的なものではないものの、断片的に日本人の精神の中にその姿を見せる存在となっています。
織田信長の人物像・人間像すなわち織田信長像についてみなさんで考えていきましょう。 >>284
こちらは信長公記の記述とかを基にしてるのであって、
少なくとも、君が地図を見て思っただけの事よりは、論拠として優越してると思うので、
そんな事を書くなら、君もちゃんとした論拠を基にして話をして欲しいと思うかな。 こっちも公記と地図をもとにおかしいと言ってんの
まじで理解できないんだな そもそも元から信長公記首巻のその辺の記述が
怪しいぞって言われてるんやで >>286
どこで?
>>280 >>275 >>271において、君は地図については言ってると思うけど、
信長公記の記述についてなんて、まったく語ってないように思うけど、
どこでそんな事書いたの? >>287
信長公記においての、桶狭間の記述は、当時は今川側だった徳川家(松平家)の三河物語とも
符号する所があると思うので、それなりに信用できそうに思うけどね。
仮に信長公記を桶狭間において参考にしないなら、当時の想定される石高で考慮した場合、
信長は当時尾張の多くを支配していたっぽいし、今川も東海三国+尾張の一部くらいで、
今川側が遠征側で領国に守備兵力が必要と思われる事、
織田側が守勢である事、を考慮すれば、その動員可能兵力にそこまでの違いはないように思える。
それで、当時は今川側の三河物語を考慮すると、桶狭間において、今川側は岡部、鵜殿、松平の軍勢は
義元の近くにいなかったように思え、下手すれば総合的な決戦の時の軍勢は織田側と今川でそう変わらない可能性があって、
三河物語にもあるように(信長公記にもあるように)、豪雨の影響もあって混乱した今川勢に織田側が勝利して、
義元が倒された、というそんなにドラマ性のない話になりそうに思うけど。 >>289
それが妥当だろうね
公記首巻のドラマティックにするために盛ってる
>>264の段階で疑念を呈した通り 他の方もそれに先立って信長公記首巻の
矛盾点について指摘しているね
つまり
あなた以外「信長公記首巻には矛盾がある」
あなた「でも信長公記主観によるとこうだ」
という平行線 >>291
例えばどこでどんな論拠に基づいて、それを主張してるの?
なんか君が言ってる事と僕が言ってる事はかなり違いがあるように思うんだけど。
信長公記においての信長公記の記述が信用できないかどうかは、まだ別に決まってないと思うし、
それを否定するなら、相応の論拠を基に話をしないといけないと思う。
>>289はあくまでも、仮に信長公記を否定する場合、という仮定の話であって、
それが確定的な主張とは、僕でさえ言ってないんだけど。
むしろ、僕は上記289において、信長公記の桶狭間における記述において、
その当時今川側だった徳川家(松平家)の三河物語との共通性についても、
指摘をしているように思うんだけど、それでなんで君はそんな結論になるのか、
説明をしてくれないかな。
君はその書き込みからして、信長公記の桶狭間においての記述を否定したいように思うけど、
それはどんな論拠に基づいて、どんな風に否定できると思うのか、答えて欲しいと思うかな。 >>292の
>信長公記においての信長公記の
は
信長公記においての桶狭間の、
に訂正をしておくね。
なんだこりゃ、変な風に書いちゃったね。
文脈で考慮すればわかるかもしれないけど、一応訂正はしておく事にするね。
それで、上記292の宛先の>>291の人についての指摘に付け足しをさせてもらうと、
>>271 >>273 >>275のつながりを見ると、この3つの書き込みをしてる人は、
同じ人にも思えるんだけど、君の言うような
>他の方
って例えば誰の事言ってんの?正直、このスレで議論をしてる人々ってそんなに数が多いとは思えないんだけど、
そこら辺はどうなのかな。
それで、君のいう人々とやらは、相応の論拠に基づいて、信長公記の記述の否定をしてるのかどうかについても、
答えて欲しいと思うかな。 >>290
>>213にあるように、僕も信長公記の桶狭間の今川の軍勢記述などについては、
疑問を呈していると思うけど、それは>>289のように、当時の想定可能そうな石高などを論拠にしているのであって、
君が信長公記の記述に否定や疑問を呈したいというなら、相応の論拠を基にした方がいいと思う。
そもそもの話として、>>289で僕が書いた事を仮に基にするなら、
「圧倒的な今川の大軍を前に不利な信長が緻密な情報収集で今川勢本陣の動向を把握し、奇襲をかけて倒した」というような劇的な話ではなく、
「桶狭間においての今川側遠征軍勢数と守勢の織田側軍勢数はそこまでの違いはなく、
その上、今川は複数の部隊を本陣とは別方面に移動させていて、決戦の時の軍勢数は
織田の軍勢と今川本陣勢でそこまで違いがあったか疑問で、豪雨の影響もあって織田側が勝利して義元を倒した、」
という劇的とは言い難い話になると思う。君はこれでいいのか、という事について、答えて欲しいと思うかな。 >>293
悪いが同一人物ではないぞ
その三つのうち273が俺だが他は別
対立する意見が全部同じに見えるのは勘弁
首巻の桶狭間への疑問は複数から言われてて
その主なものは砦を落とした兵が落とした場所にいるでもなく
休ませるにも敵から見て背後に戻るでもなく
わざわざ桶狭間に出るのはおかしいというもの >>283
>順当に考えるなら、信長は丸根、鷲津の砦の救援に向かう為に出撃したと思われるんだけど。
それはさすがにないと思うぞ、信長は自分の領地さえ把握していないのかよ >>283
>この時点までの信長は、普通に丸根、鷲津の砦の救援が目標で、今川勢本陣の事なんか探ろうともしてないように思うんだけど、どうなの。
今川との闘いなのに今川本陣を把握しようともしないなんて逆におかしいだろうよ >>296
だから、なんでそんな話になるの?
君は一体どんなロジックでそんな風に主張してるのか、説明してくれないかな。
君がレスしてる>>283に似た事書いてあると思うけど、
信長は、信長公記を基にするなら、今川勢が丸根、鷲津を攻撃し始めたという報告を受けて、
城から出てるように思われる。
順当に考えて、これは丸根、鷲津の救援の為に城から出たと思えるし、他にどう解釈するの?
君はこれだけ自明に思える事を、なんでそんな風に書いてるのか、答えて欲しいと思うかな。 >>297
だから、>>299にも似た事書いたけど、
君がレスしてる>>283にそのまんま答えとなる事が書いてあると思うんだけど。
上記283や上記299にも似た事が書かれてると思うけど、
信長は、信長公記を基にするなら、丸根、鷲津に今川勢が攻勢を仕掛けて、戦闘が開始された事を、
報告されて、支度をして城から移動してるように思われる。
常識的に考えれば、これは丸根、鷲津の砦を救援するための行動だったと思えるし、
この時点で信長が今川勢本陣の所在を知っている記述は存在しないように思う。
そもそも、>>283にも似た事書いたように、信長公記でも、信長が城から移動した時点で、
義元本陣がどこにいたのか、特に記述はないと思うし、順当に考えれば、
その時点で義元本陣が桶狭間山にいたのかは極めて疑問だと思う。
つまり、信長が仮に城から移動する前に義元本陣の所在を知っていたとしても、
遠征軍である今川軍は義元本陣の所在が移動していく事が考えられ、
仮に義元が大高城にでも入ってしまえば、信長が襲撃する事は甚だ厳しくなると思え、
「義元本陣が、他の今川勢からある程度離れた、襲撃しやすい位置に移動する」という
そんな不確定に思える事を信長が当てにするのか、と思うんだけど。 >>295
さて、どうなのかなあ。
ワッチョイスレでは、やたらと信長を持ち上げようとする人に思われる人が、
IDコロコロや他人を装う事をしている可能性が高い事が指摘されてたと思うし、
ここまでの議論の経緯を見ても、>>299 >>300などにもあるように、
議論相手の「人々」は既に答えられている事を、なぜか都合がよくないと思われる事を答えずに、
同じような事を書いている傾向があると思うけど、行動傾向まで一致する事って普通はないんじゃないかと思うけど。
それについても、>>265とかで答えられてるように思うけど。
なんで君、それらにちゃんと答えないで、同じように書いているのか、と思うし、
そもそも、>>282とかにも似た事書いたように、君が地図を見て色々思うとしても、
それを優先される想定にするには、相応の論拠が必要だと思うので、
相応の論拠を基にして話をして欲しいと思うかな。 >>295
ついでに、君は>>292や>>294で聞かれてる事には答えないのか、という事にも答えて欲しいと思うかな。 >>301
しらねーよ
自演主張さんならそれこそちゃんと根拠持ってこいや
自演認定で逃げ切りたいなら知らんがなとしか言いようがない
敵を避けて休息するなら適地ではない
適地だというなら根拠は?となるだけの話なのに
あなたは公記に書いてる否定する奴は自演だで片付けてる
どのツラ下げて相応の根拠とか抜かしてんだから >>292
単に創作だと言ってる
砦の救援に行ってるのに目的地をずらして
そこに砦落とした敵がいる記述されてる
普通に考えたらその場で守りを固めるか
休息するなら大高に戻れば良い >>294
それは既に解答済みだ
実際にはドラマティックでないのが普通で
ドラマティックにするために創作がある >>299
また長文ダラダラかよ
実際には丸根、鷲津の救援はないんだけどな
ちゃんと考えてレスしろよ >>300
なんで義元が最前線の大高城に移動すんだよ
丸根、鷲津はまだ落とされたばかりだぞ
正面攻撃説は地図さえ見ることができないのな >>306
だから、僕には君が論拠を基にした説明をしてるようにも思えないのに、
そんな事を書かれても、としか言えないんだけど。
君は何を論拠にして、どんなロジックでそんな事を書いているのか、
説明してくれないかな。
>>299は信長公記の記述を基にして推測をしているので、
これを違うというなら、相応の論拠を基に説明をして欲しいと思うかな。 >>307
最前線には、それこそ前衛となる軍勢を置いておけばいいだろうに。
義元が本軍を率いて大高城に籠っていれば、少なくとも、信長がうかつに攻撃を仕掛ける事は出来ないと思うから、
安全地帯だと思う。 >>305
ほうほう。
つまり、君が仮に>>294にあるような仮定を肯定するという場合、
「信長は、そこまで不利でない状況で、偶然あった豪雨の影響などもあって義元を倒して勝利した、」
という話になって、桶狭間においての信長の劇的性を否定する事になると思うんだけど、
君は仮にそうだとしたら、この状況で何を主張したいのか、という事に答えて欲しいと思うかな。 >>304
それについては、当時今川に属していた徳川(松平)の三河物語では、
松平勢が大高城に入ったのは、それまで城を守っていた鵜殿の交代を誰にしようかと会議して、
候補者がいなかったので、家康(当時は元康)とその軍勢が入る事になったように思う。
なので、松平勢が大高城に入ったのも、上記のように、三河物語を基にするなら、
必ずしも必然とは言い難く思う。
仮に大高城を守備する候補者が他にいて、それが城に入っていたなら、
松平勢は休息もかねて、最前線でも、大高城でもない所に移動していた可能性が高いと思う。
信長公記では織田側が、桶狭間山にいた軍勢を疲弊した今川勢前衛(松平勢などの)と想定したと思えるが、
上記のような経緯や事情を考慮するなら、それはそこまで外れた想定ではなかったと思われる。
実際に信長公記を基にするなら、信長も、その説明を受けた織田家臣達も、>>283とかにも似た事書いたように、
桶狭間山にいる軍勢を今川勢前衛(松平勢などの)という事に、特に疑いを持っているようには思えないんだけど。 >>303
それを言うなら、>>301にあるような事情などが、という事になるんだけど、
僕としてもそれを言い合うのはそれ程楽しい話題ではないね。
ただ、僕として言いたいのは、>>291や>>295の君の書き込みでは、
まるで君が論拠や論旨ではなく、数を頼みにしてるようにも、僕には思えてしまうけど、
君が何かを主張したいなら、論拠を基にした論旨を基に相手と語り合うべきだと僕は思う。
僕はそんな事してないと思う。僕のスタンスは、上記のような感じかな。
徳川(当時は松平)が大高城で休息する事になった、三河物語を基にした場合の経緯は、>>311にあるような感じで、
それは必然だったとはし難いように思える。
信長公記や三河物語を基にした場合の史実において、
1.実際に松平勢が大高城に入り、最前線から退いている事、
2.丸根、鷲津の砦は信長公記でも、三河物語でも、比較的短期に攻略されているように思え、
守備兵はそこまで多くなかったと思われ(数百程か)、戦闘で損傷している事も考慮すれば、
数千ほどと思われる松平勢が、敵を警戒しつつ休息して滞在するのに向いた所とも思い難い事、
などを考慮すれば、
上記311に似た事書いたように、仮に大高城の守備候補者がいて、それが城を守る事になった場合、
松平勢は大高城ではなく、さりとて、丸根、鷲津近辺でもない所で休息をしていた可能性は高いと思う。
よって、これまた上記311に似た事書いたように、信長公記において、
桶狭間山にいる今川の軍勢を、疲弊した松平勢などの今川勢前衛だと思った信長及び織田家臣達の想定は、
それなりの妥当性をもったものだった、という事になると思う。 >>308
だからなロジックとか関係ないんだよ
信長は丸根、鷲津を見捨てているからな >>309
だからな、丸根、鷲津は落とされたばかりだってーの
何が最前線の大高城が安全なんだよ
それは後から桶狭間の戦いの結果を知った現代人のインチキ知ったかだぞ >>313
その論拠は?君が相応の論拠を基にしてないように思われるのに、そう書かれても、と思う。
少なくとも、信長公記の記述を基にするなら、信長は丸根、鷲津の砦の救援の為に移動し、
その途中でその二つの砦の方面から煙が上がったのを確認した事で、
両砦が攻略された事を知ったように思えるので、普通に救援しようとしたけど、間に合わなかったと、少なくとも信長公記を基にするなら思える。 >>314
その二つの砦が攻略されたからと言って、その前にでも、やや後ろにでも、それまで戦ってない新鮮な部隊を置きつつ、
それより後方の大高城に今川義元本陣を入れれば、少なくとも桶狭間山にポツンといるよりは、
守りやすいと思う。 >>312
の
一部訂正。
2.の論旨だけど、三河物語においては、松平勢が攻略したのは、佐久間が守っていたという棒山砦だけに思え、
これが信長公記において、松平勢が攻略したと思われる丸根、鷲津の砦をまとめているのか、
それとも、佐久間が守っていた方だけの砦を示しているのか、は三河物語を読むだけでは、
不明確に思えるかな。 ついでに、>>315の、信長公記においての信長と丸根、鷲津の砦の動向については、僕が書いた>>161とかに似た事が書いてある。 >>311
ますます何言いたいのかわからん
大高入りの決定には蓋然性があるでしょ
合理的で蓋然性がある結論に至るための手段が会議だ
それによって既に先に言ったように大高入りがきまった
というだけの話だよ
桶狭間移動は合理的ではない
あえて桶狭間に行く合理性とは何か?
ということをあなたは全く無視してる >>312
知るかよ
お前は俺を自演野郎扱いしてんだぞ
「自演をする奴はいる→だから俺が自演してる」
なんてのは「俺が自演してる根拠」ではない
そんなあやふやなもので論争相手を貶めといてな
謝りもせずなにを冷静気取ってんだ? 大高入りの蓋然性について
付近で安全に休息できるという意味では最適地だ
元々今川の勢力圏内であるし大高に別の将が入っても
大高方面に陣を敷いた方が味方にも近い
桶狭間古戦場近辺は実際に戦場になった通り
決して安全でも優位な地形でもない
現在の道でも両砦から1時間程度かかる >>321
ないわ、マジで正面攻撃説の人間は桶狭間の戦いを見てから結論を言っているのな
そもそも大高城は最前線だぞ
丸根、鷲津砦を落としたのも当日だからな 話をぶった切って済まんが、「必死に生きてこそ、その生涯は輝く」というのが信長の名言として出回ってるんだけど
誰ぞ出典知ってる? 難しい言葉が嫌なら妥当性でもいいぞ
兵を休ませるためと言いながら
攻撃を受けやすいとこの方が
受けにくいとこの方が良いという
そこにどんな妥当性があるんだ? >>325
難しい易しいの話じゃないよ
蓋然性ってのは可能性の類義語
あなたの言いたいことはおそらく、対義語の必然性
つまり真逆の言葉を使ってる
妥当性でもいいけど ありがとう
冷静になると確かに妥当性と言わなきゃおかしいか >>283
>今川勢に所属してる事を示す旗(例えば、武田家では武田菱の旗)は、
>今川勢に所属してる軍勢は普通に持ってるだろうから、
>それを持ってる事で今川勢前衛なのか、本陣なのかの判別は厳しいと思うんだけど。
いや、義元本隊と、松平や井伊の旗はちがうだろ。アホか? >>320
それを言ったら、僕には君が現時点で、>>312に書かれている論旨に答えずに、
君が答えて相手を叩けそうな事にだけ答えようとしていると思われ、
それは議論的に十分非礼な行動にも思えるし、
上記312にあるように、君が仮に論旨の妥当性ではなく、数でもって威圧をかけようとしていたなら、
それも議論的に十分非礼な行動という事になると思うけど、
そこら辺について、君は何か言う事はないのかな?
君がその文章で書いた論旨に基づけば、君は何らかの謝罪を僕にすべきに思うけど、どうなのかな。
あやふやかなあ?現状でこのスレに、ここまでの議論で、信長公記に否定的な事を書いた人、というのが、
そこまでの数がいるのか疑問、というのは、>>301にあるような感じで、
ある程度の妥当性を有すると思うけど、どうなの。
まあ、この話について、そこまで僕は突き詰めたいのではなく、僕が言いたいのは、
>>312に似た事書いたように、君が何かを主張したいというなら、
それは相応の論拠とそれに基づいた論旨を基にして話をするべきであって、
数をどうこう言うのは違うと思うんだけど、どうなの。 >>328
今川家全体を表す旗は、それこそ武田で言うなら武田菱の旗は、
今川家に属する軍勢が持っているだろうし、
今川本陣勢だって、複数の軍勢の集合体なんだから、
それだけで本陣勢か前衛なのか、を判断するのは厳しいんじゃないかな、と思う。
その煽りを主体とした口調とか、特徴的なように思うんだけどなあ。
ID変えたの? >>330
いや、だから家や個人毎に異なる旗をもってるんだって。
っていうか、旗で識別できないなんて言う人初めて見たわ。 >>319
なんというのかなあ。
君は三河物語のその部分の記述を知らないのか、それとも、僕が>>311で書いている事を
変な風に解釈してるのかと思うけど、なんでそんな解釈になるのか、
僕にはそっちの方が疑問だよ。
>>319に似た事書いてあるように、三河物語の記述を基にするなら、
今川勢では元々松平勢が大高城に入る事は予定されておらず、
他の候補者がいるならそっちに城を任せるつもりだったけど、
色々話し合っても候補者がいなかったので、松平勢が入る事になっただけに思う。
なので、松平勢が大高城に入ったのは、三河物語の記述を基にするならば、
別に決められていた事でもなければ、
必然性があったわけでもなく、ただその時の今川勢に、他に候補者がいなかったので、
消去法で入る事になっただけに思うので、君の言うような論旨には該当しにくいように思うけど、どうなの。
だから、それについては>>311に書いてあるように思うけど。
上記311に似た事書いてあるように、それまでの戦闘で疲弊していた松平勢は、
仮に大高城に入らない場合、丸根、鷲津もそれまでの戦闘で損傷してたと思われるので、
休息の為にもある程度前線から離れた場所に移動してた可能性は普通にある、という話だよ。
桶狭間山はある程度の高所で、前線からも離れすぎず、近すぎず、で疲弊した軍勢が休息するには程よい場所に思うけどね。 >>331
だから、今川本陣勢だって、義元の直属部隊だけしかいないわけじゃなくて、
複数の家の軍勢の集合体に思うから、いくつもの家の旗印が混じっている状況で、
今川家全体を表す旗をつけている事から、今川の軍勢だという事はわかっても、
それが本陣勢なのか、前衛部隊なのか、を認識する事は簡単ではないように思うけど。
そもそも、>>161にも似た事書いたように、信長公記を基にするなら、信長は今川軍が丸根、鷲津を攻撃した事を報告された後で、
救援に向かって移動し、その現地に着くまでもなく、煙によって丸根、鷲津が攻略された事を知ったように思うので、
そもそも、丸根、鷲津を攻略したのが今川の軍勢だという事は知っていても、松平勢だという事を知っていたのかは確定的とは言えないと思うけど。 >>333
いや、だから義元本陣なら赤鳥紋だ。
その旗みてさっき砦を落とした前衛部隊がここで休憩してるぞーって
思う馬鹿な物見はいないよ。 >>321
大高城に他の今川の武将が入っているなら、信長公記や三河物語を基にした場合、
それまでの戦闘で疲弊していたと思われる松平勢が、ろくな防御地形もない所で、
野ざらしで休むというのは、厳しい様に思うけど、どうなの。
>安全でも優位な地形でもない
桶狭間山について、僕は上記のように、そこまでよくない地形とは思わないけど、
(三河物語でも、信長公記でも、今川義元本陣勢が信長勢に敗北したのは、
急な豪雨が一因のように思える。)
仮に君がそのように思い、それが妥当であると仮にした場合、
そのような場所に今川本陣勢が来ているとは、
さすがに織田側は思わないんじゃないかな。
仮に君の主張通りなら、そんなよくない地勢の所にわざわざ布陣しているのは、
今川軍の本陣ではなく前衛だと織田側が思うのは妥当、という話になりそうに思うけど、どうなの。 >>334
だからね、>>333にも似た事書いてあるように、
義元本陣勢だって、それに所属するいくつもの家の軍勢が、それぞれの旗印をもって参加してて、
今川家全体を表す旗も持って参加してると思う。
このような状況で、義元本陣勢だって、義元の直轄部隊が最前列にいるわけじゃなくて、他の家の軍勢が最前列とか、第2陣とかを固めてて、
それらが旗を立てていると思われ、それらのさらに後方にいると思われる、義元本陣勢の旗印まで確認するのは、
色々と厳しいんじゃないかと思う。
信長公記の記述を読むと、信長が自身達が戦っているのが義元本陣勢である事に気が付いたのは、
個人的には、義元本陣勢が敗北し、本陣にあった塗輿を確認して以降に思える。
なので、個人的にはそれまでは、桶狭間山にいる軍勢を、義元本陣だと思う根拠を、少なくとも信長公記を読む限りでは、
信長は持っていなかったように思うけど、どうなの。 >>321
ついでに、君は
>安全に休息できるという意味では最適地だ
と大高城の事を書いているように思えるが、仮にそうなら、
(僕も>>180や>>300とかにもあるように、
義元本陣勢を確実に保全するなら、大高城にいた方がいいと思っているけど。)
織田側だってそう思うんじゃないのかな。
そんなに地勢的にいい所には、義元本陣勢が入って、義元とその軍勢を保全するに違いない、
前衛とかは他の場所にいるに違いない、と
織田側が思うのは、妥当な事なんじゃないかと思うけど、どうなの。
そう織田側が思った場合、なんか大高城や最前線からある程度離れた桶狭間山に、
他の部隊からある程度孤立した状況で、今川の詳細不明の軍勢がいる、と知った時、
それを今川の前衛だと思うのは、そこまで不可解な想定でもないように思うけど。 >>336
の
>義元本陣勢の旗印
は
義元直轄軍勢の旗印、に訂正をしておこうかな。
文章の前後の意味合いで考慮していけば、訂正しなくても理解できるんじゃないかと思うけど、
よりわかりやすくするために、一応訂正をしておく事にするかな。 >>329
それを言ったらとか関係ない
そのレスでは俺はあんたが真面目に議論するんじゃなく
自演野郎とかレッテル貼してきたことを怒ってる
それ以外については別のレスで書いてる
それ無視して、レッテル貼の件も話晒してんじゃねえよ >>337
休息が必要なのは砦落とした兵だろ?
だから休息してるはずという話だったんだろ?
信長公記には詳細不明な今川前衛ではなく
大高城に兵糧入れて丸根、鷲津両砦を落として
疲弊した兵だと信長が号令したと書いてるだろ?
なんであえて疲弊した兵をさらにわざわざ移動させて
さらにあえて敵から近い地を選ぶのか?
別に大高城と桶狭間以外に選択肢がないわけでもないし
砦落とした部隊以外が今川にいないわけでもない >>340補足
「砦を落とした兵が桶狭間古戦場付近に移動する」以外にも
そこに敵部隊が展開している可能性は十分ある
実際にそこにいたのは進軍してきた義元だった
あなたが想定したように義元が既に大高に入った場合
玉突きで元いた部隊や全く別の移動してくる可能性もある
他にも可能性はあるにもかかわらず
信長公記首巻の信長は砦を攻撃した部隊だと断定
宵に兵糧を使った(きり)だとまで断定
誰も疑問に思わない
信長公記首巻を信じるなら多少おかしくても
実際そうだったんだから仕方ないとなるだろう
でも実際どうなのか?という疑問 今川の前衛の松平軍は丸根、鷲津砦を落としたばかりで乱捕りしている最中
義元本陣の大高城への進軍もそれが終わってから
つまり義元は桶狭間山に留まるしかなかった >>339
なんか違うと思うんだけどなあ。
もともとの話としては、>>312にも似た事書いてあるように、
君が>>291や>>295において、
相応の論拠やそれに基づいた論旨によってではなく、
数によって圧をかけようとしているように思われる事をした事が、
今回の話題の始まりに思うから、>>329にも似た事書いたように、君の理屈で言うなら、君は僕になんらかの謝罪をするべきに思うし、
その事について、君は答えてないように思う。
さらに言うと、上記312にも君の行動について、僕は指摘をしていて、
その事について、君は答えてないように思うのに、
そのように書くのはどうかと思う。
正直、君が気が付いているのかどうかは知らないが、君って結構特徴的なように思うから、
この件については、もっと話を進めるのもやぶさかではないけど、
君が普通に議論をする、というなら、これ以上込み入った話をしないで、普通に議論をしようと思うんだけど、どうなの。 >>340
これもなんか変な風に君が僕の書き込みを解釈をしてるように思うんだけどなあ。
今川義元本陣勢は、今川軍総帥の軍勢なんだから、それが倒される事は、
戦いの勝敗を左右しかねず、その保全の為には、より安全性の高い大高城に入れておく方が、
安全であると思われる、っていう話なんだけど。
大高城に入る理由が、休息だけしかない、っていう話ではないと思うんだけど。
>>332にも似た事書いてあるように、三河物語の記述を基にするなら、
松平勢が大高城に入る事になったのは、単に他の候補者がいなかっただけに思う。
なので、松平勢が大高城で休息する事になったのは、単なる結果論に思え、
他の候補者がいるなら、もしくは今川義元本陣勢が大高城に入っていたなら、
松平勢が大高城以外の他の場所で休息する事になっていた可能性は普通にあったように思う。
>詳細不明な今川前衛ではなく
これも僕の書き込みを変な風に解釈してるように思うんだけど。
織田側にとってみれば、桶狭間山にいる軍勢は、今川勢である事はわかっても、詳しい事はよくわからない軍勢で、
それが今川勢前衛なのか、今川義元本陣勢なのか、はたまた他の今川勢なのか、
はっきりした事はわからなかったように思う。
なので、織田側としては推論を立てるしかなかったように思うけど、
その常識的な推論としては、>>337にも似た事書いてあるように、
上記にも一部似た事書いたように、
1.安全性が高いと思われる大高城には、重要性の高い義元本陣勢を入れて保全するはず、
2.今川勢前衛はここまでで、(信長公記を基にするなら、)大高城に兵糧を運び、
丸根、鷲津の二つの砦を攻略し、疲弊しているはずなので、どこかで休息をとるに違いない、
3.>>311にも似た事書いたように、
丸根、鷲津の砦は(上記311にあるような理由で推測される)規模からも、戦闘における砦の損壊からも、
そのまま今川勢前衛が留まって休息するには不向きに思われる、
4.1.の理由で大高城には義元本陣勢が入り、今川勢前衛は休息した後の戦闘の為にも、
最前線から近すぎず、遠すぎない、どこか他の、ある程度守備と休息に向いた場所で休息をとるに違いない
5.となると、この桶狭間山にいる織田側にとってはよくわからない、今川の軍勢は、
それまでの疲弊を、休息して癒そうとしている今川勢前衛である可能性が高い、
と織田側が推測するのは、そこまで不可解な話でもないように思う。 >>341
>>344のような理由じゃないかと思う。
>>342
信長公記を基にしても、三河物語を基にしても、
織田側の砦を攻略した後の松平勢は大高城に入ってるように思うけど。 >>345
それは今川の前衛の松平な
彼らは今川義元のために戦い安全確保のために動いていた >>336
>だからね、>>333にも似た事書いてあるように、
>義元本陣勢だって、それに所属するいくつもの家の軍勢が、それぞれの旗印をもって参加してて、
>今川家全体を表す旗も持って参加してると思う。
>このような状況で、義元本陣勢だって、義元の直轄部隊が最前列にいるわけじゃなくて、他の家の軍勢が最前列とか、第2陣とかを固めてて、
>それらが旗を立てていると思われ、それらのさらに後方にいると思われる、義元本陣勢の旗印まで確認するのは、
>色々と厳しいんじゃないかと思う。
そんなことありえないってことを言ってるのに、結局同じセリフを繰り返すだけだな。
幟旗を見ても今川本陣であることを判断できないなら、どうやって前衛部隊と
判断したのかも説明できないんですけど。 >>343
また数によって圧というレッテル貼かよ
いきなり自演がどうこう言い出したのもお前
それで自分は真面目に議論したいけど相手がとか
言っちゃ悪いけど不快以外の何者でもない
はっきり言うが卑怯そのものだ
以前そう言う話はしたくないとか(自分で始めといて)
言っておいて今回も結局そういうレッテル貼から >>344
砦を攻めた部隊が桶狭間にいることは
たった一つに絞って断定するほど
明白な状態ではない
俺が繰り返し言ってるのはそれだけ
いくらあんたがその可能性もあり得たと力説しようが
俺の主張の部分には何一つ答えてない >>346
ん?君は>>342において、その松平勢について、
>乱捕りしている最中
と書いているように思うけど、>>345において似た事書いたように、
信長公記録でも、三河物語でも、松平勢は織田側の砦を攻略するまでの行動をした後、
特に周辺の略奪とかをしている様子はないように思われ、
そのまま大高城に移動してるように思うんだけど。 >>347
また君にとって都合のよくない流れになると、そうやって菅沼認定をしようとしてるように思うけど、
>>178にも似た事書いてあるように、ワッチョイスレでは、菅沼認定厨さんと思しき人が、
特徴の違う幾人もの人々に菅沼認定をして、その事について聞かれても、ろくに答えられてなかったと思われるのに、
まだそうやって菅沼認定を君はするのかな。
そのワッチョイスレでは、菅沼認定厨さんと思しき人が、IDコロコロをしたり、
他人を装ったりする事を、している可能性が高いという事を、
指摘されていたように思えるんだけど、君はまだ菅沼認定をしようというのかな、
という事に答えて欲しいと思うかな。 >>348
ん?なんでそう君は言うのかな。
僕が書いている>>336の文章に、
そのまんま答えが書いてあるように思うけど。
君が既に僕が書いているように思われる事を、変な風に解釈してるように思うから、
僕も丁寧に似た事を説明せざるを得ないように思うんだけど。
上記336にも似た事書いてあるように、今川義元本陣勢だって複数の家の軍勢が
集まって出来上がってるように思うけど、
それらも今川勢を表す旗は持ってるだろうから、今川勢である事はわかるでしょ。
ただ、今川義元の旗本部隊は、本陣勢の他の家の軍勢が前を固めているさらに後ろに
座していたと思われるので、ぱっと見ただけじゃ、義元の旗本部隊の旗を確認するのは厳しいと思うんだけど、どうなの。
端的に言うなら、今川義元本陣勢の一つの仮定の構成としては、
1.最前列 本陣勢所属の家Aの軍勢
2.第二陣 本陣勢所属の家Bの軍勢
3.第三陣 今川義元旗本勢
というような感じであって、織田側の偵察要員が桶狭間山の今川勢を確認して、
ぱっと見で確認できるのは、最前列の軍勢やその旗だけに思え、
それよりずっと後方にいたと思われる、義元旗本勢の旗まで一気に確認するのは、
厳しかったように思うけど、どうなの。
正直、君って今すごく特徴的に思えるんだけど、もう色々無理があると思わないかな? >>348
織田側が桶狭間山にいる今川勢を、今川勢前衛だと判断した理由は、
個人的に>>344のような理由だと思う。
>>350
うん、そうだね。実際に信長公記において、織田側が桶狭間山にいる今川勢を
今川前衛だと判断した事は、信長公記を基にすると、明確に間違っていて、
それが今川義元本陣でした、っていう話に思えるね。
ただ、現代と違って情報収集手段に限りのあった戦国時代においては、
敵軍の数や実情の誤認はある種仕方ない事に思え、将帥達はその時において、自身が持ちえた情報を基に、
自身なりの推論で敵情を考察し、可能性が高いと思う事を選ぶしかなかったように思う。
なので、歴史上の戦史において、いくつもの戦いで、そういった敵軍の数や実情の誤認が起こっているように思うね。
信長公記を基にするなら、信長は限られた情報を基にして、
今川勢の状況を判断せざるを得ず、個人的には>>344にあるような、常識的な推論を基にして、
桶狭間山にいる今川の軍勢が、今川勢前衛の可能性が高いと判断したんだと思う。
ただ、結局それは今川義元本陣勢が安全な大高城に入らず、
織田側から攻撃可能に思われる桶狭間山に布陣している、という
織田側にとっては意外な実情によって、食い違う事になったんじゃないかと、個人的に思うかな。 >>349
またそうやって、変な事を書いているように思うけど、
実際に議論の流れとして、>>340にも似た事書いてあるように、
君が>>291や>>295において、論拠や論旨ではなく、数によって圧をかけようとしていると思われる行動を、
しているように僕には思われ、それは今のこの話題のはじめだと思うのに、
君がそんな事を書くのはどうかと思う。
それもさあ、また変な風に僕の書き込みを解釈しようとしてるように思うんだけど、
僕は、君が不可解な事を書くなら、こちらとしてもそれについて反論をしていくしかないように思うんだけど。
君が今書いている事は、>>343で僕が書いている事と趣旨が違うように思うんだけど、どうなの。
>卑怯
君は上記の一段落にあるような、議論の経緯において、指摘されているとしても、
都合のよくない所は答えないようにしているように思われるし、
上記343で聞かれてる事にも答えてないように思うけど、
それでそんな事を書くのはどうかと思う。
正直、上記343にも似た事書いたけど、君って自身が気が付いているのかはともかく、
かなり特徴的に思うんだけど。 >>353,354
>端的に言うなら、今川義元本陣勢の一つの仮定の構成としては、
>1.最前列 本陣勢所属の家Aの軍勢
>2.第二陣 本陣勢所属の家Bの軍勢
>3.第三陣 今川義元旗本勢
>というような感じであって、織田側の偵察要員が桶狭間山の今川勢を確認して、
>ぱっと見で確認できるのは、最前列の軍勢やその旗だけに思え、
>それよりずっと後方にいたと思われる、義元旗本勢の旗まで一気に確認するのは、
>厳しかったように思うけど、どうなの。
どうなのって言われても全部君の想像だからなあ。
ここまで史料に基づかない妄想について、どうなのっていわれても
「何を言ってるんだ、こいつは」とかしか思えませんが。
>>336の推論とやらについても同じ。
>正直、君って今すごく特徴的に思えるんだけど、
いや、君の方が特徴的やろ。。
全てにおいて何を言ってるんだと思ってます。 >>351
なんでせっかくとった砦を捨てて大高城に撤退するんだよ
だから正面攻撃説の君は馬鹿にされんだよ
一々アホな意見をどうでもいい長文で書きまくるからな >>356
そんな事書いたって、>>356にあるのは常識的な配置だと思うし、
信長公記を基にしても、桶狭間山の決戦において、まず信長は豪雨の影響もあって、今川義元本陣勢の前衛を攻撃して撃破して、
敗走する今川勢の中に義元旗本衆300人程を発見して、これに攻撃を集中してるように思う。
なので、少なくとも、義元本陣勢の最前列に義元旗本衆はいなかったように思われるのに、
なんで君はそんな事を書くのかな、と思う。
そもそも、僕の書き込みについて、そこまで書くのなら、君こそ、義元旗本衆が最前列にいたという事を、
資料に基づいて論証をした方がいいように思うんだけど、どうなの。
正直、もう君は、色々と無理があるように思うんだけど、そんな事を書かれても、としか。 >>359
の
>>>356に
は
>>353に、
に訂正をしておくね。まあ、上記356の人が僕の書き込みを大幅に引用してるように思うので、
そこに僕の書き込みがあると思えば、違ってもいないと思うけど、一応訂正はしておく事にするかな。
>>336の推論についても、僕は一応信長公記を基にして考慮をしてるので、
君がそう思うなら、君も資料などを基にして論旨で説明をしてみた方がいいと思うんだけど、どうなの。 >>357
だからさあ、君がそんな事書いたって、>>351にも似た事書いたように、
信長公記でも、三河物語でも、松平勢が織田側の砦を攻略した後で、大高城に移動してるのは、
共通してるように思う。
なのに、君がそんな事を書くって事は、君は信長公記も三河物語も参考にしないで、この桶狭間の戦いを語ろうとしてるように思うけど、
何の資料を論拠にして、そんな事を書いているのか、答えて欲しいと思うかな。
もともと、この桶狭間に至る戦いは、織田側が今川側の城である、大高城などを織田側の砦で封鎖した事で起きたように思うから、
今川側としては、織田側の砦を攻略して破壊したなら、必要がなければ維持しておく事もないように思うけど。 >>358
またその菅沼認定やってんの?と思うけど、
>>352にあるような感じで、ワッチョイスレでは、菅沼認定厨さんと思しき人が
特徴の違うように思われる幾人もの人々を菅沼認定し、
その矛盾についての説明を、菅沼認定厨さんと思しき人はろくにできてなかったように思うのに、
そんな事書かれても、って感じかな。
むしろ、同じく>>352に似たような事書かれてると思うけど、菅沼認定厨さんと思しき人の方が
IDコロコロや他人を装いをしている可能性が高いと思われる事を、指摘されていたように思うけど、
それでなお、菅沼認定に執着するのはどうかと思う。 >>355
知らんよ
この一連の流れも俺と他の人を
混同して返してるじゃん
あんたが自覚してないだけで相手は俺じゃないのまで俺のせいにしてる
そんなんばっかだぞ >>363
そんな事ないと思うけどなあ。そんな事を言うなら、君の書き込みはこれまでで、
僕が提示したのと何が違うのか、君の書き込みは何なのか、というのを、
提示してもらえると嬉しいかな、と思う。
まあ、僕も議論が主体なので、君が普通に議論をするなら、
そこまで追求しなくてもいいかとも思うので、君が嫌ならやらんでもいいとは思うけどね。 >>363
ついでに、>>354の僕の書き込みについては、ご同意いただけた、っていう事でいいのかな。 >>365
信長公記にどう書いてあるかについてなら
俺はそもそも異議を挟んでない
その内容が妥当で装飾を含んだものであるかどうか
という意味では多分にそうであると判断する
という話だけを繰り返している >>366
それについては、>>354にも似た事書いたように、信長公記の、桶狭間山にいる今川の軍勢を信長が
今川前衛と判断した事については、信長公記を基にするなら、いわば(結果として)信長の盛大な勘違いであったわけで、
それを糊塗しないで書いている事からも、そこに虚飾はないように思うけど。
これまた上記354に似た事書いたように、信長が、信長公記において、桶狭間山にいる今川勢を、
今川前衛と判断した事については、当時の情報収集方法の限界と、それで得られた情報を基に、
>>344に書かれてるような感じの、常識的な推論を基にした結果だと思われるから、
そんなに無理がないように思うけど、どうなの。 >>367
すまん何が言いたいのかわからんわ
「それについて」てどれについて?
「どうなの」って何が?
あんたが信長公記の小説的な記述を
全て信じ込みたいという気持ちなら
普通に伝わってるぞ
でも小説的な記述だなという印象は
何一つ変わらない
その中で信長が勘違いをしてるから真実だとか
乱暴な推論をしてるのを常識だとか言われても・・・
としか思わん >>368
そんなに難しい事書いてないと思うんだけど。
>どれについて?
これについては、君が>>366において、
>装飾を含んだものであるかどうか
と書いていると思われる事についてだよ。
君が信長公記においての、桶狭間の記述について、そのように思うとしても、
>>367に似た事書いたように、
信長公記において、信長が桶狭間山にいる今川本陣勢を、今川勢前衛と誤認している事については、
いわば主人公である信長が、明確に敵情判断を違えている、っていう事で、
飾って書くような事じゃないと思うんだけど。
もし仮に君の言うような、
>小説的な記述
とやらである場合、それこそ信長が明察な知性でもって敵情を完全に把握し、
桶狭間山にいる今川勢を今川本陣勢であると確信して、味方にそれを演説し、
義元を倒すように号令し、織田勢がそれに応じて奮戦する、という話にした方がいいと思うけど、
君はこれについてどう思うのかな。
信長公記は、一応織田家臣の太田が元主君である信長についてまとめた書物に思う。
なので、正直な話、仮に元主君を創作的に持ち上げるつもりで、元家臣が過去の戦いについて描く場合、
その戦いにおいて、元主君が敵情を明確に誤認している事を描く、なんていう必要性がどこにあるのかと思うんだけど。
仮に太田が創作的にそんな事をした場合、元主君を持ち上げるどころか、元主君が敵情を誤認していた事にわざわざしてる事になると思うので、
この部分について、太田が創作をする必要性が薄いんじゃないか、という僕からすると常識的な推論なんだけど、
この事について、君はどう思うのかな。 >>369
うん俺もあなたが難しいこと言ってると思わない
単に長々と似たようなこと書いてるなと思ってるだけ
創作は別に主君を完全無欠に描くためだけにする
というものではないので内容だけで判断はできない
また首巻は牛一の直筆本がなく書き方も大きく異なり
別人が書いている可能性も否定できない
牛一の手によるとしても当時信長の
家中にいなかった牛一が聞き取りして書いてる
聞き取りして書いてるので 信長本人に取材したわけではないのだろうから
記述自体が正確でないのは仕方ないのでは?
取材対象が
義元の本陣強襲部隊の中で本陣前衛に突撃した
人だった。
信長自身は更にそこから兵を割って義元の首を獲りにいった。
本陣突入は企図。成功は運。 >>370
その割には、>>368で君は
>すまん何が言いたいのかわからんわ
と書いていて、僕の書いている事を理解しがたいように書いているように思えたから、
僕は>>369においてそのように書いた、という話なんだけど。
>単に長々と似たようなこと書いてるなと思ってるだけ
と君は書くけど、上記369にあるような論旨は、上記369からしか書いてないように思うんだけど、
これについては、君はどう思うのかな。
仮に上記368の事を君が言っているとしたら、そんなに長くないように思うんだけど、
君はこの事について、どう思うのかな。
信長公記首巻の創作性については、稲生での信長の勝利の仕方とか読むと、
やっぱり信長を英雄として、持ち上げる方向で創作してる傾向が強いように思うけど。
全体的に信長公記首巻は信長について、好意的に書いていると思えるから、
(首巻以外の信長公記も、基本的に信長に好意的に書いていると思うけど。)
いきなり桶狭間の所だけ非好意的に創作する理由がわからないと思う。
そもそもの話として、信長公記首巻だけでなく、信長公記全体を通して、
信長に非好意的に創作してると思われる所ってどこかあるのかな。
基本的に太田はそんな事をしてないように思うんだけど。どこかあったっけ?
>牛一が聞き取りして書いてる
そうであるなら、太田が取材した誰か、は自身が経験した事か、
もしくは伝えられている事を、そのまま太田に伝えた可能性が高いと思うんだけど。
常識的に考えるなら、太田が取材相手に選ぶのは、その当時において信長に仕えていた人、
もしくはその縁者だと思うので、やっぱりその人達が信長に非好意的に創作をする理由が薄いと思う。 >>371
ちょっと君はどこのレスに対して、レスをしているのか、レスアンカー付きで示してくれるとありがたいと思う。
>>179 >>180にあるような感じで、信長公記を基にするなら、信長が城から出撃した時点で、
今川義元本陣の所在を知っていた形跡はないように思うし、そもそもこの時点で義元本陣が桶狭間山にいたのかも不明に思うし、
信長自身も出撃目的として、義元本陣を狙っていた形跡がないように思うんだけど。
仮に信長が城から出撃した時点で義元本陣勢を狙っていた、という事を君が主張したい場合、
(君に限らないけど、)
上記179 上記180とか、一部上記にも似た事書いているように、
1.信長公記を基にするなら、信長は丸根、鷲津の砦が攻撃を受けた報告を受けて出撃してるように思うので、
その目的は両砦の救援の為に、今川勢前衛と戦う事だったと思え、
この時点で今川義元本陣を狙ってる形跡も、義元本陣の所在を知っている形跡もないように思われる事、
2.信長公記を基にするなら、信長が出撃した時点で、義元本陣が桶狭間山にいたかは不明確な事、
3.信長が仮に義元本陣を狙いたいと思っていても、総帥である義元が自身の安全性を優先して、大高城とかに行ってしまえば、
信長が襲撃するのはかなり厳しいと思われ、義元本陣が織田側が攻撃可能そうな位置まで来てくれる、という
義元の気分次第で、しかも可能性の低そうな事を、信長が当てにして行動するか疑問に思われる事。
といった事ついて、まずは論拠を基にして答えて欲しいと思うかな。 >>371
ついでに、仮に君が仮に丸根、鷲津の砦が攻略された後で、
信長が今川本陣勢が桶狭間山にいる事を察知した、という事を主張したい場合、
>>353 >>359にあるような理由で厳しいんじゃないかと個人的に思う。 >>374
私は歴史研究家ではないのであくまで推論ですが
信長は合戦のかなり早い段階で野戦で義元を
撃退することを想定してたと考えてるので。
義元の行軍に関してはかなり早い段階から
情報収集を開始してたはずで、それが記録にないのは
合戦に勝利するためのトップシークレットだったから。
鷲尾と丸根が攻撃されてから動いたのは
両砦が落ちることで義元が大高城に入ることが
ほぼ確定的になると考えたから。
義元が砦陥落の報を受けて大高城に向かって確実に
動き出すのを確認してから本陣を急襲するためには
時間的に中島砦に入る必要があった。
はなから鷲尾と丸根は落ちること前提で、中島砦までの
行動は後詰めとみせかけたブラフだと思ってる。
砦の救援なら信長本人が動く必要ないので。
今川の本陣を確認するのは赤鳥紋のぼりが
あるかどうか確認すればよいはずで、
一般的に言われる義元の本陣部隊が3千から5千くらいの
規模であれば、斥候の位置にもよるけどおおよその配置は
目視できる範囲内に展開していたのではと。
なので信長の攻撃は確実に義元の位置を把握した上で
正面部隊と迂回部隊の2方向から攻撃をしたのでは?
と推論してます。
信長は情報の重要性と収集を当時の戦国大名のなかでも
かなり高いレベルで理解してた人物だと思ってる。 >>375
信長が義元本陣勢の場所を前々から知っていたという記述は、少なくとも信長公記にはどこにもないと思うし、
仮に信長がそれを得ていたって、当時の情報収集手段及び、その伝達速度を考慮すれば、
信長が城にいた時に知った義元本陣勢の位置が、信長が移動した時には変わってない保証なんかどこにもないと思うし、
>>373にも似た事書いたように、
義元本陣勢が織田側が攻撃可能そうな位置にいるかどうかは、完全に義元側の判断だと思うので、
そんな事当てにして飛び出して、攻撃できそうにない位置や配置に今川本陣勢がいたら、
それこそ信長は無駄足になるだけだと思うんだけど。
そんな不確定な事を、信長がする意味がわからないと思う。
>砦の救援なら信長本人が動く必要ない
当時の織田と今川の勢力関係で言うなら、信長自身が主力を率いて動かないとどうにもならないと思うし、
ただでさえ、総合的な軍勢数的には少なくとも今川の方が優位そうなのに、
そこで軍勢を小出しにする理由の方が分からないと思う。
この状況じゃ、可能なだけ当主である信長の元に織田は軍勢をまとめて、分散した今川勢の倒せそうな敵を狙うのがセオリーに思う。
その意味で、信長公記を基にするなら、信長は自身の直接率いる軍勢で、疲弊した今川前衛を狙っているように思うので、
セオリーにのっとった行動に思う。
義元直属部隊の旗指物の確認については、>>374に提示されている、>>353 >>359にもろに
それが厳しいと思われる理由について、書いてあると思うんだけど、なんで君読まないの?
わざわざそのまんま提示してあると思うんだけど。
>2方向から
そんな記述、信長公記にも、三河物語にもないように思うけど。
信長公記でも、三河物語でも、信長が直接率いる軍勢が、義元本陣勢を攻撃して勝利したのは共通してるように思うし、
複数方面から攻撃を仕掛けたと思しき記述は特にないように思うけど。 >>376
記述がないのは
取材先の人間がそれを把握してないからでしょ?
取材されてる方も自分の体験か聞いたことしかわからない。
大名の馬印は家来も同じものが立てられるっけ?
推論を推論で否定されても埒が開かないので
私は失礼しますね。 >>372
いや悪いが難しいこと言ってなくても
全体に何言いたいかわからない書き込み多いぞ君
部分的に何を言ってるかはわかるんだが
それを俺に力説してどうしたいのかということが多い
今回の書き込みもそうだな
俺は首巻の性質について断定はしていない
個人的には第三者が牛一の記述にない終わり一国時代を
書き足したものではないかと考えているが
牛一自身の筆によるものという説もあるので
諸説あるという認識
あなたは牛一自筆で史実
創作なら信長を褒め称えるためのもの
と断定してるけどそれには材料が足りんと思うよ 桶狭間にいた部隊が砦攻めた後の疲れた兵というのが正しい可能性もあるだろ。
士気上げるハッタリだった可能性の方がまだ高いかもしれんが。 >>379
ハッタリの可能性は結構あると思う
嘘も方便で勝利を導いた
というようにも読めなくはないんよね
ただそれも含め上洛後と比べた場合
公記の書き振りをどこまで信用していいか
というのは別の話なのだけど 合理的な現代人にいそうだけどいないタイプ
合理性そのものよりも周りの声や不安に惑わされることなくどんどん合理的行動ができる胆力が常人離れしていたんだろう
現代なら冷徹なプーチンに近い感じか >>381
むしろ「外聞」をいつも史料上でも気にしているから、民主政体の指導者に近いよ
民衆からの支持率を気にした最初の政治家 苛烈に行動する合理主義者というのは
昭和→平成的な信長感よね 革新的でもなければ合理主義でもなければ無神論者でもない
幕府・朝廷を重んじる常識的な人間やね