織田信長の人物像・人間像について考える
織田信長像というものは、明治以後も現代に至るまで、例えば神国である日本における、桶狭間の戦いのような奇跡的な勝利を挙げる軍人のモチーフとして現れたり、慣例にとらわれずに合理的な手段で改革を進める型破りな組織のリーダーや経営者の姿として、 時に応じて、断続的なものではないものの、断片的に日本人の精神の中にその姿を見せる存在となっています。 織田信長の人物像・人間像すなわち織田信長像についてみなさんで考えていきましょう。 >>96 無学なのでどれが「事実」かはわかりかねますが、 最終行内容はすげええ判る。想像つく。 確か日本では他人のまわし・・・ ああダメだ思い出せない。 桶狭間の圧倒的戦力差っつー話も実は怪しいんやろ 最近は今川義元最強説や浅井長政豪傑説をよう見るで 当時の京でもやらないような牛車や御輿に乗ってる勘違い公家モドきの太ってキモいおっさんと優柔不断でお家を滅ぼした典型的ボンボン 素直に考えたらこんなもんやろ このへんも信長さんの凄さを際立たせるために盛ってるんちゃうの 上総守とか名乗っちゃうからおそらく信長は官位への教養が低かったと思う 北野武の映画を見れば想像つく。 目が座ってる奴は怖い。 >>57 信長は正義漢だし。 しかも陣頭で自ら戦を指導。しかも その判断も優れていることが多い。(ヘマはあるが。) 声はよく通る響く声だし、武芸は鍛錬しているし、 仕事人間だし、まさに当時の英雄。 死後最も早く描かれた肖像画だと信長はいびつな形の頭で長い顔で左頬っぺたにほくろがあったな。なんか怖いって言うより気だるそうなオッサンだった 織田信長の家臣団―派閥と人間関係って本に書いてあったけど、母親に嫌われてたって話も根拠となる資料がないって 書いてあったけど、なぜ、嫌われてたってことに今日までなってるの? 信長の若い頃ってざんばら髪を纏めたでかい丁髷生やした髪型 してる事多いけど事、そういう髪型してたって記述はあるの? >>114 信長公記の首巻 「御髪はちやせんに、くれなゐ糸、もゑぎ糸にて巻き立て」と描かれてる 自らの名声の為に通説を捻じ曲げてまで新説を主張すればいいという今の歴史学会のスタンスでは永遠に事実などわからないだろう。 それで今一番迷惑しているのが織田信長である。 中身の伴わない新説なんてプロパーには相手にされないから名声なんて得られないし、むしろトンデモ説を唱える輩として腫れ物扱いされるだろうな 故人が迷惑しているとか、>>116 は信長と話ができると称して同人漫画を描いていた人か 関係ないスレで信長が評価されたのは平成に入ってから 大河だって信長主役は後からだと主張してる人がいたが ドラマにする場合、信長は秀吉と被っちゃうからな 近年は秀吉の評価が下がってきたから信長メインが増えてる可能性はあるな 残忍な革命児信長像は山岡荘八が作っただとかイワン雷帝をモデルに日本陸軍が作っただの聞くなぁ >>119 しまいにはスレも立ててたけど、あそこまで自説を絶対視してるのもどうかと思う 信長が確実に呼んだと言える和歌ってある?信長記には載ってるようだけどまぁあれじゃん 封建的な人物だと言うことが最近の研究でわかってきているんだって 吉川英治や司馬遼太郎の影響で、秀吉からみた暴君信長像が昭和の大衆の原像だったと いうことがおおきいんじゃないか。「サル!」だの「イヌ!」だの暴言はいて、気分次第で上級 武将を殴り飛ばしたり粛清したり。平成ころから信長像を問い直すような小説が出始めて流れが 変ったようにおもう。個人的には津本陽の「下天は夢か」が面白くて、個人的な信長像が大きく かわるきっかけになったわ。 下天は夢かって武功夜話が元ネタだし有名所の戦国時代小説の中じゃ一番あかんやつだろ 間違った知識を世間に振り撒いたという点では司馬遼太郎とかよりもタチが悪い 信長公記読むと猿だの金柑だの全く言ってないんだよな まあ太田牛一が聞かなかったか省いたかした可能性もあるけど そもそも太田牛一って途中からは丹羽長秀付きで信長の側にはいなかったんでないの? さらにいうなら、まことは、「豚」に反応しているのだろうか 牛一さんは秀吉に仕えたからね、ご主人様の悪いことは言えん ましてや秀吉は光秀関連の資料をみんな破棄させたというじゃない >>131 では側室に鍋だのひょうし、たこ、とか台所にある名前つけたって言うのも嘘? お鍋さんはいますよね。 >>103 不意打ち食らって死んだのは今川義元も織田信長も同じ。 まあ信長は首だけは敵に渡さず切腹したらしいが。 藤吉郎が草履を差し出した。履いてみたら温かかった。その理由(わけ)を次の中から選べい! なお正解者は家臣に取り立てる。 Ⓐ藤吉郎の心がこもっていたから。 Ⓑ藤吉郎が尻に敷いていたから。 豪商加藤図書とか土豪横井時延とか取り込んで、とにかくカネ儲けに長けてる奴を重用してたイメージ。 実は戦争っていうものが大嫌いだから天下統一したかったんだろうなあって思う 戦争をなくすために戦争をするしかない矛盾を生きた人 信長、秀吉、家康はサンカの出身だという説があるけど、 ココの人たちはそれどう思う? >>1 桶狭間の戦いは別に奇跡ではなくで信長の代表的な奇襲戦なんだけどな 牛一の信長記見てわかるように太田牛一も信長の作戦知らされていないし 清州城の家臣は全く信用されていないのな 間者による情報漏洩を恐れての行動で長篠の戦でも信長が同じような行動をとり酒井に奇襲させるのな 桶狭間の戦いも信長が信頼していた武将のみに知らせていた奇襲作戦 桶狭間が奇襲ていうのはとっくに 否定されてんじゃなかったっけ >>149 それは信長記によってだけどよく読むと太田牛一自身が信長の真意をわかっていないからな ただついていっただけで何がそこで計画されて行われたかは書かれていない 安倍「プーチンは言ってみれば戦国時代の武将みたいなもの。たとえば織田信長に人権を守れと言っても全然通用しない」 [デデンネ★] https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1650610796/ 信長公記に若き日の信長の鷹狩りの様子が描かれているが @「鳥見の衆」と呼ばれる斥候を各地に先行させ、どこにどんな鳥がいるか調べて 獲物を見張り、1名は報告に戻る A 鐙にわらを巻き付けた「馬乗り」が、鳥のまわりをゆっくりと乗り回しながら 徐々に獲物に近づく B 馬乗りの陰に隠れていた信長と鷹匠が飛び出して鷹を放つ C 獲物の周りで百姓に扮して田を耕していた「向待ち」が鷹が組み付いた鳥を押さえる 獲物の情報を得たうえで、獲物には自分の存在を悟らせないまま虚をついて仕留める。 ここまで読むと信長は桶狭間で義元相手にこれをやったのだと気づく。 よって桶狭間の戦いは、基本奇襲であったと自分は考える。 >>153 それが正解だと思うね 従来型の桶狭間奇襲が正しいね 信長は用心深い性格だし桶狭間の戦いでも清州城の家臣には何一つ真実を語っていないし 織田軍2000が義元本体5000を攻撃したのが桶狭間の戦い。 兵数2000で奇襲は無理。ぜったいに気づかれる。 実際は雹が混ざるほどの激しい豪雨が降ったので 2000の兵が今川方に気づかれることなく義元本体に接近できただけ。 つまり、桶狭間の戦いは狙った奇襲攻撃が成功したのではなく 豪雨のせいで奇跡的に勝てただけなのだ。 雨が降らなければ信長は殺されていただろう。 >>155 偶然の嵐が信長の勝利に寄与したという点は同意。 信長公記では信長が(義元本陣の)山際に近づいたところで豪雨になったとある。 これは義元が「豪雨の前も」織田勢の接近に気づいていなかったことを示している。 そしてこれが信長が企図した結果だということは、全体の記述から明らかだろう。 つまりは奇襲だったということである。 豪雨の雲(ゲリラ)って俺の地方だとに来る方向ってパターン化してた 南西から此方へ黒い雲が雨を降らせながら向かってくるのが屋上から見える 商業施設の設備やってたから浸水を防ぐ土嚢や排水道具とかの準備してた まだガラケーでネット黎明期の頃 尾張の国はわからないが、少なくとも地元民経験値で遠くに見えるゲリラ豪雨雲の移動予測は出来たのではないかと思う 信長なら義元の本陣とゲリラ豪雨雲の当たるタイミングは計算していたかもしれない >>156 そもそも、信長公記で言うなら、信長は自身達が戦おうとしてる軍勢を、 大高城に兵糧を運んで、丸根鷲津で戦って疲れてる今川の前衛部隊だと解釈してた、っていう話になると思う。 信長公記をそのまんま解釈するなら、そうなると思う。 >山際 これも義元本陣に近い所まで言ってたのか、もっと遠くの距離での山際だったのか、微妙に思うし、義元本陣が気が付いていなかったかも不明瞭としか。 少なくとも、信長公記を読むなら、の話だと。 >>157 さすがに、信長公記でさえ、予想外の豪雨だったように書いているように思われるし、織田勢の反応もそんな感じに思えるので、そんな事はないように思う。 >>158 信長の「今川の武者どもは(略)鷲津・丸根に手を焼いて」云々というセリフは、 すがりついて止める家来に対し、「敵は疲れているから恐れず進め」という 鼓舞として言ったのであって、自身が戦おうとしている軍勢を これらの前線部隊であると解釈していた、と考えるのは無理がある。 なぜなら信長は先ほどの鼓舞のなかで @前日の夜に糧食をとり A夜通し大高へ兵糧を運び B鷲津・丸根に手を焼いて披露しきっている と前線部隊(松平元康隊)の行動を完全に把握しているからである。 このような信長が中島砦から桶狭間方面に移動するに際し その方面の敵を両砦を攻略した前線部隊であると思った、というのは あり得ないことと考える。 (普通に考えて信長でなくても間違わないとは思うが。。) >山際 信長公記の桶狭間合戦に関する記述の中で、山というのはおけはざま山しかでてこない。 このような文章で山とだけ書かれている場合、前述の山を指すのが一般的と思う。 また豪雨が過ぎた直後に信長が今川勢に攻めかかっていることから その山に今川勢が布陣していたことが分かる。 この一致から織田勢が近づいたのはおけはざま山の山際である可能性が大きい。 さて織田勢に攻めかかられた今川勢は算を乱して崩れたとある。 これが攻撃を予知していない部隊の反応であることは言うまでもない。 その際義元の塗輿も打ち捨てて逃げたとのことなので、その部隊は義元の輿を担ぐ人達の 所属する部隊(義元本隊)ということになる。 (しかしながらその後信長が「義元の旗本はあれだ、あれにかかれ」と下知していることから 義元の旗本とは遠目にそれと分かる程度の距離があった) 桶狭間奇襲説の否定は信長公記の解釈によるとのことだが 信長公記に基づきやはり奇襲であったと自分は考える。 >>159 君がそんな事を書いたって、 逆に信長がその時点で、桶狭間山にいる軍勢を、義元本陣だと認識していた、 という論拠自体が無いと思うんだけど。 少なくとも、信長公記を読むなら、その時点で信長が義元本陣の位置を知っていたと思しき記述はどこにもない様に思うし、 義元本陣の状況を知る情報を得ていた形跡もないように思う。 そんなの、敵軍勢の前衛部隊が行う当たり前の事だと思うけど。 信長には、信長公記を読むと、敵が大高城に兵糧を運んだ事、 その後で織田側の丸根、鷲津の砦を攻撃した事、は報告が入っているように思われるし、 その後で救援に向かう信長は、信長公記だと、丸根、鷲津が攻略されたと思しき煙を確認してるように思われるので、 今川勢のここまでの動向は普通に信長は把握してると思う。 問題は、この後の今川勢の動向で、今川勢前衛の松平勢が、信長公記を読むと、 丸根、鷲津が攻略された後で、後方の大高城に戻って休息している事を、 信長がその当時に知れた形跡がないと思われる事。 上記のように、信長は丸根、鷲津の砦が攻略された事さえ、少なくとも、信長公記を読むと、 直接的な情報ではなく、救援に向かって移動中に、それ(丸根、鷲津が攻略された事)を示すと思われる前線からの煙で確認してるように思うので、 この後の今川勢前衛の動向を、信長が知れたと思われる記述は、少なくとも信長公記にはないように思う。 つまり、信長公記を読むと、信長が桶狭間山の軍勢に向かって移動しようとした時に、 義元本陣や今川軍前衛の動向を示す情報を得ていた形跡は、少なくとも僕にはないように思える。 この状況で、信長としては、前線に来ている自身達にほど近い位置にいる、今川のまとまった軍勢を、 順当に今川軍の前衛だと思うのは、極めて自然なように思うけど、どうなの。 >>160 山といったって、結構範囲が広いと思うので、豪雨が来た時に、信長が近づいていたのが、 義元本陣の近くだったかは、まだ疑問の余地があると思う。 言ってみれば、桶狭間山の、義元本陣が布陣していた場所から結構距離のある山際に来た時に、 豪雨が来て、信長公記を読むと、その雨は今川勢にとっては正面から当たる雨で、 桶狭間山の方に向かう織田勢にとっては後ろに当たる通り雨だったように思うので、 そのまま今川勢が前線の状況を把握しにくくなってる状況で、織田勢は義元本陣近くまで移動し、 織田側にはその通り雨が行き過ぎて、今川勢にはまだ当たっていると思われる状況で攻撃した、 っていう解釈も可能だと思う。 上記に書いたように、信長公記を読むと、その豪雨の通り雨は、桶狭間山の方に向かう織田側にとっては背中に当たり、 今川勢にとっては正面から当たる向きの雨だったように思う。 なので、今川勢にとっては正面から当たる向きでいきなり豪雨が、しかも信長公記を読むと、 雨の勢いでそれなりのサイズと思しき木が倒されてるように思うので、 そんなのが正面から当たってきたら、前線の把握どころじゃない状況になっておかしくないと思う。 それで、そうやって今川勢が混乱してる所に、上記のように信長公記を読むと、 今川勢と違って、通り雨が背中に当たる向きで、しかも通り雨が今川勢より先に移動しきって落ち着いた織田勢が攻撃を仕掛けてきたなら、 今川勢は文字通り戦闘どころじゃなくなって、逃げ出すのが普通だと思う。 信長は、信長公記を読むと、今川勢が混乱して敗走した事で、義元の塗輿が捨てられたと思しき描写の後で、 義元の直属部隊について言及してるように思う。 なので、この時点まで信長が自身達が戦っている部隊が、 今川勢の本陣であるかを知っていたのか、疑問に思う。 >>161 にあるような感じで、 少なくとも、信長公記を読むと、信長が桶狭間山に向かって移動しようとするまでにおいて、 信長が義元本陣の場所がどこなのか、を知れるだけの情報を得ている形跡はない様に僕は思う。 呉座勇一の新書が信長などの武将の神格化・人気に至るまでの過程を書いたものだった。 >>161 >逆に信長がその時点で、桶狭間山にいる軍勢を、義元本陣だと認識していた、 >という論拠自体が無いと思うんだけど 信長が善照寺砦に入った際の記述 「軍兵を立て直し、軍勢をそろえられ戦況をご判断なさる。 敵の今川義元は四万五千人の兵を率い、いま桶狭間山で人馬に休憩を与えているところであった」 善照寺砦で報告を受けたことが分かる。 >>164 それは厳しいと思う。 >善照寺砦で報告を受けた 仮にこんな事になってたなら、その後の信長公記にある記述と矛盾してしまうと思う。 なぜなら、信長公記において、信長が桶狭間山の敵に向かおうとした時に、 家臣達が引き留めて、それに対して、信長はそれが疲弊した今川勢前衛だと説明してるように思う。 だけど、仮に善照寺の砦の時点で、桶狭間山にいるのが今川義元本陣だという情報が織田勢にもたらされていたなら、 家臣達に信長が桶狭間山にいるのが今川勢前衛だと言っても、困惑されるだけに思う。 そもそも、信長公記の桶狭間の戦いにおいて、家臣達が信長を引き留めているのは、その前の善照寺の砦からの移動の時もそうと思われ、 この時に信長を引き留めたのは、信長公記を読むと重臣達のように思うから、 信長が桶狭間山の敵に向かおうとした時に、それを引き留めようとしたのも、重臣達に思う。 なので、重臣達であるなら、善照寺の砦の時点で仮に桶狭間山にいるのが今川義元本陣だという情報が、 織田勢に入っていたら、それを知ってるはずに思うので、 その重臣達に対して、信長が桶狭間山にいる敵を今川勢前衛だというのは、個人的にあり得ないと思う。 >>165 の >それが は 信長公記において、桶狭間山にいると思しき敵軍勢の事だね。 わざわざ書かなくてもわかるとは思うけど、わかりやすくする為に補足説明をしておくね。 >>163 呉座先生は色々と大変な目にあったが、非を素直に詫びつつよく耐え忍んだよ 正義の棍棒を振りかざして袋叩きしていた側のまあ醜いことったらありゃしない >>165 信長は情報漏洩を恐れて清州城の家臣には何も教えていないからね 太田牛一にも教えていない そんな何も知らされていない家臣たちが止めただけ 信長の行動はかなりおかしい 清州城の家臣には何も教えないどころか無視して城を出ている ついてきた家臣=太田牛一(信長公記の作者)にも何も教えていない しかし桶狭間の戦いでの今川強襲には2000人余りが参加した まあどう見ても信長は清州城にいた家臣ではなく他の古参の家臣と共に奇襲作戦に及んでいるよね で作戦を理解していない家臣をその場で何とか説得させようとしている つまり信長は清州城の家臣にもスパイ=間者がいると想定していた そして桶狭間の奇襲主力部隊は初めから今川義元を監視しており現地でひそかに展開していた その情報を逐一信長に伝えておりあとは信長到着を待つだけであった >>170 この時の信長自身が若いし周りの家臣も若かったので古参という表現は間違いだった 林や柴田は弟についていたのでまだ完全に信用しておらず柴田の家来の太田にも詳細は明かしていない 但し親しい家来と作戦を練ったのは間違いないと思う 今川強襲も初めから計画されたものだった 信長は本当は隠れながら迂回して今川強襲部隊と合流する予定だった しかし強い雨が背中から降ったのでこれ幸いと最短ルートを選んで進軍した これが信長の判断 そこで今川強襲部隊と合流して位置を特定されている今川義元を囲いながら攻撃したのだ 今川強襲部隊こそ信長の信頼していた精鋭部隊であった 彼らは既に現地に展開していたが、完全に姿は消していた これが桶狭間の真実だと予想する 今川強襲部隊とは信長が信頼を寄せていた部隊 佐久間盛重は丸根砦を守り戦死 前田利家は参戦していたものの出仕停止中で何も知らず 森可成佐久間信盛丹羽長秀織田信房らが中心 この作戦は練りに練った作戦だったので情報漏洩だけは阻止せねばならなかった それが清州城の信長の行動の答えであった つまり 「迂回攻撃説」 「正面攻撃説」 「別動隊説」 「乱取り状態急襲説 」 全部が実は概ね正しい事になる ただ解釈の仕方が異なっただけで 全面的に同意する。 もともと兵力差もなくて勝って普通とか、近くの敵攻撃したら たまたま義元本陣だったとか、だったら当時からそう言われてるだろう。 >>175 確かに 信長公記にもあるようにただ単に秘匿された戦が桶狭間の戦いだった 筆者の太田も佐々成政も家老の林も内情は全く知らなかった >>176 信長公記を読むと、信長が秘匿してる傾向なんてまったくないように思うんだけど。 >>165 にあるような感じで、信長が独自に情報を得ている形跡もないと思うし、 重臣達がそれを知らないという論拠もないように思うのに、 なんで君はそんな事を書くのか、そっちの方が疑問に思うけど。 >>175 そんな事を言ったら、信長奇襲説の基になったと思われる、甫庵信長記の描写、 一応同時代の他家の記録である甲陽軍鑑、太田の記録である信長公記、の全てで 桶狭間の描写は違ってるように思われるのに、君がそんな事を書いたってしょうがないと思う。 織田側の家臣である太田がまとめた信長公記の方が、比較的他の資料よりは信ぴょう性高そうに思われる、 っていうだけの話だと思う。 >>167 おや、また菅沼認定厨さんと思しい君は、菅沼認定なんかをしようとしてるのかな、と思うけど、 その菅沼認定については、ワッチョイスレにおいて、菅沼認定をされた特徴が違う何人もの人々がいたように思うし、 その矛盾について、菅沼認定をしている人が、ろくに答えられてないように思うのに、 そんな事を書いてもしょうがないと思うのだけど、どうなのかな。 いい加減、君自身でさえ、その矛盾についてろくに答えられないように思われる認定を、 他人にしてもしょうがないと思うんだけど、どうかな。 むしろ、ワッチョイスレにおいて、菅沼認定厨さんと思しき人が、IDコロコロや他人を装う事をしている可能性が高い事を指摘されてたように思うのに、 それで君がそんな事を書くのはどうかと思う。 >>169 そんな描写、少なくとも信長公記にはないと思う。 信長だけが独自に情報を得ていた記述も、それを伺わせるような描写もないように思う。 それなのに、君がそんな風に書くのはどうかと思う。 >>170 >>172 >>171 だから、上記に書いたように、信長公記には、それを伺わせるような記述がどこにもない様に思うのに、 それでそんな事を書くのはどうかと思う。 信長公記を読むと、>>161 にも似た事書いたように、信長が城にいた時に認識していた事が確実と思われる情報は、 1.今川軍が大高城に兵糧を運んだ事、 2.今川軍が丸根、鷲津を攻撃した事、 の二つだけに思うけど。 信長は、信長公記を読む限り、2.の情報が入った時点で急いで出陣の支度をして出撃してるように思うし、 上記161にも似た事書いたように、移動途中で丸根、鷲津の砦攻略を示すと思しき煙を見て、 二つの砦が攻略された事を知ったように思う。 つまり、信長公記をそのままシンプルに解釈するなら、信長は城を出た時には、 その目標は、大高城に兵糧を入れ、その後で、丸根、鷲津を攻撃した今川軍前衛を攻撃して勝利し、 丸根、鷲津を救援する事だったように思うけど。 少なくとも、丸根、鷲津が攻略されるまでは、信長公記に今川勢の本陣が今川軍前衛よりも前に出てきていた事を示す記述はないように思うし、 常識的に想定しても、今川軍の動きは、 2−1.今川軍前衛が大高城に兵糧を運び込む、 2−2.今川軍前衛が2−1.の後で丸根、鷲津を攻撃する、 2−3.今川軍前衛が丸根、鷲津を攻略した後で、前衛の松平勢が後方の大高城に戻って休息し、 今川軍本陣が前に出て桶狭間山に移動、 というプロセスのように思う。 なので、丸根、鷲津が攻略されるまでは、今川軍前衛を差し置いて、 今川軍本陣が前に出てきている事はなかったように思うし、信長が城を出た時点では、 今川軍本陣に狙いを定めるような状況にも、なってなかったように思う。 これらから考慮するに、上記にあるように、信長は、今川軍前衛が大高城に兵糧を運んだあとで、 丸根、鷲津を攻撃している所に戦いを挑み、その疲弊をついて勝利し、丸根鷲津を救援しようとした、というだけに思う。 しかし、上記161や上記にあるように、移動途中で丸根、鷲津が攻略された事を知った信長は、 戦略を変更し、丸根鷲津を攻略してさらに疲弊した今川軍前衛を攻撃して戦果にしようとし、周囲の今川勢を探した所、 自身達から近くにいる、桶狭間山にいる今川の軍勢を、その前衛だと思い込んだ、っていうだけに思う。 そもそも、常識的に考えれば、信長がいくら今川義元本陣を攻撃したい、と思ったとしても、 その為には、今川義元本陣が前衛よりも前に出てくる、という事態になっていなければ、まず厳しいように思うし、 仮に義元本陣が大高城で休息でもしてたら、それこそ狙いようがない様に思う。 信長はただ単に、その時の今川軍で自身達の近くにいた、桶狭間山にいる軍勢を、 常識的に今川軍前衛だと思っただけに思うし、それは特に不可解な判断でもないように思う。 >>173 >>174 だから、>>179 にも似た事書いたように、信長公記をそのまま読めば、 信長は丸根、鷲津の砦に攻撃が仕掛けられた情報を受けて、急いで出撃したように思うので、 この時点で信長が今川義元本陣の所在を知っていた形跡は信長公記には、少なくともない様に思うし、 シンプルに考えれば、これは丸根、鷲津を攻撃されて、その救援の為に急いで出撃した、としか解釈の仕様がないように思うけど。 そもそも、これまた上記179にも似た事書いたように、信長が今川義元本陣を狙おうと思うのは結構だけど、 それを可能にするには、今川義元本陣が、信長がそれを攻撃可能な位置や状況にいないと厳しいように思う。 今川義元本陣が、そんな都合いい場所に出てきてくれるかは完全に未知数で、 仮に出てきてくれていたとしても、その前に今川軍前衛がいて、それを守護していたら、 それこそ信長の計画は厳しいと思う。 さらに、これまた上記179にも似た事書いたように、義元本陣が大高城にでもいたら、それこそ信長の計画はお手上げ、っていう事になってしまうと思う。 そもそも、信長公記においての桶狭間の描写を基にしてさえ、豪雨が来なかったら、 信長勢が今川義元本陣に勝てたか疑問に思うし、不確定要素が多すぎると思う。 そもそも、上記179にも似た事書いたように、今川義元本陣が桶狭間山まで移動したのは、 丸根鷲津が攻略された後のように思うので、 信長公記において、信長が丸根、鷲津の砦が攻撃された事を報告され、急いで城を出た時点では、 義元本陣は桶狭間山になんかいなかったと思う。 この時点で、丸根、鷲津が攻略された後に、今川軍前衛の松平勢が後方に下がり、 今川義元本陣が桶狭間山にまで出てくる事を想定可能な情報なんか、特にない様に思う。 なので、信長は特にそんな事を当てにしないで、上記179にも似た事書いたように、 丸根、鷲津を攻略した後の今川軍前衛が、 順当に引き続いて前に出てくる事を想定し、疲弊したその軍勢を攻撃して勝利しようとしていた、 っていうだけに思う。 >>179 それは信長公記の作者や周りの家来が認知していた事実だろう? それの再確認に過ぎないと思うけどな >>180 >信長が今川義元本陣を狙おうと思うのは結構だけど、 それを可能にするには、今川義元本陣が、信長がそれを攻撃可能な位置や状況にいないと厳しいように思う。 >今川義元本陣が、そんな都合いい場所に出てきてくれるかは完全に未知数で、 仮に出てきてくれていたとしても、その前に今川軍前衛がいて、それを守護していたら、 それこそ信長の計画は厳しいと思う。 織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正の父とされる)が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話である。 そもそも今が義元は見晴らしのいい桶狭間山に陣を取っていた これは信長の計画通りだった つまり豪雨がなければ迂回しなければなかった >『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。 これはなんとか味方を動かすための詭弁 >>179 >しかし、上記161や上記にあるように、移動途中で丸根、鷲津が攻略された事を知った信長は、 >戦略を変更し、丸根鷲津を攻略してさらに疲弊した今川軍前衛を攻撃して戦果にしようとし、周囲の今川勢を探した所、 >自身達から近くにいる、桶狭間山にいる今川の軍勢を、その前衛だと思い込んだ、っていうだけに思う。 ええ?信長はなぜか?桶狭間山にある本陣をまっすぐ狙っているぞ? 丸根、鷲津を取るのなら後ろから攻撃だろうが その場合には挟み撃ちになる 桶狭間山に義元がいないのに突っ込めば丸根、鷲津の兵がやがて気がついて挟み撃ちにされる そんなアホな作戦で桶狭間山に突っ込んだのかよ? まずありえないよな どっちを攻撃するにしても自爆 元から桶狭間山に義元がいないとわかっているのなら攻撃はしないはずなんだがな 信長は熱田神宮で先勝祈願をしているが 作戦は練られたものであったが実は完全に自信はなかった だから本来は迂回する予定であったが強い雨という事もあり正面よりの行軍を実施した その姿は実は今川軍からも見えていた そして待機していた強襲部隊からも丸見えだった そこで急襲部隊の指揮官は信長にすぐに近づいて信長に号令をかけさせて 今川本陣を計画通りに強襲した 今川本陣を取り囲んでいた急襲部隊はずっと隠れて待機していた 繰り返すが信長は既に義元の位置を把握していた >『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。 こんな詭弁を最後まで言っていたのは義元のスパイを恐れていたから 裏切りを恐れていたから これは一貫している 最後の最後で義元の首を取る事を命じた つまり信長についてきた家来ですら信長は最後まで信用していなかった それは繰り返すが前田利家や信長公記の作者の太田牛一も含まれていた >>183 あのさあ、信長公記を読む限りだと、信長が豪雨が来た後に、ルートを変えたと思しき記述は 無い様に思うんだけど、君は何を言ってるのかな、と思う。 君が言うような部隊の存在は、信長公記を読んでる限りじゃ、どこにも伺えないと思うんだけど。 信長公記を読むと、信長の率いる軍勢が戦っているだけで、君の言うような部隊が動いたと思しき形跡はどこにもないように思うけど。 >>181 だから、そういう話じゃなくて、信長公記を読む限りだと、 >>179 にも似た事書いたように、信長が城から出陣をしたのは、 丸根、鷲津を今川勢が攻撃して、その報告を受けた後に思うので、 この時点じゃ、今川義元本陣が桶狭間山に移動してたと思しき様子は伺えないと思うし、 信長にそれを判断する材料もないと思うのに、どうやって信長がそれを知るのかと思うんだけど。 まあ普通に考えて桶狭間山にいて馬も持っていて前からくる信長も見えている それなのになぜか?逃げきれなかった今川義元 どう考えても信長公記の太田牛一の目からは説明できないおかしな面が多数出てくる >>184 だから、どうやってそんな位置を知るの。 >>185 にもあるような感じで、信長が城から出撃した時点では、 今川義元本陣はまだ桶狭間山にいなかったと思われるのに、 そこを襲撃する為に動くはずもないと思うんだけど。 >>185 うーん、別に信長公記だけが正しい訳じゃないんだけどね まあそんな長文書く暇があれば自分が書いたモノも見てくれよ >この時点じゃ、今川義元本陣が桶狭間山に移動してたと思しき様子は伺えないと思うし、 信長にそれを判断する材料もないと思うのに、どうやって信長がそれを知るのかと思うんだけど。 織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正の父とされる)が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話である。 これはね今川軍の位置ではなく正確に言うと義元の位置な 善照寺砦から、桶狭間に近い中島砦移動しようとするときには義元の位置がわかっていた だからその時信長は内心義元が前進しないかと焦っていた >>186 それは普通に信長公記の描写で説明がつくと思うけど。 >>162 にも似た事書いたように、信長勢が移動してきた時に、ちょうどよく豪雨の通り雨が来て、 それが今川本陣勢にとっては前から当たる豪雨で、前方の確認や備えがうまくできない状況になって、 そこを織田勢に襲撃されて崩され、義元はその豪雨でぬかるんだ道を逃げる時に、うまく逃げきれずにやられた、 で十分理解可能だと思う。 >>188 >>182 >『信長記』等に これってまさか甫庵信長記の事?創作色が強いと思われる、この資料を信長公記より上位に置くのはどうかと思うし、 甫庵信長記でも、君が言うような事を梁田がしてたかなあ?と疑問に思う。 俗説の類の話をしてない?と思えてしまうんだけど。 >>189 >>182 梁田については、>>190 にあるような感じで、俗説のように思うけど。 だから、>>179 >>180 にあるような感じで、丸根、鷲津を攻略した後で、 今川軍がどのような配置で前進するか、なんていうのは、完全に今川勢に属する事だと思うから、 信長が完全にそれを決める事は出来ないと思うし、 繰り返し言うけど、上記179 上記180にもあるような感じで、信長が城を出た時点では、 桶狭間山に今川本陣がいる事を示すような情報は、信長公記にはないように思うし、 信長がそれを受け取った形跡もないように思うのに、どうやってそれで桶狭間山に今川義元本陣が来ることを予想して、 それに狙うのかな、と思うんだけど。 仮に信長が桶狭間山に義元が来ると思って、それを狙って倒そうと思っていたとしても、 もし今川義元本陣が大高城に留まる事を選んで、今川勢前衛をそのまま進出させる、 という常識的な行動をしたら、それだけでそのプランは崩壊してしまうと思う。 常識的に考えたら、義元本陣を前衛よりも前に動かす、なんていうのは、あまりないと思うから、 信長が桶狭間山にいる今川勢を順当に今川勢前衛が進出してきた、と思うのは、極めて自然だと思う。 >>190 いいや義元軍は信長軍になぜか囲まれて攻撃されているぞ それが数回繰り返さたことで50騎になりやられている 信長公記の描写でも説明できないところは多々あるからな 他のいろいろな記録を見てみないと全体像は把握できないぞ >>191 思うんだけど、君は軍事についてはど素人だよね? だからおかしな事ばかり平気で言うんだよ 信長は言うて当時の軍事のプロだよ >>191 あの当時でも普通に信長直轄の斥候は存在したんだよ つまり24時間今川軍を監視していたという事 >>182 の2 >>185 にも似た事書いたように、信長公記を読むと、信長が豪雨が降った後に道を変えたと思しき記述は、 ないのでは、と思う。 >>179 >>180 にあるような感じで、>>161 にも似た事書いたように、 信長公記を読むと、信長がその時点で桶狭間山にいるのが、 今川義元本陣だという事を知っていたと思しき記述がない様に思う。 >>195 そりゃそうだ なんせ信長公記の作者の太田牛一自身も桶狭間強襲作戦については何も知らないんだから しょうがない >>192 >なぜか囲まれて 何が疑問なの、と思うけど。 信長公記を読むと、>>190 にあるような感じで、 豪雨を前向きに受けた今川勢が、織田勢に襲撃され、それによって崩れが起き、 その敗走する今川勢の中で、300程の今川義元直属部隊が、信長軍の執拗な追撃を受けて、 50程になって、さらに攻撃を受けて倒された、っていう感じに思えるから、 特に疑問に思う所もないように思う。 >>193 それ言ったら、君だって普通に素人としか思えないんだけど。 そもそも、信長が玄人だろうが、素人だろうが、>>191 にも似た事書いたように、 今川勢が丸根鷲津を攻略した後で、どのように軍勢を部署して移動するか、 なんて信長が決められるわけもないと思う。上記191にも似た事書いたように、 信長に出来るのは、順当で常識的な予想、すなわち、今川軍前衛を普通にそのまま前に行かせて、 義元本陣は後方で待機、という予想を立てて、それに対応して、疲弊した今川勢前衛を攻撃して勝利する、 という堅実なプランを立てて、それを実行する事だったと思うし、 これは堅実で相応に無理のないプランだったと思う。 >>196 そんな事を信長が考えていたという論拠自体が、信長公記を読んでも、特に無い様に思うし、 そんな事を計画するだけの情報や状況が、>>179 >>180 にあるような感じで、信長公記を読んでも、 信長が城から出た時点では、なかったように思うのに、 なんで信長がそんな事を計画するのかな、と思う。 >>198 信長は全部秘匿した だから今川義元に与するスパイと言うか間者もその様子をそのまま今川義元に報告した だからこそ桶狭間の戦いに勝利する事ができた 今川義元の位置が送られた時期は知らないが 逐次報告は信長に送られていた だから善照寺砦から、桶狭間に近い中島砦への無理な移動 そして豪雨とは言え中島砦から桶狭間山へのわけのわからない前進があった そして都合のいい桶狭間山の義元の完全包囲があるのな >>182 だから、>>179 にも似た事書いたように、順当に信長は、 大高城に兵糧運び込みを行い、丸根、鷲津を攻略して疲弊した今川軍前衛が、 そのまま前進して桶狭間山にいると思って、それを攻撃して勝利する、っていう事を考えて、 それを実行しようとしただけに思うけど。 >>195 とかにも似た事書いたように、信長が桶狭間山にいる今川勢に向かおうとした時点で、 信長が今川勢本陣の所在に関する情報を得ていたと思しき記述は、少なくとも、信長公記を読む限りでは、 ないように思う。 何を言ってるの?君。 信長は、丸根鷲津が攻略された後で、桶狭間山に今川勢前衛がいると思って、 それを攻撃しようとした、っていうだけの話だと思うし、 君の言い方で言うなら、桶狭間山に今川義元本陣がいたって、 丸根鷲津を抑えている今川勢の救援は想定しないといけない、っていう話になると思う。 桶狭間山に義元本陣がいる状況でだけ、他の今川勢が動かない、なんていう話は無いと思うけど、どうなの。 実際には、距離的にも戦闘時間的にも、すぐに駆けつけてくるのが厳しかった、っていうだけに思うし、 信長もそれを想定していたからこそ、特に信長公記でも、それに言及してないんだと思う。 >>199 義元は馬に乗っているのに逃げきれなかった まずそれがおかしいと思わないとな read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる