いい加減三英傑の中で一番優れてた人物を決めようや [無断転載禁止]©2ch.net
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最終的には家康、前者二人より恵まれてたけどそれでも時代を動かしたのは信長かな
でも秀吉の人生が一番すごいから秀吉な気がする
努力の達人だったから出世を重ね、関白や天下人まで成り上がれた。
才覚や運だけじゃ到底無理だよ 秀吉は天下取るまでの手腕は凄いけど取ってからが失点多い感じ
毛沢東なんかと同じタイプ 織田信長 革新的な戦法と圧倒的カリスマで尾張小国から瞬く間に戦国の世を切り開いていった風雲児 第六天魔王
豊臣秀吉 出自や見た目は何のその、天才的な思考回路と政治力、人をたらして城を落とす名人芸、農民から天下人に上り詰めた日の本一の出世頭 豊太閤
徳川家康 天ぷらが好きなデブ たぬき 家康
信長と秀吉は自分が死んだらそれで終わりだったけど家康の創設した政権は260年続いたから格が違う 先駆者とそれを目の前で見て育った人間とはやはり違うよ 家康は秀忠がクソ無能だったら間違いなく三英傑最下位だっただろうな
場合によっては「三英傑」にすら入っていなかったのかもしれん
秀忠が信忠秀頼と息子達の中で一番為政に優れていたのはデカすぎる 信長→秀吉→家康
後ろに行くほど先輩天下人に学べるよな
必然的に、前に反面教師が2人もいる家康が有利になる
よって
公平に判断するためには
反面教師的な要素は全部取り払って考えなければならない 先輩がいるといないとでは雲泥の差
まだ誰もやっていないことを全て自分だけで手探りで考えるというのはかなりキツい
既にやったことを真似るのは百倍くらい楽 秀頼が成人してたら家康は何も出来なかったと思うがね。 大名としては信長
軍人としては秀吉
政治家としては家康 政治家としても信長秀吉の方が上だろ
家康はパクっただけ 信長・秀吉は凄い
家康は偉い
こんな感じかな。 家康は手腕よりタイミング良かっただけだから
状況考えて秀吉は種以外良くやったよ 家康の良いところは結果から見て大きな失策が全く無いことかな(江戸幕府による250年以上の支配という結果が完璧だから当たり前だけど)
信長と秀吉はアクロバティックな成功があるけど、その分致命的な失策もあるって感じ
信長の本能寺は言わずもがなだし、秀吉は家康関東移封、朝鮮出兵、秀次事件など失策だらけ 260年の泰平の世を築いなのは秀忠だろ
家康は死に体の豊臣家に留めを指しただけじゃん 野球選手に例えるなら
信長
在京の人気球団の主力。若い時から頭角を現し、ホームラン、首位打者などのタイトルを獲得。強烈なキャラクターで人気選手となるが、不慮の事故により若くして引退。
引退後の消息は不明。
サヨナラホームラン数は史上最多記録。
秀吉
ドラフト外のテスト生で在京の人気球団に入団。練習態度と素質が認められて1軍に定着してからは3年連続首位打者などを獲得してスター選手になる。
ヒーローインタビューのしゃべりが巧妙で人気を博し、テレビのバラエティーにも出演する。
引退後は事業に手をだして大失敗。現役時代築いた財産を失う。
生涯打率は歴代1位。
家康
ローカル球団の主力。
ノンタイトルだが、毎年打率280 本塁打 20本を10年以上達成して、40を越えるまで現役を続ける。
信長、秀吉も達成できなかった2000安打500本塁打を記録して名球会入りする。
引退後はチームのフロント入りして悠々自適の毎日。
なおサヨナラヒット等は現役時代で1度だけ。 >>20
家康は運が良かっただけ、信長が家康見捨てて武田と和睦したら滅んでたし、秀吉の気が変わったら家康は滅んでいた。
二人に甘やかされ厚遇されただけ >>22
秀吉は事業でも大成功してるだろ
子供が会社乗っ取られただけ >>24
まあ引退後の事業っていうのは統一後の朝鮮出兵や豊臣政権の基盤つくりみたいなものです。 >>25
だからそれ秀頼の問題だろ?
秀吉は絶頂のまま死んでる >>28
朝鮮出兵の失敗も秀頼のせい?秀吉死後の豊臣の没落の原因は晩年の秀吉が原因だと思うよ。
すまない。オレも秀吉好きなんで喧嘩するつもりはないんだが。 朝鮮出兵は秀吉自身が大軍を指揮出来なかったからなぁ
もし秀吉が元気で大陸に渡れたら、そこの実情、課題点や改善点をすぐに導き出せてもっといい結果になったと思うんだよな >>30
秀吉が親征するなら兵の士気が全然違うよね。
他にも豊臣家臣団の内部分裂が加速したのは朝鮮での加藤と小西の反目が原因の一つだから、秀吉自身が直接指揮・調整すれば、豊臣家臣団の対立もあそこまで深刻化しなかったかもしれない。 >>29
これだから秀吉アンチは、
朝鮮征伐は秀吉の存命中は作戦通り進んでおりそもそも失敗などしていない。
なのに撤退したアホがいただけ >>29
豊臣家が没落した原因は秀頼が幼かっただけだろ?
家康が50くらいで死んでいれば、徳川家なんて残らなかったし、家康が死んだ時に秀忠が6才であれば、豊臣家と同じように簒奪されていただろう。
織田家と同じようにね。
秀吉は盤石な体制を作り上げ、完璧な統治を死ぬまで続けているよ。 文禄の役は順調に進んでいたのに、小西が何を考えたのか敵と単独講和をはかり、
進軍を停止してしまい、その間に戦力を整えた明に奇襲されて撤退に追い込まれるという、
秀吉の指示を無視した行動にある。秀吉は朝鮮は王族を捉えて降伏させ明にそのまま進撃しろと指示しており、
律儀に守っていたのは加藤だけ。
この後きちんと逆襲して明軍を撃破しているが、秀吉の失敗とは言えないだろう。
小西を任用した責任はあるけどね。
苦戦していた水軍にも無理な遠征をやめさせ(ガレー船なので防衛戦のほうが有利)
沿岸部で守りを固めて撃破するように変更させて大勝している。
慶長に役はこれはほぼ秀吉の作戦通り進んでいる。
まず朝鮮水軍を壊滅させて制海権をとり、南部の明軍と一揆衆を根切りにして、その間に築城をして橋頭堡を作る、
その橋頭堡に物資を蓄積し、交代で城で守りつつ、明軍を撃破して消耗を強い、その間に第三次征伐の軍を用意するというもの。
渡海前に秀吉がなくなってしまったが、慶長の役は秀吉の作戦通り進み、順調に推移しており失敗など最後までしていないんだよね。 >>30
秀吉の渡海は天皇に止められたからな
>>31
加藤と小西は双方が前田屋敷に集まって家康と対立していた側なんだが なんか秀吉の晩年をたたく人がけっこういるけど、
それは戦後作られたものに過ぎないんだよね。いやむしろ最近か。
秀吉は朝鮮征伐でも切れ者っぷりをきちんと見せているし、
国内統治もきちんとしている。内乱は起こらず、
国内は好景気であり民衆にも大人気であった。
これは秀吉が七回忌の豊国祭りの活況などをみてもわかるし、死後も大名公家から庶民まで大勢が参拝していた。
有力諸侯を残したのをどうこう言う奴がいるが、
それまで100年以上内乱が続いており、いつ地方で大乱が起こるかわからなかった。
だから何かあった時には地域の諸侯がすぐに鎮圧にいけるように地域に大藩を作って睨みをきかせて安定化させていたんだよ。
小大名しか残さない場合、何かあると中央から鎮圧にいかないといけなくなる、
それでは即応性と遠征の長期化などの問題が起こりやすい。
大陸の中央集権国家がつぶれる理由は地方の内乱をなかなか鎮圧できないから。
ちなみに江戸幕府も長州が反乱したらそのまま崩壊してしまった。 >>32
だからオレはアンチじゃないって。ただ秀吉の晩年はもう少しうまくやれなかったのかなと思うよ。 信長の死後、その死を悲しむ人が少なかったらしいからな
秀吉はよほどカリスマ性があったんだろうな >>38
ソ連のスターリンが死亡した時は彼の側近連中は祝杯を上げたそうな。
まあそこまではないが、あの強烈なカリスマが死んで、ほっとした家臣は何人もいただろうね。 >>33
仮にも天下を治めた政権が、創業者が死亡して2年足らずで実質崩壊するのは磐石の政権とは言わないでしょ?
後継者は秀次もいたのに、粛清して幼君の秀頼を無理やりもってきて、政権基盤を不安定にした。
信長の場合は突然死で後継者まで一緒に死亡したから、仕方ない面もあるが秀吉は後継者問題や自分の死後の政権の行方を予想する時間は充分にあったでしょう。
秀頼が幼かったのは確かに豊臣政権には不幸なことだったが、それなら他にも色々と手が打てたんじゃないか。
秀吉の政権が短命だったのを惜しんで書いてるだけです。アンチではないですよ。 崩壊したんじゃなくて、乗っ取られたって表現が正しいだろ
秀頼が幼すぎただけ
実質崩壊したのは17年後 まぁそれに、豊臣家は確かに崩壊したけども
天下がまた混乱したってわけじゃなく、秀吉の作り出した泰平は指導者が変わってもそのまま継続された訳だし
やっぱり徳川家康は秀吉の作り出した会社に我が物顔で座ってただけで、秦の始皇帝の時とは違って崩壊って表現はおかしいな >>40
後継者が二人いると天下が乱れる原因になる応仁の乱の原因くらいは知ってるだろ?
秀吉はそれを避ける為にやったこと、
その為に後見人をおいたら、その後見人が天下とったという話。
信秀が平手に信長を任せたら、平手が信長殺して織田家乗っ取ったみたいな話がおこったという事だね。 乗っとられたというなら、確かにその表現が正しいかも。源氏を乗っ取った前北条一族に近いやり方かもね。
秀吉は家康を信用して厚遇しすぎだったよね。 頼朝の直系がたまたま断絶しただけで頼朝の築いた体制がずっと存続した鎌倉幕府と
家康自身に豊臣家を滅ぼされて本拠地もトップの官職も何もかも変わった豊臣政権→江戸幕府じゃ全然違うでしょ
頼朝と秀吉を一緒にするのは頼朝に失礼 >>23
家康は運が良かっただけ・・とは言わないが、戦国一の幸運児とは思う。
@今川義元→敗死
A武田信玄→病気悪化により急死
B織田信長→家臣のクーデターにより憤死。
C豊臣秀吉→病により死亡
D前田利家→病により死亡
自ら仕掛けたわけじゃなく(本能寺は家康謀略説もありますが) 天下をとるのに障害となる大物が何故かバタバタと死んでゆく。しかもCD以外は道半ばにした突然の無念の死だし。
家康の幸運に対しては、信玄の武略や信長の先見・革新性、秀吉の才覚も敵わなかった。 義元と信長の急死は当時の家康の感覚ではむしろピンチだったと思うけどねw
特に本能寺は伊賀越えする羽目になったし
秀吉と利家は当時としては長生きな方だから順当に死んだだけでラッキーって感じではないし
武田信玄が53歳くらいで死んでくれたのは割とラッキーだったと思うが、これは信長にとってもそうだろう
つーか信長は義龍や謙信が信玄よりもっと若い年齢でポンポン亡くなってくれてるし政敵の死という意味では一番幸運だと思う >>47
家康がピンチをチャンスに変えた点は評価するけど、このあたりが生きていたら家康の天下はなかったと思ったんで。
三英傑とも幸運児だよ。秀吉だって信長が死ななきゃ天下はとれなかったろうし。ただ信長は最期があれだったんで3人の中では結果的にはあまりラッキーとは思えないなぁ。 >>45
北条氏に子供殺されて、皇族から将軍迎えて幕府続けて、
御成敗式目などの法律をつくって統治していたのが鎌倉幕府なんだけどな。
ちなみに江戸幕府の国内制度は豊臣政権をそのままぱくっただけ。
頼朝に失礼もなにも、
秀吉>>>頼朝なのは誰がみても明らかだろう、秀吉は頼朝義経範頼の三人を合わせた以上の能力を持っているのだから。 >>49
実朝が北条に殺されたってどこの世界線?
むしろ源氏の外戚として台頭した北条家にとって源氏将軍断絶はかなりの痛手だったんだけど
あと制度で言えば江戸時代の根本法の武家諸法度も禁中並公家諸法度も徳川が定めた法律だよね? >>50
頼家を追放した後にぶっ殺したのも、実朝ぶっ殺したのもどちらも北条義時だぞ。
実朝の場合は下手人を公暁がやっているだけ。
当時にたまたま体調悪くて欠席して、二人が殺しあった共倒れしたんだ、
なんてファンタジー信じているのかお前おめでたい奴だなあw
天皇をないがしろにする禁中並び公家諸法度はともかく、
武家諸法度なんて秀吉が秀次一族を粛清した翌日に出したものの焼き増しにすぎんよ。
無断婚姻や同盟の禁止などね、廃城令や一国一城令も秀吉の時代から出されているもの。 >>51
いや、だから当時の義時にとって実朝を殺すメリットって何?
それに仮に君の言うように黒幕が北条だったとしてても、そういう「ファンタジー」を作らざるを得なかった時点で、大っぴらに完膚なきまでに攻め滅ぼされた豊臣政権とは全然違うよね?
それに一国一城令を秀吉が出してたなんて聞いたことも無いしただの妄想に近いけど
仮に出してたとしても前政権のただの「政策」を継承したってだけでその前政権が滅ぼされたことに変わりはないよね? まあ実朝暗殺で源氏幕府が滅亡して、北条幕府が成立したなんて定義する歴史家はいないからな。
流石に北条と徳川では全然違うだろ。 44です。自分が前北条氏の話を出して、話題違いでスレが荒れたのは謝ります。
私も豊臣政権は滅亡して徳川政権は別政権とは思うんですが、家康乗っ取り説で考えてみたら、前北条氏のやり方が家康に似てるかなと思い引用したまでです。すいませんでした。
まあ家康が乗っ取りなら、秀吉も乗っ取りですね。 >>52
成人して使いづらくなり傀儡にならなくなったので処分しただけ、
義時の息子が実朝と対立しており、彼は実朝が暗殺されるまで戻れなかった。
そして豊臣氏は源氏ほど弱くはなかったため攻め滅ぼす必要性が生じたということ。
また秀吉の時に大名には家臣の城をなくして大名の城だけにするように命じたものが残っている。
南部に出されたものが有名だな。そこまで厳格に適用されたわけではないがね。
>>53
源氏幕府は普通にほろんでいるだろ、北条の執権の名前しかみな知らんだろ。 >>54
家康は豊臣家の家老で秀吉亡き後家を乗っ取って、主君を殺したというだけの話。
北条と一緒。
秀吉の場合は主君を殺していないという違いがある。 そもそも戦国時代では後見人が一族でも何でもない時点で乗っ取られて当然だろ
というかそれが普通。
秀吉ですら三法師を蹴散らしたり伊達家も芦名乗っとる寸前まで行ってるのに
何をどうしたら「秀頼が稚すぎただけ」なんてふざけた論調が通じるのか
もし秀吉が65まで生きても秀頼は9歳、幼いも何も秀次殺したせいだろうがよ まーた秀吉信者が暴れてるのか
>また秀吉の時に大名には家臣の城をなくして大名の城だけにするように命じたものが残っている。
>南部に出されたものが有名だな。そこまで厳格に適用されたわけではないがね。
それって結局適用できなかっただけで、権力の不徹底を表すよなぁ。
徳川政権時代なんて雨漏り修理しただけで福島が改易されてるのに偉い違いだな
3000から180に城が激減した徳川政権と3000も城が残ってた豊臣比べて「豊臣のほうが権力があった」ってどこの主張なんだ? あと秀忠が秀頼を殺した史料はあるけど家康が秀頼を処分した史料はないようだけど史料とっとと出してもらいます? >>57
信長の後見人は平手、
信康の後見人は石川
信忠の後見人は川尻もしくは林や池田という説もあるが、どっちにしろ一族以外)
義信の貢献には飯富
一族の人間だったことのほうが少ないのだがね?
そして家康と同じ年まで生きていたら普通に秀頼は成人してるけど?
>>58
基地外家康信者か。
それは豊臣時代においてはそこまで強い法律でもなく罰則もなかっただけの話。
>>59
当時の徳川家の当主は家康ですよ、隠居しててもね。
信忠や信長より、秀次が秀吉よりもえらかったと思っているのかね君は。 >>60
57さんが言ってる一族というのは譜代の家臣も含めての話ではないですか。
私も外様であり、潜在的に豊臣政権最大の脅威である家康を後見人にしたのは秀吉の最大の失策だと思います。 いや当主が生存してるなら後見人が他家でも普通に問題がないのですが、
当主が傀儡orいない状態なら乗っ取り一直線じゃん事実織田は乗っ取られたし。
芦名なんて伊達輝宗に越後介入させられてる。これで戦国時代ではどれだけ拡大してるんだ。
だから史料出せや。秀忠が出した史料はたくさんあるけど家康が「秀頼を切腹させた史料」
待ってるから早くしろや >>58
豊臣政権(秀吉存命時)と徳川政権がどちらが権力があったかは、正直わかりませんが、個人に限定すれば秀吉個人の独裁権力は歴代の徳川将軍よりも強力だったと思います。
但し豊臣政権はそのカリスマ独裁者の秀吉に依存してた部分が大きすぎたため、その死後は儚く潰れてしまったのでしょう。
家康はそこを反面教師として、組織を強化することで、個人に依存しないシステムを構築したような気がします。
個人の権力としては秀吉。
政権基盤の安定感なら徳川といった感じですかね。 いや徳川なんて言いがかり改易が相当多いよ福島然り加藤然り。
上杉でさえ15万国に減らされてるし >>64
それは江戸幕府組織の権力の話でしょう。個人に関しては秀吉のツルの一声で諸大名に海外出兵させるほどの権力まで徳川将軍にあったかどうか。
老中あたりが反対したら、無理っぽい。 >>61
一族と譜代は全く別物ですが?徳川家なんて父も祖父も家臣に殺されてますよ。
>>62
え?平手って信秀死後、信長殺して織田家乗っ取ったの?そりゃ知らんかったなあw
秀頼を切腹させた史料とか意味わからんこといってんな。大阪攻めたのが家康な以上秀頼を殺したのは家康だよ。 >>66
61です。能力主義の寄せ集め集団の織田家に所属した秀吉と譜代で固めていた徳川家の家康では、譜代・外様に対する認識は違うかもしれません。
ただ能力主義の織田家が、譜代でない秀吉に乗っ取られた事を当の実行者である秀吉自身がもう少し深く考えて、後見人の選任や死後の政権運営のあり方を見直すことができなかったのかが、秀吉個人の才覚・力量から考えると少し軽卒で、残念であったと思えます。 戦国時代なんて譜代の家臣が主君を追放して領地乗っ取るなんてよく合った事なんだけど。
譜代だから信頼できるなんてのは、戦国時代を生きていた者たちにはありえん発想だ。
信長は譜代の家臣よりも、自分が取り立てたものを信頼していたようであるし、
秀吉にしてもそれは変わらん。 信長も家康も元々大名の家柄で、信長は戦国の世を終焉に向かわせて、家康は260年続く泰平の世を築いたわけだけど、信長も家康も昔からの家臣がいて、織田家も徳川家も代々続いてきた中で、
秀吉だけは一代で天下まで登りつめてそして豊臣家は一代で滅んだようなものなのに、この二人と同等かそれ以上の立場にいる秀吉ってやっぱ異常だよな スターリンといい劉邦といい、成り上がり者はどうして晩年に粛正ばかりするのだろうか 自分自身もトップに上がる為に何でもやって来たからだろう
上への脅威が無くなって下への猜疑心に成り変わる 今よりもずっと強固な階級制度が存在したあの時代に、百姓から天下人になったんだから嘘みたいな話だったはず
だから秀吉一択だな。
信長か百姓に生まれていたら強盗団の頭目くらいが関の山だし、家康が百姓だったらそのまま人生終わってそう 後世に与えたインパクトや評価なら信長
個人の資質・能力なら秀吉
実績なら家康かな。 >>76
信長が上司じゃなきゃそれこそ農民で終わりだろ秀吉
基本的に秀吉も家康も信長がいなけりゃあんあ出世は無理 豊臣というか羽柴秀吉最大の実績は本能寺混乱からわずか8年で
織田政権を吸収しより強力なものとし天下統一を完成させた事だろう
本能寺以前は「普通の優秀な武将」の一人
1590年統一以降の行動に対する評価は賛否両論という事でどうだろう 本能寺の変の時点で秀吉とその与力の領国は
北近江、播磨、備前、備中、美作、但馬、因幡にまで及んでるから
普通に優秀な武将では収まらないよ
しかも中国経略は毛利相手に別所、荒木の離反という絶体絶命の危機を乗り越えてのものだから はっきり言って家臣時代から秀吉は信長を凌駕する才を発揮しているよ
織田家が乗っ取られたのも無理はない
秀吉は後に信長を呼び捨てにして、自分は信長ほど甘くないと発言してたり反面教師としてしか見ていない 本能寺直前の織田政権内での羽柴秀吉の位置付けは
信忠などの血縁のぞけば
柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益の次ぐらいかな
明智光秀は秀吉の下につくように言われてるので本能寺直前に転落してるが >>81
もともとの身分が低くて舐められてたから俺は前の天下人より偉くてすごくて容赦ないんですー!って強く見せてただけでしょ
小勢力とはいえ元からお殿様の家康はいちいちそんなこと言わなくてもよかったしな >>80
別所も荒木も実際の対応には秀吉単独じゃなくて織田軍全体で当たってるからその理屈だと凄いのは信長だぞ >>82
秀吉の下に付けと命じられたというのは俗説
実際は後から来る信長の先遣隊として派遣されたらしい >>84
別所波多野荒木本願寺の離反は信長の失策なのに
秀吉に責任押し付けて使い潰す気満々だったのを
秀吉が三面六臂の活躍で巻き返したんだよ
秀吉の信長家中でのランクは信長横死直前でも降格させられたままだったらしいからね >>86
荒木も波多野も本願寺も秀吉がやったのは助勢くらいでどれも担当は別だよ
播磨攻略にしたって大部分を平定したのは嫡男信忠率いる織田諸将の連合軍でその仕上げの段階を中国方面担当の秀吉に任せたもの >>87
なんかゴッチャになってるよ
荒木や本願寺の離反は信長の失策によるって指摘してるんであって
秀吉が荒木や本願寺を平らげたなんて書いてないよ
播磨で孤立した秀吉が崩れずに戦線を支えて反転攻勢に出なければ
織田政権は崩壊してもおかしくない危機的状況だったのは間違いない
なのに信長は晩年まで秀吉への勘気を解いてなかったらしい書状が残っているんだよ >>88
孤立した秀吉というのがそもそも間違いね
荒木の謀反後も信長は播磨に他の軍団から兵力を引き抜いて援軍として派遣してます
むしろ秀吉の中国方面軍司令としての本領が発揮されるのは播磨攻略後です >>89
そら後追いで言うのは簡単だけど
秀吉の才覚があったから播磨方面の戦線がドミノのように崩れなかったんだよ
どんだけ危機的状況だったか当時の地図見れば分かるでしょ? >>90
播磨戦線の維持を秀吉の才覚というほうが秀吉=のちに天下人になった優れた人物という結果からみた後追いの物言い
播磨戦線の維持ができたのは別所・荒木の謀反に対応して素早く信長が織田信忠を総大将に越前衆や丹羽らの援軍を差し向けて秀吉軍が単独で播磨戦線を維持できるくらいまで敵対勢力を潰したから
ついでにいうなら西の方だけ見れば信長軍は危機的状況かもしれないけど東方は上杉謙信の死から御館の乱での上杉弱体化およびそれを遠因とした武田北条の関係悪化でだいぶ余裕がある
天王寺合戦で石山本願寺も籠城に追い込んでるし木津川口の戦いで瀬戸内海の制海権も握ってるしで志賀の陣の頃に比べれば全然危機的状況ではない >>91
志賀の陣で言えば北近江で蜂起した一向一揆の大軍を
秀吉が寡勢で撃退したのち交渉して早期に講和に持ち込んだから
窮地にあった織田政権が愁眉を開いたのだし
播磨においても当時の状況で援軍が来るまで秀吉が持ち堪えられなかったら
各地の反信長勢もさらに活発化して泥沼化してたよ
単に戦上手と言うだけでなく
優れた統治能力と先見性を持った秀吉がいなければ
織田政権が早期に瓦解していた可能性は高いと見るけどね
当の信長は秀吉の能力は買っても
最後まで藤吉郎呼びするほど軽い扱いをしていたから
後年秀吉が信長を悪く言うのは故なしだとは言えないと思う >>92
別所が謀反を起こした時点で信長は信忠に佐久間・明智・滝川・丹羽・荒木らの軍勢を率いさせて4ヶ月もの間滞陣させて反織田勢力を潰させてます
荒木の謀反後も謀反発覚から1ヶ月ほどで重臣の中川・高山を降伏させて荒木の勢力を半減させその約2週間後には秀吉の援軍として明智・筒井・佐久間の軍勢を派遣してます
要するに荒木が謀反を起こした時点ですでに播磨の反信長勢力は秀吉の軍勢だけで十分対応できるていどのものになっており荒木の謀反も大身の部下たちがすぐに信長に寝返ったことで信長政権を脅かすほどの脅威にはならなかったということです >>82
丹羽より下はありえん、柴田と滝川は秀吉よりも上だろうけど、軍団長にもなってない丹羽の地位は確実に下 >>94
というか丹羽長秀って立ち位置的には羽柴・滝川・柴田といった一般的に方面軍団長と呼ばれるやつらと少し違うからな
信長の小姓上がりで各種奉行をこなしながら軍務も行うというどっちかっていうと堀久太郎コースの人材で仮に四国方面軍の副将を無事務めあげたら四国じゃなくて畿内あたりに加増されて中央の官僚として働いてたんじゃないかなあ やはり秀吉の本能寺から北条征伐までの8年間の戦略が際立つ
明智から北条まで概ね1年で1つの敵を倒すというのがスムーズに進行している
弟秀長、石田三成、加藤清正、黒田官兵衛など優秀な家臣に恵まれたのもあるが
あまりにもうまく行き過ぎたので朝鮮征伐もいけるんちゃう?と慢心してしまったんだろうな 織田政権での丹羽長秀は
豊臣政権での石田三成ぐらいかな?
あえて例えるとだが >>93
どこまで行っても平行線なんだろうけど
荒木の謀反でも崩れないほど秀吉が短期間のうちに播磨に勢力を扶持することに成功していたことを評価すべきだと指摘してるんです
荒木のように極めて優れた武将でも
配下の摂津国人衆の反信長感情に引っぱられて
毛利方に寝返らざるを得なくなるとこまで追い込まれたのに
秀吉は摂津より毛利の影響力がずっと強いのに崩れなかったんだから >>98
最後の行
播磨は摂津より毛利の影響力に訂正 >>98
話が平行線なんじゃなくてあなたが話を理解する気がないだけですね
>荒木の謀反でも崩れないほど秀吉が短期間のうちに播磨に勢力を扶持することに成功していたことを評価すべきだと指摘してるんです
成功してませんね
別所が謀反を起こすとこれに同心して離反するものが続出したのを織田信忠・荒木・佐久間・明智・滝川・丹羽らの援軍を派遣してもらってようやく鎮圧してます
荒木の謀反後も上で記してあるようにすぐに信忠を総大将にした織田家の援軍を派遣してもらって鎮圧してます
要は秀吉の播磨戦線の維持は織田軍全体のバックアップで播磨の反信長勢力を叩いた上でのことです
>荒木のように極めて優れた武将でも
>配下の摂津国人衆の反信長感情に引っぱられて
>毛利方に寝返らざるを得なくなるとこまで追い込まれたのに
>秀吉は摂津より毛利の影響力がずっと強いのに崩れなかったんだから
別所が離反した時も毛利が上月城まで迫ってきた時も荒木が謀反した時も秀吉は信長に援軍を送ってもらって凌いでますねそりゃ崩れるわけがありません >>95
秀吉も京都奉行などやってて奉行あがりだよ。そのあと軍団長になってる。 上月城の時援軍送らなかった事ないか?
だから秀吉はしぶしぶ退却に追い込まれた。
別所波多野に荒木まで謀反起こして、毛利軍10万(自称)がきているんだから流石に秀吉軍だけじゃ対処できん。
>>87
播磨攻略はほぼ秀吉の単独ですよ、信忠は摂津の荒木の対処くらいしかやっていない。 >>102
上月城のときははじめに荒木、ついで織田信忠・信雄・信孝・信包・林・滝川・明智・丹羽・佐久間・長岡・美濃三人衆らが播磨に援軍として出陣してるよ
それでも上月城救援が難しいのでとりあえずそっちには抑えの兵を残して(実質見殺し)神吉・志方・三木の反信長勢力の掃討戦に移行
荒木の謀反後は再び織田信忠・信雄・信忠・信澄・丹羽・佐久間・明智・筒井・堀を援軍に送り込んでる
そこで信忠は出撃してきた別所兵の迎撃、小寺政職の御着城への攻撃、野瀬軍の刈田を行なってる
これだけオールスターの援軍が参戦してるのに秀吉単独で播磨攻略を成し遂げたと主張するのはさすがに無理がある >>103
>出撃してきた別所兵の迎撃、
平井山合戦も平田合戦も信忠などの援軍は参加してないんだが、
>神吉・志方・三木の反信長勢力の掃討戦に移行
三木城の支城の包囲であって掃討なんてしてないよ。
>御着城
信忠は布陣して攻撃しようとしたら攻められて大敗して国元に帰ってるじゃん。
そのあと秀吉が引き継いで攻撃を続けて小寺は逃げ出して、残された家臣が秀吉に降伏した
これで信忠のおかげとか無理がある。
よって秀吉単独といってもなんら問題はない。 >>104
平井山合戦には明智・佐久間・.筒井らの軍勢が参戦してます
三木城の包囲には丹羽らの軍勢と持ち場を分担して砦を構築してる
他にも高砂攻めなどにも信忠は参戦してます
これだけの手助けがあって秀吉単独での播磨攻略の主張は問題大有りですね >>105
>平井山合戦
平井山の本陣にいる秀吉の軍に別所軍が奇襲をしかけてきて、
追い払われた戦い、明智も佐久間も筒井も当然参加なんてしていない。
ていうか、明智は波多野を兵糧攻めにしている真っ最中で、佐久間は本願寺の包囲してる。筒井は荒井の包囲をしているはずなんだが?
もしいたとして確実に秀吉の指揮下でしょ?秀吉本陣にいるんだから、明智や丹羽ならともかく筆頭家老の佐久間が指揮下は考えにくいから、まず平井山になんていないだろうけど。
>他にも高砂攻めなどにも信忠は参戦してます
つまり結局は
>三木城の包囲には丹羽らの軍勢と持ち場を分担して砦を構築してる
これくらいしかしていないわけ。
それ負けてるよね、そのあとこの城秀吉の調略で降伏してるんだから。 >他にも高砂攻めなどにも信忠は参戦してます
それ負けてるよね、そのあとこの城秀吉の調略で降伏してるんだから。
つまり結局は
>三木城の包囲には丹羽らの軍勢と持ち場を分担して砦を構築してる
これくらいしかしていないわけ。
入れる所間違った。すまん。 >>106
明智たち本人がいたのではなく援軍に来た時に置いていった残存部隊ですねまあそれでも秀吉の手勢ではないのが厳然たる事実ですが
だいたい筆頭家老の佐久間が秀吉の指揮下につくとは考えにくいと言っていますがその理屈なら播磨に援軍に派遣された時点でもう彼らは秀吉とは別の指揮系統で動いていたことによりますます播磨での秀吉の活躍が単独によるものではないという証拠になりますね >>108
戦場においては先軍の将が指揮権を握るんだけど。 >>110
それならまずこの前提条件が間違ってるということですね>明智や丹羽ならともかく筆頭家老の佐久間が指揮下は考えにくい
どっちにしろ秀吉が独力ではなく織田諸将の加勢を得て播磨攻略を行なったという事実に変わりはありませんが どう考えても信長
あの家康と秀吉が何もできなかったんだからね
こんな質問馬鹿 >>111
それは秀吉の単独ということですよ、秀吉指揮下で戦っているんだから。
佐久間は本人は確実にきてないでしょう。 >>113
そりゃ佐久間本人が播磨に来てたのは秀吉が播磨の諸将に背かれて危機に陥った時ですからね
同僚たちの協力で自分の軍勢だけで播磨の戦線が維持できるまで手伝ってもらったのにそこから形勢をひっくり返されるようなら無能もいいとこです
まあ信忠・信雄・信孝・佐久間・明智・滝川・丹羽・林その他諸々の諸将たちが自ら軍勢を率いて播磨に援軍に来てた時もそれを全部秀吉が指揮してたんだ!とか言い出すなら流石にお手上げですがまさかそんなことは言わんでしょう >>114
いやそいつらがきて対処していたのは荒木への対処であって、荒木は摂津であって播磨には何もしていないでしょ?
上で彼らの仕事をあげていたけど、それ全部失敗例であって、
結局は秀吉が全部自分でやらざるを得なかった。 >>115
上のレスを見たなら分かると思いますが別所離反後に一度、荒木離反後にもう一度の計2回織田家諸将の連合軍が播磨に派遣されてます
そして神吉・志方の城を攻め落とし別所や毛利に備えて砦普請を大々的に行うなど勢力的に活動しておりこれのどこが失敗なのか理解に苦しみますね >>116
だからその城攻めの多くは失敗に終わって、結局は秀吉が落城させているからだよ。 >>117
いやあの神吉城・志方城らの城を普通に攻め落としてるんですけど…
結局秀吉が攻め落としてるってそれ要は織田軍が攻撃して反抗戦力を減らして籠城に追い込んだ敵の後始末なんすよ やっぱり平行線じゃないの
秀吉が単独で播磨を攻略あるいは守り切ったかなんか問題にしてないし 途中で送信しちゃった
毛利の切り崩しに対して秀吉が踏ん張って凌ぎきったその能力を高く評価すべきと言ってる
播磨は反信長の毛利や三好の影響力が強い上に濃尾からも遠い
援軍があるから崩れなくて当たり前なんてことは全然ありません >>119>>120
いやいやいやいやw
>>102>>104>>113>>115
これだけ秀吉の単独秀吉が1人でやったと連呼しておいて今さら秀吉が単独で播磨を攻略したかなんて問題にしてない!は無理があるでしょう
だいたいこの時期の信長の本拠地は既に畿内に移っていて播磨は近国ですし主戦場が摂津・丹波・紀伊・伊賀などの畿内のため兵力が最も多く集まってるのも畿内です
播磨は畿内影響を強く受ける位置にあり実際に信長は足利義昭を奉じて上洛したときから播磨への派兵や介入を行なっており畿内の戦に播磨衆を動員するなど決してその影響力は低くありません >>122
( ´,_ゝ`)y―-~~.フハハハ!! >>118
神吉城だけだな。実質何もやっていないに等しい。
それも本人たちは降伏するって言っているのに、なぜか攻め込んだ事例。
秀吉が但馬に遠征にいって不在の間に留守番の一つとしてこんなことしてた。
反攻勢力を減らして?神吉城減らしただけじゃなんの意味もない、三木城に主力がいるんだからな。
それもほっとけば降伏するところをなぜか攻めたというやらなくてもいい事しただけというオチ >>121
そもそも別人だから、
そして織田家は摂津や丹波や紀伊や伊賀で必死で、播磨はほぼ秀吉が単独で攻略したという話ですよ。 >>124>>125
連レスで既に矛盾してるじゃないですかw
秀吉がいない間腹まで織田諸将が活躍してたことは認識してるのに播磨は秀吉が単独で攻略した!とひたすら主張し続けることができるメンタルは正直羨ましいですね >>126
活躍とは播磨の三木城放置して、降伏するって言っている城を無理やり攻撃したことかな?
やらなくてもいい事しただけ
こんなの活躍でもなんでもない、秀吉がほぼ単独で播磨を攻略したというのは微塵も揺らがん >>128
三木城を攻撃したのちに周囲を包囲する形で砦普請を行って兵糧攻めを行なっているのですが放置扱いですか
降伏宣言した城を攻めることをやらなくていいことと断言するのも不見識ですね
一例を挙げれば武田支配下にあった高天神城は最終的に降伏宣言しましたが信長はこれを許さずに攻め落としその結果武田領国全体に大きな影響を与えたのは今さら語るまでもないでしょう >>121
信長の畿内への影響力が幕府を介しての弱いものだったから
摂津丹波播磨と離反が相次いだんでしょ?
さらに和泉河内大和半国も反信長
徳川家康なんかは三河に累代の地盤を持って
さらに濃尾の信長の支援を受けられた
対して秀吉は縁もゆかりもない播磨に赴任してたんだよ
播磨が反信長に蹂躙されなかった主な要因を
秀吉の傑出した能力に拠るとしても全く過大評価とは言えないよ 信長、秀吉、家康と、この三人は初めから一つの目的に繋がれて結束した稀に見る同志であった
日本の統一と平定・・・
それが、この三人の生涯を貫く目的であり、悲願であったればこそ、
あの信長も家康だけには生涯裏切らぬ仕儀を示し、家康と秀吉の間もまたそれと同じであった
言葉を変えて言えば“三人で一人だった”とさえ言える >>131
家康は信長に「あんまり俺を蔑ろにすると武田に寝返るぞ」って脅してるけどな それだけ織田と親密な関係を維持したかったと言う事だろ
本当に手切れする気があれば黙って寝返っているし 松永「あんまり俺を蔑ろにすると寝返るぞ」
荒木「あんまり俺を蔑ろにすると寝返るぞ」
明智「あんまり俺を蔑ろにすると寝返るぞ」
確かに事前にこんなことは絶対に言わないな 実際、武田との水面下での交渉ってなかったのだろうか
なかったとしたらほんと信長と家康の関係って面白いよね >>129
それで三木城に影響あったらよかったんだけど、現実には効果なかったからね。
むしろ別所が離反したのは秀吉が上月城で降伏認めず虐殺したからだとも言われているくらいだし。
>>133
むしろ徳川が信長の調停を蹴って武田と勝手に戦争始めたんだけどな >>137
じゃあ播磨で別所に裏切られて窮地に陥ったのって秀吉の自業自得じゃん…
自分のせいで窮地に陥っておいてケツ拭きは友軍頼りとかどんだけ使えない猿なんだよ… 別所の離反は一向宗門徒が主導したんじゃないかと言われてるから
信長の外交の失敗が一番影響していたんじゃないの >>135
こいつらはむしろ、信長から厚遇されてた例だな >>134
家康が信長に武田への寝返りを仄めかして援軍を催促したとされるのは長篠直前の武田に押しまくられてた時期なんで普通に脅しだよ >>142
普通に信長だろ、神吉城や高天神城、伊勢長島などなど降伏を認めずなで斬り指令を何度もだしてる。 >>145
いや普通に秀吉が自分がこういう処置をしましたって報告してる手紙あるんで
なで斬り指令は秀吉も紀伊攻めとかで出してるし 信長は根切りにするために山刈り専門の武士を雇っていたぐらいで
信長から秀吉宛に根切りを禁止する書状がなかったとすれば
播磨でのそれはやはり信長の意向が働いていたと考えるべき
秀吉が根来雑賀攻めで雑兵による放火乱取りを抑えたのは有名な話 >>147
根切りの指令を出したから信長の意向、ならわかるけど根切りを禁止してないから信長の意向!はさすがに難癖すぎる
秀吉は太閤検地や朝鮮征伐でも撫で斬り指示を出してるし上月城も信長に送った経過報告書と時系列的から秀吉の主導であることは明らか >>148
いや、秀吉は信長の家臣だから
その判断に信長の意向が働いたと考えるのが普通です
特にこの時期は信長から怒りを買ってお降格させられた後だし >>149
信長の怒りを買った理由がそもそも自分の勝手な判断で戦場を離脱して帰ってきたからじゃん
宇喜多の調略も信長の意向を無視して事後報告のかたちで許可を求めてるし >>150
そのどちらも信長の怒りをかったでしょ
でも根切りに関しては責められてないよね?
つまりそういうことです >>146
というか紀州征伐においては責任者はみな処刑したが、
それ以外の農民や雑兵はみな農具と家財を与えて家に帰して助命してるぞ。
なで斬りなど行われていない。
この時出されたものは刀狩の原型になったもので結構有名なんだけど知らないのか?
農民を殺せば税収が減る、兵士を殺せず降伏させて使えば、敵と戦う兵士が増えると考えるのが秀吉 >>146
信長が根切り指令を出したから、秀吉が根切りしましたよと報告したんだろ。 >>151
単に怒られなかっただけのことをイコール信長の意向とか短慮にもほどがある
明確な命令違反と現場判断の区別もつかないオツムなら話すだけ無駄だね
>>153
信長が上月城の根切りを命じた文書でもあるんですかね
ないんなら信長が根切りの指令出した云々は単なる妄想なんだけど >>154
信長からの命令がないならする必要もないし、わざわざ報告する必要もないだろう >>155
見せしめが有効もしくは必要と判断したならするだろうし経過報告書を出さなきゃならんのは当たり前だろう 経過報告は落城したかどうかでいい。
秀吉がわざわざそんなどうでもいい事を書いて送ったのはこの時だけであり、
信長からの注文がなければそんなことわざわざ報告しないだろ。
見せしめとか言っているけど、上月城の戦いって当時は播磨征服の最後の戦いであり見せしめする必要もない。 >>157
上月城の戦いは最後じゃありません
福岡野城や鶏籠山城などが残っており秀吉は上月城の根切りを行ったあとにそちらを平定・降伏させてます
抵抗勢力が残っているので見せしめの必要があると判断するのも十分あり得ますね >>159
鶏籠山城は揖西郡にある城で佐用郡にある上月城の支城というのはありえません 秀吉は江北の一向一揆にも
播磨の惣村一揆にも
雑賀根来一揆にも
自身の判断を許される場合は一貫して融和的な態度で講和に持ち込んでる
播磨での根切りに関しては信長の命令か内意を汲んだと取るのが自然だよ >>161
高天神城や一向一揆と違って信長には上月城に根切りの指示をだすメリットもなければ指示を出した痕跡もないですよ
上月城の根切りをする必要があるのは信長の怒りを買ったので早急に中国方面で功績を立てる必要のある秀吉のほうです
信長の命令か内意があったと主張するならせめて証拠となる史料でも出していただかないとお話にならないですね >>162
痕跡ってさ400年前の話だよ?
残された事績や史料を積み上げて類推するしかないでしょ?
信長の命令による根切りは数多く記録されており
秀吉も信長の家臣である
しかし秀吉が独自の裁量を許される場合にはできるだけそれを避けている
そういうことです >>162
痕跡ってさ400年前の話だよ?
残された事績や史料を積み上げて類推するしかないでしょ?
信長の命令による根切りは数多く記録されており
秀吉も信長の家臣である
しかし秀吉が独自の裁量を許される場合にはできるだけそれを避けている
そういうことです >>163
史料に残ってないことをやったと主張するのは類推ではなく妄想です
残された事績というならこの上月城の虐殺こそ秀吉が根切りを行ったという事績そのものです
秀吉が必要とあらば躊躇なく女子供を虐殺したり指示を出すことができるのは北条攻めや奥州仕置、朝鮮征伐での命令書や秀次事件の顛末という事績からでも明らかです >>165
でも秀吉は信長の家臣だから
百歩譲って責任は主君である信長により重くあるか同程度です
根切りを批判したならまだしもそんな痕跡もないですしね >>166
上月城の虐殺を主導したのは誰かという話がなぜそのことを叱責しなかった信長の責任が重いという話になるですかね いい加減スレチだから好きに判断してもらうとして
宇喜多直家を独断で降誘した件とか
三好康長と結んで畿内や四国の情勢にまで影響力を振るい始めていた件とか
秀吉の権勢は信長の一家臣という括りでは収まらない程に強大になっていたのは明らかだよね
本能寺の変が無くても
安国寺恵瓊の見立て通りに
秀吉による下克上があったと考えてもおかしくなかったんじゃないかな >>160
龍野城の話ならそもそもその城は上月城より先に無血開城されているので該当しません。
>>162
信長の命令があったので、秀吉がなで斬りをした、信長の命令なので秀吉は報告しないといけなかった。
この後の神吉城などは信長がわざと城兵を助命しないように検死の人間までおくる徹底ぶりを見せている。 >>165
北条攻めで虐殺など命令していません。
奥州仕置きにおいてもそんな命令など存在しません。
朝鮮征伐においてもね。むしろ放火や虐殺民衆への無理難題を禁じた命令書ならありますけどね。
秀次にしても一族のみという非常に軽い裁きです。
信長や家康なら民衆までなで斬りだったでしょうね。 >>169
秀吉の上月城攻めは11月末に開始され12月初旬に落城。鶏籠山城の落城は同年の12月なので少なくとも上月城が攻められるより先に降伏していたということはありません
あと上でも述べていますが信長の命令があったと主張するなら具体的な史料名をあげていただきたいですね
神吉城攻めは信長が送り込んだ織田諸将の援軍が主体であり別所長治謀反後の出来事なのでそれこそまさに見せしめでしょう >>170
奥州仕置で九戸政実の乱の鎮圧に際して根切りを行なっています。この時の総大将は秀次ですがこれを秀次が勝手にやったこと、秀吉は関係ないと主張するなら上月城の場合だって秀吉が主体であり信長は関係ないでしょう
秀次事件では連座して木村・前野・明石といった側近たちも打首・切腹を申しつけられているのですがどこが一族のみの軽い裁きなのでしょう >>171
いやいや龍野城は先に降伏してます。だからこそ秀吉は上月城攻めにとりかかれた。
そして信長の命令だから、秀吉は首を安土に送り、残ったものをなで斬りに処した。
自分の判断で行えるのならどちらもする必要はない。
>>172
奥州仕置きは秀次の判断でしょう、秀吉からの命令などないわけであるし、
奥州との間でそんなやり取りもない、
上月城の場合は信長の命令であり、だからわざわざ実行してそれを信長に報告する義務があった。 >>173
龍野城が先に降伏していたというのはどの史料に記載されてるものですか?私はたつの市史が情報元ですがほかに史料があるなら是非教えていただきたいです
それと何度も言っていますが信長が秀吉に上月城の撫で斬りを命じたという根拠史料を提示してください
それがなければ奥州仕置は秀吉の命令がないから秀次の判断!というあなたの主張と上月城の根切りが秀吉の判断であるという話は全く変わりません >>174
城主の赤松広秀は秀吉軍が揖斐川に到達したときに降伏を進める家臣に従って降伏したとある。
秀吉軍はこの後さらに東進をして上月城を包囲する事になるので、龍野城が降伏していないということはありえない。
どうせその市史の旧暦と新暦をお前が読み間違えたとかそういうオチだろ
そして何度も繰り返させるなよ、信長がなで斬り命令をしていなければ秀吉がわざわざなで斬りする事もないし、
それをわざわざ報告する事もない。信長はよくやったとして茶器を褒美に与えている。
命令通りにした結果とすべきだろう。
秀吉は降伏した人間は殺さない、抵抗する限りは女子供でも関係ないだろうがね。
そして東北仕置きが秀次の判断なのも当然だろう、秀吉はそんな命令などだしていないのだからね。 信長ヲタって最近信長は本当は情に厚くて優しかったって過度に主張するようになったよな
漫画の影響か? >>176
揖斐川は岐阜県の西美濃に流れる川なんですがそんなところにいる秀吉の軍勢に対して降伏するよう播磨の龍野城の家臣が勧めたとはちょっと信じられない話ですね
さらにそこから東進するということは秀吉は岐阜方面に向かったことになり播磨征伐のためのルートとしては前代未聞です
秀吉への褒賞は播磨・但馬二カ国を一応の平定を遂げた秀吉に対する褒賞で別に上月城の仕置に対するものではありません。そして上月城の撫で斬りが秀吉の判断なのも当然です、信長はそんな命令など出していないのですから。 おっと揖保川だったわ
そして秀吉の指示はありえんな、何度もいうように、秀吉の判断で助命や斬首はできない。
勝手に降伏したものを許した事で叱責をうけたりしているように、
信長の指示と考えるのが妥当。 >>179
事前に禁止されてないなら現場判断で普通にできます。あとから信長に報告し受け入れられなければ約束を反故にするというだけです。事前に信長の許可を得る手続きを取るのは上司のお墨付きなしでは信用されないからです。
信長の指示という根拠がいつまでも提示されない以上この話は上月城の撫で斬りは秀吉の主導ということですでに決着してます。 信長の指示と言うよりは
秀吉が信長の意向を忖度して行ったというのが
妥当だろう。いずれにしても推測の域は出ないが。 >>181
家康から直接問い合わせが来た高天神城や信長が自ら指揮した一向一揆討伐戦ならともかく播州の西端の上月城などという城で撫で斬りを行いたいなど信長が一々思うとは思えないですけどね
のちに毛利軍が大挙して上月城を包囲した時は秀吉から支持を仰がれてはじめて上月城を見捨てるように指示してますし >>180
不利だから決着つけたいだけだろw
>>182
上月城よりももっと小さい神吉城でやってるだろw
そして虐殺されたのは赤松が城主だとする説があるが、信長公記によると上月景貞の首を送り城兵をなで斬りにしたとある。
上月は赤松の後宇喜多に城を取られた時に入った城主
信長は自分を裏切った場合苛烈な処置をする事が多い、宇喜多に同調して裏切った城兵をなで斬りにしろと命令した可能性は非常に高い。
すくなくとも秀吉よりはね >>183
当時の城主が上月氏か赤松氏かはさておいて上月城は1574年時点で赤松氏と交戦しておりもとから赤松氏とは別の独立勢力です
上月城が秀吉に攻められたのは信長の命令で播磨に侵攻し人質を徴集しようとしたことに反発してのことなので最初から明確な敵側、つまりあなたの裏切りの定義には当てはまりません
さらに何度も言いますが信長が上月城の撫で切りを示唆したと解釈できる史料は一切ありませんのでそれがない限り上月城の撫で斬りは明らかに秀吉の主導です >>183 追記
神吉城攻撃は別所氏が織田から離反し播磨に次々と反信長勢力が蜂起した状況でのことなので見せしめおよび裏切りへの懲罰という明確な目的があり最初から敵の上月城の場合とは全く違います
さらに言うなら上月城攻めと神吉城攻めでは播磨に駐屯している織田軍の指示系統もまるで違います
上月城攻めは織田家の天下統一事業の中国方面部門の担当である羽柴秀吉チームが単独で行った戦いでその事業担当者はもちろんチームリーダーである羽柴秀吉です
別所氏離反からの播磨攻めは播磨の反信長運動の高まりによって秀吉チーム単独では手に負えなくなったために明智・滝川・丹羽ら他部署から軍兵を引き抜いて後継者・信忠に統括させ織田家合同チームで行った戦いです
そのため秀吉と同僚である武将が複数人いるためにその指揮権は現場統括者である織田信忠にあります
これらのことから上月城攻めと神吉城攻めを同列に扱い同様の論理を用いることはナンセンスと言わざるを得ません >>185
上月城でなで斬りが行われたのは一度失って取り返した時だと思われる。
信長公記によると赤松ではなく上月とあるからな。
裏切ったものへの見せしめと考えれば実に信長らしいじゃないか。
>>184
何度もいうように、秀吉がする動機も理由もない、その後も秀吉はそんな命令を出した事は一度もない。
また行ったとしてもそんなことをわざわざ報告してそれで褒美を与えられている事を考えると、
信長の指示であり、そのとおりにしたと考えるのが妥当。 >>186
だからそもそも最初から上月城が信長の配下だったことなんてないから裏切ったという定義にそもそも当てはまらないという話なのですが
動機と言うなら播磨の統治を円滑に行うためという動機があります
褒美が与えられてるのは>>178でも述べていますがあくまで播磨但馬平定事業に対する褒美であり上月城の仕置に対するものではありません
さらに秀吉は浅野長政に奥州仕置の際に浅野長政に抵抗勢力に対し撫で斬りを行うように指示していますので撫で斬り命令を出したことがないというのも間違いです 物語として楽しいのは秀吉
英雄としてドラマが有るのも秀吉
信長は秀吉の引き立て役
家康は秀吉の盛り上げ役 信長 98
秀吉 95
家康 75
って感じ
信長、秀吉は本当に能力が高く戦も強い。まさに二大英傑。
家康はそういう感じではない。 家康は経営者社会の勝ち組に評価される
底辺にはその価値が理解できないだろう 家康って野戦はめちゃくちゃ強いよね
秀吉にも小牧長久手で勝ってるんだけど >>195
秀吉本陣から一目散に逃げて籠城してる家康が小牧長久手の戦いで勝ったなんて言ってるのはネットの馬鹿のみだよ 木を見て森を見ない愚者には家康の価値は理解できない
それだけの知能が備わっていないようするに猿みたいなもん 信長秀吉アゲして家康サゲするのって
子供がスーパーヒーローに無邪気に喝采送るのと同じなんだよね
信長秀吉は単純な頭にもわかりやすくてカッコよく見えるけど一代限りで底が浅い ただ単に連勝続き(特に信長包囲網撃破)で「織田信長は慢心してサイコパスになった」
そうなると人が変わったように「部下を見下し」「部下の助言を全く聞かず」
「部下の落ち度を発見するとそれを口実に辱めるように虐待する」
明智光秀も部下の前で辱められ大恥をかかされた、それらが要因で謀反に及んだと思われる
つまり「本能寺の謀反」は織田信長本人の失策で起きた >>195
勝頼に半殺しにされているからそこまで強くないよ 客観的に見ても
秀吉>>>信長>家康
ぐらいやろうな、才能も実績も ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています