【軍師】太原雪斎【今川】 [無断転載禁止]©2ch.net
太原雪斎/太原崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ 1496-1555年)は、戦国時代の武将・政治家・軍師。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。
今川義元を補佐して今川家の全盛期を築き上げた。
外交面では武田・北条・今川三国同盟(甲相駿三国同盟)を締結させ、軍事面では三河侵攻作戦、内政面では今川仮名目録の制定など、彼の今川家での功績は計り知れない。 太原雪斎がいれば桶狭間の戦いで負けなかったはずというのは、サッカー1992年欧州選手権決勝でマテウスがいればドイツは負けなかったはずというようなもの 今川義元があれほど隆盛を誇ったのは太原雪斎のおかげ 「おんな城主 直虎」の太原雪斎がイメージじゃない。
佐野史郎だといまだに冬彦さんのイメージになってしまう。 義元幼少の頃から付きっきりだし雪斎、三河攻略も総指揮官は雪斎。
やはり雪斎あっての義元だと思います。
織田信秀と激闘を演じたのは雪斎。 実際、雪斎が生きていたら信長は義元を討てたかな?
この坊主が外交に長けていたのは事実だしな。桶狭間の前に尾張諸勢力や美濃に根回しして信長が身動きできないようにしたかな? >>6
結果的には負けたけど、半分以下の兵力で
一時は優勢まで持ち込んだ信秀もなかなかだと思う 義元は惜しかったが別の弟子が天下を取ったからな。
幼少時、雪斎の教育があったからこそなのは間違いないだろ。 その三人のうち一人だけ天下を取れてないけどねw
まあ、それはさておき運も相当強かったわな。
最初の奴は最後に見放されたがw >>15
さらにもう一人の弟子は信長の前で蹴鞠を披露したけどな。
雪斎の弟子も十人十色 >>18
1575年1月13日氏真上洛開始
吉田、岡崎、大浜と行って船で難波の危機もありながら志摩大野に上陸
それを聞き付け織田家が船を用意して大湊に到着
1月25日には京に到着
そこからしばらく観光し
3月16日に信長と対面
3月20日に公家と蹴鞠しそれを信長に披露
4月1日に信長、朝廷向けに徳政
主上、公家、武家(氏真)ともに御再興、天下無双の御名誉と称賛される
4月3日に信長に再び請われ氏真が公家と蹴鞠を披露
4月4日にそのメンバーに信長も加わり一緒に蹴鞠
4月6日信長、本願寺と三好康長を討伐するため出陣
4月19日信長、大勝が決まり三好康長降伏
4月21日信長、京に戻る
4月23日家康、請われ氏真下向
4月28日信長、岐阜に到着
4月29日氏真、浜松城入城
5月13日信長、岐阜から出発
5月14日信長、岡崎城入城
5月15日氏真、牛久保城入城
5月16日信長、牛久保城入城
5月18日信長、設楽原に着陣
5月21日長篠の戦い
蹴鞠から長篠まで
このあと諏訪原城攻めに参加して降伏させて牧野城主になる
この牧野城主も古くは解任と言われてきたが
解任ではなく対武田のために浜松に戻したということに変わってきている
因みに蹴鞠になったのは信長が和歌や連歌を不得意。でも朝廷と交流するための一貫として氏真の力を必要としたと >>17
最初の奴がいなければ、2番目3番目は天下どころか歴史に名を残せたかも怪しいがな。
最初のがいて、残りは天下を取った。
ちなみに最初は室町幕府の概念で言うなら天下人な。 今日有名なのは藤原秀郷流だと思うが
藤原南家流、吉備氏も庵原氏は今川に仕えている
3家の系図見てみたいな 雪斎は妙心寺35世住持という立場もある
ここから近衛、そして将軍義晴と繋がっていく
今川家としては三河の取次役をしている
彼の死後は彼の補佐もしていた朝比奈親徳と
元康の正室の関係から関口氏純が三河の取次を担うことになる 今川家は範政までは有力家臣は代々変わらないけど
それ以降の当主では今川家中の再構成・再構築を繰返している
その中で排除されたりして力を失っていったのも多い
結果、人材不足になった REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担