応仁の乱以降信長誕生前 [無断転載禁止]©2ch.net
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細川政元
なんとかの政変
伊勢なんたら
高国
大内上洛
船なんとかの山の戦い
三好家
一向一揆 元就前半、花の乱後半、国盗り物語前半ぐらいが該当かね 美濃は斎藤妙椿が死んで近江越前尾張巻き込んで斎藤妙純が船田合戦やって
近江じゃ六角高頼が将軍に攻められて甲賀に逃げ込んだり あのドラマ卜伝が上洛した大内義興の食客になってるけど創作? この時代の話ができる人は歴史好き人間!
うわべだけ知ってる奴らとは違う 北条氏綱 上杉為景 武田信虎 斎藤道三 朝倉孝景 浅井亮政 三好元長 尼子経久 大内義興 龍造寺家兼 島津←ここ名前思い出せない 最近はのぶやぼでも、信長生誕前の武将たくさん出ているよね。 失礼、長尾為景だった
島津日新斎までは記憶にあるが、何とか久が思い出せん 島津宗家が伊作になる前だからな
忠昌から忠治、忠隆、勝久の三兄弟の弱小時代 思い出した!忠久だったかな 貴久の父 実久は叔父や分家の方かな
家兼は凄い能力高いよなあ >>13
六角高頼とか斎藤妙椿とか言ってる時に、あえて斎藤道三か
年寄りが川上が藤村がって言ってる時に中畑がぁって言ってるようなもんだな >>23
つまり中畑の親父がぁって話をするわけだな 信長誕生前で天下取れそうな大名って、大内義興か細川政元くらいだよな。能力的に考えても。
義興が史実より30年くらい長生きしていたらどうなったかな西国は。 >>26
義興が堺返上せずに畿内に居座って
経久や武田は帰国させずに博多や石見銀山の利権を確保してたら
戦国始まってなかったかもな >>28
それこそ史実が更に加速して宇喜多毛利の台頭だろ
そもそも有力守護が任地を財布扱いで京都で内戦をやらかしたのが応仁の乱だし
無制限にそれを拡大させたのが戦国時代じゃね >>31
最強大内が畿内に居座る
消滅寸前の赤松浦上が更に劣化
同時期、安芸も武田支配の綻びにより三村毛利の台頭
暗殺と謀殺の名人、宇喜多の本領発揮 浦上家は劣化してるかな?
そうは思わんが。
赤松も歴史が変わればどうなってたかわからんぞ。山名、赤松一族曲者だし 浦上村宗の配下には有能な家臣が揃ってたよな。
大物崩れさえ無ければ多分天下取れてた。 小寺、別所、摂津池田を撃破しているから、実質、備前、播磨、摂津制圧し上洛で、
天下人目前だったと思う。 まだ大局が決まってない創生期って面白そうだけどな。大河とかでやってくれないかな 混沌とした畿央の状況を信長の野望で再現してほしい。。。 あんな細川晴元安泰じゃないし、せめて阿波細川家は独立大名でいてほしいわ。 一応花の乱がその時期じゃない?
応仁終了ぐらいが戦国の始まりでしょ 毛利元就の序盤は大内義興の上洛について描かれてるが
細川方のほうはないな 足利義教打たれたのが痛い気がする。
生きてればどうなってたんだろう。やりすぎな面はあるが、カリスマはあったよなきっと >>47 どのみちいずれ暗殺されたでしょ。赤松満祐に限らず恨み買いまくってたし。
だいたい、赤松に暗殺されたときに何で細川持之、山名宗全とか一部要人が見逃されているのか理解不能。
奴ら殺していたら幕府はおしまいだったのに。 山名氏は一時6分の1殿と呼ばれた位勢力が凄かった 宇喜多なんぞ無力だぞ >>49
幕府から空き地を貰っただけだろうに
権力基盤が無いから瞬く間に失う羽目になる。 >>40 浦上村宗の年齢にもよるが、たぶん無理。家臣は有能だが宇喜多、島村と曲者多すぎ。
こいつら使いこなすのはかなり難しい。 東国で当時天下取りの可能性ありそうなのは、今川氏親くらいか? 氏親はきつそう…遠江取ったばっかだし、しかもそこ了俊系の支配地だったし。
普通に考えれば関東の公方さんじゃね?
それか越後と兄弟同士で関東管領さんち 室町の公方と関東の公方の全面対決見たかったな。大将同士出陣で 稙宗の婚姻作戦は凄いよね。
周りみんな親戚にしてる感じ 昔の伊達が長井の荘攻め取った時の事詳しい方っています? 細川政元が暗殺されなかったら、あのまま幕府利用して天下とれてたかな? あの人修行してちゅうに浮いたんだっけ?
ハマるって怖いわ〜 細川政元も三好長慶も、そもそも自分が将軍に代わって天下を治めようと思っていたのか?というのはあるが。 山名氏は赤松旧領をゲットしているから赤松山名の対決は避けられなかったと存じます 個人的には畠山修羅ってのがインパクト強くておもろい。名前負けしてなきゃいいが。今で言うキラキラネーム系かな? >>60
政元、義興、長慶は東国には興味なかっただろうね
誰かが幕府滅ぼして政権作っても東国はカオスな無法地帯だっただろう >>63
室町の公方誰かが滅ぼせば、関東の公方が立ち上がりそうだけど。 川越野戦時、足利、上杉同盟軍は80000とか?当時兵力動員数で東日本一だったんじゃね? 細川政元は扇谷上杉に古河公方を討伐させて堀越公方政知を鎌倉公方に据えるつもりだったという話はあるな。
伊勢新九郎に調略をさせたけど政知が死んだりして結果的に失敗に終わったけど。 >>54
足利持氏の時も足利成氏の時も上杉氏が足を引っ張ったから、
実現しなかった。 >>21 忠良思い出した サンクス
古河公方の80000の大軍を押し退けた氏綱氏康親子、綱成は立派 >>70
河越奇襲の時には織田信長は生まれているが。 龍造寺家兼は凄い人らしいけど、いまいちなにしてたのかがわからない 龍造寺家兼も大内義興の上洛には参加していて、兄の家和が京に居残り続けてる間は国許の差配を担当していた 関東公方の方が将軍より直接扱える土地や兵は多かっただろうな
纏まってさえいれば >>77
それは無い
そもそも関東公方ってなんだ?鎌倉殿と呼ばれた足利一門を漫画で鎌倉公方って書いてたのは知ってるけど 関東公方、いやさ古河公方にそんなに力が本当にあったのか? 成氏は鎌倉追われて古河に移り、高基は政氏と親子喧嘩して関東諸大名を巻き込んだはず。晴氏も高基と親子喧嘩してるし、そんな力があったとは思えないんだが。 結局南北朝の動乱が長引いて足利将軍家が関東を基氏流に丸投げしちゃったのが全ての原因
関東諸侯からすれば京に行った本家より身近に感じただろうし
鎌倉公方って当時「鎌倉殿」って呼ばれてたから頼朝や鎌倉幕府へのノスタルジー的なのもあったんじゃないかな 確かにそうかもね。関東の武士たちは結構従ってるしね。反畿央って意識が昔からある 小田原征伐の時も関東の国人の多くは、北条を倒したら関白が新しい関東公方を立てて支配するだろうと思ってたらしい >>81
嫡男=長男の時代じゃないのに、足利荘を捨てていった家に本家って認識は殆ど無いんじゃね
そもそも、鎌倉以降、足利って関東最大の家だろ
(まがりなりにも大きな家で残ったのなんて千葉と佐竹くらい)
それなりの動員力はあるだろ 今でもそうだけど、関東以北からしたら京都はやっぱり遠いのね。
関東管領がかなり公方を抑えてたけど、抑えなかったら日本真っ二つで戦争だったかもね 九州じゃ北は大内大友少弐が争い
南は島津家が内輪もめしつつ伊東相良と戦争か この時代、朝倉は氏景から孝景と当主はなかなかで、何より宗滴がいて越前と都に近い利点もあるのに、天下取りは考えなかったのかね? >>88
まだ武衛の影響も怖いし、一向宗も強力なんで国を空けるのは厳しそうに思う 朝倉は斯波を追い出して守護に成り上がったばかり
国内も纏まってないし無理 野望がないからいかんよなあ 宗滴は戦うばかりで内政には目もくれなんだかも 六角は天下取りの野心はなかったのかな? 位置はかなりいいし、畿内に勢力拡大したら天下取りもできたろうに。単に口出しするだけで領土拡大はしてないよね。 最近だと信長ですら天下統一を意識したのは義昭を追放してからだと言われてるしな
基本それ以前だとみんな将軍を奉じて上洛する事がステータスになってる 応仁の乱で消耗戦繰り広げた世代かその次の世代とかだから
都への興味は却って薄そう
領国の安定がまず第一なんじゃ 将軍家を手中に収め、将軍の命令という名目で(少なくとも)畿内の大名諸豪族に言うことを聞かせるのが天下を制覇する第一歩だが、
将軍の命令にみんなソッポを向いていたり、あるいは肝心の将軍が傀儡の地位に甘んじてくれない場合は、
別の方法を取るしかないのである >>93
六角は高頼時代は将軍に攻められたり京は大内が上洛したりで領土維持さえ大変な状況
定頼時代も京は細川の勢力が強大でその内乱に巻き込まれ結果口出しするような状況
京が安定しないと近江も安定しないので仕方がないが
その上一向宗との戦いや比叡山との問題もあった 朝倉宗滴と細川高国とが性格的に合ってたら、天下統一に邁進してたかもしれないな。 阿波、讃岐、淡路の細川・三好勢が頑強で、畿内勢力が結集しても安定しなかった。
海vs陸みたいな状態。 管領がまだ影響力持ってた頃の天下は、天皇と幕府のある機内を治めることだっただろうね。
中央を安定させたあとは地方のいうこと聞かない勢力を征伐って名目になるし 将軍義輝の死が、新たな時代の予感を感じさせたのかな決定的に?
それとも信長だけだったのかな幕府終わらせること考えたの 長慶にせよ信長にせよ利害の一致の期間は仲良かったぞそれなりに
義輝も義昭も自分の力を弁えずに色々口出しし始めて決裂するんだけど 長慶が義晴、義輝親子を朽木に追いやった後
もし和睦しなかったなら室町幕府はなし崩しに終わっていたかもしれない >>102
足利将軍を殺しても良いって価値観をもたらしたのは間違いなく義輝暗殺だろうけど
信長には足利将軍家をどうこうする気概は無かったんじゃね?
義昭に子供でもいれば、譲位させてでも引っ張ったと思う
越前の神社の神職の末裔に源朝臣の後釜は不可能なことくらいは信長でも気付いてたろう 赤松の場合は殺せる殺せないとかじゃないと思う
決死の覚悟で内乱を起こしてみたら殺せちゃったアセだと思う >>107
あれは細川との出来レースでしょ。細川も義教にいつやられるかの危機感はあった。赤松がなんで義教を殺した時、細川山名を殺さず、抵抗したとされる京極大内だけぶっ殺したのか。
京極は山名の隣の守護。
大内は細川の政敵。
どう考えてもあれは赤松が細川と通じてやりあった出来レース。もし山名細川もぶっ殺していたら、幕府はあの時に滅ぼせていた。 義尋殿を養い子にお迎えした後、御所様に吾子様がお産まれになった場合のご処置は、いかがなされるのでありますか >>109
確かに赤松だけだとあさこまではできない気もするわ。いくら追い詰められてても。細川が上手いことそそのかした可能性はある気がする。
死人に口なしだが いとうまいこ
いとうあさこ
かとうかずこ
いしだあゆみ
いしいすぐる
えなりかずき
にしきのあきら
ささきいさお 赤松は政則が長生きしたら、天下取りも可能だったかな? 永遠のライバル山名一族いるからどうだろうね^ ^
相当やり手だったとは思うが この時代で天下取りの可能性があるのは、やはり大内義興だけか? 武田元光。
桂川原の戦いに高国派として唯一参戦。
この天下分け目の合戦に勝てていれば、栄誉を独占できた。
当然、高国から実権を譲渡されるので、天下統一も夢じゃなかった。 >>118
若狭武田は無理でしょ。若狭自体が小国だし、隣に朝倉がいるし。 >>119
朝倉は中々動けんよ。一向宗国内にもいるし隣国加賀越中は侮れない。
しかも斯波武衛も隙あらば復権狙ってるし 一時的に京を取るは可能でも天下は無理だろ
三好でさえ畿内程度だったのだし
バックボーンが若狭だけの武田じゃ畿内支配さえ難しいと思う あと高国じゃ勝っても讒言信じて遠ざけられる可能性もあるな 高国も晴元も畠山も朝倉も全て打倒し武田元光が天下統一!
まあ、冗談はさておき、天下取りの可能性は段階別に分ければいいと思う。
天下分け目の戦いに参陣、勝利、上洛、政権確立、大規模遠征とか。 天下を取る≠全国制覇
天下を取る=幕府の実権を握る
みたいなもんだから、武力統一は誰も無理だろ 信長以前は春秋時代で信長以降が戦国時代でいいんじゃね?
信長以前の人物は上洛して幕府の実権握る以上の思考がない 信長=秦の昭襄王
秀吉=秦の始皇帝
家康=漢の高祖 思考が無いんじゃなくて、両細川家が十分に健在だったから、
将軍を掲げないと軍事的に幕府管領細川家の勢力に勝てなかっただけだろう。
足利義昭の頃は三管領が没落していたのが致命的だった。 武士の棟梁としての、征夷大将軍の地位と源氏の血統ってのが戦国時代になっても武士の行動を縛ってたんじゃなかろうか
だから天皇も介入しないし、武士も皇族を奉じなかった
征夷大将軍は源氏じゃないとなれないって信じてる人は最近でもいたぐらいなんだし >>130
そもそも将軍にとってかわるって発想自体がなかったというか、
政元みたいに傀儡にしようとすればその必要もなかった気もする。 >>128
三好も松永も将軍管領を無力化してもその地位に代わることまでしか考えてないからな
軍事力で全国を再統一なんて考えなんて思考がないよ >>132
発想自体無いってのは同意。
まさに春秋時代の周王朝と似てる 日本の歴史は幕府ってのができたから天皇家も存続できた気がする。
不満ならとりあえず幕府転覆させればいいしね。うまくできてる 細川政元は関東遠征を企図していた。
全国統一なんて誰でも考える発想だと思うけど。
それに、いくら将軍にとってかわっても、その上に天皇が居るんじゃ、
傀儡を戴くという実体は同じで、発想的には新しくも何とも無い気もする。
ちなみに春秋時代の語源も出しとく
>春秋の名称は、四書五経の一つ『春秋』に記述された時代、という意味を持つ。 関東遠征するとしたら、全国制覇ではなく、言うことを聞かない鎌倉公方や関東管領を従わせるためでしょ
まあ幕府と関東を統一したら全国統一って感じも当時ならあるかもしれんけど 細川政元は天下統一なんかよりも天狗の術極めたいだけだろw
関東やら流れ公方はそれの邪魔だっただけで 鎌倉公方牽制の富士遊覧と言ったら室町時代の天下人のステータスですよ。 細川政元(管領家 摂津等)応仁の乱 東軍 第9代将 軍足利義尚を擁立
畠山政長(管領家 紀伊等)応仁の乱 東軍
斯波義寛(管領家 尾張等)応仁の乱 東軍
山名政豊(但馬)応仁の乱 西軍
大内政弘(周防)応仁の乱 西軍
六角高頼(近江)応仁の乱 西軍
土岐成頼(美濃)応仁の乱 西軍 第10代将軍 足利義稙を擁立 上洛勢力一覧
天下分け目の戦い、勝利、上洛、政権参加、関東遠征 擁立vs相手
細川政元(管領)1493年 明応の政変* ○ ○ ○ × 足利義澄(義晴、義維の父)
武田元信(若狭)1493年 ↑↑↑↑↑↑ ○ ○ ○ × 足利義澄
畠山政長(管領)1493年 ↑↑↑↑↑↑ 負 × × × 足利義稙
畠山尚順(紀伊)1499年 天王寺の戦い 負 × × × 足利義稙(越中公方→越前公方)
大内義興(周防)1511年 船岡山の合戦 ○ ○ ○ × 足利義稙 細川高国vs足利義澄 細川澄元(三好之長)
畠山尚順(紀伊)1511年 ↑↑↑↑↑↑ ○ ○ ○ × ↑
三好之長(阿波)1519年 越水城の戦い ○ ○ × × 足利義稙 細川澄元vs足利義晴 細川高国
六角定頼(近江)1520年 等持院の戦い ○ ○ × × 足利義晴 細川高国vs足利義稙 細川澄元(三好之長)
内藤貞正(丹波)1520年 ↑↑↑↑↑↑ ○ ○ × × ↑
波多野稙通(丹波)1527年 桂川原の戦い ○ ○ × × 足利義維 細川晴元vs足利義晴 細川高国(武田元光)
武田元光(若狭)1527年 ↑↑↑↑↑↑ 負 ○ × × 足利義晴 細川高国vs足利義維 細川晴元(波多野稙通)
朝倉宗滴(越前)1527年 桂川の戦い* ○ ○ ○ × 足利義晴 細川高国vs足利義維 細川晴元
浦上村宗(播磨)1531年 池田城の戦い ○ ○ × × 足利義晴 細川高国vs足利義維 細川晴元
三好元長(阿波)1531年 大物崩れ** ○ ○ × × 足利義維 細川晴元vs足利義晴 細川高国(浦上村宗)
木沢長政(大和)1532年 飯盛山の戦い ○ ○ ○ × 足利義晴 細川晴元vs足利義維 (三好元長)
三好長慶(阿波)1542年 太平寺の戦い ○ ○ ○ × 足利義晴 細川晴元vs???? (木沢長政)
遊佐長教(河内)1547年 芥川山の戦い ○ ○ × × 足利義晴 細川氏綱vs???? 細川晴元(三好長慶)
三好長慶(阿波)1547年 舎利寺の戦い ○ ○ ○ × ???? 細川晴元vs足利義晴 細川氏綱(遊佐長教)
三好長慶(阿波)1549年 江口の戦い* ○ ○ ○ × ???? 細川氏綱vs足利義晴 細川晴元(三好政長)
三好政勝(丹波)1549年 前相国寺合戦 ○ ○ × × 足利義輝 細川晴元vs???? 細川氏綱(三好長慶)
畠山高政(河内)1562年 久米田の戦い ○ × × × ???? vs三好長慶
六角義賢(近江)1562年 将軍山の戦い ○ ○ × × ???? vs三好長慶
三好長慶(阿波)1562年 教興寺の戦い ○ ○ ○ × ???? vs畠山高政
天下分け目の戦い、勝利、上洛、政権確立、関東遠征 擁立 >>141
山名、一色、土岐、赤松。
全部没落だから仕方ない。
当主も赤松政則以外は特にやり手はいないし。 大内義興くらいしか、この時代の覇者はいないような気がする。 >>143
土岐と赤松(有馬)は大名でいられたし、山名は明治維新ギリギリで高直しをしてちょっとだけ大名になった
一番悲惨なのは一色じゃない? 一色は元々そんなに力があった時期が無いからな
山名宗全時代からの落ち込みが凄い 山名も細川も近世大名で残ったのは庶流家だけだもんな >>151
山名自体が新田の庶流だろ
そして新田がほぼ壊滅してる(岩何とかって世良田の庶流だろ)中で生き残った山名は尊敬に値する 山名豊就は6500石ながら大名並の役職、寺社奉行に就任した 波多野兄弟達って一時期キャスティングボード握ってた気がする 足利義晴に気に入られてたのかな。名前的には義稙系だけど。 それ言うなら、まだ浦上村宗のほうが可能性はあった。 今川家には早雲を独立扱いにしないという選択肢はなかったん? >>157
氏親が生きている間は早雲も氏綱も独立はしていない。氏輝の頃に半独立の立場になるが、まだ完全独立には至っていない。
氏輝が死去して義元が武田と結んで完全独立。 大友は当時は天下取りは無理かな? やはらは隣に大内がいるし。 大友と大内って微妙な関係だよな 義隆自害の後、宗隣の弟か何かの義長を継がせたんだし >>161
親戚だろ
嫁が大内の娘じゃなかったっけ? 宗麟と義長の生母は大内義興の娘
厳島後に大友の支援を受けて山口に攻め込んだ大内輝弘は
義興に家督相続で負けて大友に保護されてた弟の息子 詳しいなあ 厳島を圧倒した元就らしいが、実際は村上水軍の力らしいが 宇喜多氏、小寺氏(黒田氏)、別所氏、池田氏(荒木氏)と、
後の有名処とも絡んでいるしね。 >>165
大寧寺の変が大きい。
義隆も事跡を見る限りは無能ではない。あれだけ凄まじい内紛起こしたら没落は当たり前。 関ヶ原もそうだが、武官、文官と相性悪かったんだろな 大内の基本収入は「銭」
商業振興や文化保護もそうだけど、それ以上に銭の輸入は大内にしかできなかった、というか、幕府からお墨付き貰ってるからな。
で、大寧寺の変でそこらを全部無視して義隆をサクッとやっちゃったものだから、明が怒って銭の輸入を完全シャットアウトしちゃった。
そして義隆の信用で用立てをしていた商人連中からの貸し剝がしで収入大激減。
更に貴族でも上位の皆さまも軒並み滅しちゃったものだから、周囲から孤立も良いところだった訳ですよ。 対明貿易でヘマしたら
天下の大大内も滅亡だもんな
豊臣家も根切りされてw
俵物の輸出じゃなかったのかw >>159
応仁の乱の前だけど、大友持直が大内盛見を討ち取った時に
うまく立ち回って、幕府から逆賊にされなければ
九州から大内の勢力を排除できてたかもしれん 不意打ちされるという事は、大内義隆は政治力が無かったか、問題意識が無かったのかのどちらか。 >>173 問題意識が無かったとしか思えない。多くの家臣が晴賢に注意しよう、殺してしまおうと言ってるのに聞かないんだもん。
さっさと討っとけば、大内があんな没落の仕方は無かった。 >>175
家臣に唆されて祖先の代からの重臣を殺すようでは、どのみち先が短いかと 2 名前:人間七七四年
テメエらポーラ名作劇場で放送してた『幻花』を憶えて居ねえのかい?
足利義政を山口崇、日野富子を夏純子、今参局を藤村志保、裏松重子を三益愛子が
好演してたテレビ・ドマラだゼッ!
昭和の歴史ドマラにしちゃあ面白えほうだったのサッ!
原作が瀬戸内晴美、現・寂聴尼だからナッ!
ソイツを見てから云々しやがれーイッ!
分かったナッ!
! 2011年度 『東京大学 その2』
室町幕府と守護
【2】つぎの表は、室町幕府が最も安定していた4代将軍足利義持の時期(1422年)における、鎌倉府の管轄および九州をのぞいた諸国の守護について、氏ごとにまとめたものである。この表を参考に、下の(1)・(2)の文章を読んで、下記の設問A〜Cに答えなさい。
(1) 南北朝の動乱がおさまったのち、応仁の乱まで、この表の諸国の守護は、原則として在京を義務づけられ、その一部は、幕府の運営や重要な政務の決定に参画した。一方、今川・上杉・大内の各氏は、在京を免除されることも多かった。
(2) かつて幕府に反抗したこともあった大内氏は、この表の時期、弱体化していた九州探題渋川氏にかわって、九州の安定に貢献することを幕府から期待される存在になっていた。
設問
A 幕府の運営や重要な政務の決定に参画した守護には、どのような共通点がみられるか。中央における職制上の地位にもふれながら、2行以内で述べなさい。
B 今川・上杉・大内の各氏が、在京を免除されることが多かったのはなぜか。2行以内で説明しなさい。
C 義持の時期における安定は、足利義満の守護に対する施策によって準備された面がある。その施策の内容を、1行以内で述べなさい。
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/02entrance_examination/todai/2011tokyo_univ2.html 答案案例
A足利氏一門が任命された三管領や侍所の長官となる四職とよばれた
有力守護は、畿内や近国を含む3カ国以上の守護を兼任していた。(60字)
B幕府の影響力が及びにくい鎌倉府や九州探題の支配地域と接する
場所に領国を持っており、それらの安定への貢献が期待されたから。(60字)
C南北朝の動乱の中で強大となった有力守護の勢力を削減した。(29字) 応仁の乱の原因を為したといふ「春日局」とは
一体どのやうな人物なのかゑ?
徳川時代の記述に書かれて居るさうぢやが。 >>181
春日局?恥ずかしいマルチ野郎だな
もう潔く切腹しろ 話はその後だ ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ >>186
( ´,_ゝ`)y―-~~.フハハハ!! この時代、Koeiは信長の野望でもっと作って下さい。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています