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何故、徳川家康は天下統一ができたのか? [転載禁止]©2ch.net
0001人間七七四年
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2015/08/02(日) 08:09:41.68ID:etDTc8ZT
よくわからないので、お教えください。
0002人間七七四年
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2015/08/02(日) 09:16:33.46ID:5MqV97AS
まぁ信玄から学んだっていうのがあるが
総じて棚ボタ。
0003人間七七四年
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2015/08/02(日) 09:46:21.93ID:KpDjSjIw
織田がつき羽柴がこねし天下餅 座りしままに食うわ徳川
0004人間七七四年
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2015/08/02(日) 12:02:42.75ID:zo2ewEdj
>>3
その逸話は江戸末期に作られた創作らしいが史実通りに言えば
織田が棚ぼたコソ泥し、それを羽柴がコソ泥した天下餅
一人健気について作った徳川って所だろうな
0005人間七七四年
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2015/08/02(日) 12:05:48.10ID:p01mnbMH
秀吉って天下統一事業ではなく
信長がほとんど確立した体制を信長が光秀に殺され
光秀が逆賊になった隙をついてコソドロしただけじゃん。
天下統一といってもほとんど上杉・大友・木曽・小笠原・毛利・宇喜多・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野・蘆名・真田・石川・水野など諸大名の力に依存して、同盟と土下座でまとめただけだし自力で切り取った領土なんて皆無の他力本願の棚ボタ政権だし。
結局本能寺の変などの棚ボタと漁夫の利と同盟勢力のお膳立てで政権をコソドロしたはいいが
結局信雄や家康に大敗して家を滅ぼされただけだし。

本能寺の変が起きた時点で羽柴領は直轄領200万石から
主の敵討ちをする大義名分を手に入れたことにより
畿内の丹羽信張池田高山中川信孝蒲生堀信雄信包蜂谷らが秀吉指揮下に加わり400万石前後に大飛躍するからな。
上杉・毛利らもすぐに自動的に味方になるし
これに対して明智は与力下が悉く離反して20万石前後しか残ってないし。
これなら大将が誰だろうが天下取れる。
これで天下取れないのは毛利くらいだろう。
0006人間七七四年
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2015/08/02(日) 12:06:26.79ID:p01mnbMH
実際に国力の割合からいえばよってたかるハエを追い払うくらいのヌルゲーの戦争しか残ってないのが秀吉。
しかしそんな今川氏真が指揮を取っても楽勝で勝てそうな超絶ヌルゲーで
雑魚の信雄に135000の大軍で挑みかかって信雄領国は会戦早々尾張・美濃・伊勢・伊賀ともに寝返りの連鎖で崩壊状態だったほど
雑魚統制しかなかったのに秀吉方はいざ戦うと雑魚の信雄に1万人殺されたり
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん

中川は天正8年時点で秀吉と兄弟の契りを結んでるほど密接な関係なので秀吉を裏切るわけがない。
高山や筒井や池田など織田家諸侯も、信長に仕えていた身分なので
信長を殺した光秀につくなんて不忠行為を行うわけがない。
実際に光秀についた連中なんて若狭武田と阿辻くらいしかいないし
信孝信雄信張信包など親族連中も一杯いるし
一門の丹羽や羽柴は絶対裏切らないし
家康も信長の同盟者の立場から、反明智は確定的だし
柴田も明智と連絡なんて取ってないし
明智なんていずれ誰かに殺されてる。

敵がハナから瓦解してたり
内紛してたり兵糧不足だったり
まともに抵抗せずに降伏するものばかりだったり、敵国力が雑魚だったりで
楽な相手ばかりだったからね。
ドラマじゃ危機みたいに描かれてるけど
秀吉なんてヌルゲーの戦がほとんどだし
0007人間七七四年
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2015/08/02(日) 12:07:25.97ID:zo2ewEdj
信長時代に既に織田の大版図は形成されてるし後は残りカスみたいなものだろ。
本能寺の変で信長が光秀に殺されて光秀が逆賊の汚名負ってくれたおかげで、主殺しを討つ大義名分を棚ボタ的にいただいたあげく
摂津の諸侯や丹羽や信孝などをはじめ馬鹿みたいに味方が集まってくれたし清洲会議でも大きく優位になって領土を獲得してる。
あげく信雄と信孝も勝手にやりあってくれてたし、勝豊も美濃衆も会戦前くらいであっさり寝返ってたくらい、柴田側は統制が崩壊してたし、
会戦になると前田や不和や金森まで勝手に退却してくれるし、周辺諸大名も毛利上杉木曽小笠原宇喜多大友佐竹結城宇都宮那須皆川佐野真田芦名二階堂
白川結城石川岩城相馬河野十河など悉く秀吉に味方してくれたおかげで、秀吉は他力本願でヌルゲーの誰でも勝てる戦いができただけ。
しかもそんな今川氏真が指揮をとっても楽勝で勝てそうなヌルゲーの戦いですら小牧長久手合戦や熊見川合戦や小田原合戦など家臣をぶち殺されまくったり
300しかいない馬鹿な雑魚城攻めでろくに落せなかったりしてる。
0008人間七七四年
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2015/08/02(日) 12:08:47.17ID:zo2ewEdj
秀吉の小牧長久手合戦当時の国力

中国・畿内・北陸900万石+上杉50万石+毛利120万石+十河・河野・信濃の木曽(合計20万石くらい?)
このうち上杉は秀吉の要請に従って信濃出兵し徳川方の小笠原らと交戦
宇喜多は岸和田まで援軍出してる。
毛利は秀包を援軍として派遣してる。
秀吉は上記の国力を生かして135000の大軍を動員して短期決戦しかけて大敗してる。
そもそも本能寺の変が起きた時点でもう既に誰でも天下統一できるようなヌルゲーしか残ってない。
まあ秀吉は完全に棚ボタだっただけ

本能寺の変が起きた時点でもう既に誰でも天下統一できるようなヌルゲーしか残ってない。
秀吉は完全に棚ボタだっただけ
秀吉領国は本能寺の変前で直轄地200万石
本能寺後はこれに信雄信孝信張信包丹羽蜂谷池田高山中川蒲生堀など反明智の織田一門や重臣が加わるので自動的に200万石が加算され
清洲会議後は丹後の細川や大和の筒井まで臣従してくるし
丹羽や池田も臣従下してきて
旧織田家諸侯は悉く秀吉の臣家になり
人質を秀吉に出した上に、転封命令を出せる存在になり、領分に介入したり
失態を叱責したりできる上に、合戦でも秀吉の命令が逐一細かくまかり通る直轄軍と化してる

上杉や毛利も自動的に味方になるし
徳川との対戦時だと石川も自動的に半味方になり
信雄領国の伊勢では秀吉が皆伊勢の諸侯から人質召集してたので
会戦開始早々なだれをうって秀吉方に皆がついてる。
伊勢どころか尾張ですら信雄から秀吉に寝返りを始める始末だし

毛利軍が秀吉の口から出任せ口述詐欺に見事ひっかかってあれだけの大チャンスに追撃もせず高松を明け渡して退却
普通に考えりゃ熊見川や美作攻防の2の舞で毛利に瞬殺されててもおかしくない状況だったし、秀吉に騙された毛利のアホさ加減と明智軍の兵力分散と
山崎での隘路での迎撃を捨てた恩恵にすぎない
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
トンデモ史観はアホ秀吉厨じゃん
秀吉は雑魚の信雄に大敗して、家康に母や妹やチート官位や関東250万石まで土下座献上して、その結果家を滅ぼされた。

結局戦がゴミみたいに弱いから普通なら一週間前後で決着がつきそうな兵力比と国力比でも大敗して家を滅ぼされただけだよ
下克上されるのは傀儡化したいう事きかない譜代家臣とか多く抱えた名門守護家のみ
秀吉は自分で好きな連中を自由に登用できたので、そういう事する連中は皆無だったし
旧織田家諸侯からは皆ことごとく人質を取り、転封を申し付けたので
反乱など起こせるわけがない
0009人間七七四年
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2015/08/02(日) 19:25:34.32ID:Hz9tffIx
家康の強さはやっぱ根回しの巧さだろ
政治力の高さ
0010人間七七四年
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2015/08/02(日) 19:54:17.47ID:BfL68u2l
外面似菩薩内心如夜叉の大御所様だから
0011人間七七四年
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2015/08/02(日) 22:00:34.17ID:QdAC6xvK
まぁ、簡単だよね。秀吉が死んで第二実力者の家康がなっただけだ。
秀吉の場合は一代社長みたいなもんだし、跡取りがなかなか出来なかった。
家康は長い目で見てたな。
夏の陣が終わるまでは予断を許さなかったが秀忠→家光と後継者がしっかりしてたな。
武家諸法度なんて三度改変されたが家光は剣術指南役の柳生宗矩からこれからの時代は殺人剣じゃなく活人剣を目指すべきって叩きこまれて
まず争いのもとは未然に対策すべきと武家諸法度に大名の権限を制限しつつも太平の世になるよう改変された。

柳生武芸帳そのものの考えなんだよな。
徳川実記に家光が和平は宗矩の教育のおかげって書いてある。
大阪夏の陣までは家康は生きてたから秀忠と一緒に豊臣の残党狩りをしてて家光で確立した。
0012人間七七四年
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2015/08/03(月) 00:49:10.36ID:Jk/p/YGe
宗矩の功績なんて些事だよ。
家康が一番偉いのは大功のある譜代に全然領地を与えなかったこと。
徳川四天王、本多親子、土井、柳生、、。
大盤振る舞いした足利氏とは対極。
0013人間七七四年
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2015/08/03(月) 06:04:40.45ID:+sClDZwe
>>12
まぁ、大名に反乱する気がなくなるくらい権限を制限したってのは正しいんだが
宗矩はその大名の行動を監視する総目付の職に付いてんだよね。
で全国に柳生の手下を配置させてつねに監視させてた。
柳生家といえば豊臣から領地を没収されて一文無しから大名にまで徳川のおかげで成り上がり信任は厚いし、柳生軍団といえば忍びから剣術の腕から強すぎてだれも逆らう人がいなかった。
俺、ここ重要だと思ってんだよね
0014人間七七四年
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2015/08/03(月) 21:28:47.55ID:JZe8ypzz
>>12
ちょっとひとつだけ。本多忠勝なんかは加増を申し渡されてもわたしはそれほどの働きをしてないと結構辞退してるんだよね。
三河の家臣団は忠心と団結力が強い。
0015人間七七四年
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2015/08/03(月) 22:08:53.83ID:akoXFjsA
>>14
忠勝は晩年中央から追い出されて愚痴ばっかりだったらしいが
0016人間七七四年
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2015/08/04(火) 19:18:46.01ID:Crf+FFxW
>>15
いやまあそれは歳を取りゃ老兵は去るべしだから。
蜻蛉切りだって長物だったのを年齢的に振り回せなくなるとかなり短くしたって言うしな。
大久保彦左衛門しかり三河武士ってのは仁義にあついし働きに見合わない論功は結構辞退してる。
伊達政宗しかりジジィになればうるさい頑固ジジィになったんじゃ?
0017人間七七四年
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2015/08/11(火) 02:37:21.78ID:H6QIligg
他の実力者より長生きだったから
0019人間七七四年
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2015/08/14(金) 13:33:26.49ID:kxE48hPb
>>17
まあ、それに尽きるだろう
0020人間七七四年
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2015/08/15(土) 00:56:32.67ID:hqgdxIVx
長生きなだけで天下取れるわけないじゃん
0021人間七七四年
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2015/08/15(土) 00:58:32.68ID:uX8Ghdmr
>>20
有力武将の中でって意味だろーが!
0022人間七七四年
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2015/08/16(日) 12:20:40.59ID:O7U5yvxt
食事も満足にできない医者も呼べない貧乏人じゃないのだから
長生きできるかどうかは運の要素はあるにしても自己管理の部分が大きいだろうな
家康以外の有力武将の多くが自己管理ができないダメ人間だったというだけだな
0023人間七七四年
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2015/08/18(火) 08:39:17.56ID:Eh3om0T/
看羊録によれば秀吉時代はまだ戦国の気風が濃厚に残っていて
乱を望み領土拡大したい気持ちが強い者だらけだった。
だからそのはけ口を朝鮮出兵に向けさせた。
ゆくゆくは武将たちを全て日本から追い出すことで恒久平和を達成させようとした。
関ヶ原で改易された者たちを見た武将たちはリスクを意識し、また世代交代により戦経験が少ない者達になったため
いま持つ領土を守る保守的思考になった。
世代交代を超えて家康が長生きしたために利家死後は利益代弁者として祭り上げたい旧織田系家臣団にとって自動的に経験豊富な長老格と見なされた。
0024人間七七四年
垢版 |
2015/08/18(火) 08:50:17.41ID:uaEv4RIy
チョンの記録など論ずるに値しない
0025人間七七四年
垢版 |
2015/08/18(火) 18:48:14.54ID:USO74UZ3
読まずに否定する思考停止のバカ低脳w
0026人間七七四年
垢版 |
2015/08/19(水) 11:30:47.30ID:52mUZF6n
看羊録

家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。
0027人間七七四年
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2015/08/21(金) 11:03:03.06ID:jHUC56Gg
このアンチ秀吉三成の基地外在日信長厨は、
三成を貶して家康を擁護する時は、
看羊録は外国人が書いたデタラメで信用出来ないとか言いまわりながら、
秀吉を貶して家康を擁護する時は看羊録に書かれている内容を平気で書くキチガイ。
そもそも看羊録は作者が日本に連行され、
大坂や伏見に着いた1598年6月以降(9月に秀吉死去)がリアルタイムに話を聞いていて割と正確な反面、
それ以前の話は割と知識不足が原因の勘違いをしているケースが多々あるのは有名。
例えば、家康は昔から関東に領国を持っていたと誤認していて、
北条滅亡後に秀吉により屈辱の転封を強制させられた歴史的事実を知らないのがわかる。
だから相模の北条と家康を混同している点などを承知して読めばよいだけ。
看羊録の作者は秀吉死去の寸前に大坂伏見に着いていて秀吉についてほとんど知らない。

小牧長久手での秀吉の勝利の記述に関してでは、
宣教師の記述も外国人の記述だからウソばっかとか喚いているくせに
下記のような宣教師の記述を曲解して紹介する始末www

秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

1587年の日本史には、
尾張に秀吉の姉妹がいるという話を耳にした秀吉が、
大坂でその人々を死刑にしている。
要するに伊勢から来た秀吉の兄弟やら、
尾張から来た秀吉の姉妹など、
秀吉の家族を称する詐欺師が大量にいたことを表してるだけ。
そりゃあ治安を守るために秀吉だって、その職務にある者に命じて罪人は処断するわ。
秀吉の家族を自称していたやつを捕まえて殺しただけなのに、
キチガイ朝鮮人は、これを取捨選択し我田引水で残虐者扱いするいつもの重度曲解ぶりを発揮。

ウソだって言ってるじゃん。
それを宣教師が勝手に本当のことを告白しなければならなかったのに、
などとトンデモ解釈を、なんら証拠を挙げずにぶっ込んできただけじゃん。

兄弟殺したのは信長 子供を殺したのは家康
0028人間七七四年
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2015/08/21(金) 23:19:24.31ID:yBMBTJIi
まだその設定生きてたのか。いい加減、病院いけよ。
0029人間七七四年
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2015/08/22(土) 02:13:52.14ID:uOsFm7Km
長生きだったのと、運だな。
天下取るには運が一番大事とも言える。
0030人間七七四年
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2015/09/03(木) 11:34:19.85ID:IL0A1vir
豊臣五大老筆頭として豊臣政権の政治をままにしていたから、必然的に権力が集まり、天下を狙える立場に立つことが出来た
0031人間七七四年
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2015/09/13(日) 10:23:48.34ID:yNXNYq1A
他の四大老は仕事に対する意欲も能力も低いし
五奉行に至っては現場とトラブルを繰り返してばかり
結局は家康が十人分の働きをして豊臣政権を運営してきたが
家康一人で運営しているならもう徳川政権でいいだろうというのは当然の結論だからね
0032人間七七四年
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2015/09/17(木) 06:54:38.21ID:kgnxe1P5
まあアメリカでいえば大統領(秀吉)が任期中に死んで、副大統領が後継になった
みたいなもんだよな家康って、もっとも副大統領になるまでの労苦は評価されるべき
だろうけどね、特に三方ヶ原の際は幾度信長に助けを求めても、信長はお情け程度の
兵しか送ってよこさず、戦場から脱糞逃亡。並の武将ならここで愛想をつかして武田
方に鞍替えしても不思議ではなかったかもしれない。でも家康はそれでも同盟を破棄
せずに、信長の力をバックに勢力拡大し、信長が死ぬころには秀吉と対等に渡り合える
ほどの力を持っていた。例えば今の日本に中国でも攻めてきて、アメリカが助けにこな
かったら日本は一体どうするかということを考えたら、家康はやはり半端な政治家では
なかったんだろう。
0033人間七七四年
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2015/09/17(木) 07:10:13.57ID:ZvlP8Tm5
この手の議論ではだいたいこの結論でおさまる

運が良かったから
0034人間七七四年
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2015/09/19(土) 00:34:23.54ID:fG4vaicw
確かに三成が天下を奪うために関白を殺したり謀反を企てたりしたことは運がよかったといえる
三成のおかげで豊臣には天下を治められないことが明白になり代わりの政権が必要になったからね
0035人間七七四年
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2015/09/19(土) 22:03:27.15ID:Z2NSE1Ai
とにかく運が良い
0036人間七七四年
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2015/09/20(日) 06:35:11.76ID:bsi0o/ft
そもそも、鎌倉幕府しかり室町幕府しかり、三河の王でなければ国がまとまらない
0037人間七七四年
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2015/09/20(日) 18:52:54.29ID:kqrbD7F3
信長が桶狭間で義元を討ったどさくさで岡崎城GET
当主が討ち死にしてゴタゴタしてる今川家を武田家と挟撃して遠江GET
織田家が武田家を滅ぼしてるおこぼれで駿河GET
本能寺で信長が横死を遂げる→混乱の極みになった甲斐・信濃を治めてGET

ラッキーはラッキーだがチャンスをものにしていくのはやはり才能ではある
0038人間七七四年
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2015/09/20(日) 20:38:54.55ID:sKuCpxTL
そもそも戦国武将なんて全員運がよかっただけだろ
義政が応仁の乱を起こして乱世にしなかったら誰も歴史に名を残せなかった
0039人間七七四年
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2015/09/20(日) 21:37:56.86ID:bsi0o/ft
日本人は昔から今に至るまで三河に臣従するように出来てんだよ
実績が違う

日本の歴史(中世〜近世)

◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)

◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
0040人間七七四年
垢版 |
2015/09/20(日) 21:42:22.24ID:IotV8SwZ
またこのコピペかいい加減にしてくれ
いたる所で貼って三河人としてはマジで恥ずかしいんだが
0041人間七七四年
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2015/09/20(日) 21:42:52.43ID:IotV8SwZ
そのコピペ貼っても三河sageにしか繋がってないぞ
0042人間七七四年
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2015/09/21(月) 00:30:12.11ID:9nNETs2Q
三河武士が全国に散らばり230年間続いた室町幕府
その既得権益者グループのラスボスだからさ
松平のポジションは伊勢氏や蜷川氏と同じで、足利将軍家に近い室町幕府の中の人
織田豊臣と一括にして三英傑とか間抜け過ぎる
0043人間七七四年
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2015/09/21(月) 01:56:31.89ID:bu5mt/0j
関東で田んぼとか水路とかをずっと作っていたら
たまたま秀吉が死んで跡を継いだ秀頼が子供で
後ろ楯の三成がザコそうだったから火事場泥棒的に戦を仕掛けたら
たまたま勝っちゃったから
0044人間七七四年
垢版 |
2015/09/21(月) 08:08:24.11ID:ZED8rvn4
跡継ぎが子供なのは三成が讒言で成人関白を葬ったからだし
関ヶ原の戦を仕掛けたのも三成の方だからな
結果論で家康が天下取りを目指したことにされてるが実際は三成が天下取りに突き進んでいた
天下取りの最後の仕上げとしてとして豊臣筆頭大老を倒そうと三成が謀反を起こしたが
家康が正当防衛で倒して三成の豊臣簒奪計画が土壇場で失敗しゲームオーバーというのが実態でしょう
三成が崩壊させた豊臣に代わって新政権を作って日本の統治を継続しただけで
三成ではなく家康が天下を狙った、跡継ぎが子供なのは運がよかっただけと頓珍漢な方向に事実を捻じ曲げるのもどうかな
0045人間七七四年
垢版 |
2015/09/21(月) 14:00:30.17ID:9FZDsbYi
信長と同盟を崩さなかったことが一番大きいんじゃねーの
0046人間七七四年
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2015/09/21(月) 18:08:04.20ID:prlY9voV
>>45
そういう屁理屈も有りだな

なら三河に土着したからってのも同じくらい有りだと思う
0047人間七七四年
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2015/09/21(月) 22:34:18.67ID:5UMXy2hl
家康は無理強いな事はしないイメージ。
三成のゴタゴタは
世代交代してた各戦国大名にとっては
迷惑でしかなかったとっか。
「もう、俺はサラリーマン大名でいいや。平和な方がいいや。」みたいな
気運も芽生えていたのじゃないかな?
0048人間七七四年
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2015/09/22(火) 00:51:20.33ID:nnmSWfSu
今まで通り三河が頭で急速に安定しただけだろ
センゴクなど三河が勝つまで続いただろう
0049人間七七四年
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2015/09/22(火) 21:37:44.00ID:ND7epJdf
黒田は如水は関ヶ原に乗じて
九州を丸々手中に&上手くいけば天下も。と思ってたのに
息子の長政は家康の傍に居ながら従っただけ。
小早川も隆景が存命なら毛利の天下もあったかも?
まあ、各大名が世代交代してるなかで
家康は長生きだったのが大きいと思う
0050人間七七四年
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2015/09/23(水) 00:33:29.44ID:4mQ+4BxR
ファンタジーやな、そんな脳みそヌルかったら生き残ってないだろう
0051人間七七四年
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2015/09/23(水) 01:18:24.71ID:7x/5YB0h
黒田が天下狙ってたとか創作だな
0052人間七七四年
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2015/09/23(水) 01:38:14.76ID:cqfEwyN9
黒田は島津に滅ぼされただろうな
0053人間七七四年
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2015/09/23(水) 05:45:42.48ID:Yba2pPLm
徳川長期政権の礎を築けた要因の一つは
信長秀吉という反面教師がいたからだよな。

天下とったあとは絶対に信長や秀吉みたいにはなるまいと思っていただろうし。
0054人間七七四年
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2015/09/24(木) 21:44:22.57ID:0VSRJwDI
三成の讒言とか根拠ゼロなのに一次史料皆無で語る
いつものアンチ豊臣の織田在日くんwww
0055人間七七四年
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2015/11/04(水) 08:45:57.03ID:hl2DoZ6E
徳川家康って今川家でも一門格になってるんだよな。
桶狭間で今川が勝ったとしても動きようによっては天下とれるな。
0056人間七七四年
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2015/11/10(火) 20:06:56.61ID:KQVqw33v
信光の正室が一色氏の娘と書いてあるのは今川記なんですけど
0058人間七七四年
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2015/11/12(木) 12:37:11.30ID:3El3L7O0
新しい野心的な試みに対する守旧派の関心を得るNo.2が政権を覆す。
アンチ新政権側の方が成功し易い。
平氏政権←源頼朝
建武新政権←足利尊氏
豊臣政権←家康

アンチを糾合して新政権を打倒するのは容易い。
糾合せずに各個撃破された挙句に単独挙兵した西郷隆盛はアホ。
0059人間七七四年
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2015/11/12(木) 16:44:29.07ID:o6dSOjYG
頼朝も尊氏もNo2ではないような
0060人間七七四年
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2015/11/13(金) 01:00:21.61ID:FEldiDay
豆味噌食べて頭が良くなったから
0061人間七七四年
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2015/11/14(土) 16:55:26.23ID:UyTnDtQC
日本の名門武士、勝ち組の地、三河の勝利が約束されているのは今も昔も変わらないだろうw

足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表

【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(三河県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(三河県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(三河県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(三河県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(三河県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(三河県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川信氏か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(三河県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)を、京極高詮に還付する
0062人間七七四年
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2015/11/14(土) 16:56:34.48ID:UyTnDtQC
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(三河県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(三河県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(三河県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(三河県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(三河県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(三河県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(三河県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
0063人間七七四年
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2015/11/15(日) 11:36:30.23ID:LBRU8Uup
卑怯が平気ってのは強い
0064人間七七四年
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2015/11/16(月) 02:45:24.99ID:A4SNJ0Mh
>>63
三成とか勝家とか、武士道を重んじた武将は負けてるからな。
卑怯な真似をニヤニヤ笑いながらできる図太いやつが得するって
戦国も今も同じだな。
0065人間七七四年
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2015/11/19(木) 14:36:15.26ID:39FKGMR0
天下統一したのは秀吉
0066人間七七四年
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2015/11/19(木) 15:49:32.19ID:Gkii48wU
長生きしたからとしか言いようがないのでは?
0067人間七七四年
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2015/11/19(木) 22:42:46.67ID:PZ4zuJOu
>>64
三成が人質を襲撃して死に追いやったから諸大名に愛想つかされて負けにいたったわけで
三成みたいに根本的に人として卑しい奴は戦国でも嫌われるよ
0068人間七七四年
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2015/11/20(金) 11:31:23.20ID:qKCWkZK/
スレタイに違和感
家康は天下統一してない
天下を取ったとは言える
0069人間七七四年
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2015/11/20(金) 17:06:07.33ID:zXNq0Rnj
防衛してこそ真のチャンピオンだから一代限りの秀吉は違う
0070人間七七四年
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2015/11/20(金) 17:34:08.35ID:VdsvWvb8
まあ、三成が武士道を重んじたとは、意味不明な戯言だわな
0071人間七七四年
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2015/11/20(金) 18:14:02.54ID:UOnFYbIR
三河武士が全国に散らばり230年間続いた室町幕府
家康とやらは、その既得権益者グループのラスボスでしょ
松平のポジションは伊勢氏や蜷川氏と同じで、足利将軍家に近い室町幕府の中の人
織田豊臣と一括にして三英傑とか間抜け過ぎる
0072人間七七四年
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2015/11/20(金) 22:46:56.60ID:Pacg9Y6C
これが大事
三河グルで現代日本の全てが辻褄があう
源頼朝と三河、これが全ての始まりで現代に至る850年続いている


実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
徳川幕府は崩壊していないわな

http://books.google.co.jp/books?id=RVXyIQq5VMYC&;pg=PA46&lpg=PA46&dq=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&source=bl&ots
=tYDHrH7uuT&sig=fBVt13JJ3pGPoJN1o7c5a6G4XE8&hl=ja&sa=X&ei=bHggU5HHKImgkgWuoYD4Bg&ved=0CDkQ6AEwAw#v=onepage&q=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&f=false
>三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた


三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)

大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司

藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司))
0073人間七七四年
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2015/11/20(金) 22:48:10.28ID:Pacg9Y6C
日本は、三河武士の血を引く源頼朝の呪縛から逃れられず現代に至る



源頼朝は鎌倉に幕府を開き、三河にいた母方従兄弟の源義兼に足利荘を安堵し源姓足利氏を誕生させ
その縁故で三河が足利王国になり、足利尊氏は鎌倉将軍家の敵をうつ形で室町幕府を誕生させた


源頼朝(初代鎌倉将軍)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)


足利義兼(初代源姓足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男)→足利義兼(初代源姓足利氏)



鎌倉時代
三河県岡崎市の足利氏VS神奈川県鎌倉市の北条氏    ←勝者は三河

戦国時代
三河県岡崎市の徳川氏VS神奈川県小田原市の後北条氏  ←勝者は三河

現代
三河県豊田市のトヨタVS神奈川県横浜市の日産     ←勝者は三河
0074人間七七四年
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2015/11/20(金) 23:16:48.83ID:bVERg/D8
晩年の狂った秀吉に朝鮮行かされたりしてもう疲れ果てていたところに、家康という拠り所を求めたんじゃないかな。
ぶっちゃけ加藤清正も福島正則も三成憎しで家康に付いたのではなく、もう狂った秀吉の忠誠心など無く豊臣なんてどうでも良かったと思うぞ(笑)
0075人間七七四年
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2015/11/21(土) 14:25:18.21ID:Ui/86iio
統一とは言っても、家康は対立構図がシンプルな中での成功だった

大きく分ければたった二つという派閥対立で、
対抗派閥の中枢を潰せば、残りは降伏するしかない流れになる

戦う相手が何十もある時代とは構造が違う
0076人間七七四年
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2015/11/21(土) 14:51:36.45ID:3Fl8wEmu
最大の皇室領荘園だった豊田市に繋がる鎌倉将軍家、足利将軍家、徳川将軍家、トヨタグループ
今も昔も、三河は皇室を庇護する日本の番長だわな


■三河国高橋荘・高橋新荘

豊田市全域は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した


・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる
0077人間七七四年
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2015/11/21(土) 14:52:33.69ID:3Fl8wEmu
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ


源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁

・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている


・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁

・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁


■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)

木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/
本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。
0078人間七七四年
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2015/11/21(土) 15:39:16.20ID:WDyQW2Ip
>>70
宇喜多秀家なら分かる
0080人間七七四年
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2016/01/23(土) 20:26:22.46ID:ean+NHCi
天下取るためなら誰でも騙すし、秀吉の作った伏見城なども本人が死んでから徹底的にぶっ潰した
成功者と言われる人は最終的に成功して力を手に入れれば騙そうと裏切ろうと後付けで美談にできるものである。
0082人間七七四年
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2016/01/23(土) 23:13:03.20ID:iPzifJ12
秀次を讒言で殺して豊臣から関白を奪ったのは三成だし
秀吉の作った伏見城を焼き払ったのも三成だからな
三成は朝鮮出兵でも讒言で邪魔な武断派などを隙あらば攻撃したし
最後は謀反を起こして秀頼を軟禁状態にもした

結果論から家康が天下を取るために何でもやったように言われているけど
権力を求めてアグレッシブに行動していたのはむしろ三成の方だった
家康は三成に狙われて正当防衛的に行動しただけでむしろ被害者の方だったといえる
0083人間七七四年
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2016/01/25(月) 00:31:18.96ID:v0u7KRgQ
三河の豆味噌パワーで天下を取った
0084人間七七四年
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2016/01/25(月) 23:38:02.40ID:0061NhLl
尻から漏れる焼味噌パワーw
0085人間七七四年
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2016/01/26(火) 00:17:21.06ID:QwTuE0kE
秀吉って信孝の母親と娘も殺してるんだろ?
信長の側室を殺す大悪党だろ。
豊臣は家康に滅ぼされて当然の報い。
0086人間七七四年
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2016/01/26(火) 12:20:32.97ID:+hX7Eceb
>>85
家康に滅ぼされて当然なのか?
大坂の陣が勃発する土壇場まで、
家康は豊臣を存続させようと尽力していたのだが
秀吉の罪を秀頼に負わせる考えがあったとは思えん
0087人間七七四年
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2016/01/26(火) 12:36:57.42ID:AlvtPEi5
1590年くらいでポックリ秀吉死んでれば全然ちがうんだろうな・・・トヨトミ自爆?
0088人間七七四年
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2016/01/26(火) 16:15:26.29ID:hkKwIhRP
尽力していたとか小説の読み過ぎ
娘まで尼寺入れて子孫断絶図ってるのに
っていうかこの行為自体戦国の世で普通だろうに
0089人間七七四年
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2016/01/26(火) 16:17:38.57ID:4tomsKqw
>>88
夏の陣までと夏の陣以降で家康の意志が一貫していたと考える方が小説の読み過ぎだぞ
0090人間七七四年
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2016/01/26(火) 16:28:07.99ID:hkKwIhRP
>>89
武家諸法度の発布がいつだか知ってる?
又、家康が征夷大将軍になった年
大阪夏の陣の年

もしかして、武家諸法度がひと月ふた月で作られたとか考えてないよな?

1600年関が原の戦い
1603年:家康征夷大将軍に就任
1614年11月:大阪冬の陣
1615年5月:大阪夏の陣
1615年7月:武家諸法度発布


ひと月、ふたの月の構想で成立するようなそんなちゃちな制度じゃないよ
実は家康好きは家康馬鹿にしてんのか?
0091人間七七四年
垢版 |
2016/01/27(水) 16:33:19.54ID:d41lzHfl
秀吉は天下統一後に自分の死後に天下簒奪される事の無いように
万全の仕組みを作った。
しかし秀次事件で秀吉はその仕組みを自ら破壊してしまった。
家康も秀次事件が無ければ天下簒奪を諦めてた。
0092人間七七四年
垢版 |
2016/01/27(水) 16:47:02.92ID:+w37PisC
秀長がカギぢゃ
秀長さえ長生きしていてくれていれば秀次事件は起きなかったのぢゃ
0093人間七七四年
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2016/01/27(水) 17:22:58.72ID:d41lzHfl
>>92
秀頼が生まれた時点で結果は同じ。
秀頼が生まれたことで秀次が邪魔になって秀次事件が発生したわけだからな。
秀次排除に反対した秀長が立腹した秀吉に切腹させられた可能性すらある。

豊臣政権が続く道は、秀吉の実子が秀吉死亡時点で充分に成人してるか、
もしくは秀頼が生まれずに秀次が関白位のまま秀吉が死亡してるかの
2通りしかなかった。
0094人間七七四年
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2016/01/27(水) 17:32:06.37ID:d41lzHfl
家康が必死に長生きしようとしたのも「豊臣を滅ぼす時期を待つため」
以外に「後継者が充分に育つのを待つため」というのもあっただろう。
後継者が未熟なまま死ぬのは何としても避けたかったはず。
豊臣はそれによって天下を簒奪されたわけだから。
0095人間七七四年
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2016/01/27(水) 20:42:19.71ID:cxWbk79Q
>>94
>「豊臣を滅ぼす時期を待つため」
ねーよ
0096人間七七四年
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2016/01/27(水) 22:38:54.24ID:uuPBQ//w
家康って野心はないけど、転がりこんできたら何が何でも掴もうとする印象があるんだけどな
そして掴んだものを絶対に手から離そうとしない
だから秀吉が死んだことで「天下」が転がってきたら掴んだだけなんじゃないの?
長生きしようとしたのも天下とるためではない気がするけどな
0097人間七七四年
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2016/01/28(木) 12:51:54.71ID:Tcdn2Ltk
そんなに腹が減ってなくても高級料理の試食があったら食べてしまうのと同じだな
0098人間七七四年
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2016/01/28(木) 12:55:40.56ID:orldLVCS
転がりこんできたから天下をとったというか、
家康は基本的に真面目だから(これは信長にも言えるが)天下静謐のために手を尽くした結果
新政権樹立の道しか無くなったんじゃないかなあと思う
0099人間七七四年
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2016/01/28(木) 18:10:48.52ID:KAYV7M2M
野戦に強く深謀遠慮あり状況判断も適格で時代を読み違えず健康で長生きしたからでは?
0100人間七七四年
垢版 |
2016/01/28(木) 23:53:12.59ID:Fy8Effkb
精神力の強さ故
0101人間七七四年
垢版 |
2016/01/29(金) 04:40:34.75ID:JFegIf2B
長生きも才能の一つというのもあるね。
家康が関ケ原直後あたりで死んだら徳川幕府は無かったと思うし
仮に前田利家があと10年生きていても徳川幕府はなかったろう。
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