何故、徳川家康は天下統一ができたのか? [転載禁止]©2ch.net
まぁ信玄から学んだっていうのがあるが
総じて棚ボタ。 織田がつき羽柴がこねし天下餅 座りしままに食うわ徳川 >>3
その逸話は江戸末期に作られた創作らしいが史実通りに言えば
織田が棚ぼたコソ泥し、それを羽柴がコソ泥した天下餅
一人健気について作った徳川って所だろうな 秀吉って天下統一事業ではなく
信長がほとんど確立した体制を信長が光秀に殺され
光秀が逆賊になった隙をついてコソドロしただけじゃん。
天下統一といってもほとんど上杉・大友・木曽・小笠原・毛利・宇喜多・佐竹・結城・宇都宮・十河・河野・蘆名・真田・石川・水野など諸大名の力に依存して、同盟と土下座でまとめただけだし自力で切り取った領土なんて皆無の他力本願の棚ボタ政権だし。
結局本能寺の変などの棚ボタと漁夫の利と同盟勢力のお膳立てで政権をコソドロしたはいいが
結局信雄や家康に大敗して家を滅ぼされただけだし。
本能寺の変が起きた時点で羽柴領は直轄領200万石から
主の敵討ちをする大義名分を手に入れたことにより
畿内の丹羽信張池田高山中川信孝蒲生堀信雄信包蜂谷らが秀吉指揮下に加わり400万石前後に大飛躍するからな。
上杉・毛利らもすぐに自動的に味方になるし
これに対して明智は与力下が悉く離反して20万石前後しか残ってないし。
これなら大将が誰だろうが天下取れる。
これで天下取れないのは毛利くらいだろう。 実際に国力の割合からいえばよってたかるハエを追い払うくらいのヌルゲーの戦争しか残ってないのが秀吉。
しかしそんな今川氏真が指揮を取っても楽勝で勝てそうな超絶ヌルゲーで
雑魚の信雄に135000の大軍で挑みかかって信雄領国は会戦早々尾張・美濃・伊勢・伊賀ともに寝返りの連鎖で崩壊状態だったほど
雑魚統制しかなかったのに秀吉方はいざ戦うと雑魚の信雄に1万人殺されたり
戸木浜田二重堀松ノ木東駒野河波蟹江長久保神戸など各城の攻防で奪回されたり蹴散らされたりするアホっぷりだったじゃん
中川は天正8年時点で秀吉と兄弟の契りを結んでるほど密接な関係なので秀吉を裏切るわけがない。
高山や筒井や池田など織田家諸侯も、信長に仕えていた身分なので
信長を殺した光秀につくなんて不忠行為を行うわけがない。
実際に光秀についた連中なんて若狭武田と阿辻くらいしかいないし
信孝信雄信張信包など親族連中も一杯いるし
一門の丹羽や羽柴は絶対裏切らないし
家康も信長の同盟者の立場から、反明智は確定的だし
柴田も明智と連絡なんて取ってないし
明智なんていずれ誰かに殺されてる。
敵がハナから瓦解してたり
内紛してたり兵糧不足だったり
まともに抵抗せずに降伏するものばかりだったり、敵国力が雑魚だったりで
楽な相手ばかりだったからね。
ドラマじゃ危機みたいに描かれてるけど
秀吉なんてヌルゲーの戦がほとんどだし 信長時代に既に織田の大版図は形成されてるし後は残りカスみたいなものだろ。
本能寺の変で信長が光秀に殺されて光秀が逆賊の汚名負ってくれたおかげで、主殺しを討つ大義名分を棚ボタ的にいただいたあげく
摂津の諸侯や丹羽や信孝などをはじめ馬鹿みたいに味方が集まってくれたし清洲会議でも大きく優位になって領土を獲得してる。
あげく信雄と信孝も勝手にやりあってくれてたし、勝豊も美濃衆も会戦前くらいであっさり寝返ってたくらい、柴田側は統制が崩壊してたし、
会戦になると前田や不和や金森まで勝手に退却してくれるし、周辺諸大名も毛利上杉木曽小笠原宇喜多大友佐竹結城宇都宮那須皆川佐野真田芦名二階堂
白川結城石川岩城相馬河野十河など悉く秀吉に味方してくれたおかげで、秀吉は他力本願でヌルゲーの誰でも勝てる戦いができただけ。
しかもそんな今川氏真が指揮をとっても楽勝で勝てそうなヌルゲーの戦いですら小牧長久手合戦や熊見川合戦や小田原合戦など家臣をぶち殺されまくったり
300しかいない馬鹿な雑魚城攻めでろくに落せなかったりしてる。 秀吉の小牧長久手合戦当時の国力
中国・畿内・北陸900万石+上杉50万石+毛利120万石+十河・河野・信濃の木曽(合計20万石くらい?)
このうち上杉は秀吉の要請に従って信濃出兵し徳川方の小笠原らと交戦
宇喜多は岸和田まで援軍出してる。
毛利は秀包を援軍として派遣してる。
秀吉は上記の国力を生かして135000の大軍を動員して短期決戦しかけて大敗してる。
そもそも本能寺の変が起きた時点でもう既に誰でも天下統一できるようなヌルゲーしか残ってない。
まあ秀吉は完全に棚ボタだっただけ
本能寺の変が起きた時点でもう既に誰でも天下統一できるようなヌルゲーしか残ってない。
秀吉は完全に棚ボタだっただけ
秀吉領国は本能寺の変前で直轄地200万石
本能寺後はこれに信雄信孝信張信包丹羽蜂谷池田高山中川蒲生堀など反明智の織田一門や重臣が加わるので自動的に200万石が加算され
清洲会議後は丹後の細川や大和の筒井まで臣従してくるし
丹羽や池田も臣従下してきて
旧織田家諸侯は悉く秀吉の臣家になり
人質を秀吉に出した上に、転封命令を出せる存在になり、領分に介入したり
失態を叱責したりできる上に、合戦でも秀吉の命令が逐一細かくまかり通る直轄軍と化してる
上杉や毛利も自動的に味方になるし
徳川との対戦時だと石川も自動的に半味方になり
信雄領国の伊勢では秀吉が皆伊勢の諸侯から人質召集してたので
会戦開始早々なだれをうって秀吉方に皆がついてる。
伊勢どころか尾張ですら信雄から秀吉に寝返りを始める始末だし
毛利軍が秀吉の口から出任せ口述詐欺に見事ひっかかってあれだけの大チャンスに追撃もせず高松を明け渡して退却
普通に考えりゃ熊見川や美作攻防の2の舞で毛利に瞬殺されててもおかしくない状況だったし、秀吉に騙された毛利のアホさ加減と明智軍の兵力分散と
山崎での隘路での迎撃を捨てた恩恵にすぎない
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
トンデモ史観はアホ秀吉厨じゃん
秀吉は雑魚の信雄に大敗して、家康に母や妹やチート官位や関東250万石まで土下座献上して、その結果家を滅ぼされた。
結局戦がゴミみたいに弱いから普通なら一週間前後で決着がつきそうな兵力比と国力比でも大敗して家を滅ぼされただけだよ
下克上されるのは傀儡化したいう事きかない譜代家臣とか多く抱えた名門守護家のみ
秀吉は自分で好きな連中を自由に登用できたので、そういう事する連中は皆無だったし
旧織田家諸侯からは皆ことごとく人質を取り、転封を申し付けたので
反乱など起こせるわけがない まぁ、簡単だよね。秀吉が死んで第二実力者の家康がなっただけだ。
秀吉の場合は一代社長みたいなもんだし、跡取りがなかなか出来なかった。
家康は長い目で見てたな。
夏の陣が終わるまでは予断を許さなかったが秀忠→家光と後継者がしっかりしてたな。
武家諸法度なんて三度改変されたが家光は剣術指南役の柳生宗矩からこれからの時代は殺人剣じゃなく活人剣を目指すべきって叩きこまれて
まず争いのもとは未然に対策すべきと武家諸法度に大名の権限を制限しつつも太平の世になるよう改変された。
柳生武芸帳そのものの考えなんだよな。
徳川実記に家光が和平は宗矩の教育のおかげって書いてある。
大阪夏の陣までは家康は生きてたから秀忠と一緒に豊臣の残党狩りをしてて家光で確立した。 宗矩の功績なんて些事だよ。
家康が一番偉いのは大功のある譜代に全然領地を与えなかったこと。
徳川四天王、本多親子、土井、柳生、、。
大盤振る舞いした足利氏とは対極。 >>12
まぁ、大名に反乱する気がなくなるくらい権限を制限したってのは正しいんだが
宗矩はその大名の行動を監視する総目付の職に付いてんだよね。
で全国に柳生の手下を配置させてつねに監視させてた。
柳生家といえば豊臣から領地を没収されて一文無しから大名にまで徳川のおかげで成り上がり信任は厚いし、柳生軍団といえば忍びから剣術の腕から強すぎてだれも逆らう人がいなかった。
俺、ここ重要だと思ってんだよね >>12
ちょっとひとつだけ。本多忠勝なんかは加増を申し渡されてもわたしはそれほどの働きをしてないと結構辞退してるんだよね。
三河の家臣団は忠心と団結力が強い。 >>14
忠勝は晩年中央から追い出されて愚痴ばっかりだったらしいが >>15
いやまあそれは歳を取りゃ老兵は去るべしだから。
蜻蛉切りだって長物だったのを年齢的に振り回せなくなるとかなり短くしたって言うしな。
大久保彦左衛門しかり三河武士ってのは仁義にあついし働きに見合わない論功は結構辞退してる。
伊達政宗しかりジジィになればうるさい頑固ジジィになったんじゃ? 食事も満足にできない医者も呼べない貧乏人じゃないのだから
長生きできるかどうかは運の要素はあるにしても自己管理の部分が大きいだろうな
家康以外の有力武将の多くが自己管理ができないダメ人間だったというだけだな 看羊録によれば秀吉時代はまだ戦国の気風が濃厚に残っていて
乱を望み領土拡大したい気持ちが強い者だらけだった。
だからそのはけ口を朝鮮出兵に向けさせた。
ゆくゆくは武将たちを全て日本から追い出すことで恒久平和を達成させようとした。
関ヶ原で改易された者たちを見た武将たちはリスクを意識し、また世代交代により戦経験が少ない者達になったため
いま持つ領土を守る保守的思考になった。
世代交代を超えて家康が長生きしたために利家死後は利益代弁者として祭り上げたい旧織田系家臣団にとって自動的に経験豊富な長老格と見なされた。 看羊録
家康は兵をもって相模に秀吉を迎え撃った。
秀吉の兵が敗れ、遂に家康と和を結んだ。家康も恨みを解いて服従し、終身臣礼を失わなかった。
家康は江戸中納言(秀忠)を愛し、後継にしようと望んだ。
家康は事のなりゆきを観望していた。
秀吉は自ら往ってこれを攻めたが、かえって敗北を喫してしまい、遂に家康と和を結んだ。
家康もまた腰をかがめてこれに事え、全く臣下の礼をとった。 このアンチ秀吉三成の基地外在日信長厨は、
三成を貶して家康を擁護する時は、
看羊録は外国人が書いたデタラメで信用出来ないとか言いまわりながら、
秀吉を貶して家康を擁護する時は看羊録に書かれている内容を平気で書くキチガイ。
そもそも看羊録は作者が日本に連行され、
大坂や伏見に着いた1598年6月以降(9月に秀吉死去)がリアルタイムに話を聞いていて割と正確な反面、
それ以前の話は割と知識不足が原因の勘違いをしているケースが多々あるのは有名。
例えば、家康は昔から関東に領国を持っていたと誤認していて、
北条滅亡後に秀吉により屈辱の転封を強制させられた歴史的事実を知らないのがわかる。
だから相模の北条と家康を混同している点などを承知して読めばよいだけ。
看羊録の作者は秀吉死去の寸前に大坂伏見に着いていて秀吉についてほとんど知らない。
小牧長久手での秀吉の勝利の記述に関してでは、
宣教師の記述も外国人の記述だからウソばっかとか喚いているくせに
下記のような宣教師の記述を曲解して紹介する始末www
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
1587年の日本史には、
尾張に秀吉の姉妹がいるという話を耳にした秀吉が、
大坂でその人々を死刑にしている。
要するに伊勢から来た秀吉の兄弟やら、
尾張から来た秀吉の姉妹など、
秀吉の家族を称する詐欺師が大量にいたことを表してるだけ。
そりゃあ治安を守るために秀吉だって、その職務にある者に命じて罪人は処断するわ。
秀吉の家族を自称していたやつを捕まえて殺しただけなのに、
キチガイ朝鮮人は、これを取捨選択し我田引水で残虐者扱いするいつもの重度曲解ぶりを発揮。
ウソだって言ってるじゃん。
それを宣教師が勝手に本当のことを告白しなければならなかったのに、
などとトンデモ解釈を、なんら証拠を挙げずにぶっ込んできただけじゃん。
兄弟殺したのは信長 子供を殺したのは家康 長生きだったのと、運だな。
天下取るには運が一番大事とも言える。 豊臣五大老筆頭として豊臣政権の政治をままにしていたから、必然的に権力が集まり、天下を狙える立場に立つことが出来た 他の四大老は仕事に対する意欲も能力も低いし
五奉行に至っては現場とトラブルを繰り返してばかり
結局は家康が十人分の働きをして豊臣政権を運営してきたが
家康一人で運営しているならもう徳川政権でいいだろうというのは当然の結論だからね まあアメリカでいえば大統領(秀吉)が任期中に死んで、副大統領が後継になった
みたいなもんだよな家康って、もっとも副大統領になるまでの労苦は評価されるべき
だろうけどね、特に三方ヶ原の際は幾度信長に助けを求めても、信長はお情け程度の
兵しか送ってよこさず、戦場から脱糞逃亡。並の武将ならここで愛想をつかして武田
方に鞍替えしても不思議ではなかったかもしれない。でも家康はそれでも同盟を破棄
せずに、信長の力をバックに勢力拡大し、信長が死ぬころには秀吉と対等に渡り合える
ほどの力を持っていた。例えば今の日本に中国でも攻めてきて、アメリカが助けにこな
かったら日本は一体どうするかということを考えたら、家康はやはり半端な政治家では
なかったんだろう。 この手の議論ではだいたいこの結論でおさまる
運が良かったから 確かに三成が天下を奪うために関白を殺したり謀反を企てたりしたことは運がよかったといえる
三成のおかげで豊臣には天下を治められないことが明白になり代わりの政権が必要になったからね そもそも、鎌倉幕府しかり室町幕府しかり、三河の王でなければ国がまとまらない 信長が桶狭間で義元を討ったどさくさで岡崎城GET
当主が討ち死にしてゴタゴタしてる今川家を武田家と挟撃して遠江GET
織田家が武田家を滅ぼしてるおこぼれで駿河GET
本能寺で信長が横死を遂げる→混乱の極みになった甲斐・信濃を治めてGET
ラッキーはラッキーだがチャンスをものにしていくのはやはり才能ではある そもそも戦国武将なんて全員運がよかっただけだろ
義政が応仁の乱を起こして乱世にしなかったら誰も歴史に名を残せなかった 日本人は昔から今に至るまで三河に臣従するように出来てんだよ
実績が違う
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平 またこのコピペかいい加減にしてくれ
いたる所で貼って三河人としてはマジで恥ずかしいんだが そのコピペ貼っても三河sageにしか繋がってないぞ 三河武士が全国に散らばり230年間続いた室町幕府
その既得権益者グループのラスボスだからさ
松平のポジションは伊勢氏や蜷川氏と同じで、足利将軍家に近い室町幕府の中の人
織田豊臣と一括にして三英傑とか間抜け過ぎる 関東で田んぼとか水路とかをずっと作っていたら
たまたま秀吉が死んで跡を継いだ秀頼が子供で
後ろ楯の三成がザコそうだったから火事場泥棒的に戦を仕掛けたら
たまたま勝っちゃったから 跡継ぎが子供なのは三成が讒言で成人関白を葬ったからだし
関ヶ原の戦を仕掛けたのも三成の方だからな
結果論で家康が天下取りを目指したことにされてるが実際は三成が天下取りに突き進んでいた
天下取りの最後の仕上げとしてとして豊臣筆頭大老を倒そうと三成が謀反を起こしたが
家康が正当防衛で倒して三成の豊臣簒奪計画が土壇場で失敗しゲームオーバーというのが実態でしょう
三成が崩壊させた豊臣に代わって新政権を作って日本の統治を継続しただけで
三成ではなく家康が天下を狙った、跡継ぎが子供なのは運がよかっただけと頓珍漢な方向に事実を捻じ曲げるのもどうかな 信長と同盟を崩さなかったことが一番大きいんじゃねーの >>45
そういう屁理屈も有りだな
なら三河に土着したからってのも同じくらい有りだと思う 家康は無理強いな事はしないイメージ。
三成のゴタゴタは
世代交代してた各戦国大名にとっては
迷惑でしかなかったとっか。
「もう、俺はサラリーマン大名でいいや。平和な方がいいや。」みたいな
気運も芽生えていたのじゃないかな? 今まで通り三河が頭で急速に安定しただけだろ
センゴクなど三河が勝つまで続いただろう 黒田は如水は関ヶ原に乗じて
九州を丸々手中に&上手くいけば天下も。と思ってたのに
息子の長政は家康の傍に居ながら従っただけ。
小早川も隆景が存命なら毛利の天下もあったかも?
まあ、各大名が世代交代してるなかで
家康は長生きだったのが大きいと思う ファンタジーやな、そんな脳みそヌルかったら生き残ってないだろう 徳川長期政権の礎を築けた要因の一つは
信長秀吉という反面教師がいたからだよな。
天下とったあとは絶対に信長や秀吉みたいにはなるまいと思っていただろうし。 三成の讒言とか根拠ゼロなのに一次史料皆無で語る
いつものアンチ豊臣の織田在日くんwww 徳川家康って今川家でも一門格になってるんだよな。
桶狭間で今川が勝ったとしても動きようによっては天下とれるな。 信光の正室が一色氏の娘と書いてあるのは今川記なんですけど 新しい野心的な試みに対する守旧派の関心を得るNo.2が政権を覆す。
アンチ新政権側の方が成功し易い。
平氏政権←源頼朝
建武新政権←足利尊氏
豊臣政権←家康
アンチを糾合して新政権を打倒するのは容易い。
糾合せずに各個撃破された挙句に単独挙兵した西郷隆盛はアホ。 日本の名門武士、勝ち組の地、三河の勝利が約束されているのは今も昔も変わらないだろうw
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表
【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(三河県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(三河県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(三河県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(三河県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(三河県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(三河県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川信氏か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(三河県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)を、京極高詮に還付する 【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(三河県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(三河県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(三河県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(三河県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(三河県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(三河県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(三河県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する >>63
三成とか勝家とか、武士道を重んじた武将は負けてるからな。
卑怯な真似をニヤニヤ笑いながらできる図太いやつが得するって
戦国も今も同じだな。 >>64
三成が人質を襲撃して死に追いやったから諸大名に愛想つかされて負けにいたったわけで
三成みたいに根本的に人として卑しい奴は戦国でも嫌われるよ スレタイに違和感
家康は天下統一してない
天下を取ったとは言える 防衛してこそ真のチャンピオンだから一代限りの秀吉は違う まあ、三成が武士道を重んじたとは、意味不明な戯言だわな 三河武士が全国に散らばり230年間続いた室町幕府
家康とやらは、その既得権益者グループのラスボスでしょ
松平のポジションは伊勢氏や蜷川氏と同じで、足利将軍家に近い室町幕府の中の人
織田豊臣と一括にして三英傑とか間抜け過ぎる これが大事
三河グルで現代日本の全てが辻褄があう
源頼朝と三河、これが全ての始まりで現代に至る850年続いている
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
徳川幕府は崩壊していないわな
http://books.google.co.jp/books?id=RVXyIQq5VMYC&pg=PA46&lpg=PA46&dq=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&source=bl&ots
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>三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司)) 日本は、三河武士の血を引く源頼朝の呪縛から逃れられず現代に至る
源頼朝は鎌倉に幕府を開き、三河にいた母方従兄弟の源義兼に足利荘を安堵し源姓足利氏を誕生させ
その縁故で三河が足利王国になり、足利尊氏は鎌倉将軍家の敵をうつ形で室町幕府を誕生させた
源頼朝(初代鎌倉将軍)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
足利義兼(初代源姓足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男)→足利義兼(初代源姓足利氏)
鎌倉時代
三河県岡崎市の足利氏VS神奈川県鎌倉市の北条氏 ←勝者は三河
戦国時代
三河県岡崎市の徳川氏VS神奈川県小田原市の後北条氏 ←勝者は三河
現代
三河県豊田市のトヨタVS神奈川県横浜市の日産 ←勝者は三河 晩年の狂った秀吉に朝鮮行かされたりしてもう疲れ果てていたところに、家康という拠り所を求めたんじゃないかな。
ぶっちゃけ加藤清正も福島正則も三成憎しで家康に付いたのではなく、もう狂った秀吉の忠誠心など無く豊臣なんてどうでも良かったと思うぞ(笑) 統一とは言っても、家康は対立構図がシンプルな中での成功だった
大きく分ければたった二つという派閥対立で、
対抗派閥の中枢を潰せば、残りは降伏するしかない流れになる
戦う相手が何十もある時代とは構造が違う 最大の皇室領荘園だった豊田市に繋がる鎌倉将軍家、足利将軍家、徳川将軍家、トヨタグループ
今も昔も、三河は皇室を庇護する日本の番長だわな
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市全域は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる 源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)
木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/
本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。 天下取るためなら誰でも騙すし、秀吉の作った伏見城なども本人が死んでから徹底的にぶっ潰した
成功者と言われる人は最終的に成功して力を手に入れれば騙そうと裏切ろうと後付けで美談にできるものである。 秀次を讒言で殺して豊臣から関白を奪ったのは三成だし
秀吉の作った伏見城を焼き払ったのも三成だからな
三成は朝鮮出兵でも讒言で邪魔な武断派などを隙あらば攻撃したし
最後は謀反を起こして秀頼を軟禁状態にもした
結果論から家康が天下を取るために何でもやったように言われているけど
権力を求めてアグレッシブに行動していたのはむしろ三成の方だった
家康は三成に狙われて正当防衛的に行動しただけでむしろ被害者の方だったといえる 秀吉って信孝の母親と娘も殺してるんだろ?
信長の側室を殺す大悪党だろ。
豊臣は家康に滅ぼされて当然の報い。 >>85
家康に滅ぼされて当然なのか?
大坂の陣が勃発する土壇場まで、
家康は豊臣を存続させようと尽力していたのだが
秀吉の罪を秀頼に負わせる考えがあったとは思えん 1590年くらいでポックリ秀吉死んでれば全然ちがうんだろうな・・・トヨトミ自爆? 尽力していたとか小説の読み過ぎ
娘まで尼寺入れて子孫断絶図ってるのに
っていうかこの行為自体戦国の世で普通だろうに >>88
夏の陣までと夏の陣以降で家康の意志が一貫していたと考える方が小説の読み過ぎだぞ >>89
武家諸法度の発布がいつだか知ってる?
又、家康が征夷大将軍になった年
大阪夏の陣の年
もしかして、武家諸法度がひと月ふた月で作られたとか考えてないよな?
1600年関が原の戦い
1603年:家康征夷大将軍に就任
1614年11月:大阪冬の陣
1615年5月:大阪夏の陣
1615年7月:武家諸法度発布
ひと月、ふたの月の構想で成立するようなそんなちゃちな制度じゃないよ
実は家康好きは家康馬鹿にしてんのか? 秀吉は天下統一後に自分の死後に天下簒奪される事の無いように
万全の仕組みを作った。
しかし秀次事件で秀吉はその仕組みを自ら破壊してしまった。
家康も秀次事件が無ければ天下簒奪を諦めてた。 秀長がカギぢゃ
秀長さえ長生きしていてくれていれば秀次事件は起きなかったのぢゃ >>92
秀頼が生まれた時点で結果は同じ。
秀頼が生まれたことで秀次が邪魔になって秀次事件が発生したわけだからな。
秀次排除に反対した秀長が立腹した秀吉に切腹させられた可能性すらある。
豊臣政権が続く道は、秀吉の実子が秀吉死亡時点で充分に成人してるか、
もしくは秀頼が生まれずに秀次が関白位のまま秀吉が死亡してるかの
2通りしかなかった。 家康が必死に長生きしようとしたのも「豊臣を滅ぼす時期を待つため」
以外に「後継者が充分に育つのを待つため」というのもあっただろう。
後継者が未熟なまま死ぬのは何としても避けたかったはず。
豊臣はそれによって天下を簒奪されたわけだから。 >>94
>「豊臣を滅ぼす時期を待つため」
ねーよ 家康って野心はないけど、転がりこんできたら何が何でも掴もうとする印象があるんだけどな
そして掴んだものを絶対に手から離そうとしない
だから秀吉が死んだことで「天下」が転がってきたら掴んだだけなんじゃないの?
長生きしようとしたのも天下とるためではない気がするけどな そんなに腹が減ってなくても高級料理の試食があったら食べてしまうのと同じだな 転がりこんできたから天下をとったというか、
家康は基本的に真面目だから(これは信長にも言えるが)天下静謐のために手を尽くした結果
新政権樹立の道しか無くなったんじゃないかなあと思う 野戦に強く深謀遠慮あり状況判断も適格で時代を読み違えず健康で長生きしたからでは? 長生きも才能の一つというのもあるね。
家康が関ケ原直後あたりで死んだら徳川幕府は無かったと思うし
仮に前田利家があと10年生きていても徳川幕府はなかったろう。 あと肉親への情に溺れないとこもあるよな
信康を切腹させたり忠輝を追放したり息子だろうが反逆者は許さない 肉親だからって甘い裁定したら信長みたいに反乱に苦しむことになるからな 逆境に弱い印象だが、結局のところ生き延びたからな
・今川家に預けられる身のはずが、織田に横取りされる
&父・広忠が織田の恫喝を退け、なびかないことを表明
人質としての価値を失った竹千代は、いつ殺されてもおかしくない
↓
今川家が軍事行動を起こしてまでして、救出してくれる
・桶狭間で今川義元討死
取り乱して自害しようとする
↓
自死を止められ、新たな目標を与えられる
・本能寺の変で信長が横死
取り乱して自害しようとする
↓
自死を止められ、自領への脱出にも成功
・秀吉との対立中、背中の出来物が悪化して死を覚悟
死後の方針を整理しようとする
↓
本多作左衛門のハッタリで名医の治療を受け、快癒 小牧長久手の戦いが大きな鍵
武田勝頼は長篠の合戦で国力の差があったから負けて仕方ないとか擁護する人いるが、それは違うことを家康は見せつけている
最終的には秀吉に屈したけれども、この戦いで諸将の大きな尊敬を勝ち取った 小競り合いみたいな感じで総力戦じゃないっぽいんだが
寝返ったのを先鋒ってよくあるもんな・・・関ヶ原の東軍でも一番槍は豊臣子飼いだしな
池田恒興は信長の乳兄弟で鬼武蔵も織田譜代で死んじゃったけどもw >>105
大坂夏の陣でも真田幸村に突撃されて自害を止められたそうだな。
でも本当に自害するつもりはなくて誰かに止めて欲しかったんだろう。
誰も止めてくれなかったらどうしたんだろうね?w そもそも秀忠がだらしないから家康が70超えても戦場に出張らないとならないわけでw 家康の自害未遂エピソードの多さはやる夫が首を吊ろうとするフリしてチラ見してるAAを思い出す 家康の自害未遂エピソードが多いのは神君が自害しようとするのを
我ら旗本が必死に止めて支えたからだと後から作っただけだと思っている 自害エピソードは家康を悪役側にしたてた講談劇の主役をひきたてるための過剰演出と思う
真田があわや家康をーってのは最たる例かと。 >>107
現代人は豊臣が関ケ原以降どうなったか知ってるから三成を忠臣みたいにとらえてるけど
同時代の人達からみれば裏切り者は三成の方なんじゃないの
仮に西軍が勝っても豊臣の天下は維持できず毛利が大阪城を乗っ取って九州と関東は再び戦乱の世がおとずれるだけ >>108
真田幸村という架空の人物が絡んだ話なら、
それは創られた物語上のことであって、
真面目にどうこう考察することでもない 三方ヶ原の戦いの後すぐに信玄死んだから徳川は滅亡せず済んだって所もあるんじゃない?? 真田幸村なんて架空の人物を使っている時点で戦国自衛隊と同じレベルの話だからな >>99
家康の能力というより、人使いの上手さだろう。深謀遠慮があったというが、
それも有能な家臣からの情報があっての事。
信長と家康は全くタイプが違うが、人には恵まれていた。これは、兵質が良かった
という三河ならでは。だから、信長は尾張を基盤として、三河武士の武を欲した。
家康の活躍は、家康のもの。弱兵というが、尾張も人材が居なかったわけではない。
武士ではなく、その他の民間人や商人に分散していただけだろうね。 背中の出来物が悪化して、の件は、
本多重次の死ぬ死ぬ詐欺だろうな
主君も過去に死ぬ死ぬ詐欺をしたことがあり、
主君も主君なら家臣も家臣だ。なんちて 戦上手
運動好きで体が強い
得意戦法は謀略戦
2番手で生き残る処世術
新統治に敵の旧臣起用
律儀物で周りの信用もある
家康はずば抜けて無いが、何でも出来るからゲームや専門家の能力分析でやたら高くなる
信長死後からは弱点が無かった まあもっともめんどくさそうな寺社勢力を信長と秀吉が壊滅させてくれたのも大きいよな まあ、社長死んで2代目が子供だから継げるようになるまで面倒見てねって立場の副社長が
則ったって話だから、もちろんそれはそれなりの能力必要だったけど、戦国の世をを切り従えた、
てのとはスケールが隔絶するほど落ちてる 「戦国の世を切り従えた」ってのに夢見過ぎじゃない? ファンタジーって…定義の話なのにこの知恵遅れには全く理解できないとは憐れなゴミクズ
こんな知能レベルでドヤ顔で何しに出てきたんだこのカスはw その定義の仕方がファンタジー脳って言われてるんだゾ 2016年被爆者 【訃報】「機動戦士ガンダムSEED」脚本家の両澤千晶さん死去 大動脈解離のため亡くなった。56歳。
暴走事故運転者の家族、持病は「全然なかった」心筋異常、大動脈瘤破裂?
福島沿岸の底棲高級魚を暴力団漁師が捕獲、関西に持ち込んでるとの噂
食べて応援の雄 松方弘樹、脳腫瘍の疑い 事故後も東北沖マグロを釣りまくってきた無類の魚食好き
女子プロレス界の異常。亜利弥さん、昨年北斗晶さんと同じ乳癌発症、ステージIV。「桜の咲く頃まで持たない」と告知。
長与千種さん、今年胆嚢全摘手術。そしてRAYさんの悪性脳腫瘍。。。女子プロレスは震災後福島でボランティア興行。
2015年被爆者 盛田幸妃 横浜(現DeNA)45 松来未祐38 黒木奈々アナ32 丸山夏鈴アイドル郡山市出身21
11.23「テラスハウス」今井洋介さん心筋梗塞去 31歳…母親が発見 鎌倉(今年、死亡数上昇)
11.15阿藤快心不全 69歳 一押ししていたすし店『海味』の大将も、今年の9月に死去
【報道ステーション】 数日後に連絡が来て、「実は東京が危ないということは報道できない」と、全面カットになった.
三菱商事の核ミサイル担当重役は安倍晋三の実兄、安倍寛信 三菱重工の重役でもあるらしい
これがフクイチで核弾頭ミサイルを製造していた疑惑がある 書けばツイッターで速攻削除されている
ネットにおける言論統制は、非公然で陰湿に進んでいるようです
https://twitter.com/toka iamada/status/664017453324726272
マイトレーヤは原発の閉鎖を助言されます。
多くの人々が核の汚染の影響で死んでいるのに、彼らは幻想の中に生きています。
マイトレーヤの唇からますます厳しい警告と重みが発せられることを覚悟しなさい 要するに
織田信長=戦国の世を切り従えた
徳川家康、豊臣秀吉=戦国の世を切り従えてない
って事だろ?
最近、ファンタジー脳が理解できるようになったわ。 水野の血だろ
あの狂気の血が何かの化学反応を起こしたに違いない >>128
そこまでバカじゃないだろ
源頼朝(関白まで上がった平家一門殲滅)
足利高氏から義満(鎌倉幕府勢力駆逐、上方武者殲滅)
この辺と比べるから軟弱なんだろ 平家がいつ関白になったんだよwww
つーか頼朝や足利家こそ血統が高貴だったおかげって感じで軟弱。
頼朝は流罪からの逆転劇だからまだしも足利は鎌倉幕府でもNo.2の御家人だったし 鎌倉幕府倒したのは後醍醐天皇と新田義貞だろ
足利高氏は六波羅探題追い出しただけ >>132
義詮を担がなければ新田だけでは鎌倉は落とせなかった。 関ヶ原の戦いをセッティングしてくれた石田さんのおかげ
あれがなかったら家康存命中に天下なんて握れなかった 三河国以外で国を治められるのいるのか?
そもそも当時の日本は三河国以外に人材がいないだろうが そういや家康って鎌倉幕府の正史吾妻鏡が愛読書だったらしいな。とりあえず鎌倉
幕府の歴史を見るとほんと暗殺、毒殺、謀殺、裏切り、寝返り、騙し討ちのオンパレード
家康がそこから何を学んだかなんだよな。江戸幕府が鎌倉幕府と同じことやってたら
さすがに300年は続かなかった。将軍の代かわりごとの恒例の後継者をめぐる血みどろ
の争いがおきない仕組みを作っただけでも、家康は政治家としてかなり優れていたと思うぞ。
とにかく家康がただ己を欲を満たしたいがために征夷大将軍になるようだったら、幕府
は家康の孫あたりの代で滅んで、最悪戦国に逆戻りだったかもしれない。そうすれば今
ほど家康の存在がクローズアップされることもない。結局家康は武将としてよりも政治家
として評価すべきだと思う。 家臣の墓を暴いて死体を取り出して斬首するようなメンタリティの
持ち主だもの。難癖つけて主筋を攻め潰すなんてかわいいもの
そんなイカレタ人物だからこそ他人の天下を乗っ取れたのさ >>138は過度に美化しないと死んでしまう病気なのか? 大久保長安は斬首梟首に相応の重大な汚職を働き、それが発覚したのが死後だから
墓を掘り返してでも厳罰を実行することは、徳川政権の公正さを示す
もう死んでるのだからと有耶無耶にするどこかの政権とは一線を画すということ
豊臣家が徳川家にとって主筋というのは大阪における独自文化限定の勘違いな上、
大坂の陣発令の原因である大坂軍の武装蜂起と伏見・堺・岸和田などへの破壊行為を無視し、
原因ではない鐘銘事件を難癖と強弁するのは、
大坂史観が実に見苦しい欺瞞に満ちていることを証明している >>142
長安の遺骸を掘り出して云々は史実では無いから
戦乱が原因で余った女性がヒステリックにならないという保証はない。
>>144
鎌倉幕府の北条執権家みたいに、「権威」=秀頼を祭り上げて「権力」を握り
実質的な天下人になるだけなら、関ケ原なくても余裕だろう。 笠谷和比古編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』(宮帯出版社、2016年) 秀吉の作った統治機構をそっくりそのまま横取りしたから >>148
豊臣政権の統治機構なんぞ参考にもならねぇ 全国統一直前の信長にも言えるが、政府とも言えないような属人的政権。
だから家康が簒奪できた。参考にしたとすれば、反面教師としてだろう。
大大名が複数いて、ガチで戦ったことのある潜在的政敵=家康に政権の
No.2の地位と馬鹿みたいな巨大な知行(関東)を与えたことも、家康は
真似ちゃいけない教訓として学んでる。 >>150
参考にしたとは思うが相違点の方が大きいし、同じような参考例もあるので、
もう徳川流としか言い様がない
こういう政治組織の構築は、もっと賞賛されてしかるべきだと思うのだが、
個々の政策として説明できないので、ぼんやりした解説になってしまう そもそも他人の政権を乗っ取っただけなので天下統一したわけではない
豊臣公儀の五大老筆頭の立場を利用して征夷大将軍の地位を得て、借りていた
権威をそのまま己の権威にすり替えただけのこと。
北条得宗家のようにそのまま執権として秀頼を傀儡として扱うならまだしも
殺してしまうという汚名を被るのも小心者らしいが 家康より秀頼がもっと小物だったから滅ぼされたんだろ? 秀吉死後の豊臣政権なんて、官位による法的正統性も権威付けも無い、血筋も貴種じゃない、
直轄の所領・軍隊もショボい。簒奪するなという方が無理。
秀頼も大坂城を出れば助命されてただろう。 >>135
本当に不思議だよね。あの大返しの時に大活躍した人と同じ人物と思えん。
でまた家康のほうも武田信玄に脅かされてた家康と同じ人物は思えない。 三河に生まれて織田・豊臣と政権のNO.2で居続けたのが大きかった
この二人についていったおかげで関ヶ原の時点で関八州250万石までなれた
九州か東北に生まれていて単独で徐々に領土を増やし続けても
一生かけても1〜2ヶ国ぐらいの大名で終わったのではないか そうは言っても、信長の時代を最初で、そして最後まで続いた同盟者というのは、
唯の有能では続けられなかったと思うぞ 豊臣の築いた基盤、なんてないよな
むしろ穴だらけだったからこそ家康が躍動できたわけで。
反面教師といわれればまさしくそうなのだろうが。
江戸は滅びたが日本人ってたくましいな 真面目な話、
>>153みたいな寝言、というか
妄説は、一体どこで流布してるのかね
大阪限定で信じられてるとか? 江戸を認められないなんて日本人じゃないんじゃないの 秀吉の政権は、織田信秀→信長と受け継がれた清州織田政権の色が強いが、
家康の政権は今川政権の申し子かと思われるほど今川色が強く、はっきり言って別物
単に、全国の諸大名に号令をかけることが可能な立場の強力な大名家の力関係の変化が、
豊臣家がトップの時代から徳川家がトップの時代へと移り代わった、それだけのこと 豊臣政権はモデルケースがほぼ信長しかなかったけど、徳川は今川も武田も北条も旧臣を通じてノウハウを知っていたというのは強みだったかもな 実力主義の織田政権、豊臣政権を反面教師にして
徹底的な親類と譜代重視の政権にしたからじゃね そうだな
基本的に身内にエサあたえてるだけで他の武将とそんなに差はない 織田五大将とか秀吉の五大老があったように
織豊政権は外様を重用してた
それが当主死亡後の政権崩壊に繋がったから
家康は外様を政権運営に加えなかったんだろう 秀頼をくれぐれも頼む 後見人の立場で
その後露骨に天下人の野心を表に出す 徳川に天下人の野心が無かった
笑わせる
結果として徳川の治世になって300年も続く基礎を抜かりなくやったのだから
計画的であったと解釈しなきゃ理解できない 「秀頼をくれぐれも頼む」
頼まれた通り、一大名として存続できるよう最大限の努力はしたものの…
(本当はそんな遺言を守る義理はなかったが)
結局のところ秀頼は、飽くまで戦乱を起こさずには生きられないことを示し、
戦乱の無い世を創ることを究極の目標とする家康とは相容れないのだと証明した
これはもう滅ぼすしかないね
遺言は果たされないけど、仕方ない >>170のような人でなしにすれば、義兄秀吉の遺児で、孫娘の婿を攻め殺すのは正当で道徳的に何の問題も無いんだろうな
ありもしない豊臣公儀なんかは関係なく、
義兄の息子殺し、孫娘の婿殺しなんて、九州のリアル修羅甲斐の爺くらいしか他にいないだろ かつて、実の息子である長男を切腹させたが?
長男とは比較にならないほど、
日本全体にとって害悪でしかない身内を粛清した事件だな
>>171が言う「道徳」とは何のことかイマイチ判らんが…
古代支那の逸話で、
親の法違反を告発した息子を道徳的にけしからんと役所が罰したら、
皆が法を守らなくなって治安が崩壊した、
というガチガチの儒教観念があるが、
それを持ち出して無理矢理当てはめる試みだろうか >>171
孫の婿が大犯罪者、自分は公のトップ
やることは決まってる 主である今川、織田、豊臣、全て弱ってから
行動を起こして徐々に勢力を蓄えてる
徳川は本当陰湿だよ
力を大きくした時期は全て主君の崩壊時期 相容れない人は
人でなしかKYバカってことにして終わらせれば正直楽だよね >>174
弱るのを待った、というか、そう言った武将連中が没落したのはそいつらの実力、責任なわけで。
家康が卑怯なことして弱らせたわけでもない。 本能寺の変後の秀吉の天下統一はヌルゲーというが、
だからこそ本能寺の変は秀吉にとって最大の難関だった
同僚の明智光秀が自分と同じように天下に野心を抱き、
自分と同じように信長を抹殺したいと思っているという情報をつかめばこれを利用しない手はない
信長を中国に呼んで光秀に背後から討たせればよい
こうした謀略を黒幕と呼ぶのかどうかは知らんが、
たまたま本能寺の変が起きてたまたまその情報をつかんで・・・
と考えるよりははるかに筋が通っている
つまり秀吉は武将としては大したことはないが、謀略家としては超一流である
逆に家康は、豊臣の滅ぼし方を見ても謀略家としては大したことないのが分かる
しかし、武将としては超一流である >>177
家康の場合は謀略などのセンスは本多正信や正純によるものが大きい。
家康は側近に能力のあるものが多く、家臣の使い方がうまい。
自分の足らないところを知ってるんだろう。
武将としての自己管理能力は高いと思う。
鷹狩り等の実践的な趣味や、健康管理に関しても、意識が高い。
今で言うと、アスリート的な気質があるのかも 家康が天下統一できたのは関ケ原で勝てたからじゃなく
その遥か前の小牧長久の戦いで秀吉に負けなかったから
あれで負けていたら大幅に所領を減らされ
秀吉の死後好き勝手に振る舞えなかった いやいや家康が天下統一できたのは、幼少のとき織田に捕まったのに殺されなかったからだよ 徳川が天下取れたのは
使えてきた主家の凋落っぷり
気がついたら俺が一番力持ってるんじゃない
以前は考えもしなかった天下人に自分が一番近い位置にいた
そうなったら意識してなかった天下が近い
封印していた野心が恥ずかしがること無く出てしまったんだろう 上手く当時の1番有力な大名の家臣であった事が運が良かったんだな 野心もあったとは思うけど、秀吉死後のみんなが好き勝手動く情勢を抑えるには、どっちみち事実上の徳川政権にせざるを得なかったと思う。秀吉も恐らくそれはある程度理解して逝ったんじゃないかな
もし家康が天下取りに動かなければ、また戦乱に逆戻りしただろう >>183
まさにそれ
徳川がいやでもまとめないとまたぞろ戦争させろという輩でまとまりがなくなる
力でもって押さえ込むのもまた有力者の務め >>185
違う、三成ら奉行と輝元が最初に密かに誼を通じた 関東入封させずに
三河・遠江あたりだったらわからなかったな
内府はウンがイイ 家康アンチは小説や講談程度の知識で語るから始末に悪い
反論できなくなると、在日やら半島人やら言い出して逃げるのが常だし >>157
でも、結果を知ってると不思議ですよね?
関東移封って言っても、旧領の駿遠三甲信に隣接してるから封じられた豊臣恩顧大名から見ても
何時一揆扇動とかされるか分からず怖い訳だしさ。
なんで強引にでも力を弱める事をやらなかったんでしょうね。
家康が名古屋城のお手伝い普請やったように、駿府城の大改修や会津で築城を命じるぐらいやれば
良かったのにね。
家康自慢の蓄財を、なんとか使わせるくらい出来んかったんだろうか。 関東の開拓に散財してる、朝鮮出兵のため国内の生産力下げること出来ない
自慢の蓄財できるようになったのは各種利権抑えた関ヶ原以降 >>189
関東でまた戦乱を起こしたいなら、それもありだろうな
後北条信者は後北条の治世は素晴らしいから関東は豊かだったって妄想に取り付かれて、
上杉vs足利の大戦争は無視してるみたいだし。
豊臣信者は三遠駿だけしか持ってない家康に関八州をプレゼントしたくらいの妄想を抱いてるし。
ボロボロの関八州を押し付けられた家康が、上杉みたいにならずに勢力を蓄えるなんて、
後世の人間以外じゃ想像つくわけがないだろうに 家康が初めて江戸に入ったころ、当時の江戸は
台地の先端に江戸城があって、そのわきに広くて浅い沼があった。海水が入る日比谷入江。
その向こう側に広くて平らな土地があって、日本橋あたり。
浅い沼は全面埋め立てすれば、広大な平坦値がもらえるわけで、低湿地のまま家臣に与えた。
家臣は、自分で埋め立て開始だ。土は基本的に、堀を作ってその土を両脇に積み上げれば、
排水も良くなるし、土地のかさあげもできる。
武道よりも土木作業で大わらわ。 関東移封は、上方から遠ざける意図もあったにせよ、豊臣政権の対北条戦略の責任者として、そのまま戦後の関東東北の抑え役を任じられたと考えるのが妥当
拠点として小田原でなく江戸が指定されたのも、北条氏の主要拠点のうち、関東全体から東北まで睨みを効かせるのにちょうどよい位置だったということが大きな要因。 >>191
家康が移封されたのに、殆ど家臣や一族の所領の加増をしなかったのも予想外だと
思うんですよね。
その上家康自身の蔵入り地を約100万石も取ったんで、一種の家中クーデターを
やったのと同じですよね。
寧ろ、家康の独裁的な権力が強化されたみたいですしね。
弱めるつもりが、逆に強化してるんだもんな。 他人の失敗を近くで見てきて
良いとこだけを持っていった そういうの学べるのは素晴らしいな
さすがダイゴンゲン。 >>193
江戸は北条の主要拠点だったって江戸の発展は
家康の成果じゃないみたいに主張するレスを偶に見かけるが
北条時代の江戸は周りを湿地帯囲まれた防御能力に優れた要害としての
主要拠点であって、政治都市、商業都市として優れた拠点では無かっただろう >>197
いやいや、オオタドウカン公のやることに粗はない 今週末、7月30日(土)は、RK山口萩講演会です!
テーマ:「ベルリンの壁崩壊のような大変革がやってくる」
日時:2016年7月30日(土)14:00〜16:00 (独 立党サイトにて講演ライブ配信)
是非ともご参加ください!
リチャ ード・コ シミズ
増田寛也はこんなヤツ
■前日まで東電取締役
■舛添もびっくりのファーストクラス出張三昧
■岩手県知事を務めた12年の間に公債費を1兆2000億円強に倍増させ岩手を捨てて逃げた
https://twitter.com/kitahamamikiya/status/754484014552010753
「いま都知事選の候補者である小池百合子は、水俣病の患者切り捨てをした人間だ」ということを、水俣病の患者さんに話しました
https://twitter.com/tok aiama/status/755195613298384896
慶応の学生です。大学の教授が今回の選挙についておかしい部分が多いとツイートしています。
500の束のバーコードを他者に振り替えていると考えられると言っています。
例として幸福実現党は都内に信者がある程度いるはずなのに、3区以外はすべて0票。犬丸氏も同じだったと言います。
また、娘さんが練馬区で三宅氏に投票、他知り合いが3人も入れたのに、0票。 池袋、渋谷で0票もおかしいと書いています。
明らかにム サシの機械での操作があった可能性が高いと書かれています。
実は、非常に奇異な点があるのだ。それは、区によって、「票があるところ」と「まったくゼロな区」があるのだ。
三宅洋平の得票では、豊島区ではなんとゼロ票 中央区ではゼロ票。江東区ではゼロ票、荒川区ではゼロ票 足立区ではゼロ票 通常、こんなことは考えられない。 天下と言っても日本だけじゃんか
織田や豊臣は海の向こうまで見据えていた >>201
甘いな。
大御所は、関ケ原後、再就職できなかった浪人の為にルソンやタイでの傭兵斡旋事業や朱印船貿易を通じての
日本人居留地、いわゆる日本人町の発展などを支援し、南シナ海に日本人町の貿易ネットワークを構築し、将来
は日本人町を日本国の貿易拠点にしていく経済植民地政策を目指していたんだよ。
豊臣のボンクラ二代目が大坂で乱など起さなきゃ、日本国内では不用の浪人どもを日本人町に送り込んで軍縮を
平和裏に実施できた。 海外侵攻を見据えるもなにも、ただの無謀だったわけだが。 千成瓢箪は渡海してないしな
どういう意図だったのやら 単に領土拡大、恩賞地の確保のための唐入りだったろうな
明到達より朝鮮半島を完全制圧するのを重んじるべきだった >>194
三大都市圏は自分の子供に任せて、間を埋めるように譜代の領土にしたんだよな
統治システムの作り方が上手い 家康氏は結構わからないことあるけど
その一つが七将が光成を襲撃した時仲裁を買って出たこと。
光成を生かしとけば光成憎さに豊臣が割れて天下が転がり込んでくるから
とか言ってるが、
逆に、おのれ内府も光成派だったか、それならまず内府を討ち滅ぼそう
ってことになると思うんだけど?
どうにもこのエピソード合点がいかないのよね。 >>207
家康の物の言いかたひとつじゃないの
あんな小物7人も揃って殺すまでもない、とか
蟄居引退させて生き恥をみせてやる、とか >>207
内乱に等しい行為だから、天下の維持を求める家康としては、何とか穏便に済ませたかった >>207
嫌だから、あそこで三成が処刑された場合のシュミレートを考えてみたら?
西軍に付いた宇喜多なんかと福島加藤なんかが和解しかねないですよ。
基本秀頼守護なのに、奉行衆に対する好悪で別れてるだけですからね。
幾ら本音と建て前が違うとしても、大義名分は大事です。 >>207
家康は小早川秀秋とか最上義光とかいろんな人に恩を売ってるから、
そんな調子で三成も庇ってやってると思われていたんだろう >>6
雑魚にしっかり反撃されてるならヌルゲーじゃねえじゃん 豊臣征伐はよく言われているように二条城会見までは深くは考えていないだろう。
一大名としてあの母親も彼処まで増長しなければ、滅びてはいない。 淀殿の気位と家臣が無能だった。
時流が分っている且元を追放したし。 秀吉の出目が出目だけに、家臣がアホだったから。
そこに、淀殿が止めをさせいて自壊した。
家康がしたのは破裂しそうな風船に一刺ししたようなもの。 とうてい天下の器ではなかった三河の陰気で糞面白くない男は
持ち前の運の良さのみで場違いな天下人となってしまう。
人生のほとんどを媚びへつらい強い者に忍従するヘコヘコバッタのように生き、気が付けばこれまでの強者共は皆死んでしまった。
「オイ、正信!天下とれるんじゃねえか!!」
これまでとは態度を豹変させた家康!!いや本性を現したというのが本当のところだろう。
「おれが法律だぁ〜」「おれを暗殺しようとしたらしいな〜」
「やられたくなかったら子分になれ〜」「上洛せんかい〜」
「拒んだら謀反人にするぞ〜」「やっちゃえ〜」
「小僧〜っ!早く裏切らんか〜」「ひーっ島津こぇーっ」
「豊臣〜っ!金使わんかい」
「豊臣〜っ!わしを呪詛しやがったな〜」
「豊臣〜っ!人質出せや」「豊臣〜っ!大坂出んかい」
「拒んだら暴力が物言うぞ〜」
「やっちゃえ〜」
「ひえーっ!幸村ゆるして〜」
この小物ぶりは最低だね。
おまけにこいつの政権が地味で引き籠もりで最悪の日本の礎に
とほほほ・・・・ 面白くない 批判が多すぎ 別の角度から
みてもいいと思うが… 事実でも今の現代が有るのは過去の人のおかげ
もっと有能ならもっといい現代になっていたとでも…
批判してもいいけど教訓も与えてくらた
それが歴史 主君に対して、命を賭けてくれる家臣が何人もいたからや
家康が、幸せ者には違いないやろ ただ運がよかったからだよ
速い段階で実力者の信長と同盟できて
武田信玄に殺されそうになったけど運よく助かって 秀吉より寿命が長かった
秀吉亡き後に自分より優秀なライバルがいなかった
ただそれだけ 運というのは尊いぞ。
世の中の99%の凡人は特別な運なんて持ち合わせていない。 >おまけにこいつの政権が地味で引き籠もりで最悪の日本の礎に
この視点って朝鮮人気質そのものじゃないか。 でもぶっちゃけ家康って、幼子でも他国の人間はむろんこと兄弟、親類縁者によって殺されることも
珍しくない時代に、18、19まで海道一の大大名も庇護下でぬくぬくと育ち、かなり高度な教育まで受けて
しかも戦国大名にお決まりの兄弟や親族間の争いもなしに、三河一国を手に入れてしまうとか、武将とし
てのスタートラインはかなり恵まれた部類だと思うぞ。人質にされて可哀想、可哀想いうのはまったくなかった
わけではにないが、徳川期になってその部分だけやたら誇張されてる面があるとおもうぞ。 三河一国手に入れるのだって、結構苦労しているんだけどね 桶狭間から三河平定まで6年くらい掛かっているからな >>226
それ言うなら信長は10年以上、毛利元就はさらにそれ以上だけどね。
武田信玄なんか父親が統一はしてくれていたから恵まれている方だよ。 そもそも毛利織田徳川と違って武田は守護だしな。
守護勢力は織豊期にすべて勝手に崩れたにせよ、媚びられずに潰れていったことに差はない。 なんか家康って武将としてよりも、むしろ天下を取ったのち300年の支配体制を築いた内政家として
の手腕こそ評価すべきだと思う。もし徳川幕府が家康の死後20年か30年くらいであっさり滅んで、
戦国時代に逆もどりとかだったら、後世の家康の評価って全然違っていたと思う。 信長が種を植え育て、秀吉が開花させ、家康がそれを維持管理したってだけの話 小牧長久手で圧倒的勢力の秀吉と直接戦って撃退した実力に尽きる
加えていつでも家康のためなら命を投げ出す三河家臣団の精強さ >>229
ある程度は評価されるかもしれんが、家康を題材として長編小説を、ソウル拘置所に収監
されている韓国の前大統領までもが、獄中で愛読するほどの人物にはなってなかっただろう… 秀吉が死ぬまで我慢したから
秀吉が家康くらい長生きしてたら、徳川幕府は生まれなかった 「行きたくない県ナンバーワン」から脱却しようと、名古屋市がご当地ソング作りに乗り出した。
「名古屋ゆかりのヒット曲がない」と嘆く市長の肝いりで、市民から歌詞を募っている。
http://www.asahi.com/articles/ASKCN5WJ6KCNOIPE02B.html
これが歴史の真実なんだろうなあ…もし信長や家康があくまで尾張や三河に執着していたら、
逆に上杉謙信や武田信玄が甲州や越後といった僻地を捨てていたらその後一体どうなっていたか……? 義元一代は逆らわず死んだ途端に今川家を離脱し三河をとりもどす
信長一代は逆らわず死んだ途端に甲斐で一揆を起こして信濃もろとも獲得
秀吉一代は逆らわず死んだ途端に関ヶ原そして大阪の陣で豊臣を滅ぼす
結局若い頃からやり方は同じ >>237
徳川に頭を下げるのをいやがって滅んだ豊臣とはえらい違い。 強力な上昇志向と、絶対的な臣従
この二つを何度も使い分けられなければ、戦国を生き抜いて天下を取ることはできない
秀吉の場合は、信長が死ぬと完全にタガが外れて修復不可能になった >>237
ここまで来ると凄いとしか言い様が無いわww ライバルが次々と死んだから。
信玄か信長が生きていたら家康は雑魚。 天正地震が一番大きいだろうな。あれのおかげで秀吉が懐柔策に切り替えたし
その後の転封も200万石を越える破格の待遇を得られた。上杉や毛利、
前田と同程度の100万石程度の石高だったら天下は無理 歳取ってから基本能力が上がるなんてことはないんだから
若い頃から信長・秀吉・信玄以上の能力はあったんだよ 家康の人生って選択肢があるようであまりない感じがするな
なんかレールの上をノンビリと進んだ感じ
天下を取ったからそう見えるだけかもしれないけど >>245
大器晩成型ならあり得るんだが。
若い頃の徳川家康が武田信玄や織田信長以上はあり得んよ。 大器晩成型なんて存在しなんだよ
元々能力はあったんだよ >>233
だろうなあ...朴叔母さんは、文が高転びに転んだ後に奇跡的に復活する自分を夢想してそう。
実際、現大統領が阿呆しぎて叶う可能性も。 家康がいなければイエズス会の天下かも
そっちの方が良かったかも 断っとくが
オレは徳川家が好きなんであって
国なんかどうでもいい 所JAPAN【江戸城を謎調査!会いに行ける将軍?徳川家康が東京に残した仕掛け】 五大老とかいうアホな制度のおかげ
三成というアホのおかげ 松平清康の時に天下取ってればよかった
三十年遅れた 能力、革新性に関しては、信長、秀吉より下だった。
信長、秀吉のレールなしに、家康の天下人はあり得なかった。
ただ、運を生かす能力には、とてつもなく長けていたことは事実。 寿命で死んだの秀吉だけだもんな
義元も信長も、あの各の戦国大名としてはあまりありえないような死に方してるし
運は凄いわ 運じゃなくて天命。元々生まれる前に伝説多いし
天下を取った人に運があるとしたら頼朝はあんな死に方しとらんわ 頼朝は幕府開くまでの運だったんじゃね
秀吉が1代限りの天下を開くのもまた運
家康は260年も続いた運があったんだろ そこまで行ったら家康はもう神だな
運のおかげばかりいうと理屈で能力を説明できないアホだと思われるぞ 理屈なんてないから結果論で運が良かったとなるわけじゃん 家康は家族運には恵まれてないけど
武将としての運には恵まれてたろ
これで運が悪いとか言ってたら、誰が運がいいと 家康は寿命運だな
まあ薬学マニアで人一倍健康に気をつかってとはいえヤりまくり太りまくりにストレスマッハな人生であれだけ長生き出来たのはやはり運 家康がもう10年早く死んでても大して変わらんと思うけどなぁ むしろ生まれる前から運がないから
医者よりも医学に詳しいほど勉強したんだろう 10年でも秀吉より後だからな
20年でギリギリ秀吉後
秀吉より前に死ぬなら変わりそうだけど >>270
理屈も何も運・不運ってのは結果論じゃん >>276
ていうか秀吉が生きていた頃から分裂してたがな 270年も徳川家が続いたって、鎖国だけではないな。
大名統制も良かったんだろうけど、幕府の政治も悪くなかったんだろうね。 >>276
1605年死去なら、普通に歴史変わるでしょ。
この時点なら、すんなり秀忠後継で決まるとはおもえない。
実際、領地の安堵状を豊臣家が出してたりしたんだからね。 一度自分が従った武将(義元、信長、秀吉)
にはその人一代は律義に忠義を尽くす
そして死後すぐに本性を現す
万事これで、ついに天下人は その代わりが同盟を結んでくれる保証も裏切らない保証もないけどね そりゃあ人格的にも一門家臣団といった「家」としての実力的にも
前代の政権とは全てにおいて真逆の完成度の高さだったからな
前代の政権が続いてたら間違いなく戦国に逆戻りしてただろうからその場合の日本史がどうなってたかは興味あるが >>283
逆だろ、信長が居ないと今川傘下の国人aで終わるでしょ。
義元が長生きしてれば家康の出る幕なんてない。 家康がいなくても三河は織田に制圧されるだけだもんな まあ美濃より三河を攻める路線だと天下取りは史実より遥かに難しくなるけどな その場合は水野なり他の豪族を立てて東からの防波堤にするんじゃね
下手にまとまった勢力ができるよりは荒れていたほうが介入の余地あるし
徳川が一向一揆を経て三河をまとめたのは嬉しい誤算だった気がする 徳川家中と織田家中の武将達を大切に扱ってる
結局家康的には織田政権を引き継いだっていう心情なんだろう
黒田だけはよく幕末まで生き抜いたなと思う 家康には先祖代々の家臣団がいたが、秀吉にはそんなものは存在しなかった。
秀吉「その方の宝はなんじゃ?」
家康「某の為なら命も惜しまぬ家臣たちでござる」
秀吉(うらやましい限り。そんな奴豊臣家臣団におらんし・・・・)
まあ秀吉が一代で作り上げた豊臣家臣団だからな〜
秀吉個人にはそれなりに忠誠あったかもしれないけど、豊臣家そのものに忠誠心あったかどうかは・・・・ >>283
家康は信長と秀吉がいなかったら天下取れなかった。
でも信長と秀吉は家康が居なくても天下取れた(信長は家康関係なく光秀に殺されただろうけど)
家康が居なくても織田信長は織田信長であり続けて、豊臣秀吉は豊臣秀吉足り得ただろうが。
家康は両社が居なければ徳川家康にはなれなかった。
今川義元が織田家を滅ぼして天下とってたらただの松平元康として今川家臣団筆頭の立場で終わってた。 百姓足軽で出自が下賤の木下藤吉郎は、織田信長がいなければ大名すらなれなかった
(甲斐源氏の名門 武田とかなら一生足軽) 運が良かったんだろ
逆にこの位運が良くないと天下なんて取れないんだろ
家臣もカスばっかりだし 徳川家が凄いのは、260年も政権が続いたことだよな。
徳川家は家臣が凄かったというより、日本全体が戦乱に飽きて戦をしたくなかったんだろうね。 運と実力は言うまでもなく、
自分の能力を過信することがなかったこと
自分より上の者がいなくなるまで、
嘘をつかない
約束を守る
義理を果たす
信用を大切にする
自分の研鑽を日々続ける
健康に気を付ける
仲間を大切にする
これくらいか? 神君「まあ下衆の藤吉郎には小牧 長久手の戦いで圧勝したけどな」 徳川領もうボロボロだよ
地震が無ければ、徳川は滅んだか、最低でも大幅に領地減らされたか、僻地に飛ばされた >>291
他の九州の大名は長崎利権でそれなりに財政が安定してただけに赤字垂れ流しの黒田が余計際立つな 信長は強運だった
秀吉はさらに強運だった
家康はさらにさらに強運だった 信長の目指した政権に外様大名なんてなかった
秀吉は外様大名の力が大き過ぎる、なんちゃって天下統一
家康政権は絶妙な領地配分 >>305
家康の親類をわざわざバラバラな領地に住まわせるというのは面白い発想だな。 >>305
戦場で勝てなかった(小牧・長久手)大大名を政権中枢に入れたうえに
関東にアホみたいに広大な領土与えて、挙句の果てに自分の親戚は粛清とか
秀吉は自分で死亡フラグ立てまくった。
徳川は外様の大大名は幕閣にしないとか、室町幕府や豊臣政権を反面教師に
学んだような気がする。 家康がいなかったとしても、豊臣政権は室町幕府初期のように外様の大大名の権力闘争に苦しめられることになっただろう >>307
親藩を実質外様の大大名と似たような扱いにしたのはまずかったと思うけど(結果的に倒幕の遠因になった)なんだかんだそのシステムで300年近く続けたから大したもんだよ。 >>308
関ケ原で西軍が何とか家康を討てたとしても、史実ですら毛利は中国地方や瀬戸内で、
上杉は南東北で隣国を切り取ろうとしていたから、乱後は豊臣公儀には手出し困難な
大勢力になってただろうな。特に毛利は西軍総大将だし。 まあ日本史上最も成功した政権だから醜いやっかみ、僻みも日本史上一番多く受けるわな >>311
まあ、そこだよな。最善手が何か分かってても実行できない事って多いし。
家康の謀略の特徴は憎悪が自分以外に行く様に煽動する事。
大阪の毛利輝元退去させた福島正則に安芸備後だもん 信長や秀吉に仕えるより、家康が一番仕え易い気がする。 家康「気づいたら雑魚しかいねーやん!」
家康「三成雑魚過ぎる」
家康「秀頼雑魚過ぎる」 >>314
色気出して出世しようとしなければ、知行を認めてくれるしな
政界に絡んでヘタ打つと容赦なく遠隔地に飛ばされるが 関ヶ原の戦い直前で250万石の家康が時期天下人候補の雰囲気があったしな。
800万石を得ても天下統一には届かなかった信長。
中央を押さえ徳川、上杉、毛利と四国が臣従してもまだ天下統一出来ない秀吉。
何故ここまで石高が違うのに家康は天下統一できたのか >>317
豊臣政権の重臣筆頭という立場での250万石なのに天下人候補であって
信長や秀吉という政権主宰者と比べるのは基準がおかしい。
会津征伐→関ケ原でも、五大老筆頭としての諸将動員で実現できたこと。 「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川」 多くの大名が領国拡大よりも所領安堵を願ったからだろ