【長益】織田有楽斎【如庵】 [転載禁止]©2ch.net
織田 長益(おだ ながます、1547年〜1621年)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。
長益系織田家嫡流初代。
織田信秀の十一男で織田信長の弟、有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では有楽、有楽斎と称される。
千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられる。
後には自ら茶道有楽流を創始した。
また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。
東京都千代田区の有楽町(ゆうらくちょう)という町名は、長益の号「有楽斎」に由来している。 織田有楽斎は織田信長の弟の中では一番長生きしたから偉いと思う 俺は有楽町の文字を見るといつも織田有楽斎を思い出してしまう 織田有楽斎は本能寺の変の時、信忠に自害をうながしといて自分は逃げ出した卑怯者 また、空気に合っていない言い回しをする。
あきらかに、文面を読んでいないというべき言い回しである。
言い回しのというのは、解釈次第で、都合良く流れを持っていけるし、
言い訳もできる。
が、まことのばあい、話題に関係もない。 織田有楽斎って大坂の陣の時どうして途中で大坂方から抜けたんですか? 家康討つべしの超強硬派だった有楽の息子が秀頼を大坂から追放して信雄擁立し担ぐという主張をしたせいだと言われている。
当時の豊臣政権を実質的に運営していたのは織田一族だからね。
秀次が自刃した際は信雄が筆頭として誓詞に署名しており序列No1だし。
信包も一度は改易されたが復権したしな。 >>9
有楽の息子が秀頼を大坂から追放して信雄擁立し担ぐとかアホですか。
そんなことできる訳ないやん。
無謀な主張をして負け戦確定の大坂から逃げなかっただけなんじゃないか。 >>10
逃げなかった→逃げたかった
間違えましたすいません >>9
>> 当時の豊臣政権を実質的に運営していたのは織田一族だからね
秀吉は身内を殺し過ぎてもう豊臣一族の優秀な人材がいななったんだろう。
秀吉もアホやね。 殺し過ぎたも何も、もともと秀吉の身内なんて母方の姉妹の子と弟の秀長くらいしかいなかっただろよ。
秀次だって秀吉が生活の世話役を任命した途端に自刃すると言う鬱ノイローゼだったから、
田中ら秀次重臣層から見放されてるじゃん。
だいたい秀次が毛利輝元と独自に誓約を交わして連判状をしたためていたり、
それを詰問されると聚楽第近くの屋敷にいた徳川秀忠を人質に取ろうとしたり
やってることが無茶苦茶じゃんよ。
結局、自刃後は毛利連判事件を重く見て諸大名間の縁組・誓約が全面的に禁止されたし。 >>10
駿府記にそれちゃんと記されている話だぞ。
アホとか他人に言う前にちゃんと調べろよ。 まあ元主家という手前邪険にはできんよ
小牧の二の舞起こされても困る 秀吉はなんだかんだ言っても信雄や信包や有楽らに優しいんだよな。
まったく役に立たない無能なんだけど彼らを絶対に見捨てたりしない。
だから彼らも織田の血筋でもある淀と秀頼を盛り立てて秀頼政権は織田政権と言われていた。
家康にとって織田政権は潰すべき対象になっていたんだろうね。 戦国の世でも自分の長所を活かしたという点では有能な人だったと思う 織田家は鬼神の血が混入しているのだろうか?
織田有楽斎
織田信長の弟。
本能寺の変では、織田信長・信忠親子が相次ぎ戦死し大混乱に陥る中、狂騒の京からいち早く離脱に成功する。
庶民は人離れしたこの活躍を絶賛し、「織田の源五は人ではないよ」と褒め称えたという。
関ヶ原の戦いでは西軍の武将蒲生郷舎を討ち取るなど大活躍を見せ、、大和3万石を授かった。
茶道にも精通し、利休七哲の一人にも数えられるほどだった。
大阪冬の陣では豊臣側の中心人物となり奮戦し、将としての器を示す。
有楽斎は豊臣の未来のために、和平策を提案したが
受け入れようとしない豊臣側に呆れ、有楽斎は大坂城を退去する。
有楽斎の提案を受け入れなかった豊臣は予言どおり滅亡してしまう。
大坂城退去後は茶道に専念し、趣味に生きた。
文武両道兼ね備えた希有な武将であり、文化人でもあった有楽斎は有楽町という地名で現代に残り、
人々の心に生き続けている。 >>23
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152432786/l50
の「6」参照(笑)
もしや、と思ってみて見たら、やはり。
バレていますよ(笑)
実は、このスレに、自分も、「名将長益」を幾度か書いた(笑笑)。
ただし「6」は自分ではない。
というおふざけはともかく、自分は、まじめな領域で、長益に大きい関心と共感をもっている。
長益については、二条御所から逃げ出したという悪評と結びついて、
豊臣、徳川の間を無節操に渡り歩いたという印象なり評価が根強くある。
(次回、その一例=典型を紹介する)
二条御所から逃げたのは事実かもしれないが、その後の長益が無節操とは思えない。
また、当時の人も、骨も人情もある人物と捉えていた形跡もある。
追って、この点についてコメントを入れたい。、 「その後〔本能寺の変で二条御所から逃げ出した後――引〕長益は織田信雄(信長の次男)にすり寄ったが、
豊臣政権下で信雄が没落すると、秀吉の愛妾となっていた姪の淀殿に接近し、一万五千石の大名の地位を手に入れた。
関ヶ原の合戦の際には東軍に与したので、三万石に加増されている。
大坂冬の陣では豊臣方の幹部に就任したが、実際には徳川方の間諜となって情報を流し、豊臣家滅亡後も大名として存続した。
長益は有楽斎と号し、利休七哲の一人に数えられるほど高名な茶人である。
親族の生き血をすすりながらの世渡りと、茶人としての矜持が、長益という人物の中でどのように同居していたのか、
筆者には不思議でならない」(『本能寺の変――光秀の野望と勝負』学研新書、樋口晴彦、P95)
これは、かなり極端とは言え、長益に対して、一般に広まっている認識の一典型と思われます。
機を見て両派の間を泳ぎわたり、大坂の陣ではスパイを行った――このような長益のイメージです。
果たして、これが当たっているのかどうか。あるいは、少なくとも、長益の実像に近いものなのかどうか。 意外なのか
信孝らとかあからさまなくらい対照的だと思うが 秀吉についたのも、徳川と同盟したのも先見の明がありすぎるわ http://ninkyou.blogspot.jp/?m=1
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画像を御覧くださいませ!! 信雄と有楽斎はのらりくらりとあの生き馬の目を抜く戦国の世を結果的に生き残ったんだからなんだかんだいって凄いよ 信雄と長益は、似たような存在と捉えられがちだが、かなり立場が違うと考えている。
史料がはっきりしないところもあって、別の解釈もあるなら教えて欲しいが、
長益は、信長時代は信忠付き、本能寺の変後は信雄付き、
北条を倒して秀吉が実質全国制覇し信雄が処分された以降は秀吉のお伽衆、
秀吉死後は早い段階から徳川方――というのが、おおよその経緯と捉えて良いと思う。
この間、賤ヶ岳合戦ではお市やその娘救出のための交渉役、
小牧の役での秀吉との交渉役、その後の秀吉、家康の交渉役などをやっているようだ。
これらは、基本的には信雄の下での動きと思われる。
信雄は独立した大名として裁量の範囲が大きいが長益はそうではない。
25の引用では、信雄にすりより、淀殿に接近し、「親族の生き血をすすりながらの世渡り」などと書いているが、
長益の上の経緯から、このような捉え方は疑問が大きい。
本能寺の変の後、信雄付きになった経緯は、それまで仕えていた信忠が死んだ後、序列上位の別の一問付きに移ったということ
(それも、どこまで自分の意志が働いたのかはっきりしない)、
これを非難めいて「すりより」などと言うのであれば、基本的に自分と家のためよりよいところに仕官を求める
戦国時代の当たり前の行為全体が「すりより」と非難されれる対象になりかねない。
そもそも、本能寺の変の後、信雄が特別優位だったわけでもない。
次に、今度は、死亡でこそ無いが、信雄が改易され、ふたたび同じように使える相手を失うが、
このときは、秀吉が群を抜いた覇者になっている。ここで、秀吉に仕えることが無節操とも思えない(抵抗も悪いことでないとはいえ)。
秀吉死後は、あいまいな立場を採らず、早くから徳川側の旗幟をはっきりさせている。
大坂の陣でも、長益は、家康と親密であることが充分知られた上で和平交渉などを行っていると思われる。
一大都市のような大坂城は、中にいるだけで何か分かるというものでもない。長益の立場からして、スパイと考えるのは現実味がない
(長益が「スパイ」の役を果たせるようでは、豊臣方は論外だ)。
長益の経緯を見れば、25の引用がイメージづけている「動揺」「日和見」「両陣営の間の渡り歩き」という点で、際だってひどい内容があるとは思えない。
ただ、本能寺の変で逃亡しているために、このイメージが持たれやすくなっているのではないかと感じている。
長益の捉え方について、このような感じを持っている。
しかし、(25引用の内容はあまりに浅薄に思うが)、他の分析もあると思うので、異論も聞いて行きたい。
長益は興味深いところが多い。 織田有楽斎は関ヶ原の戦いの時どうして徳川に付いたのですか? 実は有楽町の由来になったというのは俗説だって本当ですか >>36
現代でも『人情の無い都会』の発想で400年以上昔の人を長文で擁護するのはどうなんだろ?
今でも地縁血縁を大事にする業界だと裏臭いの生き方は唾棄されるもんだろ 大坂冬の陣までは大坂城にいたのに大坂夏の陣の前に大坂城から逃亡しちゃったのが武士として情けない 「院号」は、寺院を寄進した貴族や皇族に授けられます。
院号に準ずるものとして、「寺号」、「軒号」、「斎号」、「庵号」などがあります。
「寺号」は、寺の建立者やこれに準ずるものに付けられます。
「軒号」は、屋号、雅号の類がよく付けられます。
「斎号」は、部屋、転じて書斎、居間の意味で、多くの医者、芸術家、剣豪に与えられました。
「庵号」は、大寺に属した建物、草庵、茶室の意味です。
この他にも、「房」「舎」「堂」「園」などがあり、
いずれも場所、空間、処を表わして院号に次ぐものと考えられてきました。
斎号の例:柳生連也斎、柳生石舟斎、神谷伝心斎、小笠原源信斎、伊東一刀斎、新免無二斎、鐘巻自斎、奥山休賀斎、、
織田有楽斎も剣豪だったのかも。