川中島合戦の真実 [転載禁止]©2ch.net
戦国時代の超有名な上杉謙信と武田信玄の戦いです。
でもこの戦いには実は謎が多いです。
啄木鳥戦法は本当にあったのでしょうか?
第4次川中島の戦いについては甲陽軍鑑くらいにしかこの合戦のことは載っていないとも言われています。
改めて川中島合戦についてみなさんで検討してみましょう。 信長の三段、川越夜戦と同じくらい啄木鳥は怪しいんじゃないかな 啄木鳥は只の迂回挟撃作戦なので怪しくはない
川中島周辺の狭隘な地形に比べて兵数が多すぎるから不自然なだけで
両軍の実数を通説の半分程度に見積もれば妥当 >>4
逆に言えば両軍の実数が通説通りなら怪しい訳だ
まあ実数・戦法とも一次史料に無いから想像の域を出ないんだけど 今回もお互い適当に威嚇しあって終わるはずだった。
霧のせい両軍方向感覚を失っていた。
上杉軍本陣を引こうと、間違って武田本陣方に下山。そこに武田軍と偶然遭遇、両軍大混乱。
霧で視界が悪い分、損害が予想以上に酷かった。
結論、川中島の戦いは事故 【武田軍】
武田信玄(8,000人)
武田信繁、武田義信、武田信廉、武田義勝、穴山信君、飯富昌景、内藤昌豊、諸角虎定、原昌胤、跡部勝資、今福善九郎、浅利信種、山本勘助
別働隊(12,000人)
高坂昌信、馬場信房、飯富虎昌、小山田信茂、甘利昌忠、真田幸隆、相木昌朝、芦田信守、小山田昌辰、小幡憲重
【上杉軍】
上杉謙信(13,000人)
通説はこうだろ
武田の主力は別働隊なんだから戦は別働隊が担うわけだ
となると主戦場は妻女山付近を想定していたと思われる
信玄本体は8000で半分が旗本と親族の軍勢なんだから実際に戦うと想定していた数は4000ほど
敵の全軍を食い止めるには数が少なすぎる
あきらかに信玄本体は後詰 >>7
それは軍記の設定であって、兵数も編成も一次史料には無い 軍記は兵力を盛りまくるからな
謙信は軍役帳によると通常5〜6000の動員
武田も川中島時の国力からすれば10000程度が妥当で通説の20000はかなり厳しい どっちにしても、山頂の兵が少数だったかでないと成り立たない作戦だよね。
某氏がよく言っている、弱い織田の兵なら追い落とせるかも?w
と言うか、実際行ってみると解るが、妻女山だけで数千もの兵が陣どれるのだ
ろうか。
その周辺にも陣を敷いていたのなら、啄木鳥と言う作戦自体が既に終わってな
いる気が。
個人的には、4次はあったと思うが、通説のような戦いだったんじゃないのでは
ないかと思う。 高所という地の利を得た上杉軍を、同数の別働隊が低所から攻めて追い落とすという
啄木鳥戦法はナンセンスすぎるよな
到底事実とは思えない 本陣は山頂にあったでしょう
だが多くの軍勢は低い峰々に陣取っていたわけさ
いきなり本陣を急襲するのではなく峰の1つを攻撃するだけで十分だったのでは? 迂回挟撃する予定の信玄ちゃん
威力偵察しながら帰還しようとする謙信くん
うっかり出会ってさあ大変。
ちょうど勘助死んだから、軍師に祭り上げるかわりに信玄の失態を擦り付けとこう。春日 >>12
うーん、一つを攻撃するだけで、信玄の待つ陣の前に敵を追い落とすことが
出来るのかな?
それはそれで凄い緻密な作戦を立てないといけないよん。
しかも相手は上杉軍、大将は謙信で、そこまで出来るものなのか。
通説通り妻女山に陣どったのなら、>>13の言っている方が現実的な気がする。
それはそうと、城が丸見えの山に、砦とかは設けてなかったのだろうか?
それともすっごい不利な場所にも関わらず、上杉軍が攻めて陣を敷いたのだろ
うか。 多くの敵が陣取ってるのに、いきなり山頂の本陣に大軍勢で奇襲
ま〜無理だわな 信玄がわざとオトリして、自ら中央に陣取りして誘き寄せ作戦した。上杉がもし来たら海津城から横槍の別動隊がくる手筈にして。
そしたら上杉も長期陣に嫌気が差して深夜から善光寺隊と合流しようと動いたら霧中で信玄本隊と遭遇。
戦いに発展。
上杉としてはただ合流が目的だからひたすら、突き進むだけ。
そこに異変を感じた海津城隊到着
単純にこれだけじゃないか
山登りはなかった、甲陽軍艦はただの私小説だ 霧の中の偶発的合戦を、あそこまで持ち上げたのは凄いよな 甲陽軍艦の川中島描写は淡白だぞ
「車懸り」は書かれてるけど「啄木鳥」は無いし
本文の半分は小幡父の武功自慢だし 講談や小説の設定を甲陽軍鑑ソースと思ってる馬鹿は多い 「啄木鳥」という単語が出てないだけで
勘助が滅茶苦茶な作戦を進言したことや、車懸りとか
信玄謙信の一騎打ちや三太刀切りつけられたけど団扇に八ヶ所刀傷あったなど
甲陽軍鑑の内容はそこらの小説と変わらんよ でも全体的に淡々とした描写だよね
「車懸り」は単語だけだし
勘助の作戦は只の迂回挟撃だし
見所は信玄謙信の一騎打ちくらいで
特に持ち上げてる様子もない 川中島合戦を最も面白く描けてるのは新田次郎の武田信玄だと思う
武田系の小説ならこの人のが一番好き >新田次郎の川中島
謙信が八幡原に多数の望楼を作って
戦局をつぶさに観察するのが印象的だね あの辺りの霧を意識した駆け引きの描写は面白い
数回続く川中島を押し引きしながら中弛みせず読ませてくれるし >>22
小幡昌盛とその敵、甘粕景持はすごく持ち上げられてるぞ。
信玄謙信よりも。
軍鑑の川中島は小幡父の武功自慢の前座って感じだな。 信玄も随所で持ち上げられてるし
物語性強すぎるよ軍鑑は >>23
新田次郎は
昔の歴史小説家にしては珍しく
軍記に流され過ぎるでもなく独自の高察が中々鋭い 史料はあるが、菅沼に見せるための資料はないので出さないが、
4次では、武田本陣まで攻め込まれたとの説もあるから、
上杉勢の誰かが信玄に切りかかってもおかしくはないな。
もちろんそれが、謙信とは限らないが。
足軽の日記に、馬に乗った僧姿の武者が床几に座った者に何度か切りかかった
とあるから、信玄に切りかかった者がいたかもしれない。
史料はあるが、菅沼に読まれたくないから出さないがね。 僧姿の総大将が騎馬に跨がって敵本陣に突撃とか、軍神様確定じゃないすか
やっぱ謙信ってナチュラルに紙一重な人だったんだな
信玄も信玄だが >>30は僧姿の武者であって僧姿の総大将とはだれも書いてない 信玄の隠し湯って、傷を負った信玄が傷を癒した湯。という意味だろう。
傷を負ったのは、村上や上杉と戦ったときだろう。
上田原や砥石崩れや川中島の時に、負った傷か・・・。
菅沼に見せるだめの史料ではないので、見せないが。 信玄て病弱と言われてる割には
戦場で負傷したって話が結構多いね 細かいことだけど、信玄ではなく兵士の傷を治したって由来が多くない? 考えると、武田の兵士を癒した湯なら、隠し湯ではないような・・・ 敵方に、負傷兵を早く治癒させて戦線復帰させている手法を隠してたんだろ。 ぶっちゃけると信玄が来たという確たる証拠が無いから
お忍びで(隠れて)来たという事にしている 一部の兵だけ癒しても、大きな戦力アップにはならないし、
多数の兵を癒したのなら、隠し湯とは、言われないと思うけどね。 戦国大名なんてストレス溜まる仕事だろうし温泉で心の傷を癒すのだよ 安房峠越えした山県なんて毒霧浴びて窮地に陥ったけど白湯につかって一気に回復したからな 当時は蒸し風呂が主流というけど、隠し湯も蒸し風呂だったのかね。
普通に湯に漬かっていたら、その手法が当時としては割と珍しかったかも? >>49
川中島で武田軍が行ったとされる迂回挟撃作戦の俗称
甲陽軍鑑には記されていない 一次史料ベースでも武田家重臣多数死亡、謙信太刀打ちと激戦を思わせる記述は残ってるじゃない アスペか?
「(キツツキという名称は)甲陽軍鑑には記されていない 」て事だろ
それと一次史料で確認できる重臣は武田信繁くらい
あとは軍記ソース 川中島合戦は甲陽軍鑑じゃなくても、一次資料の妙法寺記とか高白斎記に記載されてるだろ
実在疑わしいとか知ったかぶりもいいとこ。何でも斜に構えて疑えば史実に近いと思ってる単細胞だよ
啄木鳥は論外としても、甲陽軍鑑にしか記載されてない川中島合戦の具体的な情報は陣触れくらい
陣触れだけは他のどの資料にも書いてない 第四次川中島より
第三次川中島の方が感状多く発給されたり
第四次川中島戦いはまだまだ謎多いな 。 友達はPCだけであり、そのはけ口は主に2chに向けられた。
2chに堕ちると、50代まで引き篭ったエネルギーは、
ご覧のとおりである。
このあたり、性格も大きく影響している。 第4次川中島の戦いはどちらかといえば上杉が勝ったと思う それはない。物事は費用対効果でする
やや少ない兵力で損害を与え重臣を討ち取ったのは上杉だが
同じくらい兵力に損害を与えて微妙な位置にある領土を得たのは武田
上杉の活躍は称賛されて然るべきだが、この戦いで上杉が得た実益は皆無
しかも上杉にとっては侵略戦でも防衛戦でもない
武田相手のこんな割りに合わない戦争に面子だけで付き合ってくれる変人は上杉だけ 第4次川中島の戦いはどうしてあんな大決戦になってしまったんですか?
あんな大決戦ばかりしていたらいくら兵があっても足りないと思うのですが。 実際のところ確実と断定できるくらい信用できる史料が乏しいから、
どこまで激戦だったのかもはっきりとわかってないけどね…
ただ永禄4年の武田側は国境の戍卒までかき集めたとかは聞いた事あるけど >>60
いつも激戦してるわけじゃないから問題ない。
でも上杉は 霧のため軍の統率がとれず被害が拡大した…
という説なら見たことがある 謙信も蘆名と大宝寺の他国の援軍に越後防衛をさせる等、国内に総動員体制をかけたことが推測される >>63
霧の中で偶然かち合って、被害拡大説が納得できるなぁ。 >>65
でも両軍移動中の鉢合わせなら両軍ともにノーガードの殴りあい状態になるしそうなれば上杉方にも幹部クラスの被害が出ておかしくないと思う。
おもに軍記史料でしか細かい被害載ってないが、武田にしたら足軽大将級の山勘はじめ兄弟、親戚、侍大将級の幹部まで死んでるのに上杉は荒川クラスの旗本馬回りレベルじゃ割に合わん被害だよ。
そこから思うに上杉方はしっかりした攻撃の意志、つまり攻撃体制、準備をしていたからこその賜物だと思う。
それと合戦での死傷者数にはかなりの水増しも感じますね。 上杉方も新発田綱貞が川中島の翌月に死んでおり、戦傷が原因と考えられる 場所が悪かったて、偶然右備に出会ったからとか?
だとしたら上杉方は縦長の移動陣形だから尚更霧による障害は大きく、前方と後方で指揮系統が乱れるため、2、3の隊列からの波状攻撃なんてまず不可能。先が詰まる。と、思います。
さらに状況もわからない中で数に劣り、善光寺での友軍との合流を目指してた上杉方がここでいきなり積極攻勢には出るのも考え難いです。 ←←← A軍
↑↑↑ B軍
これだとA軍に分が悪いよね 武田方も、ホントに川中島で戦死なのかわからんの多いしなぁ。
軍鑑が第一ソースな人物とか、どれだけ信じていいのか。 妙法寺記にもあるし、信繁は間違いないのだろうけど。 逆に云うと信繁以外は怪しい奴ばかり
諸角とか戦場に出てるのが不可解なレベルの高齢だし 軍鑑の語り部の高坂がわざわざ武田側の被害を強調したのは、自分が語る武田物語のドラマを盛り上げる為だよね多分
だとしたら高坂は戦国の世になかなかの作家 土地は完全に武田が抑えた結果は揺るぎないから、
互い譲らずの名勝負にするには、そっち方面でバランス取らないとな。 >>74
ごめん、一ついい?最近では「高坂」ではなく「香坂」だったのではとの説が有力です >>74
というか軍鑑の川中島部分は小幡景憲作だろ
後半は小幡父の武功自慢に終始してるし
実際に参戦した高坂が書いたなら、
あんな偏った視線のダイジェストストーリーにはならんと思う >>69こういうことだな
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▲ 親族とか側近とか本当被害が偏り過ぎだよね 雷とかが本陣近くに落ちただけなのかも 土地を抑えたというけど、取ったやり方が汚いからね
和議違反だからね
しかも結局信濃平定したわけでもなし そんな和議違反とか同盟破棄とかしてるから信用なくすんだよ 筆者にすれば、自演を正当化したい理由で、掲示板まで作る人間が
この世の中にいるとは思わなかった。 信用がないから同盟相手に攻められ家臣には寝返られまくって最後は家臣にあっという間に滅ぼされよね織田は >>63
お互い高度な戦術をしたと言われてる戦いが
実は全く真逆で全然軍を制御できてなかった
実際歴史ってこんなもんかもね ―――そなたは天を信じ、毘沙門天に身を委ねている。心安らかなる日々であろう。
―――天に身を委ねるは、己を無にする厳しい戦いにて、そなたのごとく、自力信じられるは幸いじゃ
―――この乱世、己頼るほか生きる術なし
―――他力とは、己の無力悟ることなり >>将軍家仲介の和睦を平気で反故にする信玄
いやいやそんな証拠はいっさい無い。
第三次川中島の戦いの後、信玄に交戦の非難が幕府から届く3月まで
甲越両軍とも戦をした形跡が一次史料からはまったく確認できない。
信玄は反論として謙信の方が従わずに信濃へ出兵して海野地方を放火したと言ってる。
その後、謙信は二度目の上洛して義輝に会っている。
永禄11年3月からの義昭・信長による近じか上洛するからお前ら和睦して
上洛してきて協力しろよ交渉の時も
9月に謙信が武田の使者を抑留して断交宣言するなど、武田側に非は見られない。
(ちょうど謙信は今川氏真との武田挟撃の秘密交渉を成立させていた)
>>朝敵にされても、まったく動じなかった約束破りの常習犯信玄
信玄は朝敵になんてされてねーぞ・・・
むしろ幕府へ宛てた逆賊信長打倒の激文を
正親町天皇が取り寄せて筆写し醍醐理性院に奉納してるほど。
その後の話は同意。信長は何も考えてなかった乱暴者に過ぎない。 和議違反も何も信濃守護として堂々と信濃の平和を脅かす輩を退治しようとしただけや 織田在日が大嫌いな武田上杉。
なので貶すために無理やり高利貸し北条と大坂20万人虐殺の徳川を持ち上げる。 目的が川中島地方の領有とか言ってるけど、信玄の目的は自分で言ってる通り越後侵入だからな
それを果たせなかったんだから戦術的にも戦略的にも謙信の勝ち >>98
川中島合戦の目的は越後進入じゃなくて武田を信濃から駆逐する事。越後防衛はそれを兼ねてたってだけの話
上杉はこの2ヶ月前に北条から関東取れず戻ってきたばかりで、川中島は上杉から出陣したが武田の領土が増えただけ
この後、上杉は家臣の謀叛や相次ぐ遠征で国が乱れ暫く一揆の温床になる
さらには一向宗や椎名を信玄からけしかけられ過労になるほど防戦一方
対して武田は甲斐、信濃に加えて上野、駿河、遠江までまたがる大領国化
戦略を語るなら目的は複数あるし、流動的であり相対的なもの
戦略で見るなら謙信の敗北だよ。武田のみならず、北条にも >>99
>川中島合戦の目的は越後進入じゃなくて武田を信濃から駆逐する事。
? 繁長の反乱のときの話をしてるんだろうが椎名、越中一向一揆の扇動、繁長の謀反
これだけ綿密な調略をしかけて自身も飯山城を攻めたけど、結局攻め落とせず撤退したのは信玄なんだがな それは単なる陽動
武田が小田原包囲したのと全く同じ
だいたいにして越後の周囲を調略したのは越後侵攻の為じゃなく、西上に際して信濃を荒らされない様に釘付けにする為なんだからダラダラ城攻めするわけがない 府中破却を信玄自身が宣言しての北上だから目的は越後侵入 仮に陽動だったとしても第一次駿河侵攻も失敗してるよね 最初に駿河から撤収したのは当たり前
徳川と北条に同盟されたんだから
ただ最初の駿河侵攻があったから二回目で簡単に落とせたし、何より勝つ事を前提にした退却をして本当に勝てる武田の強さの証明にこそなれ失敗にはならない
この時期の武田は上杉も北条も敵だったけど、どちらも封じて北条には人質まで出させての徳川織田連合の撃破
これを過小評価する方が無理がある 過小評価なんてしてないよ
信玄は名将だと思ってるし
ただ、越後侵攻と第一次駿河侵攻は失敗したと言ってるだけ 越後は資源も穀物も日本一豊かで、由緒的にも日本統一にはその支配と工作が必要だった。
イヤヒコとイヤヒメ、天一目 越後侵攻は今川と上杉の同盟が発覚したので
飯山城を攻めるフリをして陽動をかけた上で
今川領へ奇襲をかけただけ。
その際に上杉に武田領を攻め込まれないために
椎名、越中一向一揆の扇動、繁長の謀反を煽って謙信を釘づけにした。
第一次駿河侵攻は、背後を襲おうとした今川が叩き潰して武田領の安全を確保したので大成功でしょ。
これにより上杉と今川の挟撃策を完全に潰えた。 信玄死ぬ時に、織田、北条、上杉から領地を奪い取ったが
彼らから武田領を一寸たりとも奪われることがなかったと語ってるしね。
まさに最強。 >>109
1564年 武田軍が信濃野尻城を落すも、上杉軍が奪還
1571年 上杉軍が武田領の上野石倉城を攻略 菅沼遼太はすぐボロ出るからなぁ
てめぇは一次史料要求する割に物を知らなさすぎ 駿河侵攻で今川が叩き潰したのか
なんだかわっけわかんねえな たしか鴨川達夫氏だったかは
信玄の戦略は緻密に見えて以外と行き当たりばったりだって書いてたな >>113-114
なんだろう
信玄ってどこを攻めるにしても常習的に敵対勢力の背後を書状送った相手に
チクチク攻めさせて牽制させてる感じがする
よく云えば用意周到で手回しがいいのかもしれんけど、常に慎重で石橋叩く戦略で、
どこか回りくどくてスピーディーさを感じない
あくまで個人的な印象だけども 色々試して、上手くいった方法をその場その場で活用して進めていってる感じ。
様々に試行するのを行き当たりばったりとするか、慎重な根回しと取るかの違いかね。 信玄の戦略が行き当たりばったりだと言うなら、戦国大名に軍略家なんていない事になる
晩年の信玄のレベルには到底及ばない大名が殆どなんだから
そもそも歴史学者や作家の持論は後世に生まれて結果知ってるからこそ生じる先入観に無自覚なのが多い なんで信玄の晩年限定?
晩年以外は行き当たりばったりってこと?
晩年も行き当たりばったりだとは思うけど
謙信と遊ぶかと思えば徳川と駿河せめて嫡男死んで北条参戦したら関東いって駿河行って北条の為に謙信と織田を味方にしようとしたら徳川と戦って謙信ときって北条と結んで関東の反北条はほったらかしで西上は朝倉浅井本願寺頼み
相手の後背と結ぶって一貫してるけど、対応が戦火交えてからだよね
今川滅ぼそう!その前に北条と徳川と話つけておこう!ってのがないんだよね
今川滅ぼそう!攻めた!北条が今川救援した!徳川と衝突した!どうしよう!そうだ!織田と北条と仲の悪い奴と結ぼう!
行き当たりばったりじゃないのこれ 信長の方がよっぽど行き当たりばったりで
八方ふさがりになりまくってんじゃんw
ただ単に相手が死んだりと運が良かっただけで。
秀吉が天下統一してなかったら明らかに三好長慶未満の評価しかなされていなかっただろうし >>120
機を見ると片っ端から敵対するけど、強いからそれが出来るって事でもある
上杉、北条、今川、徳川、織田に囲まれて好き勝手やれたのが信玄が暴君と呼ばれる所以 いやいや書状で信長に弱音吐いてて苦境だったのが判明してるじゃん 謙信の敗北なのに、引き分けあつかいってのがおかしい >>123
信長は平時から信玄に弱音吐いたり貢いだりしてるんだが >>121
行き当たりばったりだね
でもいま信長の話してるわけじゃないから
どうぞおかえりください
>>122
機会を見て弱体を攻めるからそりゃ相対的に強いよ
それは強いからそうしてるのではなくて弱くなった相手を選んでるから
言い換えると弱体化した相手にしか仕掛けられないってこと
正しい戦略だけど北条みたいに関東を志向したり織田みたいに近畿を志向したりじゃない
そこから考えれば行き当たりばったり
>>126
信玄も虎の皮だったかなにかを有効な貢物として外交に利用してるよ
金を一掴み家臣に貢いだとかゆうめいだよね
でもそれと弱音だのとなんの関係が? >>128
は?
弱体化してなくても西上作戦決めたら正面から北条も徳川織田連合も倒してるじゃん
なんでどさくさ紛れに毛利元就と同じレベルにしようとしてるんですかね >>123
それ偽書状だと指摘されてるんだけど。
その後に信玄が信長に出している書状で
家康の背反裏切り行為に対して
信長にお前はどう考えてんだおい!と詰問していて
明らかに整合性が取れないのが理由。 >>129
勝った負けたは問題にしてない
読み直して
>>130
参州衆出張如何様之存分候哉でそんな訳にならない
詰問と言うほど上から物が言えるなら、その後段の「遠慮して当府に滞留」する必要はない
遠慮が必要な相手に詰問しない
そして武田遺文4037は義昭が信玄にたいして伸び長に相談しろよと指令を出してるから信玄の苦境を義昭も認識してた
苦境じゃないならわざわざそんな指令出さないからね 戦武4037
4/3付け書状で義昭から信玄へ弥信長深重申談と指令が出ているが
これを鈴木将典氏は
義昭が信玄に対して、信長に協力するよう求めたと翻訳している。
ちなみに昨年義昭が上洛に成功したものの、正月に三好三人衆が京に攻め寄せてきて義昭は襲われており、
織田の背後を安定させておくため信玄の協力が必要だった。 一騎打ちはあった
これの方がロマンがあって良いじゃないか、実は無かったなんて
夢の無い話だ・・・真相明かされない方が良いめ お前のむちゃくちゃデタラメの翻訳などいらん。
だいたい玉石混交の武家事紀の中に収録されている書状で
しかも写し書状で原本なし、花押の写しもなくただ単に差出人を信玄と書いてるだけ。
宛名も武田家臣の市川十郎で信長に出したわけでもない。
和睦や無事と普通に書かず戦国時代には使われてない和融なんて言葉を使う始末。
結果、山梨県史では偽書状なので掲載されず、
信長贔屓の愛知県史でも偽書状の疑いありと認定されてるし。 織田在日あいも変わらず捏造歪曲の垂れ流しのキチガイ >>135
上杉家の資料では「荒川伊豆守が〜」ってなってて、武田家の方では「謙信が〜」て書かれてるんじゃなかったっけ?
武田家が体裁を保つ為に1武将よりも謙信本人の太刀を防いだって事にしようとしたって読んだ事ある 野尻城の記述は謙信公御書と書いてあるな。
蘆名盛氏との越後挟撃共同作戦だったらしく、蘆名勢も越後の菅名庄に乱入。
信玄も信越国境の野尻城を攻略。
しかし、蘆名勢は謙信に撃破され五百余人内捕えられて盛氏が謙信に謝罪。
一方の信玄も野尻城を奪還されて挟撃作戦は失敗。 残念ながら謙信公御書集は近世の編纂物であり、
明らかに江戸期の軍記物から採集抜粋した写書状まで玉石混交でございます笑 そもそも蘆名盛氏との越後挟撃共同作戦ってのが
完全に妄想レベル笑 戦国遺文にこの共同作戦の武田と蘆名のやりとりの書状も残ってるみたいなんだけどねぇ 戦国遺文武田氏編1260の武田信玄書状に蘆名盛氏との共同作戦の記述があるね
もっと勉強しましょう なんで自分で調べようとしないの?
手元に戦国遺文無いし、めんどくさいから原文は書かない
戦国遺文武田氏編2の1259、1260に書いてあるから図書館でも行って自分で調べればいいじゃん そんな低レベルな煽りを書き込んでる暇があるならさっさと調べれば。
すぐ分かる事だから。 は?おれわざわざ調べなくて知ってるからw
おまえが本当に見たことあるのかチェックしようとしてんだよアホが笑 図書館で確認済み。
つーかそのことと記述内容となんか関係あんの? はいはい図書館で確認してるなら
普通はコピー取るだろうが。
それともまるまる記憶したから自信満々なのかなwww
おれはいつでも転記できるけどな。 本当は原文知らずに、相手もどうせ読んでないと
たかをくくり知ったかぶりw >>148
めんどくさいから原文は書かない←読んだ事がないので書けませんと訂正謝罪しろよ笑 >>151みたいに嫌がらせ目的で出展求めるから叶わない 自分が知らない事指摘されて恥かいたから粘着してるんだろうね >>160
知らないも何も原文いつでも転記できるしw
まぁ写書状で信憑性低いが。
1259
珍札披見 快意之至無他候 仍関東表静謐候条〜
1260 これは新編会津風土記に乗ってる写だから全く信用性ゼロ
小田切向于越国及行〜
文書番号だけなら誰でも挙げれるしシッタカできんだよアホカスが。 誰も頼んでない事して何やってんだ?
お前が知らなかった事はもう明白だからもう来なくていいよ 知らないわけね〜だろw
年で戦国遺文をめくればすぐ見つかる簡単なお仕事なのに。
はやくお前の主張を証明してみろやカス 原文を知らずにショボイ本に書かれている出典元を鵜呑みにしてる素人が最近多過ぎ。
織田厨とかのせいでレベル下がりまくりで困ったもんだ。 お前が蘆名との共同作戦は妄想とか言ってたの分かってるからね
もう恥の上塗りするの止めたら? >>166
だからさ、蘆名との共同作戦があったとの根拠を早く証明してみろよ笑 いちいちアホだのカスだの付けないと書き込みできないんだね
下品だね 武田信玄は2回くらい大河になってるが
上杉謙信やら北条氏康はなんないなw 第4次川中島の戦いでの真田幸隆の役割について教えてください 上杉軍が妻女山の上に陣取ったっての疑わしい気がする
糞小便の処理、水の確保、飯を炊くための薪の確保
これらの問題を解決する方法がないと山上に陣取るのは危険なんだが 兵法では「高きにおいて低きを攻めれば、その勢い一瀉千里の如し」とされ、水断ちされても山上から勢いをつけて平地の敵を打てば良いとされた。 とりあえず高所を取れはWW2ですら有効だった基本中の基本 >>176
孫子の兵法九地篇にある「これを死地に陥れて然る後に生く」という兵法の応用。 176です、確かに兵法とかだと高所に陣取るのはいいとされているけど
丘みたいな大軍勢が一気に下りれる高所ならともかく日本の山みたいに木が林立していて
一気に下りれない山だと難しいのではないかと
関ヶ原の時毛利軍が南宮山の上に陣取ってるのを見て本多忠勝があいつらは戦う気がないと諸将に言った話や
三国志の街亭の戦いで蜀の馬ショクが山の上に陣取って水断ちくらって大敗した話とかでそう思ったので
まあ、関が原では松尾山の小早川軍が山から駆け下りて大谷軍殲滅してるのでケースバイケースなのかもしれませんが 続きです
水断ちされても高所から一気に駆け下りて平地の軍勢を撃つといいますが
川中島の時は結構長期にわたってみらみあってたということなので、それを実行するにはかなりきついのではないかと思うのです
信玄は水断ちしなかったのか?謙信は長期対陣になって水断ちされる危険性についてどう考えていたのか?
歴戦の武将である二人が考えないわけがないと思い、妻女山に陣取ってはいなかったのではと思ったのです
浅い知識で書き込みすみません 妻女山に布陣する時に謙信公が槍尻で岩を突いて湧き水を出すのに成功しており、その湧き水は今でも水が枯れずに湧き出している
妻女山には他にも湧き水がでる地点が何箇所かある >>176
糞小便の処理も出来ない場所だったという根拠は?
水の確保の確保が出来ないという根拠は?
薪の確保の確保が出来ないという根拠は?
多くの合戦で本陣は定石通り高所に置かれているわけで
妻女山では例外的にそれが出来ないという根拠を示してもらわないと突っ込み所が多すぎて煩雑になるので
議論を集約するために要点の根拠となるものを提示してもらいたい >>183
水に関しては182で破たんしてますね、薪、糞尿ともに根拠と呼べるものはないです
全軍が山頂に布陣していたと勘違いしていたのかもしれません
今後は私の発言はアホのたわごととスルーしてください
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山に関しては、当時はほぼハゲ山だったんじゃないの? 職場の38歳×1の女が、
「出会いはあるけどろくな男がいない」
「再婚したら仕事辞めて専業主婦になりたい」
って言ってました。 きつつき戦法なんてあるわけないじゃん
いくら昔でレーダーがなくても何千人もの兵隊が動いたら、気が付かないわけがない
そんなの昔も今もいっしょ。むしろ昔の方が静かだから、ばれないわけがない まー川中島みたら武田騎馬隊はいなかったってのがよく分かるよね
使い道がない まあ、戦うときは降りて戦うみたいだねえ
移動するときは馬に乗ってかっこよかったんじゃね? 川中島の戦いだけなら、信玄の完全勝利じゃね?
だって北信濃の、今の長野市あたりの領有権をめぐって
戦ったんだからさ 被害は大きくとも、北信濃を領土にした信玄の勝ち うん、信玄の勝ちだね
謙信は信玄の裏をかくのに成功した
だが攻め切れなかった
結果、信玄の粘り勝ち 第4次のこと?
あれ戦闘では実質謙信が勝ったじゃん。 >>198
主戦場から追撃受けながら撤退したのを、勝ったとは言わないやろ。 武田は山本勘助や武田信繁など名のある武将討ち取られてるやん 武田信繁なんか豊臣政権での秀長のポジションだしな
ナンバー2だもんね 戦争の勝ち負けの判断基準は「損害の多寡」ではなくて、「目的を達成したかどうか」。
武田軍は大損害を受けたが、戦後も善光寺平を支配していたから、戦略的には勝利。
信玄に「越後侵攻なんてとても無理」と理解させた謙信にとっても戦った甲斐はあった。 目的達成だったら決戦志向の謙信が信玄に痛打を与える目的を達成したから謙信の勝ち
水掛け論まだやる? 目的達成基準だから、「両方勝ち」「両方負け」も有り得る。両雄の内心は推測するしかないけど
欲張った願望では「信玄を討てなかった謙信の負け」と同時に「越後征服を断念せざるを得なかった
信玄の負け」だったかも知れない。
関東志向の謙信にしてみれば、以後は信玄が南進・西進に転じて、信越国境から春日山を直撃される
脅威を排除できたから、こっちも戦略的には勝ちは勝ち。「信玄に追われた信濃国衆を助ける“義”の
戦い」なんて後世の謙信ファンが信じた精神論的解釈は別にして。 謙信「今回の威嚇合戦はこの辺ええか、そろそろ帰ろ。下山するで」
信玄「そろそろ終わりかな。撤収の準備せえや」
謙信「おっ霧が濃いな、前が見えへんやんけ」
上杉軍の兵士「下山の方向あってるの?逆じゃね?」
武田軍「霧が濃いな、こんな時に兵を移動させるバカはおらんやろ(鼻ほじー」
上杉軍「あっ」
武田軍「えっ」
上杉軍&武田軍「ああああああああああああああああああ」 信玄はともかく謙信は威嚇どころか機会があれば決戦を狙ってるのは書状見れば分かること 第四次で討ち死にした武田家の方々
武田信繁 (武田軍の副将、信繁軍の大将)
武田昌清(諸角虎定、諸角軍の大将・武田信虎時代から唯一裏切らず仕え続け、勇将として飯富と並び称された)
武田信連(信玄の側室・油川夫人の兄、油川信吉=信友の子・武田家一門衆)
葛山安信(信玄の孫・葛山信貞の子)
武田義勝(武田信繁の嫡男・別名は望月信頼=望月軍の大将)
望月盛時(本来の望月家当主、武田義勝の軍奉行)
初鹿野忠次(武田一門衆・小田原城への援軍では信玄代理の大将)
三枝守直(武田家以前の甲斐国主・信玄奥近衆=側近中の側近)
安間弘家 (甲斐&信濃の訴人頭・信玄の相談相手)
山寺信明 (武川衆の一党・武田信繁が旗本)
山本晴幸(山本勘助のモデルで信玄の伝令将校) いっぱい死んだなあ〜〜〜
でも長野市は武田に獲られた
素直に認めればいいのに 和議違反の火事場泥棒で取ったって言ってもね実力ではないな
偽の感状作って誤魔化したくなるほどの敗北だったんだよ 書状の中で越後侵攻に言及してるから信玄の目的は初めから越後だったことがわかる
信玄の誤算は謙信が予想以上に強かったことだろう 武田家と上杉家の直系子孫が対談「父の代で関係が復活した」
2016.07.11 16:00
“越後の龍”、“甲斐の虎”と並び称された宿命のライバルである上杉謙信と武田信玄。今回、両家の直系子孫である上杉家第32代当主・上杉邦憲氏(73)と武田家第17代当主・武田邦信氏(68)の対談が実現した。
「川中島の戦い」から450年の時を経て、“龍虎”が再び相まみえる──。
上杉:私たちがお会いするのは初めてですよね。
武田:本家ではない上杉家の方とお会いすることはあるのですが……。私の父と上杉さんのお父様とは交流があったようです。父は居酒屋で酒を酌み交わした写真を亡くなるまで大切にしていましたから。年賀状のやり取りもしていた。
上杉:父親同士がNHKのクイズ番組『私の秘密』で共演したことから両家の交流が始まったんですよね。その後、私自身も武田さんのお父様と雑誌の企画でお会いして。川中島の一騎打ちの銅像の前で並んで写真を撮りました。
武田:それまでは両家の交流はなかったけれど、父の代で関係を復活させた。
http://www.news-postseven.com/archives/20160711_428666.html
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&id=4087893 >>211 謙信をリーダーキャプテンにして、川中島に出場して武田軍を迎撃することは
聖戦ジハードか甲子園出場みたいに、一種異様な盛り上がりを見せているからな。
越後の武将に残った書状では。 >>208 信玄の馬回りや身近な親族などが
討ち死にしているんだね。
これは相当の損害だ。
浅井朝倉追撃戦で、
刀根坂の戦いで朝倉軍を壊滅させたのと匹敵するじゃん。大将は逃したが。 大将は逃したが親族を討ち取ったという点に着目して、他の合戦と比較してみよう。
桶狭間(大将死亡)>刀根坂の戦い(朝倉壊滅)>川中島>姉川の戦い
姉川の戦いでは夜間のうちに山を降りて、暗いうちに織田軍の前面へ展開、
明るくなってから一気に攻めかかっている。織田軍は正反対の横山城へ向いて布陣していたので
織田の馬回り衆(旗本)は後ろの方であり、そこへ浅井軍が夜間のうちに接近してきたから
朝から信長本陣への直接攻撃だった。
川中島では霧が多いそうだから、夜明けで暗いうちに接近して朝になっても霧が濃くて、
思わぬ接近戦の連続になったのかもな。 結局上杉謙信と武田信玄はどっちのほうが強かったんですか? 武田信玄の狙いとしては、武田家は甲斐、南信濃、西上野に領地を広げてきたけれども、大国である北条家の聞こえを計算して、同盟の実を示す為に戦したとも取れるし、
越後の上杉謙信に対して、うちの領土を狙うといっても、互いにズタボロになるから損のほうが大きいですよとアピールする狙いがあったからこそ、親族や重臣を多く犠牲にしても勝負に出る必要があったのだろう 信玄は初めから越後侵攻を明言してて文書にも残ってる
信玄の目的が越後侵攻だったことは明白
川中島地方の確保は越後侵攻の通過点に過ぎない
信玄に痛打を与え越後どころか北信濃突破も許さなかった謙信の勝ちだよ しかも信玄は謙信1人に集中できる情勢だったにもかかわらずだからな
謙信は北条武田一向一揆同時に敵に回してたのにさ 謙信が死んで景勝の時代になるとめちゃくちゃ弱くなったからな上杉
もはや武田勝頼に臣従してたと言っても過言じゃない 謙信が史実でもチートキャラなのは疑いようがない。
謙信さえいなければ、信玄も木曽義仲ルートで越後北陸道制して信長より先に上洛できた可能性はあると思う。
後年東海道を選んだ信玄もたぶんその頃は北陸での勢力伸長を考えていたと思う、東海には今川がいたしね。 >>189
お前都会暮らしか?
田舎の闇夜だと見える要素ないぞ
そりゃ松明焚いてれば見えるかもしれんけども >>208
>>葛山安信(信玄の孫・葛山信貞の子)
ありえないだろ >>212
両者とも「邦」の字を偏諱で貰って通字の上に付けてるかのようなお名前だな ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ まー殆ど意味ないからね
海津城が出来た時点で川中島の戦う理由はなくなった
むしろなんで第四次が激戦になったのか?
上杉サイドが海津城を攻め落とすのが目的ならわかるが、そうじゃないしね
武田が西に方針転換して武田と上杉の争いがなくなったと言うが
こんなもん上杉からしたら武田との戦争を辞める理由にならんのね
むしろ北長野の取るチャンスなわけよ
つまりね1560年前後に武田が海津城を作りましたで終わる話なんよ
教科書にはいらん 武田にしてみれば北信の領土が取れるわけでなく毎度毎度川中島にでばる上杉は意味不明
大義だ越後防衛だか何だか良くわからない
(このレベルの武将としては)外交下手戦争下手
武田は北信への勢力を排除して信州手中で既に戦争目的は達成してはいる
しかしだからこそ戦争になる
敵として上杉は怖いから叩き潰したかった武田
外交戦略的にでたらめだが上杉の強さは異常、脅威は取り除かなければ
本当に越後に今回進攻できるとは思ってはいないだろうが
大きく叩ければ越後へ越中へそっからの上洛へ道が広がる
でそのために北条や一揆始め周到に根回し、上杉包囲網
海津城を作り負ける要素は薄い
ここまでやりゃ勝つ見込みは高い
越後を取るぞと檄を飛ばして川中島出陣
苦境に追い込まれた上杉もここが勝負どころ乾坤一擲の大勝負ここで負けられない弱味は見せられない
苦境の時にこそ敵を叩け越後よ結集しろで対陣
負ける要素はないはずの上杉に乾坤一擲の大勝負に出られ思わぬ大苦戦で
以降打倒上杉や日本海進出は完全に諦める
上杉も戦略ばっちり固めた武田の甲信には手を出せないで以降の両雄が直接全軍指揮しての対決はなくなる
互いに相手の脅威は恐るべきだが取り除くことめ諦めるしかない割に合わない避けるべき存在と完全に確認
両者にとって一度はやらなければなかった避けられなかった戦い
通過儀礼
良くも悪くもこのレベルで外交戦略戦術
軍隊指揮して戦える武将が全力で激突した上で一方的にならずバランス取れたのも戦国でここだけ
だからロマン 相手が欲得づくなら利害関係をハッキリさせて外交に持ち込めるんだろうけど、上杉は正義だの大義だの基準にするから武田も困っただろうな 戦そのものは謙信の判定勝ちだが、戦略を達成したのは信玄。珊瑚海海戦の日米みたいなもの。 こないだ長野に行ったんだが、川中島って長野市中心部より南にあるのね。
つまり長野市中心部は上杉の勢力圏。
川中島に手こずってるようじゃ武田の信濃制圧なんて遠い話だわな。 武田信玄がわざわざ川中島合戦に5回も付き合ったのは、川中島という土地そのものにこだわったわけではなかった
もちろん手に入ればそれに越したことはないが
上杉謙信と北条氏康に対する政治外交的メッセージを発することが目的であり、
北信濃を欲しがるのは結構だが、上杉軍3000、武田軍3300の死者という、互いにあれだけの被害が出て、共倒れになるだけだからいい加減止めろ、というメッセージを上杉謙信に
わが甲斐はこれだけの被害を出しながらも甲相同盟に忠実だ、というメッセージを北条氏康に、
発するのが目標である 3000人と忠実で有能な弟を犠牲にして割に合わんメッセージをだしたもんだな
すぐ方針転換してコロコロ破るのに 大河の武田信玄では信玄が夜の段階で上杉軍が妻女山を下った事を察知してた描写が新鮮だった。
あと上杉方も武田軍が海津城を出るのを察知してたり。
いくら夜とはいえ軍勢が動くのを全く察知出来ないというのは無理があるかな。
指揮官の死亡率が高いのも退却中不意の遭遇戦なら説明が付くのかな。
確か長篠の重臣の戦死者も退却中が多かったんだっけか。 普通に北信濃を制圧した武田軍の勝ち
目的達成した側の勝ちでしょ 領土争いに関しては信玄が信濃守護になった時点で決着がついてる。第4次はお互い相手に損害を与える決戦目的 >>242
村上義清の領土回復が目的だろ
武田側:北信濃の防衛
上杉側:北信濃の奪回 戦争の勝ち負けの判断基準は「損害の多寡」ではなくて、「目的を達成したかどうか」。
武田軍は大損害を受けたが、戦後も善光寺平を支配していたから、武田軍の勝利。 武田軍は感状を出してないから武田側は敗北と捉えていた可能性があると丸島教授は言ってるな 北信濃確保という意味では武田が勝ったと言えるが…後遺症が強かったんじゃないか。対今川の外交転換までに7年もかかっている。あとは、副将信繁の討死 いやすぐに西上野取りに行ってるやん
謙信は助けにも行けなかったね >>247
永禄4年(1561)年7月2日の武田信玄書状で「加賀・越中一向一揆が連合して越府(越後府中=直江津)攻めるように」と支持してるので信玄が勝ったら一気に日本海にでようとしたのは事実。 >>241
第四次川中島の戦いが終わった2か月後の永禄4年(1561)11月の埼玉県本庄市での北条氏康軍との戦いでの敗北。 >>249
それは第4次で引き分けた、もしくは謙信に大打撃を与えられなかったから一向一揆に支援を求めたんじゃないの?
信玄は第4次の後は西上野に侵入している
西上野に侵攻するのに謙信を越後の西側に警戒させて牽制するメリットがあるけど、第4次に勝ったとして日本海に侵攻するのに一向一揆を越後に侵入させるのはやや矛盾している
加勢が欲しいくらいなら信玄は無理に越後を攻めないだろうし一向一揆の関与はその後の統治に問題を残す
加賀の一向一揆と通じてるよという情報を謙信に流すのが一番の目的でこの頃の信玄が加賀一向一揆を自在に操れたとは考えられない >>251
信玄は弘治3年(1557)年辺りから使僧・長延寺実了を越中等に派遣して工作してるよ。詳しくは「川中島合戦再考」(新人物往来社)の「信濃にとっての川中島合戦」を参考のこと。 >>251
第4次が終わったのは9月10日です。
加賀・越中一向一揆に支持したのはその2か月前の7月2日です。 >>252
そもそも一向一揆が富山城すら攻めてない時期に越後侵攻できんの?
せいぜい越中内で神保や上杉支持方の領地を荒らしてほしいくらいじゃない?
第5次川中島直前の信玄による北陸の一向一揆への働きかけとは根本的に違うような
その本も専門書ではなさそうだしね 普通に北信濃を制圧した武田軍の勝ち
目的達成した側の勝ちでしょ >>254
永禄3年(1560)3月に神保長職が椎名康胤を攻めて椎名が長尾景虎(謙信)に救援要請を出している。これが上杉謙信の初の北陸出兵。神保氏は越中一向一揆と武田氏と通じていた。 >>254
「川中島合戦再考」は2000年に長野県飯山市で笹本正治氏等山梨・長野・新潟三県の学芸員が川中島合戦についての研究を発表したもの。あなたはそうした人達を研究者とは思わないんだ。今度山梨県の歴史研究者に聞いてみるわ。 >>255
北信濃の領地は武田の勝ち。
でも残念ながらそれで西上作戦が遅れてしまい、義信を犠牲にしたのも事実。 >>257
でも2000年刊行なんでしょ?論文や歴史書はせめて5年以内のものを読めと言うぞ
20年もあれば研究が進んで学説は変わる
重版や改訂版が今も出てればいいけど無いならちょっと参考にはできない
で、その人たちは今はどう言ってるの? >>260
ちなみにこれは2017年秋の新潟県立博物館の企画展「川中島の戦い」の資料より永禄4年(1561)の武田信玄の書状より。ここの主催者の学芸員さんは永禄10年(1567)にもう一回川中島合戦があったのではと提起してます。 >>259
一般市民は図書館にある書物を信じるんでね。
そんな常識しらんのですわ。
アホですみません。あなたたちもはやく論文書いて市民に普及させたらどうですか?ここで叫んでないで。(苦笑) >>259
5年以内のものなら・・。
「上杉謙信」(高志書院・2017年)より
「上杉謙信の北陸出兵」(萩原大輔)246〜247P
から→「謙信が越後へ戻った後ほどなく、神保長職は勢力を盛り返した。早くも永禄三年七月には婦負郡の極楽寺(現富山市)へ禁制を出しており、富山城まで近いエリアまで影響力を回復させたのである。かような神保氏と協力して越後を攻撃するよう、一向一揆勢力に対して働きかけたのが武田信玄だ。信玄は、越中一向一揆の中核寺院たる瑞泉寺に門徒たちを説き伏せるよう求めている。」と書いてある。 >>263
だからそもそも信玄が調略したのは神保であって一向一揆じゃないよね
永禄5年に椎名氏の要請で上杉が越中に進軍するまでの一向一揆の動きは分からない
その後も信玄は永禄12年に椎名康胤を寝返らせて椎名の援軍を一向一揆に頼んでるけど越後侵攻を要請したというのはどの資料なんだろう あと元亀3年に信玄が越中一向一揆を動かした記録では、大阪本願寺を通じて依頼してる
その後5月に大阪本願寺が人を派遣して加賀一向一揆経由で越中一向一揆を動かしている
元亀の時点でこういう手続き取ってるけど、信玄がその前から越中一向一揆を動かせるのなら何で直接動かさなかったのかね?そこが分からない >>264
神保と一向一揆は永禄5年9月に信玄の要請で椎名を攻めとるで。その本にも書いてある。 >>265
本願寺顕如と武田信玄は永禄8年3月に同盟成立しとる。@本願寺と武田が入魂する。A謙信とは断交する。B越中の戦線に関しては本願寺は信玄に相談するの三点で合意したからや。
この年、武田家ではおぶ虎昌が信玄にクーデターを起こしたが失敗した。義信と虎昌は今川攻めに反対してたから武田家内部で外交方針の対立があったんや。 >>265
要するに信玄は外交が下手だったと思うで。謙信は祖父・父親の代の途中まで本願寺・一向一揆と対立してたが、1523年に長尾為景は幕府管領細川高国の斡旋により和解してる。晴景・景虎と良好な関係は続き親戚は梨氏や本誓寺超賢を使って京都上洛を二回しとるからな。謙信には室町幕府の再興というビジョンがあったが、信玄には天下とった後のビジョンか示されてないと思ったわ。 >>264
本願寺九代宗主実如は親しくしていた細川政元が亡くなった後、1518年に弟や息子たちと一緒に本願寺教団の改革を行っとるで。一揆の禁止や年貢の未払い禁止を門徒に命じている。十代宗主・証如も管領・細川晴元に本願寺門徒を畠山・三好連合軍の戦に駆り出さされた(1532年)
以外は一揆を起こさないよう門徒に命じている。再び一向一揆が地方でく 本願寺門徒の一向一揆が再び軍事活動をするのは1554年に証如が39才でなくなり顕如が12才で宗主になってからや。証如も一向一揆の軍事活動を抑えていたからな。 >>264
永禄4年(1561年)の事か?それなら3年前に新潟県立歴史博物館の企画展「上杉謙信武田信玄川中島の戦い」のパンフレット71ページ目の所に武田側の行動として「永禄4年7月2日・信玄、越中・加賀の一向宗門徒と連合して越府に乱入する予定を伝える」と書いてあるで。出典は『武田746』と書いてある。これをいうとんのか? >>259
5年以内のものを読めやて。そんなに書物なんて頻繁出るわけじゃないし、大変やな。5年経ったら古い研究と言われるんかい。流行りもの扱ってるみたいで可笑しいわ。一次史料なんてそんなに発見できる訳ないし。日本史研究の世界ってどうかしているんちゃうか。 >>264
あんた、プロの歴史研究者?せっかくこの投稿で書物も紹介してるんだからこんなところで書き込んでないで読んでみたらどうや。大学の研究者とか高校教員、役所に勤めてるがく >>264
椎名が武田に寝返ったのは1568年に神保長職が上杉謙信と連携をとったからや。その年の夏に椎名は武田信玄・越中一向一揆と連携をとってる。 >>264
神保長職が謙信にすり寄ったのは畠山義綱の存在や。永禄9年(1566)に遊佐とか長等能登畠山家臣団が義綱を追い出して息子の義慶を担ぎ上げる訳や。義綱は姻戚関係を結ぶ南近江の六角の元へ行き、1568年に各大名に救援を出した。応じたのが六角、神保、上杉謙信や。謙信は義綱を能登に復帰させようと越中一向一揆と戦う訳やこれが1568年3月下旬の放生津の対陣や。謙信は信玄にそそのかれた上杉家臣の村上城主・本庄繁長を討伐するため越後に戻ったわけや。椎名や越中一向一揆は神保が謙信と連携したんで、武田信玄と連携した訳や。神保と椎名が入れ替わって上杉・神保対椎名・越中一向一揆・武田の対立構図になったのや。 顕如が本願寺第11世宗主に就任。(1554年)
・朝倉義景と加賀一向一揆と対立(1555年)
→途中で朝倉宗滴死去。慶寿尼(顕如の祖母)が仲介し朝倉氏と加賀一向一揆が和睦。(1556)
・本願寺顕如と如春尼(武田信玄正室・三条夫人の妹)が結婚(1557年)
→信玄と顕如が義兄弟になる。
・神保長職と椎名康胤が対立し長尾景虎(上杉謙信)に椎名が救援を要請。
→神保は景虎に降伏。(1560・3)水面下で信玄は越中一向一揆に接触か。
・武田信玄、加賀・越中一向一揆に越府(越後府中)に乱入するように伝える(1561・7・2)
・神保が椎名に対して2度目の反乱。上杉輝虎(謙信)は椎名の求めに応じて7月と9月に出兵。
9月の戦いでは神保と越中一向一揆が連携したが、神保は謙信に降伏し能登守護・畠山義綱の仲介で神保と椎名は和睦する。
・徳川家康と三河一向一揆が対立(1563〜64)
・武田信玄と本願寺顕如との同盟成立(1565)
・越中一向一揆と上杉輝虎(謙信)との対立
(1568・3)→同年夏に神保長職が上杉輝虎と連携した事により、椎名は武田信玄・越中一向一揆と連携をとる。神保家臣は反上杉派(寺島)と親上杉派(小嶋)に分裂。
・越中一向一揆・椎名康胤と上杉輝虎(謙信)が対立。(1569・8)
#翌年に織田信長と本願寺顕如との「石山合戦」で全面対決に至るまで、これだけ一向一揆の軍事行動を容認している顕如の姿勢を検証しないといけないね。 >>276
追加。
・長尾景虎(上杉謙信)、2回目の京都上洛。(1559・4〜8)→道中で加賀一向一揆が景虎に道案内をして前回以上の歓迎を受ける。
も入れといてや >>258
西上作戦は今回とは別
目的達成した武田の勝利 >>271
そうそうそれ
結局それって越後侵攻するぞ!という信玄の見せ球なのか本当に連合して仕掛ける予定があったのか
その時点でそれはないんじゃない?って話から始まってんのよ
おそらくその辺の解釈は学問的にも証明するものが出てこないから状況から判断するしかないんだけど、そのまま文字通りに読んでいいのかねって話
越後侵攻するには一向一揆がそれなりに越中支配を固めてたとかね
少なくとも永禄の頃の信玄には越中の一向一揆を動かせるほどの影響力はないはずだし謙信をけん制するくらいじゃなかったのか?というところから始まってるんだが
あとの詳しい解説はありがとうございます >>272
最近の大型書店に行ったことあるかな?歴史読み物と研究書は本棚を明確に分けてるよ
あと研究書は毎年結構な数出てるけどね
そんなに大きな変化を期待してはいけないけど20年も前の本をこれが事実と思うのもダメでしょ
最近では斎藤道三が2代目だったとか石山本願寺→大阪本願寺とかまあ20年も経てば以前の常識が非常識というか無知とされてしまうよね
越中関連で進展があったかどうかは知らんけど田屋川原の戦いは明確に否定されたのか、やはり事実なのかとかちょっと知りたいよね >>278
武田側の人間は「北信濃ガー」「西上野ガー」
とかスケール小さいわ。そんなんやったら、「二回京都に上洛にいった謙信公の勝ち!」とか「室町幕府を滅亡させた信長公の勝ち!」とか「秀吉家康に潰されず生き残った政宗公の勝ち!」とか言うたら切りないわ。(笑)
北信濃の大半、西上野は武田が占領したのは事実やがな。それは認めるわ。 >>280
研究書とかってTSUTAYAとかにおいてあるんか?大都市なら色々と書店があるからともかく
地方は書店少ないからわからない人多いで。 >>278
豊臣でいえば小田原征伐と朝鮮出兵は別。といっているのと一緒やな。
負け惜しみはやめといた方がええ。
武田が滅亡したら北信濃の武田方国衆は上杉景勝についとったやなないか。芋川なんか江戸時代米沢藩上杉家家臣として生きたし、信玄の七男信清も米沢上杉家の家臣や。(笑) >>279
あんた学校の先生とか役所の学芸員とかか?だったらワシみたいな一般人に聞いて情けないわ。そんな程度だから国の制度も堕落するんだわ
まあエエわ。今回はゆるしたるわ。 >>280
そんなん一般市民は知らんで。
市立図書館よりも大型書店の方が最新の研究書の方が置いてありますよ。というのを一般市民に知らせるのがあんたらの勤めやろ。それを早くいえや!ボケが!
ワシに苦労させよって常識ないわあんた。ワシも常識ないけどな。
それとネットの戦国時代のネット配信記事(スマートニュースとかの)みたら20年前どころか1970年代の文献を扱ってるものもあるで。そういうところにも抗議したらどうや?それがプロのつとめやで。 >>279
まあ1561年の越中西側の砺波郡は勝興寺(高岡市)瑞泉寺(南砺市)を拠点とする越中一向一揆、越中中央の婦負郡射水郡は神保氏、越中東部の新川郡は上杉に従う椎名氏が治めてたと思うで。感謝のお礼にアンさん、ワシ雇うてくれんか?無理やろうけどな。
冗談やで。(笑) >>283
別なものは別
負け惜しみはお前
目的達成できなかった上杉の負け >>287
目的達成出来なかったのは上杉もそう、武田もそう、今川もそう、目的達成出来たのは天下人の三人だけや。笑わすな。北信濃ばっか >>287
目的達成出来なかったのは上杉もそう、今川もそう、武田もそう。達成出来たのは天下人の三人だけや。わらわすな。 >>247
長い目で見れば武田氏滅亡の一因になったから痛かったと思うで。北信濃君は >>292
続き。北信濃君はまた発狂するだろうけどな。 >>287
武田がいつ天下をとった?北信濃って当時の日本の中心だったのかいな?
笑わすな。川中島以降の武田家や武田とは別の家という解釈なんやな。
某武田氏との研究家みたいに「武田家滅亡は全て義信事件に直結する」とかいう解釈は無視なんやな。道理でこんなファンを抱えている武田氏は穴山某や小山田某のような造反者を出す訳やな。滅亡するのも当然だわ。 >>278
西上作戦とは別。といってる時点でおまえも前惜しみやいつまでたってもそんな事いってたら武田信玄は人気第一位になれへんで。 >>29
北信濃の上杉勝利にこだわる北信濃君とは偉いちがいやな。(笑) >>287
今度米沢牛でも買ってやるから我慢せいや。
一緒にすき焼きでも食べにいくか。(笑) 武田信玄の家臣宛て書状を入手 川中島合戦の戦費負担求め 長野
領地拡大のため北信濃に侵攻した甲斐の戦国大名武田信玄(1521〜73年)が家臣の在地領主に
対して宛てた書状を長野県立歴史館が入手した。越後(新潟県)の上杉謙信と争った川中島合戦の
戦費負担を求める内容で、信玄が善光寺平(長野市中心部)での勢力拡大の手法をうかがえる新史料。
同館文献史料課の村石正行課長(50)は「川中島合戦に関わる戦略的な文書はほとんどなく貴重だ」と
指摘する。 書状は1555年7月、第2次川中島合戦(犀川の戦い)の最中に埴科郡清野郷(長野市松代町清野)を
治めていた清野信秀(生年不詳〜1565年)に宛てたもの。これまで存在すら知られておらず、昨夏に
京都の古書店から同館が286万円で購入した。出家して信玄と名乗る前の「晴信」の署名と花押がある。
要所の綱島(長野市青木島町綱島)に近い本陣「大堀館」の整備に必要な費用を信秀に負担させるため、
信秀から所領の帳簿を預かったことに感謝する内容。信秀の領地のうち清野郷や雨宮郷(千曲市雨宮)の
支配を認める一方、これらの土地の収益約4000貫を臨時の税とするが、綱島再興にあたっての
費用負担を評価し、3000貫に減税したことが読み取れる。今回見つかった文書について、
村石課長は「晴信が善光寺平でどのように勢力を広げようとしたか、拠点づくりをしようとしたかが
垣間見える興味深い文書」と分析する。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e76f44862055ca98298c25ef23d7860f82eeb1c0 まぁ兵数はおかしいよなぁとは思ってた
関東遠征してたときでも越後兵5000程度で関東国衆と合流して増えたのが編成内容
彼ら関東の国衆が川中島の戦いなんか参加してないんだから実際は多くても7000程度じゃないの
織田家いなくなって空白地帯できた天正壬午の乱のボーナスタイムも小笠原、武田家臣だった春日、内藤味方につけて7000程度
武田も当時なんて50万石程度でしょ
信濃全域支配してないし
徳川が三河、遠江で1万程度で同じく天正壬午の乱のボーナスタイムで駿河加わったのに信濃に派遣できたのは9000に過ぎない たしか善光寺街道の途中(現地名:合戦場?)で激突したという説があったような(第四次川中島) https://president.jp/articles/-/55289?page=1
「川中島の戦いは武田信玄の勝利と解釈するべき」日本史の常識を覆す"合戦の勝敗"の見極め方 まあ所詮武田に勝てないんだから上杉も余計なことしたよな
無駄働きが好きな変わり者が上杉謙信 どっちかに判定するのなら武田の勝ちだよね
世間的には引き分けの方が両者の名前を傷つけないからいいかもしれないけど 上杉家の研究家である福原圭一氏や今福匡氏は武田の勝ちと言っている。
一方で武田家の研究家である平山優氏や丸島一洋氏は
「武田家は感状が見つかっていないことから信玄は武田の負けと認識していた可能性がある」
と評している。
領土を争いと言う視点で見ると上杉の負け、決戦と言う視点で見ると重臣が大勢討ち取られた武田の負けって感じ 川中島に戦いに限って領土争いが視点でしょ
村上義清の領土奪回できるかできないか
結果、被害は大きかったが領土を守った武田の勝利 第4次は領土争いと言うよりお互いの今後の戦略上で邪魔だから決戦を仕掛け大損害を与えるのが目的だった、と言う解釈がありそれで言うと武田が敗けよりの引き分け >>310
「大損害を与えるだけの戦い」って川中島以外だとどの戦が当てはまるの?
一般的に考えて領土争いなのは間違いない
どっちの領土になったかが勝利の判定になる 「川中島の戦い」知る貴重な史料…武田信玄が信濃の武士に宛てた書状購入へ、クラウドファンディングで寄付募集 長野
SBC信越放送
歴史館が購入を目指す、「武田晴信書状(たけだはるのぶしょじょう)」。
武田信玄=晴信が「川中島の戦い」をめぐり、当時、松代地区に拠点を構えた武士=寺尾氏に宛てたもので、最後には
信玄直筆とみられる花押が記されています。県立歴史館は川中島合戦を知る貴重な史料として、現在は京都市の
古書店が所有しているこの文書の購入費315万円をクラウドファンディングなどの寄付で集めることに決めました。
県立歴史館の笹本正治特別館長は、「川中島の戦いに信州がどうかかわったかを知る貴重な史料」だと強調し、
協力を呼びかけました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/06a680f8d73e20d62f5df74d42b7f41ddab65707 【日銀デフォルト】 世堺教師マ仆レーヤ、UFO出現!
://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/2chse/1670024543/l50
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