【片手は】 黒田孝高総合スレ 4 【何をしていた】
>>1
天下を狙おうとしたとか
実は野心家なんてのは
判官びいきの裏返しだろうな
もし家康が負けたり豊臣家を倒たりしていなければ
言われることは無かった
ましてや「片手は何をしていた」なんて
ただ大河としては
そっちの方が面白いって事になんのかな? でも吉川広家に「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」
つってるし野心あったんじゃないの 大河便乗本の諏訪勝則「『天下を狙った軍師』の実像」っての読んだんだけど、
この人の結論としては、「官兵衛は一般的なイメージでいうところの軍師ではなかった」なんだが、
内容読むと思ってたより全然軍師だったわ
「豊臣家のイチ構成員でしかなかった」ぐらいのこと書かれてるのかと思いきや、
九州、朝鮮と普通に豊臣家の方面司令官だった 孝高のよりも先に三成の本から読んだから秀吉の軍師のイメージは三成の方が強い感 官僚なんて存在は秀吉の時代にはいない。
三成は奉行という名の何でも屋にすぎない >>4
> 軍師タイプはまず天下は無理絶対無理
家康ww
家康は、馬上で天かを取り文をもって治めるが信条だったが。 官僚(タイプ)って意味で官僚って書いたのに
秀吉の時代に官僚なんてないと言われても 官僚にも文官と武官で分けられる時代だから
三成は文官タイプと言うのが正確なのかも 九一 (慶長五年)八月一日 黒田孝高書状
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/kaidai91.html
大河板に関が原前の中川秀成への返書があった
官兵衛は情報網や交友関係が広いなってのと
大友家臣は踏んだり蹴ったりだなって感想 大河の官兵衛見て本山一城が、「官兵衛は明るい楽しい人だった!」って文句言ってたけど、
まぁそうかもしれんね 大分中津市本耶馬渓町の耶馬渓風物館) 官兵衛の書状初公開 中津
http://www.asahi.com/articles/ASGB13V91GB1TPJB004.html
書状(個人蔵)は1587(天正15)年12月4日付で、
一揆に加担しなかった広津若狭守(ひろつわかさのかみ)に宛て、
領地を引き続き治めることを認めている。 奉行は文官ばかりだろうが、三成は北条攻めで活躍してるし、慶長の役でも 徳川きっての武闘派で
作左が怒るで有名な本多重次だって奉行職勤めたんだが この時代に人材を軍事と行政を分けるなんて発想はないんじゃない。
石田三成は奉行としての能力が優れていたと評価されたというだけだろう。
つまり、軍事も行政も一流だった家康や秀吉より明らかに格下で、関ヶ原で勝利しても天下人なんてとてもムリ。
オクタビヤヌスにとってのアグリッパ的な存在がいればともかくとして。知行の半分を与えて誰か雇ってたけど。 石田三成は朝鮮出兵における、秀吉没後にもかかわず粛々と実行された
和議後の全軍撤退プランの手腕が優れてると思う。
十数万の大名ごとに指揮系統が違うつうか未分化の軍を
綺麗に引かせたのは見事だと思うがなあ。
これが失敗してたら関ヶ原における将兵の構成比がエライことに 三成は、計画立案能力は高いんだが、戦場で時々刻々移り変わる戦況に応じた指揮能力が問題だな。 同意 緻密すぎるので何かが、意図しない動きをしたりすると全体が壊れる危うさも内包してる。
三成のあの性格は、そういう数字勘定と、それに無茶をさせる上が熟成させたかもなあ。
朝鮮出兵と三成は予想はしてたと思うが
実際、兵の数、飯、船を勘定試算を初めて行って、よくもまあ壊れなかったと思うよ。
各軍切り取り勝手っていうから兵站の伸長無視して何処までも突っ走ってるし。
三成「えーもう先方は鴨緑江!で、もう一隊は北東の朝鮮最東端周辺?」
「陸路より海路輸送がいいな…サラサラ 中継の為の港を取っておいて維持してちょ」
某将「算盤がエラそうに作戦指示を!」
最初の最初はこの程度だったかもね 病死直前になってやっと秀長が出てきたか
なんとなく頼りないが秀吉の数少ない親族を
黒田兄弟や藤堂高虎たちが和気あいあいと支える
という豊臣軍も見たかった その俳優さん、風林火山で信玄役してた歌舞伎役者の人に似てるなあ 別人だろうけど
実話は50歳になっても小一郎と呼ばれてたんだろうか 似てるから弟の信繁に配されたのか?
ネットでは梅沢富美男に似てるという説もあるようだ。 風林火山の時典厩役もしてたのか 知らなかった
しかし大河、三成は悪人にし過ぎ 三成以外悪役に出来そうなのがいないのもなぁ
今後長政との絡みもあるし、致し方ない 例の黒田事件か
伝助の子も出るんかいなあ?
俺的に早く大谷吉継を見たい >>28
悪役というか乱世の価値観が抜けない小寺の殿や櫛橋兄や
吉川元春や明智光秀や城井鎮房や北条氏政みたいな連中ってのはまだまだいたはずだけどな
例えば神子田正治、尾藤知宣、小西行長、宇喜多秀家、
毛利輝元、明石全登、大友義統、立花宗茂あたり
途中で理解し合えたとか妻たちが取り持って和解とかの展開でもいいなら
豊臣秀長、仙石秀久、山内一豊、前田利家あたりでも可能だったし 豊臣を離れて徳川に付く流れに説得力を持たせる必要があるから神子田正治とか
前田利家じゃしょうがないだろ。 神子田も尾藤も帰参を願ったのに、はねつけられ、自害、殺されるとか、晩年の猿には憤りばかりだわ >>31
三成や輝元たちと敵対しただけであって
豊臣から離れたわけじゃないが
まあ論点は三成だけに悪役を背負わせないにはだろ >>33
史実はともかく、ドラマは豊臣を見限ったと描くんじゃないのかなぁ。 大河でこの流れやってほしいなあ
みん出兵中、舟の上でだらだら碁を打って(わざと)三成の怒りを買い隠居する とことん歴史紀行2時間SP「世界遺産 姫路城 軍師・黒田官兵衛 飛躍の地〜播磨〜」
BS11で放送中 最近、輝元がまったく出なくなったな?そんなに官兵衛との絡みなかったのかな 妹婿で北条征伐で戦死した一柳直末は
結局出なかったな 嬉々としてってそっちの記録はあるのか?
浅野長政、豊臣秀長、豊臣秀次あたりの出兵反対グループに所属してた上に
戦線非拡大の方針を取ってたんだから
あからさまに反対ではなくとも消極派だったと考えるのは不自然では無いと思うが >>45
> 浅野長政、豊臣秀長、豊臣秀次あたりの出兵反対グループ
そもそもその連中が出兵反対グループということ自体が幻想なんだが。そんな証拠は一切ない。 >>46
ソースの信憑性はともかく
全く幻想ってわけではない
しかしそっちは? >>47
黒田家が朝鮮での戦いに積極的だった清正などと同じグループにいたことをどう思うんだよ?
そもそも浅野だって息子があれだけ朝鮮で戦ってて、反対グループのわけないだろ。
出兵へ積極的に反対していた大名がいたということ自体後世のつくり話だな >>48
清正と長政が寧々に預けられていたのは事実だが
同グループになったのは三成襲撃事件以降じゃないの?
浅野の息子は息子の話であり
戦場に出れば必死に戦うのは誰でも当然のことでもある
それで嬉々として従ったってソースはそれだけ? 国内で外征に反対した形式が一切無い上、名護屋城の建設、朝鮮での戦闘や”倭城”の建設なども積極的に行っている。
これで外征への積極性がなかったというのなら秀吉含めて積極的な諸侯など一人もおらんわ。 >>50
有名な戦史で言えば山本五十六が開戦に反対だったことも
開戦が決定した後は日本が勝つために奮戦したってのがあるが
そういうのを嬉々として従ったと言うか?って事なんだが >>51
じゃあ反対してたという史料を出せ。山本五十六は開戦に反対だったという史料があるんだよ。
史料もなく勝手に、時代も状況も立場も違う山本五十六と黒田を一緒にするな。それを妄想と呼ぶんだよ。 >>52
論点は嬉々として従ったかどうかだろ
そしてその論拠は>>48と>>50だけだと
ならこっちはこれ以上付き合わないよ >>53
あー解った、お前は「嬉々として」って言葉に反発してただけか。じゃあ「積極的」と入れ替えてくれ。 議論見てるけど、これでも「積極的」とは言えんだろ
関ヶ原前夜に吉川広家に送った手紙みたいなのが朝鮮役にもあるんなら話は違うが >>54
せっきょく‐てき〔セキキヨク‐〕【積極的】.
[形動]物事を進んでするさま。「―に仕事に取り組む」⇔消極的。
[類語]能動的(のうどうてき) 自発的(じはつてき)
見知らぬ人間相手に話がしたい時や
学問的に話がしたい時は正しい日本語を使ってくれ 陶器職人などの技術を手に入れたくて仕方なかったし、
本願寺なども宣教師の真似事して
朝鮮で布教をやろうと半島に拠点作ってるし、
みんなやる気満々だろ。 まぁ、「官兵衛は乾煎りに消極的だった」っていう物語で聞いた先入観を壊してくれたのは良かったんじゃないかな 結果として失敗に終わった明出兵だから
賛成していたけど実は反対でしたなんてよくある話
正しい資料がない場合は都合の良いほうに描かれるのが基本だね 反対してたら、名護屋も適当に作ってただろ。そうじゃないだろ >>60
マジで言ってるんだとしたらお前は仕事したこと無い 上から命令されたら嫌でもはい喜んでーと行くしかないから積極的に見えるのは当たり前なんだから
積極的じゃなかったって事を証明してもらわんと話は進まないわな('〜`;)まさか無いの? >>63
自分の言ってることに矛盾を感じてないところがヤバいな 軍師黒田官兵衛伝ひさびさの更新
次回は本誌に出張と書いてるが一回だけ? ドラマの出鱈目ぶり酷かった
漢城退去は秀吉の指示のもとで実施されたもので
官兵衛が秀吉の意志に背いたとかじゃない
まして石田がこれをネタに官兵衛を貶めたとか馬鹿馬鹿しい
明との和平で秀吉の示した条件を隠すのが官兵衛の方策にしてるけど
これはは小西や宗が中心になってやったことで
それに石田乗っかって進められたもの
官兵衛は関係ない
大体朝鮮での兵糧不足が朝鮮水軍によるものとか全然違う
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_10.html 出鱈目とかおめえ当時その場にいてそれを見てたのかよ 三成を悪く書き過ぎだな今度の大河は
小栗旬の頃はとても良かったのに 今回の大河と以前の大河はプロデューサーとか違う人なのか? 主人公アゲの為に他の人が敵役になるのは作劇上普通の事だろう。 >主人公アゲ
黒田家譜などの記録には、黒田官兵衛・長政親子や家臣たちの朝鮮出兵での活躍が数多く記載されている。
主人公を持ち上げるならば、本来こうした数々の活躍をドラマにも取り上げるはずなのに、なぜか全く無かったことにされている。
まるでタブーでもあるかのようだ。
反面、朝鮮出兵を無謀で愚かな戦争という印象操作をするためには、記録に無いことでもデッチ上げてしまう。
朝鮮出兵関連の情報は、本当にこんな偏向歪曲が当たり前になって際限なく捻じ曲げられているのが現状だ。 小西を助けたのと小早川と頑張ったシーンがあったのは良かった >>72
どれだけ活躍しても朝鮮出兵が失敗だった以上
加飾する必要はない
それがドラマ >>72
そこで活躍すると半島からクレームがくるから出来ない。 >>78
それはない
幕末維新の敗者である新撰組がドラマとして成立し
隊士たちの活躍が描かれている
朝鮮出兵で黒田の活躍が描かれない理由は
政治的偏向以外にはない >>80
お前が朝鮮の役の黒田家を主人公にした大ヒット小説を書けばすぐに大河化されるよ 『日本戦史朝鮮役 経過一覧表』より
文禄2年
3月10日、秀吉京城の撤退を令す
4月7日、秀吉の撤退命令京城に達す
4月18日、京城の軍撤退を開始す
5月朔日、先頭の兵釜山付近に抵る○秀吉講和条件を奉行に示す
このように漢城から釜山への撤退は秀吉の指令に基づいて行われたのであり
ドラマの中で官兵衛が秀吉意志に反して撤退させたというのは完全な過ちであるし、
石田三成が漢城から釜山への撤退をネタに官兵衛を追い落としにかかるというのも全く成り立たない。
またドラマでは漢城駐留中に官兵衛が小西行長に秀吉の講和条件を無視して講和を進めるように言っていたが、秀吉が講和条件を示したのは釜山への撤退後のことであり、ここも事実に反する。
兵糧の不足が朝鮮水軍の活動を無関係であることも明らかである。そして釜山への撤退後は兵糧不足は解消しているのだが、ドラマでは全く言及されていない。
結局のところ大河ドラマ軍師官兵衛の朝鮮役関係は著しく歴史的事実に反したものとなっていると言わざるを得ない。
ドラマとはいえ歴史を題材にしている以上は大衆の歴史認識に影響を及ぼすのは確かであり、歴史的事実から根本的に逸脱することは許されない。 このひとは死ぬまで官職名では呼ばれなかったのかい? 官職以前に孝高という名前ですら呼ばれない
諱と言ってしまえばそれまでだが長政は長政なのに 如水・宗麟・謙信・信玄・道雪等々
出家したら名前より号で呼ばれる事の方が普通
長政は甲斐守で呼ばれてる出家してないからな 法号というのも、よくわからんな
雅号はもっとわからん まぁそうだな。雅号は自称。ラジオのハガキ職人のペンネームみたいなもの。 ♪この番組ではみんなのー リクエストをお待ちしています
ここでお葉書を一通 ラジオネーム黒田如水ちゃん 大河はファンタジーだ
官職名で読んでたら視聴者から苦情が来た大河もあったな 誰も書き込んでねえな
岡田の坊主はガチに見えた
フィクションが多い中、番組終了前の紀行は事実もんだから見ててスッキリする たとえ岡田の頭がガチだろうと
年齢的にあそこまで秀吉家康と見た目ギャップがあるとなぁ
もはやファンタジーを通り越してる 岡田がかっこよすぎて、完全に黒田官兵衛のイメージが上がったな。 三成を悪者に仕立て上げないと
黒田が豊臣を捨ててコ川の走狗になった事実を正当化できない なにいってんだお前ぇ、スイカやカボチャ見て見ろ
陽に当たらなかったところは黒くならず白くなってるっぺぇ ドラマ化されればそっちの話が出るのはどこのスレも一緒
つか釣りですか?昨日釣れなかったからって今夜も釣り?
俺が釣られてやったからもう来んな 軍師官兵衛の三成は何かしらの目的があればいいんだけどな
淀君に惚れてるから淀君のために俺が悪役になるぜ、とか
そういうのがないから愛着も沸かない小者悪役になってる 石田三成征伐後の居城探索で
あまりの質素ぶりに誰もが驚いたというから
損得抜きで豊臣家に尽くしてたんだと思う。
ただ、三成が何もしなければ豊臣家も
一大名として存続できたという説もある。 >>115
豊臣が一大名として存続するのはそんなに難しい事じゃない。
淀を江戸か駿府に人質として寄越せばいいだけ。
そんな簡単な事を出来ない淀と秀頼がアホすぎた。 その気になれば人質など意味が無いってーのは
関ヶ原の時の三成人質作戦が悪手だった事でも証明している >>117
秀頼が淀を人質に取られて徳川に逆らうわけないだろ 家康が淀を人質に取ったからって
依然徳川に次ぐ大大名で潜在的脅威である豊臣を
家康がそのままにしておく訳がないって意味だよ >>119
家康が孫の千姫を嫁(人質)に取られて豊臣を潰す訳はないだろ
で、実際は大坂の陣が起きた訳で
黒田も城井から人質取ってたけど結局攻め滅ぼしたよな
人質取った遣ったで気を許してたら尻の毛毟り取られるだけじゃ済まないのが戦国時代 三成の人質作戦なんて
まだ信じてる低脳がいるのかよ 人質だしたから大丈夫って思っているのはバカ
双方が人質を出し合ったりするのとはわけが違う。
ただ淀が家康の正室になった場合は、
家康への政治介入ができるようになる。
これは秀吉が自分の姉妹を家康正室にすることで、
徳川の真田攻めなどをさせない
政治介入をやったりしてる。 >>121
秀頼にとっての淀と、家康にとっての千じゃ重みが全然違うだろ。
家康にとって千なんて腐る程いる孫の1人に過ぎん。
大坂の陣で千が死んでたとしても家康は涙一つ流さなかっただろう。 秀頼はお袋様専制を苦々しく思っていたから死んでもOKだった
根拠も無い妄想ならなんとでもいえるよね >>124
人質の重みがどうこうとかお芝居の話ですか?
お家大事の時なのに人質があるから戦えんとか言ってたら家臣に見放される
それにお前が言う涙一つも流さん冷酷な家康なら例え秀頼が人質に淀を差し出そうとも
その淀を盾に豊臣の力をどんどん削ったのち躊躇せずに豊臣潰しにかかると思うけどなぁ
つか、秀頼は親を見捨てるくらいの覚悟が無かったから生き延びる事が出来なかったとも言えるんだが >>124
このスレは官兵衛スレだから黒田の話ですると
官兵衛は息子の松寿丸を織田に人質に出していたけど
官兵衛が有岡城で幽閉されて裏切りを疑われ信長に松寿は処分されたよな
それでも黒田家は職隆や官兵衛の方針で松寿の処刑の報を受けても情に流されず
主家が反織田に寝返っても織田家臣従を貫き通したから信頼を勝ち得、大名となる足がかりも得た
結果松寿は生きていた訳だけど場合によっては肉親を捨てる覚悟をも求められる時代に君の認識は甘い >>126
お袋様専制を許してる時点でどうしようもないマザコン。
老人の家康が戦場に出てるのに結局出陣せず。 大坂の陣
家康74才も凄いが、
藤堂高虎59才が先鋒ってのはもっと凄い
やられちゃいましたあ >>128
おそらくだが松寿の生存は黒田家の重鎮だけは知っていたと思う
彼らが主君がいない黒田家の動揺を抑え織田を裏切らないよう持っていったんじゃないかな >>131
空想の域出ない話だけどね
それにそれが本当なら竹中家や羽柴家に黒田家中の記録に残ってても不思議はない話だしな
信長の癇気が収まった後や死後に重臣らが当時の話として書き残してても良さそうな重要な話なんだし 江戸時代に書かれたとみられる「松本家譜」(個人蔵)を分析。
如水が「宗像郡6万石を隠居領とし、しばらく江口に在留、船や船手、船頭、水主も在留させた」との記述を発見した。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/123332
晩年の如水は太宰府天満宮に居を構えて連歌や茶を楽しんだことでも知られる。 宗像は小早川氏時代は小早川隆景の隠居領で
隆景が再建した宗像大社の社に宗正寺の影墓と
隆景関連の足跡は残っているが官兵衛は筑前時代が短いせいか
宗像に官兵衛関連のものは皆無なんだよねぇ 来週猿がいよいよ死ぬのか ところで播磨2000石は史実なの? 公家に仕える青侍もいたが
公家自体裕福じゃ無いので微禄だぞ
あと公家になってって意味じゃもっとハードル上がる
許可なくても昇殿出来て事実上武家の最高官位である
従三位の位になっても議事に参加出来るかと言うと・・・ 黒田家目線で
これなら豊臣見限って家康に付くのも仕方ない演出ゴリ押し
まあいいけど
小早川隆景ラストに挨拶に伺ったなら
暗黒jkも立会うだろjk
出せよ暗黒jk 暗黒jk
あんこくじぇーけー
安国寺ぇーけー
安国寺恵慶 暗黒jk、コニタン行長、石田のミッちゃん
僕たち3人揃って関ヶ原首チョンパーズ 文官三人が揃って打ち首とか、前例が無いな 余程武官が狸に靡いた感が強い関ヶ原だったんや どうやら糸と長政の離縁は熊之助土左衛門で糸がメンヘラになったことが発端で
「やむを得なかった」で美化するようだ 蔚山の戦いをスルーした
ここは三成襲撃事件の発端だし
関ヶ原で長政がコ川に付くことになるんだから
スルーしちゃいけないだろ やっぱ朝鮮ネタは突っ込んだ内容ではやれないんだろうな ところで大河のオープニングのキャストの名前の流れ、職隆、秀吉がトリだったが、次回からは安国寺になる予感 家康は主人公の味方だからか、3番目にいつも名前流れるな 三成は10番目辺り 主人公のカギ握る人物だからやはり暗黒寺かも それか北政所 >>147
やたら早い時期から三成を悪役にしてるなと思っていたが
蔚山の戦いをスルーするためだったか 栄姫って保科正直とおだいの方の娘の娘だろ。
なんかすげーな。
つか、かんべえみてたらやっぱ戦国おもしれーって思う。 狸が今日暗躍するのか
前田利家はそろそろ出番だな 一体俳優は誰だろ? 横内正だった 北条氏政が伊吹吾朗だったし、すけさんかくさんを使うとはな
オープニングのキャストのトリは家康かよ 今大河を観てるが、救出演出ばかりでつまらん
関ヶ原を出せよ 【軍師官兵衛】歴史漫画『センゴク』作者・宮下英樹氏、岡田官兵衛をねぎらう
http://www.oricon.co.jp/news/2045844/full/
選挙で21日に延期になった最終回は56分間の拡大版で
BSプレミアムでは午後6時かららしい 最終回だったのに誰もカキコねえな 最後光が亡くなる場面かと思いきや…
まあ、わざわざ大阪の陣まで出さなくても… 又兵衛がいたから仕方ないんじゃね?実際長政は駄目な奴だったしww 長政の過小評価はもうやめよう。
清正の過大評価はもうやめよう。 まあずっと2ちゃんみてて思ったのは、
西軍武将のほうが人気があるってこったな。 >西軍武将のほうが人気があるってこったな。
小早川秀秋「いやぁ、照れるなぁ♪」 しかしスレタイ>>1
最終回に見事にそのセリフが出てきた訳だが スレ主は既に存じてたのか? って言うか最終回にしか出てこない筈の逸話だよ(^_^;) この大正時代に創作された台詞のせいで変に陰気なキャラのイメージが付いてしまった
本当は明るくてお人好しで面白い人物だったのに
まあ物語としてはこういうキャラの方がウケはいいんだろうけど
最終回も亀甲車もハンドキャノンも出なかったとか不満は色々あるけど
実績の割に知名度の低かった官兵衛に光が当たってのは良かった一年間だった 風が強い時は大水牛脇立付桃形兜の方使うんじゃね?
福島正則と兜交換して竹中半兵衛由来の一ノ谷の兜手に入れた後も
お気に入りの大水牛は写しを作って手元に置いてたくらいだから 大水牛のほうがよかったけど、見た目インパクトはレーダーだよな。
あれは一番凄い変わり兜やわ。 虎退治の逸話、長政だったとかぜんぜんしらなんだわ。
肥後に入って細川って人気がなくてとにかく加藤アゲしたんだね。
黒田は文句いわなかったの? 幕府内での発言力は長崎奉行地警護の福岡藩の方が上だし 細川家は肥後で今も人気無いからね こんな下らない下ネタが増えるからスレタイは良く考えろと ほんとだよ。
ところで中津市住所に如水町は当たり前だけど、博多町と姫路町があるのに驚いた。
まさに官兵衛タウンだな。 >>180
それttp://netabare1.com/3189.html鵜呑みにしてんの?
その逸話長政のって言い出した奴
大河ドラマ始まった今年に初めて見たよ
一応清正も秀吉の朱印状(文禄三年四月十二日付)が現存してるから
何らかの手段で(本人がどうこうしたかは不明)
虎捕まえて日本に送ったのは一次資料で確定してるんですが
長政が鉄砲名人なのは立花宗茂との弓&鉄砲対決で有名だし
菅さんの話も有名だけど
しまいにゃ築城術も全部飯田直景や酷い時は朝鮮人の功績にしようとする
清正公の功績全部他人のせいにしようとする最近の傾向嫌い
築城術知らん奴が手紙であれだけ石垣組みの指示出せるかバカヤロー 西国無双 vs 如水&清正&直茂連合軍の戦闘は大河で見たかった とりあえず名古屋城の清正石と大阪城の肥後石は、
名前だけでも変えたほうがいいけどな… >一応清正も秀吉の朱印状(文禄三年四月十二日付)が現存してるから
何らかの手段で(本人がどうこうしたかは不明)
虎捕まえて日本に送ったのは一次資料で確定してるんですが
何らかの手段??????肝心な事がわかってないじゃないか。
本人がしとめた事に意味がある逸話なのだから。 講談、武者絵、錦絵などで日本人にはお馴染みの加藤清正(1562-1611)の虎退治の逸話であるが、信憑性のある史実かどうかは知らない。
朝鮮侵攻の当時、朝鮮半島にはアムール虎(満州虎)、シベリア虎が相当多く生息していた。江戸中期の湯浅常山の『常山紀談』に虎退治の記述がある。
小姓の上月左膳が虎に殺されたため、怒った清正が片鎌槍で撃退したという。吉田輝元なども虎の皮10枚を豊臣秀吉に献上している。だが加藤清正がどれくらい虎を殺したか記録にはない。
そもそも日本の武将が何故朝鮮まで行って虎狩りをする必要性があるのだろうか。後藤又兵衛は虎と格闘して、のちに叱責されている。敵を前にして、大切な命を、猛獣のために危険にさらすとは、
なにごとかというわけである。虎刈りの理由として挙げられる説として、@武芸の訓練のためA領地の安全確保のためB豊臣秀吉の命令、の3点である。@の説は後藤又兵衛の叱責事件のように、
ありえない話であろう。
Aの説は男色の加藤清正が愛人の小姓が殺されたために復讐鬼となって虎を殺したという話であるが、にかわに信じ難いであろう。片鎌槍で殺したことになっているが、実際は鉄砲だったという説もある。
Bの説は、老いた秀吉が回春のため、虎の肉を必要としていた。虎の肉を食うと、精力がつくらしい。だが当時の輸送で食用肉を朝鮮から大坂まで安全管理で運搬できたのであろうか。
虎の利用としてはせいぜい虎の皮で敷物に使うくらいしか用途はないのではないか。加藤清正虎退治の伝説は、岩見重太郎の狒狒退治と並んで江戸期に民間に流布した豪傑譚の一つであろう。 この他、林直利(はやし・なおとし)という武将も虎との格闘の末、虎を退治しています。
彼の場合、黒田長政と菅正利が虎を討ち取ったということで、自身も虎を倒したくなったようです。
ただ、不思議なことにこの林直利の虎退治が何故か、加藤清正がやったことになっています。
加藤清正の虎退治は江戸時代の創作なので、いつの間にか、林直利の活躍が加藤清正の活躍として語られているということになったのです。
どういう経緯でそうなったのかは謎ですが…。
黒田家の武将が退治した虎は塩漬けにされて、秀吉や徳川家康に贈られています。
塩漬けにされた虎の肉が果たして美味しかったのかどうかはわかりませんが、秀吉は美食家でもありました。
また、虎の肉は滋養強壮に良いとされていたようなので、朝鮮出兵の当初は虎退治が推奨されていたようです。
このため、朝鮮の地で戦っている武将にも塩漬けにした虎の肉を送っていたようです。単に食べるものがなかっただけなのかもしれませんが。
ただ、その後は虎退治を禁止しています。理由はわかりませんが、大量に送られてくる虎の肉を秀吉が食べきれなくなったのかもしれません。
と言うのも、秀吉が体調を壊し始めていたからです。もっと元気で若ければ、肉をたくさん食べられたでしょうが、秀吉にも老いが迫っていたのです。 >>192
>後藤又兵衛は虎と格闘して、のちに叱責されている。
>>191で清正じゃなくて長政が退治した。長政の手柄を取った、みたく書いておいて
その家臣である後藤又兵衛は叱責されてるって、オカシクね? 清正の虎退治は有名だが、実は一頭だけで、「常山奇談」で、黒田長政の虎退治の話を清正のことと書いたことで、
皆清正のことと勘違いした。実は黒田長政のことである。
清正の一頭の虎は足軽の百助が藤かづらで討ったもの。
清正の娘が紀伊徳川家に嫁いでいたために、こうした故意変更がなされたのだろう。 まあ、とにかくよくわからんが、
清正 虎退治 って検索しただけで、こんなにも説がでるわでるわ。 あれか。長政が自分で虎退治して自慢したのに又兵衛の時は叱責したんで
関係がこじれて出奔したのか。それなら俺でも出奔するわ。 いや、俺は大阪城の肥後石と名古屋城の清正石に疑問を抱いたのが最初。
昔名古屋城の人に聞いたら、明治以降に誰かが勝手に「清正石」て名づけたらしい。
加藤清正は好きだよ。 >>197
戦で先頭突っ走る大将にああ言って怒られたくないよな… 長政が撃ったんだったら
常山紀談の原型になる異伝が有るはずなんだがな
どこの史料を見てそう判断したんだろう
そして清正の足軽が虎取って来たで思い出した
この逸話か 一応出典も書いてあるが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5855.html
むしろこれ実話っつーか笑い話じゃないのかオチ的に >>195
生け捕りにした虎の逸話(出典不明)もあるので
最低2頭は獲ってるんじゃないか?
どっちにせよ虎や石の話の主が混同されたのはかなり後みたいだし
長政が「手柄横取りした!」と文句言う筈も無いわな
むしろ如水が山名禅高にした与太話や長政の遺言見る限り
黒田親子の清正への評価は「有能な手駒」だと思われ >長政の遺言見る限り
長政より10年以上前に死んでる清正の事をわざわざ遺言に書き記すか? 長政の遺言は「お父さんとお爺ちゃんのお蔭でコ川は天下取れたんやでー」って
息子に関ヶ原前後の働きを自慢する内容を含んでて
その中に清正についての記述が出てくる
他の武断派武将達についての記述もあるよ 虎退治と巨石は近年の研究だと福岡藩の話だよな。
虎退治は黒田家譜や他大名家の伝承にもある。
巨石は、江戸城大阪城名古屋城にあるが、
全て他の大名の手柄になってしまっている。
黒田家譜の残念なところ
戦災とかで無くなってしまった元となる黒田家文書、史料が莫大なこと。
貝原が中途半に有名になったことで、
他の大名家も当たり前の嘘八百家譜が以外にも多くの人に読まれてしまった。 先日、清正の謎とか言うトンでも番組を見た。
熊本城の御殿、昭君の間。
王昭君の話は有名で、京の公家や色んな大名家の御殿襖絵に題材として書かれている。
家紋が豊臣?これには絶句。桐紋は後から入った細川家の代わり紋やないかい。 つか桐紋持ってる家多過ぎ
家譜と考えれば藩祖と関わりの有った奴は
自家age&他家sage材料だろうし
清正が手駒扱いでも別におかしくは無いと思う
一周回って細川をsageてるようにも見える 黒田家文書などがあった福岡浜町の黒田家御殿が空襲で全焼してしまったのは、
本当に残念としか言いようが無い。
前田家や細川家や島津家のように、
きちんと財産を管理しなかった黒田家はある意味自業自得。
学者で鳥学、魚学、生物学、の黒田の殿様。財産に興味が無いから仕方ないか。
それでも赤坂の本邸に移していた黒田屏風や日本号が残ったのはよかった。 >>186
え、清正って自分で石垣の指示出してたの?
逆に、どのタイミングで築城術学んだのか不思議でしょうがないわw >>212
出してる<石垣に関する指示
詳しくは熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯 古文書が語る実像」を見てくれ(宣伝)
書状の全体写真と書き下し文付きで掲載があるのは
江戸城普請の時の「おい俺が注文した石と数も形も違うぞゴラア!」
って石切り担当者にキレてる書状(慶長11年4月13日付 大阪城所蔵)一枚だけど
現在確認できただけでも20枚くらいは築城の指示書があるらしい
他のは訳文しか無いけど「角石(石垣の角の部分の要となる石)は足りたから
次は細長い石送って」(同年5月1日)
「必要な石の見本送ったから早いとこ頼む 工期遅れてるぞ」(同年5月9日)等の
書状の紹介もある
ちなみに元の本ではもっと具体的で長い訳文で記載してある
黒田スレで黒田の話をしないのもアレなので
清正が築城に関わった文献上の初出が秀吉の大阪城普請らしいので
それこそ黒田如水が清正の築城術の直接的な師匠の可能性もある
他に名護屋城普請(如水が縄張り担当)に関する書状では
「黒甲州令内談〜(黒田長政と相談して〜)」(天正19年10月9日付 鍋島茂里当書状)
という同じく普請奉行であった長政と相談して建材を調達する記述があるので
黒田家から色々と習った部分も少なくないのでは >>213
ありがとう技術家肌だったのかな
本はちょっと高かったしDB検索したら大きい図書館にあったから借りる 清正は人気のなかった後釜の細川が自分らの人気を得るために、清正を利用して
神社建てたり大憲章活動をしまくったおかげ 加藤神社も寺院もほぼ全て細川家の建立の時点で。
従軍慰安婦が韓国の大ロビーでセックススレイブが世界で認識されてしまったのと同じ。
嘘も100回以上言ってさらに上塗りしたら本当になってしまういい典型が加藤清正。 韓国のイチャモンで熊本のぼした祭りは名前変えちゃったなぁ・・・ そろそろ黒田の話に戻そうや
関連人物もおkスレだけど引っ張りすぎだろ
長政の虎退治の出典は家譜でいいんだな? 「常山紀談」で長政の虎退治が清正に取られた!って主張するのは
まあ時系列的にも仕方ないけど
(自分家譜見てないんで上月左膳は長政の小姓だったの?とか
検証材料はあるので知ってる人いれば黒田家譜での記述を教えてくれると嬉しい)
逆に同じ「常山紀談」で晋州城攻めの際の亀甲車が後藤基次の発案になってるのも
(「伊達日記」では清正発案)
後の治水事業で鼻ぐり井手だの斜行堰だの発案してた
加藤家中の能力全無視するレベルで酷いだろと思ったら
http://netabare1.com/3186.html
ここだと全部黒田の兵法知識で説明着くらしいな 孫子の兵法にあるふんうん車とか書いてあるけど、そんなものは存在しない。 まあどっちにしても名古屋城の清正石の名称変更はすべし、だな。 説明書きに此処は黒田家の持ち場なので清正とは関係ないって書いてあるw 2020年までに天守閣木造再現とか言ってたからその後だろうな >>226
大河で増えただろうファンを大事にしてもらいたいな 黒田長政は江戸城の天守台築いてるんだよな。誰も話題にしないけど。 毛利とかみんなで寄ってたかって作ったから話題にならないでしょ 加藤清正の名古屋城天守台よりも大きいのになぜ話題にならないのか。
あっちは碑やら銅像やら果ては清正石。
加藤清正のせいで黒田長政は貧乏くじを引いてる感じ。 江戸城の天守台はその後作り直してるから長政岩なんて無くて当然でしょ 大坂の陣の前に死んだのと
子孫もお家取り潰しになったのが
ポイント高かったんだろうな 江戸城の天守台は、代々黒田家の担当なのだがね。
黒田忠之、黒田光之、黒田継高、、、どんだけ江戸城作るのに貢献してんねん・・ 徳川を盛り立てた馬鹿どもの所為で江戸期が200年以上も続いたが、結局基地外薩長の反感を招き、
家茂、孝明天皇、睦仁親王が暗殺されたのは他でもない、徳川とその取り巻き連中の所為である。 この人の母方が気になる。
明石家って公家の近衛家に和歌を教えるほどの名家。 別所離反後に早々に織田方についた播磨の数少ない生き残りだったけど
秀次事件に連座する羽目になったんだよな そうだね。なかなか資料が少ないのか、
Wikiでも明石氏の項目ないね。図書館行くか。 播州人でも殿様や家老は播州の方言で喋らないのかね
まあ黒田は地生えの勢力じゃなくて、よそから来たんだろうけど >>244
最近の研究じゃ黒田も元々地生えの播州人らしいぞ 播州だけを地生えと考えるとややこしい
主筋の赤松氏は最盛期に播磨、備前、美作、摂津の四カ国守護で
嘉吉の乱の時は摂津を除いた三カ国の守護で小寺氏は備前を守り
一旦は滅びた赤松氏を禁闕の変や応仁の乱で再興させた
つまるところ播磨も備前もその当時はほぼ同じ 大河板の方にあったが江戸城大手三ノ門に残る百人番所とは
伊賀組、甲賀組、根来衆、二十五騎(青山組)と呼ばれた鉄砲隊が詰めた建物で
この二十五騎とは黒田二十四騎にちなむものではないかという説があるらしい
江戸時代の地図があったが黒田藩に関係する人名はあるだろうか?
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-8d-5c/japaneseweapons/folder/214011/29/64852329/img_0?1411434121.jpg 伊賀は藤堂高虎
甲賀は加藤嘉明の子孫が治めてる
黒田長政と共に関ヶ原で徳川に積極的に協力したところだな
その意味ではむしろ黒田と考える方が自然ですらある 伊賀者や甲賀者は幕臣として服部半蔵とかの配下になってるのに
黒田だけ「黒田家家臣によって構成された集団です。」とか、おかしいだろう。 その話は50年ほど前にも誰か研究したが、黒田藩は例の黒田騒動で資料を燃やしたらしく、
結局は青山忠成という鉄砲隊とは何のかかわりも無い一大名、ということで本になった。
黒田家の鉄砲隊は関が原もそうだが、播磨時代から凄かった噂はあったがいかんせん自分ちの
騒動で記録を消してしまった。 長政の娘菊の夫(井上くろうえもん息子)は、江戸住みで確かに秀忠直臣の旗本になっている。
このへんの資料も残っていない。 >>244〜247
例の西脇黒田説を唱えている人(黒田家譜は全否定、捏造、貝原益軒を悪の権化、大うそつきと何度も何度もサイトでも呼んでいる)
は、どうしても黒田播磨西脇説が本当だと信じている。
たとえ黒田家譜に嘘だとしてもそこまで貝原を恨まないでもよかろうにw >>248
井上さんが二軒あるね。もしかしたら苦労衛門の子の徳川旗本子孫かね?資料が残ってないけど。 重臣の九朗に石垣原以外に目立った武功が無かったのは
鉄砲頭だったからか? 西脇説はうそ。
官兵衛は旧ソ連の極東地方で生まれたんだ。 官兵衛が秀吉のドケチに腹を立ててたのを半兵衛が諌めたエピソード
あまりに出来すぎて怪しい 半兵衛は秀吉に自分への報酬の文はいらんと言ったぐらいだから
それぐらいはやるんじゃない? か、片手でチンコ握ってオナニーしていました(*・ω・*) 世知辛い戦国の世で主君を欺いてまで
他人の息子を救ったエピソードは美しすぎた
オマケに早死にしたから晩節も汚れ様が無い
半兵衛は官兵衛のいろんな意味でライバルだ 松寿丸の匿いについて半兵衛は秀吉だけには濁す程度に伝えていたと思う
(責任は自分が取るという体で)
官兵衛にとって半兵衛はライバルというより恩人に近い存在で憧れとかそういうイメージだなあ 信長が松寿丸を殺せと命じたという話も、竹中半兵衛が松寿丸をかくまったという話も同時代資料には一切出てこないっつーの。
後世の作り話 ただ、匿ったことが創作だとしても、黒田家が竹中家に対して恩義を感じる出来事はあったと思うんだよね。
でなきゃ、黒田家の竹中家に対する扱いが特別すぎるからなあ。 そのあたりの話が出てきたのがちょうど黒田騒動の当たりなので、当時の黒田を取り巻く政治情勢を反映した話だと云われている。 黒田家の家紋に竹中家の黒餅紋を用いたのも黒田家は否定しているんだっけ?
半兵衛については資料がなさすぎてほぼほぼ創作なのは仕方がない
でも>>266みたいな恩義は持っていると思う >>265
後世とは近現代まで含まれる曖昧な表現
孫の代くらいで作られた記録を後世の作り話で切って捨てるのは乱暴 >>271
晩年の長政から爺さんたちが聞いた話をまとめたんだろ
これで根拠が無いとか言ったら甲陽軍鑑とか北越軍談などの位置づけはどのあたり? >>272
それなら長政の頃の記録になにか出てこないとおかしい。
長政の頃は竹中家と特に親しいわけでもないし、長政死後に入れ込まれた逸話と考えたほうが自然でしょ?
あと他の軍記と比べるような相対的な話じゃ無いよ、これは。 >>273
では何のために大きな黒田家が
創作してまで竹中家程度をヨイショしなきゃいけないんだ? >>273
> あと他の軍記と比べるような相対的な話じゃ無いよ、これは。
長政についての黒田家の公式記録と比較にならないほど
甲陽軍鑑とか北越軍談などは価値が無いって事でいいのかな? >>274
傍証でいいなら、
重元流竹中氏が幕府交代寄合の有力な旗本だったことと、竹中重門の庶子が黒田藩に重臣として仕えていたことで、
黒田騒動で危機にあった黒田家にとって、竹中氏が重要な幕府との繋がりだったことは容易に想像がつくと思うが。
あと成立も目的も全く別の軍記と相対化したがる君の癖はどうにかした方がいいと思うぞ。
自分がイタズラして叱られたら「だって隣の○○ちゃんもしてたもん〜」って言い訳してる子供と一所だぞ? >>276
> 容易に想像がつくと思うが。
いやつかないよ
容易だと言うなら大勢に理解できるように説明してみてくれ >>276
> 自分がイタズラして叱られたら「だって隣の○○ちゃんもしてたもん〜」って言い訳してる子供と一所だぞ?
君の人格の程度が知れるが
長政についての黒田家の公式記録と比較にならないほど
甲陽軍鑑とか北越軍談などは価値が無いって事でいいのか
逃げずにイエスかノーかで答えなさい >>278
肉料理と魚料理どっちがい美味しいか、みたいな質問に答えろって言われても困るなあ。
君にはわからないかもしれないけど、世の中はイエス・ノーで割り切れない話で満ち溢れているんだよ。
そもそも気づいてないと思うけど、君自身がもう話の本筋から逃げてるぞ。 >>276=279
黒田騒動で世話になったから
正史で藩祖が命を助けられた事にしたって?
馬鹿じゃないの? >馬鹿じゃないの?
と捨てゼリフするほど、利口な書き込みには見えないのですが
しかもageてる 半兵衛の史実については検証しようがなく語りづらいけど
「世間にあるイメージとは違って」と言いたい評論家が多いような雰囲気もある 半兵衛のイメージは今孔明じゃないかな?
秀吉も劉邦的な人気がある
正則が張飛で清正は関羽
官兵衛は豊臣と徳川の勢力逆転に手を貸してるから
黒くされがち それだったら官兵衛さん「今張良」ですやん
張良に黒いイメージはあんまりない気がする >>286
世間のイメージで言えば
半兵衛・・・張良
官兵衛・・・陳平
こんな感じ 甲陽軍鑑とか北越軍談
武田信者や上杉信者などにとっては事実。
他の人が見れば中身殆ど嘘八百の法螺話。 日本人て判官ひいきだよな。
関が原西軍で散った武将や、夏の陣で大阪に散った武将のほうが人気。 負けても生きて帰ると罵られるのは江戸時代からの武士道 嘘だよ。生き恥とか言い出したのは太平洋戦争のあたりからだ。マジで >>296
天下取ってからは功臣を粛清や冷遇したり
跡継ぎ問題でトラブったりしてたからやっぱり似てるかな >>296
蕭何すら投獄された事あるからな
ただ宰相指名の遺言の逸話見る限り最期までボケてはいない模様 この板ずっと見てたが正直、
孝高が、あの「官兵衛」だと今の今まで知らんかった。
許せ。 確かに官兵衛か如水で検索している人って多そうだ
戦国板は趣味カテゴリーだしな 俺もゲームで初めて黒田孝高って初めて見たときは誰コレ状態だったわ 岡田官兵衛もよかったな。
凄いな、ダブル受賞。
岡田は今迄の世間での黒田官兵衛のイメージをひっくり返したと思うよ。 自民党、グッジョブですわ。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆ 山深く
分け入花の
かつ散りて
春の名残もけふのゆふ暮 ちょっと悪い話スレによると小牧長久手で
7月1日の二重堀砦の戦いに明石則実と一緒に加わっていたらしい
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1418311460/358
秀吉の大坂出発の頃に大坂に召喚される
3月22日には岸和田の戦いの後詰
3月26日付の秀吉の書状で尾張に召喚される
後はどうなんだろ?
黒田家譜もうちょっとしっかり書いてくれ 黒田家譜も全部残ってるわけじゃないのね。初めて知った。
写本に写本で、欠落部分が3割もあるって。 DVDは第参集まで販売中
軍師官兵衛特集
ttp://www.nhk-ep.com/special/shop/kanbe.html ムック本「武将の末裔」によると
黒田の前当主は第二次世界大戦では伝書鳩を扱っていて
母親は近衛家の出身だけど鴨を自分で捌いてすき焼きを作っていたらしい
朝ドラやれそうだな
巻末は伊賀と甲賀の忍者の末裔で
当時は表向きには江戸城の鉄砲隊だったらしい
>>248-252の話を思い出した まぁ調略メインでやってて合戦時も実質主力の一つだったからなぁ
硬軟合わせて活躍したからしゃーない 福島、小早川、吉川毛利と関ヶ原のキーマン全員調略しました!
合戦では先鋒として島左近やっつけました!ついでに浮き足立った石田も!
貝原益軒でなくとも長政がいなければ家康は関ヶ原で勝てなかったくらい言いたくなるわなぁ ngmsは父ちゃんの影に隠れてあんまし知名度ないからな 父親譲りの調略をこれでもかと関ヶ原では見せつけたよな どっちかというと父親譲りの調略つか父親から継承した人脈ちゅう感じやね
後世の貝原益軒とちがって本人は調略面はそんなに誇ってないし とくに吉川毛利、小早川の調略は官兵衛も一緒にやってるから、
やっぱり親父の威光がでかい 兵庫県宍粟市PRショートドラマ「宍粟官兵衛」
http://youtu.be/efChW7RiSl8
大河が放映されていた昨年
宍粟市商工会青年部が黒田官兵衛を題材に宍粟市をPRするビデオを制作している
撮影と編集はプロにお願いしているが、
演者は光姫役はご当地アイドルの小寺くーみんさんなどをはじめ、
脚本から演出、着付けまで青年部員の手作りとのこと
NHKにも取材されたらしいがなかなかの力作 家譜に長久手の時期の記述が少ないと思ったが
よく考えてみれば益軒の時代に
家康に楯突いてたなんて公布は出来ないか / \ な、なに急にスレ開いてんだお!!
/ ─ ─\ スレ開く時はノックくらいしろお!!
/ ( ○)三(○)\ 片手でナニしようと勝手だろ!!
| /// (__人_.) | .____
\ |r┬| / |\ ‐==‐ \
/ ヽノ ⌒`ヽ<´ \| ̄ ̄ ̄ ̄|
/ | \___)⌒ \  ̄ ̄ ̄ ̄
` ̄\ \ ,,,, \
\ /\\ \__
ゝ,,,__、___/ ヽーヽ___) >>323
京都だと腐女子率が非常に高くて
それも三成と左近の場所に群がっててえらいことになってた ホントに筑前一国で52万石もあるか?
かなり狭い面積たぞ。
徳川が水増しして加増した雰囲気にしたのか?
黒田が加藤や福島への対抗心で水増し発表したのか?
多分40万石弱だぞ >>330
◆福岡市人口、神戸市抜き5位へ 国勢調査速報後に判明
西日本新聞 2015年10月06日21時14分
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/199609
先見の明とはこういうことを言うw こないだブラタモリでやってたけど、明治時代?の福岡市は、
鹿児島市や熊本市より人口が少なかったらしいぞ びっくりした
急成長したのはほんとに最近の話 戦国九州の戦いってのは、結局博多の奪い合いと思ってたんだけどな
昔はそれほどたいした都市でもなかったなら、認識を改めないといけないな 商人町博多と城下町福岡は別なんだよ。鉄道で発展したのは城下町の方。 大河見てから黒田家功臣達のその後がどうなったか知りたくなって調べたら
黒田八虎の内、黒田一成末裔以外の家が全てが愛想長政・忠之の時代に知行没収、召放ち、断絶となってて
オラなんだか悲しい気持ちになったよ。 その時期ってちょうど加藤福島が改易されて黒田も大変だったと思うよ。 長政は家康から最初中国二国と筑前を提示されて筑前を選んだみたいだよ。
博多は百万石の大湊って中世の記録にあるように貿易港だったんじゃないの。
石見の銀山開発したの博多商人だし。
清盛の時代義満の時代と栄えて古代はコウロ館とかもあったし禅寺とか博多が最初だし
そしていままた神戸を抜いて5位と。 官兵衛のスレタイにある「左手はどうした」と本能寺の変の時に秀吉に言った「御運が開けましたな」
の二つって初出はいつなんだろ、両方とも創作だと思うのですが
「御運が開けましたな」といって秀吉に警戒されて12万石に抑えられたっていうけど
直臣でそれだけもらってるのってそういないぞ、蜂須賀だって結構低く抑えられてるし
「左手はどうした」もあのタイミングで家康殺せば乱世になる前に黒田家が滅ぼされる そういえばそうだよなあ 殺そうと思えば殺せたけど、
その後黒田一族は全員地獄行きだよなあ 黒田官兵衛に天下取りは無理だろ、有能ではあるけど天下に届くほどではないと思う
もしそうなら朝鮮出兵の時にもっとうまくやれただろう、一応名目上総大将は宇喜多秀家だけど
その補佐役だったんだから、うまく諸将をコントロールしていれば展開は結構変わってたと思うけど
どう見てもコントロールできてない、しかも軍監の石田とも悶着起こしているし
軍師としてもそれほどではない。天下人の器量があるなんて、直臣を持ち上げてそれを配下にしている自分はすごいという
秀吉の与太話に過ぎない
もし長政が家康殺してたら、家康殺されブチ切れた徳川、さらに功績立てて恩賞増やそうとする東軍諸将
島津、長宗我部といった改易の危機にある西軍諸将も失地挽回に黒田に襲い掛かる
九州統一もできてない官兵衛にその猛攻を防げると思えないし、長政が率いてた軍主力も殲滅されてるからもう無理
「片手はどうした」なんてセリフで官兵衛は天下を狙ってたとかいう人は
官兵衛はその程度も見抜けないバカと言っているようなものだぞ 官兵衛とか三成とか基本秀吉いたから輝いたというタイプの武将が豊臣家には多い
普通はそれであたりまえなんだが、豊臣家の武将は異常に持ち上げられたる傾向にある >>338
ネットで見たけど
初期の福岡藩は家臣の知行地が30万石近く占めてて
黒田家直轄地より多かったらしいな
藩主の権力確立する為には
大身家臣粛清するのも、ある程度仕方ないんかな
清正亡き後の加藤家は
この問題で家臣たち統制できなかったみたいだし >>340
「ご運開け給える時」は、同時代の資料にいくつか台詞が出てくるので、
ひょっとして本当に言ったんじゃないかと考える説もある。
「左手はどうした」は、後世になって書かれた資料に載っている
台詞なので創作の線が濃いと思われる。 知れば知るほど長政って凄いな
真田幸綱、昌幸以上の天才父子じゃね 【戦国大名 究極のサバイバル戦略】黒田官兵衛 「独立戦争」を仕掛けた智将 - 葉室麟(作家)
http://blogos.com/article/167425/ 官兵衛の縄張りした肥前名護屋城と
一夜城と呼ばれた小田原石垣山城の縄張りが
近似してるってのが事実なら興味深いな ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ 佐賀だけど、こないだ免許の更新行ったら「母里太兵衛も日本号を飲み取った帰りは馬から下りて歩いた」とかポスターがあってワロタ 再放送情報「軍師官兵衛」
【放送予定】
2018年4月1日(日)より 全50回
毎週日曜日 正午から午後0時45分まで
第1回 60分、最終回 56分
BSプレミアム
http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/90000/290757.html 竹中秀吉ももう歳だったし何よりも片目おじいちゃん寺尾家康が最悪だったなあ 相良長寛は黒田孝高(如水)の女系子孫
A・綱政系
黒田孝高(如水)→黒田長政→黒田忠之→黒田光之→黒田綱政→黒田吉之→幸姫→藤子→相良長寛
B・長清系
黒田孝高(如水)→黒田長政→黒田忠之→黒田光之→黒田長清→黒田継高→藤子→相良長寛 当時はイマイチと思ってたけど見直すと中々まともやなって思う
それくらい最近のが酷い 官兵衛のひい爺ちゃんとされる黒田高政って、実在してる証拠あるの? ウィキペディア「播磨灘物語」。
「あらすじ」が大ざっぱすぎてNG
誰か加筆してほしい。特に関ヶ原。 タフネゴシエーターだった ちょっと失敗して1年間土牢に入れられたりもしたけど 時にはおせっかい爺と言われるほどの世話焼き人でそのぶん人脈も持ってた。 >>332
北九州市のが福岡市より人口多かった時代を知る年代おる? 野望まみれやったから半島に左遷して謀反起こさせて処断したったやで >>367
播磨灘物語は、デタラメばかりのフィクションだから、読む必要ないよ。 ウィキペディアのM-sho-gunてのが黒田孝高の文章を色々と削っているが
2018年6月2日あたりから朝鮮出兵時の石田三成絡みの文章が削除されて関ヶ原までの流れとかが良くわからない事になってる
三成と福原長堯、垣見一直、熊谷直盛たちの関係なんてその個人ページに飛べば書いてあるのにな
修整、補足を出来る人にお願いしたい >>342
普通に乱世なのでは?秀忠では東軍纏められると思えないし、大阪から毛利退去する前なら
西軍も巻き返し。
家康は野戦の名人の称号持ちだからカリスマなのにしょうも無い事で暗殺されれば。
東軍は名目上は家康と豊臣家から借りた大名だぞ。家康死ねば福島とか池田とか味方する
義務はない。 いま黒田家譜読んでるんだが
九州征伐中、散々紹介される秀吉から官兵衛に宛てた手紙
見るとまさに官兵衛を前線の参謀長にしてる感じが伝わるんだけど
これちゃんと史料に残ってるもの?貝原益軒がやったもの? 渋沢栄一が黒田と浅野は借金の山だらけ言うとったな
広島藩は贋金造りとかで有名だが
福岡藩はそんな貧乏とは知らなんだ 如水の弟の子孫たちは福岡藩で何してるのというくらい存在感の薄さよ 長政では主力だったが忠之の代にだいたい失脚か断絶して傍流は残ったものの役割は忠之の弟たちに入れ替わられてるからな 如水の弟は黒田騒動に巻き込まれたりで子孫が黒田姓から改姓していたり支藩に仕えたりしてるのもあるね ウィキペディア「播磨灘物語」の項が無気力すぎるので
誰かテコ入れしてほしい。 宣教師の一次資料に九州での領地削減について記されてるらしいけど、これはどうなんだろう
1カ国か2カ国与える約束だったけど宣教師との関係性故に与えなかったという話
ちょくちょく見かけるけど殆ど触れられた事が無いような いまNHKのBSプレミアムの英雄たちの選択って番組で最強の戦国武将とかいう対談? やってるけど、
黒田官兵衛は関西ブロックに入ってるんだ、妥当なの?
官兵衛の出身地である播磨は兵庫県、今は関西だけど、当時は山陽地方、中国地方だったんだから中国地方の武将のような気がするんだけど >>389
なんか、そのタイトル、頭のなかで「ああ播磨灘」という相撲漫画と混同してもたわ REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担